無職転生 異世界行ったら妄想を本気で再現する! 作:ぐちロイド
赤ん坊としてこの世界に生を受け、半年という月日が流れた。
昼下がりの穏やかな陽光が、木造の素朴な室内を柔らかく照らしている。
前世——18歳の高校生だった暁連としての記憶を持ったまま生まれた俺、アレン・グレイラットは、半年かけてようやく「ハイハイ」ができる程度の身体能力を手に入れていた。
(長かった……マジで長かった……!)
畳もフローリングもない、無垢材の床に両手と両膝をつき、必死に重心を移動させながら俺は心の中で毒づく。
18年の人生を経験した精神のまま、自由の利かない肉体に閉じ込められるストレスは想像絶するものだった。視界は低い。首はまだ少し重い。そして何より——歩けない。
(まだ自立歩行すらできねぇのかよ……。半年だぞ? 前世ならスマホ弄ってダラダラ過ごす半年なんて一瞬だったが、体も動かせずに転がされてるだけの半年は途方もなさすぎた……)
さらに言えば、最大の難関は「食事」だった。
当然、離乳食すら始まっていないこの時期、俺の主食は母乳である。
「はいはい、アレン。お腹すいたのかな? よーしよし」
目の前で、金髪を高い位置でポニーテールに結んだ美女——母のゼニスが、愛おしそうに目を細めて俺を見つめている。
前世の基準で見ても間違いなくトップクラスの美人だ。そんな母親に抱き上げられ、胸元に顔を寄せられるたび、俺の中の18歳の理性が激しくアラートを鳴らす。恥ずかしさと気まずさで顔が熟したトマトのように赤くなるのだが、ゼニスはそれを「お母さんが恋しくて照れている」と勘違いして嬉しそうに微笑むのだ。
(くそっ、早く離乳食に移行してくれ……! 精神的ダメージがデカすぎる……!)
心の中で悶絶しながらも、生きるためには飲まざるを得ない。生存本能と羞恥心の狭間で葛藤する毎日は、まさに苦行の一言だった。
だが、そんな恥ずかしさや体の不自由さ以上に、俺を焦らせていた問題が別にあった。
(おかしい……まったく掴めねぇ……)
俺は自分の小さな拳を見つめ、歯噛みした。
この半年間、俺が寝返りを打つ合間や、夜中に家族が寝静まった後、密かに試み続けていたこと。
それは「魔力操作」だ。
もしここが剣と魔法が存在する異世界ならば、俺の体の中にも「魔力」という未知のエネルギーが流れているはずだった。
前世でオタクだった俺がノートに書き殴り、最強の能力として空想していたあの術式——『星焔の創世宮(せいえんのそうせいきゅう)』。
天上の星々の輝きを炎として引き落とし、周囲の物質を依り代にして強固な武器や守護獣を錬成する、あの憧れの力。
前世ではただの痛い妄想で終わった術式だが、この世界に魔力があるなら、俺のアクションの知識と組み合わせて本気で一から再現できるはずだという強い意気込みがあった。
……しかし、現実は甘くなかった。
(体の中を意識してみても、気功の真似事をしてみても、何の感覚もない。体温の上昇なのか、血流なのか、それとも全く別の感覚なのかすら分からない……!)
何も起きないのだ。体内のエネルギーを練り上げようとしても、ただお腹がキュウと鳴るか、力んでおむつを汚しそうになるだけだった。
(ダメだ。何の脈絡もない状態から『これが魔力です』って感知するのは不可能に近い。たぶん、生で魔術の発動を見るか、魔力そのものに触れるような『何かしらのきっかけ』がないと、感覚の取っ掛かりすら掴めないんだ……)
俺がそんな思考の沼にハマり、床に突っ伏して唸っていた時だった。
カツン、カツン、と外の庭から心地よい木撃音が響いてきた。
窓の外に目をやると、茶髪の男——父のパウロが、木刀を手に汗を流しているのが見えた。
鋭い踏み込みから放たれる一閃。風を切る音が部屋の中にまでかすかに届く。粗野で適当なところがある男だが、剣を握っている時の身のこなしは本物だった。
(パウロのやつ、今日も日課の素振りか……)
俺は羨ましさの混じった視線でそれを見つめる。
前世でアニメのアクションシーンに憧れ、殺陣や各種武器の扱いを一通り身体に叩き込んだ俺としては、早くあの木刀を握りたくてたまらなかった。体を自由に動かせるようになったら、パウロの剣術を盗みつつ、前世の体の使い方を叩き直して馴染ませたい。
やりたいことは山ほどあるのだ。なのに、今の自分は床を這い回ることしかできない。
(はあ……まずは魔力と体力の両方を鍛えねぇと話にならんというのに……)
俺が溜息をつこうとした、まさにその時だった。
「あうっ!」
小さな叫び声と共に、視界の端で何かがグラリと傾いた。
俺のすぐ近く、部屋の中央に置かれた木製の椅子。
そこに手をかけてつかまり立ちをしようとしていた、双子の兄——ルーデウスだった。
ルーデウスの未熟で小さな手は、ツルツルとした椅子の表面を支えきれず、すべりと滑り落ちた。
赤ん坊の頭部は体に比べて異常に重い。バランスを崩したルーデウスの身体は、重力に逆らうことなく、そのまま後頭部から床へと一直線に叩きつけられた。
——どしん!
鈍い重低音が部屋に響き渡る。
「キャア!」
直後、けたたましい悲鳴が上がった。
見れば、取り込んだばかりの洗濯物を抱えて部屋に入ってきたゼニスが、手にしていた衣服をボロボロと床に落とし、両手で口を覆いながら真っ青な顔でこちらを見下ろしていた。
「ルディ! 大丈夫なの!?」
ゼニスは半狂乱のような勢いで駆け寄ってくると、床で目を白黒させているルーデウスを慌てて抱き上げた。
「あぅ……ぁ……」
当のルーデウスは、何が起きたのか分かっていないような間抜けな顔でゼニスを見つめている。
ゼニスはルーデウスの頭や背中を撫でまわし、傷がないか必死に確認すると、視線が絡み合ったルーデウスの無事を感じ取ったのか、大きな溜息と共に安堵の表情を浮かべた。胸をなでおろすその手は、まだ微かに震えている。
「……ほっ、大丈夫そうね」
俺はその一部始終を、少し離れた床の上から冷静に観察していた。
(……いや、ゼニス母さん、リアクションが大きすぎるだろ。落ちた高さと音からして、精々たんこぶができる程度だ。脳揺れも起こしてなさそうだし、命に別条はないって)
前世のアクション練習で嫌というほど転身や受け身、ケガの具合を体感してきた俺の目から見れば、ルーデウスの落下のダメージは軽微だった。後頭部を打ったのは冷やっとしたが、泣き出しもしないあたり大したことはない。
(やれやれ、騒がしいな……。どうせ大したことないなら、俺は俺で行動を開始するか。この家の中に魔導書か、魔法に関する何かが置いてないか探さなきゃな。文字が読めなくても、魔術の記述があれば何か手がかりが……)
俺がハイハイでそっと部屋の隅の棚へと向かおうとした、その瞬間だった。
ゼニスが抱きかかえたルーデウスの頭にそっと手を添え、真剣な面持ちで口を開いた。
「念のため………」
その声のトーンが変わった。
ただの母親の声から、どこか神秘的で、厳かな響きを帯びた声へ。
ゼニスは静かに目を閉じ、胸の前で手を組むと、朗々とその『言葉』を紡ぎ始めた。
「神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん——」
(っ!? 言霊……!?)
俺の動きが止まった。全身の産毛が逆立つような、異質な感覚。
「——『ヒーリング』」
ゼニスの掌から、ボッと淡い緑色の光が溢れ出した。
それは温かく、柔らかく、それでいて圧倒的な密度のエネルギーの塊だった。光はルーデウスの後頭部を包み込み、まるで傷など最初から存在しなかったかのように、瞬く間に体内へと染み込んで消えていく。
空気が震えた。
空間そのものに、目に見えないエネルギーの波紋が広がっていくのが目視できた気がした。
「あぅ!!!(魔法!!!!)」
あまりの衝撃に、俺は思わず口から情けない喃語を爆発させていた。
魔法だ。本物の魔法だ!
詠唱、光、そして現象の変化!
前世で幾度となくフィクションの世界で夢見、この半年間ずっと追い求めていた『未知の力』が、今、目の前で現実として行使されたのだ!
(すげえ……! 本当にあるんだ! 詠唱によって世界に干渉し、現象を引き起こす力……あれが『魔力』なのか!!)
大興奮する俺の叫び声とゼニスの悲鳴を聞きつけて、外で素振りをしていたパウロが勢いよく扉を開けて飛び込んできた。
「どうしたゼニス!? 何かあったのか!?」
木刀を構え、警戒露わに部屋に入ってきたパウロに、ゼニスは少し青ざめた顔のまま振り返った。
「パウロ! ルディが椅子から転び落ちちゃって……! 心配だったから回復魔法をかけたのよ」
「なんだ、そんなことか……」
パウロは拍子抜けしたように肩の力を抜くと、木刀を壁に立てかけ、ガハハと豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ! 男の子なんだから、それくらいやんちゃな方がいいさ! たんこぶの一つや二つ、男の勲章だろ。アレンだって見てみろ、あんなに元気よく声を上げてルーデウスを応援してるじゃないか」
「もう、パウロったら能天気なんだから! 赤ん坊なんですよ!? もし万が一のことがあったらどうするの!」
「大丈夫だって、グレイラットの血を引いてるんだ。これくらいじゃ死にやしないよ」
呆れ顔で怒るゼニスと、それを適当にいなすパウロ。
夫婦の他愛もない会話が頭上で行き交う中、俺の思考は全く別のベクトルへ超高速で回転していた。
(見えた……! 確かに見えたぞ!)
俺は自分の小さな手を見つめた。
ゼニスが『ヒーリング』を唱えた瞬間、彼女の体内から溢れ出し、ルーデウスへと注ぎ込まれた緑色の光。
あの光が発せられた時の、空間の歪み。肌をピリピリと刺すような、独特の密度の濃い空気感。
(あれが魔力だ。間違いない。体の中でどう巡っているのかはまだ分からないが、外から与えられた『魔力という現象』を直接肌で感じ取ることができた……!)
今まで暗闇の中で手探りをしていた俺の前に、ついに最初の一歩となる小さな光が差し込んだのだ。
だが、見るだけでは足りない。
見るだけでは「外で起きている現象」でしかない。もっと近くで、できれば自分の体に直接その魔力を注ぎ込まれ、体内を駆け巡る感覚をリアルタイムで体感できれば——!
(どうする? どうすればもう一度、ゼニスに魔法を使わせられる……?)
俺はチラリと、ルーデウスが落ちたばかりの木製の椅子に視線を向けた。
ゼニスは過保護だ。ルーデウスが椅子から落ちただけで、大した怪我もないのに即座に『ヒーリング』を使った。
ならば——。
(俺が落ちたら?)
悪魔的な閃きが、俺の脳裏を駆け抜けた。
自傷行為だ。わざと痛い思いをするなんて正気の沙汰じゃない。だが、前世でアクションの練習をしていた俺には、怪我を最小限に抑える「受け身」の知識がある。頭から落ちるフリをして、上手く肩や背中から着地すれば、安全に「大事(おおごと)」を演出できる。
ゼニスが悲鳴を上げる。
駆け寄ってくる。
そして、俺に回復魔法をかけてくれる。
(その瞬間だ……! 回復魔法の魔力が俺の皮膚を抜け、筋肉を通り、傷(あるいは衝撃を受けた部位)を治癒するために体内を駆け巡る! その『他人の魔力』の動きを全力で意識すれば、それをガイドラインにして、自分自身の体内に眠る魔力の回路を強制的に覚醒させられるんじゃないか……!?)
完璧なロジックだった。少なくとも、今の俺にとっては千載一遇のチャンスに見えた。
前世でノートに描き出し、血反吐を吐く思いで妄想した最強の術式『星焔の創世宮』。
周囲の岩石や金属を依り代にし、瞬時に炎の武具を生成する【星屑の錬成(スターダスト・フォージ)】。
そして、戦場を駆ける四種の星獣たち。
それらをこの手で再現するための最初の扉が、目の前にあるのだ。
(やるしかない……! 痛いのなんて一瞬だ。前世のアクション練習で打撲なんて日常茶飯事だったんだ、赤ん坊の体だからって怯えてられるか!)
パウロが再び庭に出ていき、ゼニスが散らかった洗濯物を拾い集めるためにルーデウスから目を離した隙。
俺は素早く、しかし赤ん坊らしい覚束ない手つきで、木製の椅子の脚へとハイハイで近づいた。
(よし……体を引き揚げて……)
小さな手に力を込め、つかまり立ちをする。足元がガクガクと震えるが、必死に踏ん張る。
視界が急に高くなる。
ゼニスはまだ背中を向けて洗濯物をたたんでいる。ルーデウスは床で指をしゃぶっている。
(狙いは……左肩から落ちて、派手に転がる! 頭は絶対に庇う!)
俺は呼吸を整え、覚悟を決めた。
「あぅ……!」
わざとらしくバランスを崩し、握っていた手を放す。
身体が浮き、重力に引っ張られて床へと傾いていく視界。
前世で何度も練習した受け身のイメージを脳内に描きながら、俺はわざとらしく、そして派手に——床へとダイブした。