第三十階層を揺らした最後の爆発が収まっても、耳鳴りだけはいつまでも消えなかった。
砕けた岩盤から白い粉塵が立ち昇り、焼けた樹木と土の臭いに火炎石特有の刺激臭が混じっている。ほんの少し前まで地下とは思えないほど深い緑に覆われていた場所は、今や何か巨大な獣が爪を立てて掻き回した後のように無惨な姿へ変わっていた。アリーゼは咳き込みながら身体を起こし、視界の端から端まで仲間の姿を探した。輝夜。ライラ。リュー。ネーゼ、ノイン、イスカ、マリュー、アスタ、リャーナ、セルティ。返事が返るたび胸の奥に詰まっていたものが一つずつほどけていったが、全員を確認しても安堵することはできなかった。これほどの破壊を地下迷宮で起こしたという事実そのものが、冒険者として培ってきた感覚へ冷たい警鐘を鳴らしていた。
「……全員いるわね」
アリーゼの声に、瓦礫を押し退けていたライラが顔だけを向けた。
「いる。今んとこはね。ったく、派手にやってくれたもんだよ。正義の味方相手に洞窟ごと吹っ飛ばそうとか、ルドラんとこの連中は趣味悪すぎでしょ」
軽口そのものはいつものライラだったが、その手は休んでいなかった。仲間の傷を見て、残っている薬を数え、崩落した通路と使える退路を視線だけで拾っていく。輝夜も刀についた土を払いながら周囲を見回していたが、普段なら一つは飛んでくる皮肉がない。リューは剣を握ったまま、地面へ視線を落としていた。爆発の余韻ではない。何か別のものを感じ取ろうとするように、静かに息を殺している。
「団長」
最初に異変を言葉へしたのは、そのリューだった。
「静かすぎます」
アリーゼは答えず、耳を澄ませた。
そこでようやく気付いた。
魔物の声がしない。
これだけ大きな爆発が起きたのなら、本来なら周囲の魔物が騒ぎ、こちらへ寄ってきてもおかしくない。だが何も聞こえなかった。足音も、咆哮も、枝葉が擦れる音すらない。第三十階層そのものが息を止めたような静寂の中で、やがて足元から微かな震動が伝わってきた。それは崩落の残響とは明らかに違っていた。一定ではなく、深く、重く、まるで自分達が立っている場所の遥か下で何かが苦痛に身を捩っているような振動だった。
「……嫌な感じですね」
輝夜が呟いた。
その瞬間、悲鳴のような音が階層全体を貫いた。
誰かの声ではなかった。魔物の咆哮とも違った。巨大な洞窟そのものが喉を持ち、無理矢理引き裂かれながら叫んでいるとしか思えない音だった。アリーゼの全身に鳥肌が立つ。ライラの表情から笑みが消えた。リューは反射的に剣を構え、輝夜も同時に重心を落とした。何が来るのか分からない。それでも長く死線を潜ってきた彼女達の身体だけは、頭より先に理解していた。
逃げろ、と。
しかし、その判断より速く天井が裂けた。
白い何かが落ちてきた。
巨体ではない。むしろ想像していたより細い。それなのに、着地した瞬間に感じた圧力は、これまで遭遇してきたどの魔物とも違っていた。骨を思わせる白い外殻。異様に長い腕。地面へ触れる鋭利な爪。細身の身体には不釣り合いなほど禍々しい輪郭。その怪物には、自分達を見て怒る様子も、獲物を見て喜ぶ様子もなかった。ただ生まれ落ちたその瞬間から、目の前に存在する生命を消すことだけを命じられているかのように、首が僅かに動いた。
「散開――!」
アリーゼの命令が最後まで届くより先に、怪物が消えた。
次の瞬間、ノインの身体が宙を舞った。
何が起こったのか誰にも見えなかった。鈍い衝撃音の後、ノインは何メートルも離れた地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。ネーゼが名前を叫ぶ。だが、その声に反応したように白い影が向きを変えたため、輝夜が横から斬り込んだ。刃と外殻が触れ、耳を裂く金属音が響く。剣士として卓越した輝夜の一撃は確かに捉えていた。それでも刃は浅く滑っただけだった。
「っ――硬い……!」
怪物の腕が振るわれる。
輝夜は咄嗟に刀を盾へ変えた。受け切る選択など最初からしていない。軌道を僅かに逸らしながら自分も後方へ跳ぶ。その判断は正しかったはずなのに、腕に伝わった衝撃だけで身体が浮いた。背中から岩へ叩きつけられ、肺の空気が一度に押し出される。それでも輝夜は刀を離さなかった。視界が白く瞬く中で起き上がろうとし、そこで別方向から炎が走った。
「《アガリス・アルヴェシンス》!」
アリーゼが踏み込んだ。
炎をまとった剣閃が怪物へ届く。単純な威力だけではない。輝夜から意識を引き剥がし、その間にライラがノインへ向かう時間を作るための攻撃だった。リューも逆側へ回り込み、二人で挟む。戦い慣れた仲間同士だからこそ言葉は要らない。前後から攻め、退路を狭め、速度の正体を観察する。一度でも動きを捉えられれば対策を立てられる。それがこれまで数え切れないほどの敵を倒してきた彼女達の戦い方だった。
通用しなかった。
怪物はアリーゼの炎を避けたのではない。
突っ切った。
「な――」
白い腕が視界を埋める。アリーゼは剣を引き戻す暇もなく肩から弾き飛ばされ、地面を何度も転がった。すぐに立とうとした脚が一瞬遅れた。その僅かな遅れを狙って怪物が迫る。しかし間へリューが滑り込み、連続して剣を振るった。一撃、二撃、三撃。外殻へ傷はつく。浅い。決定打にはほど遠い。怪物は彼女の剣を意に介した様子もなく腕を振り上げ、リューが回避へ移ろうとした瞬間、その足元からライラの仕掛けた爆発が弾けた。
「リュー、下がれ!」
閃光と煙が怪物を包む。
ライラはノインを抱えたネーゼを後方へ走らせながら、舌打ちした。ノインには息がある。だが浅い。骨も何本かやられている。まともに戦える状態ではない。その事実を頭の片隅へ押し込みながら、今度は怪物の様子を確認する。爆煙が晴れる前から嫌な予感はしていた。そして予感通り、白い輪郭がほとんど傷つかないまま姿を現す。
「冗談でしょ……」
ライラの声から、とうとう軽さが消えた。
そこから先は戦闘と呼ぶことすら難しかった。
アスタが仲間を庇って吹き飛ばされ、イスカが怪物の爪を紙一重で避けた直後に肩を深く裂かれた。マリューが彼女を引きずって後退し、セルティとリャーナが援護へ入る。魔法で押し返そうとした瞬間、怪物の外殻が異様な光を返し、放った力がそのまま別方向へ弾き返された。ライラが叫んだ時には遅く、爆ぜた魔力の余波が味方まで巻き込む。誰も死んではいない。少なくとも、まだ。だが一人、また一人と戦える者が減っていった。
アリーゼは口の中に溜まった血を吐き捨て、立ち上がった。
右腕が痺れている。左脚にも痛みがある。輝夜はまだ立っているが、呼吸がおかしい。肋骨をやられているかもしれない。ライラは負傷者をまとめながら罠を組み続けているものの、使える道具は目に見えて減っている。そしてリューは、誰より怪物へ食らいつき続けていた。
まだ勝とうとしている。
当然だった。
この少女は最後までそうする。
正義がどうとか、冒険者としてどうとか、そういう理屈以前に、目の前で誰かが傷ついていれば剣を振るう。それを知っているからこそ、アリーゼの胸に一つの答えが生まれてしまった。
その答えを認めたくなくて、もう一度怪物へ向かった。
何度斬っても浅い。何度工夫しても速すぎる。こちらは傷つき、疲れ、人数を失い続けるのに、向こうには消耗している様子すらない。撤退しようにも負傷者が多すぎる。全員で走れば追いつかれる。負傷者を置いていくという選択肢など、最初から誰の頭にもない。
ならば。
誰かが残らなければならない。
その考えへ辿り着いた瞬間、アリーゼは自分が団長であることを呪いたくなった。
「輝夜! ライラ!」
怪物と距離が開いた一瞬を使い、二人を呼ぶ。
二人とも振り返った。
その顔を見ただけで、きっと察したのだろう。輝夜の目が鋭く細まり、ライラから表情が消えた。
「……嫌ですよ」
まだ何も言っていないのに、輝夜が答えた。
「私はまだ何も言ってないわよ」
「では言わないでください。どうせ碌でもないことです」
普段の皮肉に似ていた。
けれど声が僅かに震えていた。
アリーゼは笑おうとした。いつものように、大丈夫だと言いたかった。自分達なら何とかなる、正義は負けない、最後には笑って帰れると。何度もそう言って皆を引っ張ってきたのだから、今回も同じように言えばいい。
言えなかった。
地面には動けない仲間がいる。
すぐ近くではリューが一人で怪物を引きつけている。
そして自分達には、もう時間がない。
「リューを逃がす」
その一言で、空気が変わった。
ライラが目を閉じた。
輝夜は何も言わない。
「動ける三人であいつを止める。リューに負傷者を連れて先へ行かせる。全員は無理でも、途中まで運んで安全な場所を作れば――」
「無理だね」
ライラが遮った。
冷たく聞こえるほど平坦な声だった。
「リュー一人じゃ全員運べない。あいつももう結構やられてる。追いつかれたら終わり。だったら負傷者を何箇所かに分散させて、あいつだけ最速で地上に向かわせる。その方がまだ救援を呼べる可能性がある」
救援。
その言葉が妙に遠く聞こえた。
第三十階層。
地上までは遠い。
リューが辿り着くまで、自分達が持つ保証などない。それどころか、ここにいる負傷者達がそこまで生きていられるかも分からない。
それでもゼロではない。
ゼロでないのなら選ぶしかなかった。
輝夜が長く息を吐き、刀を握り直した。
「……あの馬鹿は、素直に逃げますかね」
「逃げないでしょうね」
「でしょうね」
こんな時なのに、三人とも同じ人間を思い浮かべていた。
リューは絶対に拒む。
仲間を置いて逃げろと言われて頷ける少女なら、彼女達はこれほど彼女を愛していなかった。
だからこそ、命令するしかない。
アリーゼは剣を杖代わりにして立ち上がり、少し離れた場所にいるリューを見た。
また怪物が動く。
リューが辛うじて避ける。
その頬を爪が掠め、血が飛んだ。
胸の奥で何かが軋んだ。
怖かった。
死ぬことではない。
自分がここで死ぬことよりも、仲間が目の前で消えていくことの方が遥かに怖い。五年前も十年前も存在しない、今日という日の続きを、もう一緒に歩けないかもしれないことが怖かった。星屑の庭へ帰れば食卓がある。アストレアがいる。くだらないことでライラが笑い、輝夜が嫌味を言い、リューが真面目に受け取る。ネーゼもノインもイスカもマリューもアスタもリャーナもセルティもいる。それを当たり前だと思った日は一度もないつもりだった。それなのに、失うかもしれない今になって初めて、自分がどれほど強くその日常へ縋っていたのか思い知らされた。
怪物が再び地面を蹴った。
「リュー!」
アリーゼが叫んだ。
リューが振り返る。
「こっちへ来て!」
何かを感じ取ったのだろう。
少女の顔が強張った。
それでも命令に従い、怪物との間に距離を作ってこちらへ走ってくる。
アリーゼはその顔を見つめた。
言わなければならない。
団長として。
仲間として。
家族として。
自分達の中で、たった一人でも明日へ繋ぐために。
けれど言葉が喉まで上がった、その時だった。
離れた場所で、誰かが泣いた。
声を上げるような泣き方ではない。
堪えようとして、堪えきれずに落ちた、ほんの小さな嗚咽だった。
誰のものだったのか、アリーゼには分からなかった。
そしてその場にいた誰もまだ知らなかった。
その小さな音を、この地獄の外で聞き取った者がいることを。