もう一度あの舞台へ 作:アオアシ増えろ増えろ
スタジアムに足を踏み入れた瞬間、芝の匂いが鼻先をかすめた。
何百回、何千回とこの匂いを嗅いできたはずなのに、いまだに胸の奥が微かに疼く。選手として立っていた頃の記憶が、匂い一つで呼び覚まされるのだから、体というのは正直なものだと思う。
「中村さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
放送席に向かう通路で、ディレクターの若い女性が声をかけてきた。もう三年近い付き合いになる。
「おはよう。今日はどう、視聴率は」
「先週の分、良かったですよ。中村さんの解説、SNSでも『分かりやすい』って結構バズってて」
「そりゃ何より」
軽口を叩きながら、俺は放送席に腰を下ろした。ヘッドセットを装着し、モニターの角度を確認する。眼下には、キックオフを控えたピッチが広がっていた。ナイター照明に照らされた芝は、不自然なほど鮮やかな緑色をしている。
三月にしては冷え込む夜だった。吐く息が白く曇る。
「さあ、いよいよキックオフが近づいてまいりました。中村さん、今日の見どころは?」
隣に座る実況の若いアナウンサーが、台本にざっと目を通しながら振ってくる。まだ入社数年目だろう。声にどこか硬さが残っている。
「そうですね……両チームともに、ボランチのポジショニングに注目したいですね。特にホーム側は、相手のプレスがかかる前に、あえて三人目の動きで数的優位を作ろうとしてくる。これがハマれば、前半のうちに主導権を握れるはずです」
「三人目、ですか」
アナウンサーが台本から目を上げ、少し遅れて頷いた。理解したというより、理解したふりをするための間だということが、長年の付き合いで分かる。それでいい。専門用語を並べ立てて煙に巻くのが仕事じゃない。彼のような、サッカーに詳しくない層にまで届く言葉を選ぶこと――それが解説者としての俺の役割だった。
現役時代、俺は決して口数の多い選手ではなかった。ピッチの上で余計なことは喋らない。喋る必要がないくらい、体が先に動いていた。だが引退してから気づいたことがある。喋らなければ伝わらないものがあるということに。
俺はミニマムなグラウンダーのパス一本にも、意図を込めていたつもりだった。相手のプレスの矢印をどちらに向けさせたいか、味方のフリーランをどこで生かしたいか――そういう「見えない部分」を、テレビの前の人間に翻訳して届ける。それが今の俺の仕事だ。
試合が始まると俺は無意識に身を乗り出していた。癖のようなものだ。現役の頃から変わらない。目で追っているのは、ボールそのものじゃない。ボールを持っていない選手たちの重心、視線、足の踏み込む角度――ピッチの上で交わされる無数の無言の会話を、俺は誰よりも早く読み取ろうとしてしまう。
「あ、今の。中村さん、今の見えました?」
アナウンサーが前のめりになって聞いてくる。ホーム側のインサイドハーフが、体の向きを一つ変えただけで、相手ディフェンスラインを大きく揺さぶったところだった。
「見えました。今の、体の向きだけで相手に『縦に来る』と思わせておいて、実際は逆サイドに展開してますよね。ああいう、小さな嘘をつく技術っていうのは、才能というより経験の積み重ねなんです」
「経験、ですか」
「はい。ああいう駆け引きは、教科書には載っていません。何百試合、何千回とピッチに立って、失敗を繰り返しながら体に染み込ませていくものです」
喋りながら、俺は自分の右膝に軽く手をやった。もうほとんど痛みは残っていない。だが、冷え込む季節になると、古傷が微かに疼くことがある。
三十一の冬。ワールドカップ、決勝トーナメントの準々決勝。あの一瞬の接触プレーが、俺の選手生命を決定的に終わらせた。
*
プロになったのは、大学を卒業してすぐのことだった。周りからは遅いスタートだと言われた。高校時代、俺はレギュラーですらなかった。ベンチにも入れず、スタンドから声を張り上げているだけの時期が長く続いた。それでも腐らなかったのは、単純にサッカーが好きだったからだ。誰よりも試合に出たいと思っていたし、誰よりも試合のことを考えていた。ただ、体も技術もそれに追いついていなかっただけだ。
大学に入ってから、ようやく体が出来上がってきた。戦術理解と、それまで培ってきた観察眼が、遅れてきた体の成長と噛み合い始めた瞬間だった。指導者に恵まれたことも大きい。
「お前は良い選手を活かせる選手になれる」
当時の監督にそう言われた瞬間、胸の奥で何かがかちりと音を立てた気がした。ずっと探していた鍵穴に、ようやく合う鍵が見つかったような感覚だった。誰よりも点を取る選手にはなれない。だが、誰かの得点を演出できる選手には、なれるかもしれない。そう思えたことが、俺の選手人生の分岐点だった。
プロ入り後、国内での数年を経て、俺はヨーロッパへ渡った。バルセロナ、それからバイエルン。看板選手だったことは一度もない。だが、どちらのクラブでも、チームメイトから信頼された自覚がある。派手さはなくても、必要な場所に必要なタイミングでボールを届けられる選手。守備でも攻撃でも、誰かのために泥をかぶることを厭わない選手。それが俺のアイデンティティだった。
日本代表としてワールドカップに出場できたのは、そういう積み重ねの結果だったと思っている。決勝トーナメント一回戦、俺はスタメンで先発した。あの舞台に立てたことは、今でも人生の頂点だったと胸を張って言える。
――だが、その次の試合で、全てが終わった。
準々決勝、後半のロスタイム。相手選手との何気ない接触プレー。傍から見れば大したことのないシーンだったはずだ。だが、俺の右膝は、以前から蓄積していた損傷に耐えられなかった。靭帯が断裂する感触を、今でもはっきり覚えている。ピッチに倒れ込みながら、痛みよりも先に浮かんだのは「終わった」という乾いた実感だった。
その後、二年近くリハビリに費やしたが、以前のような動きは二度と戻らなかった。国内の下部リーグでの復帰も試みたが、全盛期の半分の速さで走ることすら叶わない自分の体を、俺は誰よりもよく理解していた。三十三の誕生日を迎える少し前、俺は静かに引退を決めた。まだ現役を続けられる選手も大勢いる年齢だったが、これ以上ピッチに立ち続けることが、自分にとってもチームにとっても正直な選択とは思えなかった。
早すぎる終わり方だったと、今でも思う。もっとやれたはずだという未練は、たぶん一生消えない。
*
「中村さん、前半終了間際、いいシーンがありましたね」
アナウンサーの声で我に返る。ピッチでは、ホーム側のサイドバックが果敢にオーバーラップを仕掛け、相手の最終ラインを一枚剥がしたところだった。
「そうですね。今のシーン、注目してほしいのは、彼が仕掛けるタイミングです。味方のボランチが相手のボランチを完全に引きつけたあの瞬間――あそこしかない、というタイミングでスペースに走り込んでいる。これは偶然じゃありません。日頃からチーム全体で共有している設計図があるからこそ生まれる動きです」
アナウンサーが台本の余白に何かを走り書きしている。俺の言葉を、次のどこかで使うつもりなのだろう。悪い気はしなかった。
選手としての人生は、あの冬に終わった。だが、こうしてピッチを外から見つめる仕事に出会えたことは、悪くない第二の人生だったと思っている。誰かの気づかなかったプレーの意味を言葉にして届ける。それは、かつて自分がピッチの中で果たしていた役割と、どこか似ている気がした。
試合はホーム側の勝利で幕を閉じた。放送席を片付けながら、俺はスタジアムを見渡す。観客がぞろぞろと帰路につき始めている。照明に照らされた芝は、まだ選手たちの足跡を残したまま、静かに夜の中に沈んでいく。
「お疲れさまでした、中村さん。今日もありがとうございました」
ディレクターに見送られながら、俺はスタジアムを後にした。
帰りの車の中、いつものようにラジオをつけた。今日の試合のダイジェストが流れている。自分の解説が抜粋されて使われているのを聞きながら、ふと窓の外を見た。流れていく夜の街並みを、ぼんやりと目で追う。
もうすぐ四十六になる。独り身のまま、この歳になった。結婚のタイミングを逃したわけではない。ただ、サッカー以外のことに、それほど熱を入れられなかっただけだ。現役時代も、引退してからも、俺の生活の中心にはいつもサッカーがあった。
自宅に着くと、冷蔵庫を開けて今夜の献立を考える。一人暮らしが長くなってから、自炊はすっかり趣味の一つになっていた。誰かに振る舞う機会はほとんどないが、包丁を握って手を動かしている時間は、不思議と心が落ち着く。試合を分析している時と、料理をしている時――どちらも、頭の中で段取りを組み立てる感覚がよく似ている気がした。
鍋に湯を沸かしながら、テレビをつける。別の局でも、今日の試合のハイライトが流れていた。画面越しに、若い選手たちが躍動する姿を眺める。
彼らの多くは、まだ二十歳にもならない。それなのに、堂々とプロのピッチに立っている。羨ましいとは思わない。ただ、テレビの前で無意識に握っていた菜箸の先が、少しだけ震えていることに気づいた。
もし、あの怪我さえなければ。
もし、もう少し早くプロの世界に足を踏み入れていたら。
考えても仕方のないことだと分かっている。それでも、こうして誰かの若さと才能を目の当たりにするたび、消えたはずの未練が、古傷のようにじわりと疼く。
湯が沸いた音で我に返り、俺は鍋に麺を入れた。湯気が立ち上り、キッチンの空気を白く曇らせる。
窓の外はすっかり夜が更けていた。明日もまた、別の試合の解説がある。準備しなければならない資料は山ほどある。それでも、今夜はなぜか、いつもより長く画面の中の選手たちを見つめてしまっていた。
誰かに届けるための言葉を探しながら、俺は自分の中で、まだ何かがくすぶり続けているのを感じていた。
それが何なのか、この時の俺には、まだ分からなかった。