神崎遊真という男を最初に見た時、纏は別に何とも思わなかった。
超神田寿司には毎日いろんな客が来る。
近所の常連もいれば、仕事帰りに寄る客もいるし、観光で一度だけ来る者もいる。そんな中で、ある時から妙によく顔を出す男が一人増えた。
それが神崎遊真だった。
「マグロください!」
最初に覚えたのは、たぶんこの注文だったと思う。
別にマグロを頼む客なんて珍しくも何ともない。
寿司屋なんだから当然だ。
ただ、こいつの場合は少し頻度がおかしかった。
一度来てマグロを食べる。
数日後にまたやって来て、やっぱりマグロを頼む。
次に来た時もマグロ。
その次もマグロ。
さすがに何度目かになった頃、纏の方から聞いた。
「アンタ、他の寿司は食わないのかい? 来るたびマグロばっかりじゃないか」
すると遊真は、本当に不思議そうな顔をした。
「食べるよ。マグロ以外も普通に好きだし」
「だったら何で毎回最初にマグロなんだい」
「好きだからだけど?」
「それは見てれば分かるよ!」
「じゃあ何で聞いたの?」
「そういう意味で聞いたんじゃない!」
何だこいつは。
それが最初の印象だった。
少し変わった客。
その程度。
服装も別に派手じゃない。
Tシャツやパーカーみたいな気楽な格好で来ることが多いし、金持ちにありがちな高そうな時計や装飾品を身につけているわけでもない。
話してみても偉そうなところはない。
むしろ人懐っこくて、店の人間にもすぐ馴染んだ。
近所に引っ越してきたこと。
家でゲームを作っていること。
だいたい分かったのはそのくらいだった。
それから遊真は、本当によく店へ来るようになった。
昼に来る日もあれば、夜になってから現れる日もある。
元気そうに入ってくる時もあれば、どう見ても寝ていない顔で暖簾をくぐる時もあった。
後者の方が問題だった。
「……腹減った。何か食わせて」
ある日、そんな顔で来た遊真を見て、纏は思わず眉を寄せた。
「アンタ、何だいその顔。ちゃんと寝てるのかい?」
「寝てるって。昨日もちゃんと寝た」
「何時間?」
「……3時間くらい」
「それを寝たって言うんじゃないよ!」
「3時間も寝てるだろ!」
「屁理屈言ってんじゃない!」
最初の頃は、単純に呆れていた。
いい大人が、自分の飯や睡眠くらいまともに管理できないのかと思った。
けれど、何度言っても遊真は同じことを繰り返す。
ゲームを作っていると時間を忘れる。
気づいたら夜になっている。
飯を食べるのも忘れる。
眠くなるまで仕事を続けて、限界になってから寝る。
本人としては無理をしているつもりがないらしい。
そこが一番質が悪い。
そのうち、纏の方も遊真が店へ来ればまず顔色を見るようになった。
何を注文するかより先に、
「昨日は何時間寝たんだい?」
と聞く。
数日来なければ、また家に籠もってゲームでも作っているのではないかと思う。
ちゃんと食べているのかと気になる。
自分でも、いつからこんなことを気にするようになったのか分からない。
遊真の方は遊真の方で、そんな纏を見て平気で余計なことを言う。
「纏って、なんか母ちゃんみたいだな」
その瞬間、纏の手が遊真の頭へ飛んだ。
「痛っ! 何で叩くんだよ!」
「誰が母ちゃんだい!」
「だって飯食ったかとか寝たかとか毎回聞くじゃん!」
「アンタが放っておくと何もしないからだろ!」
「そんなことないって。ちゃんと食べてる日もある」
「昨日の昼は何食ったんだい」
遊真の顔が止まった。
「……チョコ」
「それを飯って言うんじゃない!」
本当に手がかかる。
そう思っていた。
それでもこの時はまだ、近所に住んでいる少し変わった常連客というだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも纏はそう思っていた。
だから、まさか遊真が勘吉の幼馴染だなんて考えもしなかった。
あの日、いつものように遊真が店へ入ってきた。
そして店の中にいた勘吉を見つけた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
少しして、
「……勘吉?」
と声をかける。
振り返った勘吉も同じように固まった。
それからは早かった。
「やっぱ勘吉じゃん! うわ、全然変わってない!」
「遊真!? お前こそ何でここにいるんだ!」
久しぶりの再会のはずなのに、ほんの数分で昔からずっと一緒にいたみたいな調子へ戻った。
互いに相手のことを変わっていないと言い合い、昔の失敗を持ち出して喧嘩を始め、最後には店の中で追いかけっこまで始めそうになる。
纏が、
「アンタたち何歳だい! 店の中で騒ぐんじゃないよ!」
と怒鳴ったところで、ようやく二人とも止まった。
あの時は驚いた。
でも、同時に少しだけ納得もした。
遊真が妙に子供っぽい理由。
面白そうなものを見つけたら、後先考えずに飛びつくところ。
妙なところで負けず嫌いなところ。
思ったことをそのまま口にするところ。
そういう部分が、確かに勘吉とよく似ていた。
もちろん全部が同じじゃない。
一番違うのは金だろう。
勘吉は金の話になると目の色が変わる。
遊真は逆に、金そのものには驚くほど興味がない。
遊真の家へ初めて行った時、それは嫌というほど分かった。
近所に住んでいることは知っていた。
でも、まさかあれほど大きな家に一人で住んでいるとは思わなかった。
中に入れば、まず大量のゲーム機とソフト。
地下には昔のゲーム機やアーケード筐体が並んでいる。
さらに開発室へ入れば、高性能なコンピューターやサーバーが何台も置かれていた。
その時初めて、纏は遊真が単に「ゲームを作っている人」ではないと知った。
中川から聞けば、世界的にもかなり有名なゲームクリエイターらしい。
作ったゲームは何本も売れている。
大手から買収の話まで出ている。
相当な金持ち。
そこまで聞いても、本人を見ていると全然実感がない。
「この家、いくらしたんだい?」
前に聞いた時も、
「知らない」
と普通に答えた。
「知らないって、自分の家だろ!」
「地下広かったし、機材置けたからそれでよかった」
「値段見なかったのかい!」
「見たと思うけど覚えてない」
横で勘吉が頭を抱えていた。
金持ちというより、金に興味がなさすぎる。
ただしゲームのことになると話は別らしい。
設備には平気で大金を使う。
値段ではなく性能で決める。
勘吉とは正反対の方向で金銭感覚がおかしい。
でも、あの家で一番印象に残ったのは、そんなことじゃなかった。
ゲームを作っている時の遊真の顔。
普段の遊真は本当に子供っぽい。
勘吉とゲームをすれば本気で張り合うし、怒られれば露骨に嫌そうな顔をする。
食べたいものが出ればすぐ機嫌がよくなる。
何か面白そうなものを見つければ、目に見えてテンションが上がる。
それなのに、パソコンの前へ座ってゲームを作り始めると、少しだけ空気が変わる。
真面目な顔になるというより、夢中になる。
大量の文字が並んだ画面を迷いなく触りながら、頭の中では次から次へと新しいことを考えている。
勘吉が作ったゲームの穴を見つけた時なんて、普通なら腹を立ててもおかしくない。
なのに遊真は、
「すげぇ! それどうやったの!? もう一回やって!」
と本気で喜んだ。
あれには少し驚いた。
自分の作ったものの欠点を見つけられたのに、悔しがるどころか嬉しそうにする。
その理由も、しばらく見ていれば分かった。
遊真にとって大事なのは、自分が褒められることじゃない。
もっと面白いゲームになること。
たぶん、それだけだ。
仕事だから作るわけじゃない。
売れるからでもない。
作りたいから作っている。
面白くしたいから直す。
単純といえば単純だけど、そこまで一直線にやれる人間はそういない。
完全没入型VRMMOの話を聞いた時もそうだった。
本当にゲームの世界へ入れるものを作りたい。
自分の身体で歩いて、触って、匂いや温度まで感じられる世界。
子供の頃に思いついた夢を、大人になった今でも本気で追っている。
「生きてる間に完成するか分かんないけど、作りたいからやる」
そう言った遊真の顔を見た時、纏は少しだけ羨ましいと思った。
夢を持つだけなら誰でもできる。
でも、それをずっと追い続けるのは難しい。
遊真はたぶん、その難しさすらあまり気にしていない。
できるところまでやる。
ただそれだけなんだろう。
……普段の生活まで、もう少しその真面目さを使えばいいのに。
「姉上、手が止まっておるぞ」
檸檬の声で、纏は我に返った。
「悪い悪い、ちょっと考え事してたよ」
夕方前の超神田寿司。
まだ客の少ない時間。
纏は仕込みをしながら、少し離れた席を見る。
そこには檸檬と遊真が並んでいた。
昨日から作り始めたらしい時代劇ゲーム。
そして今日、本当に城下町まで作って持ってきた。
「遊真、ここは昨日よりよくなっておる。しかし、この辺りの家の並び方は少々不自然じゃな」
「また直すところ見つかった? どこが変か教えてよ。すぐ直せるから」
「焦るでない。まずここじゃ。この屋根と隣の建物の位置が――」
檸檬が説明する。
遊真は真剣に聞いている。
相手が幼稚園児だからといって、扱いを変えない。
「それって時代によっても変わる?」
「もちろんじゃ。おぬしがどの時代を想定しておるかでも違う」
「そこまで考えてなかったな。じゃあ時代設定から決めた方がいいか」
「ようやく分かったか」
「檸檬、やっぱ詳しいなぁ。おすすめの時代劇もっと教えてよ」
「仕方ないのう。まずは基本から見せねばならぬな」
檸檬もかなり楽しそうだ。
あの子は年齢の割に大人びている。
同年代の子供とは話が合わないこともあるだろう。
遊真とはかなり年齢が離れているのに、なぜか一緒にいると違和感がない。
……遊真の精神年齢が檸檬に近いからじゃないだろうね。
そんなことを考えていたら、本人から声が飛んできた。
「纏、ちょっとこっち来て! これ見てほしい!」
「今仕込みしてるの見れば分かるだろ。あとで見てやるから待ってな」
「ほんの一瞬だけ! 纏の意見も聞きたいんだって!」
「昨日もアンタの『一瞬』に30分付き合わされたんだけどねぇ」
「今日は本当に短いって。たぶん5分!」
「もうたぶんって言ってるじゃないか!」
遊真が分かりやすく肩を落とす。
まったく。
そういう顔をすれば何でも許されると思ってるんじゃないだろうね。
……別に許すわけじゃないけど。
「少しだけだよ。長くなったらすぐ戻るからね」
「さすが纏! こっちこっち!」
「調子いいんだから」
手を拭いて二人のところへ行く。
画面には昨日よりかなり広くなった江戸風の町が表示されていた。
店が並び、町人が歩き、橋の向こうには城まで見えている。
「本当に昨日からここまで作ったのかい?」
「昨日からっていうか、今日の朝までかな」
……ん?
今、何か聞き捨てならないことを言った。
「遊真」
「どうした?」
「朝までって、何時までやってたんだい?」
「いや、朝って言ってもそんなに遅くないって。終わったの6時くらいだし、そのあとちゃんと寝たから」
「何時間寝た」
遊真の視線がゆっくり横へ逃げる。
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
「……1時間半くらい」
「この馬鹿!」
反射的に頭を叩いた。
「痛っ! 何で叩くんだよ!」
「何でじゃないよ! 昨日も寝ろって言っただろ!」
「でも檸檬と約束したんだって!」
「わらわは朝まで作れなどと言っておらぬぞ」
檸檬が淡々と答える。
遊真が目を見開いた。
「檸檬まで俺を裏切るの!?」
「裏切ってなどおらぬ。身体を壊して続きが作れなくなれば困ると言っておるのじゃ」
「ほら見な。檸檬の方がよっぽど分かってるじゃないか」
「味方が一人もいない……」
本気でしょんぼりしている。
まったく、何歳なんだか。
でも、こんなやり取りをするのも、少し前なら考えられなかった。
ただの常連だった頃なら、
「無理しないようにしなよ」
くらいで終わっていたと思う。
今は違う。
寝ていないと聞けば腹が立つ。
飯を食べていないと聞けば、何か食わせなきゃと思う。
数日店へ来なければ、また家に籠もっているんじゃないかと気になる。
……なんで私がここまで気にしてるんだろうね。
少しだけ、自分でも不思議だった。
「纏、何か怒ってる?」
遊真に聞かれて、纏は眉を上げる。
「今まさにアンタに怒ってるんだよ!」
「いや、そうじゃなくて。なんか考えてたから」
変なところでよく見ている。
「何でもないよ。それより今日は絶対寝な。明日続きを作ればいいんだから」
「分かったって。今日はさすがに眠いし、ちゃんと寝るよ」
「その『眠いから寝る』っていう生活をまず直しな」
「寝るんだからいいじゃん」
「よくない!」
遊真がまた頭を庇う。
もう叩かないよ。
たぶん。
「ところでさ、纏」
「今度は何だい」
「腹減った」
……。
纏は一度黙った。
「アンタ、さっき昼飯は食べたって言ってなかったかい?」
「今日まだ何も食べてないよ」
「今、何て言った?」
遊真の表情が固まった。
あ。
これは怒られると気づいた顔だ。
「いや、その……ゲーム作ってたら時間なくて」
「アンタねぇ!」
「待って! 今から食うから!」
「だったら最初から食ってから来な!」
「だって早く檸檬に見せたかったし!」
「それで倒れたら意味ないだろ!」
「ごめんって!」
遊真が両手を合わせる。
本当に反省しているのかは怪しい。
纏は大きく息を吐いた。
「そこ座ってな。何か簡単なもん作ってやるよ」
「寿司?」
「この時間からまた寿司ばっかり食うんじゃないよ。別のものにする」
「マグロは?」
「今日はなし!」
「そんなぁ……」
分かりやすく落ち込む。
檸檬が横から呆れたように言った。
「遊真、姉上に世話をかけすぎじゃ。少しは自分で生活を整えたらどうじゃ」
「俺も頑張ってるって。昨日だって水飲んだし」
「それは頑張ったうちに入らぬ」
「厳しいなぁ」
遊真が笑う。
そのまま、
「でも纏って、なんだかんだ優しいよな。毎回ちゃんと飯食わせてくれるし」
と言った。
厨房へ戻りかけた纏の足が止まった。
「……聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったんだけど」
「そういうの本人の前で堂々と言うんじゃない!」
「褒めてるだけなのに、何で怒るんだよ!」
本当に分かってない。
遊真は思ったことをそのまま口にする。
深い意味なんてない。
分かってる。
分かってるけど。
「まったく……」
纏はそれ以上相手をせず、厨房へ戻った。
簡単に食べられるものを作る。
ただそれだけなのに、さっきの言葉が妙に頭に残る。
優しい。
そんなもの、別に特別な言葉じゃない。
檸檬にだって似たようなことを言っていた。
勘吉にだって、たぶん何か褒める時は普通に言うだろう。
それなのに、何でこんなに気になるんだろうね。
しばらくして料理を出す。
遊真の顔が一気に明るくなった。
「うわ、うまそう! これ食っていい?」
「そのために作ったんだよ。あと、ちゃんと噛んで食べな」
「分かってるって。いただきます!」
一口食べる。
すぐに表情が変わった。
「うまっ! 纏、これすごい美味い!」
「そんな大げさに言わなくても分かるよ」
「大げさじゃないって。本当に美味い!」
こういうところも、最初から変わらない。
美味しいものを食べたら本当に嬉しそうにする。
世界的なゲームクリエイター。
金持ち。
天才。
そんな肩書きを知った今でも、纏の中では最初に知った遊真と大して変わっていない。
ゲームが好きで、好きなものには一直線で、生活能力が心配になるくらい低くて、食べる時は子供みたいに嬉しそうに笑う。
ただ、一つだけ変わったことがある。
昔なら、店に来れば気づく程度だった。
今は店の引き戸が開くと、無意識に遊真かと思うことがある。
何日か来なければ気になる。
そんな自分に気づいてしまうことが増えた。
「姉上」
檸檬が小さな声で呼んだ。
「どうしたんだい、檸檬」
「遊真が来ると、姉上はよく怒るのう」
「そりゃこいつが馬鹿なことばっかりするからだよ」
「勘吉にもよく怒っておるな」
「勘吉はもっと馬鹿なことするだろ」
「なるほど。ならば姉上は、馬鹿な男の世話をするのが好きなのかもしれぬな」
「はぁ!?」
思わず声が大きくなった。
遊真が食事の手を止めて顔を上げる。
「どうしたんだよ。急にでかい声出して」
「アンタには関係ない! 黙って食べてな!」
「俺何もしてないのに怒られたんだけど!」
檸檬は小さく笑っている。
絶対に分かって言ってる。
「檸檬、変なこと言うんじゃないよ。別に遊真が特別なわけじゃないんだから」
「わらわは特別などとは一言も言っておらぬぞ」
「……」
しまった。
自分で言った。
檸檬の口元が少し上がる。
「姉上、顔が赤いぞ」
「赤くない!」
「店の中が暑いのかもしれぬな」
「檸檬!」
遊真は何も分かっていない顔で二人を見ている。
「何の話してるの?」
「アンタは知らなくていい!」
「なんでだよ!」
纏は顔を逸らした。
別に遊真が特別なわけじゃない。
近所に住んでいる。
超神田寿司の常連。
勘吉の幼馴染。
檸檬の新しい友人。
だから多少世話を焼いている。
そういうことだ。
少なくとも今のところは、それでいい。
やがて夕方になり、客が増え始めた。
遊真も邪魔にならないようパソコンを片付ける。
「じゃあ俺、一回帰るわ。檸檬、続きはまた明日見せるから」
「うむ。ただし町人の会話ももう少し増やすのじゃぞ。同じことばかり話しておる」
「分かった。今日ちょっと弄って――」
「遊真」
纏が名前を呼ぶ。
遊真が動きを止める。
「……明日やる」
「よろしい」
「言う前から怒るのやめてくれない?」
「アンタが今夜やろうとしてたの丸分かりなんだよ」
「ちょっとだけならいいかなって」
「ダメ!」
「分かったって!」
笑いながら鞄を背負う。
「じゃあ纏、また明日。飯ありがとな!」
「次はちゃんと食ってから来なよ!」
「覚えてたら!」
「覚えときな!」
遊真は最後まで笑いながら店を出ていった。
引き戸が閉じる。
纏はその扉を少しだけ見てから仕事へ戻る。
「姉上」
「今度は何だい」
「ずいぶん楽しそうじゃの」
「誰がだい?」
「姉上がじゃ」
「……どこがよ」
「気づいておらぬなら、それでよい」
檸檬はそれ以上何も言わず、奥へ戻っていった。
「何なんだい、まったく……」
納得できない。
でも、その日の夜。
店の片付けをしている途中で、ふと思った。
遊真は本当に寝ただろうか。
帰る時は眠そうだった。
でも、あの男のことだ。
家へ戻ってパソコンを見た瞬間、眠気を忘れている可能性がある。
「……」
携帯電話を見る。
別に連絡する必要なんてない。
明日店へ来た時に聞けばいい。
それでいいはずなのに、気づけば遊真とのメッセージ画面を開いていた。
少し迷ってから文字を打つ。
『ちゃんと寝てる?』
送信。
すぐ既読がついた。
早すぎる。
返事もすぐに来た。
『今から寝る!』
纏は画面を見ながら目を細める。
この返事。
絶対に何かやっていた。
『パソコン消した?』
少しして返事。
『消したよ』
怪しい。
『本当に?』
今度は間が空いた。
数十秒。
そのあと送られてきたのは、
『……今消した』
だった。
「やっぱりじゃないか!」
思わず声が出た。
店の奥から檸檬が顔を出す。
「姉上、どうしたのじゃ?」
「何でもないよ!」
携帯を隠すように伏せる。
でもすぐにもう一度画面を見る。
『今日はちゃんと寝な』
送信。
しばらくして、
『分かった。おやすみ纏。また明日!』
という返事が来た。
その後ろには、妙に楽しそうなスタンプまで付いている。
纏はしばらくその画面を見たあと、小さく息を吐いた。
「ほんと、手のかかる奴だねぇ」
呆れている。
そのはずなのに、少しだけ口元が緩んでしまった。
神崎遊真。
超神田寿司によく来る客。
勘吉の幼馴染。
ゲームばかり作っている変わった男。
今はまだ、それでいい。
ただ、遊真が亀有へ来てから、自分の日常が少しだけ騒がしくなった。
その騒がしさを、纏は別に嫌いじゃなかった。