悪役の魂と共にMCU転生したので生き延びる 作:ゴウカザルのスケジュール
受話器の向こうで無機質な電子音が二回鳴り、オペレーターの機械的な声が繋がる。
「911, what is your emergency?」
さて、機は熟した。
予め考えていた通り、私は何も発しない。
通話状態のまま携帯電話の上に枕を置き、静かに自身のベッドに潜り込む。
直後、薄い壁を隔てた隣のスペースから、男の濁った怒声と、皮膚が肉を打つ嫌な音が響く。続いて、母親の掠れた悲鳴。違法薬物の甘ったるい匂いが、狭い部屋の空気を重く湿らせていく。
「十分じゃな」
ゾラ爺が呟きが脳内に響く。
2005年現在のアメリカにおける緊急通報システムは、すでに基地局のトリプル測位および固定回線データベースと連動している。
応答がなくても、回線が接続され、背後で暴行や切迫した悲鳴が検知されれば、優先度は即座に緊急現場急行へ引き上げられる。
オペレーターが、
「Hello? Sir?」
と呼びかけ続ける小さな音声。
幸いな事に未だ、母親達は気が付いていない。
そのままジッと待つこと十数分。
夜のクイーンズの路地に、耳を刺すサイレンの群れが雪崩れ込んできた。
重い足音が階段を駆け上がり、乱暴にドアが蹴り破られる。
さて、私もそろそろ動こうか。
「NYPD! Don't move! Hands where I can see them!」
怒号、倒れる家具、男の罵声、選べぬほどのフラッシュライトの眩しい光。
警察官たちが男を床に叩き伏せ、手錠をかける狂乱の真ん中で、母親は髪を振り乱して叫び声を上げた。
「やめて! 警察なんて呼んでない! 出て行って! 私から子供を奪わないで!!」
錯乱した母親は、警察官を押しのけ、私が眠っているはずのベッドに一目散に走り込む。
そして、私が予め作っておいたベッドの膨らみを激しく抱きしめていた。
ゾラ爺のアルゴリズム通りの行動だ。
にしても、ヒドラは凄いな。心理学まで修めているのか。驚いたぞ。
母親の全身は尋常ではない恐怖で痙攣し、瞳孔は完全に開いている。
恐らく、自身が一所懸命に覆いかぶさっているものが、
寝ているはずの私ではなく───薬物が入った瓶をタオルで巻いたもの
と理解していない。
そう、これが母親の限界だった。
過去のネグレクトや貧困、そして社会からの孤立が積み重なった結果、
母親にとって行政や警察は救い手ではなく、唯一遺された子供を取り立ててくるヴィランとして脳内に固定化されている。
昼間の役人相手にはなんとか隠し通していた重度の精神疾患が、警察の介入という極限のストレスによって白日の下に晒された瞬間だった。
警察官の一人が冷めた手つきで無線を叩く。
「……こちら10-85、現場に児童あり。母親は精神的に著しく不安定。児童保護局の緊急派遣を要請する」
(——よし、処理が始まったな)
私は部屋の隅で冷めきった意識のまま、淡々とその光景を見届けていた。
通報という手段は、この哀れな母親の精神を完全に崩壊させ、
家庭という体制を消滅させる選択肢だ。
だが、元公務員の私にとって、これは悲劇ではない。
行政という巨大な機械に介入させ、次のフェーズへ移行するための不可逆にして不可避の代償に過ぎなかった。
脳内でゾラ爺が楽しそうに嘲笑う。
私は母親に対して、失望と諦観が大きかったが、
ゾラ爺は憎しみが強かった。
さぞかし、愉悦的な光景だろう。
ほどなくして現場に駆けつけてきた児童保護局のケースワーカーは、手慣れた様子で黒いビジネスバッグを安物のテーブルに放り投げ、警察官と状況確認を始めた。開いたままのバッグからは、重厚なIBM ThinkPadの黒い筐体が覗いている。
大人たちの視線は、錯乱して暴れる母親と手錠をかけられた男に100%注がれていた。
「今しかないぞ」
脳内のゾラ爺の声から、悪ふざけの色が消える。
私も理解している。
チャンスは一度きり。
だからこそ、この生活を耐え忍び、入念に準備を整えてきたのだ。
かつて、ゾラ爺が脳内で言ったセリフを思い出す。
「この時代の行政ネットワークは閉鎖網が主流だ。どれほどプログラムが優秀であろうと、外部の公衆電話や安物PCからインターネット越しに直接ハックしようなど物理的に届かん。内部ネットワークにバックドアを開くには、内部の人間が持ち込んだ端末へ直接マルウェアを打ち込むしかあるまい」
この現場の混乱という唯一の機会。
コレを逃がす手は無い。
というか、作戦の根幹に置いている。
「……信じてるぞ、ゾラ爺」
現場の混乱による物理セキュリティの完全な喪失。
今、この瞬間に仕込む。
「今じゃ!あの端末に接続しろ」
私は怯える幼児を装いつつ、床を這い、テーブルの影へと移動した。
小さな手の中にあるのは、ジャンク屋の廃基板とUSB端子をゾラ爺の指示通りに組み合わせて作った、自作USBドングル。
2005年現在のWindows 2000/XPは、外部メディアを差し込んだ瞬間にプログラムを自動実行する機能───AutoRunの脆弱性が野放しになっている。
私は大人たちの怒号に紛れ、テーブルの上のThinkPadの側面へ手を伸ばすと、USBポートへそのドングルを無音で一進に押し込んだ。
カチリ、と小さな手応え。
「勝ったな」
「嗚呼、上出来じゃ」
ケースワーカーがこの後、本部へ戻る。
すると、始まる。
そう、ゾラ爺による感染が。
庁舎内の内部ネットワークにこのPCが接続された瞬間、ゾラ爺の作成したバックドア型マルウェアが行政システムへ感染していく。
その感染の拡大は止まらない。宿主が居なくなるまで広がり続けるだろう。
これで、外部から自身のデータを任意に書き換えるアクセス権が確保された訳だ。
「おい、ボウズ。大丈夫か?」
ケースワーカーの近くをウロウロしていると、母親を押さえ付けていた警察官が戻ってきた。私の肩に対しては慎重な手付きで触れる。
嗚呼、久々に味わう善良な人間の気遣いだ。
別段、感傷に浸っている訳では無いが、全人口の2割程度はこの余裕をみせる事が出来る人物が居て欲しいと望む。
私はすぐさま手元からドングルの痕跡を消し、静かに頷いてみせた。
視線の先では、パトカーに押し込まれていく母親。
その声帯が張り裂けんばかりの悲鳴が、クイーンズの夜の静寂に虚しく吸い込まれていった。