悪役の魂と共にMCU転生したので生き延びる 作:ゴウカザルのスケジュール
彼を引き取るに当たって、先輩であるヴァイス博士が作成した書類は全て目を通した。
その中でも初期スクリーニングの報告書は、今世紀において児童福祉局の内部データベース上、一際異様な異彩を放つことになっただろう。
───知能・言語評価:測定不能。極めて高度な認知能力を有する反面、感情表現の著しい解離を認める。要特別支援指定。
先輩曰く、この診断の決定打となったのは、面談の終盤に投げかけた一つの質問だったという。
「正義ってなんだと思う?」
ごくありふれた心理質問だ。
特に虐待下における精神的成熟が早く、知能が標準より高い児童に対してはよくする質問である。
我が家に迎え入れた後、本人から聞いたところによると、
彼としては、抽象度合いが高過ぎる質問であった為、正しい回答を絞り込む為の逆質問に過ぎなかったらしい。
「法によって定められた正義と、社会乃至個々人あるいは各々の立場上の視点から事象を観測した際に、倫理的あるいは道徳的に正しいと認識する正義は必ずしも一致しません。前者は制度上の公平性……嗚呼とはいえ、最高裁で争われる事象は多く、法哲学的な解釈を入れるとかなり話が長くなりますが……ええ、では後者に関してですね。其方もですが、やはり、単数あるいは複数存在する価値判断の基準点乃至思想あるいは宗教的概念に委ねられる問題ですから」
先輩であるヴァイス博士の手がピタリと止まってしまったのも頷けよう。
事実、5歳児の口から滑り出ていい語彙ではなかった。
先輩は眼鏡の奥の目を瞬かせ、引きつった笑みを浮かべながら、なんとか会話を噛み砕こうと試みたという。
「……で、では、制度上の公平性とは、具体的にどういうことを指すのだと思うかな」
彼は少し困ったように、けれど至極丁寧に微笑みながら答えたという記録が残っている。
「分配的正義と矯正的正義の文脈で語るべきでしょうか? それとも、ロールズの『無知のベール』的な機会の平等についてお答えすればよろしいでしょうか?」
「───ふむ、本日の面談は、ここまでにしましょう」
先輩は静かに書類を閉じ、深々とため息をついた。
と、後に酒を飲みながら語ってくれた。
***
ヴァイス先輩から送られてきたあの異様な書類──感情表現の著しい解離と、要特別支援指定の印が押されたファイルをデスクの引き出しに仕舞い込んでから、およそ二ヶ月が経過していた。
我が家に引き取られた彼は、実に手のかからない子どもだった。
同年代の子どもが好むような玩具に興味を示す事は一度も無く、ただ静かにコンピューターの前に座り、学会の研究員が読むような論文や、私が個人的に買い与えた東洋医学の図解と人体模型の足部を唖然と眺め続けている。
隣のベッドで眉間にシワを寄せながら血液関連の論文と格闘している19歳のマイケルすらも、最初は彼を不気味がり、やがては静かで邪魔にならない奇妙な居候として受け入れ始めていた。
そんな平穏な日常が続いたある日、行政上の手続きと彼の今後の教育方針を決定する為、彼の里親として私を推薦したヴァイス先輩の立ち会いのもとで正式な知能検査を実施する事となった。
私は検査室の観察用マジックミラー越しに、その光景を見つめることにした。
用いられたのは、2003年に改訂されたばかりのスタンフォード・ビネー知能検査第5版である。
2歳から85歳という極めて広い年齢層に対応した個別式検査であり、個人の認知能力を多角的に測定するには最も信頼性の高い指標の一つと言える。
部屋の中央に座る5歳の彼は、目の前に提示された検査キットに対し、一切の恐怖や緊張を見せなかった。
まるで、オフィスで回覧されてきた書類の記載漏れを慣れた手つきでチェックするかのような、恐ろしいまでにビジネスライクな手際で事務的に回答を開始する。
流動性推理、知識、数量的推理、視空間処理、作業記憶──。
5歳児向けに設定された初期課題など、彼にとってはただのタイムロスに過ぎなかったのだろう。回答は全てノータイム処理。選択肢を提示された瞬間に、迷うことなく正解を指し示していく。
「……次だ。この図形のパターンを……」
テスターを務める専門員が、慎重に次のカードをめくる。
「これですね。展開図に直すとBです」
流石だ。
コンマ数秒のラグすら存在しない。
「……では、この数量関係は……」
「X=14。移項する事で導けます」
言葉に感情の起伏がない。まるで、入力されたコマンドに対して即座に文字列を出力する高性能な計算機そのものだった。
ストップウォッチを握り、彼の対面に座っていたヴァイス先輩の面持ちが、刻一刻と変化していくのがガラス越しにもはっきりと分かった。
私自身、最初は、
「早熟の子供か」
という程度の心理学的な興味だったものが、次第に困惑へ、そして隠しきれない戦慄へと変わっていく。
彼の回答が制限時間に引っかかることなど一度たりともなかった。
問題の難易度は、彼の処理能力に押し上げられるようにして、上限値に向かって垂直立ち上がりで上昇していく。
平均的な水準の大人でも頭を抱えるような難度領域の課題に到達しても、彼のテンポは一切乱れない。
ストップウォッチを握る先輩の手は、かすかに震え始めていた。
「……分かっていないな、あの子は」
私はマジックミラーの前で腕を組み、静かに息を吐き出した。
隣でフッと笑う声が聞こえる。
恐らく、天才児たるマイケルも同意見なのだろう。
実際、我々からすれば、ただ目の前に提示されたテストは、それ程、苦戦するものでは無い。
しかし、5歳の子供が正確かつ最短時間で淡々と完遂している光景には感情の変化が一切見られないのである。
悪気もなければ、自分の能力を誇示したいという幼い承認欲求すらない。
───測定限界値。
所謂、IQ160をあっさりと突き抜け、用意された全領域で天井値まで叩き出すその姿こそが、周囲の大人達の目にどれほど不気味な異常性として映っているか。
当の本人だけが、その恐怖の本質にまったく気づいていないようだ。
検査が終了し、静まり返った部屋の中で、彼は何事もなかったかのように、
「これで以上となりますか?嗚呼、そうですか。すみません、お疲れ様でした」
と、小首を傾げた後に、姿勢を正して頭を下げていた。
彼に対しては笑顔を向けていたヴァイス先輩も、振り返って我々と目が合うと、途端に青ざめた顔で書類をまとめだした。
苦労を掛けてしまう。
申し訳無さを感じつつ、私はヴァイス先輩の背中を見送る。
「……マイケル」
部屋の隅で点滴を打ちながら、複雑な目で彼を見ていた19歳の青年に声をかける。
「君の新しい『弟』は、どうやらとんでもない怪物のようだ」
マイケルは疲れたようにため息をつき、手元のノートから目を離さずに答えた。
「知ってるよ、ニコラス。ココ最近、僕の研究論文に対しても高度な素人質問を突きつけてくるからね」
私は苦笑し、彼らの未来──そしてこの異様な5歳児がもたらすであろう予測不能な変化に、静かに思いを馳せるのだった。