迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
ほう、評価7ですか…。
ぜひ感想や評価よろしくお願いします。
もっとも大きかったのは、やはり
何より、速い。
風狼の力を受け継いだ杖は、シルフィの風魔術との相性が極めて良かった。
「……速くなったな」
地面から空を見上げながら、俺は素直に感心していた。
シルフィは返事をする代わりに、空中で身体を半回転させた。白に近い杖を抱えるようにして身体を横へ倒すと、纏った風がその動きを追いかけるように流れ、彼女の身体が弧を描いて滑っていく。以前なら一度減速してから向きを変えていたところを、今では速度をほとんど落とさずに方向を変えられる。
そのまま地面すれすれまで降下し、ルークの横を通り抜ける。
「うおっ……!」
反射的に身体を捻ったルークの横を、シルフィが笑いながら飛んでいく。
「どう?」
「どうって……」
ルークは振り返り、遠ざかっていくシルフィを見る。
「普通に怖いぞ」
「怖いの?」
「敵だったらな」
「じゃあ、敵じゃなかったら?」
「……それなら別に」
そう答えると、シルフィは満足そうに笑った。
ただ、ルークには一つ気になっていることがあった。
シルフィは空を飛べるようになった。
それだけならまだいい。
だが、空を飛べるようになった魔術師が、そこからどうやって攻撃するのか。
そこまで考えると、どうしても一つ足りないものがあるように思えた。
「シルフィ」
「なに?」
「
「うん。前よりずっと楽になったよ」
「なら、次は攻撃だな」
シルフィが杖を見下ろす。
「攻撃?」
「今でも火球は使えるけど、空を飛びながら使うなら、もっと手軽な魔術があった方がいいと思う」
「……風の魔術?」
「ああ」
ルークは地面に落ちていた小枝を拾った。
「例えば、風を槍みたいにして飛ばすとか」
「風を……槍?」
シルフィが首を傾げる。
「そう。火球みたいに大きくするんじゃなくて、細くして、一点に集める。飛んでる状態から撃てれば、かなり使いやすいと思う」
シルフィはしばらく考えてから、杖を構えた。
「やってみる」
「おう」
シルフィの周囲で風が動き始める。
「……あれ?」
「もう一回」
二度目。
今度は無理に風を細くしようとしたせいか、杖の先で渦が生まれ、シルフィの髪を乱した。
「きゃっ」
「風が回ってるな」
「うん……でも、これじゃ飛ばせないよ」
「そうだな」
俺も腕を組んだ。
風には形がない。
火なら火球、水なら水球というように、ある程度まとまったものをそのまま飛ばせる。しかし風は違う。いくら強くしても、それだけでは周囲へ拡散してしまう。
どうすれば、風を一方向へ集中させられるのか。
──あ。
そのとき、ふと前世の記憶が引っかかった。
──螺旋丸。
ナ〇トが使っていた忍術。掌の上にチャクラを集め、回転させ、圧縮していた技。
もちろん、この世界にチャクラなんてものはない。
チャクラがないと出来ないかもしれないし、この世界に水風船はない。何より、俺は自〇也じゃない。現実に再現できるわけでもない。
けれど。
技そのものではなく、発想なら使える。
力を無理やり固めるのではない。
一か所へ集める。
そして、逃げようとする力を中心へ向け続ける。
「……シルフィ」
「うん?」
「風を固めようとするのをやめてみよう」
「え?」
「風そのものを槍の形にするんじゃなくて、風を一か所に集めるんだ。周りに散っていく風を、全部中心に向ける感じで」
「中心に……?」
「そう。例えば……」
俺は小枝で地面に円を描いた。目に見えた方が確実に分かりやすいしな。
「ここに風を集める。そこから、今度は前だけに逃がす」
円の中心から一本の線を伸ばす。
「つまり、作るのは槍じゃない。風が一方向へ集中して流れる道を作る」
「……やってみる」
シルフィが再び杖を構えた。
今度は、最初から形を作ろうとはしなかった。
周囲の空気を少しずつ集める。
杖の先端へ。
さらに中心へ。
散ろうとする風を押し留めるように、魔力を細かく調整する。
それでも、一度目は失敗した。
集めた風が大きく膨らみ、破裂する。
二度目は、風が細くなりすぎた。形はできたものの、飛ばした瞬間に消えてしまう。
「難しい……」
「でも、さっきより近い」
「ほんと?」
「ああ。今のは散らずに飛んだ」
「じゃあ、もう一回!」
三度目。
四度目。
五度目。
失敗するたびにシルフィは考え、俺もその横で何が悪かったのかを一緒に考えた。風を強くするだけでは駄目だった。細くしすぎても駄目だった。集める場所、流す方向、魔力を送り込む速度、そのどれか一つが崩れるだけで、風はたちまち形を失ってしまう。
そして、何度目かの挑戦。
シルフィが静かに息を吐いた。
杖の先で、風が渦を巻く。
今度は散らない。
小さな渦が一点へ収束し、そこから細長い風の塊が伸びていく。淡い緑色の光を帯びた風は、まるで透明な槍のように杖の先へ収束していた。
「……ルーク」
「そのまま」
「うん」
シルフィが杖を前へ向ける。
「──いけっ!」
風が弾けた。
次の瞬間、一本の風が一直線に飛び、遠くにあった木の幹を深く抉った。木片が弾け、遅れて風が周囲の草を大きく揺らしていく。
俺たちは二人とも、しばらく黙っていた。
「……できた」
シルフィが呟く。
「ああ」
吊られて俺も笑った。
「できたな」
シルフィは嬉しそうに杖を抱きしめた。
「名前、どうしよう?」
「風の槍なんだから……
「
シルフィはその名前を何度か口の中で転がしてから、満足そうに頷いた。
「うん。それがいい!」
こうして、シルフィに新しい魔術が一つ増えた。
そして、それは彼女が空を飛ぶためだけの魔術師から、空を飛んで戦う魔術師へ変わっていくための、最初の一歩になった。
☆☆☆
それからの特訓は、以前よりも激しくなった。
シルフィは
地上にいるルークからすれば、かなり厄介だった。
以前、ルークはシルフィに言った。
──俺はシルフィに勝てなくなるだろうな。
それは今も変わらない。
上空を飛び回る手段を手に入れた魔術師を、地に足をつけて戦う剣士が倒す光景を、ルークは未だに上手く想像できない。シルフィがわざわざ低空まで降りてきて接近戦をする必要などないからだ。
防壁で防ぐ必要がない攻撃は避ければいい。
ルークは闘気を纏い、地面を蹴った。
「……危なっ」
振り返りもせずに走る。
上空からシルフィが追ってくる。
「ルーク! 止まって!」
「無理に決まってんだろ!」
互いに叫びながら、それでも二人とも笑っていた。
ルークは決してシルフィを追い回さなかった。
追いつけないなら追わない。
結果として、戦いは泥沼になった。
シルフィは攻撃を当てられない。
ルークはシルフィへ近づけない。
そして、魔力を使うシルフィだけが少しずつ消耗していく。
何度目かの勝負で、ついにシルフィが地面へ降りた。
「……もう、魔力がない」
肩で息をしながら、悔しそうに杖を握る。
「俺の勝ちだな」
「……また?」
「ああ」
「悔しい」
「だから言っただろ。空にいるシルフィには俺も簡単には勝てない。でも、シルフィだって俺を簡単には倒せない」
ルークは剣を収める。
「結局、我慢比べなんだよ」
シルフィは俯いた。
そして、その言葉を何度も頭の中で考えた。
次の特訓で、シルフィは戦い方を変えた。
最初から高く飛ばなかった。
低空を滑るように飛びながら風槍を放ち、ルークが避けると、その方向を確認してから反対側へ移動する。ルークが距離を詰めようとすれば上昇し、諦めれば再び高度を下げる。
「……」
ルークは少しずつ眉を寄せた。
以前とは違う。
シルフィはただ攻撃しているわけではない。
ルークの動きを見ている。
どちらへ逃げるのか。どのタイミングで踏み込むのか。防壁魔法を使えるのはどんなときか。
そして、それを利用している。
「……お前、俺の動き覚えてるだろ」
「うん」
空中でシルフィが笑う。
「ずっと見てたから」
その日の勝負は、シルフィが勝った。
ルークが風槍を避けた先へ、次の風槍が飛んできた。
防壁を張れれば、その隙に距離を取られる。
接近すれば上空へ逃げられる。
以前は自分がやっていたことを、今度はシルフィがやっていた。
「……なるほどな」
地面に座り込んだルークは、悔しさよりも先に感心していた。
シルフィは馬鹿じゃない。
自分が勝てなかったなら、勝てない理由を考える。
そして、その答えを自分なりに見つけた。
「ルーク」
「ん?」
「今日はボクの勝ちだよね?」
「ああ。ちゃんと負けた」
「やった」
シルフィが笑う。
その顔を見て、ルークも自然と笑った。
それから二人の勝敗は、何度も入れ替わった。
ルークが長期戦へ持ち込み、シルフィの魔力を先に削り切る日もあれば、シルフィがルークの逃げ道を読み切って勝つ日もあった。シルフィが焦って低空へ降りてきたときには、ルークがその隙を逃さず接近戦へ持ち込み、剣を突きつけて勝利する。逆に、ルークが「もう少し近づけば届く」と欲を出した瞬間、シルフィは
勝負を重ねるたび、二人は相手のことを知っていった。
シルフィは、ルークがどう動けば攻撃を避けやすいのかを覚えていった。
ルークは、シルフィがどんなときに高度を上げ、どんなときに低空へ降りるのかを覚えていった。
それでも、どちらか一方が圧倒することはなかった。
地上ならルークが強い。
空ならシルフィが強い。
そして、どちらも相手の得意な場所へ簡単には入らせない。
それでよかった。
二人にとって特訓は、どちらが強いのかを決めるためだけのものではなくなっていた。
昨日勝ったから、今日は負けるかもしれない。
今日負けたから、明日は勝ちたい。
その繰り返しが、二人にとって当たり前の日常になっていた。
ある日の夕方、特訓を終えた二人は草原に並んで寝転がっていた。
空は夕焼けに染まり、遠くの雲が橙色の光を受けている。
「……やっぱり、空を飛べる魔術師は厄介だな」
ルークが呟く。
「ルークだって全然捕まらないじゃん」
「捕まらないように動こうとしてるからな。でも、それがパターンになっちゃってる。だから、覚えられて攻略される」
「気が付いたのは最近だけどね」
シルフィが笑う。
ルークも笑った。
ふと、別のことを思う。
──もしルーデウスまで空を飛び始めたら、目も当てられなくなるな。
そんなくだらない想像をしながら、ルークは空を見上げた。
「明日もやろうね、ルーク」
「ああ」
「今度は負けないから」
「俺も負けるつもりはないぞ」
「じゃあ、勝負だね」
「そうだな」
明日も、ここへ来る。
明日も、シルフィと戦う。
そんなことを疑いもしなかった。
☆☆☆
朝の稽古が始まる頃には、庭の土にはまだ夜の冷気が残っていた。
朝食を終えて外へ出ると、薄い靄の向こうから差し込んだ陽光が庭を斜めに照らしている。木々の葉先には夜露が残り、風が吹くたびに小さな雫が落ちて、土の上へ黒い点を作っていた。そんな、何の変哲もない朝だった。
俺は腰の剣へ手を添えながら、少し離れた場所に立つパウロさんを見る。
十歳になってから、稽古で使う剣は木剣ではなくなった。
もちろん、俺がまだ子供であることを考慮して、パウロさんも本気で殺すつもりで斬りかかってくるわけではない。それでも、木剣を使っていた頃とは緊張感が違う。握った柄から伝わってくる硬さも、振り抜いたときに身体へ返ってくる重さも違う。何より、そこに「刃」があるという事実だけで、剣を振る人間の意識は自然と変わる。
そしてパウロさんも、俺に対する接し方を少しずつ変えていた。
以前のように、子供へ剣を教えるというより、一人の剣士がどこまで伸びるのかを見極めるような目で俺を見ている。
「来い、ルーク!」
「はい!」
地面を蹴った。
闘気を纏った脚が土を強く踏み締め、身体が一気に前へ滑る。踏み込みと同時に剣を抜き、そのまま右斜め上から振り下ろした。
パウロさんは受けない。
僅かに身体をずらす。
俺の剣が空を切った。
その瞬間には、もうパウロさんの剣が返ってきていた。
「──っ!」
咄嗟に剣を引き戻す。
金属音が響いた。
手首に衝撃が走る。
そのまま押し込まれる前に刃を滑らせ、相手の剣を外へ逃がす。身体を半歩だけ横へ移動させ、そのまま懐へ潜り込もうとする。
パウロさんの視線が僅かに動いた。
読まれた。
そう判断した瞬間、身体が勝手に沈んだ。
頭上を剣が通り過ぎる。
そのまま地面を蹴って距離を取った。
「今の判断は悪くない」
「……ありがとうございます」
「だが、まだ分かりやすい」
「何がです?」
「お前は横へ回り込むとき、左足が少し先に出る」
「……本当ですか」
「ああ」
パウロさんが笑う。
「自分では気付かない癖ってのは案外多い。相手が強くなればなるほど、そういう小さなところを見られるぞ」
「それなら早めに教えてくださいよ」
「教えたら直すだろうが」
「直すための稽古じゃないんですか?」
「口も達者になったな!」
パウロさんが踏み込んできた。
俺も構え直す。
そこから先は、余計なことを考える余裕がなくなった。
剣を振る。
受ける。
逸らす。
踏み込む。
躱す。
斬り返す。
何度も何度も剣を交えるうちに、庭へ落ちていた夜露は完全に消えていた。朝の冷たい空気も、いつの間にか熱を持っている。額から汗が流れ、視界の端で陽光を反射しているのが分かる。呼吸は荒くなり、腕には鉛を詰め込まれたような重さが蓄積していた。
それでも剣は止めなかった。
パウロさんの剣が速い。
俺も速くなる。
パウロさんが一歩踏み込めば、俺は半歩下がる。
その半歩を取り返すために、今度はこちらから踏み込む。
以前の俺なら、ただ力と速度をぶつけていたかもしれない。今は違う。相手の足の向き、肩の動き、視線の位置、剣を振る直前の僅かな重心の変化。そういうものを一つずつ拾いながら戦う。
それでも、届かない。
パウロさんには長年の経験がある。
俺が一つ覚えれば、その先に二つ、三つと別の答えを持っている。
だから悔しい。
けれど、同時に楽しかった。
剣を振って、負けて、何が足りないのかを考えて、また振る。
昔の俺にとって負けることは、自分の価値を否定されることに近かった。
今は違う。
負ければ、次に直すものが見える。
そのことを、俺は少しだけ好きになっていた。
「──そこまでだ」
パウロさんが剣を下ろした。
俺も遅れて剣を下げる。
呼吸を整えようとして、肺の奥まで空気を吸い込む。けれど、吸った空気が熱い。喉が乾いていて、身体中から汗が流れていた。
「随分と動けるようになったな」
「パウロさんに鍛えられてますから」
「そういうことにしておいてやる」
パウロさんが笑う。
「水を飲んで休め。昼飯までには汗を拭いておけよ」
「はい。ありがとうございました」
剣を鞘へ収める。
そのときだった。
「ルーク様」
声の方を見る。
庭の端からリーリャさんが歩いてきていた。
手には、綺麗に畳まれたタオルがある。
「お疲れ様でした。こちらをどうぞ」
「ああ、ありがとうございます」
受け取る。
「今日は随分と汗をかかれましたね」
「今日も父さんは容赦なかったですよ」
「それだけ、ルーク様が強くなられたということでしょう」
「だといいんですけどね」
笑いながら、タオルを顔へ押し当てる。
冷たい。
火照った肌に触れた瞬間、思わず息が漏れた。
額を拭き、頬を拭き、首筋へ残った汗を吸い取っていく。肩から腕へとタオルを滑らせながら、何となく庭を見回した。
いつもの庭だった。
剣を振った場所。
パウロさんと何度も向かい合った場所。
そして、少し離れたところには家がある。
少し前まで、俺にとって家というものは、ただ寝るために戻る場所だった。
今は違う。
帰れば誰かがいる。
飯がある。
声がする。
くだらない話をする相手がいる。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
そんなことを考えながら家へ戻ろうとしたところで、開いた窓の向こうから声が聞こえてきた。
「そうそう。そこはもう少し弱火にしてみて」
「これくらい?」
「ええ。上手よ」
ゼニスさんの声。
続いて、聞き慣れた声がした。
シルフィだ。
俺は足を止めた。
窓から中を覗く。
台所にゼニスさんとシルフィが並んでいた。
シルフィは木べらを握り、鍋の中を真剣な顔で覗き込んでいる。ゼニスさんは隣から手順を教えながら、ときどきシルフィの手元へ視線を落としていた。
「何してるんだ?」
声を掛ける。
シルフィが振り返った。
「あ、ルーク」
その瞬間、ほんの少しだけ表情が慌てた。
「もう稽古終わったの?」
「ああ。今終わったところ」
俺が台所へ近づくと、鍋から香ばしい匂いが漂ってくる。
「料理?」
「う、うん」
「珍しいな」
「そうかな?」
「シルフィが料理してるところ、あんまり見たことないから」
シルフィは木べらを握ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「ゼニスさんに教えてもらってるの」
「そうなのよ」
ゼニスさんが楽しそうに笑った。
「シルフィちゃん、最近料理を覚えたいって言ってね」
「へえ」
「ちょっと、やってみたくて」
シルフィが小さく答える。
その理由については、それ以上言わなかった。
俺も、特に聞かなかった。
ただ鍋を覗き込みながら、
「じゃあ昼飯、楽しみにしてるよ」
そう言った。
シルフィの顔が、ぱっと明るくなった。
「うん!」
それだけだった。
それだけのやり取りだった。
なのに、どうしてか、その笑顔だけが妙に印象に残った。
昼食の時間になる。
食卓には、いつものように料理が並んでいた。
パンがあり、肉があり、野菜があり、その横に見慣れない一皿が置かれている。
「それ、シルフィちゃんが作ったのよ」
ゼニスさんが言った。
「これ?」
「うん……」
シルフィが少し緊張した顔で俺を見る。
「食べてみて」
「分かった」
一口食べる。
味が舌に広がった。
少しだけ普段と違う。
でも、美味い。
「……美味いな、これ」
「ほんと!?」
シルフィが身を乗り出した。
「ああ。ちゃんと美味い」
「よかった……!」
シルフィが笑った。
その笑顔があまりに嬉しそうで、俺まで自然と口元が緩んだ。
「また作ってくれよ」
「うん! もちろん!」
その返事は、今まで聞いたどんな返事よりも嬉しそうだった。
俺は笑いながら、もう一口食べた。
そのときの俺は、それが最後になるなんて思わなかった。
明日も食べられると思っていた。
来週も、その先も。
またシルフィが料理を作ってくれる日が来ると、何の疑いもなく思っていた。
昼食を終えると、俺とシルフィはいつものように丘へ向かった。
木陰に並んで座る。
シルフィは翠狼の杖を膝の上へ置き、その白く磨かれた骨を眺めていた。
「いつか、ルークも連れて二人で空をとべるといいね」
「……それは夢だな」
「ボク以外も飛ばせられるといいんだけど」
「シルフィなら出来るさ」
「うん。毎日もっと練習しなきゃ」
「ルークも使えるようになればいいね。魔術」
「それも、夢だな」
シルフィが笑った。
俺も笑う。
風が吹く。
木の葉が擦れる音がする。
空は少し灰色だ。雨でも降るのだろうか。まぁそれならそれでいい。
あまりにも穏やかで、明日も同じ景色が見られることを疑う理由なんて、どこにもなかった。
──思えば異変は前からあったかもしれない。
空気が変わった。
最初は、風が止まっただけだと思った。
けれど違う。
肌に触れていた空気そのものが、妙に重くなっている。
身体の内側まで押し込んでくるような圧力。
俺は反射的に立ち上がった。
「……何だ?」
「ルーク……」
声が震えていた。
俺は空を見る。
光が、近づいていた。
ロアの方角へ落ちた一本の光の筋は、もはや遠くの出来事には見えなかった。最初に見たときには、空の彼方に浮かんだ一筋の異変に過ぎなかったものが、時間が経つにつれて輪郭を増し、周囲を白く染めながらこちらへ迫っている。遠近感がおかしくなっているのか、それとも本当にあれほどの速度で広がっているのか、俺には判断できなかった。ただ、あれが近づいてくるほど、胸の奥を押し潰すような圧力が強くなっていく。
そして、隣にいたシルフィは、その光を見上げたまま動かなくなっていた。
「……シルフィ?」
返事がない。
視線だけが空へ固定されている。
いつものシルフィなら、どれだけ危険な魔物を前にしても、怖がりながらも自分にできることを探そうとする。風を操り、距離を取り、俺が前に出れば後ろから援護する。風狼と戦ったときだって、最初は怯えていたはずなのに、最後には自分から空へ上がり、俺のために魔術を撃ち続けた。
でも、今は違った。
相手が何なのか分からない。
攻撃なのか、魔術なのか、それとも別の何かなのかすら分からない。
ただ、理解できないものが迫っている。
その事実だけが、シルフィの身体を縛っているようだった。
「シルフィ!」
肩を掴む。
それでも反応がない。
「シルフィ、逃げるぞ!」
「……ボク……」
ようやく口から出た声は、ひどく小さかった。
「……何、あれ……?」
「俺にも分からない」
正直に答える。
分からない。
こんなものを見たことなんてない。
前世の記憶を掘り返してみても、こんな現象を知っているわけじゃない。日本にいた頃なら巨大な災害や何かの異常現象を疑っただろうが、ここは魔術が存在する世界だ。だからといって、魔術なら何でも理解できるわけではない。
むしろ、理解できないからこそ怖い。
「でも、ここにいたら駄目だ」
俺はシルフィの腕を掴んだ。
「行くぞ」
「……でも……」
「いいから!」
強く引っ張る。
その勢いで、シルフィの身体がようやく動いた。
足がもつれる。
それでも俺は手を離さなかった。
「走れ、シルフィ!」
「う、うん……!」
二人で走る。
丘を下る。
村へ向かう。
俺は闘気を使わなかった。
本当なら、全力で闘気を巡らせればもっと速く走れる。けれど、それをやればシルフィがついてこられない。今のシルフィは
だから、俺は自分の速度を抑えた。
それでも速く走る。
できる限り。
シルフィの手を引きながら、二人で村を目指す。
背後から迫る光が、視界の端を白く染めていく。
「……っ」
振り返る。
近い。
さっきより、明らかに近い。
まだ村までは距離がある。
家までは、さらに遠い。
このままでは間に合わない。
「くそ……!」
歯を食いしばる。
もっと速く。
そう思って闘気を強く纏おうとした瞬間、隣を走るシルフィの足が僅かに遅れた。
駄目だ。
俺が全速力で走れば、シルフィがついてこられない。
だったら──。
俺は走りながら、必死に頭を働かせた。
シルフィなら飛べる。
風翔を使えば、俺よりずっと速い。
それなら、別々に戻るしかない。
「シルフィ!」
「……なに?」
「
「え……?」
「飛べ! お前なら俺より早く戻れる!」
シルフィが目を見開く。
「でも、ルークは……」
「俺は走る!」
手を握っていた指に力を込める。
「俺は家へ行く、お前はロールズさん達のところへ行け!」
「でも……!」
「早く!」
俺はシルフィの手を離した。
これが一番いい。
そう思った。
シルフィなら飛べる。
俺は走れる。
それぞれの家へ戻って、危険を知らせればいい。
そうすれば、まだ間に合う。
そう思って、俺は前を向いた。
一歩、踏み出す。
その瞬間だった。
「──ルーク!」
背後から、声がした。
その声は、俺の足を止めるには十分だった。
振り返る。
シルフィがいた。
いや、使う暇すら無かったのだ。光はすぐ側まで迫っていたのだ。
そして──こちらへ手を伸ばしていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。
怖がっている。
さっきまでと同じように。
でも、それだけじゃない。
置いていかれることを恐れているようにも見えた。
助けを求めているようにも見えた。
俺には、そう見えた。
「シルフィ!」
俺も手を伸ばした。
身体が勝手に動いていた。
走る。
あと少し。
ほんの数歩。
手を伸ばせば届く。
そう思った。
けれど──。
白い光が、シルフィの身体を包んだ。
目の前の景色が歪む。
シルフィの髪が、光の中で揺れる。
伸ばされた手が、消えていく。
「シルフィ!!」
俺はさらに手を伸ばした。
届かない。
指先まで、あと少しだった。
なのに、その距離が埋まらない。
シルフィの姿が白く霞んでいく。
その目がこちらを向いている。
何かを言っている。
けれど、聞こえない。
「シルフィ!」
もう一度叫んだ。
それでも──。
その姿は、俺の目の前から消えた。
手は、届かなかった。
何も掴めなかった。
その直後。
俺の身体も、白い光に飲み込まれた。
何が起きているのか分からない。
ただ、本能だけが危険を叫んでいた。
だから、
身体を包む魔力の膜。
何度も俺を守ってきた、防壁。
俺はそれを維持しようとした。
無意識のまま、魔力を流し込む。
もっと強く。
もっと。
今までなら、耐えられた。
どんな攻撃でも、少なくとも一瞬は防げた。
けれど──。
防壁が軋んだ。
まるで、何かに触れた瞬間から存在そのものを削り取られているようだった。
「……っ!」
魔力を込める。
防壁が薄くなる。
さらに魔力を込める。
それでも、剥がされていく。
一枚。
また一枚。
今まで積み上げてきた防壁が、何の意味も持たないかのように消えていく。
「まだ……!」
魔力を注ぐ。
それでも止まらない。
防壁が歪む。
亀裂が走る。
最後の一枚が大きく軋んだ。
俺は必死に魔力を流した。
それでも──。
崩壊した。
世界から音が消えた。
光だけが残った。
最後に頭へ浮かんだのは、さっきまでそこにいたシルフィの姿だった。
伸ばされた手。
届かなかった手。
そして──。
視界が、真っ白になった。