迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
皆さん沢山評価くれてありがとうございます。
冗談半分で言って仕事終わりに見てみたら凄く評価上がっててびっくりしました。今回もちょっと長いです。オリジナル要素も多いですが、よろしくお願いします。
生死のあわい
目を覚ました時、最初に感じたのは、妙な明るさだった。眩しいわけではない。ただ、視界のどこを見ても薄い光が満ちていて、暗闇から急に外へ放り出された時のような強烈なものではなく、もっと均一で、どこか人工的な明るさだった。青白い光が周囲をぼんやりと照らし、石造りの床や壁、その先へ伸びる通路までも同じ色に染めている。俺はしばらく仰向けになったまま、その光を眺めていた。身体に痛みはあるものの、意識を失うほどではない。手も動く。足も動く。呼吸もできる。少なくとも、生きていることだけは確認できた。
「……なんだ、ここは」
身体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡す。石造りの壁に、一定の間隔で柱が並んでいる。床には長い年月を経たような傷がいくつも刻まれていて、俺のいる場所から伸びた通路は、左右に分かれることもなく、そのまま暗がりの奥へ続いていた。建物なのか、地下なのか、それとももっと別の何かなのか。少なくとも、俺がこれまで暮らしてきた村の建物とは似ても似つかない。そう思いながら壁際へ目を向けたところで、ようやく、ここを照らしている青白い光の正体に気がついた。
炎だった。
細長い金属製の器具が壁に立てかけられていて、その先端で青白い炎が燃えている。風が吹いている様子はないのに、炎だけが一定のリズムで揺らめいている。前世の記憶にある蛍光灯のような、冷たく均一な光をしているくせに、その正体は紛れもなく火だった。魔法の炎なのかもしれない。この世界にはそういうものがいくらでもある。だから、それ自体は驚くようなことではなかった。ただ、誰が何のためにこんな場所へ火を置いているのかという疑問が、妙に引っかかった。人がいるのか。それとも、誰かがいた場所なのか。
俺は立ち上がり、腰へ手を伸ばした。剣がある。その感触を確かめた瞬間、張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。武器がある。それだけでも、この何も分からない場所では大きい。けれど、剣の存在を確認したことで安心するどころか、逆に忘れていたものが一気に蘇ってきた。
白い光。
目の前にいたシルフィ。
伸ばした手。
届かなかった手。
そして、俺自身の防壁が何かに打ち破られたわけでもないのに、外側から薄皮を剥がされるように、一枚ずつ、一枚ずつ消えていった感覚。最後に見えたのは、何もかもを塗り潰していくような真っ白な光だった。
「…………」
息が詰まった。
俺はどうしてここにいる。
あの光は何だった。
シルフィはどうなった。
まさか、シルフィもどこかへ飛ばされたのか。俺だけがここへ来たのか。それとも、パウロさんやゼニスさん、リーリャさん、ノルン、アイシャも同じように──。
考えれば考えるほど、胸の奥が締めつけられていく。最後に見たシルフィの顔が頭から離れない。俺へ手を伸ばしていた。助けを求めるような顔だった。俺も手を伸ばした。けれど、届かなかった。あと少しだった。ほんの少しだったはずなのに、指先が触れるより先に、シルフィの姿は光の中へ消えてしまった。
俺は拳を握った。
「……落ち着け」
誰かに言うような声ではなかった。自分自身へ言い聞かせるための言葉だった。
今、慌てても何も分からない。まずは状況を確認する。ここがどこなのか、どうやってここへ来たのか、外へ出る方法があるのか。そして、みんながどこへ行ったのか。考えるべきことはいくらでもある。けれど、今すぐ答えが出ないことをいくら考えても仕方がない。
そう自分へ言い聞かせた、その時だった。
背後から、低い音が聞こえた。
獣の唸り声。
俺は振り返る。
通路の奥に、何かがいる。四本の脚で床を踏みしめ、灰色とも青黒いともつかない毛に覆われた身体。そのところどころには硬い角質のようなものが浮かび、頭部は獣にしては大きい。二つの目が青白い炎に照らされながら、こちらをじっと見ている。その後ろにもいる。二体、三体……さらに奥にも影があった。
魔物。
俺は魔物について詳しいわけではない。これまで戦ったことのある魔物だって限られているし、風狼との戦い以外は、本格的な実戦経験なんてほとんどなかった。それでも、目の前の連中が危険だということだけは分かった。こちらを見つけた魔物たちは、低く身体を沈めると、一斉に床を蹴った。
考えるより先に、身体が動いた。
剣を抜く。先頭の魔物が牙を剥いて飛び込んできたところで、俺は半歩だけ身体を沈め、その軌道を外すように横へ滑った。頭上を魔物が通り過ぎる。その瞬間、腰を捻りながら剣を斜め上へ振り抜いた。刃が腹部へ食い込み、硬い肉を裂く感触が手のひらへ伝わる。青い血が視界の端へ飛び散り、魔物の身体が俺の横を転がっていった。だが、止まっている暇はない。左から別の一体が迫っているのが見えたので、剣を返し、前脚から振り下ろされた爪を刃の腹で受け流す。重い。腕が痺れる。それでも力の流れに逆らわず、身体を半回転させながら相手の懐へ入り込むと、柄で顎を打ち上げ、そのまま首へ刃を滑らせた。
さらに一体が背後から飛び込んでくる。
気配を感じて振り返り、間に合うと判断する。横薙ぎに振った剣が魔物の胸元を切り裂き、完全には斬り切れなかったものの、勢いを殺すには十分だった。体勢を崩したところへ踏み込み、今度は首へ刃を通す。青い血が床へ落ち、魔物が動かなくなった。
そこで初めて、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。
短く息を吐く。
けれど、また唸り声が聞こえた。
「……まだいるのかよ」
愚痴をこぼしながら剣を構え直す。
次の魔物が走ってくる。
それから先は、頭で考えることと身体が戦うことが、ほとんど別々に進んでいった。
ここはどこだ。右から来る。ここはどこだ、洞窟か?そうは見えない。迷宮なのか。斬る。もし迷宮なら出口はどこだ。左。避ける。どうやって出る。分からない。なら、まず前へ進むしかない。魔物の爪を剣で受け流し、踏み込みながら胴を斬る。倒れた身体を踏み越え、次に来た一体へ剣を振る。考えているのに、身体は止まらない。むしろ、考えれば考えるほど身体だけが先へ進んでいるような感覚だった。
ここが迷宮だとしたら、出口はどこにある?
前世で見たアニメや漫画の中に出てきた迷宮の光景が、断片的に頭を掠める。巨大な地下構造。何層にも分かれた空間。魔物。宝物。そして最奥に待ち構える強大な存在。もちろん、そんなものは物語の中の話だ。ここがそれと同じだなんて、確証はどこにもない。それでも、石造りの壁と青白い炎に囲まれ、どこまで続いているのか分からない通路を歩いていると、どうしても似たものを感じてしまう。
もし迷宮なら、どうやって出る?
出口を探すしかないのか?
この状況で?
そんなことを考えている間にも、魔物が襲いかかってくる。俺は剣を振り、爪を躱し、踏み込んで斬る。群れで襲ってくる魔物もいたが、連携しているように見えて、その動きには風狼ほどの洗練された恐ろしさはない。挟み込もうとしてくる個体がいれば、先にそちらを斬り、残った一体の攻撃を受け流す。正面から押し合えば力負けする相手もいるが、闘気を脚へ集めて踏み込めば押し返せる。防壁魔法を使う必要すらなかった。
ふと、その事実に気づいた。
俺は、強くなっている。
今まで、そんな実感はほとんどなかった。シルフィとの特訓では、真剣を使って思い切り振り抜くような戦いなんてしていない。あいつを傷つけるわけにはいかないから、どうしてもどこかで力を抑えていた。パウロさんとの稽古だって同じだ。あの人を殺すつもりで剣を振ったことなんて、一度もない。だから、自分の力がどこまで伸びているのか、正確には分からなかった。
けれど、今なら分かる。
風狼と戦った時よりも、俺は強くなっている。
剣を振るう速度も、踏み込みも、魔物の動きを見てから身体を動かすまでの時間も、以前とは違う。何度も繰り返してきたパウロさんとの稽古が身体に染みついている。シルフィとの戦いで、相手の動きを見て次を予測する癖もついた。毎日の積み重ねなんて、村にいる時は大したものには感じなかった。それが今になって、こうして自分の身体の中に残っている。
また一体を斬る。
青い血が飛ぶ。
それでも、嬉しくはなかった。
強くなったところで、今の俺にはそれを喜ぶ理由がない。
シルフィはいない。
家族もいない。
ここがどこなのかも分からない。
だから俺は、もう一度だけ自分に言い聞かせた。
──みんな、生きている。
そう信じる。
今は、それでいい。
もし違うと考えてしまったら、俺はここから動けなくなる。シルフィが死んだかもしれない。パウロさんたちも死んだかもしれない。そんな考えを今ここで認めてしまったら、俺は剣を握ることも、歩くこともできなくなる気がした。
だから、生きている。
確証なんてない。
それでも、今の俺には、それしかなかった。
俺は倒した魔物の死体を通路の端へ寄せながら進んだ。道を覚えているわけではない。同じような石壁と青白い炎がどこまでも続いているせいで、今自分がどこを歩いているのかさえ怪しくなってくる。だから、戻る可能性を考えて、斬った魔物を目印にした。血の跡を残し、曲がった場所では壁に剣で浅い傷を刻む。それだけでも、少なくとも自分がどこを通ったのかくらいは分かる。
魔物が現れるたびに斬った。
数えることもやめた。
どれだけ歩いたのかも分からない。時間の感覚も薄れている。ただ、魔物を倒して、前へ進む。その繰り返しだけが残った。
やがて、魔物の数が減り始めた。
最初は気のせいだと思った。けれど、明らかに少ない。さっきまで数分も歩けば現れていた魔物が、いつまで経っても現れない。耳を澄ませても、遠くから聞こえていた唸り声が聞こえなくなっている。
最後の一体を斬り伏せた俺は、しばらくその場に立ったまま、剣を下ろさなかった。
静かだった。
自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
視線を上げる。
通路の先が、妙に広がっていた。
これまでの通路とは明らかに違う。天井が高くなり、左右の壁も遠ざかっている。壁際には青白い炎がいつもより多く並び、その先には暗闇が広がっていた。
俺は目を細めた。
「……ボス部屋、みたいだな」
口にしてから、自分でも少し笑いそうになった。
ここが迷宮なのかすら分からないのに。
それでも、他に表現が思いつかなかった。
俺は剣に付着した青色の血を振り払った。血が床へ飛び散り、青白い炎に照らされて不気味な光を放つ。剣を鞘へ戻すと、肩で大きく息を吐いた。身体が重い。喉が渇いている。腕にも疲労が溜まっている。ここまで何体斬ったのかも、もう分からない。
この先へ進むべきか。
一度戻るべきか。
俺は通路の奥を見つめながら考えた。
もし、この先が本当にボス部屋なら、今までの魔物とは比べものにならないほど強い奴がいる可能性がある。ここまでだって、防壁魔法を使わずに済んだのは相手がそれほど強くなかったからだ。次も同じとは限らない。疲労もある。魔力だって無限じゃない。闘気も使えば消耗する。
勝てるのか。
いや、それよりも。
生きて帰れるのか。
その考えが頭に浮かんだ時、俺は無意識に腰へ手を伸ばしていた。
剣の柄に触れる。
帰る。
その言葉だけが、妙に強く頭へ残った。
帰らなければならない。
シルフィのところへ。
パウロさんたちのところへ。
帰って、確かめなければならない。あの光が何だったのか。みんながどこへ行ったのか。俺だけがここにいる理由も、何もかも。
怖かった。
この先に何がいるのか分からない。ここから出られる保証もない。それでも、戻ったところで何も分からない。出口がどこにあるのかも分からない。なら、何かがある可能性のある場所へ進むしかない。
俺は剣の柄を強く握った。
そして、広い空間へ向かって一歩を踏み出した。
青白い炎が、俺の身体を照らしている。
その光の向こう側で、何かが動いた。
俺は足を止めた。
暗闇の中から、巨大な影がゆっくりと姿を現す。
四本の脚で床を踏みしめている。俺より遥かに大きな身体を、青黒い甲殻が隙間なく覆っている。まるで獣の身体へ鎧をそのまま被せたような姿だった。甲殻の隙間からは青白い炎が漏れ、その炎が呼吸するように揺れている。頭部には鋭い突起があり、その奥にある二つの目が、まっすぐ俺を見ていた。
俺は知らない魔物だった。
でも、これまでの連中とは違う。
理屈ではなく、本能がそう告げている。
こいつは強い。
魔物が低く身を沈めた。
口がゆっくりと開く。
その奥で、青白い炎が膨らんだ。
俺は剣を抜いた。
握った柄から伝わる感触を確かめるように、指へ力を込める。身体は疲れている。傷もある。それでも、まだ動ける。
なら、やるしかない。
俺は目の前の魔物を睨みながら、静かに息を吸った。
目の前に現れたのは、これまで見たことのない巨大な魔物──青燐の鎧獣だった。
四本の脚で石床を踏みしめ、その身体を覆う青黒い甲殻は、まるで獣そのものに分厚い鎧を着せたように見える。肩から背中、腹部に至るまで幾重にも重なった甲殻は、青白い炎の光を受けるたびに鈍く輝き、その隙間からは生き物の呼吸に合わせるように炎が漏れ出していた。頭部には鋭い角のような突起があり、こちらを見据える二つの眼だけが、炎の向こう側で異様なほど明瞭に浮かび上がっている。俺はその姿を見た瞬間、これまで通路で斬ってきた魔物とは明らかに格が違うことを理解した。理由を説明できるわけじゃない。ただ、身体の奥に残っていた疲労とは別のところで、本能が警告を発している。目の前にいるこいつは、これまでの連中のように適当に剣を振って倒せる相手じゃない。
鎧獣が低く唸った。
その巨体が沈み込む。
来る。
俺がそう判断した瞬間、床を踏み砕くような轟音とともに鎧獣が飛び出した。巨体からは想像もできない速度だった。真正面から迫ってくる身体を見て、俺は咄嗟に横へ跳ぶ。直後、さっきまで俺の頭があった場所を鋭い爪が通り過ぎ、その風圧だけで頬の皮膚が引っ張られた。背後から石が砕ける音が響く。俺は着地すると同時に身体を捻り、すれ違った鎧獣の側面へ向かって剣を振り抜いた。刃が甲殻へ食い込み、腕に硬い衝撃が返ってくる。確かに斬った。それでも傷は浅い。肉まで届いている感覚がほとんどなかった。
「……硬いな」
俺はそのまま追撃せず、距離を取った。
鎧獣が振り返る。
傷口から青白い炎が噴き出した。
俺は剣を構えたまま、その炎を睨む。あれはただの火じゃない。そう直感した。炎そのものが魔力を帯びている。しかも、俺が近づいた時や闘気を強く巡らせた時ほど、炎の勢いが増しているように見える。
確かめる必要がある。
そう思った直後、鎧獣が口を開いた。
青白い光が、その奥で膨らんだ。
「──っ!」
俺は横へ走る。
次の瞬間、炎が吐き出された。
巨大な火炎が床を舐めるように広がり、石畳を焼きながら俺へ迫ってくる。俺は走りながら
俺は炎が途切れた瞬間を狙って踏み込んだ。
闘気を全身へ巡らせる。脚へ力を集め、一気に距離を詰める。鎧獣の前脚が振り下ろされた。俺はその軌道から身体を外し、床を滑るようにして懐へ潜り込む。そのまま甲殻の隙間へ剣を突き込んだ。
刃が入る。
だが、次の瞬間だった。
突き込んだ場所から青白い炎が噴き出した。
「──くっ!」
俺は咄嗟に剣を引き抜き、後ろへ飛んだ。防壁が炎を受け止める。炎が弾け、青白い光が視界を覆った。熱気だけで顔が熱くなる。俺は距離を取ってから、もう一度鎧獣を見る。
やっぱりおかしい。
傷を負わせるほど炎が強くなる。
いや、それだけじゃない。
俺の闘気にも反応している。
鎧獣が再び動いた。今度は炎ではなく、直接こちらへ突っ込んでくる。俺は剣を構え、真正面から迎えた。爪を刃の腹で受け流し、二撃目を身体を沈めて避け、三撃目に合わせて胴体へ斬り込む。甲殻が削れる。だが、深くは入らない。鎧獣が身体を捻り、その勢いのまま尾のように後ろ脚を振り抜いてきた。俺は防壁を張って受け止めたが、衝撃で身体ごと吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
背中から床へ叩きつけられる。
息が詰まった。
起き上がろうとした瞬間、巨大な脚が目の前へ落ちてくる。俺は転がるようにして逃げ、その直後、石床が砕け散った。粉塵が舞い、青白い炎がその隙間から漏れ出してくる。俺は転がった勢いを利用して立ち上がり、息を整えながら剣を握り直した。
強い。
風狼とは違う。
あいつは速さと魔術でこちらを追い詰めてきた。こいつは、速さもあるが、それ以上に身体そのものが強い。まともに受ければ一撃で吹き飛ばされるし、甲殻は簡単には斬れない。その上で炎まで使う。
それでも、まだ勝ち目はある。
俺は鎧獣の動きを見た。
炎を吐く。
突進する。
爪を振る。
俺が近づけば炎が強くなる。
俺が闘気を強くすれば、炎がさらに強くなる。
なら──。
俺は一度、意識的に闘気を弱めた。
身体能力が落ちる。
同時に、鎧獣の身体から漏れていた炎も僅かに弱くなった。
「……やっぱり」
俺は小さく呟いた。
こいつの炎は、俺の闘気や魔力に反応している。
なら、あの炎を生み出しているものがあるはずだ。
俺は改めて鎧獣の身体を見る。頭部。首。前脚。背中。腹。甲殻の隙間から漏れる炎。その中でも、胸部だけは炎の揺らめき方が違った。他の場所よりも明滅が強く、まるで身体の内側から何かが脈打っているように見える。
胸。
あそこに何かある。
魔石かもしれない。
確信はない。
でも、他に狙う場所がないなら、そこへ賭けるしかなかった。
鎧獣が吠えた。
俺も剣を構える。
身体はもう重い。何度も闘気を使い、防壁を張り、魔物の攻撃を避け続けている。腕には疲労が溜まり、呼吸も最初より荒くなっている。それでも、まだ動ける。なら、次で決める。
鎧獣が走った。
俺も走る。
巨体と人間の身体が真正面からぶつかろうとしていた。
その直前、俺は全身へ巡らせていた闘気を意図的に切った。
身体が一気に重くなる。
速度も落ちる。
けれど、鎧獣の炎も同時に弱まった。
やはりそうだ。
俺はそのまま鎧獣の懐へ入り込む。胸部の甲殻、その僅かな隙間へ向かって剣を構えた。
あと少し。
刃を突き込む。
その瞬間、鎧獣の頭部がこちらを向いた。
口が開く。
青白い炎が見えた。
「──しまっ……!」
防壁魔法を展開する。
だが、遅い。
闘気を切ったことで身体の感覚が一瞬変わり、魔力を防壁へ回すまでに僅かな遅れが生じていた。その僅かな時間を、鎧獣は逃さなかった。
炎が俺の顔へ直撃する。
「────っ!!」
熱い。
痛い。
左側の顔面が一瞬で焼かれた。
額からこめかみ、左目の周囲へかけて皮膚が焼ける感覚が走り、あまりの痛みに視界が白く滲む。反射的に顔を背けたことで左目そのものへの直撃は避けられたらしい。見える。少なくとも目は動いている。けれど、確認している暇はなかった。
今、目の前に胸部がある。
俺は剣を握り直した。
「──だああああああぁぁぁ!」
刃を突き込む。
甲殻の隙間を抜け、奥へ入る。
硬い何かへぶつかった。
俺は構わず力を込めた。
次の瞬間、乾いた音が響いた。
──パキン。
何かが砕ける。
鎧獣の身体が大きく震えた。
俺は反射的に剣を引き抜き、後方へ飛び退く。
その直後だった。
鎧獣の身体中から、青白い炎が噴き出した。
「……っ!」
甲殻の隙間という隙間から炎が溢れ出している。先ほどまで俺へ向けられていた炎とは明らかに違う。今度は方向がない。制御されていない。ただ身体の内側から外へ向かって、無秩序に吹き出している。
俺は防壁を展開しながら距離を取った。
鎧獣が苦しそうに身体を振り回す。
そのたびに炎が周囲へ飛び散り、石床を焼き、壁を焦がしていく。
俺は自分が砕いたものを思い出した。
魔石。
やっぱり、そうだった。
あれがこいつの炎を制御していたんだ。
魔石が壊れたことで、炎を抑えられなくなった。しかも、この炎はこいつ自身の身体から生まれている。制御するものを失えば、その行き場は当然──。
「……自分の炎で、死ぬのかよ」
俺は防壁越しに鎧獣を見つめた。
鎧獣はまだ生きている。
けれど、もう俺へ攻撃してくる余裕はない。身体を包んだ炎がさらに膨れ上がり、青白い光が部屋全体を染めていく。俺はこれ以上近づくことができず、ただ距離を取るしかなかった。
やがて、その巨体が大きく揺れた。
四本の脚から力が抜ける。
鎧獣が崩れ落ちた。
青白い炎が徐々に弱まり、巨大な身体を覆っていた甲殻が、まるで内側から形を失っていくように淡い光の粒へ変わっていく。俺は剣を構えたまま、その場から動かなかった。まだ生きているかもしれない。魔物なんてものは、死んだように見えて最後の一撃を放ってくることだってある。だから、呼吸が落ち着いてくるまで、俺はただ鎧獣がいた場所を睨み続けた。
やがて最後の炎が消えた。
広い部屋に静寂が戻る。
そこには、焼け焦げた石床と僅かな灰だけが残されていた。
「……終わった、のか」
声に出してみても、実感が湧かなかった。
俺は剣を下ろした。
その瞬間、身体の奥に張り詰めていたものが一気に切れたような感覚がした。膝から力が抜けそうになる。腕が重い。肩が痛い。脚もまともに動かせる気がしない。左側の顔は焼けるように熱く、額からこめかみにかけて皮膚が引き攣っているような違和感がある。治癒魔術を使わなければ、このまま歩くことさえ難しいだろう。
それでも、俺は座らなかった。
ここがどこなのか分からない以上、戦いが終わったからといって安心できるわけじゃない。むしろ、今まで以上に危険な場所へ入っている可能性だってある。俺は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
そこで、鎧獣が立っていた場所のさらに奥へ目が入った。
さっきまでは巨大な身体に隠れていて見えなかった場所だった。壁が少しだけ奥へ入り込んでいて、そこに小さな空間がある。部屋と呼ぶほど広くはない。けれど、その奥には低い石の台が置かれていて、その上に何かがいくつか載っているのが見えた。
「……なんだ、あれ」
俺は警戒しながら近づいた。
一歩進むたびに身体が重く感じる。さっきまで戦闘中は気にならなかった傷が、今になって一気に自己主張を始めている。身体が「もう休め」と言っているのが分かる。それでも、あそこに何かあるという事実が気になった。
石の台まで辿り着く。
最初に目へ入ったのは、青白く透き通った結晶だった。
拳より遥かに大きい。
内部には細い光の筋がいくつも走っていて、近くにある青白い炎の光とは違う、澄んだ輝きを放っている。俺がこれまで見た魔石よりも明らかに大きく、魔力そのものが固まっているような印象を受けた。
「……魔力結晶?」
名前は、たぶんそういうものだと思う。
確信はない。
その隣には、一枚の紙切れが置かれていた。古びていて、端の部分は少し傷んでいる。けれど、中央には複雑な魔法陣らしきものが描かれていた。見覚えがある。ゼニスさんがシルフィに治癒魔術を教えていた時、紙切れにこんなの模様を書いていた。
そして、そのさらに横。
一振りの剣が置かれている。
俺は思わず目を止めた。
細身の刀身。
普通の剣よりも少し長い。
柄の部分は金色で、鍔にあたる部分には菱形の星を思わせる装飾が施されている。刀身は黒い。光を反射して銀色に輝くような普通の剣とは違い、青白い炎に照らされてもなお、その黒さを失わない。その刀身の中心には一本の筋が走っていて、そこには何かの模様が刻まれているらしく、そこだけが金色に淡く光っていた。
俺はしばらく、その剣から目を離せなかった。
「……これ」
知っている。
いや、正確には──似ている。
前世の記憶。
マギの中で、シャルルカンという男が使っていた剣。
あの剣と、あまりにもよく似ていた。
もちろん、同じものだとは思わない。そんなことがあるはずもない。ここは俺が知っている物語の世界ではないと思っているし、あの剣に特別な力があるとも限らない。それでも、細身で少し長い刀身、金色の柄、菱形の星のような装飾、黒い刀身、その中心で金色に輝く模様──記憶の中に残っている姿と重なって見えた。
俺は無意識に手を伸ばしていた。
柄を握る。
軽い。
いや、軽いというより、重心がいい。
手首を返して軽く振ってみると、刀身が僅かにしなった。柔らかいというわけではない。振り抜いた時に力を受け流すような感覚があり、すぐに元の形へ戻る。
魔力は感じない。
少なくとも、何か特別な力を持った魔法剣という感じではなかった。
ただ、丈夫そうだ。
今の俺には、それだけで十分だった。
俺は一度剣を鞘へ戻し、腰へ差した。
その直後、全身から力が抜けた。
もう限界だった。
立っていることすら辛い。
俺は石の台へ手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
「……まずいな」
視界が少し霞んでいる。
頭が上手く働かない。
さっきから何かを考えようとしているのに、その考えが途中で途切れてしまう。鎧獣との戦いで身体を酷使しすぎた。魔力も使った。何度も攻撃を受けた。顔まで焼かれた。
疲れた。
ただ、それだけだった。
ここがどこなのか。
どうして俺はここにいるのか。
シルフィはどうなったのか。
家族は無事なのか。
本当なら、今すぐ考えなければならないことが山ほどある。
けれど、考えようとすると頭の中が真っ白になる。
何も考えたくない。
いや、考える力が残っていない。
俺は紙切れへ目を向けた。
そこに描かれているものが何なのか、今の俺には明確に分からない。ただ、何かの魔術式だということだけは理解できる。そして見覚えもある。治癒魔術なら、今の俺には必要だ。
俺は紙を手に取った。
魔力を込める。
その瞬間、紙に描かれていた魔法陣が淡い緑色に輝いた。
光が広がり、俺の身体を包み込む。
「……あったかい」
その感覚に、またシルフィが浮かんだ。
何度も俺の傷を治してくれた。
転んだ時も、訓練で怪我をした時も、魔術の練習で失敗した時も。
いつも心配そうな顔をして、俺の傷へ手を当てていた。
「……シルフィによく掛けられてたな」
その言葉が口から出た瞬間、胸が苦しくなった。
俺は目を閉じた。
考えるな。
今は、考えなくていい。
緑色の光が身体を巡り、裂けた皮膚を塞いでいく。腕の傷が消える。脚の傷も塞がる。胸の痛みも徐々に引いていく。流れていた血も止まった。
けれど、左側の顔だけは完全には戻らなかった。
額からこめかみ、左目の周囲へかけて、焼けた跡が残っている。
左目そのものには異常がない。
見える。
それだけを確認すると、俺はもう考えることをやめた。
治療が終わった。
それだけで十分だった。
俺はしばらくその場で立ち尽くした。
何をするべきなのか。
分からない。
どこへ行けばいいのか。
分からない。
ただ、ここにいても何も始まらないことだけは分かっていた。
俺は石の台へ視線を戻した。
魔力結晶。
紙切れ。
そして、さっきの黒い剣。
俺は魔力結晶と紙を拾い上げた。
黒い剣も腰へ差した。
そして、ふと自分の腰を見る。
折れた剣が残っている。
パウロさんとゼニスさんが、俺の十歳の誕生日にくれた剣だ。
俺はその柄へ触れた。
刃は折れている。
もう武器として使うことはできない。
それでも、置いていく気にはなれなかった。
「……ごめんなさい」
誰に言うでもなく呟く。
俺は折れた剣をそのまま腰に残した。
新しい黒い剣と、折れた剣。
二本の剣が並んでいる。
片方は、これから先を生きるために必要なもの。
もう片方は、俺が帰る場所を忘れないためのもの。
その違いだけは、今の頭でも分かった。
俺は新しい剣の柄を握った。
そして、ふと前世の記憶を思い出す。
シャルルカンが使っていた剣。そして眷属器としての技。
あれによく似ている。
だから、名前を借りることにした。
「……
口にしてみる。
不思議と、しっくりきた。
俺は剣から手を離した。
そして、最後に部屋を見渡す。
鎧獣が消えた場所。
俺が通ってきた通路。
青白い炎。
そして、その奥に残された魔法陣。
床に刻まれた円形の模様が、いつの間にか淡く光を放っていた。
「……これ、魔法陣だよな」
俺は近づいて、その模様を見下ろした。
罠かもしれない。
そう思う。
けれど、ここに留まっていても仕方がない。
戻ったところで出口がある保証はない。食料もない。魔力も体力も削られている。さっきまで戦っていた魔物たちと、また戦わなければならない可能性だってある。
なら、進むしかない。
魔法陣が何なのかは分からない。
どこへ行くのかも分からない。
それでも、ここから出られる可能性があるなら──。
俺は魔法陣の中央へ足を踏み入れた。
足元から青白い光が広がる。
次の瞬間、視界が一気に白く染まった。
☆☆☆
光が消えた。
そう思った直後、頬を撫でる風を感じた。俺は反射的に目を開けたが、最初は何が起きているのか理解できなかった。視界いっぱいに広がっていたのは、さっきまでの石壁でも青白い炎でもない。頭上には幾重にも枝を伸ばした木々が重なり、その隙間から陽の光が細い筋になって降り注いでいる。足元には湿った土があり、踏みしめれば柔らかく沈みそうな苔と草がところどころに生えていた。鼻へ入ってくるのは、長い間閉ざされた場所に漂っていた埃や石の匂いではなく、湿った土と樹皮、それから葉が擦れる青臭い匂いだった。遠くでは鳥の鳴き声まで聞こえる。ほんの少し前まで、俺は石造りの部屋で巨大な魔物と殺し合っていたはずなのに、今は何事もなかったように森の中へ立っている。そのあまりにも急激な変化に、頭が現実へ追いついてこなかった。
「……なんだ、ここ」
声に出してみても答えは返ってこない。当然だ。周囲を見回しても人影はなく、見えるのは木々ばかりだった。俺はまず自分の身体を確かめた。腕を動かす。脚も動く。胸へ手を当てると呼吸も問題ない。左側の顔にはまだ焼けたような違和感が残っているが、さっき紙へ魔力を流したことで致命的な傷はほとんど治っているらしい。腰へ手を伸ばせば、拾った黒い剣がある。その隣には、刃の折れた剣も残っている。魔力結晶と紙切れも、ちゃんと持っていた。少なくとも、俺が持っていたものまで一緒に失ったわけではない。その事実を確認しただけで、ほんの僅かに安心した。
けれど、それ以上に大きな問題がある。
ここがどこなのか、まったく分からない。
俺は周囲を見渡しながら、さっきまでの出来事を頭の中で順番に並べようとした。シルフィと丘へ行った。光が見えた。村へ戻ろうとした。シルフィと走った。風翔を使わせるために手を離した。あいつが俺の名前を呼んだ。振り返った。手を伸ばした。そして、届かなかった。次に見えたのは白い光で、その後の記憶はない。そこから、あの迷宮のような場所で目を覚ました。魔物と戦い、最奥まで進み、鎧獣と戦った。最後には顔を焼かれて、それでも魔石を砕いて──。
そこまで思い出したところで、俺は考えるのをやめた。
頭が重い。
思い出そうとするほど、シルフィの最後の顔が鮮明になる。手を伸ばしていた。俺へ向かって、何かを訴えるような顔をしていた。あの時、あと少しで手が届いた。俺がもう少し速ければ。俺がもう少し早く振り返っていれば。そんな考えが浮かび始めると、身体の奥から嫌なものが込み上げてくる。
俺は強く目を閉じた。
「……今は、いい」
考えるのは後だ。
それよりも、ここがどこなのかを確認しなければならない。
俺は木々の向こうを見ようとした。しかし、地上からでは視界がほとんど利かない。木々が密集しているせいで、少し先に何があるのかすら分からない。ここが安全な場所なのか、それとも別の危険な場所なのかも判断できない以上、周囲を確認する必要がある。俺は近くの木を見上げた。幹は太く、枝もしっかりしている。これなら登れる。
俺は脚へ闘気を集めた。
身体が軽くなる。
幹を蹴り、一気に上へ跳ぶ。太い枝へ手を掛け、そのままさらに上へ登っていく。葉が顔へ当たる。枝が服へ引っかかる。それでも構わず進み、ある程度の高さまで登ったところで、俺は木の幹を蹴ってさらに上へ跳んだ。
空中へ身体が投げ出される。
その一瞬だけ、森全体が見えた。
想像していた以上に広い。
木々が地平線近くまで続いている。その向こう側に、森とは明らかに違う人工物の集まりが見えた。白っぽい壁。高い建物。規則正しく並んだ屋根。そして、その周囲を囲むように築かれた巨大な城壁。
街だ。
俺は着地すると同時に、もう一度その方向を確認した。
「……人がいる」
それだけで、胸の奥に僅かな光が差した。
人がいるなら、話を聞ける。
ここがどこなのか分かるかもしれない。
あの光について知っている人がいるかもしれない。
シルフィのことを知っている人がいるかもしれない。
パウロさんたちのことだって──。
そこまで考えて、俺は一度言葉を止めた。
まだ、何も分からない。
だからこそ、まず街へ行く。
俺は木から飛び降り、着地と同時に脚へ闘気を集めた。地面を蹴る。身体が前へ滑る。疲労は残っている。それでも、さっきの戦いで限界まで動かした身体が、まだ走ることを拒んではいなかった。
森の中を走る。
木々の間を抜け、根を飛び越え、時には枝を手で払いながら進む。何度か魔物の気配を探ったが、今のところ近くに敵はいない。俺はそれを確認するたびに速度を上げた。走れば走るほど、さっきまでの迷宮が遠ざかっていくような気がした。けれど、頭の中にある疑問は一つも消えていない。
むしろ、街が近づくにつれて焦りが増していく。
あの街には何がある。
誰がいる。
俺が知っている場所なのか。
それとも、まったく知らない土地なのか。
もし、俺が思っているより遠くへ飛ばされていたら?
もしシルフィが別の場所にいるなら?
もし──。
「……生きてる」
俺は走りながら呟いた。
自分へ言い聞かせるように、もう一度繰り返す。
「みんな、生きてる」
今はそう考えるしかない。
森を抜けた先に見えた街は、ルークが知っているどの街よりも大きかった。
木々の隙間から覗いていた時には、ただ高い外壁がある程度にしか思わなかった。それでも近づいてみれば、その壁が自分の想像より遥かに大きく、何人もの人間が行き交う門の周囲には荷馬車が並び、商人らしき男達が声を張り上げ、旅人や冒険者と思しき者達がそれぞれの目的を持って出入りしている。どこへ行けばいいのかも分からないまま走ってきたルークにとって、その光景はあまりにも普通だった。世界は何事もなかったように動いている。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが荷物を運び、誰かが今日の仕事について話している。その当たり前の光景が、今のルークには妙に遠く感じられた。
自分だけが、昨日までいた場所から切り離されている。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。
あの光が何だったのかを知りたい。シルフィがどこへ行ったのかを知りたい。パウロ達が無事なのかを知りたい。何より、ここがどこなのかを知らなければならない。ルークはそう考えながら街へ向かって走った。身体にはまだ疲労が残っていたし、左側の顔には額から目の周辺にかけて焼けた跡が残っている。紙に込められていた治癒魔術のおかげで傷口そのものは塞がっていたが、皮膚が引き攣る感覚は消えていない。汗が傷に触れるたびにじわりとした痛みが走り、焼けた部分が熱を持っているような錯覚まである。それでも、そんなものを気にしている余裕はなかった。
門へ近づいたところで、前方を歩いていた男がこちらを振り返った。
男は一度、ルークの姿を見た。
そして、もう一度見た。
その視線が、髪へ向かう。
緑色の髪。
次に顔へ移る。
額から左目の周辺へ残った火傷の跡。
それから、血と泥に汚れた服と、腰に差された剣。
男の足が止まった。
ほんの一瞬だったが、その表情には明らかな警戒が浮かんでいた。
「……」
ルークも、その視線を見ていた。
何を考えているのかは分かる。
いや、分かってしまう。
緑色の髪をした子供が、魔物の血で服を汚し、顔には大きな火傷の跡を残し、折れた剣を腰に下げて一人で歩いている。
普通に考えれば、警戒されても仕方がない。
だが、それでも胸の奥に小さな痛みが生まれた。
昔なら、もっと腹が立っていた。
自分が何をしたわけでもないのに、髪の色だけで人間ではないものを見るような目を向けられることが嫌だった。自分の意思とは関係なく背負わされたものを、何度も他人から値踏みされるのが嫌だった。
けれど、ブエナ村では違った。
パウロは最初こそ驚いたものの、それ以上何も言わなかった。ゼニスは当たり前のように食事を用意してくれた。リーリャも同じだった。ノルンやアイシャだって、ルークの髪を理由に怖がったりはしなかった。そしてシルフィは──同じ緑色の髪を持つ自分のことを、誰よりも近いところから見てくれていた。
だから、いつの間にか忘れていた。
自分の髪を見ただけで、怯える人間がいることを。
門へ近づくにつれて、視線が増えていく。
「……緑髪?」
「おい、あれ……」
「魔族じゃないのか?」
「いや、子供だぞ」
「でも、あの髪……」
「顔の傷も……」
囁き声が聞こえる。
ルークは聞こえないふりをした。
本当なら言い返したい。
俺は魔族じゃない。
ただの人間だ。
何も悪いことなんてしていない。
そう言ってやりたかった。
けれど、今はそれよりも知りたいことがあった。
家族のこと。
そのことだけが、頭の中に残っていた。
「止まれ」
門番の声が飛んできた。
ルークは素直に足を止める。
門番が二人、こちらを見ていた。二人とも武器を身につけている。一人はルークの髪を見て、もう一人は顔の火傷へ視線を移した。その目には、子供を心配するような色よりも先に、何者なのかを見極めようとする警戒があった。
「何者だ?」
「……ルークです」
「どこから来た?」
「フィットア領です」
その言葉を聞いた瞬間、二人の表情が変わった。
「フィットア領?」
「……はい」
「フィットア領の、どこだ?」
「ブエナ村です」
「一人で来たのか?」
「……」
答えられなかった。
一人。
その言葉が、喉に引っかかった。
自分は一人なのだろうか。
少なくとも今、ここにいるのは自分一人だ。
でも、だからといって、みんながいなくなったわけではない。
シルフィも、パウロも、ゼニスも、リーリャも、ノルンも、アイシャも、どこかにいるはずだ。
「……何があった?」
門番が尋ねる。
ルークは口を開きかけて、それから閉じた。
何があったのか。
それを説明できる言葉がない。
光が落ちてきた。
シルフィが目の前から消えた。
自分も白い光に呑まれた。
気がついたら知らない場所にいた。
魔物に襲われた。
そんな話をしたところで、誰が信じる?
「……分かりません」
結局、それしか言えなかった。
「俺にも、何が起きたのか分からないんです」
門番は黙ってルークを見る。
「ただ、フィットア領で何かが起きた。それだけは確かです」
しばらくの沈黙の後、門番は警戒を解かないまま言った。
「……街の中で騒ぎを起こすな。それだけ守れ」
「ありがとうございます」
ルークは頭を下げて、門を抜けた。
その瞬間、また視線が集まった。
街の中にいる人間達も、ルークを見る。
緑色の髪。
傷だらけの服。
左目周辺の火傷。
腰に差された剣。
しかも十歳程度の子供が一人。
視線は一瞬で終わるものもあれば、いつまでも背中に張り付いてくるものもあった。母親らしき女が自分の子供をさりげなく自分の側へ寄せるのが見えた。若い男達は小声で何かを話しながら、こちらをちらちらと窺っている。老人の中には、緑色の髪を見ただけで顔をしかめる者までいた。
「……」
ルークは、その全てを感じていた。
嫌だった。
怖がられるのは、やっぱり嫌だった。
怪しまれるのも嫌だった。
けれど、それ以上に嫌なのは──。
そんなことを気にしている自分だった。
こんな状況で、どうしてそんなことを気にしている?
今、自分が考えるべきなのは家族のことだ。
だから前だけを見る。
足を止めない。
一人でも多くの人間に聞く。
何かを知っている人間を探す。
そのためなら、多少怪しまれたって構わない。
「すみません」
道端にいた男へ声をかける。
男は一瞬身構えた。
「……何だ?」
「この街で、一番情報が集まる場所を知りませんか?」
「情報?」
「はい。フィットア領で何があったのか知りたいんです。最近、大きな事件が起きていないか。人が大勢いなくなったとか……」
男の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……フィットア領?」
「はい」
男はしばらくルークを見つめ、それから街の奥を指差した。
「冒険者ギルドへ行け。あそこなら、そういう話も集まる」
「冒険者ギルド……」
「大通りを進めば分かる」
「ありがとうございます」
ルークは再び歩き出した。
冒険者ギルド。
その言葉だけで、僅かに胸が軽くなる。
そこなら何か分かるかもしれない。
もしかしたら、フィットア領から来た人間がいるかもしれない。
もしかしたら、ブエナ村の誰かが。
もしかしたら──。
「シルフィも……」
口に出しかけて、飲み込む。
生きている。
そうだ。
生きている。
そう信じる。
信じなければならない。
だって、死んだ証拠なんてどこにもない。
そう考えながら歩いていたはずなのに、胸の奥にはずっと別の考えがあった。
──もし、死んでいたら。
考えた瞬間、心臓が強く締め付けられた。
「……違う」
ルークは小さく首を振った。
「生きてる」
声に出してしまう。
通り過ぎる人間が怪訝そうにこちらを見る。
そんなことはどうでもいい。
「みんな生きてる」
もう一度。
「絶対に、生きてる」
自分に言い聞かせる。
けれど、言葉を重ねるほど、それが自分自身を説得するための言葉になっていることに気づいてしまう。
本当に信じているなら、こんなに何度も言い聞かせる必要なんてない。
それでも、そうするしかなかった。
死んでいるかもしれない。
その考えを一度でも認めてしまえば、足が止まる気がした。
シルフィが死んでいたら。
パウロが死んでいたら。
ゼニスが死んでいたら。
リーリャが。
ノルンが。
アイシャが。
考えたくない。
考えてはいけない。
でも、考えてしまう。
そして一度浮かんだ想像は、頭から追い出そうとするほど鮮明になっていく。
誰もいない食卓。
朝になっても誰も起きてこない家。
いつもなら聞こえるゼニスの声も、リーリャの足音もない。
パウロが木剣を持って庭へ出てくることもない。
そして、シルフィが──。
「……」
そこで思考を止める。
止めなければならなかった。
今はまだ、生きている。
生きている可能性がある。
なら、自分がやるべきことは一つだ。
探す。
探して、見つける。
それだけだ。
冒険者ギルドへ入った瞬間、再び空気が変わった。
中にいた冒険者達の視線が、一斉にルークへ集まる。
「……ガキ?」
「何でこんなところに……」
「おい、見ろ。髪」
「緑だぞ」
「……マジかよ」
「魔族じゃねぇのか?」
「顔も酷いな」
「どこから来た?」
今度は、さっきより露骨だった。
一人の冒険者が、椅子に座ったままルークを睨んでいる。別の男は、ルークの腰にある剣へ視線を落とし、何かを警戒するように眉を寄せた。受付の方でも何人かがこちらを見ている。
「ガキが来る場所じゃねぇぞ」
「……」
ルークは返事をしなかった。
「聞いてんのか?」
それでも歩く。
今は、相手をする気力がなかった。
「おい!」
声が飛んでくる。
それでも止まらない。
視線の先に、大きな掲示板が見えたからだ。
依頼書が大量に貼られている。
討伐。
護衛。
採取。
捜索。
その中に──フィットア領に関する何かがあるかもしれない。
ルークは掲示板へ近づき、端から文字を追っていった。
一枚。
二枚。
三枚。
どれも違う。
そして中央付近。
周囲の依頼書よりも明らかに大きな紙が貼られていた。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、ルークの足が止まった。
『フィットア領転移事件』
その下には、さらに大きな文字。
『フィットア領消滅』
「……」
息が止まる。
目が、そこから動かなくなった。
紙には事件についての情報が記されている。
大規模な転移現象。
フィットア領全域。
多数の行方不明者および死傷者。
捜索隊が派遣されているが、捜索は難航。
生存者の確認は進まず。
行方不明者の所在も不明。
連絡は途絶。
ルークは、書かれている文字を一つずつ追った。
転移。
消滅。
行方不明。
死傷者。
捜索。
難航。
その中で、何度も目が止まったのは──。
行方不明。
「……」
死んだとは書いていない。
ルークの中に、ほんの僅かな光が差した。
「……行方不明」
もう一度読む。
「……生きてる可能性は、ある」
それだけでいい。
それだけあれば、まだ動ける。
シルフィは行方不明だ。
パウロも。
ゼニスも。
リーリャも。
ノルンも。
アイシャも。
死んだとは書かれていない。
なら、探せばいい。
どこにいるか分からないだけなら、見つければいい。
そう思った。
本当にそう思った。
なのに。
そのすぐ隣にある「フィットア領消滅」という文字が、何度目を逸らしても視界へ入ってくる。
消滅。
自分の家がある場所。
自分が帰る場所。
自分が初めて「ここにいていい」と思えた場所。
それが、消滅した。
「……」
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
もちろん、領地そのものが消えたからといって、そこにいた人間まで死んだとは限らない。
それは頭では分かっている。
むしろ、転移なら自分自身がその証拠だ。
自分もあの光に呑まれた。
自分は生きている。
なら、シルフィだって生きているかもしれない。
パウロ達だって。
だから大丈夫だ。
大丈夫なはずだ。
そう考える。
そう考えている。
それなのに、心の底から湧いてくるものだけは止められなかった。
──でも、もし。
もし自分だけだったら?
もしシルフィが消えた場所が、死ぬ場所だったら?
もしパウロ達も、あの光の中で──。
「……やめろ」
声が漏れた。
自分で自分を止める。
「考えるな……」
けれど、一度浮かんだ想像は消えなかった。
むしろ、考えないようにするほど鮮明になる。
シルフィの顔。
最後に伸ばされた手。
自分へ向けられた声。
あと少しだった。
あと少し手を伸ばせば届いた。
それなのに届かなかった。
唇が震える。
目の前の文字が滲んだ。
瞬きをする。
それでも滲みは消えない。
「……生きてる」
自分に言い聞かせる。
「探せばいい」
それは希望だった。
同時に、祈りでもあった。
そして──自分の心が壊れないようにするための、最後の言い訳でもあった。
周囲では、相変わらずルークへ向けられる視線が飛び交っている。
緑色の髪を恐れる視線。
火傷の痕を見て警戒する視線。
何者なのかと疑う視線。
誰かが「あの髪は危ない」と囁いている。
別の誰かが「フィットアから来たらしい」と話している。
けれど、もうルークにはほとんど届かなかった。
自分が怪物に見えるなら、それでいい。
怖い人間に見えるなら、それでもいい。
嫌われても構わない。
今の自分には、そんなことより大切なものがある。
──帰る。
そのために、探す。
シルフィを。
家族を。
みんなを。
そう決めた。
決めたはずなのに。
胸の奥には、ずっと同じ問いが残っている。
もし、帰る場所そのものがなくなっていたら?
その問いだけが、どうしても消えなかった。
ルークは掲示板の前から動けないまま、何度も「生きている」と心の中で繰り返した。
信じている。
本当に、生きていると思っている。
けれど同時に、心のどこかではもう、みんなを失った後の世界を想像してしまっている。
それが怖かった。
悲しいからではない。
まだ何も確定していないのに、自分の心だけが先に「死」を受け入れようとしていることが、何よりも怖かった。
生きていると信じている自分と、死んでいるかもしれないと怯えている自分。
その二つが胸の中で互いを否定し続けて、どちらにも完全には傾けないまま、ルークはただ立ち尽くしていた。
オリジナルです。
青燐の鎧獣(アズールメイル)
迷宮最深部を守る大型の四足魔獣。
青黒い頑丈な甲殻に覆われ、隙間から青白い炎が漏れている。炎は闘気や魔力に反応し、力を込めるほど激しく燃える。巨体に似合わず動きが速く、爪・牙・突進すべてが危険。体内にある魔力結晶が炎を制御している。結晶を壊された鎧獣は炎を制御できなくなり、自らの炎に呑まれて消滅する。
ルークは転移で迷宮の最深部まで飛ばされました。