迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
掲示板の前から離れても、そこに書かれていた文字だけが頭の中に残り続けていた。
冒険者ギルドの扉を押し開けて外へ出ると、夕方へ向かいつつある街には、相変わらず人の営みが満ちていた。通りを行き交う商人が客を呼び、荷を積んだ馬車が石畳の上を軋みながら進み、店先では焼いた肉の香ばしい匂いが風に乗って流れている。少し離れた場所では母親らしい女性が子供の手を引きながら歩いていて、子供は何かを見つけたのか、嬉しそうに母親へ向かって声を上げていた。その光景を見ながら、俺は不思議な気分になった。世界は何も変わっていない。俺の周囲では誰もが昨日までと同じように暮らし、今日を終えれば明日が来ることを疑っていない。けれど、俺にとっては昨日までの世界そのものが、もうどこにも存在しないかもしれないのだ。
掲示板に貼られていた紙には、簡潔な言葉で事件の概要が記されていた。
フィットア領転移事件。
大規模な転移現象。
多数の行方不明者および死傷者。
捜索隊は派遣されているものの、捜索は難航。
そして、その下に記されていた。
フィットア領消滅。
その四文字が、どうしても現実のものとして頭へ入ってこなかった。
消滅という言葉の意味は分かる。領地が丸ごと消えたという意味なのだろう。俺自身が転移現象を経験している以上、そんな馬鹿げた話が本当に起きることも理解できる。それでも、あの文字列と、自分の知っているフィットア領の風景がどうしても結びつかなかった。ブエナの村へ続く道。家々の間を抜ける風。グレイラット家の庭。朝になると聞こえてくるパウロさんの声。ゼニスさんの笑い声。リーリャさんが静かに歩く音。ノルンやアイシャが家の中を走り回る気配。そして、昼になれば丘へ向かい、木陰に座って魔術の話をしていたシルフィ。
あれが全部、消えた。
そう言われても、俺には信じられない。
そもそも俺は、あの日に死んだはずの人間ではない。俺自身が光に呑まれ、知らない迷宮の奥へ飛ばされ、それでも生きてここまで辿り着いた。ならば、同じことが他の人間にも起きている可能性がある。あの紙に書かれていたのは「全員死亡」ではない。多数の行方不明者がいると書かれていた。
俺は、その一言に縋った。
行方不明なら、まだ見つかっていないだけだ。
俺のように、どこか知らない場所へ飛ばされた人間がいるかもしれない。
そう考えることができるなら、まだ動ける。
パウロさんも。
ゼニスさんも。
リーリャさんも。
ノルンもアイシャも。
そして──シルフィも。
俺はギルドの建物を振り返った。あの掲示板の向こうには、俺が探している答えがあるのかもしれない。あるいは、何もないのかもしれない。それでも、ここで立ち止まっている理由はなかった。
「……探さないとな」
呟いた声は、街の喧騒に簡単に紛れた。
俺は歩き出した。
まずは、自分がどこにいるのかを知らなければならない。
それから、フィットア領へ帰る道を探す。
金が必要なら稼ぐ。情報が必要なら集める。時間が掛かるなら、時間を掛ける。
そうすればいい。
それだけの話だと思っていた。
自分のいる場所を把握するまでには、思っていた以上に時間が掛かった。
迷宮から抜け出したばかりの俺には、今いる土地の名前すら分からなかった。周囲の人間から聞く地名には聞き覚えのないものが多く、地図を広げても、自分が知っている地域より知らない地域の方が圧倒的に多い。幸いだったのは、冒険者ギルドという場所が単なる仕事の斡旋所ではなく、人間や情報が集まる場所だったことだ。依頼を受ければ別の土地へ行けるし、護衛なら商人と長い時間を過ごせる。採取なら村や町へ立ち寄ることになる。冒険者たちは酒場で自分が見てきた土地の話をするし、受付の人間なら街道や周辺地域の情報をある程度把握している。
俺は、そうした人間たちから少しずつ情報を集めた。
そして、ようやく分かった。
俺がいるのは、王竜王国の近辺らしい。
フィットア領からは、かなり離れている。
その距離を地図の上で確認した時、指先が止まった。
これだけ離れているのか。
ロアからブエナ村へ帰る道でさえ、それなりに時間が掛かった。けれど、あの時は帰る場所が分かっていた。道も知っていたし、パウロさんたちが待っているという確信もあった。どれだけ歩いても、最後には見慣れた家へ帰ることができる。あの感覚があったから、長い道のりも苦にはならなかった。
今は違う。
帰る場所があるのかすら分からない。
地図に描かれた距離そのものよりも、その事実の方が重かった。
それでも、俺は地図を閉じた。
帰る場所が分からないなら、探せばいい。
そのためには、金も情報も必要になる。
なら、冒険者として働きながら探せばいい。
それが俺にできる、唯一のことだった。
最初の頃の俺は、かなり目的を明確にしていた。
依頼を受ける時には、なるべく遠くへ行けるものを選んだ。商隊の護衛なら、道中で商人に話を聞くことができる。採取や討伐なら、目的地の村や町で住人から情報を集められる。ギルドへ戻れば、別の冒険者から話を聞ける。
「フィットア領から来た人間を知りませんか?」
「転移事件に巻き込まれた人間について、何か聞いたことは?」
「ブエナ村という村を知っていますか?」
何度も同じ質問をした。
返ってくる答えは、ほとんど同じだった。
知らない。
聞いたことがない。
そんな人間はいない。
時々、「フィットア領から飛ばされた人間がいたらしい」という噂が見つかることもあった。そういう時には、その人物がどこへ行ったのか、誰が見たのか、どこで保護されたのかまで聞き込んだ。けれど、実際に追ってみれば別の事件だったり、単なる噂だったりして、手元に残るのは曖昧な情報ばかりだった。
それでも、最初の一週間ほどは苦にならなかった。
何も分からないのは当然だと思っていたからだ。
事件が起きてから、まだそれほど時間が経っていない。世界は広い。フィットア領にいた人間がどこへ飛ばされたのかも分からない。なら、一人や二人に聞いただけで何か分かる方がおかしい。
そう自分に言い聞かせながら、俺は毎日動いた。
朝になればギルドへ行き、依頼を受ける。
街を出る。
魔物を倒す。
人に話を聞く。
街へ戻る。
そして、また別の場所へ行く。
それを繰り返した。
昼間は、それでよかった。
問題は夜だった。
宿へ戻り、剣を外して壁へ立て掛ける。荷物を置き、簡単に食事を済ませ、ベッドへ横になる。そうすると、昼間まで忙しさの中へ押し込めていたものが、静かになった頭の隙間から少しずつ浮かび上がってくる。
最初に思い出すのは、いつも丘だった。
春の風。
草の匂い。
隣に座るシルフィ。
魔術について話しているうちに、いつの間にか日が傾いていることもあった。俺が剣の話をすれば、シルフィは魔術の話をする。どちらかが疲れれば木陰で休み、どうでもいい話をして笑う。あの時間を、俺は特別なものだとは思っていなかった。少なくとも、当時はそうだった。明日も丘へ行けばいい。明後日も行けばいい。そんなふうに、そこにあることを疑わなかった。
だからこそ、最後の光景だけが何度も頭の中へ戻ってきた。
異常な光が近づいてきて、俺たちは村へ戻ろうとしていた。俺はシルフィの手を引いて走り、少しでも早く家へ知らせようとしていた。けれど途中で彼女が立ち止まり、俺を呼んだ。振り返った時に見えたのは、怯えた顔と、こちらへ向かって伸ばされた手だった。
俺も手を伸ばした。
届くと思った。
指先が触れる、その直前までそう思っていた。
けれど、光が間に入り込んだ。
それから先は、何度思い出しても同じだった。
俺は目を閉じた。
シルフィの声が、耳の奥に残っている気がする。
──ルーク。
目を開けても、そこに彼女はいない。
知らない宿の天井があるだけだ。
その瞬間、胸の奥に空いた穴を思い知らされる。
俺は何度か寝返りを打った。
眠れない。
頭では「明日も探す」と考えているのに、心はあの日の場所から一歩も進めていなかった。
それでも朝になれば、俺は剣を腰へ差した。
戦っている間だけは、余計なことを考えなくて済んだからだ。
俺の戦い方には、魔術師のような遠距離攻撃という選択肢がない。
そういう戦いを、俺は子供の頃から続けてきた。
パウロさんから教わった基本に、自分で身につけた受け流しの技術を重ね、剣神流、水神流、北神流の基礎を取り入れていく。相手の力を正面から押し返すのではなく、刃を沿わせて軌道を逸らし、相手の身体が崩れた瞬間に一歩だけ踏み込む。細く長い刀身を大きく振り回すのではなく、ほんの僅かな隙へ滑らせる。一撃にすべてを込めるというより、相手の弱点へ最短の線を通す。
流閃剣。
その剣を振っている時だけは、自分の頭の中に余計なものが入り込まなかった。
目の前の敵がどこを見るか。
足がどちらを向いているか。
肩が動いたか。
次に来る攻撃は何か。
そういうものだけを考えていればいい。
だから、俺は依頼を増やしていった。
最初は情報を得るためだった。
やがて、それ以外の理由も混ざっていった。
何かをしている間は、考えなくて済む。
そのことを知ってしまった。
二週間ほど経った頃、一人の冒険者からフィットア領の話を聞いた。
その男は転移事件の後、一度フィットア領へ向かったことがあるという。家族を探している人間を手伝うためだったらしい。
その話を聞いた瞬間、俺は自然と男の近くへ移動していた。
「フィットア領へ行ったんですか?」
「ああ」
「何か見ましたか?」
自分でも気付かないうちに、質問が早くなっていた。
「生存者は?」
「いや……」
「転移した人間について何か──」
男は少し困ったような顔をした。
それでも、知っていることを話してくれた。
フィットア領の外れにある村へ行った。
けれど、そこには人がいなかった。
建物もほとんど残っていなかった。
村そのものが消えてしまったようだった。
俺は村の名前を聞いた。
場所を聞いた。
そして、知っている場所だと分かった。
ブエナ村へ向かう道の途中にある。
その瞬間、頭の中で何かが切れた。
俺は男に礼を言い、その場を離れた。
外へ出る。
人通りの多い通りを歩く。
周囲では人々がいつも通り生活している。
誰かが笑っている。
誰かが店の品物を選んでいる。
誰かが家族と歩いている。
その光景を見ているうちに、胸の奥に押し込めていたものが耐えられなくなった。
俺は人の少ない路地へ入り、壁へ手をついた。
そして、吐いた。
胃の中のものを吐き出しても吐き気は収まらず、何度も咳き込みながら、その場にしゃがみ込んだ。冷たい汗が額から流れ、喉は焼けるように痛い。身体が勝手に震えているのが分かった。
ブエナも消えたのかもしれない。
その考えが頭から離れない。
あの家も。
俺の部屋も。
パウロさんが剣を教えてくれた場所も。
ゼニスさんが食事を用意してくれた食卓も。
リーリャさんが毎朝タオルを用意してくれたことも。
ノルンとアイシャが騒いでいたことも。
そして、丘でシルフィと過ごした時間も。
全部が、もう存在しないのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が押し潰されるようだった。
俺はしばらく動けなかった。
けれど、頭の中に残っていた言葉が、かろうじて俺を引き戻した。
行方不明。
「……まだ、分からない」
掠れた声が出る。
「まだ分からないだろ……」
ブエナが消えたとは限らない。
仮にブエナが消えていたとしても、そこにいた人間まで死んだとは限らない。
俺自身が生きている。
だったら、みんなも。
俺は何度も息を吸い、震える脚へ力を入れた。
「……生きてる」
誰もいない路地で、そう言った。
「みんな、生きてる」
そう思わなければ、立ち上がれなかった。
俺は服の汚れを払い、ギルドへ戻った。
その日の依頼を受けた。
翌日も。
その翌日も。
三週目に入った頃には、一日の記憶が以前ほど鮮明ではなくなっていた。
どの街で何を食べたのか。
どの宿へ泊まったのか。
どの魔物を何体倒したのか。
そういうことは、依頼が終われば少しずつ頭の中から抜けていった。それでも、フィットア領について何か聞いたかどうかだけは覚えていた。そして、その答えはいつも同じだった。
何もない。
また何もない。
それでも次へ行く。
俺はいつの間にか、危険度の高い依頼も受けるようになっていた。
以前なら、依頼書に書かれた魔物の種類や数を確認し、自分の実力で安全に対処できるかを考えてから受けていた。今では、報酬と目的地を見る。遠くへ行けるなら受ける。人が集まる場所へ行けるなら受ける。フィットア領の情報を持っていそうな人間と会える可能性があるなら、多少危険でも受ける。
怪我をすることも増えた。
腕を切られれば布を巻く。
肩を打たれれば、痛みが引くまで動きを変える。
脚を傷めれば、その日は無理をしない。
治癒魔術は使えない。
だから、本来ならもっと慎重にならなければいけない。それは頭では分かっていた。けれど、「怪我をしたくない」という感覚が、以前より薄くなっていた。
痛い。
怖い。
死ぬのも嫌だ。
それでも、動けるなら動く。
剣を握れるなら握る。
家族を探すために必要なら、多少の傷は構わない。
そう考えるようになっていた。
死ぬつもりはなかった。
死ねば、探せなくなる。
それだけは分かっていた。
だから、生きることは諦めていない。
ただ、生きるために避けていたはずの危険が、少しずつ「受け入れてもいいもの」へ変わっていった。
俺はその変化を、自分でもはっきりとは認識していなかった。
一か月ほどが経とうとしていた頃、ギルドの掲示板に一枚の依頼書が貼られていた。
紛争地帯での傭兵募集。
俺は紙を眺めながら、しばらく動かなかった。
危険度は高い。
前線へ送られる可能性もある。
けれど、その地域には様々な場所から人間が集まる。兵士、傭兵、冒険者、商人、そして戦火から逃げてきた人間。フィットア領から転移した人間について何か知っている者がいる可能性は、これまで俺が訪れた小さな街より高いかもしれない。
それに、最近の俺は「危険だから」という理由だけで依頼を諦めることがなくなっていた。
それが良いことなのか悪いことなのか、考えようとはしなかった。
考えたところで、答えは出ない。
依頼書を剥がし、受付へ持っていく。
「これを受けます」
受付の人間が依頼書へ目を落としてから、俺を見る。
「紛争地帯ですよ。前線へ回される可能性もありますが……」
「分かっています」
返事は、自分でも驚くほど平坦だった。
俺は手続きを済ませ、荷物をまとめた。
そして、紛争地帯へ向かった。
そこは、これまで訪れた場所とは空気そのものが違っていた。
土には無数の足跡が刻まれ、ところどころに乾いた血が黒く染み付いている。遠くから怒号が聞こえ、森の向こうでは魔術が炸裂するたびに白や赤の光が瞬き、そのたびに遅れて地面が低く震えた。負傷者を運ぶ者と前線へ向かう者が入り乱れ、誰かが倒れても、その場で立ち止まっている余裕など誰にもないらしい。死者がいる。そのすぐ横を、生きている人間が武器を握って通り過ぎていく。
俺はその光景を眺めながら、奇妙なほど落ち着いていた。
恐怖がないわけではない。
ただ、ここでは誰も俺のことを知らない。
俺がどこから来たのかも。
誰と暮らしていたのかも。
何を失ったのかも。
誰も知らない。
それが、少しだけ楽だった。
「前線へ行け」
指示を受け、俺は頷いた。
「分かりました」
腰の剣へ手を置き、戦場へ足を踏み入れる。
そこから先は、余計なことを考えずに済んだ。
正面から敵が来れば、相手の肩と足を見る。剣が振り下ろされるより先に重心の移動を読み、身体を半歩だけ外へ流しながら刀身を合わせる。力を真正面から受け止めるのではなく、相手の刃をこちらの刃へ沿わせ、その軌道を僅かに逸らす。相手の身体が前へ流れたところへ一歩入り、長い刀身を防御の隙間へ滑らせる。大きく振る必要はない。ほんの一線でいい。斬撃を終えた瞬間には、もう次の敵へ意識を移している。
別方向から攻撃が飛んでくれば、防壁魔法を展開する。
魔力が削れる。
だから長くは使わない。
防壁が攻撃を受け止めた一瞬だけ時間を作り、その隙に距離を詰める。防壁を消して剣へ意識を戻し、相手の動きを読む。
俺には攻撃魔術がない。
治癒魔術もない。
だからこそ、剣で戦い続けるしかない。
けれど、それは不自由には感じなかった。
むしろ、剣を振っている間だけは、俺の世界が単純になる。
目の前の敵。
自分の身体。
剣。
魔力。
そして、生き残るための判断。
それだけを考えればいい。
だから、俺は戦った。
しばらく前線を進んだところで、森の奥に人影が見えた。
敵兵かと思った。
けれど、すぐに違和感に気付いた。
二人いる。
一人は男で、もう一人は女だった。服装がこの場所にいる人間とはあまりにも違っている。戦場を歩くための装備ではなく、武器も見当たらない。男は女を背後へ隠すように立ち、女は怯えた表情で周囲を見回している。
そして、その二人へ向かって敵兵が近づいていた。
俺は考えるより先に走っていた。
闘気を身体へ巡らせると、足元の感覚が一気に軽くなる。木々の間を抜け、最初の敵がこちらへ気付いた時には、すでに間合いへ入っていた。振り下ろされた剣を刀身で受け、そのまま力を横へ逃がす。相手の体勢が崩れたところへ踏み込み、長い刃を一線だけ走らせる。血が飛ぶ。身体を返すと、別の敵がこちらへ向かってくる。真正面から振られた一撃へ防壁魔法を合わせ、硬い衝撃を受け止めながら、相手の腕が止まった一瞬を利用して身体を潜り込ませる。そのまま脇を抜けるように剣を振り、相手が倒れたことを確認してから、ようやく二人へ目を向けた。
男が女を庇っている。
その女が俺を見ていた。
そして、視線が俺の髪へ落ちる。
緑色。
俺は、その反応を知っている。
怖がられている。
そのことに腹は立たなかった。
俺も昔、同じ色の髪をしたシルフィがどんな目で見られていたのかを知っているからだ。だから俺は少し距離を取って、なるべく警戒させないように声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
二人はすぐには答えなかった。
男は俺を見ている。
女は男の背後からこちらを窺っている。
「ここで何をしているんですか?」
男は警戒を解かないまま答えた。
「……分からない」
「分からない?」
「ああ。気が付いたら、ここにいた。何が起きたのかも分からない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに動いた。
俺と同じだ。
突然知らない場所へ飛ばされて、何が起きたのかも分からないまま、戦場にいる。
「ここがどこかも?」
「分からない」
俺は二人を見た。
転移。
その言葉が頭に浮かんだ。
もし、この二人もあの光に呑まれたのだとしたら。
俺以外にもいる。
あの日、フィットア領を覆ったあの現象に巻き込まれた人間が、俺以外にも生きている。
その可能性を考えた瞬間、胸の奥にほんの少しだけ熱が戻った。
「名前を聞いても?」
男は迷ったように俺を見る。
やがて、ゆっくりと名乗った。
「フィリップ・ボレアス・グレイラット」
「……ボレアス」
その名前を聞いた瞬間、俺の中でいくつもの記憶が繋がった。
ロア。
ボレアス家。
ルーデウス。
あの屋敷。
そこで出会ったギレーヌ。
そして、俺がルーデウスへ届けてもらうよう頼んだ手紙。
フィリップ・ボレアス・グレイラット。
偶然にしては出来すぎている。
「……ルーデウスを知っていますか?」
フィリップの表情が変わった。
「なぜ、君がその名を知っている?」
俺は答えなかった。
代わりに、頭の中で一つの可能性を繋ぎ合わせていた。
フィリップがここにいる。
突然知らない場所へ飛ばされたと言っている。
なら、俺と同じ事件に巻き込まれた可能性がある。
そして、もしそうなら。
俺だけが飛ばされたわけじゃない。
それなら──。
シルフィも。
家族も。
どこかで生きている可能性がある。
その考えが、胸の奥で小さな火のように残った。
「……ここは危険です」
俺は二人の前へ出た。
「俺についてきてください」
フィリップはまだ俺を信用していないようだった。それは当然だ。突然現れた緑髪の少年が目の前で敵を斬り倒したのだから、警戒するなという方が無理がある。それでも、この戦場に二人を置いていけば、次に敵が現れた時には守る術がない。俺はそれ以上説明を求めず、二人が歩ける速度に合わせて森を進み始めた。
背後から二人の足音が続く。
俺は少し前を歩きながら、何度も周囲を確認した。
木々の隙間。
風の流れ。
足音。
気配。
それから、背後の二人。
その時、ふと奇妙な感覚が胸を過った。
誰かを守りながら歩く。
それは、少し前まで当たり前だった。
シルフィと一緒に森へ入る時も、俺は自然と彼女より前を歩いていた。魔物がいれば俺が先に気付き、危険があれば俺が前へ出る。あの頃は、それを特別なことだとは思っていなかった。
今になって、その感覚が妙に懐かしかった。
その感覚は、突然途切れた。
森の奥から、何かが近づいている。
音がしたわけではない。
むしろ、音がないことが気になった。
風が木の葉を揺らす音は聞こえている。遠くでは戦闘の音も続いている。それなのに、俺たちの周囲だけが妙に静かだった。
俺は足を止めた。
背後の二人も止まる。
「……動かないでください」
声を落とし、剣の柄へ手を掛ける。
気配が近い。
けれど、姿が見えない。
次の瞬間だった。
視界の端で何かが動いた。
敵兵が一人、倒れた。
何が起きたのか理解するより先に、目の前へ斬撃が迫ってきた。
俺は反射的に剣を立て、防壁魔法を展開した。
激しい衝撃が腕へ叩き込まれた。
身体が吹き飛ぶ。
地面を何度も転がり、背中から木の根へ叩きつけられる。肺から空気が押し出され、腕には痺れが残った。それでも剣は離さなかった。俺はすぐに身体を起こし、息を整えながら前を見る。
速い。
今の一撃は、見えなかった。
防壁魔法を展開する反応が一瞬でも遅れていたら、まともに受けていた。
俺は立ち上がり、相手を見た。
獣の耳。
褐色の肌。
手には剣。
その立ち姿を見ただけで、今まで戦ってきた相手とは明らかに違うことが分かった。
強い。
それも、ただ身体能力が高いというだけではない。
隙がない。
俺は剣を構え直した。
相手が動く。
俺も踏み込む。
刃がぶつかった瞬間、腕へ伝わってくる重さに息を呑んだ。俺は真正面から力を競うことを避け、刀身を滑らせて相手の剣を逸らす。そのまま懐へ入り込もうとしたが、相手は俺が動く方向へ先回りするように剣を返してきた。
速い。
俺は身体を捻り、頬を掠めた刃を避ける。
次の一撃を防壁魔法で受け止める。
魔力が削られる。
このまま防御に回れば、先に俺の方が限界を迎える。
なら、攻める。
防壁を消し、踏み込む。
相手の肩が動いた。
剣が来る。
受け流す。
その勢いを利用して身体を回し、相手の懐へ刃を滑らせる。
しかし、止められた。
互いの剣が噛み合い、至近距離で視線がぶつかる。
そこで初めて、俺は相手の顔をまともに見た。
知っている。
見覚えがある。
あの屋敷で。
ルーデウスの隣で。
俺に剣術の話を持ち掛けてきた、あの獣人。
俺の動きが僅かに止まった。
「……ギレーヌさん?」
目の前の女性の瞳が大きく見開かれた。
その表情には、驚きだけではなく、俺を記憶の中の少年と重ね合わせようとするような戸惑いが浮かんでいる。
俺自身も、目の前にいる彼女を見ながら信じられない気持ちになっていた。
まさか、こんな場所で。
こんな形で。
ギレーヌと会うなんて。
「お前は……」
返ってきた声を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの僅かに揺らいだ。
一か月。
俺にとっては、あまりにも長い一か月だった。
知らない迷宮で目を覚まし、知らない街へ出て、自分のいる場所を知り、そこからフィットアを探して歩き続けた。毎日誰かに同じ質問をして、毎晩一人でシルフィの最後の姿を思い出し、何も見つからないたびに、それでも「まだ分からない」と自分へ言い聞かせてきた。
その一か月の間、俺のことを知っている人間には一人も会わなかった。
俺がどこから来たのかを知る人間も。
ブエナで誰と暮らしていたのかを知る人間も。
ルーデウスと過ごしていたことを知る人間も。
誰もいなかった。
それが今、目の前にいる。
ギレーヌは俺を知っている。
俺も彼女を知っている。
その事実が、思っていた以上に胸へ響いた。
同時に、聞きたいことが一気に押し寄せてくる。
ルーデウスはどうしている。
フィットア領では何が起きた。
転移した人間は他にいるのか。聞くのが怖かった。
もし、この人が何も知らなかったら。
もし、知っていたとして、それが悪い知らせだったら。
それでも、いつかは聞かなければならない。
俺は剣を下ろした。
ようやく、ほんの少しだけ力を抜く。
「……ギレーヌさん」
もう一度、その名前を呼んだ。
その声は、戦場の喧騒に紛れて消えていった。
けれど俺には、それまで一か月間ずっと聞こえ続けていた、あの日の最後の声よりもずっと近く、確かなものとして聞こえていた。
原作改変しました。転移に時間差があっても不思議では無いだろうと解釈して今回は考えました。もちろんそれはないだろうと言う意見も分かります。私も悩みましたが、こうしました。