迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
寝落ちしていました。
戦場のような場所で再会したギレーヌさんを前にして、俺はしばらく言葉を失っていた。
あまりにも意外な再会だった。俺がこの一か月、ずっと一人で彷徨っていた場所に、突然知っている顔が現れたこともそうだが、それ以上に──あの頃と変わらない鋭い目が、俺の顔を見て確かに俺を認識したことが、妙に胸へ響いた。
俺の緑色の髪も、左目の周囲に残った火傷の痕も、あの頃より少しは伸びた手足も、今では自分でも別人のように感じるほど変わっている。それでもギレーヌさんは俺を見間違えなかった。
「お前は……」
「ギレーヌさん?」
俺が名前を口にすると、ギレーヌさんの耳がわずかに動いた。
「……ルークか」
「はい。久しぶりです」
戦場の喧騒の中では、それだけの会話が妙に静かに聞こえた。
少し離れた場所では、フィリップさんとヒルダさんがこちらを見ている。二人とも、突然現れた俺とギレーヌさんが知り合いだったことに驚いているらしい。特にフィリップさんは、俺を見る目に警戒だけではない別の色を浮かべていた。
俺は剣を下ろし、周囲を見回した。
さっきまで自分たちを狙っていた連中は、もうほとんどこちらへ手を出してこない。ギレーヌさんがこちら側についたと判断したのか、それとも単純に戦況が変わったのかは分からない。ただ、ここでいつまでも立ち話をしているのが危険なのは確かだった。
「ここを離れましょう。話は安全なところで」
「そうですね。フィリップ様、ヒルダ様、こちらへ」
ギレーヌさんが二人に声を掛ける。
「分かった」
フィリップさんが頷き、ヒルダさんの手を取った。
その仕草を見た瞬間、俺の中でほんの少しだけ引っかかるものがあった。
──この二人は、こうして一緒に転移したのか。
その疑問は、その時点ではまだ形にならなかった。
俺たちは戦場を抜けた。
正確には、抜けたというより、ギレーヌさんの戦闘力を頼りに危険な場所をひたすら避けながら進んだと言ったほうが近い。俺も何度か襲ってきた敵を斬り伏せたが、以前なら一撃ごとに神経をすり減らしていたような戦いでも、今では身体が勝手に動いてくれる。剣を振るたび、足を踏み込むたび、自分の身体の中に蓄えられた力が以前より遥かに扱いやすくなっているのを感じた。
それでも、ギレーヌさんと並んで戦うと、自分がまだまだ届かない場所にいることも分かる。
一振り。
それだけで敵の動きが止まり、次の瞬間には地面へ転がっている。
その圧倒的な剣技を横目で見ながら、俺は少しだけ苦笑した。
──やっぱり、この人は化け物だな。
以前、ボレアス家で会った時にもそう思ったが、一人で生き延びてきた今だからこそ、その意味がよく分かる。
強いということは、単純に剣を振る力が強いということじゃない。
何が起きても生き残るための判断を、一瞬で下せること。その判断を実際の身体で再現できること。そして、その判断を迷わず実行できるだけの経験を持っていること。
それを全部持っているのが、ギレーヌさんだった。
その日の夜、俺が滞在していた宿に戻る頃には、身体の芯まで疲れ切っていた。
ここ一か月、まともに眠っていないわけではない。それでも、知らない土地で一人で生きるというのは、想像以上に精神を削る。食事をしている時でさえ周囲を警戒し、眠る前には必ず逃げ道を確認する。誰かと話すこともなく、毎日同じような依頼をこなし、わずかな情報を拾い集めて、それでも何一つ故郷へ繋がるものは見つからない。
そんな生活の中に、突然三人分の人間が増えた。
それだけで、宿の廊下が妙に狭く感じられた。
「部屋は、まだ空いています」
宿の主人に確認すると、空き部屋は二つだった。
「じゃあ、その二部屋を借ります」
俺がそう言うと、ギレーヌさんが首を振った。
「待て。あたしはお前の部屋でいい」
「え?」
「フィリップ様とヒルダ様に部屋を使ってもらえばいい。あたしは床で寝る」
「いやいや、そこまでしてもらわなくて大丈夫ですよ」
思わず苦笑してしまう。
「この部屋、ベッド二つありますから。ギレーヌさんが片方を使ってください」
「だが──」
「俺が逆に落ち着かないんですよ。助けてもらった人を床で寝かせて、自分だけベッドで寝るなんて」
俺がそう言うと、ギレーヌさんはしばらく俺を見た。
「……そうか」
短い返事だったが、それ以上は何も言わなかった。
結局、フィリップさんとヒルダさんには隣の部屋を一つ使ってもらい、俺の部屋には俺とギレーヌさんが入ることになった。
部屋へ入ると、まず簡単な食事を取った。
干し肉とパン、それに野菜を煮込んだだけの簡素なものだったが、一人で食べることに慣れすぎていた俺には、それだけでも妙に新鮮だった。食事の途中、誰かが話している声を聞きながらパンを噛むという当たり前の行為が、いつの間にか遠いものになっていたらしい。
食事が終わると、宿の主人に頼んで用意してもらった温かい水で身体を拭いた。
戦場の土埃や汗を落とし、最低限身なりを整える。ギレーヌさんも身体を拭き終え、フィリップさんとヒルダさんもこちらの部屋へやってきた。
四人で話をするためだ。
俺はベッドの端に腰掛け、三人を見た。
こうして見ると、不思議な組み合わせだった。
自分。
ギレーヌさん。
そして、フィリップ・ボレアス・グレイラットと、ヒルダ・ボレアス・グレイラット。
本来なら、俺が一生関わることのなかったかもしれない人たちだ。
なのに今は、同じ部屋で同じ出来事について話そうとしている。
そして、俺にはどうしても聞かなければならないことがあった。
「……まず、聞いてもいいですか?」
「何かな?」
フィリップさんが穏やかに答える。
「貴方たちが転移した時期についてです」
俺はあの光を思い出した。
突然空から現れ、遠くのロア方面からこちらへ迫ってきた、あの異常な光景。
俺は一か月前に転移した。
ならば──この三人は?
「フィリップさんとヒルダさんは、いつ転移したんですか?」
「……つい先ほどだよ」
予想していた答えだった。
それでも、胸の奥が嫌な音を立てた。
「そうですか……」
俺が呟くと、ギレーヌさんが続けた。
「フィリップ様とヒルダ様が転移したのは、あたしが転移する直前だ。お二人と一緒にいたわけじゃないが、少なくとも転移した時期は近い」
そこで俺は顔を上げた。
「ということは……俺が一か月前に転移して、三人は一か月後に転移した?」
「おそらくな」
その言葉を聞いた時、頭の中で何かが繋がった。
俺が見た光は、ロアの方向から来ていた。
俺たちがいたのはブエナ村。
そして、ロアにはルーデウスがいた。
俺はその可能性をずっと考えないようにしていた。
だが、考えれば考えるほど、避けられない。
「……ルーデウスは?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
ギレーヌさんがこちらを見る。
「知らん」
その一言で、胸の奥が重く沈んだ。
分かっていた。
ロア方面から光が来た時点で、可能性は十分にあった。けれど、自分の中でぼんやりと考えているだけなのと、誰かの口から現実として聞かされるのとでは、痛みがまるで違った。
「ルーデウスは……あの時、エリスと一緒だった」
ギレーヌさんの言葉が続く。
「エリス嬢様とルーデウスがあたしの目の前にいた。その直後に、あの光が来た」
「……エリスは?」
ヒルダさんが尋ねた。
その声には、俺が想像していたような取り乱した響きはなかった。
むしろ、静かだった。
ギレーヌさんは一度だけヒルダさんを見て、
「ルーデウスの近くにいました。だから、おそらくエリスお嬢様も転移しているでしょう」
そう答えた。
ヒルダさんの目から、涙が一筋落ちた。けれど、彼女は泣き崩れることも、声を荒らげることもしなかった。
きっと、もう分かっていたのだろう。
自分が転移した。ギレーヌさんも転移した。
ならば、同じ場所にいたエリスもまた、同じ災厄に巻き込まれた可能性が高い。
失ったのかもしれない。けれど、生きているかもしれない。
そのどちらも証明されていない以上、今はただ待つしかない。
俺も、同じだった。
「……ギレーヌさん」
「なんだ?」
「さっき、『ルーデウスの近くにいた』って言いましたよね」
「言った」
「仮にですけど……ルーデウスがエリスの身体に触れていたら、二人一緒に転移する可能性はあるんでしょうか」
俺はヒルダさんの顔色を見ながら、できるだけ慎重に言葉を選んだ。
「もちろん、仮定の話です。フィリップさんとヒルダさんも、一緒に転移したんですよね?」
フィリップさんが静かに頷く。
「ああ。私はヒルダの手を取っていた。気がついた時には、二人ともここにいた」
「なら、可能性はあると思います」
俺がそう言うと、ギレーヌさんも少し考えてから口を開いた。
「ルーデウスは、最近エリスお嬢様を以前より気に掛けていた。あの状況なら、あいつがエリスお嬢様を庇おうとして触れていたとしても不思議ではない」
ヒルダさんは俯いたまま、涙を拭った。
「……そう」
それだけだった。
けれど、先ほどまでよりほんの少しだけ表情が柔らかくなったのが分かった。希望というには小さすぎる。
それでも、何もないよりはずっといい。
「だったら……」
俺は三人を見渡した。
「ルーデウスがエリスと一緒なら、そこまで心配しなくてもいいと思います」
自分でも、何を根拠にそんなことを言っているのか分かっていた。
けれど、俺はルーデウスを知っている。あいつは少なくとも俺が知る限り、この世界で出会った中でも桁外れの魔術師だ。
「空中に飛ばされても、大海原に飛ばされても、ルーデウスなら何とかしますよ」
言い切ると、三人とも少しだけ黙った。
そして、ギレーヌさんが頷いた。
「ああ。あいつなら、とりあえずは大丈夫だ」
「ギレーヌさんも、そう思いますか?」
「あいつはあたしの魔術の師匠だからな。こんなあたしを初級魔術が使えるところまで引き上げた。魔術についての知識も深い。少なくとも、生き延びるための手段はあいつなりに持っているはずだ」
フィリップさんも苦笑する。
「私も同感だよ。ルーデウス君なら、そう簡単には死なないだろうね」
ヒルダさんも涙を拭いながら頷いた。
「ええ。あの子なら大丈夫よ」
三人とも、ルーデウスのことを信じている。
それが、少しだけ嬉しかった。
俺がいなくなったあとも、ルーデウスにはちゃんと人との繋がりが残っていたのだ。
「……それなら」
俺は息を吐いた。
「俺も、少しだけ安心できます」
ただ、それでも胸の奥に残った不安までは消えなかった。
だからこそ、俺はもう一つ聞きたかった。
「ルーデウスが皆さんからすれば数年間、どうしていたのか。俺に教えてもらえませんか?」
フィリップさんが俺を見る。
「もちろん。ただ、その前に一つ聞いてもいいかな?」
「はい」
「ルーク君は、ルーデウスとはどういう関係なんだい?」
そこで、俺は少しだけ迷った。
俺がノトス家の人間であること。そして、その家から逃げてきたこと。
話すべきなのか。
フィリップさんとヒルダさんはボレアス家の人間だ。政治的な事情なんて俺には分からないが、ノトス家とボレアス家が無関係ではないことくらいは知っている。
ギレーヌさんはすでに俺のことについて何かルーデウスから聞いているかもしれない。
けれど、フィリップさんとヒルダさんは違う。
俺は少し考えた。
そして──この二人なら話してもいいと思った。
少なくとも、今日までの時間を一緒に過ごした中で、俺はこの二人を信用できると感じていた。
「……フィリップ様」
俺が言い淀むと、フィリップさんが少し笑った。
「ルーク君。私たちのことを『様』で呼ばなくてもいいんじゃないかな?」
「……え?」
「君は私たちの命を救ってくれた。それに、こうして同じ部屋で話しているんだ。いつまでも他人行儀にされると、こちらのほうが少し寂しいよ」
隣にいたヒルダさんも頷く。
「そうね。私も『ヒルダ様』なんて呼ばれると、なんだかむず痒いわ。これからはヒルダでいいわよ」
「いや、それはさすがに……」
俺は困った。
貴族の、それも自分より遥かに年上の人間を呼び捨てにするなんて、俺の感覚ではかなり難しい。
「……では、フィリップさん、ヒルダさん、と呼ばせてもらっても?」
「もちろん。それでいいよ」
フィリップさんは満足そうに笑った。
「ありがとう」
ヒルダさんも、
「ええ、それでいいわ」
と柔らかく頷いた。
ほんの少しだけ、距離が近くなった気がした。 だから俺も、ようやく口を開くことができた。
「俺は──ルーク・ノトス・グレイラットです」
二人の表情が変わった。
「ノトス……?」
フィリップさんが聞き返す。
俺は頷いた。
「ノトス家の次男です」
しばらく沈黙が続いた。
そして俺は、自分でも驚くほど淡々と、自分の過去を話し始めた。
俺は、生まれた時から緑色の髪をしていた。
その髪を見た家族が、俺をどう扱ったのか。
地下に近い場所へ閉じ込められ、外へ出されることもほとんどなく、存在そのものを隠すように育てられたこと。
なぜそうされたのか、幼い俺には分からなかった。
ただ、自分が普通の子供ではないことだけは理解していた。
そしてある夜、ノトス家が襲撃を受けた。
混乱に乗じて、俺は家から逃げ出した。
まともな逃げ道も知らなかった俺は、身を隠すために樽へ入り、そのまま運ばれていった。
今思えば、よく死ななかったものだと思う。
樽の中で揺られながら、何度も、もしこのままどこかへ捨てられたらどうしようかと思っていた。
けれど、辿り着いた先はブエナ村だった。そこで俺は、ルーデウスに会った。
「ルーデウスは、俺をパウロさんの家に連れていってくれました」
俺はそこで一度、言葉を止めた。
あの時のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
初めてだった。
最初こそ驚いていたが自分の髪の色を理由に、俺を遠ざけない人間に出会ったのは。
「そこから、俺はパウロさんたちと暮らすようになりました」
フィリップさんは黙って聞いている。
ヒルダさんは、いつの間にか目を伏せていた。
ギレーヌさんも口を挟まない。
「俺にとって、あの家は初めてできた居場所でした」
それを口にした瞬間、自分の中に残っていたものが少しだけ揺れた。
俺は、もう一度続ける。
「ルーデウスがボレアス家へ行くことになった時も、最後にあいつと戦いました。別れの前に、互いに剣を交えて……それから、俺はあいつを見送りました」
そこで俺は笑った。
「まさか、こんな形でルーデウスの事を知っている人物と会うとは思いませんでしたけど」
「……ノトス家は?」
フィリップさんが静かに尋ねた。
「俺を探していませんでした」
「そうなのかい?」
「おそらく、俺が消えてくれたほうが都合が良かったんだと思います」
俺は自分の緑色の髪を指で摘まんだ。
「ノトス家の次男が緑色の髪をしているなんて、知られたら面倒でしょうから。スペルド族だと噂されてもおかしくない。だから、俺がいなくなったことで、むしろ安心したんじゃないですかね」
言葉にしてしまえば、随分と簡単だった。
けれど、それが俺の人生だった。
生まれた時から隠され、家を出て、偶然辿り着いた場所でようやく人の温かさを知った。
それを話し終えた時、ヒルダさんの目には涙が浮かんでいた。
「……そんな」
彼女は唇を噛み、俺を見る。
「私、あなたに……酷い態度を取ったわね」
「え?」
「緑色の髪を見て、あなたを……」
「いや、あれは仕方ないですよ」
俺は慌てて首を振った。
「俺はもう慣れてますから。緑色の髪を見たら、そういう反応をする人がいるのも知っています」
「でも、あなたは何も悪くないじゃない」
ヒルダさんの声が震えた。
「小さい頃から、そんな扱いを受けて……あなたは、何も悪いことなんてしていないのに」
俺は返事に困った。
こういう言葉を掛けられた経験が、ほとんどなかったからだ。
「……ありがとうございます。でも、本当に気にしないでください」
「気にするわよ」
ヒルダさんは強く言った。
「あなたも、家の子になりなさい」
「え?」
「ルーデウスもルークも、二人揃って家に来ればいいわ。あなたみたいな子を一人にしておけないもの」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
けれど、俺は首を横に振る。
「お気持ちは嬉しいです。でも、俺はパウロさんの家族ですから」
「……パウロの?」
ギレーヌさんが反応した。
俺は彼女を見る。
「はい。パウロさんは、俺にとってすごく良い人ですよ」
ギレーヌさんは、何とも言えない顔をした。
「そうか……」
彼女にとってのパウロは、俺が知るパウロとは少し違うのだろう。
それでも俺は笑った。
「俺の前では、ずっと格好つけようとしてましたけどね。髪の色のことも何も言わなかったし、最初から普通に家族として扱ってくれました。ゼニスさんも、リーリャさんも、ノルンもアイシャも……俺にとっては、みんな家族です」
そう言うと、ヒルダさんが少しだけ笑った。
「そう……」
フィリップさんも穏やかに頷いた。
けれど、その視線はどこか考え込むようなものになっていた。
俺には、その理由までは分からない。
ただ、フィリップさんが俺という人間を、それまでとは少し違う目で見始めたことだけは何となく分かった。
「じゃあ、今度は私たちの話をしようか」
フィリップさんがそう言って、ルーデウスについて語り始めた。
最初にボレアス家へ来た時のこと。
貴族の作法は身に付いていなかったが、妙に堂々と頭を下げて自己紹介したこと。
パウロのような粗野さとはまるで違い、礼儀正しく、けれど必要以上にへりくだることもなく、自分が何をできる人間なのかを説明したこと。
そして、エリスとの関係に苦労していたこと。
「最初は、あの子をどう扱えばいいのか分からなかったよ」
フィリップさんが苦笑する。
「それでもルーデウス君は、逃げずにエリスと向き合った」
そこから、二人で考えた誘拐事件の話へ続いた。
エリスとルーデウスを意図的に誘拐させ、危険な状況を経験させることで、二人の関係を変えようとしたこと。
実際に二人が攫われた時、ルーデウスは魔術を使って脱出し、エリスを連れて逃げたこと。
そして後になって、誘拐した者たちがボレアス家の使用人であり、本当に二人を攫うつもりだったと分かったこと。
そこへギレーヌさんが駆けつけたこと。
俺は黙って聞いていた。
自分が知らないルーデウスの数年間が、少しずつ形になっていく。
エリスの十歳の誕生日。
ルーデウス自身の十歳の誕生日。
魔術を教え、読み書きを教え、計算を教え、剣だけではなく人間としてエリスを育てていったこと。
俺は思わず笑った。
「ルーデウスらしいですね」
「そう思うかい?」
「はい。あいつ、教えるの上手いんですよ」
俺はシルフィに魔術を教えていた頃のことを思い出した。
もちろん、俺自身が二十一歳の記憶を持っているからという理由もある。
けれど、それだけではない。
ルーデウスは、相手が何を理解できていないのかを見るのが上手かった。
「俺もルーデウスが友達に魔術を教えている所を見てましたけど、ルーデウスが難しいことを教えていた印象はなかったですね」
「そうそう。あの子は本当に熱心だったよ」
ヒルダさんがそこで口を挟んだ。
「エリスに勉強も、魔術も、何でも教えてくれたわ。十歳とは思えないくらいにね」
俺は頷きながら聞いていた。
そして、フィリップさんがルーデウスの十歳の誕生日について話したところで、ヒルダさんの表情が少し変わった。
「あの子が、ありがとうって言ったのよ」
「……ありがとう?」
「ええ。誕生日に贈り物を渡したら、あの子、泣きながらありがとうって言ったの」
ヒルダさんは少し遠くを見るような目をした。
「私は……あの子のことを、最初はあまり良く思っていなかったの」
その理由を聞いて、俺は黙って頷いた。
息子たちが家からいなくなり、残ったのはエリスだけ。
そこへ突然、知らない少年が家庭教師として入り込んできた。
「けれどあの子の十歳の誕生日の時、泣きながらありがとうと言ってくれて、それで初めてわかったの。親元を離れて来て、本当はあの子も寂しかったのだって。そう思ったら、愛おしく見えてきてね」
ヒルダさんの声には、懐かしさと少しの後悔が滲んでいた。
俺は何も言えなかった。
自分の本当の母親のことを思い出す。会いたいと思ったこともある。けれど、会ったところで何を話せばいいのか分からない。
そんなことを考えていると、ヒルダさんが俺を見る。
「あなたも同じよ」
「……俺も?」
「ええ。あなたも、そんな人生を歩いていい子じゃないわ」
その言葉に、胸が詰まった。
「こんなに可愛い子が、そんな目に遭っていいはずないもの」
「……」
俺は視線を逸らした。褒められているのか、哀れまれているのか分からない。
ただ、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ心地よかった。
「俺の家でも、似たようなことを言われましたよ」
「誰に?」
「パウロさんです」
「……そう」
フィリップさんが笑う。
「私の父も似たようなことをルーデウスに言っていたよ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
俺は思わず笑ってしまった。
家格も何もかも違うはずなのに、子供を心配する時の言葉は似ているらしい。
それが妙におかしかった。
「ボレアス家って、思ったより豪快なんですね」
「失礼だなぁ」
フィリップさんが笑った。
その隣で、ヒルダさんも少しだけ笑っていた。
話題はいつの間にかギレーヌさんへ移っていた。
俺が彼女について知っているのは、パウロさんたちと一緒にいた剣士だということくらいだ。
だから、彼女自身の話を聞くのは初めてだった。
大森林。
ミリス地方。
獣族の集落。
剣の師との出会い。
そして、パウロさんやゼニスさんたちと組んでいた冒険者パーティー、黒狼の牙。
「その後、一人で砂漠を渡った時に、ほとんど食べるものがなくなってな」
ギレーヌさんは淡々と話していた。
「魔物に殺されかけたわけじゃない。単純に、腹が減って死にかけた」
「……ギレーヌさんでも、そんなことになるんですね」
「なるさ。腹が減れば誰でも同じだ」
その言葉に、俺は少し笑った。
そして、そこからサウロスさんに拾われ、ボレアス家に仕えるようになったという話を聞いた。
俺は今まで、ギレーヌさんを強い剣士としてしか見ていなかった。
けれど、こうして話を聞いていると、この人にも俺の知らない人生がある。
当たり前のことなのに、それが妙に新鮮だった。
しばらくして、ギレーヌさんが俺の顔を見た。
「ところで、その傷はどうした?」
左目の周囲を指している。
「ああ、これですか」
俺は頬あたりに触れた。火傷の痕は、もう痛くない。
けれど、触ればそこに皮膚の質感が違うことが分かる。
「転移した後に、変な場所へ飛ばされまして。そこで魔物と戦った時に」
「変な場所?」
「迷宮……だったんじゃないかと思います」
俺はそこで、あの青白い炎に照らされた空間を思い出した。
「最初は迷宮だとは分かりませんでした。ただ、かなり深いところだったと思います」
ギレーヌさんの眉が動いた。
「魔物は?」
「何匹も倒しました。最後に、かなり強い鎧みたいな魔物がいて……そいつにやられました」
「なるほどな」
ギレーヌさんは俺の腰を見る。
そこには、折れた剣ともう一つの剣が腰に収められている。
「その剣は?」
「迷宮で手に入れた物です。結構気に入ってるんですよ」
俺は自然と柄に手を添えた。
ギレーヌさんはそれ以上聞かなかった。
ただ、少し考えるように俺を見る。
「お前は、恐らくエリスお嬢様よりも強いな」
「はい?」
あまりにも突然だった。
「私がお前に放った技は、光の太刀という剣神流の奥義だ。あの時は二人が襲われていると思ったから、私も全力で放ったのだが、まさか受け止められるとは思っていなかった」
──吹っ飛ばされたけどな。
「しかも、少し受け流そうとしていただろ」
「直撃したら死ぬと思いましたから」
俺自身も、あの時のことを思い出した。
力で受け止めれば壊れる。
なら、刃の軌道をずらしてやればいい。
水神流で見るような、受け流しの考え方に近い。
「お前の剣は、水神流に向いているかもしれんな」
「水神流ですか」
「それだけじゃない。お前の防壁魔法は北神流とも相性が良さそうだ」
ギレーヌさんは、俺の戦い方を思い返すように目を細めた。
「それにしても、迷宮の深部に飛ばされて、そこで生き残ったのか」
「はい」
「最後の魔物は、おそらくその階層の守護者だろう。魔石か何かを守っていた可能性が高い」
俺はあの時の戦いを思い出した。
炎。
鎧。
魔晶石。
最後にそれを壊した瞬間、制御を失った炎。
「……そうかもしれません」
「もしそうなら、普通の冒険者ならまず生きて帰れない」
そう言われると、改めて背筋が寒くなった。
俺は自分が強くなったと思っていた。
実際、強くなった。
けれど、あの場所で死んでいても何もおかしくなかった。
ただ、今は生きている。
それだけだった。
そんな話をしているうちに、ヒルダさんが突然俺の横へ来た。
「……ルーク」
「はい?」
次の瞬間、身体を抱き寄せられた。
「え、ちょ──」
胸元に顔を押し付けられ、声が潰れる。
「あなた……本当に、よく生きていたわね」
──まずい、息ができない。
「ヒルダ、気持ちは分かるが、離してあげないとルーク君が死んでしまうよ」
フィリップさんの声が聞こえる。
「……あら」
ヒルダさんがようやく腕を緩めた。
俺は咳払いをして、何とか息を整える。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
心配されるようなことじゃない。
ただ、なんというか。
こういうふうに誰かに抱きしめられたのは、いつ以来だっただろう。
俺は自分でも気づかないうちに、少しだけ笑っていた。
──俺、もしかして、この人たちに結構好かれてるのか?
そんなことを考えた。
その感覚は、悪くなかった。
その夜、話はなかなか終わらなかった。
ルーデウスの話。エリスの話。パウロの話。俺の話。ギレーヌさんの話。二人の話。
誰かが話せば、別の誰かが思い出し、そこからまた別の話が始まる。いつの間にか、窓の外は完全に暗くなっていた。
一か月前から、俺は一人だった。知らない土地で、知らない人間の中に混じって、ただ生きるために動いていた。
夜になると、いつも思い出す。シルフィの声。最後に俺の名前を呼んだ声。伸ばされた手。届かなかった指先。
あの瞬間を思い出すたび、胸の奥が締め付けられた。
けれど、その夜だけは違った。
目の前には人がいる。声がある。
誰かの話を聞いて、誰かの話に笑って、自分の話をして、誰かに心配される。それだけのことが、こんなにも懐かしいとは思わなかった。
「……今日は、ありがとうございました」
夜もかなり深くなった頃、俺がそう言うと、フィリップさんが笑った。
「こちらこそ。私たちも助けてもらった上に、話まで聞いてもらったからね」
「明日から、どうする?」
ギレーヌさんが聞いた。
俺は少し考える。
「まずはフィットア領のことを調べたいです。それから、できれば家族の情報も」
まだ諦めるつもりはない。
パウロさんたちはどうなったのか。そして──シルフィは。
俺は、まだ何も知らない。
だから、探す。
それしかできない。
「そうか」
ギレーヌさんが頷いた。
「なら、あたしも手伝おう」
「……ありがとうございます」
その言葉が、胸に染みた。
俺はベッドへ横になった。
ギレーヌさんは反対側のベッドに腰掛け、剣を手の届くところへ置いている。隣の部屋からは、フィリップさんとヒルダさんの小さな話し声が聞こえていた。
俺は天井を見上げる。
一か月ぶりだった。
誰かがいる場所で眠るのは。
目を閉じても、いつものようにシルフィの最後の声が蘇ってくることはなかった。
代わりに、今日聞いたたくさんの声が頭の中を巡っていた。
ルーデウスの話。
エリスの話。
パウロの話。
一人で抱えていたものを、少しだけ誰かに渡せたような気がした。俺はゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
その夜、久しぶりに夢を見なかった。
ヒルダの口調がいまいち掴めないですね。
こんな感じだったと思うんですけど。違和感があれば言ってください。