迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
なんでこんなお気に入り急に多くなったんだろと思ったら日間ランキング乗っててびっくりしました。ありがとうございます。こんな稚拙な文章を読んでいただいて。
翌朝。
目を覚まして最初に目に入ったのは、見慣れない宿の天井だった。
薄い朝日が窓から差し込み、壁に淡い光の帯を作っている。外からは人の話し声や馬車の車輪が石畳を擦る音が聞こえていた。王竜王国の街は、俺たちが昨日まで抱えていた事情なんて知ったことではないらしい。世界のどこかで大勢の人間が故郷を失い、行方不明になり、今も戦場で命を奪い合っているというのに、朝になれば店は開き、人は仕事へ向かい、腹が減れば飯を食う。そういう当たり前の営みだけが、妙に鮮明に見えた。
俺はしばらく天井を見つめていた。
昨日のことを思い出す。
フィリップさんとヒルダさんを見つけたこと。二人から聞いた話。そして、俺がこの世界に飛ばされてから初めて再会した、知っている人間──ギレーヌ。
フィットア領が消滅した。
そう聞かされてから、一ヶ月以上が経っている。
その間、俺はずっと生存者を探してきた。
けれど、俺一人ではどうしても限界があった。
昨日、フィリップさんたちを見つけられたことで、その限界が少しだけ広がった。少なくとも俺一人で闇雲に探すよりは、ギレーヌと二人で動いた方がずっと効率がいい。
なら、やることは決まっている。
今日から、探す。
フィットア領から転移した人間を。
俺はベッドから身体を起こし、窓の外を見た。
そして、胸の奥に浮かんだ一人の少女の姿を、無意識のうちに追い払った。
シルフィ。
考えるな。
まだ何も分かっていない。
生きているのか、死んでいるのか。どこにいるのか。誰といるのか。そもそも転移したのかすら分からない。
分からないからこそ、探すしかない。
身支度を整え、部屋を出る。
廊下へ出ると、すでにギレーヌがいた。壁に背を預けて腕を組み、こちらへ顔を向ける。その姿は昨日の戦場で見た時と何も変わらない。無駄な動きがなく、立っているだけなのに妙な威圧感がある。けれど、昨日一晩を共に過ごしたせいか、最初に会った時ほどの緊張はなかった。
「おはようございます、ギレーヌさん」
「ああ。おはよう」
短い挨拶を交わして、俺はそのまま話を切り出した。
「昨日の話なんですが……今日から、フィットア領の遭難者を探しに行きませんか?」
「そうだな」
ギレーヌはすぐに頷いた。
「私もそうした方がいいと思っていた」
どうやら考えていたことは同じらしい。
フィリップさんとヒルダさんには宿で待っていてもらう。
理由は二つある。
一つは単純な戦力の問題だ。俺とギレーヌについてくるには、二人の戦闘能力では厳しい。俺だって、二人を守りながら戦場を歩き回る余裕があるとは思っていない。ギレーヌならなおさら、誰かを護衛しながら探すより、一人で動いた方が圧倒的に速いだろう。
そしてもう一つ。
こちらは俺にはいまいちよく分からなかったが、政治的な問題らしい。
フィリップさんは元々城塞都市ロアの町長だ。今のフィットア領がどうなっているのかも分からない以上、フィリップさんが生きていると知られることには、俺には想像できないような意味があるのだろう。昨日の二人の態度を見ていても、フィリップさん自身がそのことを理解しているのは分かった。
だから、四人で相談した結果、とりあえず俺とギレーヌが捜索へ出ることになった。
大勢を見つけても全員を連れて帰るのは難しい。
それでも、数人程度なら俺たち二人で運べる。
まずは生存者を探す。
しばらく探して、それでも有力な情報が得られなければ、フィリップさんとヒルダさんを連れてロアへ戻る。
城塞都市ロア。
そこには、フィットア領転移事件によって被害を受けた人間たちのための難民キャンプができているらしい。
噂の域を出ない話ではある。
けれど、今の俺たちにとっては十分すぎるほど重要な情報だった。
「ロアへ戻れば、少なくとも今よりは生存者の情報を集められるはずです」
「そうだな。ここで無理に探し続けるより、その方がいいかもしれない」
フィリップさんがそう答え、ヒルダさんも静かに頷いた。
その日の朝、俺たちはそんな方針を決めた。
当面は俺とギレーヌが捜索。
見つかった人間は、可能な限り連れて帰る。
そして、ある程度時間を使っても成果がなければロアへ向かう。
それだけだ。
その日の昼頃。
俺とギレーヌは街を歩きながら、フィットア領に関する情報を集めていた。
昨日までの俺なら、こういう情報収集も一人でやっていた。
けれど、ギレーヌがいるだけでかなり勝手が違う。
彼女は俺よりもこの世界を長く生きている。それだけでなく、冒険者として各地を渡り歩いていた経験もある。
「フィットア領から来た人間を見たという話は?」
「ないな」
「奴隷商人の動きは?」
「いくつかあるが、転移事件との関係は分からない」
そんなやり取りを何度か繰り返した。
大抵はどうでもいい噂だった。
誰かがフィットア領の人間を見た。
転移事件で珍しい魔道具が出た。
どこかの村に見慣れない人間が現れた。
そんな話を聞いては確認し、違うと分かれば次へ進む。
噂というものは、こういう時ほど厄介だ。
何もないところから生まれ、誰かから誰かへ渡るうちに形を変え、いつの間にか事実のような顔をしている。
だから、ほとんどの話は聞き流していた。
その時だった。
ギレーヌが、少しだけ表情を変えた。
「……そういえば、一つ気になる話がある」
「なんですか?」
「紛争地帯で、二人の人間が突然現れたらしい」
「二人?」
俺は足を止めかけた。
「どういう人たちなんです?」
「そこまでは分からない。ただ、現れた直後に捕らえられたそうだ」
ギレーヌは記憶を辿るように言葉を続ける。
「奴隷にされたらしい」
「……奴隷」
その単語だけが、妙に耳に残った。
「一週間後、その奴隷商人が王竜王国へ来るという話もあるそうだ」
「一週間後……」
俺は何気なく聞いていた。
そこまでは。
「それと、その二人のうち一人は長耳族らしい」
その瞬間。
頭の中が真っ白になった。
次に浮かんだのは、一人の少女の顔だった。
緑色の髪。赤色の目。そして、少し長い耳。
「……シルフィ」
口から名前が漏れていた。気づいた時には、身体が動いていた。
「おい!」
ギレーヌの声が後ろから飛んでくる。
俺は振り返らなかった。闘気を全身へ巡らせる。
地面を蹴る。身体が一気に前へ飛び出した。街の景色が後方へ流れていく。
人の姿も、建物も、道も、何もかもが視界の端を滑っていく。
俺の頭の中には、一つの考えしかなかった。
長耳族が転移した。奴隷にされた。紛争地帯にいる。
それは──シルフィなんじゃないのか。
もしシルフィだったら。
その考えが浮かんだ瞬間、身体中に鳥肌が立った。
奴隷。
あの世界での奴隷という言葉を、俺は知っている。
前世で読んだマギの世界。モルジアナ。
奴隷として扱われていた少女。人間としてではなく、物として扱われる。
鎖に繋がれ、命令される。自由を奪われ、酷い扱いを受ける。
俺の頭の中に、前世で見た彼女の姿が蘇った。
もし、それをシルフィが受けていたら。
胃の奥がひっくり返るような感覚がした。
──いや、待て。シルフィは強い。魔術も使える。空だって飛べる。突然転移したとしても、上手く切り抜けられるはずだ。
シルフィなら大丈夫だ。俺はそう言い聞かせる。
けれど、次の瞬間には別の考えが浮かんだ。
本当にそうか?
シルフィは俺とは違う。俺は前世を含めれば、三十年以上生きている。
あいつは、まだ子供だ。
いくら強くても、突然見知らぬ場所に放り出され、周囲に敵しかいない状況に置かれたら──。
取り乱して、魔術を使う前に抑え込まれて。
そのまま奴隷にされたとしたら。
「……っ」
冷や汗が流れた。
止まらない。心臓が異常な速さで脈打っている。息が苦しい。
それでも走る。
走らなければ。今すぐ行かなければ間に合わなくなる。
何に間に合わなくなるのかすら分からない。
ただ、時間だけが敵に思えた。
その時だった。
腕を掴まれた。
「ルーク!」
身体が強引に引かれる。
俺は数歩地面を滑り、ようやく止まった。
そこで初めて、自分の隣にギレーヌがいることに気づいた。
いつの間に追いついたのか、まったく分からなかった。
「急に走り出してどういうつもりだ。一言声をかけろ」
息一つ乱していない。
俺は自分の視野がどれほど狭くなっていたのか、そこで初めて気づいた。
「……すみません」
荒い呼吸を整えながら、頭を下げる。
「その奴隷の一人は……俺の友達かもしれません」
ギレーヌが黙った。
怒っているというより、俺の言葉を理解しようとしているようだった。
「そう思ったら……いてもたってもいられなくなりました」
「……なるほど」
ギレーヌは少し考え込む。
その間にも、俺の頭の中では別の想像が止まらなかった。
もしシルフィだったら。
もし今も鎖につながれていたら。
もし傷つけられていたら。
もし、俺が見つけるまでに何か起きてしまったら。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
そんな俺を見て、ギレーヌが口を開いた。
「とりあえず、落ち着け」
その声は静かだった。
「闇雲に紛争地帯でその友達を探すのは、不可能に近いだろう」
いつもの俺なら、すぐに理解していただろうその通りだ。
戦場は広い。人間も多い。
奴隷商人がどこにいるのかも分からない。
何の手掛かりもなく走っていっても、見つかる可能性は低い。
そんなことは、分かっている。
なのに。
「……じゃあ、どうしろと」
「落ち着けと言っている」
その瞬間だった。
俺の中で、何かが弾けた。
「落ち着ける訳ないだろ!?」
声が響いた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「奴隷だぞ!?」
喉が震える。
「奴隷にされたって言ってるんだぞ!? もしシルフィだったらどうするんだよ! 取り返しのつかないことになったらどうするんだ!」
言葉が止まらない。
頭の中にモルジアナの姿が浮かぶ。
あれがシルフィだったら。
そう考えただけで、胸の奥から吐き気が込み上げる。
「そうなる前に助け出せばいい」
「だから、そのために今向かってんだろうが!」
「なら、なおさら落ち着け」
「落ち着けるかよ! 一週間だぞ!? 一週間もあるんだぞ! その間に何されるか分からないんだぞ!」
「焦っても見つからない」
「でも、探さなきゃ見つからないだろ!」
「探す方法を考えろと言っている」
「だからそれを今考えてるんだろうが!」
自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
ただ怖かった。
シルフィが傷ついているかもしれない。
誰かに助けを求めているかもしれない。
泣いているかもしれない。
そう考えるたび、頭の中が真っ赤になっていく。
そして、そんな俺を見ながら、ギレーヌの眉間に少しずつ皺が寄っていった。
最初はただの困惑だった。
次第に、それが苛立ちへ変わっていく。
──なぜ私がこんなに怒られなければならない。
ギレーヌの表情から、そんな感情が滲み出ていた。
彼女は短気な部分があるらしい。前にパウロさんが言っていた。
『黒狼の牙』にいた頃には、我慢できずに手を出してしまい、それが原因で騒ぎを起こしたことも少なくなかったらしい。ボレアス家に仕えるようになってからは、以前よりは抑えられるようになっていた。
だが、昔の性格が完全になくなったわけではない。
しかも今、目の前には延々と捲し立ててくるルークがいる。
自分は間違ったことを言っていない。
むしろ、冷静になれと言っているだけだ。
それなのに、なぜここまで怒鳴られなければならない。
ギレーヌの額に、青筋が浮いた。
「……」
俺はまだ何かを言っていた。
そして──。
「フンッ!!」
拳が飛んできた。
視界が回った。
身体が地面に倒れる。
「……え?」
頬が熱い。
何が起きたのか分からない。
ただ、目の前にギレーヌが立っている。
俺は頬を押さえた。
そこでようやく理解した。
殴られた。
そして同時に、自分がどれほど取り乱していたのかも理解した。
ギレーヌがこちらを見下ろしている。
「私は何も間違ったことは言っていない」
淡々とした声だった。
「そう思ったから殴った。どうだ、冷静になったか?」
無骨な言葉だった。
けれど、その言葉が妙に頭へ響いた。
俺はゆっくり息を吐いた。
熱くなっていた頭が、少しずつ冷えていく。
そうだ。
ギレーヌの言う通りだ。
闇雲に探したところで、見つかるわけじゃない。
焦れば焦るほど、視野が狭くなる。
俺は一度目を閉じ、それから頭を下げた。
「……すいません。取り乱しました」
「ああ」
それだけだった。
ギレーヌはもう責めなかった。
俺は頬を押さえながら、頭を働かせる。
どうすればいい。
どうすれば、シルフィを見つけられる。
「……どうすれば、友達を見つけられますかね」
「私に聞くな」
「いやいや、一人で考えるより二人で考えた方がいいですよ。文殊の知恵ってやつです」
「……もんじゅ?」
「こっちの話です。気にしないでください」
俺は周囲を見渡した。
何か使えるものはないか。
匂い。
魔力。
足跡。
目印。
何か──。
そこで、視界に入った。
ギレーヌの獣耳。
そして、尻尾。
俺は少し考えてから、恐る恐る口を開いた。
「……ギレーヌさんは獣族でしたよね?」
「ああ」
「その……匂いとかで辿れたりしませんか?」
言った直後、俺は少しだけ身構えた。
獣族の人たちにとって失礼な質問だったらどうしよう。
何しろ、さっき思い切り殴られたばかりだ。
これ以上怒らせるのは避けたい。
けれど、ギレーヌは特に気を悪くした様子もなく答えた。
「私はギレーヌ・デドルディアだ。アドルディア族なら匂いで判別は可能かもしれないが、私にはできない」
「……何か違うんですか?」
「上手く説明はできないが、アドルディア族はそういった特徴も持つ」
「なるほど……」
俺はギレーヌの耳を見る。
こうして改めて見ると、確かにどこか猫のような特徴がある。
なら、匂いで判別できるアドルディア族は犬みたいなものなのだろうか。
いや。
さすがにそれは単純すぎるか。
前世の知識で勝手に動物へ当てはめるのはよくない。
「ただ、アドルディア族でも紛争地帯では役に立たないだろうな」
ギレーヌが続けた。
「何もない場所で人を探すのには重宝するだろうが、紛争地帯は血の匂いが濃い。その中で人一人を判別するのは難しい」
「……それもそうですね」
俺は周囲を見た。
戦場には、数え切れないほどの人間がいる。
そして、数え切れないほどの死体がある。
血の匂いが充満している場所で、一人の人間の匂いだけを探す。
そんなことができるとは思えない。
「何より、お前の友達の匂いが分からないのなら、何もない場所でも捜索はできん」
「……そうですね」
その通りだった。
俺がシルフィの匂いを覚えていても、なんの意味もないのだ。
落ち着け。
焦るな。
まだ方法はある。
「とりあえず、紛争地帯に向かおうと思います」
俺は顔を上げた。
「奴隷が捕虜としてどこにいるのか分かれば、何とかなるかもしれません」
自分でも、無理な話をしていると思う。
紛争地帯は広い。
奴隷商人がどこにいるかも分からない。
それでも、動くしかない。
ここで何もせず一週間を待って、その後で弱り切ったシルフィを見つけたら。
そんな未来だけは、絶対に嫌だった。
ギレーヌがしばらく俺を見た。
「……一つ聞く」
「はい」
「そいつは、長耳族で間違いないのだな?」
「え?」
「『黒狼の牙』には、長耳族の女がいた。私はその魔力を覚えている」
「……はぁ」
いまいち意味が分からなかった。
魔力を覚えている?
どうやって。
魔力なんて、普通は目に見えるものじゃない。
──ルフじゃあるまいし。
俺が首を傾げていると、ギレーヌが言った。
「私の『魔力眼』で長耳族の魔力を探す。そうすれば、見つかるかもしれない」
「なるほど……」
俺は頷いた。
そして。
「……え?」
数秒遅れて、言葉の意味が頭へ入ってきた。
「なんですか、それ。『魔力眼』?」
「魔眼の一つだ。魔力を視認できる能力がある」
「聞いてないんですけど!?」
思わず声が大きくなる。
「初めて言ったからな」
「いや、そういう問題じゃないでしょう!」
俺は思わず頭を抱えた。
ギレーヌは平然としている。
「普段からそのままにしていると、気持ち悪くなる。だから眼帯で隠している」
俺はギレーヌの右目を見る。
そこには、ずっと眼帯がかかっていた。
俺はてっきり、戦いの中で目を失ったのだと思っていた。
まさか。
「……そんな便利なものを持ってるなら、早く言ってください」
「む。私が思いついたのに、その言い方はなんだ」
「最初からギレーヌさんが魔力眼を持ってるって知ってたら、今の話し合い意味ないじゃないですか」
「……」
ギレーヌが少しだけこちらを見る。
俺も自分で言っておいて、その通りだと思った。
散々考えた。
匂い。
足跡。
奴隷商人の行方。
紛争地帯の情報。
それらを一つずつ考えて、ようやく辿り着いたのが、ギレーヌの魔力眼だった。
「……はぁ」
「なんのため息だ」
「いえ」
俺は苦笑する。
「行きましょう」
結局、頼れるものがあるなら使うしかない。
「紛争地帯に入ったら、奴隷が集められている場所を俺が探します。ギレーヌさんは近くの森に待機していてください。俺が合図を出したら、ギレーヌさんも合流という形で」
「ああ。分かった」
「その合図は……」
俺は考えた。
そして、固まった。
「……」
しまった。
考えていなかった。
俺はルーデウスと違って魔術が使えない。
遠距離へ知らせる手段がない。
「その合図はどうするんだ? ルーデウスのように、魔術を使うのか?」
「…………」
何も言えない。
ギレーヌが俺を見る。
俺は視線を逸らした。
完全に盲点だった。
「まあいい。向かいながら決めよう」
「……そうですね。今は時間が惜しいです」
俺たちは再び歩き出した。
しばらくして、ギレーヌがふと口を開く。
「あと、私のことはギレーヌでいい。さんはいらん」
「分かりました。ギレーヌ」
俺は素直に答えた。
「敬語もやめろ。それを使うのはフィリップ様とヒルダ様だけでいい」
「……分かったよ。ギレーヌ」
「ああ。それでいい」
それだけのやり取りだった。
けれど、俺の中でギレーヌに対する印象が少し変わった。
俺はこの人を、どこか堅苦しい人間だと思っていた。
強い。
無口。
何を考えているか分からない。
フィリップさんやヒルダさんに仕える剣士だから、もっと近寄りがたい人なのだろうと。
でも、違った。
ギレーヌはただの優しい大人だった。
もちろん、めちゃくちゃ強い大人ではあるけれど。
さっき俺を殴ったのだって、怒りに任せたというより、俺を無理やりでも冷静にさせるためだったのだろう。
少なくとも、俺にはそう思えた。
そんなことを考えながら、俺とギレーヌは紛争地帯へ向かった。
☆☆☆
紛争地帯に辿り着いた時、俺はすぐにでも飛び出したかった。
ここにシルフィがいるかもしれない。
そう思えば、じっとしていることなどできない。
けれど、ギレーヌと話し合った結果、俺たちは夜まで待つことにした。
理由は単純だった。
今回の目的は、敵を倒すことではない。
奴隷を助けることだ。
昼間から派手に動けば、当然目立つ。俺たちが戦場で敵を倒し始めれば、周囲の傭兵や兵士が集まってくるだろう。そうなれば、奴隷商人が警戒する可能性もある。
最悪の場合、奴隷を別の場所へ移す。
あるいは、証拠を消すために殺す。
そこまで考えれば、焦って動くことの危険性は理解できた。
俺たちは森の中に身を潜めた。
昼間の戦場を眺めながら、ひたすら時間が過ぎるのを待つ。
太陽が傾く。
空が赤く染まる。
やがて、夜が訪れた。
昼間の喧騒が嘘のようだった。
人の往来が減り、遠くから聞こえていた怒号も少なくなる。完全に静かなわけではない。それでも、昼間と比べれば雲泥の差だ。
ギレーヌが眼帯に手をかけた。
「人が少なくなってきた。これなら魔力眼を使っても気持ち悪くならない」
「頼むよ、ギレーヌ」
「ああ」
眼帯がずらされる。
そこに現れた右目が、淡い緑色の光を宿した。
左目の赤とは明らかに違う色。
魔力眼。
俺は初めて、それを間近で見た。
ギレーヌは何も言わず、戦場を見渡している。
右目だけが、暗闇の中で淡く輝いていた。
「……どうだ?」
問いかけても、返事がない。
集中しているのだろう。
俺はそれ以上何も言わなかった。
恐ろしい想像は、いくらでも浮かんでくる。
もしシルフィだったら。
もし、見つけた時にはすでに傷ついていたら。
もし、間に合わなかったら。
けれど、今は考えない。
俺は剣の柄に手を添え、周囲の警戒へ意識を集中させた。
森の向こう。
夜の戦場。
敵の気配。
風の音。
葉が擦れる音。
できる限り全てを拾う。
そして、しばらくして。
「……見つけた」
ギレーヌが呟いた。
俺が振り向くより早く、ギレーヌは走り出していた。
「ギレーヌ!」
俺も続く。
木々の間を抜ける。
闇の中を走る。
ギレーヌの速度は速い。
俺も闘気を巡らせ、必死に追った。
やがて、戦場の端にある粗末な建物が見えてきた。
周囲には数人の男がいる。
見張りだろう。
そして、その奥から人の声が聞こえた。
俺の背筋に冷たいものが走る。
「……ギレーヌ」
「ああ」
それだけで意思が通じた。
俺たちは同時に動いた。
建物の前にいた男がこちらに気づく。
けれど、遅い。
俺は一気に距離を詰めた。
剣を抜く。
刃が月明かりを反射した。
一人目を斬る。
身体が崩れるより早く、次の男へ踏み込む。
男が剣を抜く。
間に合わない。
俺の剣が首を捉えた。
血が噴き出す。
そのまま建物の中へ飛び込む。
そこで見えたのは、二人の人間だった。
一人は長い耳を持つ男。
もう一人は女性。
そして、その女性へ今にも手を伸ばそうとしている傭兵がいた。
二人の顔を見た、その瞬間。俺の頭から一切の思考が消えた。
間に合え。
ただ、それだけだった。
地面を蹴る。
距離を詰める。
剣を振る。
男の身体が崩れた。
もう一人が振り返る。
その首へ刃を走らせる。
首が飛んだ。
視界の奥では、すでにギレーヌが動いていた。
三人。
いつの間にか、彼女は奥にいた男たちを全て斬り伏せている。
静かになった。
そこにいた人間は、全員死んでいる。
俺は荒い息を吐いた。
間に合った。
それだけを確認して、ようやく二人へ振り返る。
「もう大丈夫です。ロールズさん、エルナさん」
二人の顔が、こちらを見た。
そして──。
俺は固まった。
シルフィではない。
そこにいたのは、見覚えのある二人だった。
シルフィの父親。
そして母親。
ロールズさんと、エルナさん。
長い耳を持つ男が、返り血にまみれた俺の顔と髪を、信じられないものを見るように見つめている。
口が、わずかに震えた。
「……まさか、ルーク君か?」
「うそ……」
隣のエルナさんも目を見開いていた。
無理もない。
俺自身だって、今ここにいることが信じられないくらいなのだ。
突然の転移。
紛争地帯。
奴隷。
二人がどれだけ疲弊しているのか、想像するまでもない。
「はい」
俺は頷いた。
「ルークです」
自分の声を聞いて、ようやく現実感が戻ってきた。
俺は服の袖で返り血を拭う。
剣を軽く振り、刃に付いた血を落とす。
その動作を見ていた二人の視線が、今度は俺の顔へ向かった。
そして、さらに驚いたように目を見開く。
当然だ。
一ヶ月前まで、俺はこんな顔をしていなかった。
左目の周囲に残った傷。
魔物に焼かれた皮膚。
それを見たロールズさんが、言葉を選ぶように口を開いた。
「どうしたんだい、その……顔は」
「ああ……」
俺は頬に触れる。
「これは転移した時に、ちょっと魔物にやられまして。お恥ずかしいです」
「そんな……治癒魔術でも消えなかったの?」
エルナさんの目に涙が浮かぶ。
その声を聞いた瞬間、俺は少しだけ笑った。
「失明しなかっただけ、良かったと思ってます」
その言葉に、エルナさんが俺へ近づいた。
ギレーヌが二人を繋いでいた手錠を剣で断ち切る。
金属音が響き、二人の手が自由になる。
エルナさんは、そのまま俺の顔へ手を伸ばした。
火傷の跡へ、そっと触れる。
その目には、僅かに涙が浮かんでいた。
優しい人だ。
俺がシルフィを迎えに行った時、いつだって暖かく迎えてくれた。
食事を勧めてくれたこともある。
俺がシルフィと一緒にいることを、嫌な顔一つせず受け入れてくれた。
ロールズさんだって同じだ。
二人とも、俺にとってはシルフィの両親というだけではなく、ブエナ村で何度も世話になった大人だった。
そんな二人が今、俺の目の前で涙を浮かべている。
「……よく、生きてたね」
エルナさんが小さく呟いた。
「はい」
俺はそれだけ答えた。
「おい、ルーク」
ギレーヌの声が飛んでくる。
「悠長に話している時間はないぞ」
「ああ……それもそうだな」
俺は二人を見る。
「二人とも、動けますか?」
ロールズさんが頷く。
「……ああ」
「私も大丈夫」
「よし。行きましょう」
俺たち四人は、すぐにその場を離れた。
幸い、前回のように敵が追いかけてくることはなかった。
それが幸運だったのか、それともギレーヌの判断が良かったのかは分からない。
ただ、俺は何度か後ろを振り返りながら、二人を連れて夜の戦場を抜けていった。
シルフィではなかった。
その事実は、胸の奥に重く残っている。
それでも。
シルフィの両親を見つけられた。
そして、救えた。
今は、それでいい。
☆☆☆
王竜王国の宿へ戻った頃には、夜もかなり深くなっていた。
フィリップさんとヒルダさんに事情を説明すると、二人は驚きながらも、すぐにロールズさんとエルナさんを迎え入れてくれた。
食事を六人分用意してもらう。
人数が増えたことで、宿の主人に頼んで部屋ももう一つ追加してもらった。
「まあ金を払ってくれるなら俺はいいがよ。そのうち満室にしちまいそうだな」
宿の主人が笑う。
「……はは」
俺は愛想笑いを返した。
昨日までは四人。
今日から六人。
確かに、宿としてはいい迷惑かもしれない。
それでも、文句を言わずに受け入れてくれる主人には感謝しかなかった。
用意してもらった温かいお湯で身体を拭き、戦場の臭いと汚れを落とす。
温かさが身体へ染み込んでくると、ようやく自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。
食事を終えた後、俺たちは俺の部屋へ集まった。
六人。
さすがに狭い。
昨日までは四人でも少し窮屈に感じていた部屋が、今日は明らかに手狭だった。
けれど、誰も気にしていない。
むしろ、この狭さが妙に安心できた。
六人が同じ場所にいる。
全員、生きている。
それだけで十分だった。
最初は、ロールズさんとエルナさんがいつ転移したのかという話になった。
ある程度は予想していた。
やはり二人も、俺より後に転移していた。
フィリップさんとヒルダさんと同じように、時間差があったのだ。
俺が転移してから、およそ一ヶ月。
またしても、同じような時間差。
転移事件がどういう仕組みで起きているのか、俺にはまだ何も分からない。
ただ、偶然にしては気になる。
ロールズさんは、パウロさんよりは弱い。
けれど、それでも普通の大人と比べれば十分に強いらしい。
それでも、エルナさんを守りながら戦うのは難しかった。
敵と戦いながら、もう一人を守る。
それは一人で戦うのとは全く違う。
さらに二人は、それぞれの血筋によって目をつけられていた。
ロールズさんは長耳族のハーフ。
エルナさんは獣族とのハーフ。
その特徴が、奴隷商人にとって価値のあるものとして見られたらしい。
話を聞きながら、俺は何とも言えない気分になった。
人間なのに。
同じ人間なのに。
耳の長さや血筋で値段をつけられる。
この世界には、俺の知らない理不尽がまだまだある。
そんな話をしているうちに、フィリップさんとヒルダさんの話へ移った。
「そういえば、まだ紹介していなかったね」
フィリップさんがロールズさんを見る。
「私はフィリップ・ボレアス・グレイラット。フィットア領にある城塞都市ロアの町長、だった者だ」
その瞬間。
ロールズさんの顔から血の気が引いた。
「……城塞都市ロアの……?」
「ああ」
「それでは……」
ロールズさんは慌てて立ち上がろうとし、頭を下げようとする。
だが、フィリップさんが手を上げた。
「やめてくれ」
「しかし……」
「私達は転移を経験した同士のようなものだろう」
フィリップさんは穏やかな声で続けた。
「それに、フィットア領は消滅したと聞いている。私に貴族の位はもう無いだろう」
その言葉に、部屋が少し静かになる。
「今はただ一人の人間として仲良くしてくれ」
ロールズさんはしばらくフィリップさんを見つめていた。
やがて、静かに頭を下げる。
「……分かりました」
それで、ようやくロールズさんも少し肩の力を抜いた。
そして。
「……ルーク君」
ロールズさんが俺を見る。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が重くなった。
分かっていた。
いつか、この話をしなければならない。
むしろ、ここまで聞かれなかったことに、俺は内心で安堵していたのだ。
ロールズさんもエルナさんも、ずっとシルフィのことを聞いていない。
きっと怖かったのだろう。
俺も怖かった。
「聞きたいことがある」
「……はい」
俺はロールズさんを見る。
「君は、あの日シルフィといつものように出かけていたね」
「……はい」
「だから聞くよ」
ロールズさんの声は、静かだった。
「シルフィは、どうなった?」
その瞬間、俺の中で何かが落ちた。
目の前に、あの日の光景が蘇る。
いつものようにシルフィと丘へ向かっていた。
いつものように話していた。
いつものように、魔術の練習をするつもりだった。
そこへ突然、光が現れた。
最初は何が起きたのか分からなかった。
ただ、光が近づいてきて。
シルフィが動けなくなって。
俺が手を伸ばした。
シルフィも手を伸ばした。
あと少しだった。
本当に、あと少しだった。
それなのに。
指先は触れなかった。
光がシルフィを飲み込んだ。
目の前から消えた。
あの日から、一度だって忘れたことはない。
「シルフィは……」
声が喉に引っかかる。
それでも、俺は答えた。
「俺の目の前で、転移しました」
「……そうかい」
ロールズさんは、それだけ言った。
エルナさんは俯いている。
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
「……すいませんでした」
俺は頭を下げた。
理由なんて、いくらでもある。
もっと早く動けたんじゃないか。
もっと強ければ。
もっと近くにいれば。
もっと──。
「謝る必要はないよ」
ロールズさんの声がした。
俺は顔を上げる。
「本来、それは親の役目だからね」
「……」
「君は私達より遥かに強い」
ロールズさんは静かに続ける。
「シルフィも、私達より強いだろうね」
その言葉には、親としての誇らしさがあった。
そして同時に、どうしようもない悲しさもあった。
「そんな二人も、転移には抗えなかった」
違う。
胸の中で、俺は否定した。
違うんだ。
そうじゃない。
手は届いた。
最後の瞬間、俺の手は確かにシルフィへ向かっていた。
あと少しだった。
なのに、掴めなかった。
手を離したのは俺だ。
俺のせいで。
そう考えると、胸が締め付けられる。
息が苦しい。
けれど、それを口にすることはできなかった。
ロールズさんはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……覚悟はしていた」
その声は、ひどく静かだった。
「だが、やっぱりか」
それ以上、誰も言葉を続けられなかった。
エルナさんは俯いたまま、目元を押さえている。
ヒルダさんも、何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
フィリップさんは静かに目を伏せている。
ギレーヌは何も言わない。
俺も、何も言えない。
この部屋にいる全員が、それぞれに大切なものを失っている。
フィットア領。
家。
家族。
友人。
それぞれ違う形をしているだけで、失ったものの重さは誰にも測れない。
俺は膝の上で拳を握った。
シルフィは生きているかもしれない。
どこかにいるかもしれない。
なら、まだ終わっていない。
けれど、今はその言葉を口にできなかった。
誰かの希望を簡単に口にするには、この部屋はあまりにも静かだった。
長い沈黙の後、ようやく口を開いたのはフィリップさんだった。
「……これからどうするんだい? ルーク君」
その問いで、俺は顔を上げた。
そうだ。
俺はこの四人を送り届けなければならない。
ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「とりあえず、皆さんをフィットア領まで送ります」
声を出す。
自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「ロアに難民キャンプがあるはずなので」
「王竜王国に留まらなくてもいいのかい?」
「はい」
俺は頷く。
「噂は充分残せました。ここで探し続けるより、ロアへ向かった方が情報も集めやすいと思います」
少し考えてから、続ける。
「最後に冒険者ギルドに書き置きを残して、ここを発ちます。フィットア領の生存者を探していることと、ロアへ向かうことを書いておけば、もし何か新しい情報が入った時に繋がるかもしれません」
フィリップさんが頷く。
「それがいいだろうね」
これからの大まかな流れを確認する。
明日以降、ロアへ向かう。
道中でも生存者に関する情報があれば拾う。
ロアに着いたら難民キャンプを探す。
そして──。
シルフィを探す。
それぞれが明日の準備をするため、少しずつ部屋を出ていく。
最後に残った俺は、窓の外を見た。
夜の街には、無数の明かりが灯っている。
この世界のどこかに、シルフィもいるのだろうか。
分からない。
けれど、俺はもう知っている。
生存者はいる。
フィリップさんも、ヒルダさんも、ロールズさんも、エルナさんも生きていた。
なら、シルフィだって。
そう信じることくらいは、許されるだろう。
俺は静かに拳を握った。
あの日、届かなかった手を思い出しながら。
今度は、自分から探しに行く。
それだけは、決めていた。
まー、フィリップとヒルダ助けてこの二人助けないのも違うよね。エリスだけ救う訳にもいくまいよ。シルフィも救わなきゃ。
シルフィのお母さんはどこにも名前なかったので考えました。若干エリスと被ってるけど違和感はあまりないと思います。