迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
夢を見ていた。
夢の中で俺は、淡い桃色の光──自分の放つ
意識は朦朧としていたが、世界の境界線を恐ろしいスピードで落ちていく感覚だけが、なぜか魂に刻まれている。
上下左右も分からない、光と混沌が入り混じる景色の中、ボルグの表面が激しい摩擦で火花を散らしている。気を抜けば、この盾ごと粉々に砕け散って消えるという確信だけがあった。生き延びるために、俺は必死に魔力を振り絞り、着陸できる安全な場所を探していた。
──目を開けた瞬間、真っ白い空間に俺はいた。
何もない、上下の概念すら曖昧な空間だ。すぐに夢だと分かったが、身体が鉛のように重い。
…………え?
ふと自分の身体を見下ろし、驚愕で目を見開いた。
緑色の髪の毛を持ち、左目辺りに火傷のあとがあるあの10歳の小さな手ではない。ノトス家の冷たい地下室を這いずり、パウロの家で剣を握り続けた少年ルークの肉体ではなかった。
そこにいたのは、就活や将来の不安から逃げるように、大好きな漫画の単行本ばかりを貪り読んでいた、あの頃の──21年間見慣れた、日本の大学生だった自分の姿だった。
それと同時に、前世の記憶が濁流のように蘇ってくる。
何となく大学に通い、何となく生涯を終えたあの虚無感。この10年間の異世界での日々が、ただの都合のいい走馬灯のように思え、胸の奥からどす黒い落胆がこみ上げてきた。
戻ってしまった。と、直感的に悟った。
あの10年間は全部、死にゆく俺が見た一瞬の夢だったのか。
それにしては、随分とリアリティのある夢だった。緑髪のせいで実の親から忌み嫌われ、冷たい地下室に軟禁された地獄の5年間。そこから家出して、俺を本物の家族として抱きしめてくれたパウロたちの温かい家庭。ルーデウスという友達と出会い、いじめから救い出したシルフィという可愛い女の子と笑い合った、あの愛おしい10年間。
もっと、みんなと生きたかった。
ルークとしての必死な記憶が、朝霧のように薄れていくのを感じる。
何を期待していたのだか。
前世で何一つ成し遂げられなかった半端な大学生が、異世界で二度目の幸せな人生なんて、そう簡単に掴めるはずがないのにな。
ふと気づくと、変なやつがいた。
のっぺりとした白い顔で、にこやかに笑っている。特徴は無い。こういう顔の部位だと認識すると、すぐに記憶から抜けていった。覚えることが出来ないのだ。
そのせいか、まるで彼全体にモザイクが掛かっているような印象を請ける。ただ、穏やかそうな人物だと思った。
「やあ、初めましてかな。こんにちわ。ルーク君」
落胆に暮れていると、モザイクがかかった人形のような奴が話しかけてきた。中性的な声だ。男か女かわからない。
「聞こえているよね?」
ああ、そうか。返事をしてなかったな。聞こえてますよ、こんにちは。
「うんうん、挨拶ができるのはいいことだね」
声は出なかったが、相手には通じたらしい。そのまま会話をすることにしよう。
まず、あなたはどこのどなた様? なんで急に俺の夢に出てくるの? てか、結局あれは夢だったのか?
「質問が多いなぁ、ひとつずつ答えるよ」
人の夢に出てきて小言まで言うのかよ。
「ごめんごめん。謝るから怒らないでくれよ」
怒ってねぇよ別に。何から質問するか悩んでただけだ。じゃあまぁ、まずお前はなんなんだ?
「見ての通りさ」
見ての通り? モザイクでよく見えないんだが……。
まさかダビデとか言うんじゃないだろうな。俺が特異点とか? 嫌だぞ。俺は第二のシンドバッドになるつもりはない。好きだけどさ。
それか、まさか俺自身がマギでした、なんて言うつもりじゃないだろうな。だとしたら、お前はウーゴくんってことか? いやいや、ないない。
「ダビデ? 特異点? シンドバッド? ウーゴくん? 聞いた事のない名前ばかりだね。そのダビデやシンドバッド、ウーゴくんってのは、僕に似てるのかい?」
いや全然。ダビデは男前だった気がする。でもアルマトラン時代だし、あんまり好きじゃない。
シンドバッドも男前だな。アイツが生まれた瞬間は世界の美女が泣いたとか泣いてないとか。
ウーゴくんはメガネかけてる優男だからな。お前とは似ても似つかない。
「なるほど、君の世界にはそういうのもいるのか」
いませんけどね。そういう物語を作ってくれた偉大なる先生がいてな。その中のキャラクターだよ。
「キャラクター?」
キャラクターもわからないか。そりゃそうだ。創作上の人物って意味で捉えてくれていい。
「……まあいいや。ボクは神様だよ。人神だ」
はあ。ヒトガミ……。
「気のない返事だ」
いえ……。そんな神様がどうして俺に話しかけてきたのかな、と。ていうか、登場するの遅くないですか? 普通はもっと早く出てくるものじゃないのか?
「もっとはやく……? どういう意味だい?」
なんでもないです。続きをどうぞ。
「君のこと、見てたよ。なかなか面白い人生を送っているじゃないか!」
ノゾキが趣味の神様ねぇ。褒められない趣味をお持ちのようで。
「あはは、君は面白いね。まぁその通りさ。あまり褒められた趣味じゃない。けど、そのおかげで君は僕に会えたんだよ」
そりゃどうも。恩着せがましいですね。しかも見下されてる感じがむかつきますね。
「つれないねえ。君が困っているだろうと思って声を掛けたのに」
困った時に声を掛けてくるヤツにはロクなヤツがいません。
「僕は君の味方だよ」
味方、ねぇ。ならどうして俺がピンチの時に助けてくれなかったんだ? 転移の事を教えてくれていれば、何とかなったかもしれないだろ。
「そこまで言われちゃうと困るなあ……」
困るなよ。一応神様なんだろ?
「手厳しいね。せっかく君のために助言をしてあげようと思ったのに」
ああ。神のお告げ的なあれですね。俺は欧米の神様にでもなるのか? 嫌だぞ、最終的に裏切られて磔にされるのは。
「さっきから何の話をしてるんだい君は。勘違いしないでくれよ。前世のことじゃなくて、今の話をしているんだから」
……ん? じゃあこの姿は?
「君の精神体だよ。肉体は別」
精神体。
「もちろん、肉体は無事だ」
なら、これはただの夢? 目が覚めて、俺はまだルークなのか?
「イエス。これは夢だよ。目が覚めれば、君の身体は元通りだ。安心したかい?」
イエスて。神様も冗談が上手いな。いや、そんな事は今はどうでもいい。そうか。安心した。夢か……。
「おっと、ただの夢じゃないよ。僕が君の精神に直接語りかけているんだ。驚いたね、精神と肉体が違う人間がもう一人いるなんてね……」
もう一人?
「気にしないでおくれ。こっちの話さ」
……よく分かんねぇ奴だな。で、どうしようって言うんだ? 異物はウザいから元の世界に戻そうっていうのか?
「まさか、六面世界以外の異世界には、僕にだって送り返せないよ。そんな当たり前の事もわからないのかい?」
むっ。何が当たり前で、何がそうじゃないのかなんて、俺にわかるわけないだろ。
「ごもっとも」
まてよ。送り返せないってことは、あんたがこの世界に転生させたわけじゃないってことか。
「まぁね。大体、僕は転生なんてさせられないよ。そういうのは、悪い龍神の得意とする所さ」
ふむ。悪い龍神のねえ……。
「で、聞くかい? 助言」
………………聞かない。
「えっ! どうしてだい?」
今の状況がどうであれ、おまえは胡散臭い。お前みたいなヤツの話は最初から耳を貸さないに限る。
「胡散臭い、かなあ……?」
ああ、胡散臭い。騙そう騙そうって感じがプンプンするね。
友達がネズミ講の一員で、久しぶりにファミレスで話を聞いた時によく似てる。詐欺と一緒だ。話を聞いた時点で操られるんだ。
「詐欺じゃないよ。それなら聞くか、聞かないかなんて言わないよ」
それも作戦だろ。
「信じてくれよぉ」
神のくせに情けない声を出しやがって。
大体、俺は無宗教だ。実家に仏壇はあったけど。仏様みたいな人がお告げをくれるなら信じたかもしれないが、知りもしない異教の神が変なこと言ってきたら、疑って当然だろうが。
「そんな事言わずにさ。最初の1回だけでいいんだ」
絶対に騙そうとしてるだろ。
「いや、君の前世の世界の神様とボクは違うから。それに、これから助けようって言ってるんだよ?」
だから、それが信用できないって言ってるだろ。言葉だけじゃダメなんだよ。信用してほしいなら、奇跡でも起こしてみろよ。海割ってみろよ。
「起こしてるじゃないか。夢を通して語りかけるなんて、僕にしか出来ないよ」
語りかけるぐらい、夢を通さなくてもできるだろうが。手紙でもなんでも出せばいい。
「ごもっとも。とはいえ、信用できないって言われてもねえ。このままだと君、4人を守りきれないよ?」
……なるほど、そう来たか。
「君は今まで奇跡的に生き残っているだけに過ぎないんだよ。この世界のことを詳しく知っている訳じゃない」
まぁ、否定はしない。
「君のその
ラプラス因子? なんだそれ。
「それは教えないさ。君はまだ僕を信用していないからね」
できるかよ。顔も見せずに人様に信用してもらおうなんて。虫のいい話だ。
「厳しい意見だね。でも、君はこの世界のことを知らない。それは間違いないだろう?」
そうだな。王竜王国がどんな場所なのかも、何となくでしか知らないしな。
「そこで僕の登場ってわけさ。フィットア領に帰るためのルートを、僕が考えてあげるよ」
いや、ルートの話は昨日六人でした。時間はかかるが街道を通っていけば、辿り着けるはずだ。
「ところがそうはいかないのさ」
はぁ? なんで。
「君もよく知っているだろう? 紛争地帯さ」
紛争地帯と街道になんの関係があるんだ? 少なくとも、あそこまで被害が出ているわけがない。
「紛争が激化して更に広がるのさ。周囲の国もそれに参加して、王竜王国含めた近辺国は援軍を要請されるわけ。そして各国は戦いの準備に移る。王竜王国はないとしても、シーローン王国辺りは万が一に備えて国防に備えるだろう。そうすると、どうなる?」
どうなる? どうなるって……。
街道が封鎖、とか?
「正解!」
バカにしてるだろ、お前。
「そうして街道が封鎖され、シーローン王国への申請書がない人間は通れなくなっちゃうんだよ」
なるほどな。
「さぁ、君はどうやってこれを攻略するつもりだい? 何か案があるのかい?」
……ねぇよ、クソ。
「だよねだよね! だから、僕が助言をしてあげようと思ってさ!」
待てよ。お前のいうそれが本当に起こると証明しろ。話を聞くのはそれからだ。
「証明する必要なんてないさ」
なんでだよ。
「すぐに分かるからさ。この夢から覚めたら、僕の言っていたことが本当だと分かると思うよ」
……胡散臭い。どうにも信用にかけるんだよ、お前の物言いは。
「……じゃあ逆に聞くけれど、紛争地帯で4人を守り切れるという保証は、あるのかい?」
…………。
「せっかくルーデウスの知り合いとシルフィの両親にまで会えて、頼りになるギレーヌにまで会えたのに。失ってもいいのかい?」
……分かったよ。聞くよ、助言。
「ありがとう!」
やけに嬉しそうだな。
「気のせいさ。……オホン。ルークよ」
待て。その前にお前の目的を聞いておきたい。なぜ俺の前に現れた。なんで俺を助けようとする。放っておけばいいだろ。
「もう、神のお告げの邪魔をしないでおくれよ」
いいから答えてくれ。意味がわからないんだよ。
「だって、君が生きていたら面白そうじゃない。僕は長いことこの世界で生きているけど、君の
興味、ねぇ。
「そうさ。異世界人なんて滅多に現れないからね」
滅多にってことは、前例があるのか? 俺以外にも異世界人が来た前例が。
「そこも秘密さ」
……もういいや。さっさと助言に移ってくれ。
「そうかい? では……オホン。ルークよ、王竜王国の北西にある密林地帯を抜け、赤竜の下顎を通りなさい。さすれば、無事にフィットア領に到達できるでしょう」
胡散臭い神はそれだけ言うと、エコーを残しながら消えていった。
☆☆☆
強烈な浮遊感と共に、意識が現実へと引き戻された。
まるで高い場所から突然落とされたような感覚だった。内臓が一瞬だけ浮き上がり、次いで背中から硬いものへ叩きつけられる。俺は反射的に身体を丸め、荒い息を吐きながらベッドの上で上体を起こした。
しばらく、何も考えられなかった。
目の前には薄暗い宿の天井があり、鼻をくすぐるのは乾いた木材と古い布団、それから昨晩使った油灯の残り香。窓の向こうからは、まだ完全には目覚めていない街の気配が微かに聞こえてくる。遠くで誰かが扉を開ける音がして、続いて石畳を踏む足音が二つ、三つ。そんな当たり前の音を聞きながら、俺は自分の胸に手を当てた。
心臓が、嫌になるほど速く鳴っている。
じっとりとした汗が背中を伝い、寝間着が肌に張り付いていた。夢の中で感じていた身体の重さとは違う。今ここにあるのは、間違いなく十歳のルーク・ノトス・グレイラットの身体だった。
俺はゆっくりと両手を持ち上げた。
小さい。
細い指。まだ子供らしさの残る手。剣を握り続けて硬くなった掌には、十年分の鍛錬によってできた薄い皮膚の硬さがある。それを見ているうちに、さっきまで夢の中にあった、二十一歳の自分の手の感触が急速に遠ざかっていった。
「……クソ」
吐き捨てるように呟く。
目を閉じれば、まだあの白い空間が浮かぶ。
のっぺりとした顔。覚えようとしても記憶から滑り落ちていく、あの気味の悪い男。人神──ヒトガミと名乗った存在。
「なんだよ、あのウーゴ君もどきは……」
夢だった。
そう言い切ってしまえば、それで終わる話だ。
けれど、夢にしては妙に鮮明だった。会話の一つ一つまで覚えているし、何より最後に告げられた言葉が頭から離れない。
王竜王国の北西にある密林地帯。
赤竜の下顎。
街道の封鎖。
俺はベッドの端に腰掛けたまま、しばらく黙っていた。
あの男の言葉を信じるつもりはない。
そもそも、あいつ自身が自分を信用できる存在ではないと理解しているような口ぶりだった。こちらの質問には答えたり答えなかったりするし、重要そうなことほど「秘密さ」で済ませる。俺の知らないことを知っているくせに、こちらには必要な情報を小出しにして、最後には「君を助けてあげる」なんて言う。
詐欺師のやり口と何が違う。
それでも──。
俺はベッドから立ち上がった。
夢の中で聞いた、あの言葉が引っかかっている。
紛争が激化する。周囲の国が戦争に巻き込まれる。街道が封鎖される。
もし本当にそうなるなら、俺たちは今いる場所から動けなくなる。
フィリップさん、ヒルダさん、ロールズさん、エルナさん。
戦闘能力を持たない四人を連れた状態で、紛争が拡大した王竜王国に取り残される。俺とギレーヌがどれだけ強くても、街一つを相手にできるわけじゃない。ましてや、戦争になれば敵は魔物だけじゃない。人間が人間を殺す場所では、どこから何が飛んでくるのかすら分からない。
そして俺は、もう一度シルフィを失うようなことをしたくなかった。
あの手を離した瞬間の感触を、俺はまだ忘れていない。
「……確かめるか」
独り言のように呟いた。
信じるためじゃない。疑うためだ。
あいつの言ったことが本当なのか、それだけを確かめる。
そう決めて部屋の扉へ向かおうとした、その時だった。
「ルーク、起きたか」
「──っ」
背後から声がした。
振り返ると、部屋の隅にギレーヌが立っていた。いつからそこにいたのか分からない。黒い外套に身を包み、壁にもたれるでもなく、ただ静かにこちらを見ている。朝の薄暗い光の中では、彼女の姿は妙に輪郭が薄く見えた。
「妙なうなされ方だったが、大丈夫か?」
「……ああ」
俺は一瞬だけ迷った。
ヒトガミのことを話すべきか。
いや、話す必要はない。
夢の中に神が出てきて、未来のことを教えてくれた──そんな話を突然聞かされて、信じてもらえるはずがない。それに、ヒトガミが本当に神なのかどうかすら俺には分からない。
「ちょっと変な夢を見ただけだよ」
「そうか」
ギレーヌはそれ以上聞かなかった。
こういうところは、本当に助かる。必要以上に踏み込まない。だが、俺が何かを隠していることまで見逃しているわけではないのだろう。
彼女の視線が一瞬だけ俺の顔を捉えた。
俺はその視線から逃げるように窓へ目を向ける。
「……なあ、ギレーヌ」
「なんだ」
「ちょっと頼みがある」
俺は窓際へ歩きながら、頭の中で言葉を整理した。
「ここ王竜王国からシーローン王国へ続く街道の様子を見てきてくれないか? 紛争のせいで、兵の動きが変わっているかもしれない」
ギレーヌの眉がわずかに動いた。
「街道を?」
「ああ。できれば国境へ向かう辺りまで。無理はしなくていい。何か変な動きがあるかだけ確認してほしい」
俺自身でも、随分と唐突な頼みだと思う。
ギレーヌはしばらく俺を見ていた。俺が普段ならこんな頼み方をしないことも、何かを気にしていることも、おそらく察している。
だが、彼女は理由を問い詰めなかった。
「分かった」
短く答えると、ギレーヌは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、俺はようやく息を吐いた。
これでいい。
俺が直接見に行くより、ギレーヌに任せた方がいい。もし本当に何もなければ、それでいい。俺の見た夢は、ただの悪夢だったということになる。
そうなってくれれば、それが一番いい。
だが──。
数時間後。
戻ってきたギレーヌの顔を見た瞬間、俺は答えを悟った。
彼女はいつもの落ち着いた表情をしていたが、その奥には明らかな緊張がある。扉を開けるなり、俺のところまで真っ直ぐ歩いてきた。
「ルーク」
「……どうだった?」
「お前の言った通りだ」
その一言で、胃の奥が重く沈んだ。
「国境へ続く街道に、軍が集まり始めている。既に一部の街道は封鎖されていた。民間人は通されていない」
「……どのくらい?」
「この辺りから国境へ向かう主要街道は、ほぼ全てだ。今はまだ完全に王竜王国へ戦火が広がっているわけではないが、周辺国も軍を動かしている。状況が変われば、さらに封鎖範囲が広がるだろう」
俺は何も言わなかった。
ヒトガミの言葉が、嫌になるほど正確だった。
夢の中であいつが言ったことは、少なくとも一つ、現実になった。
「……そうか」
奥歯を噛み締める。
腹が立つ。腹が立つが、認めるしかない。
あいつは俺が知らない情報を知っていた。
そして、その情報は俺たちの旅程を根本から変えてしまう。
「このままだと、ここに閉じ込められるぞ」
「分かってる」
ギレーヌの言葉に、俺は窓の外を見た。昨日までなら、ただの街だった。
人が歩き、店が開き、馬車が行き交う。紛争地帯が近くにあるとはいえ、少なくともこの街で暮らす人間にとっては、まだ日常が残っていた。
だが、その日常の裏側では、国同士が戦争の準備を始めている。
俺たちがのんびりしている間にも、状況は変わっていく。
そして俺たちには、三人の非戦闘員がいる。
フィリップさんとヒルダさん。
そして、シルフィの両親であるエルナさん。ロールズさんは討伐隊に入っていたことも加味すると、戦えるだろう。でも、まだ消耗しているはずだ。
四人を連れて、封鎖された街道を突破する。そんな選択肢は最初から存在しない。
「……ギレーヌ」
「なんだ」
「全員を隣の部屋に集めてくれ。ルートを変更する」
「ああ」
ギレーヌが頷く。
その背中を見送りながら、俺はもう一度だけ目を閉じた。
ヒトガミの顔は思い出せない。
どれだけ思い出そうとしても、あの白い顔にはモザイクがかかったままだ。
なのに、声だけは妙にはっきり覚えている。
──王竜王国の北西にある密林地帯を抜け、赤竜の下顎を通りなさい。
「……信用できないんだよなぁ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
それでも、今の俺には他に道がなかった。
宿の一室に六人が集まる頃には、昼を少し過ぎていた。
急な呼び出しだったこともあり、フィリップさんとヒルダさんは不安そうに顔を見合わせ、ロールズさんは無意識のうちにエルナさんの肩へ手を置いていた。つい先日まで奴隷として扱われていた二人にとって、再び「戦争」という言葉を聞くことがどれほど重いのか、俺には完全には想像できない。
ギレーヌは部屋の壁際に立ち、全員を見渡している。
俺は中央に座った。
「皆さん、落ち着いて聞いてください」
できるだけ平静な声を意識する。
「今、ギレーヌに街道の様子を見てもらいました。紛争の激化で、シーローン王国へ続く街道が封鎖されています。今まで通ってきたような通常の街道を使ってフィットア領へ戻るのは、難しいと思います」
空気が変わった。
ヒルダさんが小さく息を呑み、フィリップさんは腕を組んだまま眉間に皺を寄せる。
「……どこまで広がっている?」
「現時点では、王竜王国そのものが戦場になっているわけじゃない。ただ、周辺国も軍を動かしています。国境付近はかなり厳しくなっているみたいです」
「なるほど……」
フィリップさんは視線を落とした。
「そうなると、時間をかけるほど不利になるな」
「はい」
俺は頷いた。
「ここで情勢が落ち着くのを待つのも一つの手です。ただ、その間に王竜王国まで戦争に巻き込まれたら、俺たちは四人を連れて逃げることすら難しくなる」
自分で言いながら、言葉の重さを感じた。
戦闘なら、俺とギレーヌが前に出ればいい。
だが、守るべき人間が増えれば増えるほど、戦いは難しくなる。
敵を倒すことと、人を守ることは同じではない。
「だから、街道を使わずに進みます」
「……どこを?」
フィリップさんの問いに、俺は地図を広げた。
「ここから北西方面にある密林地帯へ入ります。その先を抜けて、『赤竜の下顎』を通る」
言った瞬間だった。
「……赤竜の下顎?」
それまで黙っていたギレーヌが、低い声を漏らした。
俺は顔を上げる。
「知ってるのか?」
「知っている」
ギレーヌの表情から、わずかに血の気が引いたように見えた。
「あそこは普通の人間が通る場所ではない。赤竜が生息する地域だ。空から襲われれば、逃げ場はほとんどない」
「だからこそ街道を避けられる」
「そういう問題ではない」
ギレーヌが俺を真っ直ぐ見た。
「フィリップ様たちを連れて行くには危険すぎる」
「分かってる」
俺も視線を逸らさなかった。
「でも、他に道がない」
地図を見る。
時間をかければ状況はさらに悪化する可能性がある。
そして、俺たちはすでに一度、世界そのものから居場所を奪われている。
ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「それに、俺はこの髪のせいで目立ってる。ギレーヌも剣王だ。戦争が大きくなれば、俺たちが徴用される可能性だってある。そうなったら、誰が四人を守る?」
「……」
「フィリップさんたちを置いて逃げるわけにもいかないだろ」
フィリップさんが苦笑した。
「随分と責任を背負い込むね、ルーク君」
「背負い込んでるつもりはありません」
俺は少しだけ笑った。
「俺が勝手に決めたことですから」
その言葉に、ヒルダさんが静かにこちらを見る。彼女の視線には、以前とは違うものがあった。初めて会った時、彼女は俺の緑髪を見て怯えた。
それが今では、俺を一人の人間として見ている。
「……本当に、あなたは変な子ね」
「よく言われます」
軽く返すと、ヒルダさんの口元が僅かに緩んだ。だが、俺はすぐに真剣な顔へ戻った。
「俺のボルグなら、空からの攻撃や範囲攻撃にはある程度対応できます。魔物が上空から襲ってきた場合、俺が防ぐ」
自分の胸元へ手を置く。
「近距離の敵はギレーヌに任せたい」
「……ああ」
「それで、皆さんを死なせない」
静寂が落ちた。
自分で言っておきながら、その言葉が妙に重かった。
死なせない。簡単に口にできる言葉じゃない。
俺は一度、シルフィの手を離している。
もう二度と、守ると決めた人間を失いたくない。
ギレーヌはしばらく俺を見つめた後、静かに頷いた。
「……お前がそこまで言うなら、私は信じてついていくだけだ」
彼女は腰の剣へ手を添えた。
「お前の背中は、私の剣で守る」
「……ありがとう」
フィリップさんも、ゆっくり息を吐いた。
「選択肢がないのであれば、ルーク君。私は君の指揮に従おう」
そして少しだけ笑う。
「ボレアスの男が、この程度の難所で怯えて立ち止まるわけにはいかないからね」
「助かります」
俺は頭を下げた。
続いて、ロールズさんとエルナさんを見る。
「ロールズさん、エルナさん。かなり過酷な旅になります。戦闘になれば、俺たちが前に出ます。だから……俺を信じてついてきてください」
二人はしばらく黙っていた。
やがてロールズさんが、俺の緑色の髪を見つめた。
「ルーク君」
「はい」
「君には感謝している。あのままだったら、私達はきっと惨い死を遂げていただろう」
その声は穏やかだった。
「シルフィの事は心配だ。でも、きっと生きている。なら、私たちがフィットア領に行ってあの子の居場所を作ってあげなきゃいけない。大丈夫だよ、ルーク君。シルフィはきっと生きてる」
ロールズさんやエルナさんが不安じゃない訳がない。最悪の想像を何度もしただろう。だけど、それを見せることはしなかった。
強い人だ。
「シルフィと同じ髪色の君が、シルフィとあれだけ仲良くなってくれて、本当に良かった。ありがとう」
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
この髪は、俺にとってずっと呪いのようなものだった。ノトス家では忌み嫌われ、閉じ込められた原因になった。スペルド族と間違えられ、怯えられた。
何度も何度も、自分が普通ではないことを思い知らされた。それなのに、この人たちは違う。緑色の髪を見て、怖がるのではなく笑ってくれる。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
こうして、方針は決まった。街道を捨てる。密林を抜ける。
赤竜の下顎を越える。
危険だ。
それでも、今の俺たちにはそれしかなかった。
☆☆☆
王竜王国の整備された街道を外れた瞬間、世界が変わった。
それまで左右に続いていた道は途切れ、代わりに目の前へ現れたのは、陽光すら遮る巨大な樹木だった。
幹は数人が手を回してようやく届くほど太く、絡み合った枝葉が頭上を覆い尽くしている。昼間だというのに森の内部は薄暗く、湿った空気が肌へまとわりついていた。足元には何層にも積み重なった腐葉土があり、その下には木の根が縦横無尽に走っている。一歩進むたびに靴が沈み、足を抜けば今度は別の根へ引っ掛かる。
道というものが存在しない。
それだけで、ここが人間の生活圏ではないことが分かる。
「……これは、想像以上だな」
フィリップさんが呟いた。
普段なら整った服装を崩さない人だが、すでに裾には泥が跳ね、額には汗が浮かんでいる。
ヒルダさんも息を整えながら歩いている。
ロールズさんとエルナさんは、さらに厳しい。奴隷として拘束されていた期間が長かったこともあり、体力は十分とは言えない。
俺は周囲を見回した。
魔物の気配。獣の気配。風の流れ。湿った土の匂い。木々の隙間から見える空。
どれも街道とはまるで違う。
「ルーク」
前方からギレーヌの声が飛んできた。
「ここからは私が先頭を歩く」
「頼めるか?」
「この程度の森なら問題ない」
ギレーヌはそう言って、先頭に躍り出た。音がしない。枝を踏む音すらほとんど聞こえない。
大森林の生まれである彼女にとって、ここは危険な密林というより、少し広い庭くらいの感覚なのかもしれない。
「お前は後ろを見ろ」
「ああ」
「四人から離れるな」
「分かってる」
俺は最後尾へ回った。闘気を薄く身体へ纏わせる。全力ではない。
この旅で最も怖いのは、魔物そのものではない。
俺の魔力や体力が尽きることだ。
四人を守りながら何日も進むなら、毎回全力で戦っているわけにはいかない。
俺は自分が思っていた以上に、守るということの難しさを理解し始めていた。
敵を倒せばいいだけなら簡単だ。
でも、後ろに守るべき人間がいる場合、攻撃より先に防御を考えなければならない。
そして防御には、想像以上に力を使う。
それを思い知らされたのは、密林へ入って数日が経った頃だった。
最初に聞こえたのは、鳴き声だった。
ギチ、ギチギチ、と。
湿った森の中に似つかわしくない、粘ついた音。俺は反射的に足を止めた。
「……止まって」
四人の足が止まる。ギレーヌも少し前で立ち止まった。
次の瞬間、巨大なシダ植物が激しく揺れた。
赤黒い葉を押しのけて姿を現したのは、巨大な甲虫だった。
人間の胴体ほどもある身体。左右へ開閉する巨大な鋏。
硬質な外殻は湿った森の光を鈍く反射している。
三匹。
「……
ギレーヌが呟いた瞬間、中央の一匹が跳ねた。
「ヒルダ、下がれ!」
フィリップさんが叫ぶ。だが、遅い。
魔物は地面を蹴り、一直線にヒルダさんへ向かった。
ギレーヌはすでに別の二匹へ向かっている。間に合わない。
なら──。
「
叫んだ瞬間、俺の目の前に桃色の光が膨れ上がった。
淡い色をした巨大な球状障壁が、フィリップさんとヒルダさんをまとめて包み込む。
直後。鋏が
凄まじい衝撃が空気を震わせ、周囲の葉が一斉に揺れる。
だが、割れない。ひび一つ入らない。
の突進は、ボルグに触れた瞬間、その力を失って弾き返された。
「な、なんだこれは……」
フィリップさんの声が聞こえる。
「フィリップさん! 動かないで!」
返事を待たず、俺は剣を抜いた。
闘気を足へ集め、腐葉土を蹴った。
甲虫の首元。外殻が重なり合って、僅かに隙間ができている。
そこしかない。
剣を滑り込ませる。硬い感触。次の瞬間、刃が内部へ届いた。
鈍い感触が手に伝わり、魔物の身体が痙攣する。俺は剣を引き抜いた。
同時に、森の向こうから二度、風を切る音が聞こえた。
ギレーヌだ。
振り返った時には、残り二匹がすでに地面へ転がっていた。
緑色の体液が腐葉土へ染み込み、鼻を刺すような臭いを放っている。
「……終わったか」
俺は剣を振って血を落とし、ボルグを解除した。その瞬間、身体から力が抜けそうになった。
「ふぅ……」
額から汗が落ちる。
「あっつ……」
シャツが背中に張り付いている。
たった一度、四人を守るためにボルグを展開しただけだ。
それなのに、この消耗。
俺は手のひらを見つめた。防げた。だからこそ問題だった。この防壁は強い。強すぎる。
だから、頼りすぎれば俺自身が先に動けなくなる。
「……キツイな」
赤竜の下顎まで、まだ距離がある。
この程度の魔物で消耗しているようでは、とてもじゃないが辿り着けない。
☆☆☆
それからも、俺たちは歩き続けた。
一日。
二日。
三日。
密林の中では時間の感覚すら曖昧になる。
朝なのか昼なのか、空を見なければ分からない。夜になれば木々の隙間から見える星は少なく、湿気を含んだ空気が身体へまとわりつく。雨が降れば地面は泥へ変わり、晴れれば蒸し暑さが身体を包む。
魔物も一種類ではない。
小型のものなら避け、大型のものなら可能な限り迂回する。
どうしても戦わなければならない時だけ、俺とギレーヌが前へ出る。
それでも、全員の疲労は少しずつ蓄積していった。
フィリップさんは時折地図を確認し、ヒルダさんはエルナさんの体調を気にしていた。ロールズさんは自分が疲れているにもかかわらず、エルナさんの荷物まで持とうとする。
そんな様子を見ていると、俺は何度も思った。
早く着かなければ。早く、この森を抜けなければ。
そんな焦りを抱えたまま、密林へ入って三週間ほどが経った。
雨季の湿気と連日の行軍によって、俺たちの疲労は限界に近づいていた。
その日の夕暮れ。
長い下り坂を抜けた先で、ようやく視界が開けた。
川だ。濁った水が森の中をゆっくりと流れている。
俺たちはそこで初めて、まともに休めそうな場所を見つけた。
「今日はここで休みましょ」
俺が言うと、誰も反対しなかった。
むしろ全員が、ようやく息を吐いたように見えた。
ギレーヌだけが、周囲を警戒している。俺も彼女の視線を追った。
そして──。
川辺に、人がいた。
小さな焚き火。その前に座り、魚を焼いている男。年齢は四十代から五十代くらいだろうか。
小綺麗な鎧を身に着けている。旅装束も使い込まれているが汚れてはいない。長旅をしているはずなのに、妙に余裕がある。ただの旅人には見えなかった。
ギレーヌの手が、ゆっくりと剣の柄へ伸びる。俺も無意識に腰の剣へ手を添えた。
男はこちらに気付いている。それなのに、慌てる様子がない。
むしろ魚をひっくり返しながら、こちらを見て笑った。
「おっと、おっと。物騒だねえ」
声は明るい。
「私はただの旅の者だよ。良ければそこのお嬢さんも、後ろの御一行も、一緒に火に当たっていかないかい? 魚なら余るほど釣れているからね」
人懐っこい笑顔。
警戒心を抱かせないための演技なのか。それとも、本当にこういう性格なのか。判断がつかない。
男の視線が俺へ向いた。
緑色の髪。腰に下げた剣。そして、俺の顔に残る傷。
ほんの一瞬だけ、その視線が止まった。
だが男は何も言わない。
「……ルーク」
隣からギレーヌが小さく声を落とす。
「油断ならない男だ」
「ああ」
俺も同意した。
そして、改めて男を見た。
──強い。
直感だった。
理由なんて説明できない。
ただ、分かる。
この男は、俺たちとは違う。
ギレーヌと比べても、何かがおかしい。
身体から漏れ出る気配そのものが違う。力を誇示しているわけでもない。ただそこに座って魚を焼いているだけなのに、その存在が妙に重い。
もし戦ったら。
俺とギレーヌが二人でかかっても、勝てない。
そう思った。
それは、これまでの俺なら認めたくなかった類の感覚だった。
俺は強くなった。少なくとも、昔の俺よりは遥かに。風狼とも戦った。迷宮の魔物も倒した。
何度も死にかけながら、ここまで生き残った。
それでも目の前の男を見た瞬間、そんな自負が簡単に薄れていく。
俺は一歩前へ出た。
「警戒は解くな」
ギレーヌは俺に小さく告げる。
「分かってる」
男から目を離さないまま、俺は一礼する。
「ご親切にありがとうございます。俺たちはアスラ王国へ向かっている旅の者です。お言葉に甘えて、少し休ませていただいてもよろしいでしょうか」
男は一瞬きょとんとした。それから、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「もちろん、もちろん! 私はシャンドル。世界をあちこち放浪している、しがない根無し草さ」
「シャンドルさん、ですか」
「そうそう。君は?」
「ルークです」
「ルーク君か。よろしく」
男──シャンドルは、気軽に手を差し出した。
俺は一瞬だけその手を見つめ、それから握り返した。
手のひらが触れた。その瞬間。ぞくり、と背筋に何かが走った。
強い。やっぱり、強い。
だがシャンドルはそんな俺の反応など気にした様子もなく、楽しそうに魚を焼き続けている。
「ほらほら、そんなところに立ってないで座りなよ。旅は長いんだろう?」
「……では、お言葉に甘えて」
俺たちは焚き火を囲むように腰を下ろした。
川のせせらぎ。燃える薪の音。焼けた魚の香ばしい匂い。
長く続いた密林の緊張が、ほんの少しだけ緩む。
それでも俺は、シャンドルから目を離さなかった。この男は何者なのか。どうしてこんな場所にいる。
その答えを、俺はまだ知らなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
ヒトガミとの夢を見た直後に出会った、この男との邂逅が俺のその後の人生を、大きく変えることになる。
そんな予感だけは、嫌になるほど鮮明に感じていた。
ヒトガミ登場。シャンドルも登場。上位に好きなキャラですシャンドル。ヒトガミは許しません、ルーデウス達を陥れるからです。ヒトガミは許しません。アニメ見た後だとそう決意出来るからです。ヒトガミは許しません。あのシルフィの綺麗な顔に傷をつけたからです。以上の理由からヒトガミは許しません。
最初の方を少し編集しました。