迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
「それで、貴方達はどうしてこんな所に? 見たところ、全員が冒険者というわけでもなさそうだ」
シャンドルさんは、焚き火の上で焼いていた川魚を一匹ずつ木の皿へ移しながら、穏やかな声音でそう尋ねた。焚き火の橙色の光が彼の横顔を照らし、白い煙が細く夜空へ昇っていく。密林の夜は昼間とはまるで別の生き物だった。木々の葉が風に擦れる音、遠くで鳴く魔物の声、湿った土の匂い。そのすべてが暗闇の中で混ざり合い、俺たちの周囲を巨大な獣の腹の中のような空間に変えている。
そんな場所でありながら、シャンドルさんの所作だけは妙に場違いなほど整っていた。焼き上がった魚を差し出す手つきに無駄はなく、泥と汗にまみれた俺たちとは違って、上品な旅装もほとんど汚れていない。細い目の奥には柔らかな光が宿っているものの、その視線は人の顔だけではなく、その場にいる全員の立ち位置や周囲の森の様子まで一度に捉えているように思えた。
俺とギレーヌは、まだ完全には警戒を解いていなかった。
目の前にいる男が強い。
それだけは、出会った瞬間から分かっていた。
問題は、その強さの底がまるで見えないことだった。
ギレーヌほどの剣士であれば、相手の実力をある程度は気配や立ち振る舞いから読み取れる。俺だって、これまで命懸けの戦いを何度も経験してきたせいか、以前よりはそういう感覚に敏感になっていた。けれど、シャンドルさんから感じるものは、単純な殺気や剣気とは少し違う。力を隠しているというより、力を必要以上に誇示する理由がない人間の静けさだった。
蓋を開けてみれば、彼の態度は不気味なほどに徹頭徹尾、紳士のそれだった。
俺たちはフィリップさんたちの素性を隠している。ボレアス家の貴族であることも、ヒルダさんがその妻であることも、今のところ必要がない限り話すつもりはない。それでもシャンドルさんは、彼らの洗練された言葉遣いや立ち居振る舞いから何かを察しているらしく、まるで本物の貴族を相手にするかのように丁重な礼儀を崩さなかった。
かと思えば、ロールズさんやエルナさんに対して態度を変えることもない。
身分を見て人を判断するのではなく、目の前にいる一人の人間として接している。
それは、この世界では思っていた以上に珍しいことだった。
少なくとも、この男が理由もなく俺たちに刃を向けるような真似をするとは思えない。
ギレーヌは相変わらず立ったまま周囲を警戒していたが、その視線にあったのは敵意ではなく、相手の出方を窺うような慎重さだった。
「俺達はフィットア領転移事件の被害者です」
俺が答えると、シャンドルさんの手が止まった。
火に翳していた手をゆっくり下ろし、細い目を僅かに見開く。
「……なるほど。噂は聞いていましたが……本当に、世界中に転移されているのですね」
驚きの中に、ほんの少しだけ痛ましさが混じっていた。
フィットア領転移事件。
俺たちがそれを経験してから、もうかなりの時間が経っている。それでも、この王竜王国にまで噂が届いているということは、それだけこの事件が世界規模の災害として認識されているということなのだろう。
当然だ。
ある日突然、領地そのものが消えた。
住民も、建物も、家畜も、街も村も関係なく、そこにいた人間が世界中のどこかへ飛ばされたのだ。
その後に待っていたのは、家族との離散、奴隷化、魔物による襲撃、飢え、戦争、見知らぬ土地での差別。
俺も噂で何度も聞いた。
「……見たところ、君も随分と苦労したようですね」
シャンドルさんの視線が、俺の顔へ向けられる。
左目の周囲に残った火傷の痕。
転移直後の迷宮で負った傷は、謎の紙によって命に関わる部分こそ癒えたものの、完全に元へ戻ったわけではない。皮膚はところどころ引き攣り、目尻から頬にかけて赤黒く変色した跡が残っている。
鏡を見るたび、あの迷宮で過ごした日々を思い出す。
青い炎。
巨大な鎧。
逃げ場のない空間。
そして、シルフィの手を掴めなかった、あの瞬間。
「そうですね。さっきまで平和な村にいたと思ったら、いつの間にか見知らぬ迷宮の中に飛ばされていましたから」
「迷宮に?」
「はい」
「……なるほど。そういったパターンもあるのですか」
シャンドルさんは眉を寄せ、そのまましばらく言葉を失った。
平原に飛ばされるだけでも、戦う力を持たない一般人なら命を落とす可能性がある。まして、飛ばされた先が凶暴な魔物の巣窟である迷宮だったなら、その絶望は想像するしかない。
シャンドルさんは俺の話を聞きながら、俺自身ではなく、まだどこかで助けを待っているかもしれない他の転移者たちに思いを馳せているようだった。
「……皆さん、本当によくご無事でしたね」
「私達はみな、ルーク君に助けられただけに過ぎません」
フィリップさんが静かに口を開いた。
「もし彼がいなかったのであれば、私達は今頃この場にはいないでしょう」
その言葉には、社交辞令ではない確かな信頼があった。
ヒルダさんも黙って頷き、ロールズさんとエルナさんもまた、俺へ温かな視線を向ける。
俺は少しだけ居心地が悪くなって、頭を掻いた。
「まぁ……俺一人じゃ何もできませんでしたけどね」
本当のところ、そうなのだ。一人で何でもできる人間なんて、たぶん存在しない。
「まぁ、あちらの彼女は、そんな心配は無さそうですがね」
シャンドルさんが冗談めかして視線を向けた先には、ギレーヌがいた。
彼女は相変わらず焚き火から少し離れた場所に立ち、森の闇を睨んでいる。食事をしている最中でさえ警戒を完全に解かないあたり、いかにもギレーヌらしい。
その視線が俺たちへ向けられていないことに気づいたのか、ギレーヌは俺の方へ顔を向け、僅かに首を傾げた。
……何だ、その顔。
思わず笑ってしまう。
「はは。ギレーヌは強いですからね」
「あれが剣王ギレーヌですか。どうりで、凄まじい剣気を纏っているわけだ」
「剣王って知ってるんですか?」
「ええ。世界中を旅していれば、自然と耳に入ってくるものです」
シャンドルさんは感心したように頷いた。
ギレーヌは特に反応を示さない。自分の二つ名など、本人にとってはどうでもいいことなのだろう。
「……それで、ルーク君」
シャンドルさんは手元の木の皿を一度傍らに置き、焚き火の薪を枝で軽くつつきながら、極めて自然な口調で尋ねてきた。
「君はここからどのようにフィットア領を目指すつもりなのですか?」
なぜそんなことを聞くのか疑問に思いつつも、俺は口を開いた。
「本来なら、王竜王国からシーローン王国へ続く表の街道を通って、順番に関所を抜けていく予定だったんです」
俺は焚き火の横の地面に、手近な木の枝を使って、頭の中にある中央大陸南部の歪な地図をざっくりと描き始めた。冒険者として仕入れた知識が、俺の頭の中にははっきりと残っている。
「ですが、先ほどギレーヌに確認してもらった通り、紛争の激化のせいで主要な街道はすべて封鎖されてしまいました。身元の怪しい俺たちが、軍隊が睨み合っている関所に突っ込むわけにはいきません。だから、俺たちは街道を完全に外れます」
「ほう、街道を外れて……」
シャンドルさんは俺が地面に描いた即席の地図をじっと見つめ、興味深そうに顎を撫でた。
「ここから南西に広がる、この未開の密林地帯の獣道を進みます。もちろん、道なんて上等なものは期待していません。ギレーヌと俺の二人で皆を守りつつ、最短距離でこの密林地帯を突っ切るつもりです」
「なるほど、それはなかなかに泥臭く、しかし確実な避難経路だ。……ですが、密林を抜けた先には、あの巨大な赤竜山脈が立ち塞がっていますよ。あそこは人間が簡単に越えられる山ではありません」
「ええ、分かっています。山を登るつもりはありません。密林を抜けたら、山脈の裾野に沿って西へ回り込み、あの渓谷を通ります」
俺は、地図の赤竜山脈の南端に、一本の深い溝を刻み込んだ。
「──『赤竜の下顎』です。あの一本道を抜けて、アスラ王国の南側へ直接出ます。そこから北上して、フィットア領の難民キャンプがあるロアへ、皆さんを送り届ける。これが、俺の考えている旅の工程のすべてです」
俺がすべての計画を話し終えると、それまで静かに聞いていたフィリップさんが、重々しく頷いた。
「通常であれば狂気の沙汰だが、現在の状況を鑑みれば、これしか道はない。前も言ったが。ルーク、私は君のその判断を支持するよ」
一方、シャンドルさんは俺が描いた地図の『赤竜の下顎』という文字をじっと見つめたまま、しばらくの間、深く沈黙していた。その表情には、感心とも、あるいは俺たちの無謀さを案じるものとも取れない、複雑な陰が差している。
「……王竜王国の封鎖を瞬時に察知し、即座に『赤竜の下顎』を使ったルートを組み立てる。10歳の少年が立てたとしては、お世辞抜きで完璧と言わざるを得ませんね」
シャンドルさんはフッと息を漏らし、いつもの紳士的な笑みを浮かべた。しかし、その直後、彼の声音から少しだけ冗談めかした響きが消え、真摯な響きが混じる。
やがてフィリップさんが、そんなシャンドルさんへ探るような視線を向ける。
「ところでシャンドル殿。貴殿のような御仁が、どうしてこのような未開の密林地帯に?」
「ああ、私はその……武者修行のようなものをしておりましてね。こうして世界各地を巡り、己の研鑽に励んでいるところなのです」
武者修行。シャンドルさんはそう言って穏やかに笑う。
だが、俺の視線は自然と彼の足元へと向いていた。そこには、お世辞にも剣とは呼べない、ただの不格好な黒い鉄の棒のようなものが転がっている。
──武者修行にしては、ずいぶんと風変わりな武器を持ってるおじさんだな……。『眷属器』か、それとも何か特殊な『金属器』の類か? あの棒に何か特殊な能力があるのか?
俺がその妙な鉄の棒をじっと見つめていると、シャンドルさんは俺の視線に気づいたのか、「おや」と声を漏らし、愛おしそうにその鉄の棒を拾い上げてみせた。
「これですか? ふふ、物珍しいでしょう。お世辞にも美しい剣とは言えませんからね。ですが、これは私の大切な相棒なのです。私は元来、あまりギラギラとした抜き身の刀剣を腰に下げて、周囲の人々を威圧するのが好きではなくてね。こうしてただの鉄の棒として扱っている方が、旅の途中で出会う人々を怖がらせずに済む。……何より、私の目指す戦い方には、これが一番しっくりくるのですよ」
彼はその鉄の棒を指先でそっと撫でる。その仕草には、自身の武器に対する絶対的な愛着と、底知れない自信が滲み出ていた。ただの棒切れに見えるそれが、彼の手に収まった瞬間、まるで世界で最も重厚な名剣であるかのような錯覚さえ覚える。
シャンドルは俺の反応を見た後に、ゆっくりと口を開いた。
「……ルーク君。もし宜しければ、その旅に私も同行させていただいてもよろしいでしょうか」
「え……?」
唐突の申し出に、俺は思わず声を漏らした。
部屋の隅にいたギレーヌの身体が、ピクリと不穏に強張る。
「どうしてですか? ……」
「もちろん、私の研鑽のためでもありますがね。……何より、あなた方が目指す『赤竜の下顎』は、あまりにも危険な場所だからです。先程完璧とは言いましたが、一つ懸念点があるのならここです」
シャンドルさんは焚き火を見つめ、静かに、しかし重い口調で語り始めた。
「あそこは上空から赤竜の群れが容赦なく襲いかかる、文字通りの地獄です。いくらそちらの剣王ギレーヌ殿が桁外れに強かろうと、空からの無差別な襲撃から、戦う力を持たない一般の方々をすべて守りきるのは不可能に近い。最悪の場合、一瞬で全滅する可能性だってあります」
シャンドルさんはそこで言葉を一度区切り、俺たち全員の顔をゆっくりと見渡した。その細い目の奥にある光は、どこまでも温かく、そして力強かった。
「転移事件から死に物狂いで生き延びて、ようやく故郷のフィットア領に帰ろうとしている。そんな志半ばの皆さんが、故郷を目前にして赤竜に襲われて全滅するなんて……私は、そんな悲劇をどうしても見たくはないのですよ。困っている人々を前にして素通りするようでは、それこそ男の名が廃るというものです。しがない私の旅の知識と、この腕が、きっと皆さんの盾になれるはずですから」
その言葉には、一切の打算も嘘も感じられなかった。
ただ純粋に、人助けのために命の危険がある難所へ同行すると言っているのだ。
「シャンドル殿……」
フィリップさんが、深く感じ入ったように頭を下げた。シャンドルさんに向けて救われたような感謝の眼差しを向けている。
「ルーク君、彼を信じて、背中を預けてみても良いのではないかい?」
フィリップさんの問いかけに、俺はゴクリと息を呑んだ。
ギレーヌは依然として立ったまま、じっとシャンドルさんの挙動を監視している。しかし、その耳は微かに揺れており、最初のような刺すような殺気はすでに消えていた。この男の本質が『悪』ではないと、野生の勘で理解したのだろう。
このおじさんが抱える鉄の棒が、どんな『奇跡』を起こすのかは分からない。けれど、この真っ直ぐな信念を持つ男になら、俺たちの背中を預けてもいいかもしれないと、不思議とそう思えたのだった。
「そういえばルーク君。君は何流なのですか? 剣士なのでしょう?」
俺の腰に下げている剣を見ながらそう言った。
「俺ですか?」
「ええ。彼女と同じ剣神流ですか? それとも水神流? はたまた北神流ですか?」
唐突な質問に、俺は少しだけ考え込んだ。
言われてみれば、俺は何流なのだろう。
パウロさんは三大流派のすべてを上級レベルで扱える剣士だった。幼い頃の俺は、その背中を追いかけながら三つの流派の基本を叩き込まれた。
ただし、剣神流だけは最初から相性が悪かった。
『お前は剣神流には向いてねぇな』
パウロさんはそう言っていた。
身体能力を限界まで引き出し、最速で間合いを詰め、一撃にすべてを乗せる剣神流。その性質は、俺の戦い方とはどうにも噛み合わなかった。
だからパウロさんは、水神流を中心に俺へ教えた。
受ける。
流す。
相手の力を利用する。
そして必要な瞬間だけ、自分の力を叩き込む。
前世で見たシャルルカンの流れるような剣術と、アリババの無駄を削ぎ落とした王宮剣術。その二つのイメージが、俺の中では妙にしっくりきていた。
もちろん、そんなものをこの世界でそのまま再現できるわけではない。
だから俺は、パウロさんから教わった水神流を土台にして、自分が使いやすい形へ少しずつ変えていった。
闘気による身体能力の底上げ。
ボルグによる防御。
水神流の受け流し。
そこへ北神流の不意打ちや状況判断を、自分なりに混ぜ込んでいる。
結果として出来上がったのが、今の俺の剣だった。
「……特に明確な流派はありませんね。父さんは水神流を中心に教えてくれました」
「ほう。ルーク君の父上は、水神流の使い手でしたか」
「いえ。父さんは三大流派の全部を使えるんです。その中から、俺の特性に合っている水神流を選んでくれたんだと思います」
「三大流派ということは……北神流も使えるのですね?」
シャンドルさんの声が、なぜか少しだけ熱を帯びた気がした。
「ええ。でも、嫌いなのか何なのか、父さんはあまり俺の前で北神流を見せてくれませんでしたよ。なんでも、泥を投げたり不意を突いたり、あんなのは卑怯な剣術だとか何とか言って」
俺が何気なくパウロさんの言葉を思い返して口にした瞬間。
シャンドルさんの顔から笑みが消え、目に見えてとてつもないショックを受けているように見えた。まるで、大切にしていた宝物を目の前で木っ端微塵に叩き割られたかのような、深い絶望の表情だ。
「……そうですか。卑怯な剣術、ね」
ポツリと呟いた彼の声は、焚き火の爆ぜる音にかき消されそうなほどに沈んでいた。
「シャンドルさん?」
「……いえ、こちらの話です」
シャンドルさんは慌てていつもの紳士的な笑顔を取り繕ったが、その笑顔はどこか引き攣っていた。
その後も、俺たちは互いの身の上や旅の話、転移事件についての情報など、取り留めのない会話を続けた。
シャンドルさんは俺たちの話を急かすことなく聞き、時折質問を挟みながらも、決して踏み込みすぎることはなかった。
ふと気がつくと、周囲を包み込む密林の闇は一層深くなり、夜の冷気がしんしんと肌を刺し始めていた。激しく燃えていた焚き火も、いつの間にかパチパチと小さな音を立てるだけの静かな熾火へと姿を変えている。
「おや……話が少々長くなってしまいましたね。夜もだいぶ更けてきました」
シャンドルさんはハッと我に返ったように空を見上げ、苦笑しながら立ち上がった。上質な衣服についた僅かな灰を優しく払い落とす。
「過酷な旅の最中だというのに、私の昔語りで皆さんの睡眠時間を奪ってしまっては、それこそ北神の男の名が廃る。ルーク君、今日はもう寝ましょうか。明日からの密林の案内は、この私に任せてゆっくり休んでください」
「あ……はい。ありがとうございます、シャンドルさん」
俺がそう答えると、彼は満足そうに頷き、フィリップさんたちの邪魔にならない川べりの少し離れた場所へと歩いていき、腰を下ろした。
ギレーヌは依然として立ったまま、闇の奥へと鋭い視線を走らせている。
「ギレーヌ、シャンドルさんもああ言ってくれてるし、交代で少しは体を休めてくれよ」
「……分かっている。だが、あの男からは目を離さん」
ギレーヌは小さく耳を動かしながら、低く応じた。その声にはまだ警戒が残っていたが、最初のような刺すような殺気はすでに消えていた。
俺は流木に背中を預け、毛布にくるまりながら目を閉じた。
パウロさんの家を飛び出してから、ずっと張り詰めていた心の緊張が、シャンドルさんという奇妙な紳士の存在によって、ほんの少しだけ和らいでいくのを感じる。
(人助けの北神流、か……)
そんな彼の言葉を頭の中で反芻しながら、俺は深い眠りの底へと落ちていった。
☆☆☆
翌朝から、俺たちの旅の景色は劇的に変わった。
「皆さん、足元に気をつけて。この先の蔦は、踏むと滑りやすいですからね」
先頭を歩くシャンドルさんは、まるでこの密林を何度も歩いたことがあるかのように、迷いのない足取りで進んでいった。
湿った土を踏み、根を跨ぎ、頭上から垂れ下がる蔦を避ける。時には立ち止まり、木の幹に残った傷跡を確認し、風向きを読む。進路を塞ぐ巨大な倒木を見つければ、わざわざ力任せに破壊することもなく、周囲の地形を確認して最も安全な迂回路を選んだ。
何より不思議だったのは、その間ずっとシャンドルさんの服がほとんど汚れなかったことだ。泥濘を避け、濡れた葉を避け、蜘蛛の巣を避け、落ちてくる水滴まで避ける。もはや避けるというより、密林そのものが彼の邪魔をしないように道を開けているようにさえ見えた。
最初、俺とギレーヌはかなり警戒していた。フィットア領転移事件の混乱に乗じて、フィリップさんたちを狙っている可能性だって捨てきれない。ボレアス家の元当主だと知っているのなら、政治的な価値を利用しようとしているのかもしれない。あるいは──あのモザイク野郎の手先。そんな可能性まで頭の片隅をよぎっていた。
──しかし、そんな張り詰めた警戒心に、最初の決定的な亀裂が入ったのは、旅が始まって四日目の午後のことだった。
腐葉土のぬかるみに足を取られながら、背丈以上の赤黒いシダ植物の群生地を抜けた瞬間。
前方を歩いていたシャンドルさんが、不意にピタリと足を止めた。それとほぼ同時に、最後尾にいたギレーヌの耳が、危険を察知して鋭く跳ね上がる。
頭上の巨木の枝葉を激しく揺らし、独特の粘り気のある羽音が周囲に響き渡った。
木々の隙間から急降下してきたのは、巨大なハサミと、闘気すら弾き返す頑丈な外殻を持つ肉食の甲虫型魔物──
「ヒルダ、下がれ!」
フィリップさんが咄嗟にヒルダさんの前に出るが、
(間に合え……っ!)
俺は剣を抜くと同時に、脳内で『それ』を強く強くイメージした。
「──
俺の叫びと同時に、フィリップさんとヒルダさん、そして背後にいたロールズさん夫妻をも包み込むように、淡い桃色のドーム状の障壁が完全な無詠唱・無発動陣で空間に展開された。
──ガギィィィィィン!!!
凄まじい金属音が密林に響き渡る。
時速数十キロで突っ込んできた
「ふぅー……」
俺が息を吐きながら剣を構え直した、まさにその瞬間だった。
「なんですかそれ!??!?!?!」
密林の静寂を切り裂くような、ひっくり返った大声が響き渡った。
声の主は、シャンドルさんだった。
いつも涼しい顔をして、何が起きても紳士的に微笑んでいたあのシャンドルさんが、手にした鉄の棒を落としかねないほどの勢いで、細い目をこれでもかと丸めて驚愕していた。文官風の小奇麗な仮面が完全に剥ぎ取られ、素で素っ頓狂な声を上げている。
「え……? ええっ!? 魔術の詠唱も、魔法陣も、魔力の集束する前触れすら一切なかったのに、一瞬で空間にあれほど強固な結界を固定したのですか!? な、なんですか今の桃色の壁は!? 君、本当に水神流の子供ですか!?」
シャンドルさんはへたり込んだグランド・ビートルを完全に放置し、大慌てで俺の張ったボルグの表面をペタペタと触りながら、信じられないものを見る目で絶叫している。
「あ、あの、シャンドルさん、とりあえず魔物がまだ生きてるんで、処理が先です……!」
「おっと、そうでしたね! 申し訳ありません、あまりの常識外れに、つい我を忘れてしまいました!」
シャンドルさんは慌てていつもの笑顔を取り繕おうとしたが、その目は完全に泳いでいた。彼は手にした鉄の棒を信じられない速度で一閃させ、ボルグの前にへたり込んでいた魔物の頭部を、一撃で木っ端微塵に叩き割ってみせた。残りの二匹も、ギレーヌが斬り刻んだ。
戦闘が終わった瞬間、シャンドルさんは恐るべき素早さで俺の目の前まで詰め寄ってきた。その顔はまだ微かに引き攣っている。
「ルーク君……先ほどのは一体、どのような原理の魔術なのですか? 世界中を旅して、様々な魔術師たちの結界も見てきましたが、あんなデタラメな発動の仕方を習得している者は、歴史上にも存在しませんよ……!」
必死な形相で問い詰めてくるシャンドルさんを前に、俺は頬 左目の火傷の痕を少しだけ掻きながら、どう説明したものかと頭を悩ませるのだった。
あの騒動から、さらに数日。さらに数日。一週間、二週間と、過酷な旅が続いていくにつれて、俺たちの中にあったシャンドルさんへの疑念は、少しずつ形を失っていった。
シャンドルさんには、やはり俺たちを利用する明確な理由が見つからなかった。むしろ、俺たちが彼を全面的に利用しているようにすら思えるほどだった。
彼は道を知っていた。魔物の生息域を知っていた。水場を知っていた。食べられる植物と毒のある植物を知っていた。夜営に適した場所と、絶対に近づいてはいけない場所を知っていた。
そして何より──俺たちが危険に晒されるたび、彼はいつも真っ先に動いた。
「シャンドルさん、本当に俺たちについてきて、ただ案内するだけでいいんですか?」
ある日の昼下がり、川辺で休憩しているときに俺は改めて尋ねた。
「あなた自身の武者修行の時間を奪ってしまっているんじゃ……」
シャンドルさんは水筒の蓋を閉めると、こちらを振り返った。そして──ニカッ、と。まるで少年のような、屈屈のない笑顔を浮かべた。
「何を言うのですか、ルーク君」
「え?」
「困っている人がいれば手を差し伸べる。これこそが、私にとっての最大の武者修行ですよ」
「人助けが……修行、ですか?」
「ええ」
その声には、一切の迷いがなかった。
「実はね、私も北神流を嗜む身なのですが……私の目指す北神流の理想は、初代北神カールマンの生き様にあるのです」
シャンドルさんは焚き火を見つめながら、静かに語り始めた。
「彼は世界を旅し、病に苦しむ者を救い、飢えた者に戦い方を教え、悪に脅かされる市井の民を命がけで守り抜いた。強者が弱者を踏みつけるためではない。己の力を、己より弱い者のために使う。それこそが、私の考える北神流なのですよ」
その横顔は、あのボルグを見て取り乱していた姿や、普段の落ち着いた紳士とは少し違って見えた。まるで子供の頃に読んだ英雄譚を、今でも本気で信じている少年みたいだった。
「だからこそ、私はあなた方のような過酷な運命に立ち向かう人々を、見過ごすわけにはいかないのです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を何かで突かれたような感覚がした。
北神流。パウロさんは言っていた。卑怯な剣術だと。泥を投げ、不意を突き、正々堂々という言葉から最も遠い剣術だと。
でも──目の前にいる男が語る北神流は、俺が想像していたものとはまるで違っていた。勝つためだけの剣ではない。生き残るためだけの剣でもない。守るために使う力。誰かを助けるために、自分の力を差し出すための剣。それが、シャンドルさんの北神流だった。
「……変わった人ですね」
思わずそう言うと、シャンドルさんは楽しそうに笑った。
「よく言われますよ」
俺も笑った。この人は、本気なのだ。たぶん、馬鹿がつくほど真っ直ぐに。そして、そんな人間を俺は嫌いになれなかった。
実際、シャンドルさんの有能さは、密林を進めば進むほど際立っていった。
密林では、魔物は正面から現れるとは限らない。木の陰、地面の穴、頭上の枝、背後の茂み。視界そのものが敵になり得る。それなのにシャンドルさんは、まるで森の中に目がいくつもあるかのように、事前にすべての危険を察知した。
「……止まってください」
ある日の夕方、シャンドルさんが突然足を止めた。俺たちも反射的に立ち止まる。
「どうしました?」
「右前方、木の根元です」
目を凝らす。何もいない。そう思った次の瞬間──茂みが爆発した。
「ギレーヌ殿、左から二匹来ます。処理をお願いできますか」
「ふんっ!」
ギレーヌの剣が唸った。同時に、別方向から飛び出してきた魔物がフィリップさんへ襲いかかる。俺が動こうとした、その瞬間だった。
シャンドルさんが一歩だけ前へ出た。手にした鉄の棒が、速すぎてほとんど見えなかった。
ガンッ!
鈍い音が響き、魔物の爪が弾かれる。その一撃だけで、魔物の身体が横へ吹き飛んだ。俺は思わず目を見開いた。速い。しかも、力任せに殴ったわけではない。相手の攻撃の軌道を僅かにずらし、その勢いを利用して弾き飛ばしている。
あの日、俺の
「ルーク君、前を」
「──っ!」
反射的に振り向く。別の魔物が俺へ迫っていた。俺は剣を抜き、闘気を纏わせる。一閃。魔物の首が飛んだ。
「助かりました」
「いえいえ」
シャンドルさんはいつも通りに笑った。その直後だった。
「エルナさん、足元を」
「あっ──」
長旅で疲労が限界に近づいていたエルナさんの足が、蔦に取られて崩れた。シャンドルさんは、まるで最初からそうなることを知っていたかのように身体を滑らせ、彼女の身体を優しく受け止めた。
「おっと。大丈夫ですか、エルナさん」
「あ……ありがとうございます……」
「無理をなさらないでください。ここで少し息を整えましょう」
「でも……皆さんの足を引っ張ってしまいます」
「そんなことはありませんよ」
シャンドルさんは笑った。
「旅は、速く進めばいいというものではありませんからね。全員で目的地へ辿り着いてこその旅です」
その言葉に、エルナさんの表情が僅かに緩む。
フィリップさんも、最初こそ警戒していたが、いつしかシャンドルさんの差し出す水筒を自然に受け取るようになった。ロールズさんも、彼に道具の扱いを教えてもらったり、魔物の痕跡について質問したりするようになった。ヒルダさんはエルナさんの疲労を気にしながら、シャンドルさんと食料の配分について相談していた。
ギレーヌだけは相変わらず警戒を解かなかった。だが、それでも変化はあった。以前ならシャンドルさんの背中を四六時中見張っていた彼女が、今では彼の示す方向を疑わずについていく。信頼している。それが分かった。
俺自身も、いつしかシャンドルさんがいることを前提に考えるようになっていた。この森の中で、彼が先頭に立ってくれている。その事実だけで、胸の奥にあった焦燥が少しずつ薄れていった。
シルフィを探している。フィットア領へ帰らなければならない。その目的は変わらない。それでも、俺たちは少しずつ「生きて辿り着く」ということを確信できるようになっていた。
密林へ入ってから、一ヶ月以上が経った。
朝起きれば湿った空気。昼になれば木々の隙間から僅かに差し込む陽光。夜になれば、焚き火の周囲だけが世界から切り離されたような静けさに包まれる。
同じような日々を繰り返しているようで、実際には一日として同じ日はなかった。雨が降れば地面の形が変わり、川の水位が上がる。魔物の群れが通った翌日には、森の匂いそのものが変わる。時には数日間、魔物一匹に遭遇しないこともあった。そんな日は逆に怖かった。静かすぎるからだ。
そして、そのすべてをシャンドルさんは見逃さなかった。彼の案内がなければ、俺たちはとっくに道を失っていただろう。
そして──。
ようやく、その日が来た。
「……明るい」
木々の向こうから差し込んだ光に、俺は目を細めた。
枝を掻き分ける。
最後の茂みを抜けた瞬間、目の前に広がった光景に、俺は思わず息を呑んだ。
天を突くような巨岩が幾重にも連なる山脈。
密林の緑とは対照的な、赤茶けた岩肌。
そして、その山々の間にぽっかりと口を開ける、巨大な渓谷。
長い密林の旅を終えた俺たちを待っていたのは、そんな場所だった。
「──赤竜山脈」
シャンドルさんが呟く。
俺はその先にある谷を見つめた。巨大な山と山の間を裂くように伸びる一本の渓谷。まるで巨大な獣が口を開いているようにも見えた。
──赤竜の下顎。
ここを抜ければ、目的地であるフィットア領難民キャンプがあるロアへ近づくことができる。
ようやく。
ようやく、帰る道が見えてきた。
だが──。
空を見上げた俺の胸から、そんな感慨は一瞬で消えた。
山頂付近を旋回する巨大な影。一匹。二匹。さらにその奥にも。
翼を広げれば数メートルどころではない。赤い鱗に覆われた巨体が、悠々と山の上を飛んでいる。
赤竜。
俺は無意識に腰の剣へ手を伸ばした。密林で戦ってきた魔物とは、格が違う。
俺も
それでも、空から降ってくる赤竜の攻撃をすべて受け止められるかと言われれば、答えは決まっている。
無理だ。
ギレーヌがどれだけ強くても、空を飛ぶ相手を斬るには限界がある。
俺の
ロールズさんが、空を見上げたままエルナさんを強く抱き寄せた。
エルナさんの顔からも血の気が引いている。フィリップさんとヒルダさんも、何も言わず赤竜を見上げていた。
「……シャンドルさん」
俺は隣に立つ彼へ声をかけた。
「あれが赤竜です。世界でも有数の魔物ですよ」
喉が僅かに乾く。
「密林地帯にいた魔物とは比べ物にならないですよ」
俺はそこでシャンドルさんを見上げた。
「……本当に大丈夫でしょうか?」
不安がないと言えば嘘になる。予想はしていたが、ここまでとは思っていなかった。
守ると決めることは簡単だ。守り切ることの方が、ずっと難しい。
シャンドルさんは、そんな俺の肩へ手を置いた。
「ははは。何を心配しているのですか、ルーク君」
振り返った彼は、今まで見たどの笑顔よりも頼もしかった。そこには不安も、迷いもない。
ただ、自分が成し遂げると信じ切っている人間だけが持つ、絶対的な確信があった。
「心配は無用です」
シャンドルさんは空を見上げた。赤竜の影が、巨大な翼を広げて山間を旋回している。
それを見ても、彼の表情は変わらなかった。
「私が同行すると言った以上、髪の毛一本、赤竜どもに触れさせはしませんよ」
「……」
「初代北神のように、完璧に皆さんを守り抜いてみせましょう」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず笑いそうになった。
密林の中で出会った、どこか掴みどころのない紳士。妙に丁寧で。やたらと人が良くて。北神流を語るときだけ、子供みたいに目を輝かせる変なおじさん。
なのに──。
今、この人の背中が俺には誰よりも頼もしく見えた。
「さあ、行きましょうか」
シャンドルさんが歩き出す。
俺はその背中を見つめ、それから腰の剣の柄を強く握り直した。
「……はい」
一歩、踏み出す。
「行きましょう、シャンドルさん」
ギレーヌが続く。
フィリップさんたちも、その後ろへ続いた。
そして俺たちは、赤竜山脈の巨大な裂け目──『赤竜の下顎』へ足を踏み入れた。
ということで次回は赤竜の下顎ですね。よろしくお願いします。