迷宮を目指した俺は、世界を間違えた   作:アルマトラン

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悪い龍神

 

 

 

 

 

 

 赤竜山脈とは中央大陸にある長大な山脈の事である。

 

 中央大陸を三分割するように山が連なり、その全土には赤竜が生息している。

 

 赤竜とは、中央大陸で最強と言われている魔物だ。絶対強者とでも言うべきか。単体でSランクの強さを持ちながら、数百匹という単位で群れを作る。

 

 特筆すべきは、その探知能力である。彼らは縄張りに入ってきた生物を絶対に見逃さない。絶対にだ。犬程度のサイズの生物すら逃す事はなく、どれだけ強力な魔物であっても、赤竜の縄張りに入ってしまえば赤竜に群がられ、骨も残さずに食いつくされてしまう。どうやって縄張りに入ってきたものを探知しているのかという点についてはわかっていない。俺の世界の概念で言うなら、ルフの導きか何かで侵入者の位置を網羅されているようなものだ。

 

 縄張りに入れば死ぬ。それがこの世界の常識だ。

 

 この世界には何種類もの竜がいる。そのどれもが単体でAランク以上。

 

 中でも最も危険で獰猛だと言われているのが赤竜だ。単体ではせいぜいSランク下位と言われているものの、なにせ群れの単位、縄張りの規模が大きすぎる。赤竜という種が住み着いたがゆえに、山脈は赤竜山脈と名付けられたのだ。通行不能の死の山脈。それが赤竜山脈なのだ。

 

 そんな危険な生物であるが、実は赤竜にはひとつの弱点が存在する。彼らは戦闘能力は高いが飛行能力はお粗末であるがゆえ、平地から飛び立つことができないのだ。

 

 飛ぶためには高い崖から飛び降りるか、もしくはある程度長い斜面を滑走する必要がある。中央大陸は山こそ高いものの、基本的にはなだらかな平野や森ばかりである。ゆえに、平地に住む人々が赤竜に襲われる事は滅多にないそうだ。

 

 もっとも、たまにマヌケな個体もいるらしい。乱気流か何かに巻き込まれてきて平地に落ちるそうだ。

 

 そうした竜ははぐれ竜と認定される。天空の覇王は地に落ちても、健在のAランク上位。圧倒的な力で暴れ回り、甚大な被害をだすらしい。人里の近くに落ちれば、国を上げての討伐騒動だ。緊急依頼が発生し、蜂の巣をつついたような騒ぎになるそうだ。

 

 もっとも、大抵は人里から離れた所に落ちる。依頼のランクはSランクとはいえ、安全を期して7、8パーティ程度が組んで罠に嵌め、案外簡単に狩られてしまうそうだ。

 

 ちなみに、竜の肉や骨は武具の素材として最上級に近い。また竜の皮は芸術品としての価値も高い。もちろん、皮だけじゃない、竜は全身余すことなく、何かに使える。俺の知識が正しければ、金属器の素材とまではいかなくとも、高級な眷属器の依り代くらいにはなりそうな代物だ。一匹を10人で討伐して報酬を山分けしたとしても、1年は豪遊できる金が手に入るそうだ。具体的にいうと、1匹でアスラ金貨100枚ぐらいになるらしい。

 

 高額素材であるため、依頼を受けられないCランクに上がりたてのペーペーが無謀にも挑む事があるそうだ。大抵は焼肉にされてペロリと平らげられてしまうらしいが。

 

 そんな赤竜が大量に生息する赤竜山脈。そこには二箇所だけ通行できる場所がある。

 

『赤竜の下顎』『赤竜の上顎』と呼ばれる断崖絶壁の渓谷だ。これは第二次人魔大戦時から存在している渓谷で、当時でも唯一軍が通行できる広さを持つ道だったそうだ。ラプラスはそういうことも見越して、赤竜山脈に赤竜を放ったらしい。

 

 俺達は、密林をぬけた先の村で購入した頑丈な大型馬車に、戦う力のないフィリップさん、ヒルダさん、ロールズさん、エルナさんの4人を乗せ、中央大陸南部と西部をつなぐ『赤竜の下顎』へと馬車を進めていた。ここを抜ければ、アスラ王国だ。

 

 ──しかし、やはりこの『下顎』という場所は、一般人がおいそれと徒歩で旅をできるような場所ではなかった。馬車を進めながらも、上空を不気味に旋回する巨大な赤竜の影を見上げるたび、俺の胃の辺りがキリキリと痛む。

 

「それにしても、この狭い渓谷を馬車で進むというのは、なかなかにスリルのある工程ですねえ」

 

 御者台で手綱を握るシャンドルさんは、吹き荒れる極寒の強風に上質な旅装をはためかせながら、いつものように穏やかに笑っていた。このおじさん、密林を抜けて下顎に入る直前の村で、俺たちが馬車や防寒具を購入した際も、「おっと、馬車の御者も少しばかり心得ていましてね」と買って出てくれたのだ。本当にどこまで有能なのか分からない。

 

「変なことを言わないでください、シャンドルさん。一歩間違えれば空からあの化け物が降ってくるんですよ。ギレーヌ、前にはぐれの赤竜を倒したことがあるって話、本当なのか?」

 

 馬車の横を並走するギレーヌに向かって、俺はパウロさんから昔聞いた噂話を投げかけてみた。家出する前、あるいはパウロさんの家で酒が入ったパウロさんが、かつての冒険者仲間の自慢話として一度だけ口にしていたのだ。

 

「ん? ああ、倒したな。剣聖になる前の話だ」

 

 ギレーヌは相変わらず周囲の絶壁に視線を走らせながら、淡々と答えた。

 

「一人でですか?」

 

「いや、同じぐらいの上級剣士5人ぐらいで、罠に嵌めてな。……2人死んだが」

 

 馬車の中で聞き耳を立てていたらしいエルナさんが、その言葉に小さく息を呑むのが分かった。

 

 馬鹿野郎、40%も損失してるじゃねえか。全然簡単じゃない。

 

「やっぱり、はぐれ竜と山にいる竜じゃ強さが全然違いますよね。なにせ、ここは奴らの完全な縄張りだ。空を飛んでるっていうのは、それだけで大きなアドバンテージですから」

 

 飛行できる翼を持っているというのは、人間にとって最悪の相性だ。しかも、ここは群れ。この世界で群れを作っている魔物は、大抵は群れでの狩りの仕方も心得ている。

 

 百匹単位で上空から無差別に高熱のブレスを吐きかけられたり、急降下からの爪撃を食らったりすれば、いくらギレーヌの剣技が凄まじくとも、馬車ごと一瞬で消し炭にされる。

 

「そうですね。ルーク君の言う通り、赤竜の群れを正面からどうにか出来るやつなど、この世界にはほとんどいませんよ」

 

 シャンドルさんが馬車を巧みに操りながら、話に入ってきた。

 

「いるとすれば、"七大列強"の上位陣だけでしょうね。恐らく、当代の北神や剣神であっても、この山脈を徒歩で真っ直ぐ突破しようとすれば、道半ばにて体力を使い果たし、引き返す事になるはずです。眠ることもできないでしょうからね」

 

「列強の上位でも、ですか?」

 

 俺は少し意外に思った。七大列強ともなれば、ドラゴンくらいは文字通りちぎっては投げるような化け物ばかりだと思っていたのだ。だが、戦闘力どうこうの前に、数百匹の竜に夜も寝ないで波状攻撃を仕掛けられれば、物量と疲労で押しつぶされる。なるほど、理にかなった話だ。

 

「もっとも、かつての魔神ラプラスはそんな赤竜の王をも従えていたと言いますからね。列強の上位なら、この下顎の渓谷を通過するくらいは造作もないことなのでしょう。……ですが、私たちは列強ではありませんからね。ルーク君、もし上空からブレスが来たら、例の防壁魔法(ボルグ)を頼みますよ?」

 

「分かってますよ。そのために魔力を温存してるんですから」

 

 俺は腰の剣の柄に手を当て、精神を集中させた。

 

 空からの不意打ちや範囲攻撃は、俺の防壁魔法(ボルグ)で馬車ごと丸ごと包み込んで耐える。そして、障壁を抜けて近づいてきた個体はギレーヌが斬り、シャンドルさんがいなす。この3人の連携があるからこそ、一般人4人を乗せた馬車での下顎突破という狂気の工程が、辛うじて成立しているのだ。

 

「いつか、私も赤竜山脈踏破に挑戦してみたいものですがね……」

 

 シャンドルさんは不格好な鉄の棒を横目に、ポツリとそんな物騒なことを呟いた。

 

 このおじさん、相変わらず穏やかな紳士の癖に、言うことだけはたまに列強じみている。その『いつか』に、俺を巻き込まないでほしいものだな、と心の中で愚痴をこぼす。

 

 

 

「……それにしても、おかしいですね」

 

 馬車が『赤竜の下顎』のさらに深いエリアへと差し掛かった頃、手綱を握るシャンドルさんが怪訝そうに上空を見上げながら、ポツリと呟いた。

 

 先ほど俺たちがパウロさんの昔話や赤竜の恐ろしさについてあれこれと語り合っていた時、ギレーヌはいつでも抜刀できるよう完全に身体を強張らせていたし、俺自身も馬車を丸ごと包み込めるように防壁魔法(ボルグ)のイメージを何度も頭の中で膨らませていた。空からの無差別なブレスや、時速数百キロで突っ込んでくる群れの強襲──それを防ぐために、文字通り死ぬ気で魔力を練り上げていたのだ。

 

 だが、実際に谷を進み始めてから、奇妙なほどに平穏な時間が続いていた。

 

「何がですか、シャンドルさん」

 

「いえね、ルーク君。ここはあの『赤竜の下顎』ですよ? 縄張りに入った生物を絶対に見逃さない、獰猛極まりない赤竜の群れのド真ん中です。それなのに……見てごらんなさい」

 

 シャンドルさんが指差した遥か上空、切り立った絶壁の遥か高みには、確かに数十匹の赤竜の影が悠々と旋回しているのが見えた。

 

 しかし、おかしいのは奴らの動きだった。

 

 いつもなら侵入者の気配を察知した瞬間に狂ったように咆哮を上げ、文字通り骨も残さず食い尽くすために群れを成して急降下してくるはずの絶対強者たちが、なぜかこちらの存在を完全に無視しているのだ。それどころか、馬車が近づくにつれて、上空の影はあからさまに距離を取るように遠くの空へと遠ざかっていく。まるで、この馬車に「絶対に近づいてはならない恐ろしい何か」でも憑いているかのように。

 

「……確かに、変だ。一匹くらい仕掛けてきてもおかしくないはずなのに、威嚇の咆哮すら聞こえない」

 

 馬車の横を並走するギレーヌも、剣の柄に手をかけたまま、信じられないものを見る目で上空を睨みつけていた。彼女ほどの野生の勘を持つ剣士からすれば、この不自然な静寂は嵐の前の静けさよりも不気味に感じられるのだろう。

 

「ええ。まるで、何か目に見えない巨大な力が、竜たちの意識を無理やり遠ざけているかのようです。これでは、まるで誰かが私たちのために、この地獄の谷に『安全な道』を一本、あらかじめ用意してくれていたかのようですねえ……」

 

 シャンドルさんはフッと息を漏らし、いつもの紳士的な笑みを浮かべたものの、その細い目の奥には深い困惑と警戒の色がはっきりと滲んでいた。

 

 ──……誰かが、安全な道を用意してくれていた? 

 

 シャンドルさんのその言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、昨日の夜に見たあの白い空間の光景がハッと浮かび上がった。

 

 のっぺりとした白い顔で、にこやかに笑うヒトガミと名乗った胡散臭い神。

 

 あいつは俺に言っていた。『王竜王国の北西にある密林地帯を抜け、赤竜の下顎を通りなさい。さすれば、無事にフィットア領に到達できるでしょう』と。

 

 あの時は「そんな詐欺師の言葉をそのまま信用するほど俺はバカじゃない」と徹底的に突っぱねたつもりだったが、奴がこのルートを指示したのには、最初からこの「赤竜が襲ってこない」という異常な状況まで含めて、あいつの計算の内だったということか。癪だが、あのモザイク野郎の予言の力は、本物だという証明でもあった。

 

「まぁ、襲ってこないなら、それに越したことはありませんよ。俺の魔力も無駄に消費せずに済みますしね」

 

 俺は心の中の不快感を押し殺し、なるべく冷静な声を装ってシャンドルさんに返した。

 

「ははは、確かにその通りです。どんな理由であれ、皆さんが髪の毛一本傷つかずに済むのであれば、案内人としては満点の大当たりというものですよ」

 

 シャンドルさんは再び調子の良い笑顔に戻り、馬車を軽快に進めていく。

 

 しかし、そんな風にヒトガミの裏の糸を感じながら進んでいられたのも、この下顎の最深部へと足を踏み入れるまでのことだった。

 

 ──不自然なほどに赤竜の気配が遠ざかっていた渓谷の奥。

 

 不自然なほどの静寂が、一瞬にして辺りを支配する。

 

「……おや?」

 

 シャンドルさんが手綱を強く引き、馬車の速度が徐々に落ちていく。

 

 彼の日焼けした顔からいつもの笑みが完全に消え去り、底知れないほど冷徹な目が、前方の霧の奥を鋭く睨みつけていた。

 

「ギレーヌ、ルーク君。……馬車を止めます。前に『何か』がいますね」

 

 シャンドルさんの低い声と同時に、馬車が完全に停止した。

 

 

 

 

 

 赤竜の下顎。

 

 ただ一本道が続く渓谷。

 

 まっすぐではない。だが、分かれ道のない一本の道である事には変わらない。

 

 国境と国境の間にある、どこの国のものでもない領域。ここを抜ければ、アスラ王国である。

 

 そいつは、普通に歩いてきた。一本道の向こうから。

 

 銀髪、金色の瞳、特に防具はなく、何かの皮で作られた無骨な白いコートを身に着けていた。馬に乗るでもなく、馬車に乗るでもなく、ただ歩いてきた。男である。

 

 俺の印象としては、顔の火傷の痕が少し疼くような気がしつつも、せいぜい「目つきの悪い奴だな」という程度だ。酷い三白眼だったのだ、この男は。

 

 それよりも、目に止まったのは。彼の脇。そこに、黒髪の少女が一人。

 

 この世界は純粋な黒髪が少ない。シャンドルもその一人だ。黒に見えても、よく見ると焦げ茶だったり、やや灰色に近かったりする。

 

 この少女がことさら目に入ったのには理由がある。その顔。

 

 顔に、仮面が付けられていたのだ。特徴があると言えばあるし、特徴がないと言えば無い。真っ白で、何も書いていないし、何の装飾もされていない仮面だ。例えるならば、前世の漫画で見たダーティマスクのような仮面である。ただ、目立っている。この世界において、こんな仮面をつけているやつはいなかった。ファッションではないだろう。

 

「……!!」

 

 この時の俺は、御者台に座るシャンドルさんの顔が蒼白になっている事に気づかなかった。

 

 並走していたギレーヌもそうだ。男が一歩近づいてくるたびに、その表情を険しくし、剣の柄を握る手が真っ白になるほど、力を込めていた。

 

 男は俺たちの姿を認めると、おや、と首をかしげた。

 

 その三白眼が、まず俺の姿を捉え、次いで御者台と馬車の脇へと向けられて不自然に細められる。

 

「ルーク……? いや、私の知っているルークは緑髪ではない。なぜお前がラプラス因子を宿している」

 

 男の口から出たのは、俺の名前だった。驚く俺を置き去りにして、奴はさらにワケの分からない単語を口にする。

 

「ラプラス因子? 前にも言われたのですが、なんですかそれは」

 

 俺が問い返すと、男は感情の失せた声で淡々と淡白に言葉を紡いだ。

 

「魔神ラプラスの肉体的特徴や特異な能力が、転生のための依り代として後世の人間へと発現する現象だ。……だが、こんな事は初めてだ。お前がラプラス因子を持って生まれてくることなどあり得ん」

 

 男は顎に手を当てて、深く考え込み始めてしまった。

 

 その視線が、今度は御者台のシャンドルさんと、その横で剣に手をかけるギレーヌへと厳かに移動する。

 

「……それに、そこにいるのは北神カールマン二世アレックスか。なぜお前がそんな一般人の乗った馬車の御者をやっている。隣にいるのは剣王ギレーヌ・デドルディアだな。本来の歴史なら、お前たち二人がこの場所で、こうして揃って馬車を護衛しているはずがない。一体何が起きている」

 

 男のその言葉が投げかけられた瞬間、俺のすぐ後ろで、信じられないほどの激しい動揺が弾けた。

 

「なっ……!?」

 

 御者台の上で、シャンドルさんが息を詰まらせ、椅子から転げ落ちんばかりに目を見開いていた。いつもニコニコ飄々としていたあのおじさんの顔から、完全に余裕という二文字が消え失せている。手にした不格好な鉄の棒を握る手が、目に見えてブルブルと小刻みに震えていた。

 

「お、お前……いや、貴方様は、まさか……。なぜ、私の本当の名を……それにギレーヌ殿のことまで……!」

 

「シャンドル、こいつを知っているのか……っ!?」

 

 ギレーヌもまた、顔を真っ赤にして今にも飛び出しそうなほど殺気立ちながらも、その手足は蛇に睨まれた蛙のようにガタガタと震えていた。彼女ほどの野生の勘を持つ剣士が、ただ立っているだけの男に対して、完全に圧倒され、恐怖に支配されている。

 

「あ、ああ……間違いない、世界を渡り歩く強者の間で、決して関わってはならないとされる絶対的な禁忌……。神々の領域に座す、現世最強の怪物……七大列強第二位、"龍神"……!」

 

 シャンドルさんのその掠れた声が、渓谷の冷たい風に溶けていく。

 

 列強第二位。その単語の持つ重みに、馬車の中から息を潜めていたフィリップさんたちの気配が、恐怖でさらにカチコチに凍りつくのが分かった。

 

 なんなんだよ、一体……。なんで二人はこんなに怯えて、殺気立ってるんだ? 列強第二位って、そんなにヤバいのかよ。龍神? どこかで聞いた事があるような。

 

「はぁ、そうですか……」

 

 俺のそんな気の抜けた生返事に、オルステッドはふと怪訝そうに眉根を寄せた。

 

「それにお前、俺を見ても恐怖しないのか」

 

「確かに怖い顔をしているとは思いますけど。だけど、会ったばかりの人のことを理由もなく怖がりませんよ」

 

「……ふむ」

 

 俺が平然と答えると、背後からシャンドルさんの引き攣った叫びが飛んでくる。

 

「ル、ルーク君! なぜその御方とそんな風に普通に話せるのですか……!? 早く下がって、私たちの後ろへ……! 」

 

「ギレーヌもシャンドルさんも、逆になんでそんなに怖がっているのか、俺にはさっぱり分かりませんよ」

 

 周囲のただならぬパニックっぷりに、俺はさらに困惑する。

 

 だが、じっと目の前の男を見つめているうちに、俺はだんだんこの男のことが少しだけ気の毒に思えてきた。

 

 理由もなく恐れられ、遠巻きにされて、まるで化け物を見るような目を向けられているこの姿。それは、緑色の髪を持って生まれたというだけの理由で、実家の冷たい地下室に追いやられていた幼い頃の俺の姿と、どこか重なって見えたからだ。

 

「良ければ、名前を教えていただけませんか?」

 

 せめて俺だけでも友好の意思を示そうと思い、なんとなく、本当に何気なくそう言ってみた。

 

 男は意外そうに目を瞬かせ、静かに口を開いた。

 

「……オルステッドだ」

 

「オルステッドさん、ですか」

 

 中々にカッコイイ名前をしているじゃないか。口に出して言いたくなる名前だ。

 

「俺の仲間たちがすいません。悪い人たちでは無いんですけど、ちょっと警戒が強すぎて」

 

「いや、いい。それより、なぜお前がこんな所にいる? ここがどこか知っているのか」

 

「赤竜の下顎ですよね。実はここを通って、故郷のフィットア領に向かおうと思っていた所です」

 

「……ほう。お前の生まれはアスラ王国のノトス家だったな? 話を聞く限り例の転移事件の被害者のようだが、なぜお前が王竜王国の側へ転移されている」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の全身の肌が粟立った。

 

 ノトス家。久しぶりに聞いた、俺を捨てた実家の名前だ。いや、そんなことよりも、なぜ初対面のこの男が、俺の本当の家名や生い立ちをそんなに詳しく知っているんだ。

 

「なぜ……それを知っているんですか?」

 

 先程までの友好モードからうってかわり、俺は剣の柄に手をかけ、一気に警戒度を跳ね上げた。

 

「お前は、ピレモン・ノトス・グレイラットの次男として生まれ、アスラ王国の王宮でアリエル王女の騎士となるはずの男だからだ」

 

 オルステッドの口から、実の父親であるピレモンの名前まで飛び出した。

 

 俺はさらに驚愕し、同時に強い不信感を抱く。

 

「アリエル? 誰の話だ。それに、ピレモン……。あの人が、他人に俺のことを話すとは思えませんね。地下室に追いやった張本人が、わざわざ他人に息子の過去を喋るわけがない」

 

 俺が冷たくそう言い放つと、オルステッドは今度こそ、本気で驚いたように僅かに目をみ開いた。

 

 オルステッドはしばし沈黙した後、その凶悪な三白眼で俺をじっと見つめ、核心に触れる問いを投げかけてきた。

 

「……ルーク。お前、もしかして、ヒトガミという単語に聞き覚えがあるんじゃないのか?」

 

 その言葉が、俺の脳の芯を直撃した。

 

 ハッキリ言おう。油断していた。

 

 つい昨日の夜、夢の中に現れたあのウーゴくんモドキ。ネズミ講全開の胡散臭い神のことが頭をよぎる。このワケの分からない、しかし俺の過去を全て知っている男なら、あの詐欺師のことも知っているのではないか。会話を繋げる共通言語になると思って、軽い気持ちで、言ってしまった。

 

「あります。夢の中にそのヒトガミってモザイクの詐欺師が出てきて、このルートを通れって言われ……」

 

 言いかけた瞬間、オルステッドの瞳の奥に、言葉を失うほどの冷徹な殺意が宿るのを、俺は見逃さなかった。

 

「そうか。やはり人神の手先だったか」

 

「は? 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オルステッドの金色の瞳に、完全に世界から害悪を排除するための冷徹な殺意が宿る。

 

 男の足が地を蹴った。予備動作など一切ない。瞬きの一瞬の間に、列強第二位の巨体が文字通り空間を無視した速度で俺の眼前にまで肉薄していた。

 

「ルーク!!」

 

 狂ったように吠えたのは、ギレーヌだった。

 

 恐怖と呪いに手足を激しく震わせながらも、獣族の野生の闘志が彼女を無理やり突き動かす。

 

 ギレーヌは瞬時に剣を引き抜き、全身の闘気を爆発させた。放たれるのは、剣神流の真髄であり、彼女の剣士としてのすべてを懸けた光速の一撃──『光の太刀』。

 

 並の戦士であれば、それこそ何が起きたか理解する前に首を撥ねられている神速の斬撃。

 

 しかし、オルステッドは突進の軌道を微塵も乱さず、向かい来る刃に対し、事も無げに水神流の奥義『流』を発動した。ギレーヌの渾身の一撃は、オルステッドの掲げた左手の掌によって不自然なほど滑らかに外側へと受け流され、その空間ごと切り裂くはずだった威力を完全に死に体へと変えられる。

 

「なっ……!?」

 

 技を完全にいなされ、体勢を崩したギレーヌ。だが、彼女は流石の剣王だった。強引に身体を反転させ、水神流の防御姿勢をとりつつ、すぐさま二の太刀、三の太刀を繰り出す。渓谷の狭い空間を、大剣が描く光の軌跡が網の目のように埋め尽くした。

 

 連続して響き渡る、硬質な金属同士が激突する音。

 

 ギレーヌが死に物狂いで放つ剣撃を、オルステッドは抜刀すらせずただの素手で、それも最低限の手解きだけで完璧に捌き切っていた。右へ受け流し、左で弾き、時に紙一重でかわす。

 

 どれだけ速度を上げても、どれだけ軌道を変えても、そのすべてを最初から見切られている。

 

 ギレーヌの瞳に、明らかな戦慄が走った。これまで数多の強敵を斬り伏せてきた彼女のプライドが、目の前の男の『圧倒的な合理性』の前に、音を立てて崩れていく。

 

 その僅かな動揺の隙を、オルステッドは見逃さなかった。

 

 ギレーヌが放った渾身の突きを僅かにかわし、その懐へと滑り込む。オルステッドの右の掌底が、彼女の後頭部へと容赦なく叩き込まれた。

 

 衝撃波が渓谷の空気を爆ぜさせ、剣王ギレーヌの巨体がそのまま谷底の地面へと激しく叩きつけられる。彼女は剣を手放し、ピクリとも動かずに意識を失った。

 

 ──ギレーヌが……負けた……? 

 

 俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。全身の血が、一瞬で足の先まで冷えていくのが分かる。一目見た時から、俺にとってギレーヌは『強者』だった。どんな魔物が現れようと、その剣一本で世界を切り開いてきた、文字通り頼れる背中。それが、ただの素手による一撃で、虫ケラのように地面に転がされている。

 

 息の仕方が分からない。のどの奥がカラカラに干上がっていく。恐ろしいなんて言葉じゃ足りない。頭が狂いそうなほどの寒気が、俺の脊髄を駆け抜けていた。

 

「おおおおおぉぉぉッ!!」

 

 御者台から弾き飛ぶように影が舞った。シャンドルさんだ。

 

 いつものニコニコとした笑みは、その顔から跡形もなく消え失せている。剥き出しになったのは、必死の形相だった。

 

 シャンドルさんは手にした不格好な鉄の棒を凄まじい速度で振り回し、変幻自在の軌道でオルステッドの四肢へと叩き込んでいく。

 

 それに対するオルステッドの対応は、冷徹そのものだった。

 

 シャンドルさんの棒術を素手で防ぎ、いなし、冷徹にその立ち回りを見極めている。

 

「……アレックス。なぜその武器を使う。お前ほどの男が、そんな鉄の棒一本で私の動きを止められると思っているのか」

 

 戦いの中で、オルステッドが地獄の底から響くような声で問いかける。

 

 シャンドルさんはその本名らしき名で呼ばれたことに一瞬だけ目を見開いたが、すぐに口から血の泡を吐き散らしながら、歯を剥き出しにして吠え返した。

 

「生憎、武器に頼るのを辞めたものでねえ! 私はこれくらいが性に合っているのですよ!!」

 

 二人の攻防は激しさを増していく。

 

 シャンドルさんは、目の前の男が現世最強の怪物である『龍神オルステッド』であるということは、知識として当然分かっていた。分かってはいたのだ。けれど、実際に刃を交えて、初めて突きつけられた。七代列強二位との差を。

 

 絶望がシャンドルさんの全身を駆け巡る。彼が必死に繰り出す北神流の技を、オルステッドは最小限の動きで受け止めつつ、空いた手足でシャンドルさんの肉体へと正確無比な反撃を刻み込んでいく。シャンドルさんの肋骨が折れる嫌な感触が、戦いの密度のなかで残酷に積み重なっていく。ダメージが、確実に、および絶望的な速度で蓄積していった。

 

「……本来のお前は、私の敵ではない。ここでお前には手傷を負わせてしまうが、悪く思うな」

 

 淡々と、冷酷な事実を告げるオルステッド。その意図を汲み取ったうえで、シャンドルさんは全身の闘気を限界まで絞り出し、絶叫した。

 

「何を言っている! 戦いの最中にそんな戯言を抜かすな!!」

 

 シャンドルさんが渾身の力で鉄の棒を突き出すが──それが、彼の最後の抵抗だった。

 

 オルステッドは体を微かに捻ってその突きを紙一重でかわすと、自身の身の内に眠る膨大な闘気を右腕へと集約させた。放たれたのは、シャンドルさんに向けての、完璧な剣神流奥義──『光の太刀』。

 

「なっ……!?」

 

 渓谷の空間そのものが白光に染まった。

 

 シャンドルさんは咄嗟に防御姿勢を取って直撃の致命傷だけは避けたものの、その圧倒的な衝撃波に巻き込まれ、弾丸のような速度で後方の岩壁へと吹き飛ばされた。

 

 激しい落盤の音が響き、シャンドルさんの身体が絶壁の岩肌へと深くめり込む。

 

「が、はっ……、ふ、ぅ……っ」

 

 骨はバキバキに砕け、全身から血を流しながらも、シャンドルさんの意識はまだあった。並の戦士なら消し炭になっている一撃を受けてなお、その細い目で執念深くオルステッドを睨み据えている。しかし、その肉体はもう、指一本動かすことすらできなかった。

 

 ──嘘だろ……。シャンドルさんまで……? 

 

 ガチガチと、自分の奥歯が鳴る音が嫌に大きく頭の中に響く。

 

 密林の過酷な環境を、泥一つつけずに完璧にナビゲートしてくれた、強さの底が知れないシャンドルさんが。俺のボルグを見て素で驚愕しつつも、圧倒的な戦闘センスで魔物をいなしていたあの人が、ただの数分の戦闘で、瀕死の肉塊に変えられて絶壁に埋まっている。

 

 視界が狭くなる。パニックで頭が真っ白になりそうだ。

 

 俺より遥かに強い二人が、手も足も出ずに壊滅した。馬車の中からは、オルステッドの放つ圧倒的な『呪い』のプレッシャーと恐怖に耐えかねたフィリップさんやエルナさんたちが、あまりの吐き気と絶望に身をよじるような、かすかな呻き声が漏れ聞こえてくる。

 

 完璧な孤立無援。

 

 そして──次に殺されるのは、俺だ。

 

 オルステッドは、返り血のついた白いコートを微かに揺らしながら、再び、ゆっくりとこちらを振り返った。その冷酷極まりない三白眼が、ついに、一人残された俺の姿を完全にロックオンした。

 

 オルステッドの右手が、容赦なく鋭い手刀の形へと変わる。

 

 その瞬間、俺の全身の細胞が、命の終わりを察知して一斉に悲鳴を上げた。

 

 恐怖で足の骨の髄までがガタガタとすくみ、今すぐにでも手にした剣を投げ捨てて逃げ出したかった。前世の日本のぬるま湯の記憶、平和な21年間の生ぬるい意識が、脳味噌の裏側で「勝てるわけがない、諦めろ、今すぐ土下座して命を乞え」と狂ったように絶叫している。掌にはじっとりと嫌な冷や汗がにじみ、握りしめた剣の柄が滑りそうだった。

 

 だが、俺がここで膝を折れば、背後の馬車の中にいる四人は間違いなく皆殺しにされる。本当の家族として抱きしめてくれたパウロさんたちの温かい笑顔が脳裏をよぎる。5年間、俺の心を支え続けてくれた、ずっと探しているあのシルフィの笑顔が頭をかすめる。

 

 ──死んでたまるか……っ! 諦めて、たまるかよ……!! 

 

 俺は恐怖で今にも千切れそうな心を強引に繋ぎ止め、激しく震える両足で泥臭く地を踏みしめた。

 

 体内の闘気を限界まで、肉体がミシミシと悲鳴を上げるほどに引き絞る。両手で剣を構え直し、ただ真っ直ぐに男を見据えた。パウロさんの元で学んだ水神流。そして前世の記憶に焼き付いている、流れるように敵をいなし、無駄のない刺突で急所を穿つあの鮮やかな剣技のイメージ。そのすべてを、今の俺が出せる最高威力の闘気と共に刃へと乗せた。

 

 狙うは喉元の一点。俺の10年間のすべてを懸けた、決死の突撃だった。

 

 

 

 しかし──その刃がオルステッドの肌に触れることは、万に一つもなかった。

 

 抜刀すらしない。それどころか、俺の突きに対し、避ける動作すら最小限だった。ほんの数ミリ、わずかに首を横へ傾けただけで俺の必死の一撃を完全に空に切らせると、男は突き出された俺の剣の側面を、ただの手の甲で無造作に、軽く横から払ってみせた。

 

 それだけの、まるで羽虫を追い払うかのような極小の動作。

 

 にもかかわらず、俺の両腕の骨に凄まじい衝撃が走り、肉が引き千切れんばかりの激痛が走った。握りしめていた剣は、強烈な威力に弾かれて遥か上空へと回転しながら吹き飛ばされた。

 

「お前は、弱いな」

 

 地獄の底から響くような地声が、渓谷の岩肌に冷酷に木霊した。

 

 男の金色の瞳には、敵を警戒する色も、戦う意志すらも浮かんでいない。そこにあるのは、ただ足元に転がる不快な石ころを眺めるかのような、絶対的な虚無だった。

 

「ヒトガミめ、このような何の力もない器を最後の使徒に選んで、一体どういうつもりだ」

 

 その言葉が、俺の脳の芯を、プライドを、この世界で生きてきた10年間を、塵一つ残さず完璧に粉砕した。

 

 絶望だった。圧倒的なまでの、言葉を失うほどの絶望だった。

 

 俺は、成長していると思っていた。強くなっていると思っていた。

 

 ノトス家の暗い地下室を飛び出して、パウロさんの元で稽古をつけてもらい、誰もが驚愕する独自の防壁魔法(ボルグ)を手に、単独で迷宮の守護者をも倒し、あの過酷な密林地帯だって踏破してみせた。俺はもう、あの前世の無能な大学生ではない。大切な家族を、今度こそこの手で守れるはずだと、心のどこかで奢っていたのだ。

 

 だが、すべては俺の、ただの都合のいい勘違いだった。ごっこ遊びの延長に過ぎなかった。

 

 世界に君臨する本物の『怪物』からしてみれば、俺がこの10年間、必死に汗と血を流して積み上げてきた血の滲むような努力も、誇りも、防壁魔法(ボルグ)の盾も、何一つとして意味をなさない。俺が強くなろうが弱かろうがそんなことは関係ない。文字通り、赤子の手をひねるよりも簡単に、いつでも、何度でも、気まぐれに俺を殺せるのだと、その目の前に佇む圧倒的な存在自体が雄弁に証明していた。

 

 何も守れない。結局、前世のあの無能な大学生のままで、俺は一歩も前に進めていなかったんだ。

 

 悔しさと、惨めさと、圧倒的な敗北感で視界が涙で滲みそうになる。それを強引に堪え、俺はふらつく足で、武器すら失った徒手空拳のまま前へと踏み出した。せめて、最後の一秒まで、あの夢の中に現れたヒトガミとやらにだけは屈したくないという、それだけが今の俺の、最後の意地だった。アイツのほくそ笑んでいる顔が浮かんでくる。今頃あの白い世界で苦しんでいる俺を見て嘲笑っているのだろう。そう思うと、どうしようも無い怒りが湧き上がってきた。

 

「は、言わせて、もらえば……っ!」

 

 俺は腕の痛みに耐えながら、世界の不条理そのものである最凶の龍神を、真っ直ぐに睨み返した。

 

「誰が、あんなモザイクの、うさん臭いネズミ講の詐欺師の、手先になんかなるかよ……!!」

 

 俺の魂の叫びと同時に、オルステッドの腕が微かにぶれた。

 

 次の瞬間、俺は全ての魔力を振り絞って展開した、防壁魔法(ボルグ)の桃色の球体は、まるで薄い紙切れのようにあっけなく引き裂かれていた。

 

 列強第二位の絶対的な破壊力は、俺の盾を文字通り一瞬で無へと還し、その鋭い手刀の軌道は俺の視界を真横から鋭く一閃する。一瞬の拮抗。 無詠唱の魔術でも、古代の魔法陣でもない。世界のどんな魔術体系にも存在しない、発動の予兆すら皆無のまま完全な物理遮断を誇るその『盾』の異質さに、オルステッドの金色の瞳が、驚きによって僅かに見開かれた。

 

 列強第二位の男が、その圧倒的な力の一振りを、ほんの一刹那だけ押し留められたのだ。

 

「……ほう」 

 

 オルステッドの口から、微かな感心の声が漏れる。しかし、それも本当に一瞬の出来事だった。

 

 男がわずかに手刀に闘気を込め直した瞬間、俺が全力を込めた防壁魔法(ボルグ)は、まるで薄い紙切れのようにあっけなく引き裂かれていた。絶対の盾を文字通り無へと還し、その鋭い手刀の軌道は俺の視界を真横から鋭く一閃する。

 

 視界が、不自然な角度で傾いた。

 

 強烈な衝撃と、一瞬ののち、肉体が焼き切れるような熱い感覚が首元を駆け抜ける。

 

 頭が、胴体から完全に離れかける。

 

 普通の人間であれば即死するような一撃だった。しかし、消失する寸前に放っていた防壁魔法(ボルグ)の残滓が、オルステッドの攻撃の軌道をほんの僅かに、それこそミリ単位でずらしていた。さらに、俺の異常な肉体の頑丈さが、完全な切断を瀬戸際で拒む。首の皮一枚、頸動脈と神経が辛うじて繋がった状態のまま、俺の身体は己の血の海へと崩れ落ちた。

 

 地面に倒れ伏した俺の網膜には、自分の首から溢れ出た大量の赤が、ドクドクと路面を染めていくのが映る。

 

 急速に体温が失われ、冷たい地面の感覚すら消えていく。意識が急速に、どこまでも深い闇の底へと引きずり込まれていく。脳への血流が止まるまでの、わずか数秒の猶予。前世の日本の記憶、パウロの家での温かい日々、ルーデウスの顔、シルフィの笑顔、それらが走馬灯のように頭を駆け巡る。

 

 死ぬ。今度こそ、本当に終わりだ。

 

 あの時、ブエナ村でシルフィの手を掴めなかったあの時から、俺の運命はここで終わることが決まっていたのかもしれない。

 

 その圧倒的な絶望のなかで、俺の胸に湧き上がってきたのは、理不尽に対する強烈な怒りと悔しさだった。

 

 ──ああ、クソが。こんなんで終わりかよ。

 

 口から大量の血の泡を吐き散らしながら、俺は消えゆく意識のなかで、かすかな、しかし明確な言葉が心から絞り出た。

 

 ──許さねぇ。俺を殺したコイツも、ヒトガミも。いつか絶対、殺してやる。

 

 ルークは目の前が真っ白になった。

 

 





少し難産でしたね。
見ていただきありがとうございます。

今気が付いたのですが、ノトス家はミルボッツ領の貴族ですね。私ずっとアスラ王国にいるものだと思って書いていました。出来る限り修正しますが、見逃していた点がありましたら、誤字報告等で教えて下さると幸いです。いつからノトス家がアスラ王国にいると錯覚していた?

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