迷宮を目指した俺は、世界を間違えた   作:アルマトラン

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首の皮一枚

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白な空間の中心で、ヒトガミは全裸の身体をクネクネと不気味に揺らしながら、一人で歓喜の笑みを浮かべていた。

 

 ──いやあ、焦った、焦った。まさかあんな場所に、あの最悪のバグが佇んでいるなんて、僕だって思いもしないじゃないか。

 

 ヒトガミにとって、龍神オルステッドは自身の未来視をすり抜ける唯一の天敵だ。あいつがどこで何をしているかは、人神の目をもってしても一切見通せない。だからこそ、自分の誘導したイレギュラーであるルークが、赤竜の下顎であの銀髪の怪物とバッタリ遭遇した瞬間は、流石の神とて心臓が冷える思いだった。

 

 だが、結果としてはこれ以上ないほどの大当たり、オーライだ。

 

 何せ、あのルークという少年が展開した桃色の障壁──防壁魔法(ボルグ)は、列強第二位であるオルステッドの、あの世界を滅ぼしかねない圧倒的な手刀を、ほんの一刹那とはいえ完全に停止させてみせたのだ。

 

 無詠唱でも、この世界の古代の結界術でもない、発動の予兆すら皆無の未知の盾。

 

 ──素晴らしいよ、ルークくん。君は僕にとって、最高の『手札』になり得る存在だ。あいつの攻撃を防ぎきれる絶対の盾として、君にはもっと強くなってもらわなきゃ困る。

 

 ヒトガミの細い目の奥に、どす黒い保身の光が灯る。

 

 今回の敗北で、あの少年は世界の天井の圧倒的な高さを思い知ったはずだ。ならば、こちらの指示などなくとも、今隣にいるあの放浪の強者──アレックスに、自発的に頭を下げて師事するだろう。あの北神カールマン二世は、子供を見捨てるような男ではない。ルークの異能に一目を置いた彼なら、喜んでその技術を叩き込むはずだ。

 

 都合の良いことに、中身が別の世界の住人に入れ替わったあのルークは、実家のノトス家に捨てられたという暗い過去のせいか、パウロの家で培った『自分の家族』への執着だけが異常に強いのだ。

 

 そこが、この盤面における最大の付け入る隙だった。

 

 ──アリエルをアスラ王国の女王にさせてなるものか。彼女が王になれば、いずれ僕の未来にとって最悪の障害になる。だったら、ルークくんを利用して、アリエルの足元を根腐れさせてあげよう。

 

 ヒトガミは薄汚い笑みを深くした。

 

 ルークが、アリエルの護衛をしているあのハーフエルフ──シルフィエットという少女を狂おしいほど探していることを、人神は知っている。

 

 ──いい感じに彼が強くなったタイミングで、ラノア魔法大学の存在を教えてあげよう。あそこなら、彼の持つ未知の障壁をこの世界の魔術理論と融合させて、より効率的に、より強固に発展させるための最高の研究施設がある。……そして何より、あそこには君の愛しいシルフィエットが、アリエルの護衛術師フィッツとして男装して潜んでいるからね。

 

 ラノア魔法大学で、ルークとシルフィを再会させる。ルーデウスという男の未来を少しでも引っかき回し、アリエルの足場を崩し、なおかつオルステッドを殺すための最強の盾を合法的に育成する。一石二鳥どころではない、最高に美しい神の策略だった。

 

「おーい、ルークくーん。聞こえてる? ねぇ、聞こえてるよねー?」

 

 精神体としてこの白い空間に引きずり込まれてきたルークを前に、ヒトガミはいつもの軽薄で親しみやすい善人の仮面をパッと被り直した。

 

 目の前に現れたルークの精神体は、なぜか21歳の大学生の姿のまま、自分の首から上を失くし、その生首を左腕で小脇にがっちりと抱えているという、ひどく滑稽でシュールな姿をしていた。

 

 腕の中の生首は、怒りと不信感で口を固く結び、こちらを完全に無視しようとしている。

 

「えー、ひどいなぁ、完全無視かい? 怒ってるのかい? ごめんってば! 謝るからそんな怖い顔で僕を見つめないでおくれよー。だってさぁ、オルステッドは僕には『見えない』んだよー! 本当だよ?」

 

 何も知らない哀れな少年に向かって、人神は言葉巧みに嘘と真実を混ぜ合わせ、情報の小出しを始めた。

 

 怒れる生首が、こちらの意図通りに「利用してやる」と決意するその瞬間を、歪なモザイクの奥で、じっと嘲笑いながら見つめ続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そんな最悪な神の策略が、あの歪なモザイクの奥で組み立てられているなど、この時の俺は知る由もなかった。

 

 目を開けた瞬間、そこはまたしても、あの忌々しい真っ白な空間だった。

 

 上下も左右もない、何もない世界。だが、前回と大きく違うところが二つあった。

 

 一つは、自分の肉体が21歳の大学生の姿に戻っていること。

 

 そしてもう一つは──俺の首から上が存在せず、その生首を、俺自身の左腕で小脇にがっちりと抱えているということだ。

 

 首の隣に腰があるとかいう、前世のホラー映画でも見たことのない最悪の状況。

 

 落胆よりも先に、強烈な怒りがフツフツと湧き上がってくる。その怒りの中心にいるのは、少し離れた場所で、相変わらず全身にモザイクをかけたような姿で突っ立っている、あのうさん臭い人形──ヒトガミだった。

 

「おーい、ルークくーん。聞こえてる? ねぇ、聞こえてるよねー?」

 

 中性的な、調子の良い声が響く。

 

 だが、俺は絶対に口を開かない。完全な無視だ。ネズミ講の詐欺師にこれ以上騙されてたまるか。腕の中の生首の口を、これでもかと固く結んでやった。

 

「えー、ひどいなぁ、完全無視かい? 怒ってるのかい? ごめんってば! 謝るからそんな怖い顔で僕の生首を見つめないでおくれよー」

 

 ヒトガミはクネクネと気色悪い動きをしながら、すり寄ってくる。

 

「だってさぁ、オルステッドは僕には『見えない』んだよー! 本当だよ? あいつは僕の未来視を完全にすり抜けるバグみたいな存在なんだから、まさかあんな赤竜の下顎なんていうピンポイントな場所に佇んでいるなんて、僕だって思いもしないじゃないかー! ねぇ、機嫌を直してよー」

 

 必死に被害者を装うその口調に、俺はついに我慢の限界が来て、腕の中の生首の口を開かせた。

 

「……おい、モザイク野郎」

 

「あ、喋ってくれた! 」

 

「うるせえ。オルステッドがお前のことをあんなに親の仇みたいに嫌ってるなら、最初に会った時になんで早く言ってくれなかったんだよ」

 

「え? なんでだい? 別に言わなくても問題ないと思ったんだけど……」

 

「大問題だろうが!!」

 

 俺は左腕に抱えた自分の生首を、ヒトガミのモザイク面に向けてぐいっと突きつけた。

 

「見ろよ! お前のせいで、俺は今、自分の首を自分で抱えてるんだよ!! せめてお前の名前を出したら即座に殺されるって事前に教えてくれていれば、俺だってあそこで大人しく引き下がってたんだよ! 共通言語だと思ってお前の名前を出した瞬間に、これだよ! お前の不親切のせいで、俺の人生は10年で首チョンパエンドだよ! 」

 

 生首の口から、怒号が飛び出す。

 

 だが、ヒトガミはそんな俺の剣幕に対しても、悪びれる風もなく、むしろ不思議そうに首を傾げてみせた。

 

「何か大きな勘違いをしているようだけど……君、死んでないよ?」

 

「はあ?」

 

 俺の生首が、間抜けな声を上げる。

 

「いやいや、見ろよ。首チョンパだぞ? 首チョンパ。綺麗に頭と胴体が離れてるんだよ。これで死んでないなら、俺は人間じゃなくてデュラハンか何かの魔物だろ」

 

「いいや、本当に君は死んでいないのさ。僕が嘘をついてどうするんだい?」

 

「お前が怪しいから疑ってんだよ。……本当なのか? 俺は生きてるのか?」

 

「ああ、本当さ。君のあの、防壁魔法(ボルグ)さ! あれは本当に素晴らしい! 列強第二位のオルステッドの攻撃を、君はほんの一瞬でも、素手で完全に止めてみせた。あいつは僕の天敵でね。あいつを倒す、あるいはあいつの攻撃を防ぎきれる最強の盾として、僕は君のことがどうしても必要なのさ」

 

 ヒトガミは、まるで手に入れたばかりの玩具を自慢するかのように、言葉を弾ませた。

 

「君はラプラス因子を持っていて、十歳にして上級剣士並みの素晴らしい身体と剣術がある。今回のオルステッドとの遭遇は僕にとっても焦った出来事だったけど、結果的にはオーライさ! 君も生き延びたし、自分がまだまだ世界の天井には届かないってことに気が付いただろう? 」

 

 邪神はクククと喉を鳴らして笑う。

 

 俺をあいつの肉壁にするために育てようとする魂胆が見え見えだ。ふざけやがって。絶対にやってやらねぇ。と思ったが今の俺が、あの化け物みたいな強さに圧倒されて絶望していたのは事実だった。

 

「俺をあいつの肉壁にする気満々じゃねえか。誰が御免被るかよ」

 

「そんなこと言わずにさ。頼むよぉ」

 

「嫌だね。俺は今回の一件でオルステッドもお前の事も大嫌いだ」

 

「じゃあ、いい事を教えてあげるよ。君の家族、生きてるよ」

 

 ──今なんて言った? 

 

 

 

 腕の中に抱えた俺の生首が、完全に思考を停止させた。

 

 あまりの衝撃に、視線の焦点が激しくブレる。真っ白な空間の冷気が、首の断面から体の中へ直接流れ込んできたかのような、そんな錯覚さえ覚えた。

 

 パウロさん。ゼニスさん。ルディ。リーリャさん。アイシャ。ノルン。

 

 あの光に包まれて、バラバラに世界中へ吹き飛ばされてから、片時だって忘れたことのない、俺の本当の家族たちの安否。

 

「……おい。今、なんて言った」

 

「おや、やっと僕の言葉に本気で耳を傾けてくれたねえ! だから言ったじゃないか、君の家族はみんな無事、生きてるよ。もちろん、君がずっと探している、あのブエナ村の緑髪の女の子──シルフィエットだって、どこかで元気に生きているさ」

 

 ヒトガミはモザイクの身体をくねらせながら、勝ち誇ったような、実に見え透いた慈愛の声を響かせた。

 

 ──嘘だろ……。みんな、生きてる……? 

 

 胸の奥から、言葉にできないほどの安堵と歓喜が突き上げてきそうになる。

 

 だが、その熱を、俺の頭の中に残る前世の21年間の記憶が猛烈な勢いで冷ましていった。

 

 おかしい。あからさまにタイミングが良すぎる。

 

 さっきまで俺が「お前もオルステッドも大嫌いだ」と完全に拒絶した、その直後にこの情報を出してきたのだ。

 

 前世の、マルチ商法の悪質な勧誘と全く同じだ。こちらの警戒心が最大になり、決裂しそうになった瞬間に、一番欲しがっている甘いエサをチラつかせて契約書にサインをさせようとする、典型的な詐欺の手口。

 

「……なぁ、モザイク野郎。なんでそれを『今』言った?」

 

 俺の生首は、歓喜に震える代わりに、低く、ドスの利いた声を喉から絞り出した。

 

 左腕の力を強め、自分の生首の髪の毛を掴む指が白くなるほどに握りしめる。

 

「え? なんでって……君が僕のことを嫌いだなんて悲しいことを言うからさあ。僕は君の味方だってことを証明したくて……」

 

「白々しいことを言うなよ」

 

 俺はヒトガミの言葉を鋭く遮った。

 

「お前、俺を試したな? 最初は確実なルート教えた。でもお前にはオルステッドの未来は見えない。そこでお前は切り替えた。俺がどれくらい戦えるのか、あの化け物を前にしてどれだけの盾になれるのかを特等席で観察してたんだろ。その結果、俺の防壁魔法が想像以上に使えると分かったから、本格的に俺を飼い慣らすためにそのカードを切ってきた。……違うか?」

 

 じりじりと、精神体であるはずの俺の肉体から、冷たい怒りが放射される。

 

「お前が本当に最初から俺の味方で、家族の安否を知っていたなら、最初の時に真っ先に教えてくれたはずだ。それをしなかったのは、俺に教える『価値』があるかどうかを天秤にかけていたからだ。違うかよ、クソ野郎」

 

 問い詰める俺の生首を前に、ヒトガミはほんの一瞬だけ、完璧に沈黙した。

 

 空間の温度が凍りつくような、不気味な無音。だが、邪神はすぐにいつもの軽薄な笑い声を響かせ、パタパタと手を振ってみせた。

 

「あはは! 手厳しいなあ、本当に君は疑り深いねえ! 確かに、情報を小出しにしたのは悪かったよ。でもさあ、僕が嘘をついているかどうかは、君がこれから自分の目で確かめれば分かることじゃないか。現に、シーローンの街道が封鎖されるって情報は当たっていた。君がこれから僕の言う通りに動けば、いずれ家族とも、あの緑髪の女の子とも再会できる。……これでも、僕の言葉を無視するかい?」

 

 モザイクの奥から、無数の見えない触手が俺の心を縛り付けようとしてくるような、そんな悍ましい気配が伝わってくる。

 

 本当かどうかは分からない。こいつが俺を都合の良い捨て駒として利用しようとしているのは、もはや確定だ。

 

 だけど──パウロさんたちが生きているという情報が、シルフィが生きているという言葉が、もし万が一にでも本当なのだとしたら、俺はそれを無視することはできない。

 

 悔しいが、今の俺には世界中を探し回るような情報網も、オルステッドに勝てるような圧倒的な力もないのだ。

 

 ──こいつは、俺が家族のために動く人間だと分かっていて、このエサを投げ込んできた。……上等だよ。

 

 俺は腕の中の生首の口元を、不敵に、歪に吊り上げてみせた。

 

「……分かったよ。お前のその怪しいやつ、一口乗ってやる。家族とシルフィが生きてるって言うなら、その情報を道標にして進んでやるよ」

 

「うんうん、そうこなくっちゃ! 賢い選択だね、ルークくん!」

 

「勘違いするなよ。俺はお前を信用したわけじゃない」

 

「あはは、言わせておけば威勢がいいねえ! 期待しているよ。さぁ、そろそろお別れの時間だ。目が覚めたら、ちゃんと僕に感謝しておくれよ?」

 

 ヒトガミのモザイクのかかった姿が、勝ち誇ったエコーを残しながら、真っ白な空間の奥へと溶けていく。

 

 同時に、左腕に抱えていた俺の生首が、猛烈な引力で胴体へと引き戻され、強烈な目眩が視界を塗り潰していった。

 

「……待ってろよ、モザイク野郎。お前の手のひらの上で、踊ってやるフリだけはしてやるからな」

 

 俺は暗転していく視界の中で、消えゆく邪神に向けて、不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後頭部に、どこか無骨で、しかし不思議と安心するような硬い触感があった。

 

 深い闇の底から引きずり上げられるようにして、俺の意識がゆっくりと浮上していく。

 

 閉じていた瞼を徐々に押し開くと、先ほどまでいたあの真っ白な空間とは違う、現実の自然の光が網膜を刺した。眩しさに思わず目を細める。視界に映り込んだのは、見覚えのある岩の天井だった。冷たい風が吹き付ける、薄暗くて、ところどころに白い霜が張り付いている、あの赤竜の下顎の絶壁。

 

 俺のすぐ頭上にいたのは、ギレーヌだった。

 

 彼女は目を見開き、俺とは違う方向を向いて激しく口を動かし、何かを叫んでいる。だが、酷い耳鳴りが頭の奥でキィィンと鳴り響いていて、彼女の声は掠れた雑音にしか聞こえなかった。

 

 瞬間、胃の底からせり上がってくるような、猛烈な不快感と吐き気が俺を襲った。

 

 反射的に身体を側面へと向け、地面へとしがみつくようにして中身をぶちまける。口から溢れ出て、冷たい土座に広がったのは、酸っぱい胃液などではなかった。どす黒く、生暖かい、本物の血の塊だった。

 

 ゴホッ、ゲホッと激しく咽びながら、喉の奥に溜まっていた不快な残滓をすべて吐き出す。何度も何度もしがみつくように深呼吸を繰り返していると、肺に冷たい空気が送り込まれ、段々と狂ったような動悸が落ち着きを取り戻していった。

 

 それと同時に、遮断されていた周囲の音が、霧が晴れるようにして耳の奥へ聞き取れるようになってくる。

 

「ルーク!!」

 

 鼓膜を揺らしたのは、ギレーヌの悲鳴に近い叫び声だった。

 

 いつの間にか、俺の周囲には皆が集まってきていた。全員が顔を真っ白にして、涙と泥にまみれた顔で俺を見つめている。

 

「……ギレーヌ、俺は……」

 

「……やっと起きましたか。本当に、本当に心配しましたよ、ルーク君」

 

 俺に声をかけてきたのは、シャンドルさんだった。

 

 全身の骨を折られて絶壁に埋め込まれていたはずの彼は、衣服を血で染め、顔を歪めながらも、いつもの紳士的な声音を必死に保とうと努めていた。

 

「シャンドルさん……」

 

 俺は仰向けの状態から、痛む身体を無理やり制御してのそりと起き上がった。

 

 その瞬間、後頭部に残っていたあの硬い感触の正体に気がついた。ギレーヌの太ももだった。

 

 ……俺、ギレーヌに膝枕されてたのか。

 

 俺も将来はこのような、硬い筋肉に包まれたいものだ。男の憧れだな。この筋肉は。

 

「グフっ」

 

 だが、その思考は突如として遮断された。

 

 視界が、一瞬にして完全なる真っ黒に染まったのだ。

 

 心做しか、もの凄くいい匂いもする。なんだろうこれは。柔らかくて、温かくて、そして凄まじい力で頭を圧迫されている。

 

「ルーク! よく生きて……よく生きていてくれたわ……っ!!」

 

 押し潰されそうな耳の奥で、その声が響いた。

 

 声で分かった。ヒルダさんだ。

 

 俺の生存に感極まって全力で抱きしめてくれているのだろうが、流石に死の淵から帰ってきたばかりの肉体には破壊力が強すぎる。心臓に悪いからこれはマジでやめて欲しい。それに窒息しそうで息が続かない。

 

「ヒルダ、ルーク君が死んでしまう。そろそろ離してあげなさい」

 

「あっ……ごめんなさい、ルーク」

 

 フィリップさんの冷静な制止によって、ヒルダさんはハッと我に返り、名残惜しそうに俺を解放してくれた。

 

 ようやく酸素を吸い込んで大きく息を吐き出すと、フィリップさんが俺の正面へと回り込み、地面に膝をついた。その高貴な顔には、これまでの旅で一度も見せたことのないような、申し訳なさそうな深い悔恨の念が滲み出ていた。彼は俺の目を真っ直ぐに見据え、深く、深く頭を下げた。

 

「すまないね、ルーク君。私達は……情けなく馬車の中で震えていることしか出来なかった。君が命を懸けてあのような怪物と対峙してくれているというのに、何も、何一つとして力になれなかった」

 

「やめてください、フィリップさん。頭を上げてください。フィリップさん達は何も悪くないですよ」

 

 俺は慌てて手を振った。戦う力を持たない一般人が、あの列強第二位の呪いの前ですくみ上がるのは当然だ。むしろ、五感が蹂躙されるあの恐怖の中で、狂わずに生きていてくれただけで御の字というものだ。

 

「それでも、さ。君のような子供に、更にこんな酷い傷痕を残してしまった。……本当に、謝らせてくれ」

 

 フィリップさんは痛ましそうに、俺の首元を見つめていた。

 

 はて、と俺は首を傾げる。首元にかすかな違和感──皮膚が引き攣るような、妙な感触がある。

 

 俺は横にある、渓谷の強風によって凍りついた氷の一面に目をやった。滑らかに凍った氷の表面は、ちょうど濁った鏡のようになっていて、そこに映り込んだ自分の姿を見て、俺はやっと全ての事実に気がついた。

 

 いつかの火傷の痕。額からこめかみ、左目の周囲へかけて、焼けた跡が残っている。そして俺の首の辺りに、ぐるりと、まるで赤い糸で縫い合わせたかのように一周回っている、鮮烈な傷痕。

 

 なるほど、夢じゃなかった。あのモザイク野郎の言う通り、俺は本当に、あの男の手刀によって綺麗に首をチョンパされたのだ。その死の痕跡が、生々しく首元に焼き付いていた。

 

「ルーク君……、ああ、神様……っ!」

 

 呆然と自分の首の傷を見つめる俺の前に、今度はエルナさんが涙をボロボロと流しながら駆け寄ってきた。彼女は俺の手を両手で包み込むようにして握りしめ、言葉を詰まらせる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。あなたが私達を紛争地帯から助けてくれたのに、こんな危険な場所にまで巻き込んで……私達を守るために、こんな恐ろしい目に遭わせてしまうなんて……っ!」

 

「エルナさん、顔を上げてください。俺は大丈夫ですから。こうしてちゃんと生きてますよ」

 

 優しく微笑みかけると、そのエルナさんの肩を、ロールズさんが震える手でそっと抱き寄せた。

 

 狩人として、男として、大切な家族をただ馬車の中で守られることしかできなかったロールズさんの顔も、悔しさと安堵で酷く歪んでいた。彼は俺の緑色の髪を、我が子を見るような愛おしさと、痛切な眼差しで見つめながら、掠れた声で語りかけてきた。

 

「ルーク君……本当に、本当に生きていてくれて良かった……。もし、私達を守るためにあなたがここで命を落としていたら……私は、私は一生、シルフィに合わせる顔がなかった。ありがとう、本当に、生きていてくれて……!」

 

 ロールズさんは溢れる涙を拭おうともせず、何度も何度も、俺に向かって深く頭を下げ、感謝の言葉を繰り返した。

 

 その言葉が、俺の胸の奥に、チリチリとした温かい灯火を灯してくれる。

 

 そうだ。俺は、この人たちをフィットア領へ送り届けるために、あの地獄を生き延びたんだ。

 

 

 

「……というか、オルステッドは?」

 

 俺は、今一番気になっていたことを、周囲を見渡しながら尋ねた。

 

 喉元を触っても、もう血は流れていない。少なくとも、この周辺のどこを見渡しても、あの純白の髪を持った最凶の男の姿はなかった。

 

「オルステッドは、君を治癒魔術で治した後、そのまま反対側に歩いて行ってしまったよ」

 

 シャンドルさんが、鉄の棒に体重を預けながら静かに答えた。

 

「……俺を、治した? なんで……あいつ、俺のことを人神の手先だって言って、本気で殺しにきてたはずなのに」

 

 俺の困惑の呟きに、シャンドルさんは視線を少し落とし、記憶を辿るようにして言葉を続けた。

 

「オルステッドの隣にいたあの仮面の少女……彼女が、君が最後に放った言葉を聞いた瞬間、血相を変えてオルステッドに何かを伝えたんだ。必死に、彼の腕にすがりつくようにしてね。そうしたら、あの龍神は君への殺気を完全に消し去り、その手に宿る見たこともない濃密な光で、ルーク君に治癒魔術をかけた。……私には、彼らが一体何語で、何を話していたのかまでは、さっぱり分からなかったがね」

 

 少女、と聞いて、俺は朦朧とする頭をフル回転させて記憶を手繰り寄せた。この世界の誰も知るはずのない、前世の言葉。

 

 ──ネズミ講、マルチ商法、詐欺師……。あの女、その単語を聞いて、俺が日本人だと気がついた? だとしたら、アイツも……。

 

「彼女は何者なんでしょうね……。世界最強の龍神の隣にあって、あの仮面。そして、一国の軍隊すら容易く滅ぼすあの男の決定を、言葉一つで覆してみせた。ただの付き人とは到底思えませんねえ」

 

 シャンドルさんは深い溜息を漏らし、謎の少女への尽きない疑問を呟いた。

 

 俺は首の傷痕をそっと撫でながら、心の中でその正体を確信していた。あの女は、俺と同じ、前世の日本からこの世界へ越えてきた異邦人だ。あいつがオルステッドを止めてくれなければ、俺の10年間はあそこで確実に終わっていた。

 

 ──その後、俺たちは無理に動くことを辞め、その場で丸一日、身体を休めることにした。

 

 シャンドルさんの折れた肋骨や、ギレーヌの頭部の打撲、そして何より俺の枯渇した魔力と精神の疲弊は、すぐに旅を再開できるような状態ではなかったからだ。馬車の中で恐怖に震えていた大人たちも、温かいスープを口にすることで、ようやくその顔に血の気が戻っていった。

 

 それはいい。それは当然の休息だ。

 だが、俺にはどうしても一つだけ、首のチョンパ痕以上に納得がいかない不条理が存在していた。

 

「……あの、シャンドルさん」

 

「おや、どうしましたかルーク君。まだどこか痛むのですか?」

 

 焚き火の前に座り、大盛りの干し肉スープを信じられない勢いで咀嚼している中年男に向かって、俺は引き攣った指先を突きつけた。

 

「俺は神級の魔術で繋げ直してもらったからいいんですよ。……問題は、アンタです」

 

「私、ですか?」

 

 シャンドルさんは不思議そうに首を傾げ、スープの具材を器用に口へ運ぶ。

 

 その動作には、何の引っかかりもない。それどころか、昨日あれだけ派手に折れていたはずの肋骨の、痛がる素振りすら微塵も見せていなかった。

 

「アンタですよ、アンタ昨日、あのオルステッドに光の太刀で吹き飛ばされて、岩壁にめり込んでただろ! 肋骨なんて、原型を留めないくらいバキバキに砕ける感触を俺は隣で確かに感じたんだぞ!? なんで一日経っただけで、普通に座ってそんな肉の塊を笑顔で噛みちぎれてるんだよ! アンタ、本当は人間じゃなくて、魔族か何かのバケモノだろ!!」

 

 思わず敬語を投げ捨てて叫んでしまった。

 

 このおじさんは治癒魔術をかけられることもなく、ただ自前の身体だけで血の海から這い出してきたのだ。普通なら、良くて全治数ヶ月の寝たきり、最悪の場合、内臓が破裂してその場で息絶えている重傷だった。それなのに、今のシャンドルさんは一晩寝て美味い飯を食っただけで、何事もなかったかのようにピンピンしている。その異常なまでの頑丈さと再生能力は、どう見ても人間のそれではない。

 

「ははは! 何をそんなに驚いているのですか、ルーク君」

 

 シャンドルさんはスープの器を置くと、豪快に笑って自分の胸を拳で叩いてみせた。

 

「北神流の剣士を侮ってはいけませんよ。己の闘気の循環を極限まで高めれば、これくらいの骨折、一晩寝て美味い飯を食えば綺麗に元通りです。初代北神も、どれだけ手足が折れようと翌朝には戦場へ笑って赴いたと言いますからね。これぞ北神の男の、真骨頂というものですよ!」

 

「いや、闘気ってそんなトカゲの再生能力みたいな使い方できませんから……」

 

 そこまで一気に捲し立てて、俺はハッと息を呑んだ。

 

 自分の言葉の勢いに引きずられるようにして、あの最悪の戦闘の最中、最凶の龍神がこのおじさんに向かって言い放った冷酷な言葉が、脳裏に鮮烈にフラッシュバックしたのだ。

 

『……アレックス。なぜその武器を使う。お前ほどの男が、そんな鉄の棒一本で私の動きを止められると思っているのか』

 

『本来のお前は、私の敵ではない。ここでお前には手傷を負わせてしまうが、悪く思うな』

 

 あのオルステッドが、本名らしき名前で呼んで明確に個人の実力を認識していた。

 

 ギレーヌが手も足も出ないあのバケモノが、ただのしがない放浪の武芸者を相手に、そんな言葉を投げるはずがない。

 

 ──待てよ……。あの時、シャンドルさんは自分のことを『北神の男』って言ってた。それにオルステッドは、あいつのことを『カールマン二世』とも呼んでた気がする。……カールマン二世って、あの七大列強にも名を連ねる、物語の英雄の『北神カールマン二世』のことか!? 

 

 幼い記憶の中にある、昔地下室の中で読んでいた本の内容が、ジワジワとパズルのピースのように噛み合っていく。

 

 まさか。いや、まさかそんなわけがない。そんな伝説の生き証人みたいな大英雄が、なんで王竜王国の片田舎の密林で、のんびり川魚を焼きながら一般人の足をもつれたのを介抱したり、道具の扱い方を優しく教えてくれたりしているんだ。

 

 俺は冷や汗を流しながら、スープを美味そうに啜るシャンドルさんの横顔を、まじまじと見つめ直した。

 

 ギレーヌが剣王なのは知っていたし、その強さも間近で見てきた。だが、このシャンドルというおじさんの異常性強は強さとしてももちろんある。それとは別に、ベクトルの違う生物としての格の違いを感じさせた。戦闘時に見せたあの凄惨なまでの執念、そしてこの怪獣並みの自然治癒力。

 

 ──このおじさん……武者修行中とか絶対に嘘だろ。

 

 俺は彼の足元に転がっている不格好な鉄の棒に対して、言葉にできないほどの戦慄を覚えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、俺たちは再び馬車を進め、赤竜の下顎の残りの渓谷へと足を踏み入れた。

 

 そこから下顎の一本道を完全に抜け、アスラ王国側の広大な平地に降り立つまでの間、上空を舞う赤竜たちがこちらに襲いかかることは、ただの一度もなかった。

 

 それどころか、オルステッドの強襲が嘘だったかのように、赤竜の群れは馬車の気配を感じると、あからさまに距離を取って遠くの空へと避けていく。

 

「……来た時と同じだな。不気味なほど静かだ」

 

 馬車の車輪の音だけが響く渓谷で、ギレーヌが呟く。

 

 シャンドルさんも手綱を握りながら、静かに頷いていた。

 

「ええ。まるで、あの龍神オルステッドの戦いを見た竜たちが、この馬車には関わるなと、恐怖して道を譲っているかのようだ」

 

 シャンドルさんはそう言って感心していたが、俺は馬車の座席に深く背中を預けながら、心の中で別の『影』を感じていた。

 

 違う。赤竜が避けているのは、オルステッドのせいだけじゃない。あの夢の中でニヤニヤと笑っていたマルチ商法野郎──ヒトガミの裏の糸が、未だにこの下顎の生態系を縛り付けているからだ。

 

 ──あいつは俺を『最強の盾』にするために、生かして、操ろうとしている……。

 

 首の傷痕が、冷たい風に吹かれてチリチリと微かに疼いた。

 

 世界の天井の圧倒的な高さを思い知り、自分の10年間がただのごっこ遊びだったと突きつけられた、あの敗北の惨めさは消えない。

 

 だが、俺の胸の中で燃え盛っているのは、絶望だけではなかった。

 

 ──待ってろよ、ヒトガミ。お前の用意したレールの上を、歩いてやるフリだけはしてやる。だけどな、俺はただの肉壁で終わるつもりは毛頭ねえよ。

 

 前世の記憶にある、あの流れるような魔力の循環。闘気をただ身体に纏うだけでなく、剣の刃先にのみ極限まで圧縮・集中させ、あらゆるものをバターのように滑らかに両断する、あの戦い方のイメージ。

 

 守るためのの盾。そして、いかなる理不尽をも切り裂くための、俺だけの新しい剣。

 

 俺は遠ざかっていく赤竜山脈の巨大な岩肌を睨みつけながら、自分の拳を強く、強く握り締めるのだった。

 

 

 

 

 

 





大体書く時は暇なので無職転生を流し見しながらなのですが、13話が来てしまいましてね。病みそうになりますね、あれ。なので二期のラノア魔法大学編を見て和んでました。まぁあそこもしんどい所ありますけど。蛇足編アニメ化早よ。

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