迷宮を目指した俺は、世界を間違えた   作:アルマトラン

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新たなる道

 

 

 

 

 

 赤竜の下顎の過酷な岩壁を完全に抜け、馬車を進めるうちに、不毛な渓谷は次第に色を失い、代わりに土の匂いと、生ぬるい風が肌を撫でるようになった。アスラ王国の境界へと至る緩やかな平原が広がっていく。

 

 だが、俺たちの目的地であるフィットア領難民キャンプに辿り着いた瞬間、その生ぬるい空気は、重く冷たい沈黙へと変わった。

 

 そこは、閑散としていた。

 

 敷地の規模だけで言えば、一つの大きな村ほどはあるだろう。急造で拵えたであろうログハウスや天幕がいくつも立ち並び、急場をしのぐための拠点としての形は整えられていた。

 

 だが、そこには生きるための活気というものが、爪の先ほども存在していなかった。

 

 全体的にひっそりとした、暗い空気が漂っている。規模に対してあまりにも歩いている人が少なく、時折すれ違う難民たちの目は、一様に光を失って濁っていた。ログハウスの薄暗い窓の奥には、確かにひしめき合う人々の気配がある。滞在している人間は少なからずいるはずなのに、世界から隔絶されたかのように、ただ静かに死を待つような陰鬱な淀みが、キャンプ全体を支配していた。

 

 俺たちはシャンドルさんに馬車を預け、ギレーヌを先頭に、フィリップさん、ヒルダさん、ロールズさん、エルナさんの六人でキャンプの中央へと赴いた。

 

 目指した場所は、冒険者ギルドの建物を無理やり拡張したような木造の大きな案内所だった。入り口の粗末な看板には『フィットア領難民キャンプ本部』と殴り書きされている。

 

 中に入ると、外に比べてそれなりに人は集まっていた。しかし、室内に充満している空気は、外のそれよりも遥かに陰鬱で、いやな予感しかしてこなかった。じっとりと湿った沈黙のなか、書類をめくる乾いた音だけが耳障りに響く。

 

「あなた、あれ……」

 

 不意に、ヒルダさんが震える指先で、壁の一角を指差した。

 

 そこに張られていたのは、今回の未曾有の災害によって行方不明、あるいは死亡が確認された者たちの名前が記された膨大な紙の束だった。細かい文字でびっしりと書き込まれたその名簿は、村や町毎に、冷徹な五十音順で並べられている。

 

 その一番上の目立つ場所に、一際大きく書かれた一文があった。

 

『フィットア領領主 ジェイムズ・ボレアス・グレイラット。行方不明者・死亡者の情報を求む』

 

 凄まじい量に膨れ上がった死亡者の数。

 

 そして何より──現当主の名前が、サウロス様ではなく、その息子のジェイムズに変わっていること。

 

 その二つの事実に、俺の胸の奥で不吉な心臓の鼓動が跳ね上がる。

 

 フィリップさんとヒルダさんは、その文字を見つめたまま、完全に言葉を失っていた。パウロさんの家に来る前、何となく、最悪の察しがついているはずの二人は、しかしそれを一切口にはしなかった。したくなかったのだ。今ここで何かを言葉にしてしまえば、恐ろしい不条理を全て認めてしまうことになるかもしれないから。

 

「……あとにしよう」

 

 フィリップさんは低く、擦り切れた声でそれだけを呟くと、視線を背けて建物の奥にあるカウンターへと進んだ。

 

 薄暗いカウンターの奥にいた、酷く疲弊した顔の受付のおばさんに向かって、フィリップさんが静かに自分たちの本名を告げる。その瞬間、おばさんの目が信じられないものを見るかのように見開かれた。彼女は何も言わず、持っていた書類を放り出すようにして、凄まじい勢いで奥の部屋へと引っ込んでいった。

 

 静寂が戻った廊下の奥から、騒がしい足音が近づいてくる。

 

 おばさんが引き連れて戻ってきたのは、一人の壮年の男だった。

 

 白髪に整えられた髭を蓄え、背筋を正した執事然とした顔立ち。しかし、身に纏っているのはかつての豪奢な衣服ではなく、やや裕福な町人が着るような、安っぽくて実用的な旅装だった。

 

 その男──ボレアス家に長年雇われ、フィリップさんの右腕として仕えていた執事アルフォンスは、正面に立つ二人の姿を認めた瞬間、その場に釘付けになったように目を見開いた。

 

「……あぁ、まさか、そんな……」

 

 アルフォンスの片眼鏡の奥から、堰を切ったように涙が溢れ出し、皺の刻まれた頬を伝っていくのが見えた。

 

「生きて、おられたとは……。フィリップ様、ヒルダ様……っ!」

 

「苦労をかけたね、アルフォンス」

 

 フィリップさんがいつもと変わらない、静かな声音で語りかけた瞬間だった。

 

 アルフォンスはその場に崩れ落ちるようにして両膝を突き、床に両手を当てて男泣きに伏した。

 

「滅相もございません……! 貴方様方が、こうして生きて戻ってきてくださった喜びを……私は、どう表現すればよいか……っ!」

 

 嗚咽混じりに聞こえてくるその掠れた声には、主を失い、領地を失い、この陰鬱な難民キャンプをたった一人で維持し続けてきたであろう、アルフォンスの気が遠くなるような苦労と孤独が混じって聞こえた。

 

 しばらくの間、子供のように肩を震わせて泣き続けた後、彼は衣服の袖で手荒に涙を拭い、毅然とした執事の顔を取り繕って立ち上がった。

 

「フィリップ様も、聞きたいことは多々あると存じます。……まずは、奥の部屋へどうぞ」

 

「……ああ」

 

 フィリップさんが頷き、俺たちもそのまま彼の後ろに付いていこうとした、その時だった。

 

「すみませんが、皆様は外にてお待ちください」

 

「え? あ、はい」

 

 アルフォンスの制止の手が、俺たちの前に差し出された。

 

 俺は反射的に頷き、足を止める。そうか、俺が何者なのか、彼からしてみれば知る由もない。ボレアス家の最重要の機密に関わる話に、部外者である俺やロールズさんたちが同席させてもらえないのは、当然の対応だ。

 

「いや。ルークとギレーヌも一緒だ」

 

 背後から響いたフィリップさんの声は、有無を言わさぬ強さを持っていた。

 

 アルフォンスが怪訝そうに目を瞬かせる。フィリップさんの口元はぎゅっと一文字に引き締められ、外套を掴む手は血の気が引いて白くなるほど強く握りしめられていた。命懸けの旅路を共に生き延びた俺たちを、彼はもう部外者だとは思っていないのだ。

 

「……フィリップ様がそうおっしゃられるのであれば」

 

 アルフォンスは深く一礼し、下がった。フィリップさんは振り返り、待合室のベンチに座っていた面々に視線を向けた。

 

「すまないね。ロールズ、エルナ、シャンドル殿。……しばしここで待っていてもらえるかい?」

 

「……分かりました、フィリップさん」

 

 ロールズさんも、このキャンプに漂うただならぬ気配から何かを察したのだろう。深く深く首を縦に振って肯定した。その隣で、エルナさんも心配そうにこちらを見つめ、シャンドルさんは目を細めて静かに頷いた。

 

「いや、私もここに残ろう。難しい政治の話は、私の性には合わんからな」

 

 ギレーヌが低く呟き、待合室の壁に背を預けようとする。しかし、アルフォンスがすかさずそれを遮った。

 

「……いえ、ギレーヌ殿も来ていただいた方がよろしいかと。貴女に関わる話もございます」

 

「……む、そうか」

 

「確かに、そうだね。ギレーヌ、君も一緒に来るんだ」

 

「……分かった」

 

 俺にはなんとなく、この空間にこれ以上ないほど重く、良くない雰囲気が流れているのが分かった。言葉にはできないが、胸の奥を冷たい手で掴まれるような、最悪の嫌な予感だ。

 

「では、行きましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルフォンスの先導の元、俺たちは無言のまま薄暗くて短い廊下を抜け、奥にある執務室のような部屋に入った。

 

 中央に置かれた使い古されたソファ。部屋の端に置かれた粗末な花瓶には、フィットア領では馴染み深い、紫色のバティルスの花が寂しげに活けられている。部屋の奥には、領主の書斎にあったものとは比べるべくもない、装飾の一切ない安っぽい執務机が置かれていた。

 

 フィリップさんとヒルダさんは、誰に促されることもなく、吸い寄せられるようにソファへと腰掛けた。

 

 ギレーヌはいつも通り、部屋の死角を塞ぐようにして隅に直立する。俺もそれに習って、ギレーヌのすぐ隣に静かに立った。

 

 アルフォンスは二人の正面に立ち、かつてロアの城でそうしていたように、執事然とした完璧な仕草で一礼を捧げた。

 

「おかえりなさいませ。フィリップ様、ヒルダ様。お二人が帰還なされることを、我ら一同、首を長くして……」

 

「すまないが、前置きは必要ない、アルフォンス」

 

 フィリップさんは、アルフォンスの言葉を冷徹に遮った。その双眸には、どんな現実をも受け止めるという、暗い覚悟の光が灯っている。

 

「先に聞いておきたいんだ。……言ってくれ。誰が死んだ?」

 

「それは……」

 

 アルフォンスは、あからさまに言い淀んだ。一度、フィリップさんとヒルダさんの顔を痛ましそうに見つめた後、深く、重い息を吐き出した。

 

「……サウロス様が、お亡くなりになられました」

 

 部屋の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。

 

 隣に立つギレーヌの身体が、限界まで強張るのが気配で分かった。彼女にとっても、サウロスはかつて自分を拾い、剣を振るう理由を与えてくれた恩人であり、親代わりのような存在だったはずだ。ギレーヌの耳が、悲痛に伏せられる。

 

「…………フィットア領転移事件の責任を取らされ、アスラ王宮の命により、処刑されました」

 

 アルフォンスのその声は、ひどく掠れていた。

 

 俺は、その場に立っていることすら忘れ、ただ呆然とその言葉を脳内で反芻していた。

 

 あんな、誰の意志でもない、突如として空が光って領地ごと消え去った天災の責任を、一人の老人に取らせて処刑した? 

 

 馬鹿言うな。どうしようもないだろ、そんなこと。

 

 それとも何か、未然に防げたとでも言うのか? 兆候だって一切なくて、ある日突然、一瞬にして起きた大災害じゃないか。それを、ただの政治的な都合で、責任を押し付けて首を撥ねたというのか。

 

 あまりの理不尽と世界の薄汚さに、前世の現代人としての俺の価値観が、激しい怒りと共にグルグルと頭の中で回り始めていた。

 

「……そうか」

 

 フィリップさんの口から漏れたのは、ひどく静かな、そして全てを理解しきったかのような呟きだった。

 

「……わかっていたさ。兆候がなくても、未然に防げなくても。現実に人は死んだし、領地にある広大な畑も、そこから取れるはずだった莫大な作物のすべてが消滅した。国としての損失は計り知れない。王宮の不満は大きく、民の糾弾もされよう。……誰かが、そのすべての怨嗟を受け止めるための『避難針』にならなければならなかった」

 

 フィリップさんは、血が滲むほどに自分の拳を強く、強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込み、微かに震えている。悔しいのだろう。実の父親が、ただの政治の生贄に捧げられたその不条理が、悔しくて堪らないはずだ。ヒルダさんは隣で、声を上げることもなく、ただ静かに涙を流して下を向いていた。

 

「不甲斐なくも、私は転移され、父上の最期の瞬間にその場にいてやることすらできなかった。……仕方のないことさ」

 

 その言葉は、フィリップさん自身に言い聞かせているようにも聞こえた。理不尽な現実を、頭の中だけで無理やり納得させるように。

 

「……フィリップ様」

 

 アルフォンスが痛ましそうに声をかけるが、フィリップさんの言葉は止まらなかった。

 

「……父上のお力になれるようにと、いつか私がこのボレアス家を継いで、あの御方を支えられるようにと、私は私なりに努力はしてきたつもりだった。だが……ついぞ間に合わなかったな。こんな大変な時に、そばに居てやることも、代わりに泥を被ってやることもできなかった。……私は、とんだ親不孝息子だ」

 

 言葉を一つずつ、自嘲気味に紡いでいくうちに、フィリップさんの握りしめられた拳の上に、一つ、二つと、透明な雫が落ちて床を濡らしていった。

 

 アルフォンスが淹れてくれたであろう、冷めかけたティーカップの紅茶を、フィリップさんは震える手で口元へと運ぶ。その寂しげな姿を、俺はかける言葉もなく、ただ見つめることしかできなかった。部屋の隅に立つギレーヌの大きな瞳からも、静かに涙が溢れ、彼女の褐色の頬を伝い落ちていた。

 

 ──その時だった。

 

 隣に座っていたヒルダさんが、突然、弾かれたように立ち上がった。

 

 先ほどまで静かに流れていた彼女の涙は、その顔から完全に消え去っていた。代わりにあったのは、あの凛とした、苛烈なまでのボレアスの女の顔だった。

 

 彼女の拳は、白くなるほどに強く握られている。

 

 ヒルダさんは一歩前へ出ると、ソファに座るフィリップさんに向かって、その拳を、一切の手加減なしに思い切り振り下ろした。

 

「……え?」

 

 俺は思わず、素で声を漏らしてしまった。

 

 あのヒルダさんが、気高く、誰よりも夫を支えていたあの彼女が、落胆するフィリップさんの顔を本気で殴るなんて、夢にも思っていなかったからだ。

 

「……ヒルダ」

 

 フィリップさんもまた、頬を赤く染めながら、信じられないものを見る目で妻を見上げ、激しく動揺していた。

 

 だが、ヒルダさんは拳を握りしめたまま、微かに震える声で、真っ直ぐに夫を睨み据えた。

 

「泣くのは、やめましょう」

 

「…………」

 

「自分の力が足りないと嘆くのも、世界の不条理に背を向けて嘆くのも、もう全てやめましょう。そんな無意味な感傷は、すべて、すべて後にするのです」

 

 そう言い放ちながらも、ヒルダさんの大きな瞳には、堪えきれない新たな涙が再びみるみると溜まっていく。彼女は溢れ出そうになる涙を強引に瞳の奥へ押し込め、細かく途切れそうになる呼吸を必死に繋ぎながら、フィリップさんの顔をしっかりと見つめて言った。

 

「お義父様がもし、まだ生きていて……今の貴方のその情けない姿を見たら。きっと、こうして拳を振り下ろすと、思うから」

 

 サウロス様なら、泣いて塞ぎ込む息子を、間違いなく大声で怒鳴りつけて殴り飛ばしていただろう。ボレアスの男なら、どんな絶望の底にあっても前を向けと、そう言ったはずだ。

 

 ヒルダさんは、誰よりもその魂を理解していた。細かく途切れながらも、彼女の放ったその言葉は、フィリップさんの胸の芯へと真っ直ぐに突き刺さっていた。

 

「……そう、だね」

 

 フィリップさんはしばらくの間、じっと地面を見つめていた。

 

 床の先には、先ほど自分が動揺して落とした、ティーカップから溢れた紅茶の小さな水溜まりが広がっていた。その茶色い水面に映る自分の顔は、ひどく情けなく、酷く小さかった。

 

 だが、彼はその水溜まりの中の自分を睨みつけるようにして、ゆっくりと、しかし確実に、その瞳にノトス家やボレアス家で培ってきた執念の光を灯し直した。

 

 フィリップさんはゆっくりと立ち上がり、腫れた頬を撫でることもなく、ヒルダさんの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「……ヒルダの言う通りだ。ありがとう。目が覚めたよ」

 

 その顔からは、先ほどまでの親不孝を嘆く弱さは消え去っていた。

 

 実の父親を不条理に殺された。その事実は変わらない。だが、ボレアスの男が、この程度の絶望で立ち止まるわけにはいかないのだ。

 

「アルフォンス。父上が処刑され、兄上が当主になったということは……このキャンプにいる難民たちの扱い、そして、私たちの立場はどうなっている?」

 

 フィリップさんのその冷徹な問いに、アルフォンスは深く、深く一礼を捧げ、重い口を開いた。

 

「……ジェイムズ様は、第一王子派に完全に臣従なされました。そして……フィリップ様。貴方様方が生存していると知られれば、第一王子派にとっては、アリエル王女を支持するボレアス家の『不確定要素』となります。つまり……王宮の刺客が、遠からずこのキャンプへ放たれる可能性が極めて高い状況にございます」

 

 アルフォンスのその言葉に、室内の空気が再び緊張感で張り詰めた。

 

 失った悲しみに暮れる猶予など、世界は一秒たりとも与えてはくれない。俺は首の傷痕をそっと撫でた。

 

「……そうか。ならば、私たちがここに長居するのは難民たちにとっても危険だな。それに、兄上の耳に入るのも時間の問題だ」

 

 フィリップさんは腫れた頬を撫でることもなく、すでに先ほどまでの弱々しさを完全に削ぎ落とした、かつての冷徹なボレアスの男の顔で即座に状況を分析し始めた。

 

「アルフォンス。私とヒルダ、そしてギレーヌが身を隠せる安全な場所は確保できるかい」

 

「はっ。難民キャンプのさらに外縁、木々に遮られた場所に、隠密に私兵を配置してあるセーフハウスがございます。そちらであれば、当面は王宮の目から逃れることができるかと」

 

「分かった。ルーク、すまないが私たちは今日の夜にでも、そのセーフハウスへ移動する。……君をこれ以上の泥沼に巻き込むわけにはいかない。君には君の、果たすべき目的があるはずだ」

 

 フィリップさんのその視線に、俺は無言で深く頷いた。 俺が密林で、あの赤竜の下顎で、死に物狂いで守り抜いてきたこの二人の命。それをこんな不条理な政治の闇で奪わせてたまるか。

 

「分かりました。お二人の安全が確保できるなら、俺も安心です」

 

 

 

 

 

 難民キャンプでの重苦しい対話を終えた後、俺たちはフィリップさんとヒルダさん、そしてギレーヌの三人を、アルフォンスが手配した隠密なセーフハウスへと送り届けた。身を隠すため、二人は表舞台から完全に姿を消す。これからのアスラ王国の政争は泥沼化していくだろうが、命懸けの旅路を共に生き延びた彼らの安全を最低限確保できたことで、俺の最初の目的は、半分だけ達成されたことになる。

 

 アルフォンスが手配したキャンプ外縁のセーフハウスは、余計な装飾のいっさいない、ひっそりとした佇まいの木造小屋だった。ここにいれば、アスラ王宮の第一王子派が放つかもしれない刺客の目からも、当面は隠れ通せるはずだ。

 

 馬車から荷物を運び終え、いよいよ別れの時が訪れた。

 

 部屋の重苦しい空気のなか、フィリップさんは俺の前に歩み寄ると、その端正な顔を僅かに和らげて、俺の肩へぽんと大きな手を置いた。

 

「ルーク君。本当に、ありがとう。……君がいなければ、私とヒルダはあの紛争地帯で野垂れ死ぬか、あるいは赤竜の下顎で消し炭になっていただろうね。私たちがこうして再びアスラの土を踏むことができたのは、すべて君のおかげだ」

 

「やめてください、フィリップさん。救われたのは俺も同じです。それに、お二人を無事に送り届けるのが、俺の役目でしたから」

 

 俺がそう答えると、フィリップさんは静かに首を振った。

 

「そんな役目は君には無かったはずだ。危険な旅の中で、あまりにも大きすぎるものをもらってしまったよ。……君はもう、ただのパウロの家族などではない。一人の立派な、誇り高きグレイラットの男だ。これから始まるアスラの政争に、君のような未来ある子供を巻き込むわけにはいかない。ここからは、大人の戦いだ。……君は君の信じる道を、真っ直ぐに進みなさい」

 

 その言葉には、ボレアス家としての冷徹な顔ではなく、一人の父親のような、温かい慈愛が込められていた。

 

 すると、その隣からヒルダさんが一歩前へ出た。先ほどフィリップさんの頬を叩いたあの厳しさは消え去っており、いつものように凛としながらも、どこか寂しげに俺を見つめていた。

 

「ルーク。……本当に、すまなかったわね」

 

「え……?」

 

「その、首の傷。……貴方を死ぬような目に遭わせてしまった。ボレアスの女として、情けない限りだわ」

 

 ヒルダさんはそう言って唇を噛み締め、俺の首元に残る、あのオルステッドに付けられた赤い傷痕を見つめていた。

 

 俺を本当の家族として抱きしめてくれた、パウロの家での5年間。彼女のその言葉が、俺の胸の奥を激しく揺さぶる。

 

「気にしないでください、ヒルダさん。この傷は……俺が自分の弱さを忘れないための、大事な戒めですから。お二人が生きていてくれれば、それでいいんです」

 

 俺が無理に笑顔を作って見せると、ヒルダさんは耐えかねたように俺の頭をその豊かな胸へと引き寄せ、今度は息が詰まらない程度の優しい力で、強く、強く抱きしめてくれた。

 

「……行きなさい、ルーク。貴方の行く先に、栄光と、大切な人との再会があることを、私はいつでも祈っているわ」

 

「……はい。ありがとうございます、ヒルダさん」

 

「困ったことがあれば、いつでも手紙を出しなさい。私もフィリップも、いつでも貴方の力になるわ」

 

「ああ。この恩は一生忘れない」

 

 向けられた二人の言葉と言葉の合間に、確かな温もりが満ちていた。

 

 彼らにとって、俺はただの居候の子供でしかなかったはずだ。それなのに、あの地獄のような紛争地帯から今日に至るまで、共に泥をすすり、冷たい強風に耐え、赤竜の脅威に怯えながら旅を続けていくうちに、いつしか彼らは俺を『一人の男』として頼り、対等に尊重してくれていた。

 

 無私無欲で命を賭してくれた十歳の少年への、社交辞令などでは決してない、魂からの深い感謝と敬意。その重みが、俺が背負ってきたこれまでの旅の苦労を、すべて肯定して消し去ってくれるようだった。

 

 その温もりから離れたとき、部屋の隅でずっと黙って佇んでいたギレーヌが、静かに一歩を踏み出した。

 

 剣を背負った彼女の褐色の肌には、まだオルステッドとの戦闘での打撲の痕が生々しく残っている。彼女は俺の目の前に来ると、どっしりと膝をつき、俺の緑色の髪を、その大きな手で優しく、何度も撫で回した。

 

「ルーク。お前は強い。その上、その強さにあぐらをかくこともない。私はお前のような子供をルーデウス以外に知らん」

 

 ギレーヌの低い声が、俺の耳元で響いた。その大きな瞳は、まだサウロスおじい様の死への哀しみで潤んでいたが、俺を見る視線には、確かな誇りと信頼が灯っていた。

 

「ルーデウスと比較されると、少し自信が無くなりますね」

 

「比較した訳では無い。お前は剣を、ルーデウスは魔術を。それぞれで強くなればいい」

 

 このしばらくの間、未開の密林地帯で俺が防壁魔法(ボルグ)を張って魔物の急襲を弾き、彼女が光速の剣でそれを切り伏せるという戦いを幾度となく繰り返してきた。背中を預け、命を預け、死線を潜り抜けるたび、ギレーヌのなかで俺は共に困難を切り開く『対等な戦友』へと変わっていったのだ。剣王である彼女が、俺の判断を一度も疑わず、その異能の盾を百パーセント信頼してついてきてくれた。その積み重ねてきた月日の絆が、言葉の端々から深く染み出すように伝わってきた。

 

「すまないな。あの男との戦いの時、私は一番最初にやられてしまった。お前にそんな傷を残してしまった」

 

「オルステッドは七代列強二位だよ。この世で二番目に強い男なんだ、仕方ない。それに、俺の傷は全部逃げた傷じゃない。背中の傷は剣士の恥だけど、俺の傷は全部正面にある。この傷は勲章だろ?」

 

 前世で聞いたことのある言葉をそのまま返すと、ギレーヌはフッと、獰猛で、しかし愛おしげな笑みを浮かべた。

 

「私はここに残り、フィリップ様たちの護衛に就く。……ルーク、お前はこれから、あのシャンドルという男についていくのだろう?」

 

「……え? なんで分かったの」

 

「耳が言っている。お前の心臓の音が、あの戦いの後から、もっと強い力を求めて激しく脈打っているのが聞こえるからな。……あいつは、底が知れない。だが、お前を害する者ではないことだけは、私の野生の勘が保証する。あいつの持つすべてを、貪欲に盗み取ってこい」

 

 ギレーヌは俺の肩を強く叩き、力強く立ち上がった。

 

「次に出会う時は、私とお前で、あの銀髪のバケモノの首を撥ねるぞ」

 

「はは……。それは、なかなかにハードルが高いな」

 

 俺は苦笑しながらも、彼女のその無茶な激励に、胸の奥の冷え切っていた火が、再びパチパチと熱く燃え上がるのを感じていた。

 

 共にフィットア領まで渡り歩いたギレーヌ。そして、不器用ながらも俺を信じてくれたフィリップさんたち。

 

 彼らの想いを背負って、俺はセーフハウスの扉を開け、外で待つシャンドルさんたちの元へと歩き出すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 フィリップさんたちとの別れを終え、セーフハウスの扉を閉めたとき、俺の胸には確かな温もりと、それ以上に重い決意が刻まれていた。

 

 馬車に残ったのは、俺、ロールズさん、エルナさん、そして御者台に座るシャンドルさんの四人。俺たちはかつての俺たちの故郷、ブエナ村へと向けて再び馬車を走らせた。

 

 密林での一ヶ月、下顎での死線を共に乗り越えたロールズさん夫婦の願いは、ただ一つだった。

 

『せめて一度だけでいい。私たちが暮らし、シルフィが生まれ育った、あの村があった場所をこの目で確かめたい』

 

 その必死な懇願を、俺は拒むことができなかった。

 

 馬車がかつてのフィットア領の境界を越え、ブエナ村があったはずの場所に近づくにつれて、馬車の窓から外を眺めていたロールズさんとエルナさんの表情が、徐々に血の気を失っていく。

 

 ──そこには、何一つとして、残っていなかった。

 

「あ……、あ、あ……」

 

 エルナさんの唇から、言葉にならない、かすかな悲鳴のような喘ぎが漏れた。

 

 馬車を止め、地面に降り立った俺たちの眼前に広がっていたのは、緑豊かなアスラ王国の田舎町の風景などでは決してなかった。

 

 見渡す限りの、赤茶けた荒野。

 

 かつてパウロさんの家があり、ルーデウスと魔術の訓練をした庭があり、シルフィといじめっ子たちから逃げて笑い合った、あの美しいブエナ村のすべてが、まるで巨大な化け物に大地ごとごっそりと切り取られたかのような、広大で無機質な空虚へと変貌していた。

 

 家も、畑も、木々も、土の一粒すらも残っていない。

 

 頭では分かっていた。領地そのものが消滅したという噂は、王竜王国のギルドでも何度も耳にしていたからだ。だが、分かっていることと、実際に自分の目でそれを目撃するというのは、全く別次元の話だった。前世の日本のぬるま湯のような日常を失い、この世界でルークとして必死に生きてきた、最初の十日間の大切な思い出の拠り所が、綺麗さっぱり消え去っている。

 

「そんな……、私たちの、家が……、村が……、本当に、消えてしまったというのか……」

 

 ロールズさんは、その場に崩れ落ちるようにして膝をつき、赤茶けた乾いた土を両手で掴みしめた。指の隙間からサラサラと零れ落ちな砂を見つめながら、ハーフエルフの猟師としての誇りも、故郷への希望も、すべてを打ち砕かれたかのように肩を激しく震わせて涙を流した。エルナさんもその隣で、夫の背中にすがりつき、声を上げて大号泣している。

 

 俺は、ただ黙ってその光景を見つめることしかできなかった。首元に刻まれた、オルステッドに付けられたあのチョンパ痕の引き攣りが、冷たい風に吹かれてチリチリと微かに疼く。

 

(本当に、全部消えちまったんだな……)

 

 胸の奥が、底の抜けた井戸のように冷たく冷え切っていく。だが、その虚無のなかに、先ほどあの白い空間でモザイクの詐欺師が残した言葉が、呪いのようにパッと脳裏に甦った。

 

『君がこれから僕の言う通りに動けば、いずれ家族とも、あの緑髪の女の子とも再会できる』

 

 ヒトガミは言っていた。シルフィは、生きていると。

 

 あいつの言葉は一ミリも信用できないし、俺をオルステッドへの肉壁にするためのただの甘いエサだ。だけど、この「何もない荒野」を前にした今、そのエサだけが、ロールズさんたちにとっての唯一の、本物の救いになり得る。

 

「……ロールズさん、エルナさん」

 

 俺は、地面に泣き崩れる二人の前に歩み寄り、静かに、しかし力強い声をかけた。

 

「家も村も消えてしまいました。だけど……諦めないでください。シルフィは、絶対に生きています。俺は、あの子がどこかで必ず待っていると確信しています。だから約束します。どんな形であっても、俺は必ずシルフィを連れて帰ります。必ず、また三人で再会させてみせますから」

 

 俺がそう言って真っ直ぐに二人を見据えると、エルナさんが涙を拭い、確かな希望の光をその瞳に宿して小さく頷いた。しかし、ロールズさんは赤茶けた土を見つめたまま、拳を握りしめて深く言い淀んだ。

 

「ありがとう、ルークさん……。でも、私たちはこれから、どうすればいいんだろう。家も、何もかもすべて失ってしまった。あの子を探しに行くにしても、私たちのような一般人がついて行ったのでは、またあなたに今回のような死ぬような思いをさせてしまう……」

 

 オルステッドとの戦いの記憶が、彼らの心に重い影を落としていた。自分たちが足手まといになり、ルークを再び血の海に沈めてしまうのではないかという、痛切なまでの恐怖と申し訳なさ。

 

 そんな二人の肩に、俺はそっと手を置いた。

 

「ロールズさん、エルナさん。……二人は、難民キャンプに残って、あの子を待っていてくれませんか」

 

「キャンプに、残る……?」

 

「ええ。俺はこれから、もっと強くなるために旅に出ます。だから、シルフィがいつかこのフィットア領の難民キャンプに帰ってきた時に、あの子を受け入れるための『居場所』が絶対に必要なんです。お父さんとお母さんがキャンプで元気に暮らして、自分の帰りを待ってくれている。それだけで、あの子はどれほど救われるか分からない。だから、俺の代わりに、あの子の帰る場所を守っていて欲しいんです」

 

 俺のその言葉は、彼らを思いやる方便であると同時に、ヒトガミの言葉という、これからの未来への確信を込めた本気の提案だった。

 

 俺の真っ直ぐな瞳を見て、ロールズさんはハッと目を見開き、やがて、憑き物が落ちたように穏やかな、しかし覚悟を決めたような顔で深く頷いた。

 

「……そうだね。これ以上、君の足を引っ張る訳にはいかないな。君の言う通りだ。私たちは難民キャンプに残って、シルフィの帰りを待つよ。あの子がいつ帰ってきてもいいように、立派な居場所を作って、ここで生きてみせる」

 

「ルークさん、本当にありがとう……。どうか、あの子をよろしくおねがいしますね。貴方も、どうか無茶な旅だけはしないで……」

 

 エルナさんが祈るように胸の前で手を組み、温かい微笑みを向けてくれた。

 

「大丈夫です。俺も、随時手紙を出しますから。何かあったら、すぐにフィリップさん達を頼ってください」

 

「ああ、分かった。約束だ」

 

 二人の心が、絶望の底から完全に前を向き、果たすべき新たな役割を見つけたのを確認し、俺たちは一度難民キャンプへと引き返した。

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 アルフォンスの保護の下、ロールズさん夫婦を安全な避難所へと送り届ける。彼らの生活の手配を済ませ、これからの無事を祈りながら見送った後、馬車の横で、シャンドルさんが不格好な鉄の棒を地面に突き立てながら、ふと俺を振り返った。

 

「さて……ルーク君。これで皆さんを無事に送り届けるという君の目的は、ひとまず果たされましたね。……それで、君はこれからどうするんだい?」

 

 シャンドルさんの細い目の奥に、いつもの調子の良い紳士とは違う、戦士としての鋭い光が宿る。

 

 俺は深く息を吐き、自分の右掌を見つめた。あの怪物に、触れることすらできずに弾き飛ばされた、頼りない自分の手。

 

「シャンドルさん。俺は、もっと強くなりたいです」

 

「強くなりたい、ですか」

 

「ええ。俺の手の範囲に届く人が、あんな理不尽に死ななくていいように」

 

 そこまで口にして、渓谷での光景が脳裏に蘇る。あの圧倒的な暴力。

 

 今回の一戦、俺一人の力だったら、絶対にあの四人を無事にフィットア領に送り届けることなんてできなかった。ギレーヌがいなかったらロールズさんとエルナさんは生きていなかったかもしれないし、シャンドルさんがいなかったら、そもそもこの場所に辿り着くことすら敵わなかったはずだ。

 

「俺は、四人を守ってるつもりでした。でも……そんな俺も含めて、二人が俺を守っててくれたんです。オルステッドに完璧に負けて、それに気が付きました」

 

 奥歯を強く噛み締める。悔しさと、自分の傲慢さへの惨めさが胸を焦がす。

 

「俺は、一人でも全員を守れるだけの力が欲しい。俺がいたら大丈夫だって、皆に心の底から思って貰えるような、そんな絶対的な力が欲しいんです」

 

 息を吸い、俺は腰の剣を両手で掲げるようにした。

 

「だから──北神カールマン二世。俺に、貴方の剣を教えてください。お願いします」

 

 俺は腰の剣を両手で掲げるようにし、深く、深く頭を下げた。

 

 渓谷から吹き抜ける冷たい風が、荒野の上を静かに通り過ぎていく。

 

 シャンドルさんは、俺が突きつけたその『名』を聞いた瞬間、ピタリと動きを止めた。いつも飄々としていた彼の表情が完全に消え去り、数秒の、ひどく張り詰めた沈黙が辺りを支配する。

 

 

 

 あの最悪の戦闘の最中、最凶の龍神オルステッドがシャンドルに向かって言い放った冷酷な言葉。そして、このおじさん自身が口にした『北神の男』という誇り。前世の記憶にある、この世界の歪なパワーバランスのパズルが、俺の頭の中で完璧に噛み合っていた。

 

 七大列強にも名を連ねる、物語のなかの伝説の大英雄。それこそが、この男の本当の正体だ。

 

 やがて、シャンドルさんはハァ、と、困ったような深い溜息を漏らした。

 

 それから、不格好な鉄の棒を肩に担ぎ直し、降参だと言わんばかりに、苦笑しながら頭をポリポリと掻いてみせた。

 

「いやあ……参りましたね。まさか君にそこまで正確に名前を聞き取られていたとは。あのオルステッドのせいで、私のしがない武芸者という設定が台無しですよ」

 

 シャンドルさんはフッと笑うと、担いでいた鉄の棒を無造作に地面へと突き立てた。

 

 その瞬間、彼の目の奥から、これまでの旅で一度も見せたことのないような、世界を震撼させるほどの圧倒的な列強としての気配が、静かに、しかし重厚に溢れ出てきた。

 

「バレてしまったのなら、仕方がありませんねえ。ええ、認めましょう。私の本名はアレックス・カールマン・ライバック。君の父上が卑怯だと吐き捨てた、あの北神流を創始した男の息子です。まぁ、奇抜派を作り出したのは正確には私の弟子なのですが……」

 

 シャンドルさんは俺の首の傷痕、そして両手で掲げられた剣をじっと見つめ、実に愉快そうに微笑んだ。

 

「私のような男の剣で良ければ、いくらでもお教えしましょう、ルーク殿。君のような、守るために誇り高く頭を下げられる少年を、私は大好きですからねえ。……ただし、私の修行は厳しいですよ? 死に物狂いでついてきなさい」

 

「……はい!」

 

 何もないブエナ村の荒野を遠くに臨みながら、俺は伝説の北神と、固い師弟の約束を交わした。

 

 ヒトガミのレールの上を歩かされているのは分かっている。あいつも、俺がこうしてシャンドルさんに師事する流れを計算して楽しんでいるのだろう。

 

 

 

 ──だけどな、ヒトガミ。お前の用意した環境で、俺は誰も超えられない、最強の剣士になってやる。お前の想像を遥かに超える盾と剣を、ここで完成させてやるよ。

 

 俺は自分の拳を強く、強く握り締めた。

 

 シャンドルさんと話し合い、ひとまず今日のところは無理をせずこの難民キャンプで一泊し、明日の朝早くに出発しようということになった。

 

 そうと決まれば、今夜の寝床を確保しなければならない。

 

 俺たちはアルフォンスさんたちに一度挨拶を済ませ、重い足取りで難民キャンプの入り口へと戻ってきた。

 

 その時、ふと入り口の脇に設置された大きな木製の掲示板が目に留まった。

 

 昨日はサウロスおじい様の衝撃的な処刑の事実を突きつけられ、それどころではなかったため完全に気が付かなかったが、そこにはフィットア領全域の死亡者・行方不明者のリストや、様々な尋ね人の紙がびっしりと貼られていた。

 

 

 

 俺は何かに吸い寄せられるように、その掲示板の前に歩み寄り、貼られた紙の一枚に目をやった。

 

 数多の紙のなかで、一際泥に汚れ、何度も書き直されたような跡のある大きな羊皮紙が、強風にバタバタと音を立てて揺れている。

 

 その文字をしばらく凝視していた俺は、思わず目を見開いた。

 

 それは、紛れもないパウロさんの手によって書かれた、激しい焦燥と祈りが込められた伝言だった。

 

『ルーデウスへ。

 

 ゼニスとリーリャ、ルークとアイシャが行方不明だ。ノルンは俺が保護している。お前が現在どこにいるかは分からん。が、お前なら一人でもここに到達できると考えている。よって、お前の捜索は後回しにする。俺はミリス大陸へと行く。そこがゼニスの生まれた故郷だからだ。リーリャの故郷、実家にも伝言を残しておく。お前は中央大陸の北部を探せ。見つけたら下記まで連絡をくれ。ゼニス、リーリャ、ルークも同様に連絡をくれ。また、俺の家族を知る人物、あるいは元『黒狼の牙』メンバーへ。捜索を手伝ってほしい。中には俺に思うところのあるやつもいるだろう。水に流せとは言わない。罵ってくれてもいい。靴を舐めろと言うなら舐めよう。財産はすべて消えたので報酬は出せないが、頼む。俺の家族を探してくれ。連絡先 ミリス大陸ミリス神聖国首都ミリシオン 冒険者ギルドパーティ名『ブエナ村民捜索隊』クラン名『フィットア領捜索団』パウロ・グレイラットより』

 

 俺はその場に釘付けになり、全身が固まった。

 

 何度も、何度もその文章を頭の中で繰り返す。

 

(パウロさん……、ノルン……っ!)

 

 内容の深刻さよりもまず先に、あの二人が生きていたという事実が、狂おしいほどの喜びとなって胸に突き上げてきた。

 

 まだゼニスさんもリーリャさんも、そしてアイシャも見つかっていない。だけど、それでも良かった。あの家族が、俺の帰るべき場所だったあの人たちが、確かにどこかで今も生きている。それだけで、オルステッドに首を撥ねられて以来、ずっと心の奥底を支配していた暗い焦燥感が、嘘のようにすっと落ち着いていくのを感じた。

 

 それにしても、わざわざルーデウスに宛ててこんな伝言を残すなんてな。パウロさんは、それだけあいつのことを一人の男として、頼れる息子として信用しているのだろう。

 

 だったら、居候の俺だって負けていられない。とにかく、まずは俺が生きていることを、どうにかしてあの馬鹿親父の元へ知らせなければいけない。

 

 そんな決意を胸に秘めながら、俺の視線は自然と、その横に並ぶ膨大な死亡者・行方不明者のリストへと向いていった。パウロさんの伝言によって少しだけ持ち直した心のまま、俺は自分が五歳から十歳までの大半を過ごした、ブエナ村の欄を探して目を走らせる。

 

 ブエナ村。

 

 見慣れた文字の下には、俺のよく知っている村人たちの名前が、ずらりと行方不明者リストに並んでいた。近所のおっちゃん、よくお菓子をくれたおばちゃん、すれ違えば挨拶をしてくれた人たち。

 

 しかし、その半数以上の名前に、黒いインクで冷徹な斜線が引かれていた。

 

 不審に思って、すぐ隣にある死亡者欄に目を移す。

 

 そこには、行方不明者欄で斜線を引かれたのと同じ名前が、びっしりと書き込まれていた。

 

 どうやらこの難民キャンプでは、行方不明者の死亡が正式に確定すると、元の名簿に斜線が引かれ、死亡者欄へと名前が移る仕組みになっているようだった。

 

 行方不明者欄の方が若干数は多いものの、それでも死亡者欄のほうも、隙間なく文字で埋め尽くされている。世界の不条理が、ただの文字の羅列となって俺の視界を侵食していく。

 

 そして、そのすぐ下。

 

 行方不明者欄の、中ほどに書かれた、シルフィエットという文字。

 

 そこにも、同じように一本の黒い斜線が引かれていた。

 

 ドクンと、自分の心臓が耳の奥で激しく脈打つ音が聞こえた。

 

 手足の先から、すうっと血の気が引いていくような感覚。まさか、と思い、俺は祈るような気持ちで死亡者欄へと視線を叩きつけた。

 

 上から順番に、指でなぞるようにして名前を見ていく。

 

 息を止め、一文字も見落とさないように凝視する。

 

 だが、無い。

 

 どれだけ目を皿にして探しても、死亡者欄の中にシルフィエットの名前だけは見当たらなかった。

 

 ──……あれ? 

 

 頭の中に、巨大な疑問符が浮かび上がる。

 

 行方不明者欄には斜線があるのに、死亡者欄には名前がない。

 

 俺は居ても立ってもいられなくなり、掲示板のすぐ横で書類を整理していた、疲れ切った顔の難民キャンプの職員に声をかけた。

 

「あの、すいません。これ、こっちの名前に斜線が引いてあるのに、あっちの死亡者欄に名前が無いんですけど……これってどういうことですか?」

 

 職員の男は書類から顔を上げ、俺の指差す場所を眠そうに眺めた。

 

「はい、それは生存が確認された方です。別の土地で無事が確認されたり、あるいはここへ一度来て身元を証明された方は、行方不明者リストから除外されるんですよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中を支配していた重苦しい何かが、ストンと音を立てて下に落ちた。

 

 あまりの安堵と脱力感に、そのまま胸を突き抜けて腹に落ちた。それほどまでに、全身の力が一気に抜けていくような、圧倒的な解放感だった。

 

 あのヒトガミの言葉はやはり本当だったのだ。シルフィは、生きている。その事実だけで、俺の魂の救われるような思いがした。

 

「じゃあ、その、連絡先とかも分かりますか? 今あの子がどこにいるのかとか……」

 

「いえ、それは実際にここへ本部に来て登録された方でないと、個別に行方を追うのは難しいですね。大抵は生存報告の書類が別のギルドから回ってきて、斜線を引くだけのことが多いですから」

 

「シルフィエットという名前なんです。緑色の髪の、ハーフエルフの女の子です。どうか、少しだけでも調べていただけませんか?」

 

 俺の必死な形相に押されたのか、職員の男は「少々お待ちください」と言って、カウンターの奥の古い台帳をめくり始めた。

 

 

 待つこと数十分。渓谷からの冷たい風が通り過ぎていく間、俺はただ祈るように拳を握りしめていた。

 

「申し訳ありません、やはり連絡先は登録されていないようです。生存報告の通知のみですね」

 

「そう、ですか……」

 

 俺は小さく息を吐き出した。

 

 定住せずにどこかを移動している最中なのか、もしくは彼女を発見した、あるいは保護した人物が事務的に生存リストだけを更新したため、本人の詳細な連絡先が載っていないのか。どちらかだろうと職員は言う。

 

 あるいは、この大混乱の中での単純な記入漏れという可能性もあるだろうが、今はそんな悪いことは考えないようにした。

 

 確率なんてどうでもいい。シルフィは確実に、この世界のどこかで生き延びている。

 

 その確固たる事実を、今はただ純粋に喜ぼうと思った。

 

「……良い顔になりましたね、ルーク君」

 

 いつの間にか俺の後ろに立っていたシャンドルさんが、いつもの穏やかな紳士の笑みを浮かべて俺の肩に手を置いた。

 

「ええ。……シャンドルさん、明日からの旅ですが、予定を少し変更してもいいですか?」

 

「おや、どこへ向かうつもりですか?」

 

「……俺、父さんを追ってミリス大陸へ行きたいです。俺が生きてることを知らせなきゃいけないし、あそこには母さんの実家もある」

 

 俺が掲示板を見つめたままそう切り出すと、シャンドルさんは細い目を少しだけ険しくし、考え込むように顎を撫でた。

 

「ふむ……。ルーク君、気持ちは分かりますが、それはあまり得策ではありませんねえ」

 

「え? どうしてですか。父さんはあそこにいるんですよ?」

 

「いいですか、ルーク君。パウロ殿は確かにミリスに向かうと書いていますが、現在のミリス神聖国は魔族排斥の風潮が極めて強い、非常に排他的な国です。ラプラス因子を持って生まれ、そのほんのりと緑色に光る髪を持つ君を連れて行くのは、君の身の安全にとっても、これからの修行の環境としても、お世辞にも最善とは言えません。……それにね、パウロ殿の伝言をよく読んでごらんなさい」

 

 シャンドルさんは長い指先で、紙の後半部分をトントンと叩いた。

 

「パウロ殿はルーデウス殿に向けて『お前は中央大陸の北部を探せ』と指示を出している。そして君たちに対しても『見つけたら下記まで連絡をくれ』と書いている。……ならば、私たちがすべきことは一つ。パウロ殿の指示通りに、私たちが中央大陸の北部へ向かい、そこを捜索・開拓しつつ、ミリシオンのギルドへ『ルークは生存しており、現在中央大陸北部を捜索中である』と手紙を送るのが一番確実ですよ。これなら、お互いの役割が重複することもなく、効率的に家族を探せる」

 

 シャンドルさんのその言葉は、驚くほど冷静で理にかなっていた。

 

 確かに、俺が今からミリスへ向かったところで、すれ違いになる可能性もある。それよりも、パウロさんがルーデウスに任せようとしていた『中央大陸北部』の捜索を、俺が代わりに買って出る方が、グレイラットの家族としても、これからの移動の手間を考えても圧倒的に合理的だった。

 

「……分かりました。シャンドルさんの言う通り、俺たちは北へ向かいましょう。手紙を出せば、俺が生きてることはパウロさんにも伝わりますもんね」

 

「ええ、その通りです。中央大陸の北部、特にラノア王国やその周辺の魔法都市は、魔術の研究も盛んです。陸路を北上する長い旅路になりますが、それはすなわち、君に北神流の極意を叩き込むための、最高の教練期間になりますからねえ。……よし、それでは明日の朝、中央大陸北部へ向けて出発しましょうか!」

 

「はい。よろしくお願いします、師匠」

 

 俺は掲示板のパウロさんの文字、そしてそのすぐ下にあるシルフィエットの斜線をもう一度だけ強く目に焼き付けた。

 

 シルフィは確実に、この世界のどこかで生き延びている。そしてパウロさんやノルンも生きている。

 

 俺はシャンドルさんと共に、明日からの過酷な、しかし確かな希望に満ちた新たなる旅路に向けて、力強く歩き出すのだった。

 

 

 

 





長くなってしまいました。二つに分けようとしていた話を一つにまとめたので、少し違和感があったかもしれません。できる限り修正しましたが、何かありましたら教えて下さると幸いです。

高評価の数も50を越えものすごく嬉しいです。感想も沢山ありがとうございます。感想欄は特に私がメタ的な発言や今後の流れとかもちらっと話しています。見たくない方は見ない方がよろしいかと思います。
それでも大丈夫という方はぜひ、評価と感想の方お願いします。

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