迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
載せ直しです。すいません。
俺がこの世界で目を覚ましてから、しばらくの間は、それなりに幸せだったと思う。
少なくとも、前世の俺と比べれば格段にいい。腹が減れば誰かが飯を持ってきてくれて、眠くなれば柔らかな寝床に寝かせてもらえるし、泣けば誰かが慌てたように駆け寄ってくる。何より、俺を見て笑ってくれる人間がいた──それだけで、前世の人生とは比べ物にならないほど恵まれているように思えた。
もちろん、赤ん坊の俺には幸せかどうかを判断するほどの知性もなければ、他人と比較するための情報もない。それでも、誰かに抱き上げられた時に伝わってくる体温や、胸元から聞こえる心臓の音には、不思議と安心させられるものがあった。
特に、俺を抱いていた女性がそうだった。
まだ自分の目でまともに周囲を見ることすらできなかった頃から、その女性は何度も俺の顔を覗き込み、嬉しそうに笑っていた。俺には彼女が誰なのか分からなかったし、彼女が俺に何を話しかけているのかも理解できなかったが、その声だけは嫌いではなかった。
──二度目の人生か。
そう考えた。
──まあ……せっかくだし、今度は頑張ってみるか。
前世では、死ぬ間際になってから「あれをしておけばよかった」「もっとこうすればよかった」と思うことが山ほどあった。勉強も、身体を大事にすることも、人との付き合いも、もっと早くから真面目にやっておけばよかったと思うことばかりで、だからこそ二度目の人生を与えられたのなら、今度は多少面倒でも色々なことに挑戦してみようと考えていた。
もっとも、その決意をしたところで、赤ん坊の俺にできることなどほとんどない。
泣く。
寝る。
飯を食う。
そして、また寝る。
そんな生活を繰り返しているうちに、俺は少しずつこの世界のことを知っていった。
最初に気づいたのは、食事だった。
離乳食のようなものを口に運ばれるたび、味そのものには不満がないのに、どこか妙な違和感があった。肉や野菜、果物といった素材そのものには見覚えがあるのだが、料理の仕方や使われている調味料が前世の日本で知っていたものとは違い、食卓に並べられる料理を見ていると、自分が生まれた場所そのものが少しずつ遠く感じられていった。
食器も違った。
木を削って作ったような皿に、同じく木製の匙が置かれていることが多く、手に取れば表面には僅かなざらつきが残っている。前世の日本なら当たり前だったガラスや綺麗に焼かれた陶器とは違う、どこか手作りの温かさを感じさせる食器だった。
そして、本を見た時に俺は確信した。
紙の質感が違う。
前世で使っていたコピー用紙のように滑らかではなく、少し厚みがあって、指先で撫でると紙そのものの繊維が僅かに感じられる。ページをめくるたびに、乾いた音とともに紙が指へ引っ掛かり、その感触が妙に生々しかった。
文字も違う。
日本語ではない。
英語でもない。
俺が前世で知っていたどんな言語とも違う文字が、本の上に並んでいた。
ただ、不思議なことに、その文字を見ていると意味だけは何となく理解できた。
──……あれ?
最初はそう思っただけだった。
けれど、いくら見ても意味が分かる。
俺は文字そのものを読めているわけではないのかもしれない。あるいは転生した時に、この世界の言語を理解するための何かを与えられたのかもしれない。理由は分からなかったが、少なくとも俺は「この世界の人間が何を話しているのか」を少しずつ理解できるようになっていった。
そして、魔法が存在することも知った。
そこで俺は一つの可能性を考えた。
──もしかして、ここって『マギ』の世界じゃね?
アラジン、アリババ、モルジアナ。
シンドリアに煌帝国、ダンジョンに金属器、魔装に魔法。
俺が前世で知っていた世界と、この世界にはいくつか似た部分があった。もちろん、似ているというだけで同じ世界だと決めつけるには情報が足りなかったが、異世界転生なんてものを経験してしまった身としては、好きだった作品の世界に来た可能性くらい考えてもいいだろう。
そんなふうに、この世界に対する興味を少しずつ深めていた俺の人生が、大きく変わったのは生後一、二ヶ月ほど経った頃だった。
髪が生えた。
赤ん坊なのだから当たり前だと思った。
だが、鏡に映った自分の頭を見た瞬間、俺は少しだけ目を見開いた。
緑色だった。
それも、光の加減で緑に見える程度の色ではない。まるで葉をそのまま髪にしたような、鮮やかで濃い緑色が、俺の頭を覆っていた。
そして、その日から周囲の人間の態度が変わった。
俺を抱いていた使用人が、髪を見た瞬間に笑顔を消す。別の人間は何かを囁き合い、俺へ近づくことさえ躊躇うようになった。何を話しているのか、その頃の俺にはまだ完全には理解できなかったが、視線が自分の髪に集まっていることだけは分かった。
──なんだよ。
──髪が緑だからなんだってんだ。
赤ん坊の俺には、それくらいの感想しかなかった。
自分が何か悪いことをしたわけでもないし、そもそも髪の色なんて自分で決められるものでもない。なのに、まるで化け物でも見るような目を向けられるのは、正直言って意味が分からなかった。
ただ、その理由を知っている人間はいた。
俺の父親──ピレモン・ノトス・グレイラットだった。
☆☆☆
ピレモンは、ベッドに横たわる息子を見つめていた。
小さな身体。
小さな手。
そして、その頭に生えた鮮やかな緑色の髪。
ピレモン自身は、それを見た瞬間に一つの名前を思い浮かべていた。
スペルド族。
約五百年前、ラプラス戦役において人族や他種族だけではなく、自らの一族までも殺し尽くしたと伝えられる恐怖の種族。その存在を象徴する特徴の一つが、緑色の髪だった。
もちろん、目の前の子供にはスペルド族特有の赤い石はない。
だから、この子が本物のスペルド族ではないことくらいピレモンにも分かっている。
それでも、恐怖は理屈だけでは消えない。
ましてや、この子はノトス家の次男として生まれた。
自分と同じ、次男だった。
その事実に、ピレモンは奇妙な親近感を覚えていた。
自分にも兄がいる。
パウロという兄が。
幼い頃から才能に恵まれ、剣を握れば周囲を圧倒し、人の懐へ入ることにも長けていた兄と比べられながら、ピレモンはずっと生きてきた。身分という意味では、今や自分の方が上だ。しかし、周囲の人間から向けられる「パウロ様なら」という言葉だけは、どれだけ立場が変わっても消えてくれなかった。
兄には敵わない。
だからこそ、兄より優れた人間にならなければならない。
そう思い続けてきた。
だから、次男として生まれたこの子を見た時、ピレモンは自分と重ねてしまった。
この子なら、自分の気持ちを理解してくれるかもしれない。
そんな、根拠のない期待だった。
だが、その期待は緑色の髪を見た瞬間に崩れた。
怖い。
それが、ピレモンの偽らざる感情だった。
この子が成長すればどうなる。
この髪が世間に知られればどうなる。
もし「ノトス家にスペルド族の血を引く子供が生まれた」などという噂が流れれば、貴族社会においてノトス家がどのような目で見られるのか分からない。
それでも、殺すことはできなかった。
自分の息子だからだ。
だからピレモンは決めた。
存在を隠す。
少なくとも、この子が自分で自分のことを判断できるようになるまでは。
それが息子を守るためなのだと、自分自身に言い聞かせながら。
そうして俺は、屋敷の地下へ送られた。
☆☆☆
地下に送られてから、俺は露骨に屋敷の人間から避けられるようになった。明らかに態度がおかしいのだ。まるで何かを怖がっているような。
それ以前から誰かが俺について話していることは分かっていたし、俺の周りには常に誰かしら人間がいた。その頃の俺には彼らが何を話しているのかまるで分からなかったし、こちらから言葉を返すこともできなかった。俺を抱き上げながら何かを囁く産婆らしき女性も、俺を見て顔を強張らせる使用人たちも、遠くから俺のことを話しているらしい貴族たちも、その意味までは届かない音として俺の耳を通り過ぎていくだけだった。
ただ、一つだけ分かることがあった。
──たぶん、俺のことを話してる。
視線が俺に向けられているし、時折こちらを指差している人間もいる。俺が近づけば会話が止まり、俺が離れればまた小声で何かを話し始めるのだから、さすがに自分とは無関係だとは思えなかった。
何を言っているのかは分からない。
けれど、俺を見る目だけは分かった。
怖がっている。
気味悪がっている。
俺はその理由を知らなかったが、どうやら俺の髪が関係しているらしいことだけは、なんとなく理解していた。
生後一、二ヶ月ほどで生え揃った俺の髪は、完全な緑色だった。
それは前世の日本で見たような染髪でもなければ、光の加減でそう見える程度の色でもない。葉のような、鮮やかな緑色で、それが赤ん坊の頭に当たり前のように生えているのだから、周囲の人間が驚くのも無理はないのだろう。
──まあ、髪くらい好きな色に生えるだろ。にしても、俺の両親は少なくとも緑髪じゃない。……ははーん。おませな母さんめ、やっちゃったんだな?
当時の俺は、それくらいにしか考えていなかった。
だから地下室へ運ばれた時も、そこまで深刻には考えていなかった。
扉が閉まり、重たい音を立てて錠が掛けられた時でさえ、俺はしばらくその場に立ち尽くした後、
──……地下室?
と、少し首を傾げただけだった。
けれど、そこで生活を始めて数日も経てば、それがどういう場所なのかは嫌でも理解できた。
窓がない。
外が見えない。
扉は外からしか開けられない。
その上さらに錠まで掛けられている。食事は決まった時間に運ばれてくるし、必要なものは与えられるが、俺が自分から外へ出ることだけは徹底して許されなかった。
牢獄。
それが一番近い。
ただ、不思議なことに、待遇だけは妙に良かった。
寝床は用意されていたし、食事も十分に与えられた。服も定期的に交換され、本や木剣まで置かれている。少なくとも俺を飢えさせたり、傷つけたりするつもりはないらしい。
だからこそ、余計に奇妙だった。
──俺、何したんだ?
赤ん坊の頃から大人しくしていたはずだ。
悪さをした記憶なんてない。
そもそも、できること自体ほとんどなかった。
それなのに、俺はここにいる。
理由を尋ねようにも、当時の俺には言葉がなかった。
使用人が何か話しかけてきても意味が分からないし、こちらが声を出しても赤ん坊の喃語にしかならない。だから俺は、何も分からないまま地下で生活するしかなかった。
そして、その生活の中で俺は初めて、この世界の言葉を覚え始めた。
最初は本当に何も分からなかった。
使用人が「食事」を持ってきても、その言葉と料理が結びつくまでには時間がかかったし、扉を開ける時に使う言葉、寝る前に掛けられる言葉、俺を見て誰かが呟く言葉──そういうものを一つずつ拾い集めるようにして、少しずつ意味を推測していった。
そして気付けば、俺は本を読めるようになっていた。
文字そのものを見たことはないはずなのに、意味だけが頭の中へ滑り込んでくるような感覚だった。日本語ではない。それなのに理解できる。どういう仕組みなのかは分からなかったが、転生した時に言語そのものを理解する能力まで与えられたのかもしれない。
俺は本を読み漁った。
貴族の教養書、歴史書、魔法について書かれた本、そして剣術の入門書。
そこで初めて、俺はこの世界の剣術について知った。
剣神流。
水神流。
北神流。
剣神流は速度と攻撃力を重視し、水神流は相手の攻撃を受け流し、北神流は型に縛られず実戦的な戦いを得意とする。
そんな説明を読みながら、俺は木剣を握った。
もちろん、本に書かれているのはあくまで概要だけで、具体的な技を教えてくれるわけではない。それでも、俺には時間だけがあったし、幸いなことに、この地下室には誰にも邪魔されずに剣を振れる程度の空間があった。
最初は酷いものだった。
構えも知らない。
足の運び方も知らない。
剣を振れば身体が流れ、何度か振っただけで腕が痛くなる。
それでも、毎日振った。
昨日より一回多く。
昨日より少しだけ速く。
昨日より少しだけ綺麗に。
そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ身体が剣に馴染んでいった。
俺は自分に剣の才能があるのかどうかなんて知らない。
ただ、努力すればするほど分かりやすく上達するのが面白かった。
だから続けた。
それに、俺には他にやることがなかった。
前世ならスマホでも弄っていれば一日くらい簡単に潰せたが、この世界にはそんな便利なものはない。だから本を読み、剣を振り、魔法について調べ、疲れたら寝る。それを繰り返しているうちに、一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎた。
その頃には、俺は使用人たちの話をほとんど理解できるようになっていた。
それでも、彼らとは話さなかった。
話しかけられても必要最低限の反応しかしない。
俺が言葉を話せると知られるのが嫌だったわけではない。ただ、地下に閉じ込められている理由すら分からない俺が、わざわざ自分から余計な情報を与える必要もないと思っていた。
何より、彼らが俺を見る目は変わらなかった。
緑の髪。
それだけで、俺は彼らにとって普通の子供ではなかった。
だから俺も、彼らにとっての俺が何なのかを知ろうとした。
そして、本の中で一つの名前を見つけた。
スペルド族。
五百年前のラプラス戦役で、人族だけではなく他種族、果ては同族までも殺戮したとされる種族。
緑色の髪。
額にある赤い石。
それが特徴だと書かれていた。
俺には赤い石がない。
だから本物のスペルド族ではない。
それくらいは理解できた。
──じゃあ、なんで俺をこんな目で見るんだよ。
答えは出なかった。
ただ、少なくとも俺の髪が恐怖の対象になっていることだけは理解した。
だからこそ、魔法についても剣術についても、俺は人前で使わない方がいいと考えるようになった。
特に魔法は危険だ。
使えることが知られれば、面倒な人間が寄ってくるかもしれない。
俺はこの地下から出たい。
けれど、出た後まで追いかけられるような真似をするつもりはなかった。
そんなことを考えながら、五歳になった頃。
俺は初めて、本当の意味でこの場所から出る機会を得た。
屋敷が襲撃されたのだ。
突然、地下まで響くほどの大きな音がした。
怒鳴り声。
走り回る足音。
金属が激しくぶつかる音。
何かが倒れる音。
今まで聞いたことのない騒音が屋敷中を埋め尽くし、いつもなら一定の間隔で食事を運んでくる使用人たちの気配すら消えていた。
俺は木剣を握った。
そして、しばらくして地下室の扉が乱暴に開いた。
一人の男が入ってきた。
賊なのか、襲撃者なのか、当時の俺には分からない。ただ、少なくとも俺を助けに来た人間ではないことだけは、その目を見れば分かった。
男は俺を見ると、一瞬だけ動きを止めた。
緑の髪。
地下に閉じ込められた子供。
何を思ったのかは分からない。
ただ、男がこちらへ近づいてきた瞬間、俺の身体が勝手に動いた。
手を伸ばす。殺される。そう思った。
次の瞬間、俺と男の間に透明な壁が出現した。
──え?
男も止まった。
俺も止まった。
目の前に突然現れた透明な防壁を、二人で呆然と見つめる。
男が何かを叫んだ。
俺にはその意味が分かった。
──なんだ、これ。
そんな顔だった。
俺だって同じだった。
──いや、俺が聞きたい。でも、これはまさか……
どうやら俺は、
けれど、驚いている場合じゃない。
男の動きが止まっている。
今しかない。
俺は木剣を握り直した。
そして、男の横を回り込むように踏み込んだ。
狙うのは首。
殺すつもりはない。
けれど、手加減している余裕もなかった。
全身の力を乗せて、木剣を振り切る。
鈍い音が地下室に響いた。
男の身体がぐらりと揺れ、そのまま床へ倒れた。
動かない。
死んだわけではない。
気絶しただけだ。
俺は荒くなった息を整えながら、倒れた男を見下ろした。
そして、初めて理解した。
──今しかない。
俺は地下室を飛び出した。
階段を駆け上がる。
何年ぶりに見る地上だった。
屋敷は混乱に包まれていた。
使用人が走り回り、怒号が飛び交い、どこかでは剣戟の音まで響いている。俺の存在に気付く人間もいたが、誰も俺を追いかけている余裕などないらしい。
俺はそのまま走った。
ただ、屋敷の外へ出たところで足を止める。
──……さすがに一文無しじゃ、どこにも行けないな。
逃げることだけ考えていた。
外へ出ることだけ考えていた。
でも、外の世界で生きていくなら金がいる。
そこで俺は屋敷を振り返った。
まだ混乱は続いている。
なら、少しくらい貰っていっても問題ないだろう。
俺は屋敷の中へ戻った。
そして、目についたものを片っ端から袋へ詰め込んだ。
小さくて持ち運べそうな装飾品。
金になりそうなもの。
貴族の家にあるだけあって、それらしい物はいくらでも見つかった。
もちろん、価値なんて俺には分からない。
だから、とにかく高そうなものを選んだ。
袋が膨らんだところで、窓を開ける。
外へ飛び出す。
着地して、俺は一度だけ屋敷を振り返った。
──俺も賊みたいになってら。
少しだけ笑う。
まあ、いいか。
俺は袋を担ぎ直した。
──悪いね、親父。
──でも、可愛い息子への餞別と考えてくれ。
それだけ言い残して、俺は走り出した。
五年間閉じ込められていた屋敷を、今度こそ振り返らずに。
俺は、自分の人生で初めて、自分の意思で外の世界へ出た。
☆☆☆
翌朝。
俺は街の片隅にある物置の陰で、息を潜めていた。
昨夜は、近くにあった藁の山に身を隠して一晩を過ごした。身体は少し痛いし、藁が服の中に入り込んでいて最悪の寝心地だったが、贅沢を言っている場合でもない。
そんな時だった。
「なんだ、朝から騒がしいな」
街の方から、人の声が聞こえてきた。
「聞いたか? ノトス家が賊に襲われたらしいぞ」
「ノトス家が? あのノトス家か?」
「ああ。夜中にかなりの数の賊が押し入ったらしい」
「それで、旦那様やご家族は?」
「それが、無事らしい。屋敷の者も何人か怪我をしたそうだが、死者はいないって話だ」
「賊は?」
「全員殺されたらしい。どうやら金品が目的だったみたいだな」
その言葉を聞いて、俺は小さく息を吐いた。
どうやら、親父達は無事らしい。
別に心配していたわけじゃない。
ただ、死なれたら寝覚めが悪い。それだけだ。
それにしても、賊か。
……まあ、昨夜の俺も似たようなものだったけど。
俺は自分の横に置いてある袋へ目を向けた。
中には、昨夜ノトス家から持ち出した金品が入っている。
最初はこれを街で売って金に換えようと思っていた。
だが、すぐに考え直した。
俺は自分の髪に触れる。
緑色。
この世界で、この髪を街中で晒すのはかなり危険だ。
ノトス家の地下にいた頃から、俺の髪を見た人間の反応は嫌というほど知っている。もし街中で緑髪の子供が歩いているなんてことになれば、盗品を売るどころか、その場で大騒ぎになってもおかしくない。
だったら──売らなければいい。
「……しょうがない、持っていくか」
金品そのものが消えるわけじゃない。
今すぐ金にする必要もない。
俺は袋をしっかりと閉じた。
そして、もう一つ。
昨夜、屋敷から持ち出していたものがある。
顔をすっぽりと覆える、簡素なローブだ。
貴族の屋敷にあったものだけあって、子供が身につけるには少し大きい。だが、頭から被ってしまえば髪の色どころか顔まで隠せる。
「……これなら、なんとかなるだろ」
ローブを頭から被り、鏡の代わりに近くの水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、顔も髪もほとんど見えない小さな人間だった。
これなら少なくとも、緑髪を理由に騒ぎになる可能性はかなり減る。
俺は袋を背負い、木剣を手に取った。
さて。
ここからどうやって街を出るか。
普通に歩いていくのは、やっぱり危ない。
そこで俺は、街道の方へ視線を向けた。
しばらくして、荷物を積み込んでいる大きな馬車が目に入った。
その近くでは、商人らしき男たちが話をしている。
「この馬車、フィットア領まで行くんだよな?」
「ああ。ブエナ村まで運ぶ荷物がある」
「じゃあ、これを積んでくれ」
ブエナ村。アスラ王国周辺の事を書いていた本に、そんな名前があった気がする。
その名前を聞いた瞬間、俺は思った。
……これだ。確か、自然豊かな村であると記載があったはずだ。ここなら、しばらく身を隠せるかもしれない。
思考を巡らせる。どうにかしてこの馬車に乗せてもらおう。嫌、素直に乗せては貰えないだろう。理由は言うまでもなくこの髪だ。しかも俺はまだ5歳。小さな子供だ。怪しまれるに決まってる。
──これはあれだな。もうあれしかないな。
そう、ルーク密輸作戦開始だ。
俺は近くに置かれていた大きな樽へ目を向ける。
中身は酒らしい。
俺はしばらく樽を眺めた。
そして、妙案を思いつく。
──これ、中に入れないか?
酒を空にする必要はある。
だが、空になった樽なら俺の身体は入る。
袋と木剣を一緒に入れて、その上から荷物を積んでもらえばいい。幸い、俺が酒を一生懸命捨て中に入ってしばらくして、その上には木材が置かれた。天はオレの味方である。
多少窮屈だろうが、街中を堂々と歩くよりは遥かにマシだ。
──にしても、酒臭い。環境は最悪だ。牢屋の次は酒樽か。俺の部屋は順調にグレードダウンしている。
「荷物はこれで全部だな?」
「あぁ。往復で6日ってところだな。頼むぜ」
──てことは3日もあれば着くのか。……ご飯とトイレに関しては、まぁその時考えよう。
こうして俺は、ノトス家から持ち出した金品とローブを抱えたまま、ブエナ村へ向かう馬車に紛れ込むことにした。
それから三日間。
俺は、樽の中にいた。
結論から言えば、二度とやりたくない。
最初の数時間は、まだ余裕があった。
樽の中は思っていたより狭かったが、身体を小さく丸めればなんとか収まる。持ってきた袋と木剣も一緒に入れて、その上から別の荷物が積まれているため、身動きはほとんど取れない。
それでも、馬車が動き出した直後は少しだけ楽観的だった。
「まあ……三日くらいなら、なんとかなるだろ」
この時の俺は、自分がどれだけ馬鹿なことを言っているのか理解していなかった。
一日目。
腹が減った。
それでも、まだ我慢できた。
問題は喉だった。
水がない。
当然だ。樽の中身を空にして、その中に自分が入ったのだから、水を飲めるわけがない。
しかも、馬車は止まったり動いたりを繰り返す。地面の凹凸を拾うたびに樽の中で身体が揺さぶられ、背中や肩が木にぶつかる。
「……痛ぇ」
小声で呟いたところで、誰かが助けてくれるわけでもない。
二日目。
腹はもう空腹という感覚を通り越していた。
喉は完全に乾いている。
口の中が気持ち悪い。唾液すらまともに出てこない。
それでも、俺は耐えた。
というより、耐えるしかなかった。
ここで樽から出て、「喉が渇いたので水をください」なんて言ったら、俺の緑色の髪を見た人間がどんな反応をするか分からない。
下手をすれば、三日間樽の中にいた苦労が全部無駄になる。
だから、ひたすら我慢した。
唯一の救いは、馬車が休憩のために止まる時間があることだった。
その時だけ、俺は周囲に人がいないことを確認して、樽から抜け出した。
そして、用を足す。
「……人間って、こんなに排泄をありがたく感じるんだな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、用を済ませたらすぐに樽へ戻る。
食事の時間になれば、外からなにかを食べる音が聞こえてくる。
その匂いだけが、やけに鮮明だった。
「……くそ」
腹が鳴る。
外では誰かが笑っている。
俺は樽の中で膝を抱えた。
三日目。
もはや何も考えたくなかった。
腹は減っている。
喉も渇いている。
身体は痛い。
眠ろうとしても、馬車が揺れるたびに目が覚める。
それでも、少しずつ変化があった。
馬車の揺れ方が変わった。
周囲から聞こえる声も、今までとは違う。
そして──
「着いたぞ。ブエナ村だ」
そんな声が聞こえた。
その瞬間、俺は目を見開いた。
ブエナ村。
ようやく。
ようやく着いた。
荷物が降ろされ、人の気配が少なくなったのを確認してから、俺は樽の蓋を押し上げた。
「……っ!」
外の光が目に入る。
三日ぶりの太陽だった。
眩しい。
眩しすぎる。
俺はしばらく目を細めたまま、樽の中から這い出した。
足が痺れている。
身体中が痛い。
それでも、地面に立った瞬間──
「……外だ」
思わず笑ってしまった。
俺は大きく息を吸った。
空気がうまい。
三日間、ろくに呼吸すらできなかったわけではないのに、やけに新鮮に感じる。
とりあえず、水だ。
食べ物も欲しい。
俺はローブを被り直し、荷物を確認する。
金品は無事。
木剣もある。
これなら、しばらくはどうにかなるだろう。
そして俺は、ブエナ村を歩き始めた。
それからしばらくして。
俺は村の中を歩いていた。
三日間ろくに何も食べていなかったせいで、足取りはまだ少し重い。それでも、樽の中にいた時と比べれば天国だった。
そんな時だった。
少し離れた場所から、子供たちの声が聞こえてきた。
「おい、魔族!」
「こっち来るなよ!」
「気持ち悪いんだよ、その髪!」
俺は足を止めた。
声のした方を見る。
そこには、数人の子供がいた。
その中心に、一人の小さな女の子がいる。
そして──
緑色の髪。
俺は思わず目を疑った。
「……緑髪?」
自分以外で、この髪色を見たのは初めてだった。
女の子は何も言い返さず、ただ俯いている。
その瞬間、泥の塊が飛んだ。
べちゃっ、と音を立てて、女の子の服に泥がつく。
「……」
俺は黙ってそれを見ていた。
また一つ。
泥が飛ぶ。
さすがに見過ごせなかった。俺は黙って三人に近づいていった。
子供たちがこちらを見る。
「なんだよ、お前」
「関係ないだろ」
三人。
年齢は俺より少し上くらい。
俺は腰に差していた木剣を抜いた。
別に、家出した時のように気絶させるつもりはない。
そもそも
だったら──木剣で十分だ。
俺は木剣を肩に担いだ。
「こらこら君達、亀をいじめるのは良くないね。それじゃ竜宮城へは行けないよ」
「は?」
──ポカンとしてるな。そりゃそうだ、この世界の人間が浦島太郎を知っているはずもない。……ま、まぁそれはいい。
「分かんなかった? ごめんごめん」
俺は何食わぬ顔をして一歩、前に出る。
「その子に、もう泥を投げるなって意味」
三人が顔を見合わせる。
そして、一人が俺に向かって走ってきた。
俺は慌てなかった。
踏み込んでくる足を見て、身体を半歩だけずらす。
空振りした腕の横をすり抜け、そのまま木剣を相手の手首へ軽く打ち込んだ。
「痛っ!」
木剣を落とした。
その隙に、柄で肩を押す。
「うわっ!」
尻餅をついた。
残った二人が怯んだ。
俺は木剣を構え直す。
「まだやる?」
三人は答えなかった。
少しして、一人が舌打ちをすると、もう二人を連れて走っていった。
俺はその背中を見送ってから、木剣を鞘代わりの布に戻した。
「ふぅ、終わったよ」
そして、女の子を見る。
緑色の髪。
同じ色だ。
けれど、彼女はその髪をひどく気にしているらしい。
俺には、それが少し不思議だった。
俺自身は、とっくに慣れている。
この髪を見て騒ぐ人間にも、怯える人間にも。
だから──
「大丈夫?」
そう声をかけた。
女の子が、ゆっくりと顔を上げる。
──あ、フード被ったままか。怯えてるみたいだし、安心させてあげないと。
「まぁ見てなさい。きっとびっくりするよ」
「え?」
その子は訳が分からない様子だった。俺は勢いよくフードを取る。
その目が俺の髪を見た。
そして、驚いたように固まった。
──あら、思ってた反応と違う。まあ、そりゃそうか。
同じ緑髪なんだから。
俺はそんなことを考えながら、その子に手を差し出した。
「立てる?」
彼女は、まだ戸惑ったような顔をしていた。
その時だった。
少し離れたところから、別の声が聞こえてきた。
「……あれ?」
俺が振り向く。
そこには──
何冊もの本を抱えた、一人の少年が立っていた。
少年は俺と、緑色の髪の少女を交互に見ている。
俺もまた、その少年を見つめた。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この少年との出会いが、この先の俺の人生を大きく変えていくことになるなんて。