迷宮を目指した俺は、世界を間違えた   作:アルマトラン

20 / 28
解釈違いがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。


第3章 風の行方
最初の一本


 

 

 

 

 

 

 固い師弟の約束。

 

 あの日から、俺たちの旅はアスラ王国をただ北上するだけの平穏なものから、終わりなき地獄の日々へと姿を変えた。

 

 拠点に選ばれたのは、北方大地へと続く険しい難所『赤竜の上顎』の手前に広がる、鬱蒼とした名もなき深い森だった。ここで俺の本当の『足掻き』が始まることになる。

 

「さて、ルーク君。今日から君に剣を教えるわけですが……その前に、一つだけ条件を提示させてください」

 

 森の開けた広場で、シャンドルさんはいつも通りのにこやかな笑みを浮かべながら、愛用の不格好な鉄の棒を無造作に肩に担いだ。

 

「条件……ですか?」

 

「ええ。この私から、ただの一本でも良いので有効打をもぎ取ってみせなさい。それができなければ、私は君に北神流の型も技も、何一つとして教えるつもりはありません」

 

 シャンドルさんのその言葉に、俺は思わず眉を寄せた。

 

「一本取るまで、何も教えない……? 冗談ですよね。俺の剣が、その鉄の棒に掠りもしないって言うんですか」

 

「冗談に見えますか? 君は手元にあるその剣を、闘気を、そしてあの桃色の盾すらも、使いたいように使って構いません。私はこの、ただの鉄の棒一本でお相手しましょう」

 

 ふざけるな、と思った。

 

 いくら目の前の男が、あの龍神オルステッドが本名で呼び、かつて王竜王をも討伐したという伝説の七大列強、北神カールマン二世アレックスその人だとしてもだ。俺だってこの十年間、パウロさんの元で死ぬ気で三大流派の基礎を叩き込まれ、密林の魔物を相手に実戦を重ねてきた自負がある。上級剣士並みの身体能力と、いざとなれば敵の攻撃を遮断する無詠唱の防壁魔法(ボルグ)があるのだ。

 

 何ヶ月も泥臭く挑み続ければ、いつかは、たったの一本くらいなら掠め取ることくらいはできるはずだ。

 

 そんな俺の甘く、楽観的な魂胆は、修行が始まったその初日のコンマ一秒で、塵一つ残さず徹底的に叩きのめされることになった。

 

「では、始めましょうか」

 

 シャンドルさんがそう呟いた瞬間、世界が一変した。

 

 さっきまで調子の良い旅の文官のようだったシャンドルさんの顔から、すべての笑みが消え失せていた。剥き出しになったのは、かつて強大な魔物や強者達と命を削り合ってきた、本物の戦鬼の顔だった。その細い目の奥から放たれる圧倒的な殺気と重圧だけで、俺の喉の奥が引き攣り、呼吸の仕方を忘れるほどの寒気が全身を駆け抜ける。

 

 ──動けない。

 

「おや、どうしました。来ないのなら、こちらから行きますよ」

 

 予備動作など皆無だった。シャンドルさんが一歩を踏み出したと思った次の瞬間には、彼の持つ鉄の棒の先端が、俺の眼前にまで肉薄していた。

 

 死ぬ。オルステッドの時と同じ、脳髄を直接掻きむしられるような本物の死の恐怖。俺は悲鳴を上げそうになるのを強引に堪え、残された全ての魔力を振り絞って桃色の球状障壁を展開した。

 

 強烈な衝撃が防壁魔法(ボルグ)の表面を揺らし、俺は後退する。だが、シャンドルさんは俺の盾が発動したことを確認するよりも早く、突進の威力をその肉体のバネだけで完璧に相殺し、流れるような足捌きで俺の死角へと回り込んでいた。防壁魔法(ボルグ)は、展開されたその位置に固定される。動きながら防壁魔法を出すことは、今の俺には出来ない。回り込まれれば、ただの無防備な肉体が晒されるだけだ。

 

「盾に頼りすぎです。それでは、ただの動けない的だ」

 

 冷徹な声と共に、俺の脇腹へと凄まじい衝撃が叩き込まれた。肺の中の空気がすべて強制的に絞り出され、俺の身体は受け身も取れないまま、地面の泥の中を何転も転がった。

 

「カハッ、ゲホッ……!!」

 

 泥と血の混ざった味を口いっぱいに広げながら、必死に立ち上がろうとする。だが、シャンドルさんは容赦なく、倒れかけた俺の追撃として、鉄の棒を容赦なく振り下ろしてきた。

 

 そこからの日々は、文字通りの地獄だった。

 

 朝、東の空が白む前から、夜、周囲の巨木が深い闇に呑まれるまで、俺はただひたすらに、あの不格好な鉄の棒に文字通りボロ雑巾のように叩きのめされ続けた。

 

 シャンドルさんの課す修行は、こちらの限界をミリ単位で測りながら、その一歩先で正確に叩き潰してくるような、緻密で容赦のないものだった。

 

「はい、まずは基礎体力の教練から始めましょうか。ルーク君、あの斜面を登りなさい。もちろん、ただ登るだけでは私の気が済みません」

 

 シャンドルさんが笑顔で指差したのは、森の奥にある、今にも崩れそうな岩肌が剥き出しになった急勾配の崖だった。俺が息を荒くしてその崖を見上げていると、上空から巨大な、大人が三人で抱えるほどの岩塊が凄まじい勢いで転がり落ちてきた。シャンドルさんが崖の上から笑顔で蹴り落としたのだ。

 

「ちょっと、何やってんだ!! 死ぬだろ!!」

 

「死にませんよ、君にはあの素晴らしい防壁魔法(ボルグ)があるでしょう! 闘気で肉体を強化しつつ、防壁魔法(ボルグ)を展開して岩を弾き、そのまま一歩も退かずに崖を登りきるのです! さあ、次が行きますよ、ルーク君!」

 

 間髪入れずに二つ、三つと巨大な岩が視界を埋め尽くす。

 

 俺は叫びそうになるのを強引に堪え、残された全ての魔力を振り絞って防壁魔法(ボルグ)を展開した。激しい衝撃がボルグの表面を揺らし、衝撃の余波だけで俺の脳がジンと痺れる。魔力がゴリゴリと削られていく特有の倦怠感のなか、泥水をすするような思いで崖にしがみつき、一歩ずつ上へと這い上がっていく。

 

「遅い! 呼吸が乱れています! 魔力の無駄遣いですよ、ルーク君! 岩の軌道を見極め、直撃の瞬間だけ最小限の防壁魔法(ボルグ)を展開するのです!」

 

 上空から響くのは、いつもの優しげな声音のまま、内容だけが完全に狂っている教官の指示だった。ようやく崖を登りきったと思えば、息を整える暇すら与えられず、今度は目隠しを頭に巻かれた。

 

「次は、気配の教練です。ルーク君、私の気配を、鉄の棒が風を切る音を、肌で、闘気で感じ取りなさい。……では、行きますよ」

 

 一瞬にして、視界が完全な闇に包まれる。

 

 耳を澄まし、全神経を研ぎ澄まそうとした、まさにその一刹那だった。気配も、足音も、風の揺らぎすら皆無のまま、何かが俺の右肩を容赦なく打ち据えた。防御姿勢すら取れなかった俺の身体は、木の葉のように地面の泥の中を何転も転がった。

 

「カハッ、ゲホッ……!! 痛てぇ……! おい、今絶対に殺す気で殴ったろ! 闘気の循環を完全に隠して攻撃してくるなんて、ずるすぎるだろ!」

 

「ははは、ずるいとは心外ですねえ。戦場では敵が親切に『今から殴るよ』と闘気を練って待っててはくれませんよ。ほら、立ち上がりなさい、ルーク君。君の受け流しはどこへ行ったのですか? 敵の攻撃の軌道を僅かにずらし、その勢いを利用して弾き飛ばす。それが君の得意技だったはずでしょう」

 

 泥と血の混ざった味を口いっぱいに広げながら、俺は傷だらけの身体で這いずるようにして立ち上がり、見えない暗闇に向かって剣を構え直した。

 

 

 

 あまりに剣術の教練とは思えない奇妙なメニューが続く毎日に、ある日、俺の不満が完全に爆発した。泥まみれになり、息を切らせて地面に倒れ込んだ俺は、木刀を放り出すようにしてシャンドルさんを睨みつけた。

 

「……なぁ、シャンドルさん! さっきから何なんだよ、この訓練は! こんな崖から岩を落とされたり、目隠しされて殴られたりすることに、一体どんな意味があるんだよ!? 剣の型を教えるとか、もっと効率的で合理的なやり方があるだろ!」

 

 前世の効率主義、ぬるま湯の記憶が叫んでいた。こんな非効率な嫌がらせに付き合っている暇はない。もっと目見える、合理的な強さが欲しいんだ。

 

 だが、シャンドルさんは怒るでもなく、不格好な鉄の棒を地面に突き立てると、いつものニコニコとした笑みのまま、底の知れない細い目をさらに細めて俺を見下ろした。

 

「ルーク君。合理を突き詰めて登れる高みなど、所詮は知れていますよ。……精々、私程度に留まるでしょうね」

 

 その言葉の重みに、喉の奥が詰まった。七大列強に名を連ねる伝説の北神が、自嘲気味に「私程度」と言ってのけたのだ。

 

「君の目的は何ですか? もう一度、胸に手を当てて考えてみなさい」

 

「……大切な人たちを、守ることだ。不条理に誰も死なせないための力が欲しい」

 

 俺が真っ直ぐに答えると、シャンドルさんはフッと息を漏らし、試すような視線を送ってきた。

 

「ただ守るだけなら、今の君の剣と防壁魔法(ボルグ)でも十分ですよ。もう何もする必要はない。……君は、本質をどこか間違えているような気がしますねえ」

 

「え……?」

 

「君は、あの龍神オルステッドのような、この世の理から外れた存在をどうにかしようと考えている。そうでしょう?」

 

 心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。シャンドルさんは気が付いていたのだ。あの赤竜の下顎で、オルステッドが放った『ヒトガミの使徒』という言葉の意味に。

 

「君はどうやら、ヒトガミという存在を知っているようだ。……違いますか、ルーク君」

 

 冷たい風が森の木々を揺らす。俺はどう返答するべきか激しく迷った。だが、この底知れない師匠に嘘は通じない。

 

「……はい。あいつの存在を知っています」

 

「なるほど、やはり。……かつて私が母から聞いた話ですがね」

 

 シャンドルさんは焚き火の薪を枝で軽くつつきながら、遠い過去を呼び起こすように静かに語り始めた。

 

「私の叔父上は、かつてヒトガミに騙され、愛する婚約者を自らの手で殺してしまったそうです。ヒトガミとは、言葉巧みに人を操り、最終的には必ず陥れる。そして、操られた人間が絶望している顔を見て、遥か高みで高笑いをするような、そういう反吐が出るほど邪悪な存在だそうです」

 

 その言葉に、俺の脳裏にあの白い空間のモザイク野郎の姿が浮かび、強烈な嫌悪感が走った。やっぱり、あいつの本質はそこにある。

 

「君は、そんなヒトガミと恐らく関わりがあるのでしょう」

 

「……あっちが一方的に関わってくるだけです。夢に出てきて、勝手に助言を押し付けてくるんだよ」

 

「では、君は最終的には、そのヒトガミをどうにかしたい。違いますか?」

 

「……そうです」

 

 俺が拳を握りしめてそう答えると、シャンドルさんはいつになく真剣な、英雄としての重々しい顔で俺を見据えた。

 

「オルステッドと同じく、ヒトガミもまたこの世界の理から外れた存在です。そんな理不尽な神がこれからも君に関わってくるとして……ルーク君、合理を突き詰めたのみで、そんな存在に勝てると思わない方がいい」

 

 シャンドルさんのその言葉は、俺の胸の芯へと容赦なく突き刺さった。何も言い返せない。合理性、効率、そんな前世の生ぬるい基準で測れる相手ではないのだ。

 

「まぁ、何を言いたいのかと言うとね」

 

 次の瞬間、シャンドルさんはパッと表情を和らげ、いつものニコニコとした上品なおじさんの顔に戻って俺の肩を叩いた。

 

「合理以外にも、強くなるために大切な部分はあるということです。一見、意味の無いように思えることにもね。私は今、とても大切なことを言ったので忘れないでください。今は納得できないかもしれない。それでも、覚えておいて欲しいのですよ、ルーク君」

 

「……分かりました」

 

 ──このクソ野郎……! ただのドSの戦闘狂じゃねえか……! 見てろよ、いつか絶対にその顎に手痛い一撃を叩き込んでやる。一発ぶん殴って泣かせてやるからな……! 

 

 心の中で「いつか絶対殺してやる」と何度呪詛を吐いたか分からない。前世で読んだあらゆる漫画の修行シーンが頭をよぎるが、現実はそれ以上に過酷で、痛くて、惨めだった。何度も心が折れそうになった。こんな伝説の怪物相手に、十歳の子供が一本取れるわけがない、もう諦めて別の方法を探そうと、前世の弱い自分が何度も耳元で囁いてくる。

 

 だけど、俺がここで挑むのを辞めて剣を投げ出したら、難民キャンプでシルフィの帰る場所を守って待っているロールズさんたちに、あの約束を果たすことはできない。パウロさんたちと再会した時、胸を張って「俺が皆を守る」と言うこともできない。どれだけ殴られ、どれだけ地面に叩きつけられようと、俺は涙を拭って何度も立ち上がり、剥き出しの闘志をシャンドルさんへとぶつけ続けた。

 

 そして、そんな凄惨な修行の時間が終わる夕暮れ時。シャンドルさんが「はい、今日はここまでです」と呟いて鉄の棒を地面に突き立て瞬間に、世界の空気が、一瞬にして元の緩やかなものへと戻るのだ。

 

「いやあ、今日も良い汗をかきましたねえ! ルーク君、さあ、美味い猪肉のスープが出来上がっていますよ。たくさん食べて、明日に備えて肉体を休めなさい」

 

 さっきまで世界を滅ぼさんばかりの苛烈な戦鬼の顔をしていた男が、人が変わったようにニコニコとした、いつもの調子の良い上品なおじさんに戻って、俺の肩をぽんぽんと叩く。

 

 毎日毎日、死ぬ気で剣を交わし、夜は同じ焚き火を囲んでスープを分け合う日々を繰り返していく。

 

 

 

 シャンドルさんは、俺がどれだけ無様に叩きのめされようと、決して俺の努力を笑わなかった。俺が独自の防壁魔法(ボルグ)の新しい使い方を試そうとすれば、一変して苛烈な顔になりながらも、その盾の限界を正確に見極めるための最高の壁として、真っ正面からその一撃を受け止め続けてくれた。この人は、本気で俺を育てようとしてくれている。ルークという一人の剣士の才能と意地を認めて、その持てる全ての経験を、俺に叩き込もうとしてくれているのだ。

 

 そして俺もまた、この底の知れない、バケモノじみた強さを持つ伝説の北神を、自分の命を預けるに足る唯一無二の師匠として、心の底から全面的に信頼するようになっていた。今はまだ、あの奇妙な訓練の本当の意味は完全に理解できていない。だけど、いつか、この不条理な世界の理と真っ向からぶつかり合うその時に、この言葉の意味が分かる時が来る──そんな予感だけが、首の傷痕の疼きと共に、静かに残るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そうして、泥水をすすり、己の限界を何度も塗り替え続けた修行の日々が始まってから、二年程が経った頃。

 

 季節は巡り、名もなき森の木々が、再び冷たい冬の霜を纏い始めたある日の午後。俺とシャンドルさんは、いつも通り激しく刃を交え、張り詰めた静寂のなかで対峙していた。

 

「……ふぅー……っ」

 

 俺は低く息を吐き、身体の闘気を極限まで、しかし無駄なく、静かに循環させた。一年間の地獄のなかで、俺の身体は引き締まり、無駄な動きは完全に削ぎ落とされていた。シャンドルさんの放つ鉄の棒の風の揺らぎが、今では目をつぶってでも正確に知覚できる。

 

 シャンドルさんが、微かに笑った。その細い瞳の奥に、本気の、一人の戦士を迎え撃つための苛烈な光が灯る。

 

「さあ、始めますよルーク君! 」

 

 シャンドルさんのその声音が静寂を切り裂いた瞬間、いつものように目にも留まらぬ突撃が始まった。

 

 前足が泥を踏みしめる音が響いたかと思えば、次の瞬間にはもうその姿がブレている。

 

 ──やはり、捉えられない──! 

 

 どれだけ目を凝らしても、シャンドルさんの不格好な鉄の棒は輪郭を完全に失い、大気を揺らす凶器となって俺の網膜をすり抜けて迫りくる。いつもならここで、身体の防衛本能が勝手に桃色の球状障壁を展開していたはずだった。

 

 だが、出ない。防壁魔法(ボルグ)が発動しないのだ。

 

 一年間、朝から晩まであの圧倒的な打突に肉体を破壊され続けた結果、俺の身体はシャンドルさんの攻撃を「命に関わる本当の危機」として認識しなくなっていた。あの凄まじい暴力に、肉体そのものが順応し、慣れきってしまっていたのだ。

 

 しかし、俺自身も無力な子供のままではなかった。

 

 俺は両足を肩幅より僅かに広く開き、腰を低く落として大地をがっしりと掴む。それと同時に、皮膚のすぐ表面に、極めて薄く、しかし強固に練り上げた闘気の膜を満遍なく循環させた。ハンターハンターの『練』にも似たこの闘気の維持法は、毎日毎日、シャンドルさんに泥水の中を転がされ、殴られ続けていくうちに、生き残るために身体が自然と身につけたものだった。

 

 迫りくる鉄の棒が、俺の側頭部へと容赦なく肉薄する。俺は首を僅かに傾け、剣の腹でその軌道を横から叩くようにして最低限の受け流しを試みる。

 

 激しい衝撃が腕の骨を伝って脳を揺らす。だが、全身を包む闘気の防護服のおかげで、体内に通るダメージは、前までとは比べ物にならないほどに小さかった。そのまま流れるような足捌きで間合いを外そうとする。

 

 それでも、やはり列強の壁は高かった。

 

 シャンドルさんの放つ一振りには、一つの実攻撃に対して、必ず十を超える変幻自在のフェイントが組み込まれていた。

 

 右から迫る軌道に意識を向けた瞬間、シャンドルさんの肩の僅かな上下と手首の返しにより、鉄の棒は突如として俺の足元を払う軌道へと化ける。なまじ、目に見える『動き』という合理的な情報に頼って反応しようとするからこそ、俺の意識はその膨大な情報の波に惑わされ、一瞬の遅れを生み出してしまう。

 

「反応しなさい、ルーク君。目で見える速さに騙されてはダメです。十のフェイントのうち、たった一つだけ混ざっている本物の『殺気』に、私からの純粋な『敵意』だけに反応するのです!」

 

 シャンドルさんの左足が泥を蹴り、反転しながら繰り出される次の一撃。

 

 上、下、左、右。大気を切り裂く鉄の棒の残像が、十の虚像となって俺の視界を埋め尽くしていく。

 

 ──目で追うな。情報のゴミを全部捨てろ。お前が殴ろうとするその瞬間の、本物の殺気だけを感じ取れ──! 

 

 その時、俺の脳裏に、かつてノトス家の冷たい地下室で、そして家出した後の見知らぬ街の路地裏で浴びせられ続けてきた、あの無数の『悪意』の記憶が鮮烈に呼び起こされた。

 

 俺には、スペルド族と同じ、世界中から忌み嫌われる鮮烈な緑色の髪がある。

 

 ただ歩いているだけで、何もしていないのに、見知らぬ大人や子供たちから向けられ続けてきた、あの肌を刺すような本物の敵意。俺は、それを向けられることに、その気配を察知することに、人生のすべてを費やして慣れすぎていた。

 

 ──敵意なら、最初から知ってる……! どれだけ動きをブレさせようが、俺を打とうとするその瞬間の、本物の殺気だけは隠せねえよ! 

 

 視界からノイズが完全に消え去った。極限の静寂。

 

 勝とうという合理的な殺意も、守ろうという焦燥も、すべてが脱力と共に消え失せていく。ただ、世界が静かに広がっており、自分で自分が完璧に集中しているということが、肌の感覚でハッキリと分かった。俺の身体が、俺の闘気が、完全に俺の言うことを聞いている。

 

 俺は、流閃剣をカチカチに握りしめていた両手の力を完全に抜いた。

 

 十に分裂していた鉄の棒の残像のなかから、俺の肌が、ただ一つだけ俺の肉体を破壊しようと真っ直ぐに突き進んでくる『本物の敵意の線』を、明確に捉えた。

 

 昨日までの自分とは、絶対的に何かが違う。

 

 シャンドルさんの放った必殺の振り下ろしは、無数のフェイントの残像を大気に残しながら、俺の脳天目掛けて最短の垂直軌道を描いてトップスピードで落ちてきた。

 

 その本物の殺意の線を完全に見切った俺は、綺麗に水神流の型で受け止めるのを辞め、ただ身体の力を完全に抜き去った。右足を僅かに後ろへ引き、重心を低く落としながら、両手で握った鉄の剣を真横へと寝かせる。刃先を外側に向け、剣の最も広い平面の部分──『平』を、天空から降ってくる不格好な鉄の棒の真下へと正確に滑り込ませた。

 

 激突破のコンマ数秒前。

 

 俺は両手首を僅かに内側へと返し、剣の平面を斜め三十度へと傾けた。

 

 

 

 接触の瞬間、衝撃音すらそこにはなかった。シャンドルさんが両腕の剛力と闘気を乗せて放った渾身の振り下ろしは、俺の剣の平に触れた刹那、その斜めの傾きに沿って、驚くほど滑らかに外側へと滑り落ちていったのだ。鉄と鉄が激しく擦れ合い、凄まじい摩擦によって大気が白く光るほどの火花が散る。しかし、垂直の破壊エネルギーはすべて横方向の運動へと強引に変換され、鉄の棒は俺の右肩のすぐ横を虚しく通り抜けて、そのまま地面の深い泥の中へと吸い込まれるようにして突き刺さった。

 

 元列強第七位の男の重心が、自身の放った一撃の重さによって、前のめりに完全な死に体となる。鉄の棒が地面に固定されたことで、シャンドルさんの身体が一瞬だけ、完全に無防備な状態で硬直した。

 

 十分だ。それだけの隙があれば、今の俺には十分すぎる。

 

 俺は滑らせた剣の勢いをそのまま利用し、今度は右足を泥の奥深くへと強く踏み込んだ。大地の反発力を、足首から膝、腰の回転、 滑らかな連動によって背中の筋肉へと一条の水路を引くようにして連動させる。

 

 それと同時に、体内に渦巻く魔力を、身体の表面からすべて引き抜いた。そして、そのすべての闘気へと変換。手にした鉄の剣の刃先、わずか数ミリの空間にだけ、逃げ道を塞ぐようにして極限まで圧縮し、押し込んだ。それは前世の記憶にある、アリババが体得した、あの魔力操作の境地。『気功剣』のようなものだ。

 

 直後、圧縮された極限の闘気によって、剣の刃の周りの空気が、陽炎のようにメラメラと激しく揺らめき始めた。

 

「──っ、おおおおおおおッ!!!」

 

 俺は腰を落とし、シャンドルさんの完全にがら空きになった左肩から右脇腹へ向けて、陽炎の刃を斜め一閃──完璧な軌道の袈裟斬りとして振り抜いた。

 

 体勢を崩していたシャンドルさんだったが、その反応速度はやはり人間の枠を越えていた。地面に突き刺さっていた棒を強引に引き抜くと、右足を軸に身体を鋭く反転させ、鉄の棒を胸の前に水平に掲げ、守るための防御の体勢に入った。その腕と武器には、肉眼で見えるほどの濃密な闘気があらかじめ展開されている。

 

 ──それでいい……! 防御の上からでも構わない、少しでもその棒を押し込んで、有効打を、傷を一つでも負わせることができれば……俺の勝ちだ! 

 

 そう確信していた。

 

 だが、俺のそんな楽観的な予想は、刃が触れ合った瞬間に、根底から覆されることになった。

 

 手応えが、あまりにも無さすぎた。

 

 空間を陽炎のように歪ませていた俺の剣は、シャンドルさんが防御のために掲げた、あのオルステッドの攻撃にすら耐えていた頑強な鉄の棒を──まるで、温めたナイフでバターを切り裂くかのように、抵抗一つなく、滑らかに両断したのだ。そればかりか、彼が身体の表面に纏わせていた強固な闘気の結界すらも、俺の刃先は綺麗に切り裂いていく。

 

「え……?」

 

 真っ二つに両断された鉄の棒の破片が、虚空へと静かに舞い上がる。

 

 遮るものをすべて失った陽炎の刃は、勢いを止めることなく、そのままシャンドルさんの右の肩口へと深く、吸い込まれるように吸い込まれていく。

 

 無意識のなかに、やばい、という強烈な焦燥が走った。

 

 殺す気なんてなかった。ただの一本をもぎ取るためだけの、そのための全力だったはずなのに、俺の剣は、シャンドルさんの肉体を深く切り裂こうとしている。

 

「しまっ……!」

 

 俺は慌てて手首を返し、剣を引き戻そうと身体を引いたが、もう遅かった。

 

 陽炎を纏った鉄の刃は、伝説の北神カールマン二世の衣服の繊維を容易く裂き、その右肩の肉へと、深く、深く突き刺さっていた。鎖骨を断ち、肉の層を滑らかに割り進み、骨の芯に届くほどの深さで、完全に喰い込んで停止した。

 

 静まり返る森のなか。

 

 両断された鉄の棒が、地面の泥の上へと力なく転がり、落葉を揺らす。

 

 シャンドルさんの肩口から、鮮烈な赤がジワリと溢れ出し、彼の衣服を染めていく。

 

「おや……」

 

 シャンドルさんは、自分の右肩に深く食い込んでいる剣の刃を見つめ、本気で、これ以上ないほどに目を丸くして感心したように呟いた。

 

「……これは驚きましたねえ。まさか、私の闘気を纏わせた鉄の棒を真っ二つに叩き斬り、ここまで深く刃を入れられるとは。……ルーク君、君のその新技、なかなかに恐ろしいものですねえ」

 

 シャンドルさんは、肩から流れ落ちる血を気にする風もなく、ただただ嬉しそうに、降参だと言わんばかりに両手を上げて微笑んだ。

 

 俺は、自分の放った一撃の凄まじさと、目の前で血を流すシャンドルさんの姿に、手にした剣を握ったまま、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。地獄の果てに、俺はついに、世界の天井の一角から、最高の一本をもぎ取ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は慌てて刃を引き抜き、血の気が引いた顔で叫んだ。一発ぶん殴って泣かせてやるつもりだったのに、これでは本気で殺しかけている。

 

「シャ、シャンドルさん……っ! すいません、俺、止めるのが間に合わなくて……っ! 治療魔術師を探さないと! 早く圧迫止血しないと死んじゃいますよ、これ!!」

 

 パニックに陥り、自分の服の袖を千切って傷口に押し当てようとする俺の目の前で、シャンドルさんは「ハッハッハッ!」と、渓谷の冷たい強風を吹き飛ばすような、実にあっけらかんとした大笑いを響かせた。

 

「……え?」

 

 俺は動きをピタリと止め、呆気にとられておじさんの顔を見つめた。

 

 右肩から信じられない量の鮮血をドクドクと流しているというのに、この男の笑顔には、痛がる素振りも、死への恐怖も、微塵も存在していなかった。

 

「いやあ、そんなに慌てなくて大丈夫ですよ、ルーク君。これくらいの傷、放っておいても時間が経てば勝手に治りますからねえ」

 

「はあ!? 何言ってんだよ! 骨までガッツリいってんだぞ! 放っておいたら数分で失血死だろ!」

 

「普通の人間ならそうでしょうね。ですが、お話ししたことをもう忘れてしまったのですか?」

 

 シャンドルさんは悪びれる風もなく、自分の真っ二つに裂けた右肩を指差した。

 

 見れば、彼の開いた傷口の奥から、チリチリとした奇妙な魔力の輝きが立ち上り、切断されたはずの筋肉や血管が、生き物のように猛烈な速度で蠢きながら再結合を始めていた。溢れ出ていた血がピタリと止まり、割れた骨が吸い寄せられるように噛み合っていく。

 

「言ったでしょう、私の母は不死魔王アトーフェラトーフェですよ? 私はその血を引く不死魔族のハーフなのですから、この程度の切り傷、美味い猪肉のスープを一杯飲む間には傷痕一つ残さずに元通りですよ。むしろ、この圧倒的な再生能力に甘えてフェイントを忘れてしまったのが、我が母不の悪い癖なのですがねえ。私にもしっかりその血が流れているようだ」

 

 シャンドルさんは何事もなかったかのように右腕をグルグルと回し、肩をすくめてみせた。

 

「……おい!!」

 

 俺は手に持った剣を地面に突き立て、全力のツッコミを森の中に響かせた。

 

「その話を聞いた時は、てっきり比喩表現か、神話の誇張か何かだと思ってたんだよ、マジで魔王の息子だったのかよ! というか、そんなバケモノじみた肉体を持ってて、なんでオルステッドの光の太刀一発で壁に埋まって動けなくなってたんだよ!」

 

「あの一撃は、肉体を消滅させる威力が乗っていますからねえ。あれを食らって一日で動けただけでも、我が母の血筋に感謝しなければいけませんよ」

 

 シャンドルさんは半分になった鉄の棒を拾い上げると、何でもないことのように笑って俺の頭を撫で回した。

 

「さあ、約束通り認めましょう。ルーク君、君は今日、この私から完璧な一本をもぎ取った。明日からはお遊びの基礎訓練は終わりです。君に、我が不治瑕北神流の、本当の地獄を授けてあげましょう!」

 

 切られた肩からまだほんのりと湯気を立てながら、人が悪そうに、しかし誰よりも誇らしげにニヤリと笑う伝説の北神。

 

 俺は頬の火傷の痕をガリガリと掻きながら、この怪獣並みの師匠の元で、これから始まる本当の『不治瑕』の修行に、今度こそ本気で殺されるかもしれないと、深い溜息を漏らすのだった。

 

 






ちなみにヒトガミは会話の内容とかルークの心のうちも読めていると解釈しているのですが、合ってますかね?

というか凄い小説が伸びててびっくりしてます。嬉しいです。
ありがとうございます!!

追記
よろしければ皆さん北神流の技私に教えてください。
見返したり調べてる限りあんまりないです、泣きそう、、



  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。