迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
我慢できませんでした。こんな事をするつもりはなかったんです。
後悔はしていません。ちなみに今回の話を通してルークはまだ12歳です。もう少しで13歳といったイメージです。
追記
オリジナル要素多めです。書き忘れてました。
名もなき森のなかで泥水をすすり、己の限界を塗り替え続けたあの地獄のような基礎教練を耐え抜き、俺がシャンドルさんから最初の一本をもぎ取った翌朝。森の空気は、新たな段階の始まりを告げるように、一段と冷え込んでいた。
「さて、ルーク君。約束通り、今日からは君に我が
シャンドルさんはいつも通りのにこやかな笑みを浮かべながら、焚き火の前に立っていた。昨日の今日だというのに、彼の右肩の傷は本当に傷痕一つ残さず完璧に消え去っていた。不死魔族のハーフの再生能力は、いつ見てもバケモノじみている。
「と言ってもね、ルーク君。この不治瑕北神流の技という技は、実は奥義しかありません」
「……一つだけってことですか?」
俺は思わず眉をひそめた。三大流派のように、多彩な型や応用技がいくつも連なっているものだと思った。
シャンドルさんは自嘲気味に笑うと、背後に立てかけてあった、俺の愛剣へと視線を落とした。
「見本を見せたいのですが、私の愛用の鉄の棒は昨日、君に綺麗に両断されてしまいましたからねえ。……ルーク君、君のその剣を少しばかり借りても良いですか? 君に、その唯一の奥義をお見せしましょう」
「え? ああ、いいですよ」
俺は腰から、新しく手に入れていた愛剣を引き抜いてシャンドルさんへと手渡した。
転移災害の際に守護者を死に物狂いで倒した時に、手に入れた漆黒の剣だ。前世の記憶にある、シンドリアの剣士──シャルルカンが使っていた、刃にいくつもの節が刻まれたあの独特な剣の見た目とほぼ瓜二つの構造をしていた。もちろん、前世の漫画のような眷属器などではない、ただの頑強な鉄の剣に過ぎないが、俺にとっては最高に馴染む相棒だった。
「ほう、なかなかに奇妙で、しかし恐ろしくバランスの良い名剣ですねえ」
シャンドルさんは流閃剣の柄を、ゆっくりと大上段へと構えた。
その瞬間、森の木々が一斉に恐怖したようにサワサワと音を立てて震え始めた。おじさんの全身から、世界を真っ二つに叩き割るかのような、文字通り次元の違う濃密な闘気の奔流が吹き荒れる。
「右手に剣を」
シャンドルさんの右手に持った剣が持ち上がり、先が天を向く。
「左手に剣を」
シャンドルさんの左手が、剣柄を持つ。
両手持ち。今まで軽々と片手で扱っていたあの重い大剣を、両手で持った。それが、彼の本当の戦闘スタイル。
「両の腕で
静かに、しかし絶対的な死の宣告のような口上が、森の奥底へと重々しく響き渡る。
「我が名は不治瑕北神流アレックス・カールマン・ライバック」
大上段に構えられた流閃剣が、真っ直ぐに振り下ろされた。
「──奥義、『破断』!!!」
激しい爆音と閃光が炸裂したかのような衝撃波が走り、俺たちの正面にあった直径数メートルはある巨木が、そしてその背後に広がる森の空間ごと、文字通り一撃のもとに真っ二つに叩き割られ、消し炭のように霧散していった。
圧倒的な、純粋なる一撃粉砕の矛。
俺が呆気にとられていると、シャンドルさんはフッと息を漏らし、流閃剣の柄を俺へと返してきた。
「さあ、やってみなさい、ルーク君」
「……あ、ああ。分かりました」
俺は流閃剣を握り直し、シャンドルさんと同じように両手で大上段へと構え、体内の闘気を引き絞って同じように振り下ろしてみた。
だが、ただの鋭い袈裟斬りになるだけで、シャンドルさんの見せたような空間ごと消し飛ばす圧倒的な質量破壊には、構成する闘気が途中で綺麗に霧散してしまい、到底、爪の先ほども届かなかった。
「……全然できない。闘気がうまく刃に乗りません」
「ははは! そんな簡単に出来るものではありませんよ、ルーク君。もし十二歳の子供が一発でこれを真似できたら、私の立場がなくなって本気で凹んでしまいますからねえ」
シャンドルさんは調子良く笑っていたが、俺は本気で悔しかった。オルステッドのあの超えられない壁を思い知ったからこそ、一刻も早く、あの絶対的な矛が欲しかったのだ。
その後も、俺は何度も、何度も口上を呟きながら『破断』を繰り返したが、一向に成功する気配はなかった。不治瑕の純粋な質量破壊は、俺の持つ闘気とは、どこか根本的な波長が合っていないような、そんなもどかしさがあった。
大汗をかいて木の根元に座り込む俺を見て、シャンドルさんは顎を撫でながら、ふと俺のこれまでの戦い方を思い起こすように細い目を輝かせた。
「ふむ……どうやら、初代北神の技をそのまま模倣するのは、ルーク君の性には合わないようですねえ。……ルーク君、ならば発想を変えましょう。君が前、私の鉄の棒を切り落とした時に見せた、あの『剣先へ闘気を極限まで圧縮し、陽炎のように空間を歪めるあの技術』。あれをベースにして、君だけの、君独自の北神流の技を二人で編み出していけば良いのではないですか?」
「俺だけの、技……?」
「ええ。君のその、闘気を一点に凝縮する操作法は、不治瑕の『破断』とはまた違うベクトルの、恐ろしい絶対的な切断力を持っています。そこに、君の得意な水神流のいなしや、あの防壁魔法を組み込んでいけば……それこそ、私をも超える面白い剣が完成するはずですよ」
そのシャンドルさんの言葉に、俺の胸の奥で、新たな可能性の火がパチパチと熱く灯った。
そうか、そのまま真似る必要はない。俺には、俺の肉体が掴んだあの感覚と、俺だけの盾があるんだ。
それからの日々は、不治瑕北神流の歴史をただなぞるだけの修行から、俺とシャンドルさんの二人で、「俺だけの独自の北神流の技」をひたすらに実験し、編み出していく、知的な修行の日々へと姿を変えていった。
シャンドルさんの言う通り、合理的なお堅い型を一度捨て、自分の『感覚』のすべてを世界へと拡張させていく。そのなかで俺が最もこだわり、そして一番最初に形にしようとしたのが、無駄に人を殺めないための精密剣だった。
この世界で、いつかパウロさんたち家族や、ずっと探しているシルフィと再会した時、血の海の中に立つような男でありたくはなかった。前世の日本のぬるま湯の記憶、平和な二十一年間の倫理観が、理由のない殺生を頑なに拒んでいたのだ。できる限り相手の命を奪わず、しかし完璧に無力化するための剣がどうしても欲しかった。
「無駄な殺生を避ける、ですか。それは実に素晴らしい心意気ですがね、ルーク君。五感を研ぎ澄ませた達人同士の戦いにおいて、手加減という色気はそのまま自身の死に直結しますよ。生かすための刃というのは、殺すための刃よりも何倍も精密で、冷徹でなければならない」
シャンドルさんのその言葉を起点に、俺たちは地獄のような実戦形式の実験を繰り返した。
狙うのは相手の『武器』『手首』『肘』『膝』の四箇所。
俺が
「甘い! 相手を思いやる優しさと、実戦での迷いは別物です。生かすと決めたなら、その四箇所を『機能停止させる』ことだけに全神経を研ぎ澄ましなさい!」
泥まみれになり、骨がきしむ痛みに耐えながら、俺は何度も流閃剣を構え直した。
目で見てから狙うのではない。相手の肉体が放つ僅かな『敵意の線』の先にある四つの点を、感覚だけで捉え、闘気圧縮の最小最速の軌道で一気に断ち切る。
何千回、何万回と木刀を交わし、手首の返しと踏み込みの角度をミリ単位で修正し続けたある日の午後。
シャンドルさんの鋭い突きを、俺は『水鏡の盾』の平面で外側へと受け流すと同時に、肉眼では捉えられないほどの速度で剣を閃かせた。
一瞬の交錯。
シャンドルさんの手から木刀が鮮やかに弾き飛び、同時におじさんの両肘、両膝の衣服の繊維だけが、皮膚を一切傷つけることなく綺麗に切り裂かれていた。
「おやおや素晴らしい! 旅の途中で無駄に人を殺めたくはないという、君の優しい背景から生まれたこの精密な四連撃。我が北神流の四つの不斬──『
シャンドルさんは衣服の袖を見つめながら、本気で感心したようにニヤニヤと楽しそうに名前を授けてくれた。
『四不斬』に続く、俺たちだけの独自の技術構築。その実験は、冬の気配が濃くなる森のなかで、来る日も来る日も続けられた。
シャンドルさんの言う通り、合理を捨て、自分の『感覚』のすべてを世界へと拡張させていく。そのなかで次に俺が課題としたのは、オルステッド戦で完全に死に体となった『防壁魔法の弱点の克服』と、シャンドルさんの『十のフェイントの再現』だった。
まずは、防御の概念そのものを引っ繰り返す試みから始まった。
「ルーク君、君の
シャンドルさんの指摘は的確だった。
ボルグは強力だが、衝撃を逃がすという概念がない。だからこそ、俺は自分の最大の得意分野である『水神流のいなし』を、魔術そのものへと融合させられないかと考えた。
イメージは、前世の物理法則や、バガボンドの武蔵が滝の激流を受け流したあの脱力の感覚だ。
シャンドルさんが手にした木刀の打突を、俺はあえて
激突の瞬間、金属の擦れ合う高い音すらなく、シャンドルさんの放った痛烈な一振りが、ボルグの桃色の表面をツルリと滑り、外側へと強引に受け流されていく。
「おやおや……! 魔力で衝撃を耐えるのではなく、障壁そのものに水神流の平の傾きを持たせて、威力を完全に外へと逃がしましたか! これなら魔力消費は通常の数分の一で済みますね。……素晴らしい! このボルグと水神流の融合絶技、私が『
シャンドルさんは目を丸くして大喜びし、何度もその盾の耐久力を確かめるように木刀を打ち込んできた。
そしてもう一つ。シャンドルさんのあの変幻自在のフェイントに対抗するために、俺が前世の記憶を総動員して編み出したのが、足捌きの技術だった。
「シャンドルさんの十のフェイントは、筋肉の動きや視線でこちらの予測を騙す心理戦です。だったら俺は、予測ではなく、相手の『本能』そのものを騙して死角へ潜り込みたい」
俺が着目したのは、皮膚の表面に常に循環させている、この引き締まった闘気だった。
一歩を踏み込むその一刹那。俺はあえて自分の身体の闘気を、その場に一瞬だけ『残像』として強烈に置き去りにする。そして、肉体そのものは闘気を完全に消し去って脱力し、別の死角へと滑り込むようにステップを踏むのだ。
最初、俺の足の位置や踏み込みのバランスが甘く、闘気の残像がすぐに霧散してしまい、シャンドルさんには一瞬で見破られて何度も横面を引っ叩かれた。
「遅いですよ、ルーク君! 残像に君の『そこへ踏み込むという本気の殺意』が残っていません。本能を騙すなら、影にも魂を込めなさい!」
泥まみれになりながら、何度も、何度も足の親指の付け根に力を込め、闘気の離脱と肉体の脱力のタイミングをミリ単位で調整していく。
そして一ヶ月に及ぶ泥臭い反復の果て。俺が踏み込んだ瞬間、シャンドルさんの木刀が、俺のいたはずの空間へと完璧に吸い込まれて空を切った。おじさんは確かに、俺の闘気の残像を本物だと誤認して剣を振るったのだ。
その隙に、俺は完全に気配を消してシャンドルさんの真横へと回り込み、木刀をピタリとその首元へと突きつけた。
「……捕まえた」
「いやあ……参りましたね。一瞬、本当に君がそこに留まっていると私の本能が錯覚してしまいました。……まるで、相手の影を地面に縫い付け、動きを完全に縛り付けるかのような恐ろしい足捌きだ。よし、この技は『影縫い』と呼びましょう!」
シャンドルさんは切られたわけでもないのに、嬉しそうに首を縮めて、降参だと言わんばかりに両手を上げて微笑んだ。
ルークが死に物狂いで新しい理論を形にし、伝説の北神がそれに最高の名前を授けていく。そうやって、俺は数々の技を編み出していった。
☆☆☆
これまでの泥臭く、しかし確かな信頼を積み重ねてきた地獄の修行から二年半が過ぎた。
俺とアレックス・カールマン・ライバック──シャンドルさんとの間で、誰も立ち入れない強固な師弟関係が形作られていた頃、この名もなき森の奥にある異変が起き始めていた。
「ルーク君、ちょうど良い試験の相手が見つかりましたよ」
ある日の夕暮れ時、いつものように猪肉のスープを分け合っていた焚き火の前で、シャンドルさんが細い目を悪戯っぽく細めて、そう切り出してきた。
「試験……? まだ一本取ったばかりですよ?」
「ははは、何を言うのです。最近、この森のさらに奥地に、見たこともない漆黒の巨大な竜が住み着いたという話が、ドナーティ領の冒険者たちの間でとてつもない噂になっているのですよ。平和なアスラ王国の周辺では有り得ないほどの凶暴な魔物でね、すでに何人もの凄腕の調査隊が噛み砕かれ、周辺の街の人々は怯えきっているそうです」
シャンドルさんは立ち上がり、鉄の棒を失った手で、遠くに見える赤竜の上顎の麓の暗い森の陰を指差した。
「『はぐれ黒竜』。黒竜は普通なら王竜王国近くに生息していますが、たまに今の個体のように生息地を離れ暴れ回ることがあります。通常の赤竜を一回りは上回る巨躯と、魔術すら霧散させる漆黒の外殻を持つ、危険度A級上位の生ける理不尽です。……いざという時は、私がいくらでも手助けに入りますが、基本的には私はただの傍観者として、君の戦いを見ているだけにします。ルーク君、君が私との修行のなかで得たその力で、あの黒竜を倒し、恐れている人々を救ってあげなさい。今まで畏れの目で見ていた人々を、見返してやりなさい」
人々を救う、という言葉。そして、理不尽に誰も死なせないための力。
シャンドルさんは、俺がこの修行に入った本当の動機を、すべて分かった上でその言葉を選んでいた。前世の日本のぬるま湯の記憶を抱えたまま、この過酷な異世界で大切な人たちを守り抜くと誓った、俺の魂の芯を試しているのだ。
「……人を乗せるのが本当に上手いですね。そこまで言われて、いいえなんて言える人はいませんよ」
俺は流閃剣の柄を両手で強く握りしめ、不敵に笑って見せた。
恐怖は、もう爪の先ほどもなかった。一年前、世界の天井であるあの銀髪の龍神オルステッドと対峙した時の、脳髄を掻きむしられるような本物の死の絶望に比べれば、目の前の巨獣の放つ圧迫感など、ただの獰猛な野獣の域を出ない。
──そして翌日、俺たちは森の最深部、黒く枯れ果てた大樹の広がる一角で、その生ける理不尽と真っ向から対峙していた。
黒竜が、その漆黒の巨躯に見合わぬ神速の踏み込みで地を蹴った。
大気を切り裂き、すべてを圧殺せんばかりに振り下ろされる巨大な爪撃。俺は一歩も退かず、身体の力を完全に抜いて世界と同化すると、手にした流閃剣を寝かせ、その平面(平の部分)を爪の軌道へと正確に滑り込ませた。
──これくらいなら、水鏡の盾を使うまでもない。
激突の瞬間、金属の擦れ合う高い音すらなく、黒竜の放った絶対的な破壊エネルギーは、流閃剣の平の上をツルリと滑り、外側へと強引に弾き返された。
自分の渾身の一撃を完璧にいなされ、黒竜の巨体が僅かにブレる。
だが、魔物もさるもの、すぐに巨躯を反転させると、鞭のようにしなる長い尾を遠心力を乗せて叩きつけてきた。まともに喰らえば肉ごと骨を粉砕される。俺は一歩を踏み出す一刹那、自分の肉体の闘気をその場に強烈な『残像』として置き去りにした。肉体そのものは闘気を完全に消し去って脱力し、別の死角へと滑り込む。
──『影縫い』
黒竜の尾の凶悪な一振りが、俺の闘気の残像を本物だと誤認して完璧に空を切った。
相次ぐ攻撃の不発、そして自分の放ったフェイントにまんまと釣られて空振りをさせられたことに、黒竜は激しい苛立ちを見せた。怒り狂った咆哮を上げ、今度は地を走るような低姿勢から、凄まじい尾のなぎ払いと連動した噛みつきを同時に繰り出してくる。
その嵐のような連撃を前に、俺は流閃剣の刃を振るい、次々と切り結んだ。
激しく鉄と鱗がぶつかり合い、硬質の火花が周囲の暗闇を断続的に照らし出す。黒竜の圧倒的なパワーが剣を通じて両腕に伝わってくるが、驚くほどに俺の身体は冷静だった。
──……軽い。いや、俺が相手の動きを、正確に捉えられているんだ。
前なら、この巨躯の突進だけで目が眩み、防壁魔法をがむしゃらに張る以外に何もできなかったはずだ。だが今の俺は、黒竜が次にどの筋肉を動かし、どの角度から牙を突き出してくるのかが、まるで線でも見えるかのように手に取るように分かった。シャンドルさんとの地獄の組み手で、全身に薄く纏わせることを覚えた闘気の膜が、黒竜の打撃の余波をことごとく吸収し、肉体のダメージを最小限に抑えている。
確実に、俺は強くなっている。シャンドルさんに叩きのめされ、泥水をすすり続けたこの二年半は、決して無駄ではなかった。
剣で切り合うなかで完全に主導権を握られたことを察したのか、黒竜は大きく翼を羽ばたかせ、強引に後ろへと跳躍して間合いを取った。
距離を離した黒竜が、その巨大な顎をぐっと引き絞る。
次の瞬間、その喉の奥から、禍々しい赤黒い輝きが漏れ出してきた。口元に、大気中の魔力を吸い上げるようにして、凶悪な熱量の炎を急速に溜め始めたのだ。通常の赤竜の比ではない、浴びれば一瞬で肉体ごと蒸発させられるであろう、A級上位種ならではの破壊の息吹──黒炎のブレス。
超高温の熱線が、森の木々を焼き尽くしながら一直線に俺へと放たれた。
だが、俺はその場から一歩も動かなかった。俺は流閃剣の平の平面を真っ直ぐに突き出し、魔力障壁の表面を滑らかな球体の傾きへと変形させるイメージを極限まで練り上げた。
──『水鏡の盾』
直撃の瞬間、凄まじい爆風と熱量が大気を白く染めた。しかし、黒竜の放った絶対的な熱線のエネルギーは、ボルグの桃色の表面をツルリと滑り、俺の身体の左右へと強引に受け流されていく。俺の背後の森が爆発を伴って赤赤と燃え盛るなか、盾の中心に立つ俺の肉体には、煤一つすらも届いていなかった。
最強のブレスすらも完璧に受け流された。
その事実を前に、黒竜はついに完全に理性を失い、絶望的な自暴自棄の狂乱に陥った。
ブレスも通用しない。自慢の爪も、翼も、尾のなぎ払いも、何一つとしてこの目の前の小さな人間に通用しない。魔物は怒り狂った最後の悪あがきとして、その巨大な顎をこれでもかと大きく引き裂き、俺の肉体を骨ごと噛み砕き、食い殺そうと、物凄いスピードで真正面から突撃してきた。迫りくる赤黒い口内が、視界のすべてを覆い尽くしていく。
動く必要も、避ける必要も、もうどこにもなかった。
俺は流閃剣の柄を両手で強く握りしめ、ただ静かに、大上段へと掲げた。
「右手に剣を。左手に剣を」
シャンドルさんから教わった、不治瑕の魂のスイッチ。
まだ俺は、空間ごとすべてを叩き割る本物の奥義『破断』を使うことはできない。だけど、この地獄のなかで、俺が前世の記憶を頼りに磨き上げてきた、俺だけの絶対の矛がそこにはあった。
体内の魔力を、肉体の表面からすべて引き抜く。そして、そのエネルギーのすべてを、流閃剣の刃先、わずか数ミリの空間にだけ、狂気的な密度で圧縮して押し込んだ。
直後、刃の周囲の大気が、激しく、メラメラと陽炎のように歪み始める。光を放つのではない。ラプラス因子の暴発による光ではなく、極限の集中状態が生み出した闘気の質量そのものが、空間の密度を熱波のようにバグらせているのだ。
つい先日思い付いたのだが、初めて名付けた技がどこか小っ恥ずかしくて、シャンドルさんにも黙っていた。お披露目だ、ビックリさせてやろう。
狂乱の突撃で、黒竜の鋭い牙が俺の鼻先に届くかという、まさにその一刹那。
俺は、俺を愛してくれた本当の家族の家名を、喉の奥から誇り高く叫びながら、陽炎の刃を真っ直ぐに振り下ろした。
「我が名は北神流──ルーク・グレイラット。……『
──金属のぶつかり合う音も、肉を裂く鈍い音すらそこにはなかった。
極限まで剣先に圧縮された陽炎の刃は、黒竜の口内から、どんな上級魔術すら通さないはずの漆黒の超頑強な外殻にいたるまで、何の抵抗もなく、滑らかに、垂直に、その巨体を真っ正面から縦一文字に真っ二つに叩き斬ったのだ。
左右に綺麗に泣き別れた黒竜の巨躯が、ドサリ、ドサリと激しい地響きを立てて泥の上に倒れ伏す。
静まり返った森のなかに、黒い血の海が広がっていった。
木の上から軽快に飛び降りてきたシャンドルさんが、本気で細い目を丸くしてパチパチと拍手を送ってくれた。
「いやあ、素晴らしい! 『破断』の模倣ではなく、君の閃いた陽炎の切断力を極限まで高めて、A級の上位種を縦真っ二つですか。ルーク君、君はもう、どこに出しても恥ずかしくない、私の自慢の弟子ですよ!」
シャンドルさんはそう言って、心底から誇らしげに俺の肩を叩いた。
俺は激しい集中から解き放たれ、流閃剣を鞘へと納めながら、自分の右掌を見つめた。
まだ、オルステッドや師匠のような、世界を滅ぼす本物の『破断』には届かない。だけど、この『陽炎』の刃があれば、俺はもう、ただ守られるだけの子供ではないのだと、確かな手応えが拳のなかに残っていた。
その後、俺たちは黒竜の死体から極上の漆黒の皮を二人で丁寧に剥ぎ取ると、ドナーティ領の城塞都市へと足を運んだ──。
黒竜を討伐した翌日、俺とシャンドルさんはその死体から剥ぎ取った極上の漆黒の皮や魔石を大袋に詰め込み、ドナーティ領の国境付近にある城塞都市へと足を運んだ。
目的は素材の売却と、これからの極寒の雪山に備えた防寒具の調達。ただそれだけのはずだった。
だが、冒険者ギルドの重厚な扉を押し開けた瞬間、室内の喧騒が、まるで水を打ったかのように一瞬で静まり返った。
「おい、まさか……あの大袋、あの禍々しい魔力の残滓は……」
「嘘だろ、本当にあの『はぐれ黒竜』を仕留めてきやがったのか……!?」
ギレーヌほどではないにしろ、俺の身長ほどもある大袋を軽々と担ぎ、カウンターへと無造作に下ろす。受付の職員が悲鳴のような声を上げて奥の査定室へと走り、数十分後に出てきた時には、ギルド中の冒険者たちが俺たちを包囲するように集まってきていた。
査定の結果、素材の取り分はアスラ金貨五十枚という、子供にとっては文字通りの莫大な大金になった。だが、周囲の連中が驚愕していたのは、その金額ではなく、討伐した『張本人』の姿だった。
「おいボウズ! 本当にお前が、あの調査隊を何隊も噛み砕いた黒竜を一人でやったのか!?」
「その緑色の髪……まさか、噂に聞くスペルド族の……いや、それにしては小さすぎる。少年、お前は一体何者なんだ!?」
次々と押し寄せる、筋骨隆々の荒くれ者たちからの視線と怒涛の質問攻め。
前世はただのしがない日本の大学生であり、今世でもパウロさんの家で引きこもるように修行していただけの俺にとって、このような大衆からの熱狂的な注目は完全にキャパシティを超えていた。
「え、あ、いや……。俺一人っていうか、その、まぁまちがってないんですけど……。あ、髪は生まれつき緑色なだけで、ただの人間です。悪魔の仲間とかじゃないです、はい……」
──しまった。王竜王国にいた時はもっとトゲトゲしかっただろうし、こういう風に接してくれる人達に久しぶりに接したから、変なテンションになってるな。
俺は手に汗をかきながら、引き攣った笑みを浮かべて不器用に受け答えをするしかなかった。
剣を握ればA級上位の魔物を真っ二つにするくせに、大人たちに囲まれると途端に十歳そこそこの子供らしい内弁慶な態度に戻ってしまう。そんな俺の情けない様子を、少し離れた壁に背を預けて眺めていたシャンドルさんは、「ククク……」と喉を鳴らして、実におかしそうに笑っていた。
「いやあ、ルーク君。戦場ではあんなに堂々と不治瑕の構えを見せていたというのに、街の人々に感謝されると途端に借りてきた猫のようになってしまいますねえ。実に見応えのある、微笑ましい光景です」
「笑ってないで助けてくださいよ、師匠! 俺、こういうの本当に苦手なんですって!」
「いいえ、これも修行の一環ですよ。英雄たるもの、民衆の歓声にどう応えるかも大切な教養ですからねえ。ほらほら、次の方がサインを求めて並んでいますよ?」
シャンドルさんは手助けするどころか、さらに冒険者たちを煽るようにしてニコニコと上品な笑みを深めている。
──シャンドルさんめ……マジでいつか一発殴る……!
心の中で何度目か分からない呪詛を吐きながらも、俺は差し出された粗末な羊皮紙に、不器用な文字で『ルーク』と書き込んでいくのだった。
だが、怯えていた街の人々が、俺の拙い言葉を聞いて本当にホッとしたように涙を流し、何度も頭を下げて感謝してくれるのを見たとき。
胸の奥に、言葉にできないほどの確かな充足感が、じんわりと広がっていくのを感じていた。
──その後、シャンドルさんがその金貨をすべて使い、都市の一流の仕立て屋に頼んで、お揃いの黒いフード付きのロングコートを作らせたのは、その日の夕方のことだった。
俺はその金を使って、これから挑む極寒の雪山に備えて、剥ぎ取った黒竜の皮を使った特製の防寒具を作ってもらおうと、都市の一流の仕立て屋へと向かった。
数日後、仕立て屋から完成の連絡を受けて、俺は出来上がった防寒具を受け取りに店へと赴いた。
カウンターに用意されていたのは──不気味なほど深い光沢を放つ、二人分のお揃いの黒いフード付きのロングコートだった。
「あの、すみません。これ、俺が頼んだ分の代金を支払いたいんですけど……」
俺が懐から金貨を取り出そうとすると、店の主人は不思議そうな顔をして首を振った。
「おや、代金なら、そちらの連れのお方から既にすべて頂いておりますよ。かなり色をつけて支払ってくださいました」
「え……?」
俺が驚いて隣を振り返ると、自分用の大きな黒いコートを既に嬉しそうに羽織っていたシャンドルさんが、いつもの上品な笑みを浮かべて俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「シャンドルさん、なんで代金を勝手に払ってるんですか。流石にこれは悪いですよ、高価なものですし、それに……なんでデザインから何から、全部俺のと全く同じお揃いなんですか。男二人でこれは流石に恥ずかしいんですけど……」
俺が引き攣った顔で突っ込むと、シャンドルさんは黒のコートの裾を嬉しそうにはためかせながら、実にあっけらかんと笑った。
「良いじゃないですか、ルーク君! 師匠が弟子に何かをプレゼントして、一体どこが悪いと言うのですか? 私はねえ、昔からずっと憧れていたんですよ。こうして自分が師匠になって、手塩にかけて育てた自慢の弟子と、お揃いの黒いコートを着て過酷な雪山へ挑むという、この旅の絵面をねえ! さあ、それを着て、冬の修行に備えていきましょう!!」
シャンドルさんの少年のようにはしゃぐ姿に、俺は深い溜息を漏らしながらも、胸の奥がジワリと温かくなるのを感じていた。この人は、本気で俺を一人の男として、自分の弟子として信頼し、愛してくれているのだ。
俺は手渡された黒のフードを深く被り、腰の流閃剣を確かめて、最高の師匠と共に歩き出した。
☆☆☆
ドナーティ領の城塞都市で黒竜の素材を売り払い、防寒具となるお揃いの黒いコートを調達した俺たちは、いよいよ本来の目的地へと向かうため、重い腰を上げた。
目指すは中央大陸の北部、いわゆる北方大地だ。パウロさんの伝言によれば、ルーデウスはそちらに向かうように指示されている。ならば俺たちがそこを先回りして捜索しつつ、パウロさんのいるミリスへ生存報告の手紙を送るのが一番確実で、グレイラットの家族としての最も合理的な立ち回りだった。
だが、その北方大地へ至るには、世界を分かつ巨大な障壁──一年中猛烈な吹雪が吹き荒れる極寒の難所『赤竜の上顎』を通り抜ける必要があった。
「丁度いいですからねえ、ルーク君。あの過酷な一本道を歩きながら、より実戦に近い環境で修行も並行していきましょう」
御者台で手綱を握るシャンドルさんは、相変わらずニコニコとした上品な笑みを浮かべながら、そんな無茶な提案をしてきた。俺も今さらそのスパルタぶりに驚くこともなく、ただ腰の流閃剣の重みを確かめながら、その提案を了承した。
馬車を進め、白銀の境界線へと足を踏み入れてからも、俺たちの間で交わされる会話はどこか現実離れしたものばかりだった。
「シャンドルさん。もし歩いている途中に、あの凶暴な赤竜が群れで襲いかかってきたらどうします?」
「ははは、何を言っているのですかルーク君。君のその流閃剣と、私のこの新しい武器があれば、群れだろうが何だろうが不治瑕の格好の餌食ですよ」
「……群れは無理って前言ってたじゃないですか」
そう言ってシャンドルさんが自慢げに掲げたのは、ドナーティ領の城塞都市で黒竜の素材を売った金で新調したという、特製の剣と、相変わらず不格好な金の棒だった。
物語の中で使っていたのは確か王竜剣カジャクトという世界で最も強い魔剣だったはずだが、当然今は手元にない。だからこそ新調したのだろうが、気になるのはその剣の方だった。
「……なぁ、シャンドルさん。その新しく作った剣、君との修行の時だけ使いますよ、なんて言ってましたけど。本当は、久しぶりに棒じゃなくて、本物の剣を使いたかったんでしょ?」
俺が意地悪くニヤニヤしながら突っ込むと、シャンドルさんは一瞬だけピキリと動きを止め、それから慌てたように目を限界まで見開いた。
「そ、そんなわけないじゃないですか!? 私は剣以外の可能性を模索している最中ですよ? 剣なんて物騒なもの、本心から好むはずがないでしょう!」
「はいはい、分かりやすい人だなあ」
かつて世界を救った伝説の北神の、子供の言い訳のような慌てぶりに、俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
それから赤竜の上顎の極寒のなかで何泊か過ごしながら、俺たちはいつも通り、吹雪のなかで激しく剣を撃ち合い続けた。シャンドルさんが本気で振るう新しい剣と金の棒の重圧は凄まじかったが、俺の『水鏡の盾』と『影縫い』、そして剣先に陽炎を宿す『陽炎』の精度は、その地獄のような組み手のなかで日に日に鋭さを増していった。
しかし、一週間程度が経過しても、奇妙なことに赤竜が群れでこちらに襲いかかってくることは一度もなかった。
上空を旋回する赤竜の影は確かに見える。だが、彼らは俺たちの馬車の気配を感じると、あからさまに距離を取って遠くの空へと避けていくのだ。
夢の中でニヤニヤと笑っていたマルチ商法野郎──ヒトガミの裏の介入なのか。あるいは、俺たちが赤竜に対して一切の無駄な敵意を向けず、世界と同化して歩いているからなのか。はたまた、麓で生態系を乱していたはぐれ黒竜を俺が縦真っ二つにしたから、その匂いを恐れているのか。何が原因なのかは分からなかったが、不気味なほどの静寂だけが一本道を支配していた。
「うーむ。いい具合に赤竜が襲いかかってきてくれませんねえ。これじゃあ、わざわざ修行としてこの難所に来た意味がありませんよ、ルーク君」
半分に折れた木の枝で焚き火をいじりながら、シャンドルさんが心底つまらなさそうに溜息を漏らす。
「しょうがないですよ。赤竜が戦ってくれないなら、もうこのまま真っ直ぐ北方大地へ向かいます?」
「仕方がないですねえ。そうしましょうか」
シャンドルさんも諦めたように肩をすくめ、俺たちは再び北の方向へと足を進めることにした。
それからしばらく吹雪のなかを歩き続けていた、その時だった。
視界を白く染める霧の先、絶壁の一本道の途中に、一台の旅の馬車が停まっているのが見えた。
その傍らには、二人の付き人のような人物が立っている。一見すると冒険者のような出で立ちをしてはいるが、その張り詰めた空気や無駄のない佇まいは、明らかに一般の荒くれ者とは違う、どこか宮廷の洗練された気配を纏っていた。そして馬車の中には、怯えるように息を潜めている、高貴な人間の気配が確かに存在していた。
その馬車が、今、薄汚い衣服に身を包んだ集団に猛烈な勢いで襲撃されていた。
二人の付き人は馬車の傍らを死守して動けないようだったが、その前に一人の魔術師が飛び出し、死に物狂いで応戦していた。
見る限り、その魔術師の腕は尋常ではなく立つ。杖を振るうその動作には、魔術の呪文を紡ぐような詠唱の気配が一切ない。完全に無詠唱で、襲いかかる刺客たちへ向けて鋭い魔術を連射している。白髪の魔術師。
だが、相手の数は十人程度。短いナイフや毒の塗られた剣を用い、連撃の隙を突いて魔術師を包囲しようとじりじりと間合いを詰めていた。
「ルーク君、気づいていますね?」
シャンドルさんの細い目の奥に、いつもの上品な笑みが消え、冷徹な剣士の光が灯る。
「ええ。シャンドルさん、どうします?」
「君はどうするんです?」
師匠が、試すように俺に問いかけてくる。俺は流閃剣の柄に右手をかけ、黒のコートの裾を吹雪に揺らしながら、迷わず言い放った。
「助けるに決まってるでしょ。不治瑕北神流として、目の前で理不尽に困っている人を見過ごせるわけがない。……それに、俺の不殺の剣を試す、最高の実験相手だ」
その言葉を聞いた瞬間、シャンドルさんは破顔し、これ以上ないほどに嬉しそうに顔を歪めた。
「よくぞ言いました! それでこそ私の自慢の弟子です!!」
あまりのハイテンションぶりに俺は苦笑しつつも、即座に作戦を組み立てる。
「俺が馬車の周りと、あの魔術師の防衛を担当します。シャンドルさんは、周囲の露払いをお願いします」
「任されました。行ってきなさい、ルーク君!」
シャンドルさんが凄まじい速度で地を蹴り、吹雪のなかへと消えていくのと同時に、俺も念の為フードを被り、黒のコートを爆発的にはためかせて戦場へと突入した。
一人の刺客が、馬車を守る付き人の一人へと、完全に死角となる岩陰から毒刃を突き立てようとするのを見逃さなかった。俺は『影縫い』の足捌きでその刺客の視覚の裏へと一瞬で回り込むと、流閃剣の峰を振るった。
──『四不斬』
相手が気づいた時には、その手首と膝の運動筋が完璧に強打され、刺客は悲鳴を上げる暇すらなく武器を取り落としてその場に頽れた。背後の安全を最低限確認した俺は、そのまま中央の白髪の魔術師へと視線を移す。
その魔術師へ向けて、同時に三人の刺客が刃を構えて肉薄していた。
俺は神速の踏み込みでその間に割り込み、流閃剣を電光石火の速度で閃かせた。生かすための冷徹な刃。襲いかかってきた三人のうち、手前の二人の手首と肘を正確に峰で叩き落とし、完全に戦闘不能にして地面へと転がす。
残る最後の一人が、驚愕に目を見開きながらも魔術師へと刃を突き出しようとした、その瞬間だった。
俺の背後にいた白髪の魔術師が、鋭い動作で手を突き出し、至近距離から強烈な風魔術を放った。
無詠唱の真空の衝撃波。まともに弾き飛ばされた最後の一人の刺客は、凄まじい勢いで一本道の外側へと吹き飛び、そのまま遥か深淵の谷底へと真っ逆さまに落ちていった。
同時に、その放たれた風魔術の凄まじい風の残滓が、シルフィを逃がすために自ら手を離してしまった、あの転移災害の日の突風のように、俺の周囲の大気を激しく巻き上げた。
大きな音がして、俺が深く被っていた黒竜の素材のコートのフードが、強風によって後ろへと完全にめくれ上がってしまう。
だが、戦闘の最中だった俺は、自分のフードが取れてしまったことに全く気が付いていなかった。
俺はすぐに流閃剣を構え直し、シャンドルさんの方の戦況を確認した。
そこには、当たり前のような顔をして、残る六人の刺客全員を瞬く間に叩きのめし、衣服を掴んで次々と一本道の外側──あの底の知れない谷底へとゴミのように投げ落としている師匠の姿があった。
あの人は普段ニコニコしているけれど、敵と認識した相手に対しては、恐ろしいほどに冷徹で容赦のない部分がある。
「お疲れ様です、シャンドルさん」
俺が剣の警戒を解きながら声をかけると、シャンドルさんは新しい棒を肩へと納め 置きながら、「いえいえ、これくらい造作もないことですよ」と、いつもの調子の良いの顔に戻って微笑んだ。
だが、シャンドルさんは俺の顔を見た瞬間、おや、と目を丸くした。
「……あ、ルーク君。フード、取れてますよ」
「え? しまった……」
ラプラス因子の特徴であるこの鮮烈な緑色の髪を、こんなで晒してしまい、怖がられるのは悪手だ。俺は慌てて、黒のコートのフードを再び深く被り直しようと、左手を伸ばした。
──その時だった。
俺のすぐ左側から、震えるような、かすかな声が聞こえてきた。
「……ル、ルーク……?」
心臓が、世界が止まるほどの凄まじい衝撃を伴って跳ね上がった。
馴染みのある声。どこかで聞いたことがある声。
聞いたことがあるなんて、そんな生ぬるい表現じゃ到底足りない。五歳から十歳までの五年間、あのブエナ村の日々のなかで、毎日のように、すぐ隣で聞いていた、あの愛しい少女の声だ。
俺は伸ばしかけていた手を止め、ゆっくりと、恐る恐るその方向へと振り返った。
そこには、あの日、転移災害の光の中で俺が守れなかった、手を離してしまった女の子が、呆然と立ち尽くしていた。
顔を覆う大きめのサングラス。
あの頃の綺麗な緑色の髪ではなく、何らかの理由で真っ白に変わってしまっているが、少し癖のある、見覚えのあるショートヘア。そして、衣服の隙間から覗く、特徴的なハーフエルフの尖った耳。
その手に握られているのは、俺が誕生日に贈った、あの白銀の『翠狼の杖』だ。
「……シルフィ、なのか……?」
俺がその名前を口にした瞬間だった。
シルフィの顔にかかっていたサングラスが、ガタガタと震える彼女の手によって取り外され、地面の雪の上へと力なく落ちた。
露わになったその大きな瞳には、みるみると大粒の涙が溜まり、次の瞬間には、堰を切ったようにボロボロと溢れ出して彼女の白い頬を濡らしていった。
「ルーク……! 本当に、ルークなの……っ!? 死んじゃったかと、思った……っ、ボク、もう二度と会えないんじゃないかって……っ!!」
シルフィは白銀の杖をかなぐり捨てるようにして地面に放り出すと、猛烈な勢いで俺の胸へと飛び込んできた。
黒のコートの上から、彼女の細い身体の圧倒的な熱量と重みが、俺の胸の芯へと真っ直ぐに叩き込まれる。
「う、わっ……!」
シルフィは俺の黒いコートの繊維を、引きちぎらんばかりの凄まじい力で両手で強く握りしめ、俺の胸にその白い頭を押し付けながら、子供のように声を上げて大号泣し始めた。
二年半程の絶望、孤独、そして俺の手を離してしまったという、彼女もまた抱えていたであろう深い苦しみのすべてを吐き出すかのような、激しい涙の温もりが、俺のコートを通じて体の中まで染み込んでくる。
俺は、ただ呆然と、自分の胸の中で泣きじゃくるシルフィの身体を、その小さな背中をそっと両腕で抱きしめ返した。
髪の色は白く変わり、服装も男装の魔術師のようになっている。だけど、この腕の中に伝わってくる確かな温もりと、俺を呼ぶその必死な声は、間違いなく、あのシルフィだった。
お揃いの黒いコートをはためかせながら、俺の後ろでシャンドルさんが「いやあ、実に見事な再会ですねえ」と、目を優しく細めて静かに見守ってくれているのが分かった。俺はどこか居心地が悪くなり、火傷の痕をポリポリとかいた。
後悔はしてない。
シルフィ杖かなぐり捨てるなよ、