迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
「う、あ……っ、ルーク、ルーク……っ!」
胸の中で、シルフィは完全に理性を失ったように激しく泣きじゃくり続けていた。
黒竜のコートの繊維を白くなるほど強く握りしめるその両手は、まるで今ここで指を離してしまえば、目の前の奇跡が吹雪の中に溶けて消え去ってしまうと恐れているかのようだった。真っ白に変わってしまった彼女の髪が、俺の顎のあたりをくすぐり、体温を奪うはずの白銀の雪風のなかで、彼女の流す涙の生暖かい温もりだけが、コートの奥深くへと容徊するように染み込んでくる。
「よし、よし……大丈夫だ、シルフィ。俺はここにいる。ちゃんと生きてるから」
俺は流閃剣を左手に持ち替え、空いた右手で、彼女の少し癖のある白いショートヘアを優しく、何度も撫で回した。パウロさんの家で、いつもそうしていたように。
だが、あの子は「う、うん……っ」と細く短い呼吸を繰り返すだけで、俺の胸に額を押し付けたまま、一向に身体を離そうとはしなかった。
さすがにこの極寒の赤竜の上顎の一本道で、いつ次なる刺客の増援が来るかも分からない戦場のど真ん中だ。このまま泣き崩れる彼女を抱きしめ続けているわけにもいかない。どうしたものかと、俺が後ろのシャンドルさんに向けて困ったような視線を送った、まさにその時だった。
背後で、ギギ、と凍りついた馬車の扉が重々しく開く音が響いた。
周囲に倒れ伏す刺客たちの死体、そして一本道の外側へと吹き抜ける猛烈な雪煙の向こうから、一人の女性が静かに姿を現した。
白銀の世界のなかにあっても一際目を引く、燃えるような見事な金髪。防寒用の毛皮を羽織ってはいるが、その下に纏うドレスの気品、毅然とした圧倒的なオーラを感じる。
「初めまして。私はアスラ王国第二王女──アリエル・アネモイ・アスラ」
王族だと言われ、初めて目の前の人間から漏れ出るオーラに納得した。彼女が放つ、人を惹きつける天性のカリスマ性を前に、俺の肌がピリピリと微かな緊張感で粟立つ。
「……此度の窮地、お救いいただき、心より感謝いたします。見惚れるような見事な剣技でした。貴方がたのような剣士がこの難所に居合わせてくださらなければ、私は今頃、あの谷底の塵となっていたかもしれません」
アリエル王女は、俺の胸から離れようとしないシルフィの姿に僅かに目を見開いたものの、すぐに優雅で非の打ち所のない一礼を俺たちに向けて捧げてみせた。その声音は、吹雪の音を透き通るようにして俺たちの耳へと届く、不思議な美しさを持っていた。
「いえ、不治瑕北神流の門下生として、困っている人を見過ごせなかっただけです。……それより、王女殿下。ここは遮るもののない一本道だ。どこかで一度話しましょう」
俺が正面を見据えたまま冷徹に状況を告げると、アリエル王女は小さく頷き、周囲の険しい岩壁へと視線を走らせた。
「ええ、その通りですね。……シルフィ、いつまでもそのお方に甘えている場合ではありませんよ。一度、この場を離れましょう」
「あ……、う、うん……。ご、ごめんなさい、アリエル様……」
主君であるアリエル王女の毅然とした制止の声に、シルフィはハッと我に返ったように顔を上げた。サングラスの落ちたその瞳は真っ赤に腫れ上がっており、名残惜しそうに、本当に名残惜しそうに俺のコートから手を離すと、恥ずかしそうに下を向いて、俺の斜め後ろへと、逃げ込むようにして佇んだ。
「おやおや、それならば良い場所がありますよ、ルーク君」
それまで静かに戦況を見守っていたシャンドルさんが、いつもの飄々とした上品な笑みを浮かべて、一本道の少し先にある絶壁の亀裂を指差した。
「この先、赤竜の通り道から僅かに外れた岩壁の奥に、風を遮る頭上の開いた大きな『窪み』……洞窟のような、天然のシェルターとなっている場所がございます。そこであれば、焚き火を起こして暖を取ることも、追手の目を欺くことも容易でしょう。アリエル殿下、そちらへ馬車ごと移動しましょうか」
「ええ、案内をお願いします」
アリエル王女はシャンドルさんのその尋常ではない身のこなしと、刺客六人を一瞬で谷底へ葬り去ったその実力を見抜いているはずだったが、あえてその正体には深く触れず、大人の政治的な笑みを返してみせた。
俺たちは生き残った二人の付き人たちと共に馬車を押し、一本道を僅かに外れて、シャンドルさんの言う岩壁の窪みへと滑り込んだ。
そこは、周囲の険しい氷壁がドーム状にせり出し、猛烈な吹雪の侵入を完璧に防いでくれる、静まり返った天然の洞窟のような空間だった。外のキィキィと鳴り響く強風の音が嘘のように遠ざかり、ようやく息のつけるだけの、冷たい静寂が辺りを支配する。
「……ふぅ」
馬車を安全な位置へと固定し、俺は流閃剣の柄からようやく手を離して、深く息を吐き出した。
衣服についた雪を払っていると、すぐ隣から、じっとこちらを見つめる熱い視線を感じた。
振り返れば、シルフィが地面に落ちていたサングラスを両手で大事そうに握りしめたまま、上目遣いで、壊れ物を眺めるような切ない瞳で俺をじっと見つめていた。髪の色は白く変わってしまっているが、その耳の形も、俺を見つめるその視線の温かさも、あのブエナ村のままだ。
「ルーク……、本当に、ルークなんだよね? ボク、夢を見てるんじゃないよね……?」
一歩、シルフィが歩み寄り、俺の黒いコートの袖を、今度は消え入りそうなほど微かな力で、そっと指先で掴んできた。
その怯えるような少女の姿に、俺は胸の奥を激しく揺さぶられながらも、今度こそ絶対にその手を離さないと、静まり返った氷のシェルターのなかで、彼女に向かって優しく微笑み返すのだった。
シャンドルさんが洞窟の中央で手際よく焚き火を起こすと、冷え切っていた氷のシェルターの中に、爆ぜる薪の爆音と温かい橙色の光が広がり始めた。
外の猛烈な吹雪の音が遠ざかり、ようやく生気を取り戻した空間のなかで、俺とシルフィは焚き火の傍らに並んで腰掛けていた。
先ほどまで大号泣していたシルフィは、俺の姿を穴が開くほどまじまじと見つめていた。その切ない瞳が、俺の顔の左側、そして首元でピタリと止まる。
「……ルーク。その傷、どうしたの……?」
シルフィの声は、ひどく心配そうに震えていた。
俺の顔の左側には、変色した大きな火傷の痕がある。そして首元には、まるで赤い糸で縫い合わせたかのように生々しく一周回っている、あの死の爪痕がある。
「あ、これか。……どっちの傷のことだ?」
俺が少しおどけて首を傾げると、シルフィはさらに瞳を潤ませて、俺のコートの袖を強く握りしめた。
「どっちもだよ……っ! 前は、そんな傷、一つも無かったのに……!」
「……そうだな。どう説明したものか」
俺は少し困ったように頬の火傷の痕を指先で掻いた。
「首の傷に関しては、赤竜の下顎で遭遇した、龍神オルステッドに付けられたんだ。……見ての通り、綺麗に首を斬られたよ。まぁ、あいつの気まぐれと、付き人の少女のおかげで、神級治癒魔術で繋げ直してもらったんだけどな」
「龍神、オルステッド……」
「で、こっちの左目の火傷に関しては、転移災害のあの光の直後、魔大陸の迷宮の最奥に直接飛ばされちまってね。その迷宮の守護者と戦った時に付けられた傷だ」
俺の口から語られる壮絶な傷の理由に、シルフィは驚愕のあまり息を呑み、小さな唇を戦慄かせた。
「迷宮に、転移したの……? 一人で?」
「ああ。大変だったよ。さっきまでブエナ村でシルフィと一緒にいたと思ったら、次の瞬間には、見たこともない化け物がひしめき合う薄暗い迷宮だったからな。……パウロさんたちと離ればなれになったのもショックだったけど」
そこまで言って、俺は一度言葉を切り、じっと自分の掌を見つめた。
ずっと、俺の胸の奥底にくすぶり続けていた、重く冷たい罪悪感が喉の奥までせり上がってくる。
「……ごめん、シルフィ」
「え……? ルーク、何が……?」
シルフィが不思議そうに首を傾げる。俺は彼女の真っ白に変わってしまった髪を見つめながら、絞り出すように言葉を続けた。
「あの転移の瞬間……俺が、お前の手を離したから。
俺のその謝罪を聞いた瞬間、シルフィは大きな目をさらに見開いた。そして、すぐに激しく首を横に振った。
「謝らないでよ、ルーク! あの時のルークの選択は、何一つ間違ってないよ! ボクが恐怖で腰を抜かして、動けなくなっちゃったから……悪いのは、全部ボクなんだよ。ルークはボクを助けようとしてくれたのに……!」
「違うんだよ、シルフィ。俺は、お前を……」
──違う。俺はお前を安全に逃がすために手を離したつもりだった。だけど、オルステッドの圧倒的な力を前にして、そしてブエナ村の何もない荒野を見たとき、俺は自分の傲慢さを思い知ったんだ。俺が弱かったから、お前を巻き込み、手を離すしか道がなかった。お前を守ることができなかった。
俺がなおも自分を責めるように視線を落とすと、シルフィはどう答えればいいか迷うように、眉を悲しげに寄せた。
彼女自身は、そんな過去の後悔なんて一ミリも気にしていないのだ。ただただ、この二年半、ルークがどこで、どんな風に生きて傷ついていたのか、それだけが心配で頭がおかしくなりそうだっただけなのに。
シルフィはぎゅっと唇を噛み締めると、今度は俺の両手を、彼女の小さな両手で包み込むようにして強く握りしめた。
「でも! ボクはこうして生きてるし、ルークも生きてる。あの地獄みたいな大災害から生き延びて、こうやってまた会えた。……今は、それでいいんじゃないかな?」
シルフィのその真っ直ぐな言葉に、俺はハッとして目を見開いた。
──……ああ、そうだな
前世の少し効率的になってしまう部分や、ヒトガミの事ばかりに頭を悩ませていた。だけど、目の前で温かい涙を流しているこの少女の言う通りだ。俺たちは生き延びた。そして、二年半ぶりに生きて再会できた。今はただ、その奇跡を純粋に喜ぼう。それでいいじゃないか。
胸の奥に凝り固まっていた冷たい塊が、彼女の温もりでストンと溶けていくのが分かった。
「……そうだな。シルフィ、生きててくれて、本当にありがとう」
「うん……っ!」
俺がようやく微笑むと、シルフィも涙を拭って嬉しそうに笑った。
だが、シルフィはすぐにまた、俺の顔の左側にある大きな火傷の痕を、まじまじと見つめ始めた。指先を僅かに伸ばし、触れるのを躊躇うようにしてじっと見つめている。
「……そんなに気になるか? この傷。やっぱり、ちょっと醜いかな」
俺が自嘲気味に呟いた、まさにその瞬間だった。
「そんなことない!!!!!」
シェルターの氷壁がピキリと響くほどの、もの凄く大きな声だった。
「う、わっ……!?」
俺は本気で驚いて身体を仰け反らせた。ブエナ村での5年間、シルフィがこんなに感情を爆発させて大声を出すところなんて、何度かしか見たことがなかったからだ。
──まずい、怒ってるか、これ。
シルフィは顔を真っ赤にしながら、立ち上がるほどの勢いで俺に詰め寄ってきた。その大きな瞳には、激しい怒りと、それ以上の強い情熱が爛々と輝いている。
「絶対に、そんなことないよ! 醜くなんてない! この傷は……ルークが生き残るために負った傷でしょ? ルークがどんな風になっても、ボクは、ボクは……っ!」
そこまで一気に捲し立てて、シルフィはハッと我に返ったように言葉を詰まらせた。
「シルフィ……?」
俺は何を彼女が言いたいのか、その情熱の理由が全く分からず、困惑したまま目を瞬かせるしかなかった。
数秒の、ひどく気まずくて甘酸っぱい沈黙が、焚き火のパチパチという音のなかに流れる。シルフィは自分の口走った言葉の破壊力に気づいたのか、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
たまらず、少し離れた岩壁の陰で腕を組んで佇んでいたシャンドルさんのほうを見る。しかし、あの北神は、いつものニコニコとした上品な笑みを浮かべたまま、うんうんと深く頷くだけで、いっさい助け舟を出してはくれなかった。
──助けてください、師匠……。俺、こういう空気本当にどうしていいか分かんないんですって……。
心の中で師匠に泣きつきながら、俺は話題を強引に変えるため、再開した時からずっと気になっていたもう一つの疑問を口にした。
「……あ、あのさ、シルフィ。ずっと気になってたんだけど、その髪の色、どうしたんだ? 前は俺と同じ、綺麗な緑髪だったろ」
俺が少し昔を思い出すようにして優しく微笑むと、シルフィは真っ赤になった顔を隠すように、ハーフエルフ特有の長い尖った耳を照れくさそうにポリポリとかきながら、小さな口を開いた。
「実はね……。アリエル様たちを連れて、アスラ王国の王宮から命懸けで脱出する時に、結構無茶をしちゃってね。刺客たちから逃げるために、馬車ごと風魔術で大空へ飛ばして、そのままこの難所まで逃げてきたんだ。その時に……限界を超えて、魔力を完全に使い果たして枯渇しちゃって。次に目が覚めたら、髪の毛がこんな風に、真っ白になっちゃってたんだよ」
無詠唱の風魔術を応用し、馬車ごと飛行して脱出する。かつて俺が『翠狼の杖』を贈り、空中戦の技術を一緒に磨いたからこそ、自らの意志の力でアリエルを救い、その代償として魔力枯渇を引き起こしていたのだ。
「……そうだったのか。本当に、頑張ったんだな、シルフィ」
「う、うん。……でもね、ボク、髪の毛が真っ白になっちゃったから、これじゃあいつかルークと再会できたとしても、ボクだって気づいてもらえないんじゃないかって、ずっと、ずっと不安だったんだ」
シルフィは白いショートヘアを指先でいじりながら、消え入りそうな声で、切なげに俺を見上げた。
「でも、良かった。……ルークが、ボクだってすぐに気づいてくれて」
そのあからさまにホッとしたような彼女の言葉に、俺は思わず、呆れたような大きなため息を漏らした。
「当たり前だろ。俺がシルフィを髪の毛の色だけで判断してると思ってたのか?」
「え……?」
「お前は目も宝石みたいに綺麗だし、口も鼻も綺麗だ。顔も小さくて、おでこだって可愛いじゃないか。耳だって、そのとんがってる形が最高に可愛い。そんなの、髪が何色になろうが変わるわけないだろ」
率直で、かつ一切の裏のない純粋な事実としての褒め言葉だった。
だが、シルフィは俺のその言葉を聞いた瞬間、大きな目を完全に点にして、彫刻のように凝固した。
俺はそんな彼女の様子に構うことなく、さらに言葉を重ねる。
「なにより、どれだけ見た目の特徴が変わったとしても、俺がお前の声を忘れるわけないだろ。毎日、隣で聞いてたんだからな」
「あ、う……あ、わ、わ……っ!!」
次の瞬間、シルフィの顔は、焚き火の炎など比べるべくもないほど、凄まじい勢いで真っ赤に染まった。
口元をアワアワと金魚のように開閉させながら、完全に脳の許容量を超えてパニックを起こしている。あまりの熱量に、彼女の尖った耳の先から湯気でも出るんじゃないかと思うほどの狼狽ぶりだった。
「おやおや、ルーク君。無自覚というのは、時にどんな剣よりも無慈悲で、恐ろしい絶対的な破壊力を持っていますねえ」
遠くの暗闇から、シャンドルさんのニヤニヤとした、心底楽しそうな冷やかしの声が、静まり返った氷のシェルターの中に響き渡るのだった。
そんな甘酸っぱくも気まずい空気を切り裂くように、焚き火のパチパチという音の向こうから、凛とした、そしてどこか楽しげな鈴を転がすような声が響いた。
「シルフィ、顔が大変なことになっていますよ。それほどまでに熱い歓迎を受けるとは、想像もしていませんでしたね」
焚き火を囲んだ反対側からアリエル王女がゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女は赤くなっているシルフィの肩を優しく叩き、それから俺たち師弟に向けて、非の打ち所のない気品に満ちた笑みを向けた。
「改めて名乗らせてください。私はアスラ王国第二王女、アリエル・アネモイ・アスラです。此度の窮地、お救いいただき本当にありがとうございました。……ルーク・グレイラット殿、そしてそちらのお方も。もし宜しければ、お名前を教えて頂けますか?」
「これは御無礼を。私はシャンドル・フォン・グランドール。弟子のルーク君と共に、修行の旅をしています」
「なるほど。ルーク殿は噂に違わずお強いようですが、その師匠である貴方は、どれ程なのでしょうか」
アリエル王女は、シャンドルさんが刺客六人を一瞬で谷底へ放り込んだ実力を最初から見抜いている。だが、あえて深くは追求せず、まずは礼儀を尽くしてきた。
「ははは。私の才など、ルーク君と比べてしまえば可愛いものです。彼がアリエル様御一行を助けようと言い出しましてね」
「俺はただ、目の前で理不尽に襲われている人たちを、不治瑕北神流の門下生として見過ごせなかっただけですから」
俺が流閃剣の鞘を撫でながら答えると、アリエル王女はふむ、と細い顎に手を当てて俺の顔を見つめた。
「そう言えば、ルーク殿。先ほど、フィッツに『転移災害で迷宮の奥に飛ばされた』とおっしゃっていましたね」
アリエル王女のその言葉に、アワアワしていたシルフィがようやく正気を取り戻したようにハッとした。彼女はまだ少し赤みの残る顔のまま、俺の黒いコートの袖をそっと引っ張る。
──何となく察しがついてるけど、シルフィはどこに転移したのだろう。話の流れを変えるチャンスだ。ありがとう、アリエル様。
「そうだ、シルフィ。お前はあの光のあと、一体どこに飛ばされたんだ?」
俺が尋ねると、シルフィは少し遠い目をして、当時の恐ろしい記憶を思い起こすようにして口を開いた。
「ボクはね……気がついたら、もの凄い高さの空中にいたんだ。周りには雲しかなくて、そのまま真っ逆さまに落っこちて……。あの時は、本当に死ぬかと思ったよ」
「空中……!? 迷宮も大概だけど、空中から自由落下って、よく生きてたな……」
俺が本気で戦慄していると、その隣からアリエル王女が静かに微笑み、シルフィの言葉を引き継いだ。
「ええ。フィッツが落ちてきたのは、まさに私たちがいたアスラ王国の王宮の、その真上だったのです。……当時、王宮の庭園にいた私の目の前に、真っ逆さまに少女が落ちてきましてね」
「王宮の真上……。じゃあ、シルフィはどうやって助かったんだ?」
俺が問いかけると、シルフィは照れくさそうに、ハーフエルフ特有の尖った耳の先をポリポリとかいた。
「あの時、ルークと作った
シルフィはそう言って苦笑した。
なるほど、俺と磨き上げた「足から無詠唱の真空波を出す飛行技術」を応用して、自力で落下の衝撃を制御して着地していたのだ。髪が白くなった理由も、王宮からアリエル王女たちを馬車ごと風魔術で大空へ飛ばして脱出する際の、極限の魔力枯渇が原因。
すべてが、俺とシルフィがブエナ村で積み重ねてきた五年間の思い出、そしてあの訓練の日々の延長線上にあった。
「その際、シルフィは私を急襲しようとしていた獰猛な魔物を文字通り圧殺し、私の命を救ってくれたのです」
アリエル王女は、愛おしげにシルフィの白い髪を見つめた。
「それ以来、彼女は私の『守護術師フィッツ』として、男装をして私の影となり、牙となり、これまで幾度となく王宮の暗殺者たちから私を守り抜いてくれました。……そして今度は、そのフィッツの大切な人が、この赤竜の上顎で私たちの命を救ってくれた。……ふふ、因果とは、本当に奇妙で、美しいものですね」
アリエル王女はそう言って、細い目をさらに細めて俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥に、ただの感謝ではない、ルーク・グレイラットという少年の価値を、本気で見定めて利用せんとする、冷徹な政治家としての光がギラリと灯るのが分かった。
「ルーク・グレイラット殿。……そして、シャンドル殿。此度の見事な戦いぶり、感服いたしました。……そこで不躾ながら、一つお願いがあります。現在の私は、王位継承争いで命を狙われ、安住の地を失い、北の魔法三大国であるラノア王国へと亡命する旅の途中にあります。……貴方がたのその圧倒的な剣を、私に、アリエル・アネモイ・アスラに貸してはいただけないでしょうか。相応の報酬と、未来の栄光を約束しましょう」
それは、スカウトだった。
もし俺が金に汚い保守的な男だったなら、あるいはシルフィの隣にいたいという安易な感傷に流されていたなら、二つ返事でその手を取っていただろう。シルフィもまた、サングラスを握りしめたまま、期待に胸を膨らませたような瞳で俺をじっと見つめていた。
だが、俺は首元に刻まれた、あのオルステッドに付けられた生々しい赤い傷痕をそっと撫でながら、静かに、しかし断固とした拒絶を込めて首を振った。
「……ありがたいお話ですが、王女殿下。そのお誘いはお断りさせていただきます」
「ルーク……っ!?」
シルフィが悲鳴のような声を上げ、アリエル王女もまた、意外な答えに僅かに眉をひそめた。
「どうしてですか、ルーク殿。シルフィという大切な存在が私の傍らにいてなお、私を拒む理由がどこにあると言うのです」
アリエル王女の問いかけは、決して権力を笠に着た高圧的なものではなかった。むしろ、命を救われたことへの純粋な感謝と、ルーク・グレイラットという規格外の少年を、一人の人間として本気で必要としているからこその、切実な響きが含まれていた。
「今の俺の強さじゃ、まだ誰も守りきれないからです。……俺は、世界の天井であるあの龍神オルステッドに完璧に叩きのめされ、自分の無力さを骨の髄まで思い知らされました。今の俺の生ぬるい剣や、合理を突き詰めるだけの小手先の技じゃ、あなた方を守るどころか、自分の命を維持することすらできません。これ以上の泥沼の政争に飛び込むには、俺はまだ、圧倒的に弱すぎるんです」
俺が拳を白くなるほど握りしめてそう告げると、部屋の隅で佇んでいたシャンドルさんが、ふむ、と深く頷いた。師匠は、俺が「合理の外側にある本当の強さ」を掴むために、修行を完成させることを優先したのだと気づき、どこか誇らしげな視線を送ってくれていた。首元の生々しい赤い傷痕をそっと撫でる。アリエル王女は小さく息を呑み、それから痛ましそうにその傷を見つめた。
「でも、ルーク。ボクもいるんだよ? 二人で一緒に戦えば、どんな敵だって……!」
シルフィが泣きそうな顔のまま、一歩前に踏み出してきた。俺の黒いコートの袖をぎゅっと掴み、必死に食い下がってくる。彼女からすれば、せっかく地獄から生還して再会できたのに、またここで離れ離れになることなんて耐えられないはずだ。
「違うんだ、シルフィ。お前と隣に立ちたいからこそ、今のままじゃダメなんだ。もし今、オルステッド級のバケモノが襲ってきたら、俺はお前を守りきれない。それどころか、またお前の手を離すことになる。……俺は、もう二度とお前の手を離したくないんだよ」
俺が彼女の真っ白な髪に視線を合わせ、真っ直ぐにそう語りかけると、シルフィは言葉を失って唇を噛み締めた。ルークが自分を嫌って拒絶しているのではなく、自分を二度と失わないために、命懸けでさらなる高みを目指そうとしている。その不器用なまでの真面目な優しさと執念が、彼女の胸の芯に届いたのだろう。掴んでいたコートの袖から、じわりと力が抜けていく。
「ふふ、頑固な方ですね。剣士の方は皆、これほどまでに意固地なのでしょうか」
アリエル王女は困ったように眉を下げ、くすくすと上品に笑った。その笑顔には不快感や侮蔑の念など一ミリもなく、むしろルークのそのどこまでも真っ直ぐな誇りと、シルフィへの深い情愛に対する、好意的な親しみが込められていた。
「ただ、ルーク殿。せめてラノア魔法大学に到着するまでの間、臨時の護衛としてだけでも、私たちの旅にお付き合いいただくことは叶いませんか? シルフィをこれ以上泣かせたまま旅を続けるのは、主として少し心苦しいのですけれど」
アリエル王女は悪戯っぽく細い目を細め、俺とシルフィを交互に眺めた。
断る理由など、どこにもなかった。
「……ええ、もちろん。ラノアの学舎の門を潜るまでは、俺と師匠の剣が、あなた方の完璧な要塞になってみせます」
「決まりですね。では、よろしくお願いいたします、ルーク殿」
アリエル王女は満足そうに微笑み、俺たちの同行を正式に認めた。
隣でシルフィが、まだ少し涙目のまま、でもどこか嬉しそうに、恥ずかしそうにハーフエルフの尖った耳を赤く染めて俯いている。
遠くの岩陰で腕を組んでいたシャンドルさんが、「それでこそ不冶瑕北神流です」とニヤニヤしながら深く頷いているのが見えた。
☆☆☆
アリエル王女との交渉がひとまずまとまり、俺たちの臨時の同行が決まると、凍てつくシェルターの中には再び、パチパチと爆ぜる焚き火の温かい静寂が戻ってきた。
外の吹雪は激しさを増す一方で、時折、一本道を揺らすような轟音が遠くで響く。俺たちは今夜一晩、この天然の窪みの中で朝を待つことになった。
シャンドルさんが手際よく馬車の馬の世話を終え、付き人の二人が周囲の警戒を兼ねて洞窟の入り口付近に陣取る。中央の火を囲んだのは、俺とシルフィ、そしてアリエル王女の三人だった。
スープの入った粗末な鉄器をアリエル王女へ手渡すと、彼女は冷え切った指先を温めるようにそれを受け取り、小さく息を吹きかけた。湯気の向こうにあるその双眸には、先ほどまでの気丈な王女の仮面の裏側にある、深い無念と、押し潰されそうなほどの重い哀しみが静かに揺らめいていた。
「……ルーク殿。先ほど、あの一本道で戦っていた二人の付き人のことを、まだ紹介していませんでしたね」
アリエル王女は静かに首を振り、入り口の方で凍える手に息を吹きかけている、傷だらけの二人の騎士に視線を向けた。
「あちらにいるのが、私の幼少期から仕えてくれていた従者、エルモアとクレアです。……そして、今回のアスラ王宮からの亡命に際し、生き残ってここまで辿り着けたのは、十六人のうちあそこにいる二人と、私の隣にいるシルフィ……ただの三人だけなのです」
その言葉の重みに、俺はスープを運ぶ手を止めた。
「……十六人、ですか」
「ええ。皆、第一王子派の放った凄惨な暗殺部隊から私を逃がすために、自ら肉壁となって、散っていきました。一人、また一人と、私の目の前で首を撥ねられ、あるいは魔法で消し炭に変えられていく。……私はその屍を踏み越えて、ただ見苦しく生き延びるために、この赤竜の上顎まで逃げてきたのです」
アリエル王女の声は、凍りついた氷壁のように冷たく、そして細く震えていた。一国の王女としてどれほど気高く振る舞おうとも、その本質は、多くの仲間の命と引き換えに生き延びてしまったことへの、引き裂かれるような罪悪感に苛まれる等身大の少女に過ぎないのだ。
すると、隣でずっと俯いていたシルフィが、消え入りそうな声で口を開いた。
「アリエル様は、悪くないよ……。みんな、アリエル様に生きていてほしかったから、笑って盾になったんだ。ボクだって……同じ気持ちだった」
シルフィのその言葉に、アリエル王女は微かに目元を潤ませ、彼女の白い髪を愛おしげに見つめた。
「そうですね。……本当に、シルフィには何度命を救われたか分かりません。王宮を脱出する際、退路を完全に断たれ、私とエルモアたちが刃の前に晒された決定的な瞬間が二度ありました。その二度とも、シルフィが一番前に飛び出して、その小さな身体で、私を庇うようにして無詠唱の魔術を放ち、敵の猛攻を真っ正面から押し返してくれたのです」
アリエル王女は、シルフィの男装の衣服についた、生々しい血痕の跡を指先でそっとなぞった。
「彼女がいなければ、私は赤竜の上顎に辿り着くことすら敵わず、アスラの土の下に埋もれていたでしょう。……フィッツ。貴女が、髪を真っ白に変えてまで、私のためにその魔力を、その命のすべてを賭してくれたこと、私は生涯忘れません」
「……ううん。ボクは、ただ……大切な人を、もう二度と目の前で失いたくなかっただけだから」
シルフィはそう言って、俺の首元にある、あのオルステッドに付けられた生々しい赤い傷痕を盗み見るようにして、ぎゅっと唇を噛み締めた。
シルフィもまた、あの転移災害の日、俺の手を離してしまったという地獄のような後悔を胸に抱えて2年半を歩んできたのだ。だからこそ、自分の目の前にいるアリエル王女という大切な存在を、今度こそ死なせてなるものかと、魔力を枯渇させて髪が真っ白に変色するほどの無茶をしてまで、最前線で戦い抜いてきた。
言葉にできないほどの無念と、失われた十三人の英霊たちの重み。
しんみりとした冷たい沈黙が、焚き火の暖かい光のなかに静かに満ちていく。
「私は、私の為に死んでいった十三人の為にも、生きなければなりません。生きて、必ずや王となりアスラ王国に戻ります」
アリエル王女はそう言って、鉄器のスープを見つめたまま、声音をひどく低く、しかし鉄のような強固な意志を込めて響かせた。
その双眸に宿る光は、ただ不条理に打ちひしがれた少女のそれではなく、亡き者たちの魂をすべてその背に背負って、泥をすすりながらでも玉座へと這い上がろうとする、本物の王の器の輝きだった。
「……良いですね、その覚悟」
俺は流閃剣の柄から完全に手を放すと、焚き火の光に照らされるアリエル王女の、その燃えるような金髪と真っ直ぐな双眸を静かに見据えた。
「師匠」
「ええ」
師匠は恐らく俺と同じ気持ちだろうという確信があった。目を向けると、シャンドルさんはいつも通りの調子の良い笑みを完全に削ぎ落とし、伝説の北神カールマン二世としての、深遠で重々しい目をアリエル王女へと真っ直ぐに向けていた。
「いやあ、実に見事な器です、アリエル殿下」
シャンドルさんはゆっくりと立ち上がると、胸の前に右手を当て、王宮の洗練された騎士たちをも上回る、非の打ち所のない完璧な宮廷礼をアリエル王女へと捧げた。その佇まいは、一人のしがない放浪の武芸者などでは決してなく、数多の戦場を支配してきた本物の『英雄』そのものだった。
「私はねえ、これまでの長い旅路のなかで、自らのために死んでいった者たちの重みに耐えかねて、途中で背を向け、逃げ出してしまった王族をそれこそ飽きるほど見てきましたよ。……ですが、貴女は違う。死んでいった一三人の命を、絶望のための重荷ではなく、自らがアスラの玉座へと這い上がるための『絶対の糧』として背負うと言い切った。……素晴らしい。実に美しく、そして猛々しい覚悟です」
シャンドルさんの瞳の奥に、かつてないほどに熱く、苛烈なまでの光がギラリと灯る。彼もまた、アリエル王女という一人の少女が放った、命を懸けた執念の輝きに、本気でその魂を射抜かれていたのだ。
「ルーク君。君が力を貸すのと同じように、私もそうしましょう。……アリエル殿下。ラノアの門を潜るその時まで、このシャンドル・フォン・グランドールもまた、貴女の退路を阻むすべての理不尽を叩き割るための、矛となりましょう。……一三人のためにも、貴女はこんな所で、絶対に死んではいけないお方だ」
シャンドルさんのその重々しい誓いの言葉を聞いた瞬間、アリエル王女は驚いたように僅かに目を見開いた。それから、先ほどまでの王女としての仮面をふっと和らげ、一人の等身大の少女としての、心底から救われたような、温かい微笑みを俺たちに向けて返してくれた。
「ふふ、本当に……。フィッツがこれほどまでに貴方に焦がれる理由が、今、少しだけ分かったような気がしますね、ルーク殿。そして、シャンドル殿……貴方がたのような稀代の傑物を味方につけられたこと、私の死んでいった一三人の英霊たちに、深く感謝しなければなりませんね」
「ア、アリエル様……っ! なに言ってるんですか……っ!」
隣でじっと会話を聞いていたシルフィが、今度こそ顔を真っ赤にして、ハーフエルフの尖った耳の先まで赤く染めながら大慌てで俯いてしまった。
言葉にできないほどの無念と、失われた一三人の英霊たちの重み。
だけど、この氷壁のシェルターのなかに漂っていたあの重苦しい沈黙は、今やこれからの未来を切り開くための、熱く、確かな灯火へと姿を変えていた。
ちなみにルークの傷はマギの白龍をイメージしてます。首の傷はオリジナルですが、火傷は白龍リスペクトです。
マギ読み返したんですが神漫画ですね。毎回アラジンがアリババを探して方法が見つからなくて泣くところで私も泣きます。