迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
すごく遅くなりました。申し訳ないです。
世界を分かつ巨大な白銀の障壁、一年中猛烈な吹雪が吹き荒れる『赤竜の上顎』の一本道を、俺たちの馬車は静かに進んでいた。御者台ではシャンドルさんが馬車の手綱を平然と引き、その左右にはアリエル王女の近衛騎士であるエルモアとクレアの二人が、張り詰めた歩調で並んで歩いている。
極寒の風が吹きつける外とは対照的に、アリエル王女の馬車のなかは、敷き詰められた毛皮のおかげで僅かに暖かかった。その狭い車内の座席で、俺はシルフィと隣り合わせになって座り、その対面に腰掛けたアリエル王女と向き合っていた。
アリエル王女は、細い指先で毛皮の端をそっとなぞりながら、値踏みするような、しかし純粋な好奇心を隠そうともしない双眸で俺をじっと見つめていた。
「……ルーク殿。一つ、どうしてもお聞きしたいことがあるのです。先ほど、あの一本道で貴方が展開された、あの美しい桃色の結界魔術。……あれは一体、どのような術式なのですか?」
「え……?」
突然の問いかけに、俺は少し戸惑いながら流閃剣の柄に置いた手を緩めた。アリエル王女は、まるで歴史の裏側に隠された禁忌の書物を紐解くかのような熱を帯びた声で、言葉を重ねてくる。
「アスラ王宮に所属する高名な宮廷魔術師であっても、あのような強固な結界を展開するには、長い呪文の詠唱を唱え、数人がかりで陣を組んでようやく発動できるものなのです。ですが、貴方は完全に無詠唱で、あの一瞬の隙を突いて完璧な盾を出現させました。なみなみならぬ集中力と魔力量が必要なはず。なんなのですか、それは?」
アリエル王女の言う通り、俺のこの異能は、この世界の既存の魔術体系には存在しないものだった。前世である現代日本の記憶──かつて貪るように読んだ漫画『マギ』の世界に登場する魔法使いが展開する、自身の周囲のあらゆる物理攻撃や魔力を遮断する絶対の球状障壁。
それが今世でルークとして生を受けた際、なぜか俺の魂の奥底に初期バグのように組み込まれていたのだ。
だが、そんな前世の記憶を他人に話せるわけがない。どのようにして俺の肉体にこれが発現したのか、その根本的な理屈は俺自身にも分からなかった。ただ、幼少期の頃から任意で発動させる練習を重ね、シャンドルさんとの地獄の修行を経て、最近になってようやく完璧な精度で制御できるようになったに過ぎない。どんな絶技も、要は極限の集中力がすべてなのだ。
俺はアリエル王女に向き直り、嘘を吐かずに事実だけを慎重に言葉に選んだ。
「……これは魔術じゃないんです、多分」
「魔術ではない……? では、何だと言うのです」
アリエル王女が、信じられないというように細い眉をひそめる。
「幼い頃、突然発現したんです。それからずっと、自分なりに手探りで、どうやったら頑丈になるかを実験しながら使ってきました。最近になって、ようやく戦いで使いこなせるようにはなってきたんですけど……」
俺が少し濁すように答えると、それまで恥ずかしそうに縮こまっていた隣のシルフィが、懐かしそうに目を細めて小さく笑った。
「ふふ、懐かしいね、ルーク。昔、あの丘の木で、その
「あぁ、そうだったな。あの頃はどうやったら
俺が微笑みながら呟くと、シルフィは少し寂しげに、俯きがちに視線を落とした。
「……ルディも、多分、あの転移災害に巻き込まれて、世界のどこかに飛ばされちゃってるんだよね?」
「おそらく、な。同じ城塞都市ロアにいたフィリップさんやヒルダさん、ギレーヌだって例外なく飛ばされてたんだ。あいつのことだから、世界のどこに飛ばされていようと、しぶとく生き延びてるとは思うけど……」
俺が何気なく口にしたその名前を聞いた瞬間、対面に座っていたアリエル王女の身体が、弾かれたようにびくりと硬直した。
「……ちょっと待ちなさい」
「え……?」
アリエル王女の声音から、先ほどまでの優雅な王族の仮面が完全に剥ぎ落とされていた。彼女は驚きで目を限界まで見開き、身を乗り出すようにして俺を凝視してきた。
「ルーク殿、今、なんとおっしゃいました? フィリップさん、とおっしゃいましたか? もしやそれは、城塞都市ロアの町長をしていたボレアス家のフィリップ様ですか?」
突然態度を豹変させたアリエル王女の、その凍りつくような威圧感に驚きつつも、俺は次の瞬間に、自分の犯した決定的な大失言に気がついて血の気が引いた。
──しまった……、完全に口が滑った……。
フィリップさんとヒルダさんは、アスラ王宮の醜い権力争いのなかで、第一王子派のジェイムズにとっては『生存していては不都合な存在』であり、セーフハウスに潜伏している身だ。それを、アスラ王国の王族であるアリエル王女の目の前で、生存を仄めかすような発言をしてしまうなんて、取り返しのつかない致命的なミスだった。もし彼女の口からその情報が第一王子派の耳に届くようなことがあれば、隠れている二人に、そして護衛として残ったギレーヌにまで、最悪の危機が及んでしまうかもしれない。
そこまで思考が至った瞬間、俺の身体は本能的に強張り、皮膚の表面の闘気が鋭く跳ね上がった。黒竜のコートの奥から、目の前のアリエル王女に向けて、明確な、冷徹な『殺気』の波を無意識に飛ばしていた。
アリエル王女の細い首筋に、冷たい汗が僅かに滲む。だが、彼女は列強第二位の殺気にも耐えた俺のその重圧を真っ正面から受け止めながら、毅然とした態度で、ゆっくりと口を開いた。
「……お忘れですか、ルーク殿。私はアスラ王国の第二王女。現在、王宮で暴虐を尽くし、サウロス様を処刑して我が世の春を謳歌している、あの兄上たち第一王子派とは完全に敵対している身です。……フィリップ様が、転移されて生きておられるという事実は、彼らを失脚させ、私が玉座へと這い上がるために、これ以上ないほどに大きな情報となり得るのです」
アリエル王女のその言葉を聞きながら、俺は彼女の真っ直ぐな双眸をじっと見つめ、その本心を探ろうとした。本当に信用していいのか、この女はフィリップさんを政治の道具として利用し、使い潰すつもりではないのか。
「……本当か?」
「ええ。私は王宮での派閥争いに完璧に敗北し、今こうして、着の身着のままで北のラノア王国へと亡命しようとしている哀れな敗残者です。今の私の第二王女派には、兄上たちの包囲網を覆すだけの力など、どこにも残されていません」
アリエル王女は自虐気味にそう告げたが、その言葉とは裏腹に、彼女の瞳の奥には、絶望や諦めなど一ミリも存在していなかった。むしろ、ここからが本当の始まりだと言わんばかりに、青白い復讐の炎が、凄まじい熱量で燃え盛っているのが見えた。
言葉と矛盾するその折れない魂の輝きを見て、俺はこの女なら大丈夫だと、直感的に確信した。彼女なら、第一王子派に情報を売るような真似は絶対にしない。
「……生きています。フィリップ様と、その妻であるヒルダ様は、俺と剣王のギレーヌの手で、あの過酷な紛争地帯から無事に救い出しました。……今は、フィットア領の難民キャンプの本部の近くにある、安全なセーフハウスに潜伏していますよ。シルフィの両親と、同じ場所でね」
「……そうですか。生きて、おいでですか」
アリエル王女はそう呟くと、溢れ出てくる笑みをどうしても堪えきれないのか、その美しい口角を僅かに引き上げ、勝利の予感に震えるようにして目を細めた。
その時、突然、すぐ隣からクイクイと服の袖を激しく引っ張られた。
振り返れば、シルフィが大きな瞳をこれ以上ないほどに見開き、驚愕と、何とも言えない切なげな表情で俺を見つめていた。
「ねぇ、ルーク。……今、なんて言ったの……?」
「え……?」
俺は頭を悩ませた。
──何かまた変なことを言っただろうか。……あ。
その瞬間、俺は自分がさらに最悪のミスを重ねていたことに気がついて、猛烈な申し訳なさで胸が一杯になった。
そうだ。ロールズさんとエルナさんが生きているという一番大切な事実を、昨日の夜のあのバタバタとした大混乱のなかで、シルフィに伝えるのを完全に失念していたのだ。シルフィとの再会やアリエル達との会合に追われ、俺の頭から完全に抜け落ちてしまっていた。
俺は胸の奥を激しい罪悪感で満たしながら、シルフィの両肩を両手でそっと包み込み、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「……悪い、シルフィ。本当に申し訳ない。俺、一番大事なことを言い忘れてた。……お前のお父さんとお母さん、ロールズさんとエルナさんも、俺とギレーヌが紛争地帯の戦火のなかから、無事に助け出したんだ。と言っても、情報を得たのも、二人を見つけ出したのも、ほぼギレーヌの力なんだけど……」
今思い返しても、あの時の俺は本当に役立たずだった。長耳族の生き残りが紛争地帯で奴隷にされたという噂をギルドで耳にした瞬間、俺はそれがシルフィだと勝手に勘違いしてパニックになり、後先考えずに一人で戦場のど真ん中へ突っ走りそうになったのだ。それを、ギレーヌが「落ち着け、ルーク」とぶん殴って、魔眼を使用し結果としてシルフィの両親を無事に保護してくれた。あの時の自分の不甲斐なさと情けなさが胸を突く。
だが、俺のそんな自嘲の言葉など、シルフィの耳にはもう届いていなかった。
彼女は驚きのあまり視線をゆっくりと落とし、それから、その大きな瞳からポロポロと、大粒の涙を次から次へと溢れさせ始めた。サングラスの奥でその細い肩を激しく震わせ、小さな両手で顔を覆う。
「う、あ……、お父さん……、お母さん……っ。生きて、生きてたんだ……っ!」
シルフィは嗚咽を漏らしながら、声を上げて大号泣し始めた。毎日毎日、過酷な魔物がひしめく世界のどこかで、両親が死んでいるのではないかと恐怖し、絶望していたのだ。その心の呪縛が、俺の放った一言によって、完璧に解き放たれた瞬間だった。
「ありがとう、ルーク……っ! ありがとう……っ! 二人を助けてくれて、本当に、ありがとう……っ!!」
シルフィは俺の黒いコートの胸元に顔を埋め、子供のように激しく泣きじゃくった。俺はそんな彼女の小さな背中をそっと撫でながら、胸の奥から湧き上がってくる、言葉にできないほどの確かな充足感に、じわりと涙が出そうになるのを強引に堪えた。
転移災害のあの夜、シルフィの手を離してしまったという罪悪感に苛まれ、自暴自棄になっていた日々。命懸けで迷宮を這いずり回り、ロールズさんたちを護衛しながらフィットア領の難民キャンプへ向かっていたあの旅路。その時に抱えていたすべての不安や苦労、血を吐くような努力のすべてが、今、この腕の中の温もりと彼女の感謝の言葉によって、完璧に報われたような気がした。俺がこの世界で、ルークとして足掻いてきた道は、決して無駄じゃなかったんだと、魂の底から実感することができた。
☆☆☆
──それから数日後。俺たちは激しい吹雪の吹き荒れる赤竜の上顎を無事に通り抜け、ついに不毛な白銀の平原──北方大地へと到達した。
ここから先は、ラノア王国へ向けてひたすら馬車を進める長い旅路となる。道中、俺たちは近くの街で宿を取って凍えた身体を休めたり、保存食や防寒具などの物資を補充したりしながら、順調に進路を北へと取っていた。
だが、その長い旅路の道中、いつもシリアスな戦いばかりが続いていたわけではなかった。
「ふぅ……、北方大地の夜は、宿のなかにいても芯から冷えますねえ。ルーク殿、少し、私の冷え切った身体を、その逞しいお身体で温めてはくれませんか?」
ある街の宿場の食堂で、アリエル王女が、悪戯っぽく細い目を妖艶に輝かせながら、俺のすぐ隣の席へとわざと身体を密着させるようにして座ってきた。彼女は燃えるような金髪をさらりと揺らし、からかうような大人の色気を隠そうともせず、俺の顔を覗き込んできた。
ただの大学生だった俺にとって、一国の王女からのこのような直接的な誘惑は、防壁魔法《ボルグ》の盾をもってしても防ぎきれない。それに、アリエルはこの世界でも見たことの無いレベルの美女だった。綺麗な金色の髪。長すぎるまつ毛。黄金比のような顔の造形。程よいスタイル。別の意味での致命的な精神攻撃だった。
「な、何言ってるんですか、王女殿下……」
俺は本気で顔を引き攣らせて固まっていると、正面に座っていたシルフィの雰囲気が、一瞬にして完全に豹変した。
「……アリエル様」
地獄の底から響いてくるような、ひどく低く、冷徹な声だった。
シルフィは持っていた『翠狼の杖』の白銀の柄を、みしみしと音を立てるほどの凄まじい力で握り締め、サングラスの奥から、アリエル王女に向けて、見たこともないような凶悪な無言の圧力を飛ばしていた。ハーフエルフの尖った耳が、ピキピキと震えている。
「おやおや、フィッツ。そんなに怖い顔をしないでくださいな。私はただ、命の恩人であるルーク殿と、ほんの少し親睦を深めようとしただけですのに」
「……ルークはボクの大切な人です。アリエル様でも、ルークをからかうのは、絶対に許しません」
シルフィは顔を真っ赤に怒らせながら、俺の黒いコートの袖を強引に引っ張り、自分の側へと力任せに引き寄せた。アリエル王女は、自分の狙い通りにシルフィが本気で感情を剥き出しにした様子を見て、「ふふ、本当にフィッツは可愛いですねえ」と、大満足そうにくすくすと上品に笑っていた。
そんな、どこか微笑ましくも俺にとっては心臓の裏側が縮こまるような日常を繰り返しながら、俺たちはラノア王国に向けて、着実に歩を進めていった。
しかし、ラノア王国の国境線まで、あともう少しという所まで迫ったある日の午後、世界の平穏は再び破られた。
北方大地の気候の乱れによるものなのか、国境付近の魔物たちが、不自然なほど活発に出現するようになっていたのだ。
一本道の雪原を進む俺たちの前に、突如として、大地の地響きと共に、巨大な地吹雪が巻き上がった。
視界を埋め尽くす白い煙の向こうから姿を現したのは、通常の熊の何倍もの巨躯を誇り、全身を白銀の頑強な毛皮で包んだ、北方大地の魔物──『ラスターグリズリー』の群れだった。その数、およそ二十体。大人が一人で抱えるほどの巨大な爪を激しく研ぎ澄ませながら、凄まじい雪飛沫を撒き散らして、俺たちの馬車へと一斉に突撃してきていた。
「ルーク君。……どうやら、逃げられそうにありませんねえ」
シャンドルさんが御者台の脇から新しい剣を引き抜き、細い目を鋭くして前方の地吹雪を睨み据えた。
「師匠、どうしますか?」
「私がアリエル様たちを、この馬車の周りで完璧にお守りしましょう。ルーク君とシルフィ殿は、あのラスターグリズリーの群れの討伐をお願いします」
「……了解。師匠が後ろにいるなら、万が一は無いな。シルフィ、いくぞ!」
「うん、任せて、ルーク!」
あのホッキョクグマのような魔物は、ラスターグリズリーというのか。それにしてもデカすぎる。あの爪の一振りを受ければ、闘気の防護なしなら容易く引き裂かれるだろう。だが、俺たちの辞書に、臆するという言葉はもう存在しなかった。
シルフィは『翠狼の杖』を掲げると、無詠唱の
「『
無詠唱で放たれた上級の水魔術。突進してくる二十体のラスターグリズリーたちの足元の雪原が一瞬にして完全な凍土へと変貌し、鋭い氷の棘が彼らの足を強引に地面へと縫い付けた。
──いつの間に水魔術をここまでのレベルで。いや、これは単なる水魔術なのか? それにしても凄いな。
しかし、相手は北方大地の極寒の雪原で生きる百獣の王だ。どれだけ足を止められるかは時間の問題だった。
「──『影縫い』!」
俺は地面の氷を鋭く蹴り、闘気の残像をその場に置き去りにしながら、最前線のラスターグリズリーの死角へと一瞬で潜り込んだ。刃先に極限まで闘気を集中させ、空間を歪める。
──『陽炎』
流閃剣の峰が電光石火の速さで閃き、手前の二体のラスターグリズリーの膝の腱と前足を正確に切り落とし、無力化して雪の上に転がした。だが、残る魔物たちの咆哮によって、足元の
上空から、シルフィの、これまでに聞いたこともないようなひときわ大きな大声が響き渡った。
「ルーク──ッ!! 全力で
「え……?」
何事かと思い、俺が咄嗟に上空を見上げた瞬間、俺の思考のすべてが完全に停止した。
天空に浮かぶシルフィの頭上。そこには、周囲の白銀の吹雪のすべてを一瞬で蒸発させるほどの、凄まじい熱量を孕んだ巨大な火球が、狂ったような質量で渦巻いていた。
──……ああ、懐かしいな。昔も、ブエナ村の特訓の時に、こうやってシルフィの火球に殺されかけたことがあったっけな……。
脳裏に、幼少期のあの特訓の日々の記憶が走馬灯のようにフラッシュバックした。だが、目の前にあるその炎は、俺の記憶にあるあの火球事件のレベルを、次元ごと遥かに超越していた。
それは、前世の記憶にある、あの傲慢の罪を背負った男が放つ最強の絶技──『
──あれ……? 昔はせいぜいメラゾーマくらいだったのに、なんで太陽が浮かんでるんだ……!?
俺が目を点にして硬直している間にも、シルフィの頭上の太陽はさらにその質量を膨れ上がらせていく。
「くらえ──!!」
シルフィが杖を振り下ろすのと同時に、その巨大な炎の質量兵器が、重力を置き去りにして地上へと一気に射出された。
「おいマジかよ──ッ!!!」
俺は本気の悲鳴を上げながら、体内のすべての魔力を振り絞って、頭上に最大出力の桃色の球状障壁を展開した。それと同時に、流閃剣の平面を斜め三十度に傾け、激突の衝撃をすべて外側へと滑らせる、完璧な受け流しの構えを取った。
──『水鏡の盾』
直後、世界が真っ白な炎の閃光に包まれた。
ラスターグリズリーたちの、この世の終わりかのような悲惨な絶叫が響き渡る。だが、彼らが凍りついた足元から逃げ出す術など、最初からどこにも残されていなかった。
猛烈な熱量と爆風が、俺の展開した水鏡の盾の表面を容赦なく打ち据えた。凄まじい衝撃波が
やがて、猛烈な熱風が収まり、辺りに静寂が戻った。
俺がようやく頭上の
……そこには、もう雪原の風景など、どこにも残っていなかった。
先ほどまで一面の銀世界だった地面は、雪が完全に溶けきって赤茶けた土が剥き出しになっており、俺の立っていた場所を中心に、直径数十メートルに及ぶ巨大なクレーターが、深々と抉られるようにして形成されていた。
クレーターのあちこちには、白銀の毛皮など一筋も残っていない、完全に火葬されたかのようなラスターグリズリーたちの『白い骨』だけが、綺麗に整列するようにして地面に転がっている。
上空から、風の残滓を纏いながらシルフィがひらりと地面に着地した。彼女は『翠狼の杖』を後ろに隠すようにしながら、少し申し訳なさそうな、上目遣いの表情で俺の元へと歩み寄ってきた。
「……ご、ごめんね、ルーク。相談もしないで、いきなりあんな大きいの撃っちゃって。……だいじょうぶ、怪我してない?」
俺はガタガタと震えそうになる膝を強引に突っ張り、引き攣った、無理やり作った笑顔を彼女に向けて返した。
「あ、ああ……。これくらい、大丈夫だよ、うん……」
口ではそう言ったものの、俺の内心はガクガクと恐怖でビクビクに震え上がっていた。
──……シルフィ、いつの間にあんな化け物みたいな大魔術を無詠唱で使えるようになってんだよ……。
かつて自分が「もっと火魔術を使え」と言ったのが、これほどまでの怪獣を生み出すきっかけになっていたなんて、想像すらしていなかった。
俺は、衣服についた黒い煤を払いながら、心の中で強く、強く誓った。
──……シルフィだけはこれからの人生で何があっても、絶対に怒らせちゃダメだ……。
昔何度も心の中で決意した。あの時よりは見違えるほど強くはなっているけれど、シルフィもそれは同様だった。
そんな俺の情けない内心の怯えを察したのか、馬車の影から顔を出したシャンドルさんが、「いやあ、本当に恐ろしいお嬢さんですねえ」と、いつもの上品な笑みを浮かべながら、同情するように俺の肩をぽんぽんと叩いてくれるのだった。
ラスターグリズリーの群れを討伐してから、不気味なほどの静寂が続いていた。
変化が訪れたのは、俺たちが寒々しい雪原へと差し掛かった頃だった。
突如として、大気を激しく引き裂く巨大な黒い影が、俺たちの頭上を覆い尽くした。何事かと、俺が咄嗟に顔を上空へと向けると、そこにはあの険しい赤竜の下顎を通過していた時に、何度も雲の隙間から見え隠れしていた、凶悪な翼を持つ巨大な存在が滑空していた。
「赤竜……?」
俺が思わずその名を呟くと、御者台で馬の手綱を引いていたシャンドルさんが、いつもの上品な細い目を僅かに険しくして空を見上げた。
「おや、はぐれ赤竜で間違いないでしょうねえ。たまに、ああいった群れの本隊から何らかの理由で弾かれ、理性を失って凶暴化した個体が麓へと降りてくることがあるのですよ」
馬車の窓からその姿を目撃したアリエル王女や、近衛のエルモアとクレアの二人は、目の前に現れた巨躯を前にして、顔を真っ青に染めて完全に硬直していた。彼女たちにとって、これほど間近で本物の竜を見るのは初めての経験なのだろう。シルフィは恐怖に身体を強張らせながらも、アリエル王女を死守せんと、風の魔術を放つ構えのまま一歩前へと踏み出そうとした。
だが、俺と師匠の二人の空気だけは、彼女たちとは完全に異なっていた。
俺は流閃剣の柄に右手をかけ、隣に佇むシャンドルさんへと視線を向けた。
「師匠。今回も、俺が前に出ていいんですか?」
「ええ、頼みましたよ、ルーク君」
シャンドルさんは悪びれる風もなく、金の棒を肩に担ぎ直してニコニコと笑ってみせた。アリエル王女たちは、目の前に災害級の魔物が迫っているというのに、なぜこの師弟はこれほどまでに平然としていられるのかと、驚愕と戸惑いの表情を隠せないようだった。シルフィもまた、アリエルたちの元へと近づいていくシャンドルさんの余裕の佇まいに目を丸くしている。
「ははは、アリエル殿下、そう怯える必要はありませんよ。我が自慢の弟子であるルーク君なら、これくらいは造作もありません。何しろ彼は、あのさらに凶暴なはぐれ黒竜を、たった一人で正面から討伐しているのですからねえ」
「な……っ!? あの、ドナーティ領周辺の森を恐怖に陥れていた黒竜を、単独でですか!?」
アリエル王女が、その気高い声を僅かに上ずらせて驚愕した。
それもそのはずだ。実はアリエル王女たちがアスラ王宮を脱出した後、ラノア王国への亡命が大幅に遅れていたのは、まさにその黒竜の脅威が国境付近に居座っていたからだった。ところが一人の謎の緑髪の少年がその黒竜を討伐したという噂が瞬く間にギルドを駆け巡り、その混乱と安全の確保に乗じて、彼女たちはこの上顎を越える決意を固めて亡命に至ったという背景があった。まさか、目の前にいるこの少年こそが、自分たちの亡命の道を切り開いた張本人であるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
凄まじい風圧と共に、血のように赤い鱗を纏った赤竜が俺の目の前へと轟音を立てて降り立ってきた。
その着地の衝撃が巻き上げた猛烈な雪飛沫が、俺が深く被っていた黒竜のコートのフードを容赦なく捲り上げる。白銀の世界のなかに、俺の特徴的な鮮烈な緑色の髪が、そして火傷跡が残る俺の顔と首元の生々しい赤い傷痕が完全に露わになった。
赤竜は、周囲の馬車や人間には目もくれず、ただ一人、自分の正面で圧倒的な闘気の密度を放っている俺の存在にのみ、その獰猛な二つの眼球を向けていた。魔物は大気を震わせる咆哮を上げ、今にもその巨大な顎で俺を噛み砕かんと、前足を深く踏み込んで襲いかかってくる。
対して、俺は目線をその赤竜の凶悪な視線から一ミリも逸らすことなく、腰の鞘から静かに、漆黒の刃を引き抜いた。
迷宮の守護者を倒し手に入れた、俺だけの相棒──
──さあ……あの黒竜とどこが違うのか、その肉体で俺に見せてみろ。
赤竜が、俺の肉体を叩き潰さんと、その巨大な右翼を強烈な速度で大上段から振り下ろしてきた。
俺は避けることも、通常の
──『水鏡の盾』
接触の瞬間、衝撃エネルギーは平面の傾きに沿って外側へと滑らかに受け流され、赤竜の翼は空を切って地面の雪を爆発させた。俺はそれと同時に、手首を鋭く返して薄い闘気を纏わせた流閃剣の刃を一閃させ、受け流したついでにその巨大な翼の付け根を滑らかに深く斬り裂いた。
次いで、赤竜は激しい苦悶の声を上げながら、巨躯を反転させて太い尾を叩きつけるようにして俺の脳天へと振り下ろしてくる。それも同様に、剣の平を斜めに傾けて衝撃を外へと逃がし、すれ違いざまにその尾の肉の層を綺麗に切り落とした。
──……軽いな。鱗の強度で言えば、あの黒竜の方が何倍も上だったか。
黒竜の鱗を斬った時は、闘気を極限まで圧縮しなければ僅かに引っかかるような硬質の抵抗があった。だが、この赤竜の鱗にはそこまでの硬度はない。攻撃の苛烈さや速度といった質に関しては大差ないように思えるが、肉体の頑強さという点においては、黒竜の方が圧倒的に上だった。
ただ、今回は前とは違い、俺の後ろにはアリエル王女やシルフィたちがいる。だからこそ、敵が広範囲を焼き尽くすあの『ブレス』の炎を放ち始めた時だけは、細心の注意を払わなければならなかった。通常の
すでに翼を斬っているため、この平地から赤竜が飛行して逃げることは不可能ですらあった。そもそも赤竜の骨格は、前世の記憶にある某狩猟ゲームのティガレックスのように前足と翼が一体化した構造をしていて、平地からの離陸には大きな助走を必要とする。あっちのモンスターは最高に格好良かったが、この世界の赤竜はどこか骨格のバランスが悪く、気持ちが悪い。竜というよりは、ただの巨大なトカゲという印象が強かった。
──いかんいかん、集中だ。集中しろ、ルーク。
自分の不甲斐ない前世の雑念を強引に振り払い、全神経を眼前の敵へと拡張させる。
尾を切り落とされ、右翼をズタズタにされた赤竜は、目の前の小さな人間が放つ圧倒的な格の違いに狼狽えるようにして、ずるずると後ろへと後ずさりを始めていた。
──よし、新しく改良したあれを、試してみるか
俺は『影縫い』の足捌きで地面の氷を一瞬で蹴り、黒竜のコートをはためかせて赤竜の懐へと弾丸のような速度で深く滑り込んだ。
──『四不斬』
本来、この技は無駄に人間を殺めないために、相手の『武器』『手首』『肘』『膝』の四箇所を正確に峰で強打し、皮膚も切らずに戦闘能力だけを奪う精密剣だった。だが、俺は修行のなかで、これを巨大な魔物相手に対応できるよう、独自の改良を加えていた。
狙うのは、赤竜の『四肢』そのもの。
赤竜が放つ僅かな『敵意の線』の先にある四つの点を、感覚だけで正確に捉え、流閃剣の刃先へと闘気を極限まで圧縮する。最小最速の軌道で、今度は手加減を一切無くし、赤竜の両足と両腕の肉と骨の芯を、一気にもぎ取るイメージで鋭く切り飛ばした。
支えを完全に失った赤竜の巨躯が、ドサリと激しい音を立てて地面の雪原へと倒れ伏す。
俺はその巨体に押し潰されるよりも早く、素早く赤竜の目前へと移動し、流閃剣を大上段へと両手で構え直した。不治瑕北神流の、真の質量破壊を宿すための、あの口上を紡ぐ。
「右手に剣を。左手に剣を。……我が名は不治瑕北神流──ルーク・グレイラット」
体内の闘気のすべてを刃先へと圧縮し、陽炎のように空間をメラメラと激しく歪ませる。
「──『陽炎』!!!」
一閃。陽炎を纏った漆黒の刃は、抵抗一つなく赤竜の太い首を滑らかに両断し、その巨大な頭部を雪原へと転がした。同時に、俺は流閃剣の刃をもう一度だけ翻し、転がっていた赤竜の大きな『尾』を、さらに細かく綺麗に切り離しておいた。
静まり返った吹雪のなか、シャンドルさんは何も言わず、ただただ嬉しそうにパチパチと両手で拍手を送ってくれた。
背後を振り返れば、アリエル王女、エルモア、クレアの三人は、目の前の十歳そこそこの少年が、赤竜をたった一人で、文字通り瞬く間に完全解体して討伐してしまったという信じられない現実に、唖然として言葉を失っていた。シルフィもまた、その驚愕に目を丸くしていたが、同時に、その瞳の奥にはどこか誇らしげで温かい表情が灯っていた。
「いやあ、流石ですねえ、ルーク君。非の打ち所のない完璧な立ち回りです」
「すごいよ、ルーク……っ! 赤竜をたった一人で、それも怪我一つしないで倒しちゃうなんて!」
シャンドルさんとシルフィが足元に駆け寄ってくる。俺は流閃剣についた血を払い、鞘へと納めながら息を吐いた。
「いや、あいつが本格的にブレスを吐き散らす前に、ここで早めに仕留めることができて本当に良かったよ。後ろにみんながいたから、炎を横に受け流すわけにもいかなかったからな」
俺が苦笑いしながら答えていると、アリエル王女が、未だに動揺でその細い身体を微かに震わせながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「……ルーク殿。まさかとは思いますが、今、ドナーティ領の周辺や冒険者たちの間でとてつもない噂になっている、あの『竜殺し』の少年とは……貴方のことなのですか? 森に住み着いたあの危険な黒竜を一人で討伐したという噂を聞いてはいましたが、シャンドル殿の先ほどの言葉と、今の圧倒的な赤竜討伐の光景を見て、すべてが一本の線で結びついてしまいました」
竜殺し、という何とも前世の中二病心をくすぐる恥ずかしい異名を聞かされ、俺は首元の傷跡をポリポリと指先で掻きながら、不器用に笑うしかなかった。
「あー……。恥ずかしいんでその名前で呼ぶのは勘弁してほしいんですけど、その黒竜を倒したのは、俺ですね、はい……」
アリエル王女はそれを聞いて、なるほどと深く納得したように頷き、それから心底から名残惜しそうにため息を漏らした。
「本当に、惜しいことをしました。貴方のような稀代の英雄が、私の正式な護衛騎士になってラノアについてきてくれれば、これほど心強いことはなかったのですけれど……。ふふ、もう終わった話を掘り起こしても無駄ですね」
アリエル王女がどこか気さくに笑い、俺が少し気まずそうに微笑んでいると、隣にいたシルフィが、地面に転がっている赤竜の尾の名残を見つめながら、不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、ルーク。……なんで最後に、その赤竜のしっぽだけ、わざわざ綺麗に切り離したの? 何かの素材に使うの?」
「ああ、これか。……しっぽ肉をね、一度、焚き火でじっくり焼いて食べてみたかったんだよ。昔からの、ちょっとした憧れでさ」
「……え?」
俺のそのあまりにも緊張感のない突飛な回答に、シルフィも、アリエル王女も、近衛の二人も、全員が完全に「はぁ?」と目を点にして硬直した。
それもそのはずだ。前世の幼少期の頃、テレビのアニメで観た、某国民的格闘漫画の主人公の息子(某悟飯)が、大自然のなかでの修行中に剣で恐竜のしっぽを切り落とし、それを焚き火で豪快に丸焼きにして美味そうに頬張っていたあのシーン。小さい頃の俺は、あのワイルドな生活に猛烈な憧れを抱いていたのだ。今世で本物の竜を倒せるだけの強さを手に入れた今、その長年の夢を叶えない手はなかった。
ただ一人、シャンドルさんだけは「ハハハハ!」と雪原の寒風を吹き飛ばすような豪快な大笑いを響かせ、目を輝かせた。
「いやあ! その発想は私にもありませんでしたねえ、ルーク君! 竜の肉を喰らうなど、長い人生のなかでも初めての経験ですよ! 実にワクワクしますねえ、さっそく今夜の野営で調理してみましょう!」
その日の夜、洞窟のなかで起こした焚き火の炎で、俺たちは切り落とした赤竜のしっぽ肉をじっくりと焼き上げた。
実際に口にしてみたその味は、意外なほどに悪くなかった。前世の記憶にあるジンギスカン──羊の肉に極めて近い、独特の弾力と強い旨味がある。野生の魔物特有の獣臭さはかなり強烈だったが、シャンドルさんが大袋から取り出したドナーティ領の香辛料をこれでもかと擦り込んで消してしまえば、十分に『イケる』味だと俺は思った。
だが、美味そうにバクバクと喰らう俺とシャンドルさんの横で、アリエル王女やシルフィ、近衛の二人は、その強烈な臭みに眉をひそめ、実になんとも言えないイマイチな表情で肉片を小さく咀嚼していた。その温度差のある師弟の日常が、張り詰めていた亡命の旅路の空気を、どこか優しく和ませていた。
☆☆☆
それからも、ラノア王国の国境を目指す俺たちの旅路は、静かに、着実に続いていった。
移動のなか、俺とシルフィは多くのことを語り合った。二分年半の空白を埋めるように、お互いがどんな風に生きてきたのかを話し合うなかで、俺がどうしても気になっていたのは、やはりあのラスターグリズリーの群れを一瞬で灰にした、彼女の凄まじい火魔術の進化についてだった。
「シルフィ。昔の特訓の時からは想像もつかないくらい、あの火球は凄まじかったな。あれはもう、大火球なんて生ぬるいレベルじゃないぞ。本当に、空に本物の太陽が浮かんだのかと思った」
俺が本気で感心しながら告げると、シルフィはハーフエルフの尖った耳の先を照れくさそうに赤く染めながら、でもどこか強い意志の宿る瞳で俺を見つめ返した。
「……うん。ルークとあの転移災害の日にはぐれちゃってから、ボク、一日も欠かさずに魔術の鍛錬をしてたんだよ。いつか生きてルークと再会できた時に、今度はボクが、ルークを守れるような強い女の子になって、ルークをびっくりさせたいなって、ずっと、ずっと思ってたんだ。……だけど、ルークはボクの想像よりもっともっと強くなってて、結局、ボクの方がびっくりさせられちゃったんだけどね」
シルフィはそう言って、少し悔しそうに、でも心底から嬉しそうに微笑んだ。
その彼女の言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、十歳の頃、初めてブエナ村の密林で風狼を二人で倒したあの日の記憶が鮮烈に甦ってきた。あの時、怪我を負いながらも、俺の後ろで彼女が叫んだあの言葉。
『──ボクはルークに守られてばかりの女の子じゃ嫌だ! ボクだって、ルークの隣で戦える女の子になるんだ!』
俺が少し懐かしそうにその言葉を口にすると、シルフィはハッとして目を丸くし、それから本当に愛おしげに、優しく微笑んだ。
「……うん。覚えててくれたんだね。……いつかまた、すべての旅が終わったら、こうやってルークと肩を並べて戦えるといいね」
「ああ。楽しみにしてるよ」
御者台で馬の手綱を引きながら、シャンドルさんが後ろを振り返り、そんな俺たちの甘酸っぱい会話を「フフ……」と目をさらに細めてニヤニヤと眺めていた。本当に、この師匠はこういう冷やかしの時だけは悪趣味極まりない。
そうして、長い旅路の果てに、俺たちはついに目的地である『ラノア王国』の国境へと辿り着いた。
ネリス公国、パシェラント公国と並び、世界で『魔法三大国』と称される、魔術の最高峰の国。各国との国境沿いに位置する魔法都市シャリーアには、世界中の魔術師が集う魔術ギルドの本部や、最高峰の技術を誇るネリス魔道具工房といった、魔術に関するあらゆる重要施設が存在している。そして何より、その中心には世界最大規模の敷地と歴史を誇る『ラノア魔法大学』がそびえ立っており、世のすべての魔術師たちの憧れの聖地とされていた。
俺たちが、長い護衛の旅の末に送り届けた終着駅が、まさにここだった。
魔法都市シャリーアの巨大な石造りの門の前。アリエル王女、エルモア、クレア、そしてシルフィの四人が馬車から降り立ち、俺とシャンドルさんの前に並んで立った。
「ルーク殿、シャンドル殿。本当に、ありがとうございました。貴方がた二人の圧倒的な力添えがなければ、私たちはラノアに辿り着く前に、あのはぐれ赤竜の餌になっていたかもしれません」
アリエル王女はそう言って、深く、気品に満ちた一礼を俺たちに捧げた。シャンドルさんはいつも通りの調子の良い笑みを浮かべて手を振る。
「いいえいいえ、私は何もしていませんよ、アリエル殿下。魔物を切り伏せたのはすべてルーク君とシルフィ殿の素晴らしい連携の賜物です。礼を言うのなら、どうぞ我が自慢の弟子に言ってあげてください」
「そうですね」
アリエル王女はくすりと笑い、それから俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「ルーク殿。改めて、心からの感謝を。……それから、貴方を私の正式な護衛騎士にする件、私はまだ、これっぽっちも諦めていませんからね? 貴方が修行を終えてこの地に帰ってきた時、私はさらに大きくなって貴方を迎え入れましょう」
最後までアリエル王女らしい、その貪欲で折れない執念の言葉に、俺は思わず苦笑しながらも、一人の戦士として不敵に微笑み返した。
「ええ。縁がありましたら、またアリエル様の護衛に就けることを、俺も願っていますよ」
二人は少しの間、対等な人間として微笑み合った。そしてアリエル王女は、俺の隣で名残惜しそうに俺のコートの裾を見つめているシルフィに視線を向け、大人の余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「さあ、ルーク殿。しばらくは、フィッツとこうして会うことも叶わなくなるでしょうから。……大切な時間を、どうぞ」
アリエル王女が近衛の二人を連れて一歩下がり、俺はシルフィの方へと振り返って、彼女の瞳と目線を合わせた。
一緒にラノア王国には行けないと告げたあの時とは打って変わり、今のシルフィの顔には、絶望の涙など一滴もなかった。黒いフードの奥にあるその顔には、確かな未来を信じるための、最高の、弾けるような笑顔が浮かんでいた。
「悪いな、シルフィ。前も言った通り、俺はまだ修行の途中だ。……だけど、約束する。すべての修行が終わり、強い剣士になったら、俺は必ずこのラノア王国に戻ってくる。その時に、また笑顔で再会しよう」
「うん! ボクも、ルークが戻ってくるその時までに、もっともっと魔術を磨いて、今度こそ自信を持って、ルークの隣に立てる強い女の子になるよ! だから、ルークも絶対に死んじゃダメだからね」
「ああ。楽しみにしてるよ、シルフィ」
「うん!!」
シルフィは力強く頷き、最高の笑顔のまま、アリエル王女たちの元へと駆け寄っていった。
俺と師匠は、魔法都市シャリーアの巨大な門の奥へ、彼女たちの後ろ姿が見えなくなるまで、吹雪のなかでただじっと佇み、その背中を静かに見送っていた。
「さて、それではルーク君。皆さんを無事に送り届け、臨時の護衛としての役割も終わりました。……これから、私たちはどこへ向かいましょうか?」
シャンドルさんが背後で、新しい金の棒を地面にトントンと突き立てながら、細い目を優しく細めて問いかけてきた。俺は流閃剣の柄を強く握り締め、南の空を見上げた。
「そうですね。……まだ、父さんたち家族の捜索も途中ですし、手紙を出すためにも、まずは色々な街を巡って情報収集を行いたいです。ルーデウスの行方も気になりますからね」
「良いですねえ! では、修行は、その長い旅路の道中で、移動しながら徹底的に並行していきましょうか!」
「ああ。望むところだ、師匠」
俺は笑顔で頷き、俺たちは魔法都市シャリーアの巨大な学舎に背を向けて、新たなる数年間の猛修行の旅路に向けて、力強く歩み出すのだった。
☆☆☆
シルフィサイド
魔法都市シャリーアの重厚な正門を潜り、ルークたちの姿が見えなくなった、長い回廊のなか。
アリエル王女は、隣を歩くシルフィの頭を、その細い指先で優しく、何度も撫で回していた。
シルフィのサングラスの奥からは、先ほどまでルークの前であれほど必死に堪えていた大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ出し、彼女の白い頬を濡らしていた。
「……最後は泣かずに、立派に笑顔で見送れましたね、シルフィ。偉いですよ」
「アリエル様……っ。う、うぇ……っ、ボク、本当は、ルークと離れたくなかった……っ!」
シルフィはアリエル王女のドレスの袖にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。アリエル王女は困ったように眉を下げながらも、その温かい母性で彼女の小さな肩を抱き寄せた。
「大丈夫ですよ。ルーク殿は、すべての修行が終わったら必ずここへ戻ると、貴女の隣に立つと、あの真っ直ぐな瞳で約束してくれました。……なら、私たちはここで、彼を信じて待ちましょう。彼が戻ってきた時に、恥ずかしくないくらい、貴女ももっと強くならなければいけませんね?」
「はい……っ、ボク、がんばる……っ。もっと強い魔術師になる……っ!」
シルフィは必死に袖で涙を拭い、ぐっと唇を噛み締めて前を向いた。アリエル王女はその健気な様子に、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼女を元気づけようと冗談を口にした。
「ふふ、でも心配ですねえ、シルフィ。数年後、ルーク殿が修行を終えてここに戻ってきた時、どこか別の土地で、もの凄く綺麗で、スタイルが良くて、とてつもなく強い別のお嬢さんを連れて現れたりしないと良いのですけれど」
それは、アリエル王女なりの、シルフィを少し怒らせていつもの活気を取り戻させようという、ちょっとしたユーモアの魂胆だった。
──だが、その予想とは裏腹に、シルフィの反応はアリエル王女の想定を遥かに超えていた。
「あ……、う、うあわぁぁぁん!! アリエル様ぁぁぁ──っ!!!」
シルフィは、先ほどまでの感動的な涙が嘘のように、さらに激しいパニックの涙をボロボロと流して絶叫した。
「どうしよう、どうしようアリエル様……っ! ルークって本当に、信じられないくらい無自覚に女の子を助けちゃうし、顔も格好良いし、剣もすごく強いから、ボクの知らないところで絶対にモテちゃうよぉ……っ! もし数年後、ボクよりずっと綺麗で、胸も大きくて、スタイルが良い大人の女の人を『俺の新しい仲間(お嫁さん)だよ』って連れてきたら、ボク、ボク……っ、その女の人を風魔術で谷底に落としちゃうかもしれないよぉ……っ!!」
「じ、冗談ですよ、ごめんなさいシルフィ!? ルーク殿に限って、そんな事をするような男には見えませんでしたから、落ち着きなさい、フィッツ!!」
普段は冷徹な守護術師フィッツが見せた、恋する乙女ゆえのあまりにも重く、かつガチすぎるヤンデレ寸前の狼狽ぶりに、アリエル王女は本気でギョッとして顔を引き攣らせ、大慌てで彼女を宥めるのだった。
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