周囲のざわめきが、意識の底に沈んでいた俺をゆっくりと引き上げていった。
──何度目だよ、これ。
聞き覚えのない話し声。土を踏みしめる足音。誰かが驚いたように叫び、それに別の誰かが応じている。頭の芯に鈍い痛みが残っていたが、それ以上に気になったのは、瞼を閉じていても分かるほどの眩しさだった。まるで真上から容赦なく照りつけられているような日差しに顔をしかめ、俺はようやく目を開いた。
見覚えのある太陽が、そこにはあった。
澄み渡った空。肌を撫でる乾いた風。鼻腔に入り込む土と草の匂い。見慣れた異世界の景色を前に、俺はしばらくぼんやりと空を眺めていた。これまでにも何度か経験した、あの奇妙な浮遊感と、身体の内側から何かを引き剥がされるような感覚が、まだ微かに残っている。あの場所から別の場所へ飛ばされたらしい。
身体を起こそうとして、ようやく自分が地面に倒れていたことに気づいた。服には土がついているものの、目立った怪我はない。左腰に手を伸ばせば、使い慣れた剣の柄が指先に触れた。流閃剣。その柄には、金属器としての力を宿した八芒星が、いつもと変わらず確かな存在感を放っている。少し離れた場所には、財宝の詰まった袋まで転がっていた。
俺はそれらを一つずつ確認してから、ようやく状況を理解した。
──そうか。攻略したんだった。
あの迷宮を。アモンの力を宿した流閃剣を手に、最後までたどり着き、転移魔法陣に乗った。そして俺は地上にいる。こうして身体も動くし、剣もある。持ち帰った財宝まであるのだから、迷宮攻略そのものは成功したと考えていいのだろう。
問題は、その隣にいるはずの人間が見当たらないことだった。
俺は目をぱちくりさせながら、周囲を見回した。すぐそばにいるのではないか。少し離れた場所で、あの人らしく呑気に辺りを眺めているのではないか。あるいは、俺より先に目覚めて、何か面白そうなものを見つけているのかもしれない。そんな、ありそうで、しかし今となっては都合の良すぎる想像をしながら、視線を巡らせた。
けれど、どこにも姿はなかった。
「……やっぱ、いないか」
口からこぼれた声は、自分で思っていたよりも小さかった。
想定していたことではある。あの場所で別れた時から、こうなる可能性は十分に考えていた。迷宮を攻略した先で別々の場所に飛ばされる。そういう仕組みなのだとすれば、俺と師匠が同じ場所に出られる保証なんてどこにもない。それでも、もしかしたら今回は違うかもしれないと、心のどこかで期待していたのだろう。
隣にいるはずの人を探してしまうくらいには、俺はまだ、あの四年間が終わったことを受け入れきれていなかった。
ふと、記憶が蘇る。
別れ際に師匠が見せた穏やかな笑顔。いつもなら冗談めかして俺をからかったり、こちらが恥ずかしくなるようなことを平然と言ったりする人が、あの時ばかりは、妙に真っ直ぐな目をしていた。
──『君と修行の旅をした四年間、私は一生、忘れませんよ』
あの言葉を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
不死魔族の血を引く師匠は、きっと俺よりもずっと長く生きていくのだろう。本人はすでに百年以上の時を過ごしているし、これから先も、俺には想像すらできないほど長い年月を歩んでいくのかもしれない。そんな人生の中で出会う人間も、経験する出来事も、俺が知っている範囲だけでは到底数えきれないはずだ。人の記憶はいつまでも同じ形を保つわけではない。大切な出来事であっても、時が経てば細部は薄れ、いつしか思い出の輪郭さえ曖昧になっていく。
それなのに、師匠は俺との四年間を忘れないと言ってくれた。
自分よりも遥かに長い時を生きる人間の記憶に、俺と過ごした時間が残り続ける。そう考えると、どうしようもなく嬉しかった。俺にとっては人生の大きな一部でも、師匠にとっては長い生涯の中の一時期にすぎないのかもしれない。それでも、あの人は俺との旅を大切なものだと言ってくれたのだ。
今世の別れみたいな雰囲気だったけど。
……いや、でもなぁ。
「……なんか、会える気がするんだよなぁ」
根拠なんてない。剣術の理屈でも、これまでの経験から導き出した答えでもない。ただの勘だ。あの人ならどこに飛ばされようが、大丈夫だろう。
いつかまた、あの金色の棍を肩に担いで、何事もなかったかのように笑いながら現れる。そんな姿が、妙にはっきりと想像できた。
自然と笑みがこぼれる。
──まあ、今はそれでいいか。
そうして気持ちに区切りをつけようとしたところで、頭上から聞こえてきた声が、俺の思考を遮った。
「……なんだ、この谷は」
「前まで迷宮があったよな? ここ」
「おい! 誰かいるぞ!」
──谷?
俺は顔を上げた。
そこではじめて、自分がいる場所の異常さに気づいた。
周囲を囲むのは、剥き出しになった土と岩の壁。人の背丈など簡単に超えてしまう高さの斜面が、円を描くように広がっている。見上げた先には数人の人影があり、こちらを覗き込んで何やら騒いでいた。彼らの足元から俺のいる場所まで、ざっと二十メートルほどはあるだろうか。
俺はゆっくりと首を回し、周囲を確認した。
迷宮がない。
あの神殿のような構造物も、石造りの通路も、何ひとつ残っていなかった。最初からそこにそんなものは存在しなかったと言わんばかりに、迷宮は忽然と姿を消していたのである。いや、正確には消えたというより、迷宮が存在していた空間そのものが抉り取られたようだった。俺が立っているのは、その跡地の中心。巨大なクレーターの底だった。
──あー、そっか。こんなんだったな。
攻略したら迷宮が消える仕様だったな。確か、アリババがこの迷宮を攻略した時も、ポツンと一人ここに座ってたんだったな。アリババと同じ気分を味わえていると思うと、どこか感慨深いな。
「おい、あんた! 聞こえてるか!? 無事なのか!?」
頭上から再び声が飛んできた。
とりあえず、まずはここから出よう。話はそれからだ。
「……無事だ!」
返事をすると、上にいた連中が一斉にこちらを見た。彼らは冒険者らしい装備を身につけており、剣や杖を携えている。迷宮の噂を聞きつけて訪れたのか、それとも消滅した後の騒ぎを聞いてやってきたのか。いずれにしても、俺がここで倒れているのを見つけたのは間違いないらしい。
そのうちの一人が、俺の顔を凝視したまま、信じられないものを見たように口を開いた。
「あ、あんた……もしかして、『竜殺し』か!?」
「……ああ、そうだ」
慣れない呼び名に、俺は少しばかり気恥ずかしくなって頭を掻いた。
こういう時、どういう顔をすればいいのか、未だによく分からない。自分のことを知っている人間がいるのはありがたい反面、こうして名前を知られていると、何をするにも妙に注目される。まあ、今さら緑髪を隠して歩くつもりもないし、顔の傷だって消せるわけじゃない。だったら、いっそ開き直ってしまった方が楽だろう。
俺は両脚に闘気を纏わせ、地面を蹴った。
土の壁を一度だけ蹴り上げ、身体の向きを調整しながら、斜面を駆け上がるようにして高度を稼ぐ。最後に縁へ手をかけ、そのまま身体を引き上げると、俺は何事もなかったかのように冒険者たちの前へ着地した。
周囲が静まり返る。
──……あれ?
視線を向けると、さっきまで騒いでいた連中が、揃いも揃って呆気に取られた顔をしていた。中には、口を半開きにしたまま俺の足元とクレーターの底を交互に見比べている奴までいる。
「……す、スゲェな、あんた」
「そりゃどうも」
俺は軽く手を振った。
──なんか引かれてる気がする。
いや、これくらいできるだろ。闘気を使える剣士なら、多少の高さを移動するくらい珍しくもない。二十メートルの穴から飛び上がってくるのは、確かに普通の冒険者からすれば驚く光景なのかもしれないが、少なくとも俺は、そこまで大袈裟に反応されるようなことをしたつもりはなかった。
まあ、いい。今はそれよりも、この状況について情報を集めたい。
「迷宮はどうなった? ここにあるってのは、嘘だったのか?」
冒険者の一人が、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「いや、あるにはあったさ」
「……どういうことだ?」
「攻略して出口に辿り着いたら、コレだ。俺も困惑してる」
俺は肩をすくめて、クレーターを振り返った。
嘘は言っていない。迷宮は確かに存在していたし、俺はそこを攻略してきた。攻略した後に迷宮が消えた理由までは知らないのだから、困惑しているというのも本当だ。ただし、あの迷宮の中で何があったのか、アモンが何者なのか、そして俺がそこで何を手に入れたのかについては、話すつもりがなかった。
説明したところで、面倒な質問が増えるだけだ。それに、下手に詳細を話せば、余計な警戒を招く可能性もある。俺としては、迷宮を攻略した冒険者として扱われるくらいがちょうどいい。
「……とりあえず退いてくれ。色々やる事があるんだ」
俺は財宝の詰まった袋を持ち上げ、相手の目に入るように軽く掲げた。
別に脅すつもりはない。ただ、これを見れば、俺がまだここで話し込む気はないと理解してくれるだろう。何より、迷宮跡の底から飛び上がってきた人間に、わざわざ喧嘩を売るような真似をする奴もそうはいないはずだ。
「あ、ああ」
案の定、冒険者たちは素直に道を空けてくれた。
俺は彼らに軽く会釈をして、その場を離れる。背後からはまだ、迷宮が消えた理由や俺が何者なのかを話し合う声が聞こえていたが、振り返ることはしなかった。
今は、まず街へ行こう。
財宝を換金して、これからの旅に必要なものを整える。それから、師匠がどこに飛ばされたのか、何か手掛かりがないかを調べる。
──まだ、完全に別れたわけじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は歩き出した。
☆☆☆
パシェラント公国に到着した俺は、まず財宝の換金を済ませた。
迷宮から持ち帰った品々は、想像していた以上の価値を持っていたらしい。鑑定を担当した商人は、袋の中身を一つずつ確認するたびに目の色を変え、最後には何度も帳簿を見直していた。こちらとしては、迷宮で手に入れたものを売って旅費にするだけのつもりだったのだが、提示された金額を聞いた時には、さすがに俺も目を丸くした。
アスラ金貨、二百枚。
──いや、ちょっと待て。二百枚?
これまでの旅で金に困ったことは数えるくらいだがある。宿代を節約するために野宿をしたり、食費を抑えるために安い飯で済ませたり、装備の修理代を惜しんで自分で直したり。そんな日々を送ってきた身としては、目の前に積まれた金貨の山は、どうにも現実味がなかった。
俺は金貨を数え直してもらい、間違いがないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
──全部取っておきゃ良かったな。
これだけあれば、しばらくは金の心配をせずに済む。装備の手入れにも、食事にも、宿にも、必要以上に気を遣わなくていい。何なら、今まで買うのを躊躇っていた道具や書物にも手を伸ばせるかもしれない。そう考えると、自然と頬が緩んでしまう。
もちろん、無駄遣いをするつもりはない。これから先、どこへ飛ばされるかも分からないし、何が起きるかも分からないのだから、金はいくらあっても困らない。
そうして俺は、パシェラント公国に数日間滞在することにした。
表向きの理由は、旅に必要な物資の補充と、今後の行き先を決めるための情報収集。だが、本当のところは、それだけではなかった。
師匠が戻ってくる可能性を、捨てきれなかったのだ。
迷宮を攻略した後、俺たちが別々の場所へ飛ばされたのだとしても、必ずしも遠く離れた場所とは限らない。もしかしたら、このパシェラント公国の近くにいるかもしれない。そう考えれば、数日ほど待ってみる価値はあるだろう。
俺は宿を取り、冒険者ギルドへ顔を出し、街の人間から話を聞いた。迷宮跡で何か異常なことが起きていないか。見慣れない旅人が現れていないか。長い黒髪の、金色の棍を持った男を見かけた者はいないか。
聞き込みをするたびに、俺は自分でも気づかないうちに期待していた。
ああ、そういえば見かけたぞ。そんな声が返ってくるのではないかと。
けれど、何日経っても、師匠の手掛かりは見つからなかった。
宿の窓から街を眺めても、見覚えのある姿はない。ギルドに顔を出しても、収穫はない。金色の棍を持った男がいたという噂すら聞こえてこない。
──やっぱり、近くには飛ばされていないのか。
魔大陸やベガリット大陸とかに飛ばされていたら、パシェラント公国まで戻ってくるのに、どれほどの時間がかかるだろうか。道中の危険を考えれば、最低でも一年半くらいは必要かもしれない。もちろん、師匠なら普通の旅人とは違う方法で移動する可能性もあるし、そもそも俺の予想が当たっている保証もない。
ただ、もしそうなら、ここで待っていても仕方がない。
あの場所で、俺たちは一度別れを済ませた。師匠も、俺がいつまでも自分を待ち続けることなど望んでいないだろう。むしろ、今の俺なら一人でもやっていけると信じてくれているはずだ。
そう思うと、寂しさと同時に、少しだけ誇らしい気持ちも湧いてきた。
四年前の俺なら、師匠と離れた途端に途方に暮れていたかもしれない。剣の振り方も、旅の仕方も、何を目指して進めばいいのかも、すべて誰かに教えてもらわなければ分からなかっただろう。
でも、今は違う。
剣を握れば、師匠から教わった技術がある。困った時には、これまでの経験をもとに自分で考えられる。道に迷ったとしても、自分で選んで進むことができる。
それに、俺にはまだ、やるべきことが残っている。
シルフィとの約束。家族を探すこと。そして、オルステッドに敗北したあの日から、ずっと胸の奥に残り続けている、自分自身の弱さへの悔しさ。
師匠と離れたからといって、それらがなくなるわけではない。
俺は宿の部屋で荷物をまとめ、黒竜のコートを羽織った。首元の傷に布が触れ、左額から左目にかけて残る火傷の痕が、窓から差し込む光に照らされる。腰には流閃剣。背負う荷物は、以前より少しばかり重くなったが、それでも一人で持ち運ぶには十分だった。
最後に部屋を見回して、忘れ物がないことを確認する。
──寂しいけど、俺も独り立ちしないと。
師匠がどこにいるのかは分からない。いつ再会できるのかも分からない。けれど、また会える気がするという、あの根拠のない確信だけは、今も変わらず胸の中にあった。
だから、今は前へ進もう。
いつか再会した時、胸を張って隣に立てるように。あの四年間が無駄ではなかったと、自分の成長で証明できるように。
俺は宿を出て、パシェラント公国の門をくぐった。北方大地を渡る風が、黒竜のコートの裾を揺らす。
師匠のいない旅が、始まった。
☆☆☆
パシェラント公国を離れてから、俺は街に宿を取ることをやめた。
理由は単純だ。せっかく師匠から離れ、一人で修行の旅を始めたのだから、今まで以上に過酷な環境に身を置いてみようと思ったのである。安全な街で宿を取り、温かい食事を食べ、柔らかなベッドで眠る。そういう生活が悪いとは思わないが、少なくとも今の俺が求めているものとは違う。師匠と過ごした四年間で、俺は十分すぎるほど恵まれた環境にいた。だからこそ、これからは自分一人の力で生きていくための経験を積みたいと考えたのだ。
もっとも、そうした決意を胸に抱いた俺にも、どうしても譲れないものが一つだけあった。
風呂である。
前世の俺は、どんなに疲れていようが、どれだけ面倒くさかろうが、風呂に入らずに眠ることには強い抵抗があった。いわゆる風呂キャンというやつだが、あれだけはどうしても受け入れられない。疲労困憊で帰宅した夜だろうと、翌朝が早かろうと、身体を洗ってからでなければ落ち着いて眠れなかったのだ。もちろん、この世界に来てからは野宿も珍しくなくなった。それでも、せめて身体を洗い、汗や汚れを落としてから眠りたいという気持ちは、二十歳を超えてから別の人生を歩み始めた今も、妙に根強く残っていた。
そのため、野宿を始めてからの俺は、川や湖を見つけるたびに水浴びをするようにしていた。
冬はもう明けている。北方大地とはいえ、日中の気温は少しずつ上がり始めており、厚手のコートを着ていれば汗ばむこともある。とはいえ、水はまだ冷たい。普通の人間なら、全身に浴びた瞬間に身体が縮こまり、そのまま風邪を引いてもおかしくないほどの冷たさだった。
そして俺は、そんな水を毎回、容赦なく頭から被っていた。
「っっっっっっっっ、つめたぁあああああああああああああああああああっ!!」
山間に響き渡る、情けない悲鳴。
誰も見ていないことをいいことに、俺はその場で飛び上がり、濡れた身体を震わせながら水辺を走り回った。もちろん、最初の一回だけではない。二度目に水を被る時も、三度目に頭を濡らす時も、身体が冷たさに慣れるまでは同じように声が出てしまう。闘気を纏えば寒さを多少は和らげられるかもしれないが、それでは鍛錬にならないし、そもそも水浴びのためにそんなことをするのも馬鹿らしい。
……いや、やっぱり温かい風呂に入りたい。
そんな切実な願いを胸に抱きながら、俺は濡れた髪を両手で絞った。
随分と長くなってしまったものだ。父さん──パウロさんのように、後ろ髪だけを伸ばしているわけではない。髪全体が伸びており、濡れた状態では首元から肩にかかるほどの長さになっていた。例えるなら、不良時代の三井寿や、長髪になったエレン・イェーガーに近いだろうか。鏡があったら、思わず「戦え」と言いたくなるような髪型である。
もっとも、髪型にこだわるような人間でもない。そもそもこの世界には美容室もなければ、髪を整えるために使う道具だって限られている。伸びた髪を切るのも面倒だし、長ければ長いで結んでしまえばいい。濡れた髪を布で丁寧に拭き、余分な水気を取り除いてから、後ろで一つに縛る。髪にはあまり良くないのかもしれないが、今世ではそんなことを気にしなくなった。
男の子だしね。
身体を拭き終えると、俺は黒竜のコートを羽織り、焚き火のそばへ戻った。脱いでいた装備を身につけ直し、流閃剣を手の届く場所に置く。焚き火はまだ十分に燃えていたが、念のため、近くにあった枝を一本拾い上げて空中へ放り投げた。腰の剣を抜き、落ちてくる枝を一閃。細かく分かれた木片が火の中へ落ちると、火の粉が舞い上がり、暗くなり始めた洞窟の内部を橙色に照らした。
今、俺が寝床にしているのは、ラスターグリズリーの群れが住んでいた巣穴である。
最初に見つけた時は、こんなところで眠ることになるとは思っていなかった。だが、夜の冷え込みを凌げる場所を探して森を歩いていたところ、偶然にも彼らの住処を見つけたのだ。普通なら、ラスターグリズリーの巣穴に近づくなど自殺行為に等しい。体格も力も人間とは比較にならず、まともに戦えば、並の冒険者では一頭を相手にするだけでも苦戦するだろう。
長い話し合いの末、快く貸し出してもらえた。
夜はまだ冷えるからな。
ありがとう、ラスターグリズリー。
そんなわけで、俺は今、魔物の巣穴を間借りしながら生活していた。食料は自分で調達し、水浴びも自分で済ませ、火の番も自分で行う。師匠と旅をしていた頃は、野営の準備や見張りを分担できたし、困ったことがあれば相談する相手もいた。だが、今は違う。すべて自分で考え、判断し、実行しなければならない。
それは面倒でもあったが、同時に、妙な充実感もあった。
師匠がいなくなって、まず何をすべきか。
パシェラント公国を出る前から、そのことをずっと考えていた。剣の修行を続けるのは当然として、今の俺には、もう一つ取り組むべき課題がある。
流閃剣。
アモンの力を宿した、俺の新しい剣だ。
俺は焚き火の前に腰を下ろし、剣を膝の上に置いた。黒い刀身には火の光がぼんやりと映り込み、柄に刻まれた八芒星が、揺らめく炎を受けて鈍く輝いている。
この剣は、ただの武器ではない。
迷宮を攻略したことで、俺はアモンを金属器として流閃剣に宿すことになった。マギの世界における金属器とは、ジンの力を宿した特別な武器であり、使い手が魔力を注ぐことで、その力を引き出せる。武器としての能力解放に始まり、身体の一部をジンの力で変化させる半身魔装、そして全身をジンの力で包み込む全身魔装。さらに、全身魔装を極めれば、極大魔法と呼ばれる超常的な破壊力を持つ魔法を放つこともできる。
原作知識が正しければ、そういう仕組みだったはずだ。
そして、俺の中には一つの考えがあった。
アリババは、カシムとの魔力が混ざり合ってしまったことで、全身魔装を会得するまでに時間がかかっていた。だが、俺の場合は違う。少なくとも、今のところは、誰か別の人間の魔力が混ざっているという自覚はない。
それに、俺は剣に関してはそれなりに才能がある。
不治瑕北神流の技を自分で編み出し、破断を会得し、師匠からも北帝を名乗っていいと言われた。四年間の修行で、自分の剣術には確かな自信がついた。もちろん、世界には俺より強い人間がいくらでもいるし、オルステッドに敗北したことも忘れてはいない。それでも、剣術に関しては、俺は自分の才能を信じていた。
だからこそ、金属器の扱いだって、少し練習すればどうにかなると思っていたのである。
──甘かった。
「……微塵も分からん。なんだコレ」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
剣を握り、魔力を流す。少なくとも、頭の中ではそうしているつもりだった。身体の内側にある魔力を意識し、それを腕から手へ、そして剣へと送り込む。魔術を使う時の感覚を思い出しながら、できる限り丁寧に、慎重に。
しかし、流閃剣は何の反応も示さなかった。
正確に言えば、反応がないわけではない。いつも通り、俺の闘気を受けているだけだ。剣を握った瞬間から、身体に染みついた感覚が勝手に働き、魔力を闘気へと変換してしまう。剣士として長年鍛えてきたせいなのか、それとも、魔力を扱う訓練を長い間していなかったせいなのか。あるいは、俺自身が闘気を使うことに慣れすぎてしまったのか。
原因は分からない。
ただ、金属器としての力を引き出そうとしているのに、結果として普段通りの剣術しか使えないというのは、何とも情けない話だった。
俺は剣を見つめながら、深く息を吐いた。
──いや、待て。そもそも、魔力を流すってどうやるんだ?
魔術を使う時は、魔力を集め、術の形を思い描き、必要に応じて詠唱や制御を行う。だが、金属器の場合はどうなのだろう。剣に魔力を注ぐというのは、単純に魔力を送り込めばいいのか。それとも、アモンの力を引き出すために、何か特別なイメージが必要なのか。
原作では、金属器を使う者たちは当たり前のように能力を発動させていた。アリババだって、最初からすべてを理解していたわけではないにせよ、金属器を使うための感覚を身につけていったはずだ。
──ちょっと練習したら、白龍みたいに使えるようになると思ったんだけどなぁ。
そんな都合のいい話があるわけなかった。
そもそも、俺は魔術師ではない。ルーデウスのように無詠唱魔術を自在に扱えるわけでもなければ、シルフィのように魔術を日常的な技術として使いこなしてきたわけでもない。ルーデウスがボレアス家へ行ってからというもの、俺は剣術の修行に集中していた。魔術を練習する時間がなかったというより、剣術を鍛えることに夢中で、魔術のことをすっかり後回しにしていたのである。
その結果が、これだ。
剣術なら、身体を動かせば何となく答えが見える。どう振るか、どこに力を入れるか、どのタイミングで踏み込むか。そういったものは、何度も繰り返すうちに感覚として身についていった。
だが、金属器は違う。
剣を振る技術があるからといって、ジンの力を扱えるわけではない。むしろ、剣士として身体に染みついた習慣が、今は邪魔をしている可能性すらある。
俺は一度剣を鞘に収め、両手を見つめた。
──慣れていくしかないのかな。
結局、それしかないのだろう。
そう考えて、俺は再び剣を抜いた。
今度は、闘気を纏わないように意識する。剣を握る手の力を抜き、身体の内側にある魔力だけを感じ取ろうとした。魔力を腕へと流し、手のひらへ集める。そこから剣へ移すつもりで、慎重に意識を向けていく。
……駄目だ。
気がつけば、また闘気が流れていた。
「…………」
俺は無言で剣を鞘に戻した。
今日はもう寝よう。
明日になれば、何か分かるかもしれない。そう思うことにして、焚き火のそばに横になる。最後にもう一度だけ枝をくべてから、俺は目を閉じた。
☆☆☆
それから一ヶ月が経った。
結論から言おう。何も進歩していない。
朝起きて素振りをし、身体を鍛え、食料を確保する。その合間に金属器の修行を挟み、夜になれば焚き火の前で流閃剣と向き合う。魔力の流し方を変えたり、剣を握る手の力を抜いたり、魔術を使う時の感覚を思い出したり、思いつく限りの方法を試してみた。
それでも、金属器としての力は一向に発動しなかった。
剣に魔力を流そうとすると闘気へ変換される。闘気を抑えようとすると、今度は魔力を上手く感じ取れない。魔力を意識しすぎると、普段の剣術までぎこちなくなる始末である。
何度も試し、何度も失敗し、何度も首を傾げた。
そのたびに、俺は自分の才能というものについて考えさせられた。
剣術に関しては、確かに才能があったのだろう。師匠もそう言ってくれたし、自分でもそう思っている。だが、だからといって、すべての技術を簡単に身につけられるわけではない。剣を振る才能と、魔力を扱う才能は別物なのだ。
そんな当たり前のことを、俺は今さら思い知らされていた。
「……はぁ」
焚き火の前で、俺は深いため息をついた。
流閃剣を膝に置き、柄に刻まれた八芒星を指先でなぞる。金属器としての力を宿した証であるそれは、俺が迷宮を攻略したことを示している。あの時は、これさえあれば新しい力を手に入れられると思っていた。
しかし、現実はそう甘くなかった。
──何やってんだろうな。
もちろん、諦めるつもりはない。せっかく手に入れた力なのだから、いつか必ず扱えるようになりたい。アモンの力を引き出せれば、今までの自分にはできなかったことができるようになるかもしれない。オルステッドに敗北したあの日から、俺はもっと強くなりたいと願ってきた。だったら、この程度の壁で立ち止まるわけにはいかない。
……とはいえ、一ヶ月間まったく進歩がないというのは、さすがに堪える。破断を習得するまでの期間は、まだ他の技を編み出し使用していたからこそ、あまり気にしないでいられた。でも、これは話が違う。
俺は流閃剣を鞘に収め、壁に立てかけた。
今日はもういい。
そう思った瞬間、ふと、自分の身体が妙にべたついていることに気づいた。ここ数日は水浴びをするにも水辺が遠く、濡らした布で身体を拭くだけで済ませていたのだ。汗や土の汚れは落とせても、やはり温かい湯でさっぱりしたいという気持ちは抑えられない。
……温泉とか、ないかな。
この世界にも温泉があることは知っている。いつか機会があれば、ゆっくり浸かってみたいものだ。だが、今いる場所の近くに温泉があるかどうかも分からないし、探すためだけに何日も歩き回るのは面倒だった。
それなら、街へ行こう。
宿を取って、温かい湯を使わせてもらう。ついでに食料や消耗品も補充できるし、何か面白い話が聞けるかもしれない。金なら、迷宮で手に入れた財宝を換金したおかげで十分にある。こういう時くらい、少し贅沢をしたって罰は当たらないだろう。
俺は黒竜のコートを羽織り、流閃剣を腰に帯びて、洞窟を後にした。
久しぶりに訪れた街は、思っていた以上に賑わっていた。
通りには商人の声が響き、荷車が石畳を軋ませながら進んでいく。露店には見慣れない食材や装飾品が並び、冒険者らしき人間たちが、武器や防具を身につけて行き交っていた。街に入った途端、さまざまな匂いが一度に押し寄せてくる。焼いた肉の香ばしさ、パンの甘い香り、酒場から漂う酒の匂い。どれも、野宿生活を続けていた俺にとっては懐かしいものだった。
まずは宿を探そう。
できれば、風呂があるところがいい。
そう思いながら通りを歩いていると、少し先の酒場から、冒険者らしき男たちの会話が聞こえてきた。
「剣の腕を磨きたいなら、やっぱり剣の聖地だろ」
「おいおい、あそこは剣神流の本拠地だぞ。誰でも気軽に行ける場所じゃないだろう」
「だからこそ行く価値があるんじゃねえか。腕に自信のある剣士なら、一度はあそこを目指すもんだ」
剣の聖地。
聞き慣れない名前だった。
俺は歩みを緩め、聞こえてくる会話に意識を向けた。どうやら、剣士たちの間では有名な場所らしい。剣神流の本拠地であり、腕を磨きたい者にとっては憧れの地なのだとか。詳しい場所や、どのような剣士がいるのかまでは分からなかったが、少なくとも、剣術を学ぶために訪れる価値のある場所であることは伝わってきた。
──へえ。そんなところがあるのか。
俺は少しだけ興味を惹かれた。
今の俺は北神流の免許皆伝を受けている。北帝を名乗ってもいいと師匠から言われるほどには、剣術を身につけたつもりだ。だからといって、もう学ぶことがないわけではない。むしろ、師匠と別れた今だからこそ、自分の剣術を見直す機会が必要なのかもしれない。
それに、剣の聖地には強い剣士が集まるという。
自分とは異なる流派の技術を目にすることができれば、今まで気づかなかったことを学べるかもしれない。北神流の技術を土台にしながら、別の流派の考え方を取り入れる。それは、これから一人で修行を続ける俺にとって、決して悪い選択ではないはずだ。
ただ、一つだけ問題がある。
金属器の修行だ。
俺はここ一ヶ月、アモンの力を扱うために試行錯誤を繰り返してきた。何も進歩していないとはいえ、だからといって諦めたわけではない。むしろ、これからも続けていくつもりだった。せっかく手に入れた力を、使えないまま放置するつもりはない。
ならば、剣の聖地へ向かうのは遠回りなのだろうか。
俺は通りの端に立ち、しばらく考え込んだ。
剣の聖地へ行けば、確かに新しい技術を学べる可能性がある。だが、金属器の扱い方が分かるようになるとは限らない。そもそも、あの場所に金属器について知っている人間がいるのかどうかすら分からないのだ。
一方で、このまま一人で修行を続けても、現状を打破できる保証はない。今のやり方が間違っているのなら、別の視点を得る必要があるだろう。
……いや、待て。
そもそも、どうして二つのうち一つしか選べないと思っているのだろう。
剣の聖地へ向かったところで、金属器の修行をやめる必要はない。移動中だって練習はできるし、目的地に着いてからも続けられる。新しい剣術を学ぶことと、アモンの力を扱うことは、必ずしも相反するものではないのだ。
それなら、両方やればいい。
俺は自分の考えに納得し、小さく頷いた。
──よし。決まりだ。
まずは剣の聖地へ向かおう。そこでどんな剣士に出会えるのか、どんな技術を学べるのか。それを確かめてから、今後の修行について考えればいい。金属器の扱いについても、何かきっかけが見つかるかもしれない。
もちろん、剣の聖地が俺にとって都合のいい場所だとは限らない。剣神流の本拠地なら、北神流の剣士である俺を歓迎しない人間もいるだろう。そもそも、俺には剣神流の適性がないらしい。そこで剣神流を学ぶことになったとしても、思うように成果が出るとは限らない。
それでも、行ってみる価値はある。
師匠がいなくなった今、俺は自分で道を選ばなければならない。だったら、迷っているよりも、実際に足を運んで確かめた方がいいだろう。
俺は宿を探すために再び歩き出した。
まずは温かい湯で身体を洗い、久しぶりにまともな食事を取ろう。それから旅の準備を整えて、剣の聖地を目指す。
アモンの力を扱えるようになるまで、どれほど時間がかかるのかは分からない。剣の聖地で何を学べるのかも、まだ何も知らない。
けれど、少なくとも一つだけ、はっきりしていることがある。
俺はまだ、強くなれる。
そのために何を学び、どこへ向かうのか。それを決めるのは、もう師匠ではない。
俺自身だ。
そうして俺は、北方大地の最果てにあるという剣の聖地を目指すことにした。
活動報告を書きました。この二次小説についてが書いてあります。
もし宜しければ、見ていただけると幸いです。
よろしくお願いします。