いくつかの街や村を通り抜けた。場所によっては雪がちらつき始めていたが、まだ旅を続けるのに支障が出るほどではない。街道沿いの店で食料を買い足し、夜になれば宿を取り、時には魔物を狩って食料を確保する。誰かと予定を合わせる必要もなければ、こちらの都合を気にする相手もいない。好きなときに歩き、疲れたら休み、腹が減れば食べる。自由気ままな一人旅というのは、こういうものなのだろう。……まあ、話し相手がいないのは少し寂しいけれど。
師匠と旅をしていた頃は、何かと騒がしかった。俺が考え事をしていれば話しかけてくるし、魔物を見つければ嬉々として戦い方を解説し始める。こちらが疲れていることなどお構いなしに、夜中まで酒を飲みながら武術談義を続けることもあった。正直、面倒だと思うことも少なくなかったのだが、いざ一人になってみると、あの騒がしさが妙に懐かしく感じられる。
──人間ってのは、勝手なもんだな。
そんなことを考えながら、俺はさらに西へと歩みを進めた。
旅の道中、俺はかつてアリエル様たちを送り届けたラノア王国を通り抜けた。広大な雪原の向こうには、かつて別れを告げたラノア魔法大学の建物が遠くそびえており、冬の澄んだ空気の中、その白い影はどこか現実離れしたものに見えた。あの場所に足を踏み入れたのは、もう二年近く前のことになる。時間が経つのは早いものだと、そんなありふれた感想を抱きながら歩いていた俺の頭に、ふと、一人の少女の姿が浮かんだ。
シルフィ。今頃どうしているだろうか。
元気に学校へ通っているだろうか。友達はできただろうか。授業についていけずに困っていたり、知らない人ばかりの環境に馴染めず、一人で寂しい思いをしていたりしないだろうか。俺が最後に会ったときのシルフィは、魔術の腕こそ目を見張るほど成長していたものの、引っ込み思案なところや、少し困っただけですぐ泣きそうになるところは、昔とそれほど変わっていなかった。もちろん、あれから二年も経っているのだから、今はもう少ししっかりしているのかもしれない。むしろ、俺の知らないところで成長して、すっかり立派な魔術師になっている可能性だってある。
そう考えると、少しだけ寂しいような、それでいて嬉しいような気持ちになった。
──心配だな。
俺は懐に手を入れ、そこに大切にしまってある小さな包みにそっと触れた。中に入っているのは、あの迷宮で手に入れたエメラルドのイヤリングだ。緑色の石が光を受けてきらめく、綺麗なアクセサリーである。手に入れたときから、いつかシルフィに渡そうと考えていた。いや、正確には、手に入れた瞬間から渡す相手がシルフィだと決めていたわけではない。だが、ほかに渡したい相手がいるかと聞かれれば、そんな人間は一人も思い浮かばなかった。
──……女の子に渡すプレゼントとして、アクセサリーはさすがにやりすぎか?
そもそも、俺とシルフィはどういう関係なのだろう。幼馴染と言うには一緒に過ごした時間が長いわけでもない。精々五年くらいだ。友達と言うには、シルフィからもらった手作りの首飾りを今でも大切に持ち歩いている俺の態度は、少々大げさな気もする。かといって、恋人かと聞かれれば、そんな事実はどこにもない。そもそも、俺たちはお互いの気持ちを確かめ合ったわけでもないのだ。そんな相手に、宝石のついたイヤリングを渡す。……うん、冷静に考えれば、結構重い気がしてきた。
もし、シルフィに困った顔をされて、「こんなの受け取れないよ」とでも言われたらどうしよう。いや、そこまで露骨に拒絶されることはないかもしれないが、気を遣わせてしまう可能性は十分にある。そうなったら、俺はきっと一週間くらい立ち直れない。いや、一週間で済むだろうか。旅の途中で何度も思い出しては頭を抱え、最終的には自分の判断を呪いながら、また別の街へ向かうことになるかもしれない。
──……いやいや、考えすぎだ。
俺はそこで、慌てて自分の考えに待ったをかけた。
そもそも、シルフィだって俺に手作りの首飾りをくれたじゃないか。あれだって、俺の誕生日を祝うためにわざわざ作ってくれた、大切な贈り物だ。ならば、俺が彼女に何かを贈ったところで、別におかしな話ではないはずだ。お互いにプレゼントを渡し合う。それだけのことだ。何も問題はない。
──…………待てよ。
俺は思わず足を止めた。
首飾りのお返しなら、もう渡している。シルフィの誕生日に、俺は翠狼の杖を贈ったのだ。あれはあれで、ずいぶんと気合いの入った贈り物だったと思う。何せ、あの有名な杖職人に頼んで作ってもらった一点物だ。今思い返しても、なかなか豪華なプレゼントだった。
つまり、このイヤリングはお返しという名目では渡せない。
──……まずいな。急に難しくなってきたぞ。
俺は雪の積もった道端で腕を組み、真剣に考え込んだ。別に、今すぐ渡すわけではない。シルフィと再会できたときに渡せばいいだけの話だ。だが、いざそのときになって、どうしてこれを用意したのかと聞かれたら、俺は一体なんと答えればいいのだろう。迷宮で綺麗な宝石を見つけたから、君に似合うと思った。……いや、それではまるで、君のことを考えながら宝石を選んだみたいではないか。実際、そうなのだけれど。
考えれば考えるほど、余計なことばかり頭に浮かんでくる。
そして、しばらく悩んだ末に、俺は一つの結論へとたどり着いた。
成人祝いだ。
そう、成人祝い。俺がラノア王国へ戻る頃には、おそらく十五歳を越えているだろう。シルフィだって、きっと大人に近づいているはずだ。その節目に、少し良い贈り物をする。何も不自然なことはない。むしろ、再会した友人の成長を祝うのだから、ごく自然な行為ではないだろうか。
うん。これならいける。
俺は何度か頷き、自分の中でその理由をしっかりと固めた。
前世でも、付き合っていた彼女の誕生日にアクセサリーを贈ったことはある。だが、あれは恋人同士という前提があったからこそ、何のためらいもなくできたことだ。今の俺とシルフィの間には、まだ何の約束もない。俺は彼女の気持ちを知らないし、自分の気持ちだって、正面から見つめるのは少しばかり気恥ずかしい。
それなのに、俺は今、再会したら彼女に宝石を贈ることを考えている。
──……まあ、大丈夫だろう。
俺はその事実から、ひとまず目を逸らすことにした。
シルフィなら、きっと喜んでくれる。あいつはそういう女の子だ。俺が贈ったものを、きっと大切にしてくれる。だから、別に問題はない。うん、ないはずだ。
そうして自分を納得させた俺は、再び歩き始めた。懐にしまったイヤリングが、先ほどよりも少しだけ重くなったような気がしたが、きっと気のせいだろう。
☆☆☆
ラノア王国からさらに西へ進むと、世界の景色は一変した。
それまで雪原の向こうに広がっていた街道や人里は次第に姿を消し、視界を埋め尽くすのは、どこまでも続く険しい山々と、吹き荒れる白い雪ばかりになっていく。気温も急激に下がり、頬を撫でる風は、もはや冷たいというよりも、むき出しの肌を容赦なく削り取っていくようだった。普通なら、こんな場所を薄着で歩き続ければ、手足の感覚がなくなるどころか、命の危険すらあるだろう。
だが、俺の身体は不思議なほど寒さを感じていなかった。
「……本当にいいコートだな。ありがと師匠」
俺は襟元を軽く押さえ、自分の身体を包んでいる黒いコートを見下ろした。
これは、かつて俺が単独で討伐した黒竜の素材を使って作られたものだ。師匠が餞別として、俺と自分の分をお揃いで仕立てさせた、特別な一着だった。手に入れた当初は少しばかり大きく、袖も裾も余っていたのだが、今となっては驚くほど身体に馴染んでいる。成長したんだな、と当たり前のことを思う一方で、以前このコートを着た俺の姿を見て、師匠がどんな顔をしていたのかまで、妙にはっきりと思い出せた。
あの人も、同じコートを着ていた。
ただし、師匠の場合は、どれだけ寒い場所でも平然としているくせに、少し動けばすぐに汗だくになっていた気がする。あの体格で、あの筋肉量だ。寒さを防ぐために着込んでいるはずなのに、本人は暑くてたまらないという、何とも妙な光景だった。
そんな姿を思い出し、俺は吹雪の中で小さく笑った。
今頃、師匠はどこで何をしているのだろう。相変わらず世界中を気ままに旅しているのか、それとも、どこかの街で困っている人間を見つけては、頼まれてもいないのに手を貸しているのか。あの人なら、どこへ行っても変わらない気がする。自分の行く先すら決めず、目の前にいる誰かを助けるためだけに、平然と予定を変えてしまうような人なのだから。今思えば変な人だった。
けれど、俺はそんな師匠と過ごした時間が好きだった。
剣を教わり、何度も地面に叩きつけられ、泥まみれになりながら立ち上がる。少しでも油断すれば容赦なく鉄の棒が飛んできて、こちらが何かを思いつけば、面白がって実験に付き合ってくれた。二、三年ほど前か。あの人相手に一本取るという修行はまさしく地獄だったな。厳しい人だったが、俺の考えを頭ごなしに否定することはなかった。俺が自分なりの技術を形にするたび、まるで自分のことのように喜んでくれた。
今の俺がここまで戦えるのは、間違いなくあの人のおかげだ。
そして、こうして極寒の土地を一人で歩いていられるのも、師匠がこのコートを用意してくれたからこそだった。
離れていても、俺はあの人に守られている。
そんな感覚が、少しだけ嬉しかった。
俺は再び前を向いた。吹雪の向こうには、剣の聖地へと続く道が伸びている。そこへ行けば、また新しい出会いがあるのかもしれない。自分の知らない剣術を学び、今までとは違う強さを手に入れられるのかもしれない。
そう考えると、自然と足取りが軽くなった。
夜になる頃、俺はようやく剣の聖地の麓にある街へとたどり着いた。疲労はあったが、黒竜のコートのおかげで身体が冷え切ることもなく、道中の魔物も大きな問題にはならなかった。明日の朝には、いよいよ剣の聖地へ向かうことになる。
さすがに、夜中に訪ねるのは失礼だろう。
そう考えた俺は宿を取り、久しぶりに暖かい食事と寝床を確保することにした。
明日からは、また別の修行が始まる。
そう思いながら、俺は窓の外で降り続ける雪を眺めていた。
翌朝、俺は宿で軽く腹を満たしてから、剣の聖地へと向かった。
麓の街を抜け、山へと続く道をしばらく進むと、やがて周囲の景色が変わり始めた。雪をかぶった木々の間から姿を現したのは、木造の建物が立ち並ぶ一角だった。反り返った屋根に、太い木材を組み合わせた柱、丁寧に整えられた石畳。建物の造りにはどこか懐かしさを覚えるものがあり、前世の日本で見た寺社や武道場を思い出させた。ただし、ここは日本ではない。建物の周囲には闘気を纏った剣士たちが行き交い、腰にはそれぞれ異なる形の剣を差している。彼らの動きには無駄がなく、何気なく歩いているだけでも、身体のどこかに常に力が宿っているのが分かった。
ここが剣の聖地。
世界中の剣士が憧れ、剣神流を学ぶ者たちが集う場所。そんな場所に、俺はようやくたどり着いたのだ。
──……さて、どうしたものか。
ここまで来たはいいものの、具体的に何をすればいいのか、実はあまり考えていなかった。剣神に会って、強くなりたいので教えてください、と頼めばいいのだろうか。いや、さすがにそんな単純な話ではないだろう。剣神だって暇ではないはずだし、見ず知らずの人間が訪ねてきたからといって、すぐに会ってくれるとは限らない。
とはいえ、いつまでも入口で悩んでいても仕方がない。俺は黒竜のコートの襟元を整え、門の前まで歩いていった。
門は大きく、左右には頑丈な木の柱が立っていた。その奥には道場らしき建物が見え、どこかから木刀の打ち合う乾いた音が響いてくる。朝早い時間だというのに、すでに修行は始まっているらしい。掛け声が山の冷たい空気を震わせ、剣士たちの足音が規則正しく重なっていた。
俺は門の前に立ち、軽く息を整えてから、木の扉を叩いた。
コン、コン。
少し待つと、奥から足音が近づいてきた。やがて扉が開き、白い道着に身を包んだ男が姿を現す。年齢は二十代半ばほどだろうか。背筋はまっすぐ伸び、腰には一振りの剣。整った顔立ちをしているが、こちらを見つめる目には、門前に立つ見知らぬ人間への警戒がはっきりと浮かんでいた。
「何用だ」
簡潔な問いかけだった。
俺はできるだけ礼儀正しく頭を下げた。
「突然の訪問、失礼します。俺はルークといいます。強くなるために、こちらへ来ました。剣神様にお会いしたいのですが、取り次いでいただけませんか」
男の眉が、わずかに動いた。
「……強くなるために?」
「はい。こちらで剣を学ばせていただきたいと思っています」
嘘ではない。俺は本当に強くなりたくてここまで来たのだ。シャンドルさんとの修行で身につけたものを土台に、さらに自分を鍛え上げる。そのために、剣神流の本場であるこの場所を訪ねた。
しかし、男の表情は和らぐどころか、むしろ険しくなっていった。
「剣を学びたいというのなら、まずは自分が何者で、どのような目的でここへ来たのかを明らかにするのが筋だろう。剣神様は、誰彼構わず面会を許されるお方ではない」
「それは分かっています。ただ、俺は──」
「それに、剣の聖地は観光地ではない。強くなりたいなどという漠然とした理由で、気軽に訪ねてこられても困る」
──……うん。まあ、言いたいことは分かる。
俺だって、いきなり知らない人間が家を訪ねてきて「あなたの師匠に会わせてください。強くなりたいんです」と言い出したら、まずは警戒するだろう。相手がどこの誰なのかも分からないのに、偉い人間に取り次ぐわけにはいかない。門番としては、むしろ当然の対応なのかもしれない。
だからといって、ここで引き下がるわけにもいかなかった。
「でしたら、どうすればお会いできますか。試験でも、手合わせでも、必要なことがあるなら受けます」
「……手合わせだと?」
「はい。俺の実力を見ていただければ、少なくとも冷やかしで来たわけではないと分かってもらえると思います」
男の目が細くなった。
どうやら、言い方を間違えたらしい。
「貴様、自分の腕に相当な自信があるようだな」
「いえ、そういうつもりでは……」
「ならば、なぜ剣神様に会わせろなどと言える。ここには剣神流を学ぶために、長い年月をかけて修行を積んできた者たちがいる。誰もが簡単にその頂に手を伸ばせるわけではない」
男の声には、剣の聖地で修行を積んできた者としての誇りが滲んでいた。
俺はそこで、ようやく自分が何を見落としていたのかに気づき始めた。俺にとって、ここは新しい剣術を学ぶための場所だ。強くなるために必要だと思ったから訪ねてきたし、剣神に会いたいと考えたのも、そのために一番手っ取り早いと思ったからにすぎない。
だが、ここにいる人間たちにとっては違うのだろう。
彼らは日々の鍛錬を積み重ね、剣神流という流派に誇りを持っている。そこへ突然現れた見知らぬ少年が、強くなりたいから剣神に会わせろと言っているのだ。相手の立場からすれば、随分と無遠慮な話に聞こえるのかもしれない。
──……いや、でもなあ。
俺は別に、剣の聖地を馬鹿にしているわけではない。むしろ、ここにいる剣士たちから学べるものがあると思ったからこそ、わざわざ遠い道のりを歩いてきたのだ。とはいえ、その気持ちをどう説明すればいいのか、すぐには言葉が出てこなかった。
「……すみません。俺はただ、こちらで学びたいと思って来ただけなんです。剣神様に会うことが難しいのであれば、まずは他の方に話を聞いていただくことはできませんか」
できるだけ穏やかに、そう尋ねた。
男はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「話にならんな。これ以上、ここで問答を続けるつもりはない。用が済んだのなら帰れ」
「……そうですか」
俺は困った。
ここまで来て、門前払いというのはさすがに想定していなかった。いや、取り次いでもらえない可能性くらいは考えていたが、せめて話くらいは聞いてもらえると思っていたのだ。こうなると、別の方法を考えるしかない。街に戻って、誰かに紹介状でも書いてもらうべきだろうか。それとも、剣の聖地に出入りしている冒険者や商人から、内部の人間を紹介してもらうか。
そんなことを考えていたときだった。
「……貴様、まだ何かあるのか」
男が、俺の視線を追うようにして腰の剣へ目を向けた。俺は反射的に、自分の剣を見下ろした。
「いえ、別に……」
「ならば、その剣を見ていたのは何故だ」
「いや、これは俺の剣ですけど」
「そんなことは見れば分かる!」
──ええ?
どうやら、完全に機嫌を損ねてしまったらしい。
男は一歩、門の外へと踏み出した。先ほどまでの警戒とは違い、その身体には明確な闘気が満ち始めていた。腰の剣に添えられた手にも、わずかな力が込められている。
「剣の聖地に来ておきながら、我らの流派に敬意を払う様子もなく、剣神様への面会を要求する。挙げ句、自分の実力を試せと言ったな。ならば、その腕前を見せてもらおうではないか」
「……いや、待ってください。俺は別に、戦いに来たわけじゃ──」
「抜け」
男が剣の柄に手をかけた。その瞬間、俺は心の底から困惑した。
いやいやいや。なんでそうなるんだ。俺はただ、剣神に会って、できれば剣を学ばせてもらいたいだけなのだ。確かに言い方が悪かったのかもしれないし、相手の立場を考えずに話を進めてしまったのも事実だろう。だが、だからといって、いきなり剣を抜く必要があるだろうか。
……いや、ここは剣の聖地だった。
剣士にとって、剣は言葉以上に雄弁なものなのかもしれない。
俺は小さく息を吐き、相手を刺激しないように両手を軽く上げた。
「分かりました。ただし、俺はあなたを傷つけるつもりはありません。できれば、穏便に済ませたいんですが」
「……ほざけ」
男の足が、地面を蹴った。
次の瞬間、白い道着が視界の中で一気に膨らんだ。剣神流らしく、その踏み込みは速い。抜き放たれた剣が、迷いのない軌道を描いて俺の肩口へと迫ってくる。
だが、俺は驚かなかった。
師匠との修行で、こうした初動には何度も付き合ってきた。相手が剣を振るう直前、どこに力を込め、どちらへ踏み込むのか。その兆候を感覚で捉えることには慣れている。俺は身体を半歩だけずらし、剣の軌道から身を外した。
同時に、流閃剣の柄へ手を添える。抜く必要はない。相手の攻撃を避け、その勢いを利用して体勢を崩す。それだけで十分なはずだった。
剣聖の剣が空を切る。俺は相手の腕の内側へ入り込み、手首を取るようにして軌道をずらした。そこから一歩、足を踏み替える。相手の重心が前へ流れたところで、肩口に軽く手を添え、身体の向きを変えさせる。
──これで終わりだ。
そう思った瞬間、相手が予想外の動きを見せた。
崩れかけた体勢から強引に踏み込み直し、空いている手で俺の胸元を掴もうとしてきたのだ。剣を避けられたからといって、すぐに諦めるような相手ではないらしい。さすがは剣聖というべきか、反応も切り替えも速い。
だが、その動きに付き合ったのがまずかった。
俺は反射的に相手の腕を払い、踏み込んできた身体を押し返した。普段の鍛錬なら、それで相手との距離を取れるはずだった。ところが、師匠との修行で身についた力加減は、こうした場面ではどうにも過剰になりやすい。闘気を纏った俺の腕が相手の重心を捉えた瞬間、想像していた以上の力が伝わってしまった。
白い道着が、目の前から消えた。
「──え?」
次の瞬間、男の身体は門の向こうへと吹き飛び、石畳の上を数メートル滑っていった。乾いた音が響き、周囲にいた剣士たちが一斉にこちらを振り返る。
俺は、伸ばした手をそのままの格好で固まっていた。
…………。
………………。
……やっべ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 今のは違うんです! 俺は別に、吹き飛ばすつもりなんて──」
慌てて駆け寄ろうとしたところで、周囲の剣士たちが一斉に動いた。白い道着を着た男たちが、倒れた剣聖を取り囲み、それから一斉に俺へと視線を向ける。その目に浮かんでいるのは、驚きと怒り、そして明らかな敵意だった。
「貴様! 何者だ!」
「門番を倒したぞ!」
「道場破りか!」
……違う。断じて違う。
俺は強くなりたくて、剣を学びに来ただけなのだ。門番を倒したいわけでも、剣の聖地に喧嘩を売りたいわけでもない。ましてや、道場破りなどという物騒な目的は、これっぽっちも持ち合わせていなかった。
しかし、周囲の剣士たちは聞く耳を持たない。倒れた剣聖がゆっくりと身を起こすのを見て、俺はますます頭を抱えたくなった。
──……ああ、もう。
剣の聖地に着いて、まだ十分も経っていない。
それなのに俺は、どうやら盛大にやらかしてしまったらしい。
「待ってくれ! 俺はただ話を──」
俺の制止の声など、彼らの耳には届かない。
「死ねぇーっ!」と叫びながら、三人、五人と一斉に剣を抜いて俺に襲いかかってきた。
殺傷は絶対に避ける。師匠と共に作り上げた『四不斬』を成立させるための隙を探しながら、俺はひたすら抜刀せずに、相手の剣を最低限の体捌きと、鞘のままでの受け流しだけで無力化しようと試みた。
向かってくる剣士の足元を払って転ばせ、次の奴の腕を軽く叩いて剣を落とさせる。
けれど、騒ぎを収めようとして俺が彼らを転ばせれば転ばせるほど、周囲の剣士たちは「なめやがって!」とさらに激昂し、人数が増えていく。
「おい、本殿の方に逃げるぞ!」
「逃がすか、囲め!!」
もみ合いながら、戦闘の渦はどんどん道場の敷地の奥──最も格の高い『本殿』の近くへと広がっていってしまった。
数面からの同時攻撃を鞘で弾いた瞬間、強引に体当たりをかましてきた剣士の一人を、俺は無意識のうちに少し強めに押し返してしまった。
「うわあぁぁっ!?」
突き飛ばされた剣士の身体が、すさまじい勢いで後ろへと吹っ飛び──そのまま、本殿の立派な正面扉を派手に突き破って、中へと転がり込んでいった。
静まり返る境内。
やってしまった、と俺が冷や汗を流した直後、本殿の奥から、山が鳴るかのような凄まじい怒鳴り声が響き渡った。
「何事だァ!!!!」
地響きと共に現れたのは、筋肉の塊のような巨体に、鋭い眼光をぎらつかせた一人の男だった。その全身から放たれる闘気と威圧感は、今までの剣士たちとは次元が違う。
俺は、この最悪すぎる状況をどうにか穏便に、平和的に収めるべきだと必死に頭を回転させた。
どうすればいい? 謝罪だ。誠心誠意の、大人としての対応を見せるしかない。
けれど、前世を含めても、俺にとっての「大人の対応」の手本といえば、あの四年近くを共に過ごした、お調子者で世慣れた師匠の姿しか思い浮かばなかった。
──よし、師匠のあの丁寧な話し方を真似よう。そうすればきっと、知性ある大人として扱ってもらえるはずだ!
俺はふっと肩の力を抜き、師匠そっくりの、どこか飄々とした、落ち着いた笑みを浮かべて頭を下げた。
「いやぁ、これはどうも。私はただ、剣神様にご挨拶をさせていただきたかっただけなのですが……どうにも勘違いが生まれてしまったようで。お騒がせしてしまい、誠に申し訳ありません」
俺本人は、これ以上ないほど誠実に、大人の対応をしているつもりだった。
だが、周囲の状況を客観的に見れば。
緑色の髪をした不審なガキが、門番をなぎ倒し、十数人の高弟たちを赤子同然に無力化し、さらに本殿の扉をブチ破って押し入った挙げ句、「いやぁどうも、勘違いですわ」とヘラヘラ笑いながら言い訳をしているのだ。
相手からすれば、これ以上ないほどの、最悪な煽り文句にしか聞こえなかった。
「……貴様。 我が剣の聖地を、ここまでコケにしておいて、そんな大層な言い訳が通ると思っているのか!」
本殿の周囲にいた剣士たちが、怒りのあまりに顔を般若のように真っ赤にして絶叫した。完全に逆効果、火に油を注ぐ結果になってしまった。
──えぇ……!? なんで!? 師匠はこれで完璧だったのに!
内心で頭を抱え、完全に途方に暮れる俺の前で、目の前の剣士がギリ、と奥歯を鳴らして剣を引き抜いた。
「面白い。他流派の道場破りが、随分と舐めた真似をしてくれる。我が名は剣帝ブラッド・フォン・リングス! その緑の首、我が光の太刀で叩き落としてくれるわ!!」
──剣帝!? まずい! 上から二番目が出てきやがった!!
「待ってくれ、ブラッド殿! 戦うつもりは──」
「問答無用!!」
ブラッドの身体が、一瞬で視界から消えた。
──速い!!
空気が爆発したかのような衝撃波と共に、俺の首元へ向かって目にも留まらぬ速さで刃が迫る。
俺は本能的に流閃剣を引き抜き、その超高速の一撃をギリギリで受け止めた。
凄まじい衝撃が両腕を襲い、俺の足元のアスファルトのような硬い石床が、蜘蛛の巣状にベキベキとひび割れる。流石は剣帝。ただの剣士どもとは手数の多さも重さも桁が違う。
「ほう、我が初撃を受け止めるか! だが、そんな剣など我が剣神流の速さの前には無力よ!!」
ブラッドは狂暴に笑うと、さらに加速した。
右から、左から、上から。まるで光の筋が空間に編み込まれていくかのような、圧倒的な手数の猛攻。一歩間違えれば、その一撃一撃が文字通り致命傷になる。俺は北神流の実戦経験を総動員し、紙一重の体捌きと剣線で、ブラッドの剣速にどうにか対応していった。
──やっぱり強いな……! だけど、アイツの剣は速すぎるがゆえに、軌道がすべて直線的だ。
ひたすら防戦に回りながら、俺は冷静にブラッドの間合い、呼吸、そして足運びの癖をじっと観察し、脳内でシミュレーションを繰り返していた。
アモンの力は文字通り使えないし、大技の『破断』はここでは使えない。『破断』は相手を確実に殺してしまう破壊の矛だ。俺の目的は、あくまで相手を殺さずに、その戦闘能力だけを奪うこと。
「これで終わりだ! 骨も残さず断ち切れ!!」
ブラッドの闘気が最高潮に達し、その大剣が目ばゆい光を放った。剣神流の真髄──すべてを光速で両断する『光の太刀』。
俺は、その瞬間を待っていた。
自らの気配を完全に消失させる。
──『影纏い』
「死ねぃ!!」
ブラッドの放った『光の太刀』が、俺のいた空間を完璧に一閃した。
だが、『影纏い』によって間合いを誤認させられた、ただの虚空だ。直撃を避けた俺は、すかさずブラッドの懐へと鋭く踏み込む。
しかし、ブラッドは流石の剣帝だった。空振ったことを瞬時に察知し、凄まじい肉体能力で強引に剣を翻し、至近距離から二の太刀を俺の胸元へ向けて放ってきたのだ。体勢が崩れているはずなのに、なおこの速さ。化物か。
だが、予測の範疇だ。
──『水鏡の盾』
正面から受ければ割られる。だが、力を受け流すだけなら、この世界のどんな剣技だろうと関係ない。
ブラッドの渾身の一撃は、俺の展開した防壁の傾斜を滑るようにして、その軌道を強引に真上へと弾き飛ばされた。
自らの凄まじい剣速の遠心力に引っ張られる形で、ブラッドの巨体が、ガラ空きの無防備な姿勢のまま上空へと大きくのけ反る。
完璧な、ガラ空きの隙。
俺は、のけ反ったブラッドの両手首のわずか数センチ上の空間に向けて、防壁魔法を、今度は楔として縦に連続展開した。空間が固定される音が響く。
「なっ──なんだ、腕が動かん……!? 見えない壁だと!?」
空間に挟み込まれるようにして、ブラッドの腕と大剣が、宙で完全にロックされた。ゾンビの赤竜王すら数秒間拘束したハメ技だ。人間の剣士が、この一瞬の拘束を即座に引き剥がすことなど絶対に不可能。
時間にして、わずか一秒。だが、一人前の剣士にとって、一秒あれば勝負を決めるにはお釣りがくる。
俺は大上段に構えていた流閃剣を、刃ではなく、その峰へと強引にひっくり返した。
狙うのは、ブラッドの命ではない。相手を殺さず、戦闘能力だけを完全に奪い去る技術。
──『四不斬』
拘束され、完全に身動きの取れないブラッドの手首の関節、そして彼が握りしめている大剣の柄の根本に向けて、俺の峰打ちが目にも留まらぬ速さで正確に二連撃、叩き込まれた。
「がはっ……あぁっ!?」
手首の骨を強打され、激痛にブラッドの指先から力が抜ける。彼が命よりも大切にしていたであろう愛剣が、カランカランと虚しい音を立てて床へと転がり落ちた。
それと同時に、俺の防壁の楔が消える。
俺は、武器を失ってその場に膝をついた剣帝ブラッドの首筋に向けて、流閃剣の鋭い切っ先を、ピタリと、一ミリの狂いもなく突きつけた。
「……そこまで、です」
荒い息を吐きながら、ブラッドは俺の剣を見つめ、それから床の自分の剣を見つめ、信じられないものを見るような目で呆然と立ち尽くしていた。
「ば……バカな……。剣神流の速さを完璧に受け流し……動けない一瞬の間に、武器だけを奪われたというのか……?」
静まり返る本殿の前。
周囲を取り囲んでいた数十人の剣士たちも、自分たちの誇りである「剣帝」が、名もなき緑髪の少年の前に、傷一つ負わされずに無力化されたその結末を前に、声も出せずにいた。
俺は、ふぅと息を吐き、静かに剣を鞘へと収めた。
大人の対応は最悪の失敗に終わったけれど──結果オーライ、ということでいいだろうか。
パチ、パチ、パチ。
その時、本殿の壊れた扉の奥から、ゆっくりとした、どこか愉しげな拍手の音が響いてきた。
俺と、膝をついたブラッドが、同時にその音の方を振り返る。
「おいおい、傑作じゃねえか。ブラッドの奴、一本どころか剣まで奪われてやがる」
そこに立っていたのは、短く切り揃えた茶髪に、まるで飢えた野良犬のような鋭い眼光をぎらつかせた男。
だが、俺の背筋を凍らせたのは、その隣に立つ、もう一人の人物の存在だった。
「ふん。見苦しいねぇ、ガル坊。あんたの身内は揃いも揃って頭が固いから、あんな奇妙な魔力操作のオモチャに引っかかるんだよ」
男の隣で、小さく鼻で笑ったのは、腰の曲がった一人の老婆だった。
一見すればただの小柄な老人。しかし、彼女が纏う空気は、この聖地の寒さを一瞬で超えるほどの、冷徹で底知れない「静寂」に満ちていた。
──……師匠と似たような気配がする。これはまさか……。
「さて……面白い剣士が来たもんだ。お前、その剣術……どこで学んだ?」
男の獰猛な笑みが、俺の魂の奥底まで舐め回すように深くなる。
俺は流閃剣の柄にそっと手を置き、冷や汗を流しながらも、その二人の圧倒的なプレッシャーを真っ正面から見据え返した。
独自設定で帯刀させてます。
木刀でも良かったんですけどね。