迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
グレイラット家で暮らし始めてから、俺の朝は少し早くなった。
まだ空が白み始める前、家の中にいる誰もが眠っているような時間に、俺は一人でベッドを抜け出す。廊下を歩く時も、床板を鳴らさないように足を置く場所を選び、扉を閉める時もなるべく音を立てないようにする。最初はただの気まぐれだったはずなのに、気がつけばそれが毎日の習慣になっていて、庭へ出て冷たい朝の空気を吸い込むと、ようやく一日が始まったような気分になるのだった。
庭の隅に置いてある木剣を手に取る。
まだ身体が起ききっていないせいか、最初の数回は動きが重い。それでも構えを作り、足の位置を確かめ、ゆっくりと木剣を振り下ろす。最初の一振りから上手くできるほど、俺の身体は器用ではない。だからこそ、同じ動きを何度も繰り返す。昨日より少しだけ正確に、昨日より少しだけ速く──そんな小さな違いを積み重ねることが、今の俺にできる一番確かな修行だった。
剣術を教えてくれているのはパウロだ。
グレイラット家に来てから、俺とルーデウスは何度もパウロに稽古をつけてもらった。初歩的なことなら、パウロの教え方は意外と分かりやすい。構え方、足の位置、木剣の握り方、身体に余計な力を入れないこと──その辺りまでは、実際にやってみれば何が悪いのかも理解できる。
問題は、それより先だった。
「踏み込む時は、こう……ズガっといって、そこからスパっとだ」
「……」
「……」
俺とルーデウスが揃って黙り込むと、パウロは不思議そうな顔をした。
「なんだ、その顔は?」
「いや、分かりませんよ」
ルーデウスが即答すると、パウロは少し考えるように腕を組んだ。
「そうか? こう、身体を前に出して、その勢いを剣に乗せる感じだ」
「最初からそう言ってください」
「だから、それがズガっとスパっとだろうが」
結局、何も解決していない。
パウロに悪気がないのは分かっている。むしろ本人の中では、剣を振るという行為があまりにも当たり前になっているのだろう。長年繰り返してきた動作を一つ一つ言葉にして説明するより、自分で動いてしまった方が早い。だから俺は、途中からパウロの言葉を理解しようとするのをやめた。
その代わりに、見ることにした。
パウロが木剣を振る時、最初にどこが動くのか。踏み込む足と腰の動きはどのくらい重なっているのか、腕を振っているように見えて、実際にはどこから力が伝わっているのか。何度も何度も観察して、その動きを頭の中に残し、自分の身体で再現してみる。もちろん、最初から上手くいくわけではない。足が遅れたり、腰が浮いたり、剣先が狙った場所からずれたりするたびに、もう一度パウロの動きを思い出して、また木剣を振る。
それを一年間、ずっと続けた。
見て、真似して、失敗する。
もう一度見る。
そして、また振る。
そんなことを繰り返しているうちに、少しずつではあるが、身体が勝手に動きを覚えていく感覚が分かるようになってきた。頭の中で「こう動け」と考えてから身体を動かすのではなく、何度も繰り返した動きがそのまま身体から出てくる瞬間がある。たぶん、これが技術を身につけるということなのだろう。少なくとも俺にとっては、それが一番しっくりくるやり方だった。
ただ、一つだけ困ったことがあった。
どうやら俺の身体は、普通の子供より丈夫らしい。
最初にそれを意識したのは、踏み込みの練習をしていた時だった。パウロの動きを真似しようと、いつもより強く地面を蹴った瞬間、足元から妙な感触が返ってきた。視線を落とすと、靴の跡よりも少し深く、土がへこんでいる。最初は地面が柔らかかっただけだと思ったのだが、別の日にも同じことが起きて、どうやら偶然ではないらしいと気づいた。
木剣もそうだった。
「……また壊したのか?」
「すみません」
パウロに差し出された木剣を見れば、持ち手の部分に細かなひびが入っている。強く握ったつもりはなかった。むしろ、木剣を落とさないように普通に握っていただけのつもりだったのだが、それでも一年間で何本かの木剣を駄目にしてしまった。
「お前は力がありすぎるのかもな。俺でも木剣を握ってヒビを入れるなんてことはできん」
「そうなんですか?」
「当たり前だ」
呆れたように言いながら、パウロは俺の手を見た。
俺も自分の手を見る。
まだ六歳にもなっていない、小さな手だ。
それなのに、踏み込めば地面がへこみ、握れば木剣の柄が壊れる。もちろん、まだ子供だから身体そのものが強いわけではないのだろうが、それでも普通とは少し違う気がする。
原因として思い浮かぶのは、やっぱりこの髪だった。
緑色の髪。
俺がノトス家にいた頃から、ずっと厄介なものとして扱われてきた色だ。こちらへ来てからも、この髪について詳しいことは分かっていない。けれど、もしこの身体の丈夫さや妙な力の強さに、この髪──あるいはこの世界でいう何かしらの血筋が関係しているのだとしたら、俺にはまだ知らないことがたくさんあるのだろう。
まあ、今考えても分からない。
分からないことを延々考えるより、今は剣を振った方がいい。
そう思って、俺は新しい木剣を握り直した。
俺は剣士を目指す。
そう決めていた。
もちろん、魔術のことを完全に諦めたわけではない。
……いや、諦めたことにしている。
六歳になるまでの一年間、俺は魔術も何度となく練習した。ルーデウスに教えてもらったことを思い出しながら、自分の中にある魔力を集めて、火や水を生み出そうとする。魔力そのものを感じることはできる。だから、もしかすると自分にも魔術の才能があるのではないかと最初は期待していた。
けれど、結果はいつも同じだった。
集めることまではできても、形にしようとした瞬間、魔力が霧のように散ってしまう。
何度やっても。
何日やっても。
何ヶ月やっても。
一年間続けても、俺は一つも魔術を使うことができなかった。
さすがに、もう無理なのだろう。
せっかく魔法が存在する世界に来たのだから、一度くらい使ってみたかった。火を出したり、水を操ったり、風を起こしたり──前世で漫画やアニメを見ていた頃から、一度はやってみたいと思っていたことだ。それが実際にできる世界に生まれたのだから、期待するなという方が無理だった。
だから、ちょっとだけ残念ではある。
……まあ、俺がなりたいのは、どちらかと言えば剣士の方だ。
アリババが好きだった。
だったら、別に魔術が使えなくてもいい。剣を振って、強くなって、それで自分の道を進めばいい。そう考えれば、魔術が使えないことなんて大した問題じゃない。
「俺は剣士を目指そう」
誰もいない庭で、俺は小さく呟いた。
「うん。それがいい」
そう決める。
……決めたはずなのに。
俺はその日の朝も、剣の稽古が終わったあと、周囲をきょろきょろと見回していた。
誰もいない。
家の中からも、まだ物音は聞こえない。
「……よし」
木剣を地面に置き、俺はそっと手を前へ伸ばした。
魔力を集める。
指先へ意識を集中する。
そして──。
やっぱり、霧散した。
「……」
しばらく自分の手を見つめる。
別に悔しくなんてない。
本当に。
ただ、もしもいつか突然使えるようになったら、ルーデウスもシルフィも驚くだろうな、と思っただけだ。
『ルーク、いつの間に魔術を使えるようになったんだ?』
『すごい、ルーク!』
そんな二人の顔を想像すると、なんとなく楽しい。
「……驚かせてやる」
誰にも聞こえないように呟いて、もう一度魔力を集める。
そして、また失敗する。
「……まあ、今日はこのくらいでいいか」
誰に対しての言い訳なのか、自分でも分からない。
俺は木剣を拾い上げる。
魔術は使えない。
なら、剣を振ればいい。
俺は剣士になる。
そう自分に言い聞かせながら、また木剣を振った。
☆☆☆
そんな日々を過ごすうちに、シルフィとも少しずつ距離が近くなっていった。
最初の頃、俺たちはお互いに少し遠慮していたと思う。俺もシルフィも、緑色の髪を理由に周囲から嫌な目で見られた経験がある。だからこそ、俺は彼女を放っておけなかったし、シルフィもまた、俺の前では少しずつ緊張を解いていった。魔術の練習をする時も、剣の稽古をする時も、いつの間にかシルフィが近くにいることが増えていた。
俺が木剣を振っていると、シルフィは少し離れたところからそれを眺めている。
「ルークは、本当に剣を振るのが好きだね。楽しい?」
「まぁな。男児たるもの、心に折れない1本の剣を持て。……ってな」
「……誰の言葉?」
「適当」
そんな何気ない会話をする。
俺にとっては、それだけだった。
けれど、気がつけばシルフィは、俺に対して遠慮なくものを言うようになっていた。
そのことに気づいたのは、ある日のことだった。
「ルーク」
「ん?」
「わたしの名前、シルフじゃないよ」
「……え?」
思わず聞き返した。
「シルフィエット。シルフィって呼んで」
「ああ……」
そこでようやく思い出す。
確かにそうだった。
俺はいつの間にか、彼女のことをずっとシルフと呼んでいた。
「ごめん」
「もう二ヶ月くらいシルフって呼んでる」
「そんなに?」
「そんなに」
少しだけ頬を膨らませている。
どうやら結構気にしていたらしい。
「分かった。これからはちゃんとシルフィって呼ぶ」
「……うん」
さっきまで少し拗ねていた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「シルフィ」
「うん」
「これでいい?」
「うん」
それだけのやり取りだった。
俺にとっては、本当にそれだけだった。
シルフィの名前を間違えていたから直した。ただそれだけの話だ。
けれど、今思えば、この頃からだったのかもしれない。
シルフィが俺に向ける視線が、少しずつ変わっていたのは。
もちろん、その時の俺はそんなことに気づいていなかった。
シルフィは、自分と同じように傷ついたことのある女の子で、俺が守ってやらなければならない友達だと思っていた。
それ以上の意味なんて、考えたこともなかった。
少なくとも、この時の俺は。
☆☆☆
そして、その変化に俺より先に気づいた人間がいた。
ルーデウスだ。
俺とシルフィが話している時、ルーデウスは時々こちらをじっと見ていた。最初は何を考えているのか分からなかったが、ある時から、その視線には妙な困惑が混じっていることに気づいた。
シルフィは、俺といる時にはよく笑う。
俺が何か言えば素直に返事をするし、少しくらい乱暴な言い方をしても、それほど気にしない。俺が剣の稽古をしていれば近くで眺めているし、俺が怪我をすれば真っ先に心配してくる。
ルーデウスといる時のシルフィとは、少し違う。
その違いを、俺は特に気にしていなかった。
けれど、ルーデウスは違った。
あいつは俺と違って、妙に人のことをよく見ている。
だからこそ、自分とシルフィの間にある距離と、俺とシルフィの間にある距離の違いにも気づいていたのだろう。
そして、そのことを気にするようになっていた。
「なあ、ルーク」
ある日の帰り道、ルーデウスが不意に口を開いた。
「ん?」
「シルフィと、どう接すればいいと思う?」
俺は少し考えた。
「どうって……今まで通りでいいんじゃないか?」
「それができないから困ってるんだよ」
「……?」
何をそんなに悩む必要があるのか、俺にはよく分からなかった。
シルフィはシルフィだ。
俺にとってはそれだけだった。
ルーデウスはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「……お前、本当に分かってないんだな」
「何が?」
「いや……なんでもない」
そう言って、ルーデウスは前を向いた。
俺は首を傾げた。
結局、その時も俺には何のことなのか分からなかった。
ただ、この一年間で俺の周りには、少しずつ人が増えていた。
一緒に剣を振るルーデウス。
俺のことを家族として受け入れてくれたパウロたち。
そして、いつも近くにいるシルフィ。
以前の俺なら、そんな場所を持てるなんて考えもしなかった。
その日は、朝から空模様が怪しかった。
それでも昼頃までは何とか持っていたので、俺たちはいつものように三人で丘へ向かった。ルーデウスとシルフィが並んで歩き、俺はその少し後ろを歩きながら二人の会話を聞いていたのだが、丘に着いてしばらくすると、とうとう空からぽつぽつと雨が落ちてきた。
「雨、降ってきたな」
俺が空を見上げると、灰色の雲が空を覆っている。
「戻る?」
シルフィが尋ねる。
「そうだな。これ以上強くなると面倒だし」
ルーデウスも頷く。
三人で帰ろうとした、その時だった。
俺は足を止めた。
視線の先には、雨に濡れて黒く色を変えた地面がある。草の葉には水滴が溜まり、少し離れた場所には小さな水たまりまででき始めていた。
それを見て、ふと思う。
……待て。
これ、もしかして。
俺は自分の手のひらを見る。
魔術の練習を始めて一年。
俺は一度も魔術を成功させたことがない。
魔力を集めることはできる。けれど、そこから何かを生み出そうとすると、どうしても魔力が霧散してしまう。ならば、そもそも自分で何かを生み出す必要があるのだろうか。
水が欲しいなら、水はそこにある。
だったら──。
「……ちょっと待って」
「どうしたの?」
シルフィが振り返る。
俺は水たまりを見ながら考えた。
「二人は先に帰ってくれないか?」
「え?」
「俺、ちょっと試したいことがある」
ルーデウスが不思議そうな顔をする。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫。すぐ帰るから」
本当は、二人に見られたくなかった。
もし失敗したら恥ずかしい。
それに、もし成功したら──。
ルーデウスとシルフィを驚かせることができる。
そんな子供じみた考えが、胸の奥で少しだけ膨らんだ。
「じゃあ、先に帰ろうか」
ルーデウスがシルフィを見る。
「うん。でもルーク、雨強くなってきたから早く帰ってきてね」
「ああ」
二人が丘を下っていく。
俺はその背中を見送ってから、改めて水たまりへ向き直った。
雨は少しずつ強くなっている。
これなら、周囲にはいくらでも水がある。
「……やってみるか」
俺はしゃがみ込み、水たまりに手をかざした。
まずは魔力を集める。
一年間、何度もやってきたことだ。
身体の奥から魔力を引き出し、手のひらへ集めていく。いつもなら、ここから火や水を作ろうとして、その瞬間に魔力が霧散する。
でも今日は違う。
水を作る必要はない。
すでにここにある。
俺がやるのは、その水を動かすことだけ。
「……動け」
水たまりを睨む。
何も起こらない。
もう一度、魔力を込める。
「動け……!」
水面に、小さな波紋が広がった。
「……!」
俺は思わず身を乗り出した。
今のは……魔力が作用したのか?
期待しながら、もう一度力を込める。
けれど、水はそれ以上動かなかった。
むしろ、手のひらに集めた魔力の方が先に霧散していく。
「……駄目か」
何度試しても結果は同じだった。
水たまりは水たまりのまま。
俺の魔力は、何事もなかったかのように消えていく。
「……くそ」
結局、今回も駄目だった。
自分で水を作れないなら、そこにある水を使えばいい。
そう思いついた時には、もしかしたらいけるかもしれないと思ったのに。けれど現実は、そう簡単にはいかないらしい。
雨に濡れながら、俺は肩を落とした。
「……帰るか」
せめて、風邪を引く前に戻ろう。
そうして俺は、一人で丘を下った。
☆☆☆
グレイラット家の玄関が見えた頃には、服はすっかり濡れていた。
「ただいま……」
扉を開ける。
その瞬間だった。
「ごめん、シルフィ! 髪も短かったし、今までずっと男だと思ってたんだ!」
「…………」
俺は固まった。
何が起きてる。
玄関を開けた瞬間に聞こえてきた言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
そして、恐る恐る家の中を見渡す。
そこには、パンツだけを身につけたルーデウスと、その後ろに立つパウロがいた。ダイニングの方にはシルフィがいて、その傍にはゼニスとリーリャが座っている。二人ともシルフィを慰めているようで、当のシルフィは顔を伏せたまま、肩を小さく震わせていた。
……何だ、この状況。
俺がいない間に何があった?
「……」
ふと、シルフィが顔を上げた。
そして、俺と目が合う。
その瞳には、今にも溢れそうなくらい涙が溜まっていた。
次の瞬間、シルフィが椅子から立ち上がった。
駆け寄ってくる。
「うわっ」
そのまま胸元に飛び込まれ、俺は思わず一歩後ろへよろめいた。濡れた服なんて気にする様子もなく、シルフィは俺の服をぎゅっと掴んでいる。
「……うっ……ひっ……」
胸元から、泣きじゃくる声が聞こえる。
俺はどうしていいのか分からず、シルフィの頭に手を置いた。
「……どうした?」
返事はない。
ただ、俺の服を握る力だけが強くなった。
助けを求めるように周囲を見る。
ゼニスは困ったように笑っていた。
リーリャも、どこか苦笑いを浮かべている。
パウロは腕を組んだまま、何とも言えない顔をしていた。
そしてルーデウスは──。
顔を真っ青にしていた。
「…………」
俺はもう一度、部屋の中を見渡した。
雨の中、一人で魔術の練習をしていた俺には、ここで何が起きたのかまったく分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
これは。
絶対に何かあった。
「……本当になんだ、これ」
思わず、そう呟いた。
雨が止むまで、シルフィはグレイラット家にいることになった。
最初のうちは泣き疲れたのか、ゼニスに背中を撫でられながら小さく鼻をすすっていたが、しばらくすると少しずつ落ち着きを取り戻していった。俺はその様子を眺めながら、結局のところ何があったのかをルーデウスに聞こうとしたものの、本人はすっかり落ち込んでいて、こちらから声をかけてもどこか上の空だった。
やがて雨が弱まり、雲の切れ間から夕方の光が差し始めると、ゼニスがシルフィを連れて二階へ上がった。濡れた服のままでは風邪を引くからと、お湯で身体を拭いてやるらしい。リーリャはその間に夕食の準備を始め、パウロは何も言わず、ただルーデウスの傍に座っていた。
日が落ちる前に、ゼニスはシルフィを家まで送っていった。
俺はその間に、ルーデウスから何が起きたのかを一通り聞いた。
結論から言えば、ルーデウスの勘違いによってシルフィが少し傷ついた、という話だった。
「……」
俺は黙ってルーデウスを見た。
──ルーデウスは、とっくに気づいているものだと思っていた。
シルフィが女の子だということに。
しかし、どうやら本気で男の子だと思っていたらしい。
……意外とバカなのか?
もちろん、口には出さなかった。
ルーデウスは珍しく、ずっと暗い顔をしていた。自分のせいでシルフィを傷つけたことが堪えているのだろう。しかも、これまで友達として接してきた相手から、嫌われてしまうかもしれないと考えているのかもしれない。
パウロはそんなルーデウスに何も言わず、ただ大きな手で頭を撫でていた。
その様子を見ていると、さすがに俺も少し気の毒になってくる。
俺は二階へ上がり、リーリャが用意してくれたお湯で身体を拭いた。濡れた服を着替えてから下へ戻ると、ちょうどゼニスも帰ってきたところで、食卓には夕食が並べられていた。
誰も今日のことを詳しく話そうとはしなかった。
それでも、食卓の空気がいつもと違うことだけは分かる。パウロは時々ルーデウスの様子を気にしていたし、ゼニスも何か言いたそうにしながら、結局は普段通りに食事を勧めていた。ルーデウスは黙々と食べていたが、いつもなら何かしら口を挟む場面でも、今日はほとんど喋らなかった。
夕食を終え、しばらくすると、ようやく身体に疲れを感じ始めた。
俺とルーデウスは並んで二階へ向かった。
俺の部屋は、ルーデウスの隣にあった物置を、ゼニスとリーリャがわざわざ掃除して作ってくれたものだ。五畳ほどの小さな空間に、机とベッドが置かれている。決して広い部屋ではないが、俺にとっては十分すぎるほどだった。ノトス家にいた頃、自分が一人で眠るための部屋を持てる日が来るなど、考えたこともなかったからだ。
扉の前で足を止める。
「じゃあ、俺は寝る。おやすみ」
そう言って部屋に入ろうとした時、隣にいたルーデウスが声をかけてきた。
「なあ、ルーク」
「ん?」
「俺、明日からどんな顔でシルフィに会えばいいかな」
振り返る。
ルーデウスは、ひどく項垂れていた。
俺とルーデウスが知り合ってから、まだ一年ほどしか経っていない。それでも、ここまで元気のないルーデウスを見るのは初めてだった。いつもなら何かしら屁理屈をこねたり、知ったような顔で話したりするのに、今はそういうものが一切ない。
本当に悪いことをしたと思っているらしい。
まあ、実際にシルフィを傷つけてしまったのだから、当然といえば当然か。
──そんなに悩むことでもないと思うんだが。
そう考えたものの、ルーデウスはまだ子供だ。友達に嫌われるかもしれないと考えれば、これくらい落ち込むものなのだろう。
「誠実に、もう一度謝るしかないだろ」
「……でも」
「お前、あの謝り方はないぞ。普通、気づくだろ。シルフィが女の子だって」
「言ってくれればよかっただろ」
「逆になんで気づかないのか、俺には不思議でしょうがない」
「髪が短かったんだよ」
「髪が短いだけだろ」
「それが男の子に見えたんだよ」
「……そうか?」
やっぱり、よく分からない。
俺が首を傾げると、ルーデウスは恨めしそうな顔をした。
「お前は最初から気づいてたんだろ?」
「うん」
「なんで教えてくれなかったんだよ……」
「いや、わざわざ言うことでもないと思ってたから」
俺にとって、シルフィが女の子だということは最初から分かっていた。だからといって、ルーデウスに教える必要があるとは考えていなかったし、まさか一年近く本気で間違えているとも思わなかった。
「とりあえず、もう一回ちゃんと謝れ」
俺は少し真面目な声で言った。
「シルフィにどんな思いをさせたのか、お前なら分かるだろ」
「……ああ」
ルーデウスは小さく頷いた。
まだ表情は暗いままだったが、さっきよりは少しだけ顔を上げている。自分が何をすべきなのか、ようやく整理できたらしい。
「じゃあ、今度こそ寝る。おやすみ」
「ありがとう。おやすみ」
ルーデウスが自分の部屋へ入るのを見届けてから、俺も部屋の中へ入った。
明日は、ちゃんと仲直りできるといい。
そんなことを考えながら、俺はベッドに横になった。
☆☆☆
翌朝。
昼までの稽古を終え、昼食を済ませた俺たちは、二人でシルフィのいる丘へ向かった。
昨日の雨が嘘のように空は晴れていたが、道のあちこちにはまだ水たまりが残っていた。濡れた草が朝日を受けて光り、歩くたびに靴の裏へ柔らかな土がまとわりつく。
ルーデウスは、丘へ近づくにつれて口数が少なくなっていった。
「緊張してるのか?」
「……してる」
「謝るだけだろ」
「それが難しいんだよ」
「そういうものか?」
「そういうものなんだよ」
俺にはよく分からなかった。
けれど、ルーデウスが真剣なのは分かる。だから、それ以上は何も言わずに隣を歩いた。
丘の上にある木の下には、シルフィがいた。
俺たちの姿を見つけると、シルフィは少しだけ身体を強張らせた。昨日のことを思い出したのだろう。俺はその様子を見て、やはりまだ完全には元に戻っていないのだと気づいた。
ルーデウスが一歩前へ出る。
「シルフィ」
「……うん」
「昨日は、ごめん」
シルフィは黙ってルーデウスを見ている。
「俺、シルフィのことをずっと男の子だと思ってたんだ。それで、何も考えずに……嫌な思いをさせた」
ルーデウスは一度言葉を止めた。
言い訳をしようとしたのかもしれない。
けれど、すぐに首を振る。
「悪気はなかった。でも、悪気がなかったから許されるわけじゃないって、父様に言われた。だから……本当にごめん」
しばらく、風の音だけが聞こえた。
やがて、シルフィが小さく息を吐く。
「……もう、あんなことしない?」
「しない」
「絶対?」
「絶対」
シルフィはルーデウスの顔を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「じゃあ……いいよ」
ルーデウスの顔に、少しずつ安堵が戻っていく。
「本当か?」
「うん。でも、もうあんなことしないでね」
「分かった」
二人の間にあった緊張が、ようやく少しだけほどけた。
俺はその様子を見ながら、これで大丈夫そうだなと思った。ルーデウスも、昨日からずっと気にしていたことが解決して、少しは気が楽になっただろう。
すると、シルフィが今度は俺の方を向いた。
「ねえ、ルーク」
「ん?」
「ルークは、ボクが女の子だって最初から気づいてたの?」
「当たり前だろ」
俺は即答した。
「こんなに綺麗な男がいてたまるか」
「……!」
シルフィの顔が、ぱっと明るくなる。
ルーデウスは隣で、何とも言えない顔をしていた。
「お前、それはそれでどうなんだよ……」
「何が?」
「いや、なんでもない」
シルフィは嬉しそうに笑っていた。
その顔を見ていると、俺は少しだけ安心した。昨日のことで傷ついたのは確かだろうが、今はもう、いつものシルフィに戻りつつある。
──まあ、半ズボンの隙間からアレが見えたとは、死んでも言えないが。
それをわざわざ説明して、またシルフィを困らせる必要もない。
ルーデウスと同じ目に遭うくらいなら、このことは黙っておいた方がいいだろう。
そう考えながら、俺は二人の方へ歩み寄った。
三人で並んで立つ。
昨日までと同じように。
ただ、ほんの少しだけ、何かが変わった気がした。