迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
グレイラット家に、二人の子供が増えた。
一人はゼニスの子ノルン、もう一人はリーリャの子アイシャ。二人とも無事に生まれた。まぁノルンは逆子であったが、妊婦のリーリャと冷静なルーデウスのおかげで、無事に出産が出来た。パウロはオドオドしていた。母子ともに健康だったことは何より喜ばしいことだったのだが、それによって家の中が以前より静かになったかといえば、当然そんなことはなかった。むしろ逆で、朝から晩まで赤ん坊の泣き声が途切れることはなく、片方が泣き止んだと思えばもう片方が泣き出し、その声を聞きつけたゼニスかリーリャがどちらともなく立ち上がるという日々が続いている。二人とも自分の子供だけを世話するわけではなく、手が空いている方がもう一人の子供を抱き上げることも珍しくなくなっていたし、食事中であっても赤ん坊の小さな声が聞こえれば、二人ともほとんど反射的にそちらへ顔を向ける。以前のグレイラット家にはなかった慌ただしさだった。
その一方で、パウロの立場は目に見えて弱くなった。
別に家族から追い出されたわけでも、誰かに露骨な嫌がらせをされているわけでもない。それでも、食卓で何か素っ頓狂な事を言えばゼニスとリーリャの両方から冷たい視線を向けられ、二人の機嫌を損ねれば、その後しばらく妙に肩身の狭そうな顔をしている。以前なら一家の主人として堂々としていた男が、今では二人の妻の顔色を窺いながら暮らしているのだから、その変化には俺でも苦笑してしまう。
もっとも、それについて俺がパウロに同情することはなかった。
何しろ、原因は全部パウロ自身にある。
1年前、ゼニスとの間に子供を作った後、リーリャまで妊娠させてしまったのだ。発覚した時には、ゼニスは傷つき、リーリャもまた当然のように傷つき、あまつさえこの家から出ていくと言い出した。家の中は酷い空気になった。俺がこの家に来てからまだそれほど時間が経っていなかったこともあって、あの時のことは今でもよく覚えている。どう考えてもパウロが悪いし、本人もそれを理解していたからこそ、何を言われても反論できずにいた。
ただ、あの騒ぎを最終的に今の形へ持っていったのは、俺ではない。
ルーデウスだ。
あの時のルーデウスは、普段の妙に大人びた態度とはまるで違っていた。まるで本当に何も分かっていない子供のような顔をして、大人たちがどうしてそんなに揉めているのか分からないという風に首を傾げていた。そして、「家族が増えるのは嬉しいことじゃないのか」「生まれてくる子供には何の罪もないのに、どうしてそんな話になるのか」と、ひどく素朴な疑問を口にした。
もちろん、ルーデウスが本当に何も分かっていなかったわけではない。
むしろ逆だ。
ゼニスが傷ついていることも、リーリャがこの家に居場所をなくしかけていることも、パウロがどれだけ酷いことをしたのかも、俺なんかよりずっと正確に理解していたはずだ。それなのに、あえてそれを直接口にするのではなく、「どうして?」という子供らしい疑問に変えて、大人たち自身に答えを出させていった。
気がつけば、パウロが悪いという事実は誰もが認めながらも、だからといってリーリャと生まれてくる子供まで家族から切り離す必要はない、というところへ話が動いていた。
俺はあの時、ルーデウスを見ながら思った。
──俺には、こんな真似は出来ない。
俺なら、きっともっと単純だった。パウロが悪いなら「パウロさんが悪い」と言って、ゼニスが傷ついているなら「ゼニスさんが可哀想だ」と言う。それだけだ。正しいことを言おうとはするだろうが、人の感情やその場の空気を考えながら、相手が自分で答えに辿り着いたように見せるなんて芸当は、とてもじゃないができない。
それを、ルーデウスはまるで遊びの延長みたいな顔でやってのけた。
普段はあれほど大人ぶっているくせに、ああいう時だけは無垢な子供の顔をする。その姿を思い出すたび、俺はルーデウスという人間が分からなくなる。
本当に凄いやつだと思う。
同時に、敵には回したくないとも思った。
そんなことを考えているうちにも、グレイラット家の日常は続いていた。ノルンとアイシャは家族の一員となり、ゼニスとリーリャは忙しそうにしながらも以前より柔らかな顔で子供たちを抱き、パウロは以前より少しだけ大人しくなった。家族が増えたことで騒がしくなったはずなのに、不思議と家の中には以前よりも温かい空気が流れている。
俺たちが7歳になって少しした頃、ルーデウス宛に一通の手紙が届いた。
差出人は、ロキシーだった。
それを受け取ったルーデウスは、いつものようにすぐ開封することもせず、しばらく封筒を眺めていた。ようやく中身を読み始めてからも、妙に真剣な顔をしている。普段なら魔術の話となれば目を輝かせる男なのに、その日は読み終えてからも何度も手紙へ視線を落とし、食事の時ですらどこか上の空だった。
俺はしばらく様子を見ていたが、とうとう我慢できずに声をかけた。
「なあルーデウス。最近、元気ないな。どうした?」
ルーデウスは一瞬だけこちらを見ると、手にしていたフォークを置いた。
「……やっぱり分かる?」
「分かるさ。お前、飯食う時までぼーっとしてるだろ」
「そっか」
ルーデウスは少しだけ笑ったが、その笑みはいつものものより弱かった。そして、テーブルの上に置かれた手紙へ目を落とす。
「最近さ。魔術の伸びに、ちょっと行き詰まってるような気がしてるんだ」
「魔術が?」
「ああ。もちろんまだまだ覚えられることはあると思う。でも、自分の中で限界みたいなものが少し見えてきた気がするんだよ。それで、師匠から手紙が来た」
ルーデウスは手紙を指先で軽く叩いた。
「簡潔に言うと、伸び悩んだらラノア魔法大学ってところに行きなさいって書いてあった」
「ラノア魔法大学……」
聞き慣れない名前だった。
ルーデウスはその学校について、手紙に書かれていたことをいくつか説明した。魔術師が多く集まる場所で、学ぶ環境としては申し分ないらしい。ロキシーがそこを勧めてくるということは、それだけ今のルーデウスに必要な場所なのだろう。
ただ、問題は別にあった。
「でもさ、金がかかるんだよ」
ルーデウスの声が少し沈む。
「うちは村の人たちから見れば裕福な方だと思う。でも、大学に行くとなると学費だけじゃない。向こうで暮らす金も必要になるし……全部出してもらうのは、どうかなって」
俺は少し考えた後、何でもないことのように言った。
「なら、俺が持ってきた金を使えばいいだろ」
ルーデウスが顔を上げる。
「パウロさん曰く、結構な金になったらしいからな。俺一人じゃ使い切れないし、お前が大学に行くためなら別にいいぞ」
本当にそう思っていた。
俺がこの家に来た時に持っていた金は、今ではパウロとゼニスに預けてある。必要な時に返してもらえることになっているが、今の生活で困ることもない。だったら、ルーデウスが自分のやりたいことのために使えばいい。
けれど、ルーデウスはしばらく黙った。
「……それはダメだ」
「なんで?」
「お前におんぶにだっこって訳にはいかないだろ」
「そんなに気を使う必要ないぞ」
「そういう問題じゃないんだよ」
いつものように軽く返してくるかと思ったのに、ルーデウスの声は思った以上に真剣だった。
「ルークが持ってきた金だろ」
「だから使えばいいって言ってるんだけどな」
「それでも嫌なんだ」
その顔を見て、俺はそれ以上言わなかった。
その日の夜、俺は自分の部屋に戻ってからも、ルーデウスの言葉を少し考えていた。俺からすれば、困っている友人に自分の金を使わせることなんて大したことではない。けれど、ルーデウスにとっては違うらしい。
その理由を俺が理解するのは、翌朝になってからだった。
翌朝、朝食の席でルーデウスは家族全員を見回した。
「父様、母様。ちょっと話があります」
その声には、昨日までの迷いがなかった。
「僕、ラノア魔法大学に行きたいです」
パウロが眉を上げる。
「魔法大学?」
「ああ。ロキシー師匠から勧めらました。最近、魔術があまり伸びてないと思っていました。だから、ラノア魔法大学に行って、一から魔術を学んでみたいんです」
「……そうか」
パウロは腕を組み、しばらく考えていた。
「だがな、ルディ。お前、まだ剣の修行が完璧ってわけじゃないだろう」
「それは──」
「魔術だけで──」
その瞬間、パウロの両脇から、ほとんど同時に足が伸びた。
「痛っ!」
ゼニスとリーリャだった。
「いいじゃない。ルディには魔術の才能があるもの」
ゼニスが何でもないことのように言う。
「そうですね。ルーデウス様なら、きっと上手くやっていけます」
リーリャも穏やかな笑顔で続ける。
パウロは左右を見て、何とも言えない顔になった。
「……」
「なに?」
「なんでしょうか」
「……いや、なんでもない」
二人の返事が妙に揃っていて、俺は思わず吹き出しそうになった。
そんな俺を横目に、ルーデウスは一度息を吸ってから続けた。
「それで、学費なんですけど……僕、自分で稼ぎます」
「自分で?」
「はい。家から全部出してもらうつもりはありません。僕が働いて、そのお金で大学に行きたいです」
俺は昨日と同じように口を挟んだ。
「だから、俺の金を使えばいいって」
「それは駄目だよ、ルーク」
即答だった。
「ルークが持ってきたものだから、それは出来ない」
「でも──」
「僕は、自分でお金を稼ぐことで成長できると思うんです」
その言葉に、ゼニスが少し目を細めた。
「まあ……」
リーリャも嬉しそうに微笑む。
「立派になられましたね、ルーデウス様」
「本当ね。大人びているとは思ってたけど、そんなことまで考えられるようになったのね」
褒められたルーデウスは、少し照れ臭そうに頭を掻いた。
パウロはそんな息子をしばらく見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……分かった」
そして椅子の背もたれに身体を預ける。
「何か仕事を探しておくよ」
そこから数日。
パウロは村の外へ足を運んだり、知り合いに話を聞いたりしながら、ルーデウスが自分で金を稼げる仕事を探していた。
☆☆☆
2週間程経ち、そして、見つかった仕事が──ボレアス家の家庭教師だった。その話を聞いた時、俺は少し驚いた。ルーデウスが、ここを離れる。
それが現実のこととして、ようやく実感できた。
それでも本人は、迷っている様子を見せなかった。
「行ってみようと思う」
そう言ったルーデウスの顔は、どこか楽しそうだった。
そして、旅立ちの日が来た。
ボレアス家から迎えの馬車が来ていた。
その傍らには、長身の女剣士が立っている。獣のような耳としっぽ。どこか犬か猫っぽい印象を受ける。ギレーヌというらしい。
初めて見る獣族に少し興奮したが、今はそれどころではない。
パウロもそこにいて、最後の確認をしている。
俺は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
ルーデウスが荷物を持ち、馬車へ向かおうとする。
その背中を見た瞬間、胸の奥に妙な感覚が生まれた。
寂しい。
そんな言葉だけでは、少し違う気がした。
一緒に暮らして、一緒に飯を食って、一緒に魔術の話をして、何度もくだらないことで笑った。そんな日々が今日から変わる。
俺は気づけば、口を開いていた。
「ルーデウス」
「ん?」
「……パウロさんも。ちょっといいですか」
ルーデウスが振り返る。
俺は木剣を手に取った。
「ルーデウスとは、一度本気で戦いたいと思っていたんです」
パウロが目を丸くする。
「おいおい、今からか?」
ギレーヌは面白そうに口元を上げた。
ルーデウスはしばらく俺を見ていたが、やがて小さく笑った。
「……いいよ。やろう」
それだけで、話は決まった。
俺が木剣を構えると、向かい側に立つルーデウスも杖を持ち直した。少し離れたところではパウロさんとギレーヌさんがこちらを見ている。二人とも、この戦いが子供同士の手合わせではなく、互いが今持っているものを全部ぶつけるためのものだと理解しているのだろう。俺自身もそうだった。ルーデウスとはこれまで何度も一緒に魔術の練習をしてきたし、俺が危険を感じた時に無意識に発動する
「じゃあ、始めようか」
ルーデウスの声と同時に、地面の感触が変わった。最初は何が起きたのか分からなかったが、一歩踏み込んだ瞬間、靴底がずるりと沈み込む。土が水を含んだ泥へと変えられていた。足を取られたほんの一瞬、その隙を逃さず、正面から風が叩きつけてくる。身体を横へ飛ばすようにして避けると、今度はさっきまで俺が立っていた場所を土の塊が抉り、続けざまに別方向から風が走った。ルーデウスは俺を追い詰めるために魔術を一つずつ撃っているわけじゃない。地面を崩して動きを制限し、そこへ別の魔術を重ね、俺が次に取れる行動そのものを潰している。
それでも俺は前へ出ようとした。泥に足を取られながらも木剣を握り直し、身体を低くして距離を詰める。だが、三歩も進まないうちに横から強烈な風が吹き抜け、俺の身体が大きく流された。なんとか転倒を避けたところへ、今度は目の前に炎が生まれる。詠唱の声は聞こえなかった。無詠唱だ。ルーデウスが手を向けた瞬間、赤い炎が弾丸のように飛んできた。
その瞬間、俺の身体が勝手に反応した。
目の前に薄い膜のようなものが現れ、炎を受け止める。轟音とともに火が弾け、熱風が頬を撫でていった。
俺も木剣を振り上げ、泥を蹴った。けれど、近づけない。
何度目かの炎を
次の攻撃が来る。俺は避けるのではなく、一歩踏み込んだ。足元の泥が沈み込むより先に、身体の内側を巡る魔力を意識する。すると、身体がほんの少しだけ軽くなった。踏み込んだ足に力が伝わり、さっきまでなら泥に奪われていたはずの勢いが、そのまま前へ繋がる。風が頬を掠めた。
「……っ!」
ルーデウスの表情が変わった。俺は木剣を振るう。けれど、その一撃は届かなかった。ルーデウスが身体を捻り、足元から土を盛り上げる。俺はそれを飛び越え、着地と同時に斬り込むが、今度は横から風が叩きつけられた。それでも吹き飛ばされる前に踏みとどまる。身体の中を巡る魔力を、今度は意識して全身へ広げていく。これが闘気なのだと、頭で理解したわけじゃない。ただ、身体がどうすれば動くのかを覚え始めていた。
そこから先は、さっきまでとは別の戦いになった。ルーデウスが地面を泥に変えれば、俺は闘気を纏った脚力で踏み抜き、風が飛んでくれば身体を沈めながら距離を詰める。炎が飛んでくれば
それでも、俺は少しずつ笑いたくなっていた。苦しい。何度も足を取られ、何度も吹き飛ばされそうになる。
けれど、このままでは終わらない。俺が一歩詰めればルーデウスは一歩下がり、俺が速度を上げれば魔術の数を増やす。俺が
ここはグレイラット家の庭だ。土が剥がれ、泥と水が広がったその向こうに、岩壁がある。そして、その岩壁にはもう一本の木剣が立てかけられていた。俺が今握っているものと同じ、稽古用の木剣だ。視線をそこへ向けたのはほんの一瞬だったが、それだけで十分だった。これがもし成功したなら──そしてルーデウスがそれを避けることに意識を向けたら。その一瞬だけ、こいつの意識を戦いから外すことができる。
次にルーデウスが魔術を放った瞬間、俺は木剣を握り直した。そして、振るう代わりに、そのまま投げた。
「──え?」
ルーデウスの目が見開かれる。剣士が自分から武器を捨てるなんて、普通なら考えない。飛んできた木剣を避けようとして身体を反らし、その動きで一瞬だけ姿勢が崩れた。俺はその瞬間を逃さなかった。ルーデウスへ向かうのではなく、真横へ走る。岩壁に立てかけられていたもう一本の木剣へ一直線に駆け、手を伸ばして柄を掴んだ。
身体の中を巡る闘気が、足へ集まる。岩壁の側面を蹴った。背後から崩れたような音が聞こえるが、今は気にしない。
今度は、さっきまでとは比べものにならない速度で身体が前へ飛び出した。ルーデウスがこちらを振り向く。杖が持ち上がる。詠唱はない。次の瞬間、目の前に炎が生まれた。
けれど、俺は止まらなかった。
炎が身体へ届く直前、
木剣を振り抜く。
狙ったのは、首だった。
鈍い衝撃が手に伝わった直後、ルーデウスの身体から力が抜け、そのまま地面へ倒れた。俺も勢いを殺しきれず数歩前へ出てから、ようやく振り返る。庭に静寂が戻っていた。さっきまであれほど騒がしかった魔術の音も、土を踏み荒らす足音も、全部消えている。
俺は荒い息を吐きながら、倒れたルーデウスを見つめた。
「……俺の、勝ちだ」
自分で口にしてみても、まだ実感が湧かなかった。
倒れたルーデウスのところへ駆け寄ろうとした、その時だった。背後から複数の足音が聞こえ、振り返ると、パウロとギレーヌ、それからゼニスがこちらへ向かってきている。少し後ろにはリーリャとシルフィもいた。5人とも先ほどまでの激しい攻防を黙って見ていたからか、表情には驚きが残っていたが、俺はそんなことを気にする余裕もなく、地面に倒れたルーデウスの傍へしゃがみ込んだ。さすがに最後の一撃は強すぎたかもしれない。木剣とはいえ首を打ったのだから、意識が戻らなければさすがに笑えない。
「ルディ!」
ゼニスさんが俺の横を通り抜け、ルーデウスの身体へ手を当てる。詠唱の後淡い光が掌から溢れ、傷ついた身体を包み込んでいく。俺はその様子を見ながら、ようやく張り詰めていた息を吐き出した。戦っている最中は気づかなかったが、全身が重い。闘気を使ったせいなのか、それとも単純にあれだけ動き回ったせいなのか、腕も脚も鉛のようだった。それでも、ルーデウスがちゃんと呼吸をしているのを確認すると、胸の奥に残っていた緊張がようやく解けていく。
「……大丈夫よ。気を失っているだけみたい」
「よかった……」
思わず本音が漏れた。勝ったという実感よりも先に、ルーデウスが無事だったことへの安堵が来る。そもそも俺は、ルーデウスを倒して傷つけたいわけじゃなかった。ただ、旅に出る前に一度くらい、本気で戦っておきたかっただけだ。あいつがこれからどれだけ遠くへ行くのかは分からないし、俺だっていつまでも同じ場所にいるつもりはない。それなら今の自分がどこまで通用するのか、確かめておきたかった。
しばらくして、ルーデウスの指が僅かに動いた。ゆっくりと瞼が開き、ぼんやりと空を見上げてから、隣にいるゼニスさんへ視線を向ける。そして少し遅れて、自分が地面に倒れていることを理解したらしい。ルーデウスは眉を寄せながら身体を起こそうとしたが、ゼニスさんに肩を押さえられて、そのまま大人しく横になった。
「無理に起きないの。まだ少し休んでなさい」
「……はい」
ルーデウスは素直に返事をして、それから俺の方を見る。しばらく何も言わなかった。俺も何を言えばいいのか分からず、その視線を受け止める。やがてルーデウスは小さく息を吐き、少しだけ苦笑した。
「……僕の負けですか」
「ああ。俺の勝ちだ」
「……悔しいな」
その言葉には、負け惜しみらしいものはなかった。ただ純粋に、自分より強い相手に負けたことを悔しがっているようだった。俺はそんなルーデウスを見て、少しだけ笑う。こいつなら大丈夫だと思った。悔しいと思えるなら、きっと次はもっと強くなる。
「
「……そうだな」
ルーデウスも笑った。俺たちはそれ以上何も言わなかったが、それで十分だった。勝った俺も、負けたルーデウスも、今の自分たちがまだ途中にいることくらい分かっている。だからこそ、いつかまた会った時にどちらが強くなっているのか、それを楽しみにしていればいい。
その後、出発の準備が整えられていった。荷物をまとめるルーデウスを眺めながら、俺は妙な感覚を覚えていた。これまで毎日のように顔を合わせていた相手が、明日からはいない。朝になれば一緒に飯を食い、昼には魔術や剣の練習をして、夕方になればくだらない話をしながら家へ戻る──そんな生活が、今日を境に当たり前ではなくなる。寂しいと言えば寂しいのだろうが、それ以上に、こいつがこれからどんな場所へ行って、どんな人間になって帰ってくるのかという楽しみの方が大きかった。
「じゃあな、ルーク」
「ああ。向こうでもちゃんと元気でやれよ」
「お前に言われなくても分かってるよ」
「……フフ」
「……ノルンとアイシャを、頼んでいいか?」
「当たり前だ。お前が帰ってくるまで、傷一つ付けさせやしない」
最後までルーデウスらしい言葉だった。自分の心配ではなく新しく産まれた家族を心配する。本当にルーデウスらしい。俺は苦笑しながら手を振る。馬車が動き始め、少しずつ遠ざかっていくルーデウスの姿を見送る。姿が見えなくなっても、俺はしばらくその場から動かなかった。
「……行っちゃったね」
隣からシルフィの声がした。
「ああ」
俺は短く返して、空になった道を見る。だが、そこでふと気づいた。シルフィが先ほどから何度も俺の方を見ている。何か言いたそうなのに、なかなか口を開こうとしない。俺が首を傾げると、シルフィは少しだけ迷ったあと、意を決したように顔を上げた。
「ねえ、ルーク」
「ん?」
「ボクにも、ルディにやってたみたいな稽古をつけてほしいんだ」
一瞬、意味を考えた。
「……俺と?」
「うん。ボク、もっと魔術が上手くなりたい。それに、ルークと戦ったら、魔術師がどう動けばいいのかも分かると思うんだ」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。確かに、それは悪くない。俺にとっても、魔術師との戦いを経験できるのは大きいし、シルフィにとっても、剣士を相手に魔術を使う練習になる。ルーデウスがいなくなった穴を埋めるという意味でも、俺たち二人がそれぞれ強くなることには意味があるだろう。
「……分かった。じゃあ明日からやるか」
「本当!?」
「ああ。ただし、ルーデウスとやった時みたいに手加減はしないぞ」
俺が冗談交じりそう言うと、シルフィは一瞬だけ驚いた顔をした。それからすぐに、嬉しそうに笑う。
「うん! ボクも本気でやる!」
「言ったな?」
「もちろん!」
──まぁ、シルフィにはまだ本気で相手はしないがな。
その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。ルーデウスがいなくなったことで、これまでとは少し違う日常が始まる。それでも、俺にはまだこの町があり、グレイラット家があり、そして一緒に強くなろうと言ってくれるシルフィがいる。
寂しい思いはもちろんある。でも、前に進まなきゃいけない。俺だけ足踏みをしているなんて、そんなこと出来ない。ルーデウスと、そう約束したのだから。
この世界でのルークとルーデウスは、同い年の兄弟のような、それでいて親友のようなイメージで書いてます。私が書いていない部分でも、2年間という交流の末、仲良くなりました。