迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
今回長めです。書き終わってビックリしました。
九歳になった頃には、俺とシルフィの立ち合いも、すっかり日課の一つになっていた。朝のパウロとの特訓を終えたあと、村の外れにある小高い丘の木の元へ移動し、木剣を構えた俺と、少し離れた場所に立つシルフィが互いの出方を窺う。以前なら、シルフィは魔術を撃つことにさえ躊躇していたが、今では無詠唱で風と水を操り、俺の足元を狙って水を撒き、そこへ風を重ねて動きを鈍らせるくらいのことはできるようになっていた。魔術の制御も、威力も、以前とは比べものにならない。けれど、それでも俺は一度もシルフィに負けたことがなかった。
理由は単純だ。シルフィが得意としている風魔術と水魔術は、俺との立ち合いではどうしても決定打に欠ける。風は俺の身体を押し流すことはできても、木剣を握った腕を止めるほどの威力にはならず、水は足場を崩したり視界を遮ったりすることはできても、俺が闘気を纏えば強引に突破できてしまう。対して、火魔術と土魔術は、使い方次第では俺を大きく傷つけることができるはずなのに、シルフィはその二つをほとんど使おうとしなかった。火魔術は俺に火傷を負わせてしまうのではないかと恐れ、土魔術は、かつて泥玉を投げつけられていた記憶を思い出すからなのか、魔力を集める段階でさえ表情が固くなる。
そのため、俺は最近、シルフィとの立ち合いに少し困っていた。シルフィの魔術は確実に上達しているし、風と水の組み合わせも巧みになっている。それでも、俺が攻めに転じれば、最後には必ず距離を詰められる。シルフィは俺を傷つけたくない。俺は俺で、そんなシルフィを無理やり追い詰めることができない。結果として、互いに遠慮を残したままの立ち合いになり、技術の確認としては役に立っても、実戦を想定した訓練としてはどこか物足りなかった。パウロさんとの修行の方が、今の俺にとってはよほど身になる。そう考え始めていた。
「シルフィ。自分の得意分野を伸ばすのもいいが、もっと火魔術と土魔術も使えよ。俺の特訓にも、シルフィの特訓にもならないだろ」
木剣を下ろしながらそう言うと、シルフィは分かりやすく肩を落とした。風に揺れていた緑色の髪が頬へかかり、その向こうで、彼女は困ったように眉を下げる。
「うぅ……分かってるよ……」
「分かってるなら、使えばいいだろ」
「でも……」
シルフィはそこで口を閉ざした。言いたいことは分かる。火魔術を使えば俺が怪我をするかもしれない。土魔術を使えば、昔自分がされたことを思い出す。どちらもシルフィにとっては、単に不得意な属性というだけではないのだろう。魔術の才能がないわけでも、制御できないわけでもない。むしろ、四属性すべてを無詠唱で扱える時点で、シルフィの魔術師としての素質は十分すぎるほどだった。それなのに使えないのは、技術ではなく、心の方に引っかかっているものがあるからだ。
どうしたものかと、俺は木剣の先で地面を軽く突いた。シルフィに火魔術を使わせるだけなら、命令すればいい。けれど、それではたぶん意味がない。シルフィは優しい。自分の魔術で誰かを傷つけることを、本気で怖がっている。だからこそ、殺傷力の低い風や水を選び、相手の動きを止めるだけで勝とうとしているのだろう。逆に言えば、一度でも「自分の魔術で人を傷つけても大丈夫だ」と思えるようになれば、火魔術も土魔術も使えるようになるかもしれない。
そこまで考えたところで、ふと一つの考えが浮かんだ。
「……シルフィは優しいから、無意識に人を傷つけたくないって思ってるんだろうな。だから、あまり殺傷力のない風魔術や水魔術が得意なんだ」
「そうなのかな……」
「ああ。なら、簡単な話だ」
俺は少し間を置いてから、なるべく軽い調子で言った。
「一回、思いっきり人を傷つけてみればいい」
「えぇ!? そんな酷いこと……できないよ!」
シルフィの顔が一瞬で青ざめた。どうやら、俺が何を言いたいのかを完全に誤解したらしい。昔、自分を虐めていた子供たちと同じように、誰かへ魔術をぶつけろと言われたと思ったのだろう。俺は慌てて両手を振った。
「いや、言い方が悪かったな。俺に向かってって意味だ。俺なら
「でも、万が一、
シルフィは本当に心の底からそう言っていた。自分が傷つくことよりも、俺を傷つけることの方を恐れている。その顔を見ていると、こちらの方が申し訳なくなってくる。シルフィにとって、俺は単なる訓練相手ではない。自分を守ってくれた人間であり、初めて安心して隣にいられるようになった相手だ。そんな相手へ、自分の手で火を放てと言われれば、怖くなるのも当然だった。
「大丈夫だよ。ルーデウスとの時は、ちゃんと発現していただろ? 今までだって何度も出ている」
「何度か出ないこともあったじゃん……」
「そんなことを言っていたら、いつまで経ってもできないままだろ」
「でも……」
「それに、もし出なかったとしても、俺の身体は人より頑丈だ。少しくらいなら耐えられる」
「少しくらいって、どれくらい?」
「……まあ、死なない程度?」
「それは大丈夫って言わないよ!」
思ったより強い声で怒られた。俺は思わず口を閉じる。シルフィは涙こそ浮かべていないものの、明らかに不安そうな顔をしていた。俺が冗談めかして話せば話すほど、彼女の中では「本当に怪我をしたらどうしよう」という恐怖が大きくなっているらしい。ならば、これ以上軽く扱うべきではない。俺は木剣を地面へ置き、シルフィの目を見て、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……分かった。怖いのは分かってる。でも、シルフィが自分の魔術を使えるようになるには、いつか越えなきゃいけないところだと思う。俺も、シルフィの魔術を受ける覚悟はある。だから、今度だけでいい。最初から全力でいいから、火魔術を俺に撃ってみてくれ」
「本当に、怪我しない?」
「
「それ、絶対じゃないじゃん……」
「絶対じゃない。けど、俺はシルフィの魔術を受けてみたい」
それは嘘ではなかった。俺はシルフィの火魔術がどれほどの威力を持つのか知りたかったし、俺自身の
シルフィは長いこと黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。でも、本当に危なくなったら止めてね」
「ああ。遠慮するなよ、シルフィ。思いっきり来い」
「う、うん!」
シルフィは俺から少し距離を取り、両手を胸の前へ掲げた。魔力が集まり始める。最初は掌の間に小さな赤い光が生まれただけだった。
しかし、シルフィの掌に浮かんだ火球は、俺の予想をあっさりと裏切った。小さな火種だったものが、次第に膨れ上がっていく。赤い光の中心に橙色の炎が渦巻き、周囲の空気が熱で歪み始めた。シルフィは無詠唱で魔力を注ぎ続けている。火球はもう初級魔術と呼べる大きさではない。
俺は火球を見上げたまま、内心で呟いた。
──メラ〇ーマ? いや、デカすぎるだろ。これ、普通に防壁魔法で耐えられるのか?
「い、行くよ?」
シルフィの声が震えている。今さら「ちょっと待て」と言うこともできたが、ここで止めれば、彼女は二度と火魔術を使おうとしないかもしれない。俺は自分の額に浮かんだ汗を拭い、木剣を握り直した。
「……来い!」
叫んだ直後、火球が放たれた。
巨大な炎の塊が、周囲の空気を焼きながら一直線に迫ってくる。視界のほとんどが赤と橙に染まり、熱風が顔へ叩きつけられた。肌が焼けるように痛み、呼吸をしようとしただけで喉の奥まで熱が入り込む。俺は反射的に一歩下がり、それでも逃げるわけにはいかないと踏みとどまった。
──あ、これは死ぬ。
「
天へ祈るような声が、自分の口から飛び出した。直後、目の前に半透明の防壁が現れる。淡い光を帯びた壁が炎を正面から受け止め、激しい衝突音とともに周囲へ熱と風を撒き散らした。防壁の表面に無数の亀裂が走る。炎は止まらない。押し寄せる熱量があまりにも大きく、防壁は耐えようと軋みながら、少しずつ後ろへ押し込まれていった。
「ぐっ……!」
足が地面へ沈む。防壁を維持するために魔力を流し込むが、炎の勢いは衰えない。やがて、目の前で何かが砕けるような音がした。防壁に走った亀裂が一気に広がり、次の瞬間、光の壁が粉々に弾け飛ぶ。
炎が、俺へ届いた。
熱い、という言葉では足りなかった。皮膚の表面を焼かれたのではなく、身体そのものを炎の中へ放り込まれたような感覚だった。髪が焦げ、服が燃え、肩から胸にかけて猛烈な痛みが走る。声を出そうとしても喉が焼けて息しか漏れず、身体の内側まで熱が侵入してくる。俺は反射的に地面へ倒れ込み、転がりながら炎を消そうとしたが、指先に力が入らない。
「ルークっ!!」
シルフィの悲鳴が聞こえた。
ようやく炎が消えた時、俺は地面に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。肩から腕にかけて皮膚が赤く腫れ、服はところどころ黒く焦げている。頬にも熱が残り、目を開けているだけで痛かった。自分の身体から立ち上る焦げた臭いに、少し遅れて恐怖が込み上げてくる。
「ア……ッチィ……!」
声にした瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。息を吸うだけで胸が焼ける。俺は片手を地面につき、どうにか顔を上げた。視界の向こうで、シルフィが青ざめた顔をしている。彼女は自分が何をしてしまったのか理解したらしく、両手を震わせながら俺の方へ駆け寄ってきた。
「ルーク! ルーク、大丈夫!?」
「……大丈夫、じゃ……ない、けど……」
冗談を言おうとしたが、痛みで上手く笑えなかった。するとシルフィはすぐに俺の身体を水の塊で包み込んだ。冷たい水が焼けた皮膚を覆い、熱を奪っていく。痛みが完全に消えるわけではない。それでも、炎に包まれていた直後の身を裂くような苦痛が少しずつ和らいでいった。シルフィは俺の顔を覗き込みながら、必死に水の形を維持している。
「ごめん……ごめんね、ルーク……」
「ありがとう、シルフィ…」
「うん……」
しばらくしてから、シルフィは俺を木の下まで運び、幹へ背を預けるようにして寝かせた。自分も魔力を使いすぎているはずなのに、彼女は休もうとしない。震える手を俺の胸元へ置き、治癒魔術の詠唱を始めた。
「母なる慈愛の女神よ、彼の者の傷を塞ぎ、健やかなる体を取り戻さん──『エクスヒーリング』!」
ゼニスから教えて貰っている治癒魔術。淡い光が身体全体へ広がっていく。焼けた皮膚が少しずつ元の色を取り戻し、焦げた服の下にあった火傷も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。呼吸をするたびに残っていた痛みも薄れ、俺はようやく身体の力を抜くことができた。シルフィは治癒魔術が終わっても手を離さず、俺の胸元へ顔を伏せたまま動かなかった。
「……良かった」
その声は、かすかに震えていた。安心したのか、魔力を使いすぎたのか、それとも別の理由なのかは分からない。ただ、シルフィの肩が小さく上下しているのを見て、俺はようやく事態の重さを理解した。俺は自分の
「ごめん、シルフィ。俺の
「違うよ!」
シルフィが顔を上げた。涙が溢れそうな目で、俺をまっすぐ見ている。
「ボクが何も考えずに、魔力を込めすぎたから! ルークが思いっきり来いって言ったから……ボク、ちゃんと止めなきゃいけなかったのに……!」
「シルフィ……」
「ボク、ルークを傷つけたくなかったのに……。怖かったのに……。なのに、ボクが……」
そこから先は言葉にならなかった。シルフィは再び俺の胸元へ顔を伏せ、ひっく、ひっくとしゃくり上げ始める。涙が服へ染み込んでいくのを感じながら、俺はどう声をかけるべきか考えた。大丈夫だと繰り返すだけでは、たぶん足りない。実際、俺は大丈夫ではなかった。あの一瞬、死を覚悟したのは事実だし、今思い出しても背筋が冷える。それでも、シルフィが自分の魔術を恐れ続けることだけは避けたかった。
「俺は大丈夫だ。もう少し弱い威力なら、防壁で耐えられるだろうし、もし怪我したら、シルフィが治してくれる」
「……うん」
「だから、あんまり気にしないでくれ。上達するには、怪我が付き物だ」
「……でも、ルークが死んじゃったら……」
「死なないよ。たぶん」
「たぶんって言わないで!」
泣きながら怒られた。俺は少しだけ笑い、シルフィの頭へ手を置く。彼女の髪はまだ火球の熱を受けたせいか、いつもより乾いていた。俺がゆっくり撫でると、シルフィはしばらく黙ったあと、顔を上げた。
「……ボクのこと、嫌いにならない?」
「え?」
「怖くない? ボクがまた、ルークを傷つけたら……」
その問いに、俺は思わず笑ってしまった。こんな状態で笑うのもどうかと思ったが、シルフィの顔があまりにも真剣だったからだ。
「ははっ。そういうことは、特訓で俺を倒せるようになってから言え」
「……ルーク」
「シルフィのことは怖くもなんともないし、シルフィのことを嫌いになんてならないよ」
「……本当?」
「ああ。本当だ」
シルフィはしばらく俺の顔を見つめ、それからようやく小さく頷いた。少しずつ呼吸が落ち着いていく。俺はその様子を見ながら、内心で苦笑した。
──と言っても、俺は一度倒されたわけだけど。
驚かなかったと言えば嘘になる。あの火球を見た瞬間、死を覚悟したのも本当だ。それでも、最後に
「シルフィ、試したいことがある」
「……なに?」
「もう一回、今のを撃ってみてくれないか?」
シルフィの顔から、すっと血の気が引いた。
「……嫌」
「頼むよ」
「だって、またルークが怪我しちゃう」
「でも、確かめたいんだ。さっきの
「そんなの、確かめなくていいよ」
シルフィは俺の服を掴んだまま、首を横に振った。さっきまで泣いていたこともあり、その拒絶にはいつも以上の強さがあった。俺を傷つけたくないという気持ちだけではない。もしかすると、今の一撃そのものが、シルフィにとって新しいトラウマになりかけているのかもしれない。自分の力を使えば、大切な相手を焼いてしまう。そう思い込んでしまえば、火魔術を使えるようになるどころか、二度と火を生み出せなくなる可能性だってある。
「……うーん」
俺は頭を掻いた。シルフィが良い子すぎるのが問題なのだ。自分の魔術を恐れているのではなく、自分の魔術で俺を傷つけることを恐れている。なら、俺がもう一度受けると約束するだけでは足りない。彼女自身が納得できる理由を作らなければならない。
「なら、こうしよう」
俺は少し考えてから、シルフィへ向き直った。
「俺がもう一回怪我したら、シルフィが俺を治癒してくれた後、何でも言うことを一つ聞くよ」
「……え?」
「その代わり、俺の
「……
「うん」
「……本当になんでもいいの?」
「う、うん」
俺の提案を聞いたシルフィは、さっきまでとは少し違う顔をしていた。涙の跡が残っているのに、どこか考え込むような、妙に真剣な表情だ。俺はその顔を見ながら、後半の条件が完全におざなりになっている気がしてきた。そんなに俺へお願いしたいことでもあるのだろうか。とはいえ、ここで取り消すわけにもいかない。俺が黙っていると、シルフィはやがて小さく頷いた。
「……うん、分かった。なら、もう一回いくね」
「頼む」
俺はいつの間にか借りていたシルフィの膝から立ち上がり、再び距離を取った。先ほどまでの火傷が嘘のように消えているとはいえ、身体の奥にはまだ疲労が残っている。けれど、今度はただ受けるだけではない。さっきの感覚を思い出し、防壁へもっと多くの魔力を流し込む。外側へ壁を作るだけではなく、魔力そのものを一瞬で凝縮させる。上手くいく保証はない。それでも、試す価値はあった。
シルフィは再び掌へ魔力を集め始めた。小さな火種が生まれ、赤い光が膨れ上がっていく。やがて先ほどと同じ大きさの火球が形を取り、周囲の空気を焼き始めた。俺はその炎を見据えながら、身体の内側へ意識を集中させる。心臓の奥から魔力を引き出し、腕へ、肩へ、胸へと流していく。
「いくよ!」
「来い!」
火球が放たれた。先ほどよりも少しだけ速い。炎の塊が迫るにつれ、熱風が顔を叩く。俺は目を逸らさず、最後の瞬間まで魔力を外側へ押し出した。
「
目の前に防壁が現れる。今度の壁は、先ほどよりも厚く、密度が高かった。炎が衝突した瞬間、激しい轟音が響く。防壁の表面に亀裂が走るが、すぐには崩れない。俺は歯を食いしばり、流し込んだ魔力をさらに増やした。炎の勢いが防壁を押し込む。足元の土が削れ、身体が後ろへ滑る。それでも、壁は耐えた。
やがて火球は勢いを失い、赤い炎の塊が周囲へ散っていく。最後に残った火の粉が消えると、俺の目の前には、傷一つない防壁が立っていた。
「……やった」
自分でも、思わず呟いていた。
「やった! できた!!」
隣でシルフィが声を上げる。さっきまでの不安そうな表情は消え、目を輝かせながら俺の方へ駆け寄ってきた。
「すごい! すごいよルーク! ……あ」
「……ああ。やっぱりそうだ」
俺は防壁へ手を伸ばした。触れることはできないが、そこに残る魔力の感触は分かる。先ほどの防壁とは明らかに違う。命の危険を強く感じた瞬間、魔力を一気に外側へ押し出し、密度を高めることができた。つまり、今まで無意識に発動していた防壁魔法を、ほんの少しだけ意識して制御できたのだ。
──この
そう考え込んでいると、シルフィがこちらをじっと見ていることに気づいた。先ほどまでの笑顔は消えている。心なしか、少しむくれているようにも見えた。
「な、なんだよ。嬉しくないのか?」
「……別に」
「シルフィの思いっきり出した魔法の練習台に、俺はなれるんだぞ?」
「……別に、嬉しくないわけじゃないけど」
シルフィは視線を逸らし、少し素っ気なく言った。
「もしかしたら次は
さっきまで、俺に火傷を負わせて泣いていた女の子とは到底思えない態度だった。俺は思わず目を細める。どうやら、シルフィの中で何かが変わったらしい。自分の魔術を怖がるだけではなく、俺を倒すことを目標にし始めている。
「……言ったな?」
「……」
「じゃあ、今日はシルフィが砲台になって、俺にひたすら魔術を撃つ特訓にしよう」
「……いいよ。怪我しても、ボクが治してあげるから」
「だからもうしねぇって! もう俺の
その後、シルフィの魔力が尽きるまで、俺はシルフィの的になり続けた。風魔術で防壁に傷がつき、水魔術で視界を奪われ、土魔術で作られた泥の塊を避け、時には火球を防壁で受け止める。もちろん、俺の防壁魔法は無敵ではなかった。何度かは再び割れ、肩や腕に火傷を負うことになったが、そのたびにシルフィが慌てて駆け寄り、治癒魔術で傷を癒してくれた。
最後には、疲れ果てたシルフィが俺の隣で眠そうに目を擦り、俺も木の下へ座り込んだ。今日の特訓で、シルフィは火魔術と土魔術を使うことへの恐怖を少しだけ乗り越えた。俺は俺で、防壁魔法を意識して強化するための手掛かりを得た。互いに得るものがあったのだから、結果としては悪くない。……ただ、何度も傷を治してくれるシルフィが、途中から天使に見えてきたことだけは、本人には絶対に言わないでおこうと思った。
シルフィをロールズさんの家まで送り届ける道すがら、俺たちは今日の特訓について話していた。道にはまだ昨日の水たまりが残っていて、踏み込むたびに靴の裏から小さな水音が返ってくる。西日に照らされた木々の葉からは雫が落ち、湿った土と濡れた草の匂いが辺りに広がっていたが、そんな穏やかな景色とは裏腹に、俺の頭の中では先ほどの火球が何度も再生されていた。
「最初の火球、やっぱり大きすぎたよね」
隣を歩くシルフィが、申し訳なさそうに口にした。
「大きすぎたな。あれはもう
「でも、ルークが来いって言ったから……」
「それはそうだけど、あそこまでとは思わなかったんだよ。普通の
「家は言いすぎだよ」
「じゃあ馬小屋くらい」
「それも大きいよ」
シルフィは困ったように笑った。けれど、その笑顔にはまだ不安が残っている。俺が火傷を負ったことを気にしているのだろう。治癒魔術で傷は塞がっているし、痛みもほとんど消えている。それでも、焼け焦げた服だけはそのまま残っているため、彼女からすれば、自分が俺を傷つけたという事実が目に見える形で残っているのかもしれなかった。
「でも、途中からはちゃんと防げてたよね」
「ああ。
「じゃあ、目標はそれをずっとだね」
「それができれば苦労しないんだけどな」
俺は肩をすくめた。
「シルフィの方はどうだった? 火魔術を使ってみて」
「……怖かった」
シルフィは少しだけ俯いた。先ほどまで笑っていた顔から、ゆっくりと表情が消えていく。
「ルークに当たったとき、死んじゃったらどうしようって思った。
「俺は死んでないだろ」
「でも、大火傷させちゃった」
「シルフィが治してくれたよ」
「それでもだよ」
いつになく強い声だった。俺は歩みを緩め、隣のシルフィを見る。彼女は俺の方を見ず、濡れた道の先だけを見つめていた。自分の魔術が人を傷つけることへの恐怖は、今日一日で完全に消えたわけではない。むしろ、実際に俺を傷つけたことで、これまで以上に鮮明になってしまったのだろう。
「シルフィ」
「なに?」
「今日のことで、火魔術を使うのが嫌になったか?」
シルフィはすぐには答えなかった。しばらく歩いたあと、ようやく小さく首を横に振る。
「嫌じゃないよ。ただ、またルークを傷つけたらって思うと怖い」
「だったら、次は傷つけないように練習すればいい。火魔術を使わないままなら、いつまで経っても加減は分からないだろ」
「でも……」
「俺だって
俺がそう言うと、シルフィはようやくこちらを見た。赤色の瞳にはまだ心配の色が残っていたが、その奥にほんの少しだけ納得したような光が浮かんでいる。
「じゃあ、次はもっと小さい火球からにしよ?」
「そうだな。今日の半分……いや、三分の一くらいでいい」
「三分の一?」
「最初から家を焼ける大きさを目指す必要はないだろ」
「だからそんなに大きくないってば」
シルフィがまた笑う。俺もつられて笑ったが、内心では今日の火球の大きさを思い出していた。あれは本当に、子供が使う魔術の規模ではなかった。シルフィが意識して出力を抑えれば、もっと細かく、もっと正確に扱えるようになるはずだ。問題は、そのために必要な経験を、彼女がどこまで恐怖を抱えたまま積み重ねられるかだった。
「土魔術も、少しずつ使ってみるか」
「土魔術は……」
シルフィの足がわずかに止まった。泥を投げられていた頃の記憶が、今も彼女の中に残っていることは知っている。だからこそ、俺は無理に勧めるつもりはなかった。
「すぐに使えとは言わない。火魔術と同じで、最初は小さなものからでいい。石を一つ作るだけでも、地面を少し盛り上げるだけでもいい」
「……手伝ってくれる?」
「当たり前だろ。ルーデウスの方が教えるのは上手いだろうけど、俺もただ見てた訳じゃないからな」
「じゃあ、やってみる」
その返事は小さかったが、今までよりもはっきりしていた。シルフィはまだ土魔術を恐れている。それでも、自分の意思で向き合おうとしている。その変化を見ていると、今日俺が何度か火傷を負ったことも、完全に無駄だったわけではないと思えた。
「それにしても、ルークって本当に体が強いね」
「そうか?」
「だって、ボクの火球とか今日いっぱい受けたのに、普通に歩いてるし」
「治してもらっただけだ。シルフィの治癒魔術がなかったら、今頃は泣きながら帰ってた」
「ルークでも泣くの?」
「そりゃ泣くさ。痛いものは痛いからな。当たった時の俺の顔、見たろ?」
俺がわざと大げさに顔を歪めると、シルフィは堪えきれずに吹き出した。笑いながらも、何度も俺の袖口を確認している。焦げた布地の向こうに傷が残っていないか、まだ確かめたいのだろう。
「本当に、もう痛くない?」
「ああ。シルフィが治してくれたからな」
「だったらよかった」
彼女はようやく安心したように息を吐いた。俺たちはそのまましばらく歩き、やがてロールズさんの家が見えてきた。玄関の前に立つと、シルフィは少し名残惜しそうに俺を見上げる。今日一日、何度も火球を撃ち、何度も治癒魔術を使い、最後には魔力が空になるまで特訓した。
「今日もありがとね」
「おう。明日もこのくらいの時間でいいか?」
「うん」
シルフィはそう言って、少し照れたように笑った。俺は返事をしようとして、どうすればいいか分からず気が付いたらロールズさんの家に着いていた。
シルフィはそのまま玄関の方へ駆けていった。扉の前で一度だけ振り返り、小さく手を振る。俺も手を上げて応え、彼女の姿が家の中へ消えるのを見届けてから、グレイラット家へ向かって歩き出した。背中に残ったシルフィの笑い声を聞きながら、明日は本当に火球の大きさを三分の一にさせようと考える。もっとも、シルフィの三分の一が本当に三分の一で済むのかについては、まだ少し疑問が残っていた。
グレイラット家に戻ると、玄関先でゼニスさんが俺を出迎えた。いつものように「おかえり」と笑いかけようとしていた彼女は、俺の顔を見るなり、その視線をゆっくりと身体へ落としていく。髪にはまだ煤が残り、胸元や袖口、腰の辺りには火球に炙られた跡が黒くこびりついていた。布地はところどころ縮れ、焦げた部分には小さな穴まで開いている。それでも、シルフィの治癒魔術によって皮膚には傷一つ残っていなかったため、俺自身は特に気にしていなかった。
「……ルーク?」
「ただいま戻りました」
「その服、どうしたの?」
「シルフィと特訓をしていて、少し火魔術を受けただけです」
「少し?」
ゼニスさんの声が、わずかに低くなった。
俺は自分の服を見下ろした。改めて確認してみれば、確かに少しというには焼け方がひどい。だが、火傷そのものはもう消えているし、痛みもない。シルフィが何度も治癒魔術をかけてくれたおかげで、身体だけを見れば、今日ここで何か危険なことがあったとは誰も思わないだろう。問題は、服の方がその経緯を隠してくれなかったことだった。
「身体は大丈夫なの?」
「はい。シルフィが治してくれました」
「そういうことを聞いてるんじゃないの。……ボロボロじゃない」
「……だいぶやっちゃったので」
「どれくらい?」
「シルフィの魔力が切れるまで続けていたので」
その瞬間、ゼニスさんの表情が完全に消えた。
怒こられるかと思ったが、彼女は何も言わずに一歩近づき、俺の焦げた袖を指先でつまみ上げた。黒く変色した布地を眺め、それから胸元の焼け跡へ視線を移す。やがて、確かめるように俺の顔を見上げると、こつん、と頭を軽く叩いた。
「やりすぎよ」
「……はい」
「
「でも、最後はちゃんと防げるようになったので」
「最後は、でしょ?」
「はい」
ゼニスさんは深く息を吐いた。叱るというより、呆れと心配が混ざったような顔だった。俺としては、特訓の成果があったことを伝えたかったのだが、今の状況でそれを口にすると、余計に怒らせる気がしたので黙っておくことにした。
そこへ、俺たちの会話を聞きつけたパウロさんがやってくる。俺の姿を見た瞬間、彼は足を止めた。視線が焦げた袖から胸元へ、そこから腰の辺りへと移っていく。普段なら、俺が多少無茶をしても豪快に笑って済ませる人なのだが、今日は口元を引きつらせたまま、しばらく何も言わなかった。
「……お前、それ、どうしたんだ?」
「シルフィと火魔術の特訓をしていました」
「火魔術の?」
「はい。俺が
「受ける役って……」
パウロさんは焼けた服を見つめたまま、わずかに後ずさった。
「まさか、真正面から受けたのか?」
「最初は防壁が破られました」
「最初は?」
「何度か破られましたけど、途中からは防げるようになりました」
「何度かって、お前……」
パウロさんはそこで言葉を止めた。怒っているというより、どう反応すればいいのか分からないらしい。俺が無傷で立っていることは理解している。それでも、服の焦げ跡が目の前にある以上、簡単に「よくやったな」とは言えないのだろう。
「……お前が来た時から思っていたが、無茶苦茶な奴だな」
「必要な特訓だったので」
「必要でも、やり方ってものがあるだろ」
「……はい」
パウロさんの言葉に、俺は素直に頷いた。実際、今日の特訓は少し無理をしすぎた自覚がある。シルフィが火魔術を使えるようになることばかり考えて、
その横で、リーリャさんは黙ったまま俺を見ていた。
焦げた服。煤の付いた髪。何事もなかったように立っている俺の顔。その三つを順番に見比べながら、リーリャさんは一切表情を変えない。怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かを考えているのか、まったく分からなかった。普段は柔らかな微笑みを浮かべていることが多いだけに、真顔で見つめられると、かえって強い圧を感じる。
「リーリャさん?」
俺が声をかけると、彼女は静かに口を開いた。
「……お身体を拭かれた方がよろしいかと。2階にお湯を張ってありますので」
「はい」
「替えの服をご用意しておきます」
「あ、ありがとうございます」
どうやら、俺自身を心配してくれていたらしい。いや、たぶんそれだけではないのだろうが、リーリャさんの表情からは判断できなかった。俺が階段へ向かおうとすると、居間の方から二つの視線がこちらへ向けられていることに気が付く。
ゼニスさんに抱かれたノルンと、リーリャさんに抱かれたアイシャが、揃って俺を見つめていた。
二人はまだ幼く、俺が何をしてきたのか理解しているわけではない。ただ、いつも見ている男の子の服がところどころ黒く焦げ、大人たちが揃って妙な顔をしている。その状況が、彼女たちには不思議なものとして映っているらしい。ノルンは小さく首を傾げ、アイシャは俺の袖に開いた穴をじっと見つめていた。
まるで、見慣れない生き物でも観察するような目だった。
「これは、その……ちょっと失敗しただけだから」
俺が二人に向かってそう言うと、パウロさんが背後でぼそりと呟いた。
「ちょっと、ねぇ……」
ゼニスさんの視線が再び俺へ戻る。俺はそれ以上何も言わず、今度こそ階段を上がった。背中には、心配そうなゼニスさんの視線と、少し引いたパウロさんの視線と、最後まで真顔だったリーリャさんの視線が突き刺さっている。
リーリャさんは、いったいどういう顔なのだろう。
怒っているのか。呆れているのか。それとも、もう何を言っても無駄だと諦めているのか。少なくとも、この三つは入っているだろうな。
☆☆☆
シルフィとの訓練は少しずつ厳しくなっていった。
シルフィが本気の火球を放ち、ルークの
「そこ!」
シルフィの声を聞いた瞬間、ルークは身体を沈めた。頭上を風の刃が通り過ぎ、背後の木の幹へ浅い傷を刻む。そのまま前へ踏み込もうとしたところで地面が盛り上がり、ルークは反射的に跳び上がった。空中で身体を捻り、着地した瞬間には、今度は小さな火球が目の前まで迫っている。
「おい、最近容赦なくなったな!」
「ルークが本気でやれって言ったんでしょ!」
ルークは笑いながら横へ跳んだ。火球が地面へ落ち、乾いた音とともに土を弾き飛ばす。
以前なら、あの攻撃を正面から受けていた。
今は違う。
まず避ける。それでも間に合わなければ闘気を纏った木剣で軌道を逸らし、最後の手段として
二人の特訓は、いつの間にか「遊び」と呼ぶには少し真剣すぎるものになっていた。
それでも、終われば二人で笑う。
上手くいけば喜び、失敗すれば悔しがり、次の日にはまた同じ場所へ集まる。そして、ルーク自身も成長していた。
パウロとの剣術訓練では、闘気を纏った身体の扱いが以前とは比べものにならないほど安定していた。踏み込み、斬り込み、受け流し、反撃する。一つ一つの動作が身体へ染みつき、頭で考えるより先に身体が動く場面も増えてきた。ただし、パウロとの訓練では
「また出たぞ」
木剣を交えた直後、ルークの目の前に薄い光の膜が現れた。
「……はぁ」
「はははっ。そう落ち込むな」
パウロは木剣を肩へ担いだ。
「危ないと思った瞬間に勝手に出る。便利なもんだが、それに頼るなよ」
「頼ってるつもりはないんですけどね」
「なら、どうして出た?」
「……知りませんよ」
ルークが苦笑すると、パウロは少し考えるように黙った。
「お前の防壁は、魔力だけで動いてるんじゃないのかもしれんな」
「どういう意味です?」
「お前が本当に危ないと思った時に出てる。特に、誰かを守らなきゃならない時は強くなる。なら、何を怖がってるのかくらいは考えておけ」
ルークは返事をしなかった。
自分のこれについて、まだ分からないことは多い。魔力を集めれば必ず出るわけではないし、逆に、何も考えていないのに突然現れることもある。最初に発動した時もそうだった。そして最近は、シルフィを庇おうとした時や、彼女の魔術が予想以上の威力になった時に、以前よりも強く発動するようになっている。
怖いからなのか。
失いたくないからなのか。
それとも──。
そこまで考えたところで、ルークは思考を切り上げた。
まだ答えを出す必要はない。そう思った。
そんな日々を繰り返しているうちに、ルークは十歳になった。
それ以上に変わったのは、訓練以外の時間だった。以前のルークは、朝起きれば自分の部屋を整え、食事を済ませ、必要なことだけを済ませると、なるべく家の中で邪魔にならないようにしていた。誰かに頼まれれば手伝うし、食事を用意してもらえば礼を言う。けれど、自分から「家にいる」という感覚は薄かった。与えられた部屋で眠り、与えられた食事を食べ、与えられた時間を過ごす。それは居候としては十分すぎるほど恵まれていたし、ルーク自身もそのことに不満を持ったことは一度もない。ただ、どこかでいつも、自分はこの家の人間ではないのだという線を引いていた。
ところが、子供というものは、そんな線を簡単に踏み越えてくる。
朝、ルークが食卓へつくと、アイシャが眠そうな顔で隣の椅子へ座る。ノルンはまだ一人で椅子へ上がるのが危なっかしく、ゼニスやリーリャに手を貸してもらいながら席につく。ルークが先にパンへ手を伸ばせば、アイシャが自分の皿にあるものと見比べて「ルーク兄のほうが大きい」と文句を言い、ノルンはそれを真似して「ルーク兄さんの方が、おっきい」と意味の分からないことを言う。ルークが笑って自分のパンを少し分けてやれば、二人は嬉しそうに食べる。その程度のやり取りが、いつの間にか毎朝の当たり前になっていた。
昼過ぎに家へ戻れば、ゼニスが「おかえり」と声をかける。最初の頃は、その言葉を聞くたびにどこかくすぐったいような気持ちになったものだが、今では「ただいま帰りました」と返すことも自然になっていた。リーリャから「手を洗ってください」と言われれば素直に洗い、食事の前にアイシャが騒げば注意し、ノルンが食べ物を落とせば拾ってやる。夕方、庭で剣を振っていると、窓からゼニスが「夕食できるわよ」と声をかけてくる。その声を聞けば木剣を置き、家の中へ戻る。
そんな一つ一つは、記憶に残るような出来事ではない。
けれど、居場所というものは、案外そういう何でもない時間の積み重ねで出来ていくものだった。
ルークがそれを自覚していなかっただけで、彼の生活にはすでにこの家の人間たちが深く入り込んでいた。
剣の訓練を終えて庭から戻れば、ノルンが「楽しかった?」と聞いてくる。シルフィとの訓練から帰れば、アイシャが小さな足音を立てながら玄関まで走ってきて、「ルーク兄、おかえり」と言う。夜になれば、ゼニスが怪我をしていないか確認し、リーリャが翌日の服を用意してくれる。パウロとは剣の話をしながら食卓を囲み、時には訓練で負けたことを愚痴れば、パウロが「それくらいでへこたれるな」と笑う。
それらはすべて、最初の頃には「してもらっていること」だった。
いつからか、それが「家族との生活」になっていた。
ただ、ルークはその名前をつけることだけを避けていた。
ノルンやアイシャが自分を「兄」と呼ぶたび、それだけは必ず訂正した。
「俺は二人のお兄ちゃんじゃないよ」
それは冷たい拒絶ではなかった。むしろ、ルークなりの線引きだった。
「二人にはルーデウスっていう、とても頼りになる兄がいるんだから」
そう言えば、ノルンは不思議そうな顔をする。
「でも、産まれたばかりで覚えてないし。ルーク兄さんもいるよ?」
「だから、俺は兄じゃないって」
「なんで?」
「なんでって……」
そこでルークは言葉に詰まる。
血が繋がっていないから。
拾われた人間だから。
いつかここを離れるかもしれないから。
けれど、それを幼いノルンに説明したところで意味はない。だから結局、いつものように笑って誤魔化す。
「俺はルーク。お前達の兄はルーデウス」
「ふーん……」
ノルンは納得していない顔をする。
アイシャに至っては、少し分かっているような縁もある気がする。
「ルーク兄」
「だから兄じゃないって」
「ルーク兄」
「……」
「ルーク兄!」
「はいはい」
結局、ルークが折れる。
そんなやり取りを何度も繰り返してきた。
それでもルークは、それでいいと思っていた。
自分は彼らを大切にしている。
彼らも自分を大切にしてくれている。
それだけで十分だった。
「家族」という言葉を、自分から口にする必要などないと思っていた。
そして、十歳の誕生日の朝。
目を覚ましたルークは、いつもと少し違う空気を感じた。
階下から聞こえる音が多い。
台所からは食器の触れ合う音だけでなく、ゼニスとリーリャが何か話している声が聞こえる。普段なら朝食の準備が終わる頃には落ち着いているはずなのに、今日は人の出入りが妙に多い。着替えて階段を降りると、パウロまで家の中を行ったり来たりしている。
「……何してるんですか?」
「何って、何もしてねぇよ」
「いや、絶対何かしてるでしょう」
「気のせいだ」
パウロはそう言いながら、明らかに何かを隠している。
ゼニスも同じだった。
料理を運んできたと思ったら、ルークと目が合った瞬間に笑う。けれど、その笑顔の奥には何かを知っている人間特有のものがある。
「ゼニスさん」
「なあに?」
「今日、何かあるんですか?」
「何もないわよ」
「……怪しい」
今度はリーリャを見る。
「リーリャさん」
「はい」
「今日、何かあります?」
「特にございません」
「絶対ありますよね?」
「ございません」
「……」
完璧に隠されている。
ルークは諦めてノルンとアイシャを見る。
二人は朝からずっと嬉しそうだった。
「二人は?」
「楽しみにしててね、ルーク兄れ」
ノルンが笑った。
「ルーク兄さん、楽しみだね」
アイシャも続ける。
「……」
ルークは思わず反応した。
いつもの言葉だった。
だから、いつものように返す。
「俺はお前達のお兄ちゃんじゃ──」
言いかけて、ルークは止まった。
ノルンの顔を見る。
それからアイシャを見る。
二人とも、何の疑いもなく自分を見ている。
結局、ルークは小さく息を吐いた。
「……まあいいや。今日は特別な日なんだろ?」
「うん!」
二人が嬉しそうに笑う。
ルークには、その時点ではまだ何の日なのか分かっていなかった。
自分の誕生日だということすら、意識の端にしかなかった。
ただ、家族が何かを企んでいるらしい。
それだけだった。
だから、いつものようにシルフィのもとへ向かった。
丘での訓練は、いつもと変わらなかった。風が吹き、水が飛び、土が盛り上がり、最後には小さな火球がルークの横を抜けていく。シルフィの魔術は、数か月前とは比べものにならないほど洗練されていた。以前なら(多分俺のせいで)火を使うだけで不安そうな顔をしていたのに、今では自分で威力を抑えながら、ルークの動きを見て次の魔術を選べるようになっている。
訓練を終え、帰ろうとした時だった。
「ルーク」
「ん?」
シルフィがポケットから何かを取り出した。
「これ、あげる」
小さな木製の首飾りだった。
ルークは受け取ったまま、しばらく眺めた。
「これ……」
「前から作ってたんだ。お父さんが持ってる首飾りを参考にして」
木は少し歪んでいた。表面には細かな削り跡も残っている。それでも、雑に作ったものではないことは分かった。何度も手を入れて、時間をかけて作ったのだろう。
「今日、ルークの誕生日だから」
「……そうだったな」
言われて初めて、自分の誕生日を意識した。
「ありがとう、シルフィ」
首飾りを手に握る。首下に当たる感触がなんだか嬉しかった。
「大切にするよ」
シルフィが嬉しそうに笑った。
その顔を見て、ルークも自然に笑った。
「じゃあ、シルフィの誕生日には俺から何かあげないとな」
「いいよ、そんなの」
「俺があげたいんだからいいんだよ」
「……じゃあ、楽しみにしてる」
「ああ」
そのままシルフィを家まで送り、ルークは一人でグレイラット家へ戻った。
玄関を開けた瞬間、朝から感じていた違和感の意味がようやく分かった。
食卓いっぱいに、料理が並んでいた。
焼いた肉。
温かなスープ。
パン。
野菜。
そして、普段よりもずっと豪華な料理。
「……これ」
ルークが立ち尽くす。
ゼニスが笑った。
「おかえりなさい、ルーク」
「ただいま……」
その言葉を返したところで、ルークは改めて食卓を見た。
パウロもいる。
リーリャもいる。
ノルンとアイシャもいる。
そして、全員が自分を見ている。
「今日はあなたの誕生日でしょう?」
ゼニスが言った。
「だから、みんなでお祝いしましょう」
ルークは、しばらく黙っていた。
「……誕生日って、こういうものなんですか?」
ゼニスの表情が少しだけ変わった。
「そうよ。ルークは5歳の誕生日祝えなかったからね。5歳、10歳、15歳とお祝いをするのよ」
ルークは答えなかった。
答えなくても、伝わった。
パウロが静かに立ち上がり、一つの包みを持ってくる。
「ほら」
ルークが包みを開く。
中には一本の剣が入っていた。
十歳のルークの身体に合わせて作られた、初めての自分の剣。
「お前も十歳だ。もう自分の剣を持っていい」
ルークは剣を握った。
ずしりとした重さが手へ伝わる。
木剣とは違う。
これは、これからも使うためのものだ。
「……俺のために?」
「当たり前だろ」
パウロが笑った。
ゼニスも、その横で微笑む。
「これからも、ここで生きていくための剣よ」
ルークの胸が、僅かに震えた。
ここで生きていく。
それを、ゼニスは疑っていない。
自分がここを出ていく可能性など、最初から考えていないように。
続いてリーリャからハンカチを渡された。
白い布の端には、緑色の糸で小さなクローバーが刺繍されている。
「ルーク様」
ルークは指先で、その刺繍をなぞった。
「……これ、俺のために?」
「はい。ルーク様は汚れて帰って来ることが多いので。出先でも拭けるように」
「……ありがとうございます」
ハンカチを胸へ抱く。
「大切にします」
そして、ノルンとアイシャが前へ出てきた。
二人は朝からずっと、この瞬間を待っていたのだろう。
ノルンが笑う。
「ルーク兄さん」
ルークの胸が、僅かに揺れた。
朝にも聞いた言葉だった。
その時は、いつものように否定した。
俺はお前達のお兄ちゃんじゃない。
けれど──今は。
「お誕生日、おめでとうございます」
アイシャも続いた。
「ルーク兄!おめでとう」
その瞬間、ルークの中にあった何かが、音もなく崩れた。
朝なら言えた。
俺はお前達のお兄ちゃんじゃない。
お前達にはルーデウスがいる。
そう言えばいい。
ずっとそうしてきた。
けれど、今は言えなかった。
パウロが剣をくれた。
ゼニスが、ここで生きていくためのものだと言った。
リーリャが、自分のために刺繍をしてくれた。
シルフィも、自分のために首飾りを作ってくれた。
そして、この二人は、当たり前のように自分を兄と呼んでいる。
それを全部まとめて「自分は家族ではない」と否定することが、急にひどく寂しいことのように思えた。
「……ありがとう」
声が震えた。
一滴の涙が落ちる。
「ルーク兄さん?」
ノルンが心配そうに見上げる。
「痛いの?」
「違う」
ルークは首を振った。
「痛くない。どこも痛くないんだ」
なのに、涙が止まらない。
今まで自分が家族の外側にいると思っていたことが、ひどく馬鹿らしく思えてきた。
毎朝、一緒に食卓を囲んでいた。
帰れば「おかえり」と言われた。
ノルンとアイシャは自分の後ろをついて歩いた。
ゼニスは怪我をすれば心配してくれた。
パウロは剣を教えてくれた。
リーリャは自分の服を用意してくれた。
そんな日々を何年も過ごしてきた。
それなのに、自分だけが勝手に「家族ではない」と線を引いていた。
「俺は……」
ルークは涙を拭った。
「ずっと、二人のお兄ちゃんじゃないって言ってきたよな」
二人が頷く。
「お前達にはルーデウスっていう、とても頼りになる兄がいるって」
また、涙が落ちた。
「それは今でもそうだ。ルーデウスは、お前達のお兄ちゃんだ」
そこだけは変えたくなかった。
けれど。
「でも……」
ルークは二人の小さな手を取った。
「俺も……お兄ちゃんでいいんだよな」
ノルンは、迷うことなく頷いた。
「うん」
アイシャも笑った。
「ルーク兄」
その瞬間、ルークはとうとう顔を伏せた。
肩が小さく震える。
「……ああ」
涙を拭いながら、それでも笑う。
「俺は、お前達のお兄ちゃんだ」
その言葉を、自分自身で認めた。
ルーデウスの代わりではない。
ルーデウスから何かを奪うわけでもない。
ただ、自分もこの家族の一員でいい。
自分も、この二人の兄でいい。
その事実を、ルークは初めて受け入れた。
「……ありがとうございます」
今度は、パウロたちへ向けて頭を下げた。
「こんな見た目の俺を……家族だと認めてくれて」
「馬鹿野郎」
パウロが短く言った。そして、ルークの頭を乱暴に撫でる。スペルド族だと言われ恐れられていたこの頭を。
「今さら何言ってやがる」
ゼニスも笑った。目には少し涙が浮かんでいる。
「あなたは、ずっと前から家族よ」
リーリャは静かに頷いた。
「ええ」
ルークはまた泣いた。
けれど、今度は隠さなかった。
食卓へ並んだ肉を口へ運ぶ。
香草の匂いが鼻を抜け、焼いた肉の脂が舌の上へ広がる。パンも、スープも、普段より少しだけ豪華に作られている。それらは決して王侯貴族の食卓に並ぶようなものではない。それでも、ルークにとっては、これまで食べたどんな料理よりも贅沢だった。
自分のために用意された料理。
自分の誕生日を祝うための食卓。
そして、その向かいには、自分を家族だと言ってくれる人たちがいる。
「……おいしい」
呟いた途端、また涙が落ちる。
「すごく、おいしいです」
「なら、もっと食え」
パウロが笑った。
「ルーク兄さん、これも食べて」
ノルンが皿を寄せる。
「ルーク兄、お肉」
アイシャも小さな手で肉を指差す。
ルークは笑った。
「……ああ。いっぱい食べるよ」
泣きながら、それでも食べた。
料理を残したくなかった。
自分のために用意してくれたものを、最後まで食べたかった。
その夜、ルークは自分の部屋へ戻った。
ベッドの横には、今日もらった剣。
机の上には、リーリャからもらったハンカチ。
そして首元には、シルフィがくれた木の首飾り。
一つ一つを眺めてから、ルークはベッドへ腰を下ろした。
今日一日のことを思い返す。
朝、ノルンとアイシャに「兄」と呼ばれて、それを否定した。
あの時の自分は、いつもと何も変わらなかった。
けれど、今は違う。
「……俺、兄さんなんだな」
誰もいない部屋で呟く。
不思議だった。
口に出してみると、思っていたよりずっと自然だった。
窓の外から、家の中の物音が聞こえる。
パウロの笑い声。
ゼニスの声。
リーリャが食器を片付ける音。
ノルンとアイシャはもう寝ているだろうか。
ルークはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
以前なら、それを「他人の家の生活音」として聞いていたかもしれない。
けれど、今は違う。
自分の家の音だった。
自分の家族の声だった。
そして初めて、ルークはそのことを、何の抵抗もなく受け入れた。
老デウスの声が杉田さんなの解釈一致すぎる…
来週が楽しみですね。