迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
稽古が終わる頃には、庭の地面には幾つもの足跡が刻まれていた。何度も踏み込んだ場所は土が削れて浅い窪みになり、ルークは荒くなった呼吸を整えながら、手にしていた木剣をゆっくりと下ろした。十歳になってから身体つきも少しずつ変わり始め、以前なら何度か休憩を挟まなければ続かなかった稽古も、今では最後まで食らいつけるようになっている。
「今日も、シルフィのところに行くのか?」
木剣を片付けていたパウロが、何気ない調子で尋ねた。
「はい。いつも通り、昼前にはロールズさんのところへ寄って、それから丘で特訓するつもりです」
ルークが答えると、パウロは「そうか」と頷いた。しかし、その声音にはいつもの稽古終わりの気安さがなかった。ルークが顔を上げると、パウロは森の方へ視線を向けたまま、何かを考えるように眉間へ皺を寄せていた。
「……ルーク。少し話しておく」
「はい」
「最近、魔物が活発になっている」
その言葉を聞いた瞬間、ルークの表情からも僅かに笑みが消えた。パウロは腕を組み直し、森の奥を睨むように見ながら続ける。
「俺もロールズも、最近は討伐隊に参加して魔物を狩っている。村の近くまで来ないように、できるだけ数を減らしているんだが……ここらじゃ普段見ないような魔物が森の中で目撃されたって報告もある」
「……そうなんですか?」
「ああ。だから、俺達が狩った魔物だけで全部だと思うな。俺達の網を抜けてくる魔物がいないとは限らない。十分に気を付けろ」
いつになく真剣な顔だった。
その表情を見ているうちに、ルークの胸の奥へじんわりとした熱が広がっていく。怖い話をされているはずなのに、それより先に、自分を心配してくれているのだという事実が嬉しかった。かつては危険が迫っても誰かに忠告されることなどなく、自分の身は自分で守るしかなかったが、今は違う──危険を知らせてくれる人がいて、無事に帰ってくることを願ってくれる人がいる。
「それと、お前はもう十歳だ」
パウロが、今度はルーク自身へ視線を向けた。
「俺達が渡した剣を、持ち歩くことを許す」
「……剣を、ですか?」
「ああ」
思わず聞き返してしまった。
普通なら十歳の子供に真剣を持ち歩かせたりはしないだろう。ましてや、パウロとゼニスから贈られた剣なら、家の中で大切に保管しておくものだとルークも思っていた。それでもパウロは、ルークを家の中へ閉じ込めて守ろうとはしなかった。
「……なぜかは、分かるな?」
ルークはしばらく黙った。
やがて、その意味を噛み締めるように頷く。
「はい」
許可ではない。
これは、信頼だ。
自分が剣を持って外へ出ても、その力を間違った方向へ振るわないと信じている。そして、危険が迫った時には自分自身で判断し、帰ってこられると信じてくれているのだ。
「その剣で、家族やシルフィ、それから村のみんなを守ってやるんだ」
パウロの声は低く、しかし迷いがなかった。
「お前の力は、そのためにある。お前は
重い言葉だった。
剣は人を斬るためにある。
魔法だって、人を傷つけることができる。
力そのものに善悪があるわけではない。だからこそ、それを持つ人間が何のために使うのかを決めなければならない──パウロは十歳の自分に、その当たり前でいて難しいことを託しているのだろう。
ルークは、手元に視線を落とした。
自分はこれまで、力を生き残るために使ってきた。逃げるために、身を守るために、二度と何かを奪われないために剣を振ってきた。
けれど、今は違う。
「……分かりました」
「ま、お前達のところに魔物が来ないように、俺達もできる限り動く。これはあくまで、もしもの話だ。あまり気負うなよ」
パウロはそう付け加えた。
どうやら自分でも分かるほど身体に力が入っていたらしい。先ほどまでの重苦しい声音から少しだけ調子を戻したのは、ルークの緊張を解こうとしているのだろう。
「……分かっています。ルーデウスにも任されていますので」
「……ああ」
その短い返事の中に、何かを思い出したような響きがあった。
ボレアス家へ行く前、ルーデウスとも約束した。
──家族は俺が守る。
あの時は、それが自分一人の決意だと思っていた。
けれど今は違う。
パウロもゼニスも、そしてルーデウスも、自分を家族として信頼している。剣を持つことを許されたのは、強いからだけではない──その力を誰のために振るうのかまで含めて、一人の剣士として認めてもらったのだ。
その事実は、贈られた剣の重さよりも、ずっと重かった。
☆☆☆
「シルフィ、ちょっといいか?」
いつもの丘へ着き、木陰へ荷物を置いたところで、ルークはシルフィへ声を掛けた。
「どうしたの?」
「父さん曰く、最近魔物が活発化してきているらしいんだ。父さんやロールズさん達、討伐隊が頑張ってくれているが、俺達も警戒しておくべきだと思う」
シルフィの顔から笑みが消えた。
普段ならすぐに木剣を構えて特訓を始めるところだが、ルークの声音からいつもの話ではないと察したらしい。短く頷いたシルフィを見て、ルークも改めて言葉を選びながら続ける。
「俺達は、そこらの子供より強いと思う。もしかしたら、討伐隊の大人より強いかもしれない」
「……うん」
「じゃあ、強い者が果たすべき責務はなんだと思う?」
シルフィは困ったように眉を寄せた。
当然だ。
まだ十歳なのだ。
こんなことを問い掛ける自分の方がおかしいのだろう。けれど、パウロから受け取った言葉を、自分だけのものにしておきたくはなかった。
「えーっと……その魔物を倒さなきゃいけないってこと?」
「惜しいな。でも、間違ってはいないと思う」
「じゃあ、なんなの? その、せきむって」
シルフィは答えを求めるように首を傾げた。
「それは、自分より弱い者を守ることだ」
ルークは、自分の髪へ手をやった。
「これは、強い者が必ずしなきゃいけないことだと思う。俺達は理不尽に晒されてきただろ。この容姿で」
シルフィも、自分の緑色の髪へそっと触れる。
「もちろん、父さん達が討伐隊を組んで俺達を守ってくれている。それは父さん達が魔物との戦いに慣れていて、俺達より強いからだ。……まあ、腕っぷしだけなら、俺とシルフィに敵わない人もいると思うけど」
「ふふ……そうかもね」
「でも、討伐隊の大人達は俺達を守ってくれている。村には魔物は来ない。それならいい。でも、もし魔物が村に来たら、村に残っている大人達は、きっと全力で俺達子供を守るだろ」
そこまで言って、ルークは一度言葉を止めた。
──俺とシルフィが守られる保証があるわけじゃない。
その言葉だけは、胸の奥へ押し込んだ。
五年の年月の中で、村の大勢は俺達を受け入れてくれているように見えた。普通に挨拶を返してくれるし、普通に会話してくれる。でも、中には懐疑的な目を向ける人も一定数はいた。
「この大人は、討伐隊とは違って強くない。でも、俺達を守ろうとしてくれるはずだ。それは、なんでだと思う?」
シルフィは答えなかった。
ただ、真っ直ぐにルークを見ている。
「それは、村の子供達……ひいては、自分の子供達が大切だからだ。だから、魔物に襲われそうになったら、命を懸けて守ってくれると思う。だから……」
そこまで言ったところで、ルークの口が止まった。
──情けない。
自分は前世では二十一歳だった。
それなのに、いざ誰かへ何かを伝えようとすると、肝心なところで言葉が出てこない。
「……だから?」
シルフィが急かすわけでもなく、ただ続きを待っている。
「……えぇっと」
何を言えばいい。
どう言えば伝わる。
ルークが頭を悩ませていると、シルフィが小さく笑った。
「……ふふっ」
「何だよ」
「ううん。なんとなくだけど、分かったよ」
「え?」
「つまりボクは、大切なものを守ればいいってことだよね?」
ルークは一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。
「……まあ、そうなんだが」
──悔しい。
俺は本当は二十一歳なんだけどな。
「じゃあ、ボクも守るよ」
「……何を?」
「ルークの大切なもの」
シルフィは当たり前のように言った。
「二人で強くなって、二人で守ればいいんでしょ?」
「……そうだな」
その言葉に、ルークは自然と笑っていた。
「じゃあ、今日も始めるか」
「うん!」
二人はいつものように向かい合い、それぞれの武器を構えた。
☆☆☆
最初に感じたのは、風だった。
森の木々を揺らす風とは違う。葉の擦れる音が一瞬だけ途切れ、その直後、森の奥から大量の鳥が一斉に飛び立った。ルークが反射的に剣へ手を伸ばしたのとほぼ同時に、シルフィも魔力を集め始める。
「……何かいる」
「うん」
二人が森へ目を向けた瞬間、木々の隙間から巨大な影が飛び出した。
狼だった。
ただし、二人が知っている狼とはあまりにも違う。四本の脚で大地を踏みしめた身体は二メートル近くにも達し、分厚い筋肉を覆う毛皮の隙間からは鋭い爪が覗いている。その巨体の周囲では空気そのものが渦巻いており、
「……シルフィ、下がってろ」
ルークが一歩前へ出る。
「うん!」
剣を抜いた。
パウロとゼニスから貰った剣が、朝の光を受けて鈍く輝く。
次の瞬間、風狼が消えた。
「──ッ!」
視界から消えた。
そう思った直後、右側から猛烈な殺気が迫る。ルークはほとんど反射だけで剣を差し込み、爪を刃の腹へ滑らせるように受けた。
ガキィンッ!
凄まじい衝撃が腕を駆け抜けた。
「ぐっ……!」
身体が半歩後ろへ滑る。
風狼はそのまま爪を振り抜くことなく、前脚を地面へつけた反動で身体を捻り、今度は反対側からルークの首を狙ってくる。ルークは腰を落として紙一重で躱し、風狼の腹へ斬り上げを放つが、巨体は予想以上に軽やかに跳び上がり、刃は毛先を僅かに切り裂いただけだった。
「……速い!」
風狼が着地する。
その瞬間、周囲の空気が歪んだ。
「──
ルークの前に透明な壁が展開され、直後、何もない空間から風の刃が幾つも飛来する。風刃は防壁へ激突するたびに甲高い音を響かせ、透明な壁の表面へ無数の亀裂を走らせた。
「ルーク!」
シルフィが叫ぶ。
同時に、彼女の手から
二つの風がぶつかった。
一瞬だけ森の中で風が荒れ狂い、シルフィの魔術は霧のように散った。
「風が……!」
「切り替えろ! 水だ!」
「分かった!」
シルフィはすぐに切り替えた。
地面へ向けて放たれた水が風狼の足元へ広がり、乾いた土を一気に泥へ変えていく。これなら動きを止められる──そう思ったのも束の間、風狼は四本の脚を大きく踏ん張り、鋭い爪を地面へ深々と突き刺した。
まるで四本の杭を打ち込んだようだった。
そのまま身体を固定すると、泥をものともせずルークへ飛び込んでくる。
「嘘だろ!」
ルークは剣を立てて爪を受け止めた。
衝撃で地面が沈む。
爪の先が剣へ食い込み、防壁魔法がなければ、そのまま腕ごと持っていかれていたであろう力が伝わってくる。ルークは歯を食いしばり、相手の力を正面から受け止めるのではなく、刃を滑らせて身体を横へ流した。
風狼の巨体が僅かに崩れる。
「──そこだ!」
ルークが踏み込む。
斬撃を放つ。
だが、風狼は身体を捻った。
刃が毛皮を裂く。
血が僅かに飛び散った。
「……浅い!」
風狼はすでに次の攻撃へ移っていた。
速い。
あまりにも速い。
闘気を纏った自分で、ようやく勝負になっている。
「くそ……!」
ルークは剣を構え直した。
風狼の爪が来る。
受け流す。
風刃が飛ぶ。
防壁で逸らす。
また爪。
今度は身体を沈めて避ける。
その間にもシルフィが風と水の魔術を撃ち続けるが、風は相殺され、水は足場を奪うところまで届かない。攻撃を続ければ続けるほど、こちらの魔力だけが削られていく。
「……また、ジリ貧か」
ルークの脳裏にルーデウスとの戦いが思い出される。少し心に焦りが生まれた。
このままでは勝てない。
自分一人なら、もっと踏み込める。
もっと強く斬れる。
だが、背後にはシルフィがいる。
もし剣を外した瞬間、風狼が彼女へ向かったら。
その考えが、どうしても最後の一歩を止めてしまう。
──どうする。
どうすれば、シルフィを守りながらこいつに勝てる。
考えろ。
考えろ。
身体を動かしながら、頭だけを必死に回転させる。
風狼が飛び込んできた。
ルークは身体を半歩ずらし、爪を剣の腹で受け流す。そのまま相手の勢いを利用して横へ流し、斬撃を叩き込もうとする──だが、最後の瞬間に刃が鈍った。
外したら。
シルフィが狙われる。
それが怖い。
「……くそっ!」
ルークの斬撃は、またしても風狼の毛皮を僅かに裂いただけだった。
☆☆☆
──今、この場でルークの邪魔をしているのは、多分ボクだ。
シルフィは魔力を練りながら、歯を食いしばった。
ルークは戦えている。
あの魔物の動きについていけている。
攻撃を受け流しているし、風の刃にも防壁魔法で対応できている。
でも、ボクの魔術は違う。
風は相殺される。
水は足元へ流しても、あの鋭い爪が地面へ食い込んでしまえば効果がない。
一撃の威力だけなら、きっと今までの魔術とは比べ物にならない。
でも──。
当たらない。
あの速さなら、きっと避けられる。
「……ボク、何もできない」
悔しい。
さっきまで、二人で守ろうと言っていたのに。
強い者は弱い者を守る。
そう話したばかりなのに、今の自分はどうだ。
ただ後ろに立って、ルークに守られているだけ。
風狼が跳ぶ。
ルークが受ける。
風刃が飛ぶ。
ルークが防ぐ。
また風狼が跳ぶ。
その動きは、普通の狼とは明らかに違っていた。
──どうして?
どうして、あんなに速く動けるの?
シルフィは目を凝らした。
風狼が地面を蹴る。
その直後、風が巻き起こる。
いや。
違う。
蹴るより先に、風が身体を押している。
風狼が方向を変える。
そこにも風が残っている。
ほんの僅かな魔力の残滓。
普通なら気づかないほど小さなものだったが、風を感じることを得意とするシルフィには、それがはっきりと分かった。
「……そういうこと?」
あの速さは、身体能力だけじゃない。
風魔術で、自分自身を加速させている。
なら。
シルフィは自分の脚を見た。
掌から風を出せる。
だったら──。
「……脚でも、できる?」
考える時間はなかった。
ルークがまた爪を受け流す。
風狼が次の攻撃へ移る。
このままでは、またルークが傷つく。
だったら、やるしかない。
シルフィは脚へ魔力を集めた。
何百回、何千回と繰り返してきた魔術の感覚を思い出す。
掌に魔力を集める。
形を作る。
そして、放つ。
いつもは掌から。
でも、今度は──。
「脚で!」
地面を踏み込む。
風が爆発した。
「──えっ!?」
身体が浮いた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それで十分だった。
背後の気配が消えた。
ルークはそれを感じて、思わず振り返った。
「……シルフィ?」
その瞬間、風狼が動いた。
一瞬の隙。
風狼にとっては、それだけで十分だった。
巨大な身体が跳ねる。
牙が迫る。
「──ッ!」
ルークが剣を構えようとした、その時。
「
斜め上方から風の刃が飛んできた。
風狼が咄嗟に身を逸らす。
ルークは目を見開いた。
──上斜め後ろ?
視線を上へ向ける。
「……え?」
そこに、シルフィがいた。
宙に浮いている。
いや、正確には浮いているというより、脚から放出した風によって身体を空中へ押し上げ、そのまま風を足場のように使っている。
「ルーク! 来るよ!」
「……あ、ああ!」
ルークは慌てて剣を構え直した。
なぜ浮いているのか。
どうやってそんなことを。
そもそも、いつ覚えた。
疑問はいくつも浮かんだ。
だが、考えるのは後だ。
今は──。
「シルフィ、そのまま頼む!」
「うん!」
風狼が横へ跳ぶ。
そこへルークが踏み込んだ。
風狼がシルフィの魔術を避けた直後、ルークの剣が襲いかかる。
「──ッ!」
風狼が身体を捻る。
刃が毛皮を裂く。
「今!」
シルフィが空中で身体を反転させた。
脚から風を噴き出し、まるで空中を蹴るように方向を変える。今度は上空からだ。
風狼が避ける。
その先へ、ルーク。
剣が迫る。
「──そこだ!」
今度は深く入った。
風狼の肩口から血が噴き出す。
「やった!」
シルフィの声が響く。
ルークは笑った。
今までとは違う。
シルフィが風狼の動きを追える。
いや。
追えるだけじゃない。
空中という、風狼には簡単に手を出せない場所から魔術を撃てる。
魔術。
剣。
魔術。
剣。
二人の攻撃が、少しずつ噛み合っていく。
風狼が避ければ、ルークが斬る。
ルークを避ければ、シルフィの魔術が来る。
今まで一方的に押されていた戦況が、少しずつ変わり始めていた。
だが、風狼もただの獣ではなかった。
何度か攻撃を受けるうちに、狙うべき相手を変えた。
ルークではない。
上空のシルフィ。
「──ッ!」
風狼が突然、ルークを無視した。
「シルフィ!」
風狼が跳ぶ。
シルフィは咄嗟に身体を逸らそうとした。
だが、遅い。
「──きゃっ!」
風が爆発した。
鋭い風がシルフィの肩口を切り裂いた。
「──っ!」
赤いものが舞う。
シルフィの身体が空中で崩れ、そのまま地面へ落ちた。
「シルフィ!」
ルークが駆けようとする。
しかし風狼が立ちはだかった。
「……邪魔を!」
剣を振る。
爪が迎え撃つ。
ガキィンッ!
火花が散る。
ルークは一歩も引かなかった。
「するな!」
風狼が唸る。
爪が剣を押し込む。
ルークは歯を食いしばり、身体を捻って力を逃がす。
一歩。
二歩。
三歩。
剣と爪が幾度となくぶつかり、森の中へ乾いた金属音が響き続けた。
剣と爪がぶつかる音で、シルフィは意識を取り戻した。
「……っ」
肩が痛い。
けれど、そんなことを気にしている場合ではない。
シルフィは震える手を傷口へ当て、詠唱を始めた。ヒーリングだ。傷口がゆっくりと塞がっていく。
息を整える。
そして顔を上げる。
ルークがまだ戦っている。
風狼と真正面から向き合い、爪を受け、流し、剣を振っている。
でも。
──もし、ルークが負けたら?
その考えが、シルフィの胸を締め付けた。
ルークは強い。
そんなことは知っている。でも、
なら、あの魔物が同じことをできない保証なんてない。
「……だったら」
シルフィは立ち上がった。
「ボクが、助けなきゃ」
守られているだけでは嫌だ。
ルークが傷ついているのを、ただ見ているだけなんてもっと嫌だ。
シルフィは再び脚へ魔力を集めた。
風が足元で渦を巻く。
一度目よりも、ずっと安定している。
「……今度は」
地面を蹴る。
身体が浮いた。
今度は怖くなかった。
風の流れが分かる。
身体を押す方向も分かる。
シルフィは空中へ躍り出た。
☆☆☆
剣と爪が再びぶつかった。
ルークは風狼の一撃を受け流し、そのまま距離を取った。
互いに決め手がない。
ルークの頭に、ふと一つの考えが浮かんだ。
──撃退でいいんじゃないか。
無理に倒す必要はない。
シルフィを連れて逃げて、討伐隊に任せればいい。
そうするのが一番安全だ。
そう思った。
その時だった。
風狼がこちらへ向けていた視線が、僅かに上へ逸れた。ルークはその変化を見逃さなかったが、同時に自分の背後から押し寄せてくる熱気に気づき、思わず顔を上げる。
そこには、先ほどまでシルフィが放っていたものとは比較にならないほど巨大な火球が浮かんでいた。赤く燃え盛る炎の塊は周囲の空気そのものを歪ませ、近くの木々の葉を乾かすほどの熱を撒き散らしている。
「……シルフィ、お前……」
言葉が続かなかった。
あれは火球なんて呼んでいいものじゃない。前世のゲームで言えば、どう考えてもメラ○ーマとか、その辺りの領域に片足を突っ込んでいる。
だが、風狼もその存在を理解したらしい。
唸り声を上げながら、巨体を僅かに後退させる。
そして──二本の後ろ脚で立ち上がった。
「……二本足でも立てるのかよ」
風狼の前脚が持ち上がる。
その姿は、まるで人間が両手を前へ突き出して何かを受け止めようとしているようだった。
次の瞬間、周囲の空気が爆発的に渦を巻いた。
風が集まる。
木々が大きく揺れる。
地面の小石が浮き上がり、砂埃が螺旋を描いて舞い上がる。
そして、その風の一つ一つが、鋭利な刃へと変わっていった。
「……何だ、これ」
三つ。
四つ。
そんなものではない。
十。
二十。
視界に捉えられるだけでも数え切れない。
五十を超えている。
風狼が、自分の持つ魔力をほとんど全て防御へ回しているのだ。
シルフィの火球が落ちてくる。
風狼が吠えた。
「──グォォォォォォォォッ!」
無数の風刃が、一斉に空へ放たれた。
轟音。
炎と風が正面から激突する。
巨大な火球の表面が大きく歪み、炎がまるで何か巨大な手に押し返されるように後退した。同時に、風狼の周囲に集められた風も炎に呑まれ、赤く染まりながら次々と消滅していく。
「押し返してる……?」
ルークは思わず息を呑んだ。
シルフィの火球が強い。
それは間違いない。
だが、それ以上に風狼の抵抗が凄まじかった。
生き残るためだけに、持っている魔力の全てを使っている。
手負いの獣が一番恐ろしい。
前世で昔から聞いていた言葉だった。
まさか、それを自分自身が体感することになるとは思っていなかった。
「……まずい」
火球が押されている。
このままでは、風狼がシルフィの魔術を弾き返す。
そうなれば、あの巨大な炎がそのままシルフィへ向かう可能性だってある。
ルークは剣を握り直した。
行かなければ。
だが、どうやって。
風狼の周囲には未だ無数の風刃が渦巻いている。
あれを抜けるのは簡単じゃない。
それに、無理に突っ込めばシルフィの火球と自分の位置が重なる。
「……俺が、何とかしないと」
焦りが胸の奥を締め付ける。
俺が。
俺がシルフィを守らなければ。
その時だった。
「ルーク!!」
頭上から、シルフィの声が響いた。
「ボクを信じて!」
ルークの足が止まった。
「……信じる?」
「そうだよ!」
炎の向こうで、シルフィが叫んでいる。
身体は風に煽られ、髪は激しく舞っている。それでも、その瞳だけは真っ直ぐにこちらを見ていた。
「ボクは、ルークに守られてばかりの女の子じゃ嫌だ!」
その言葉に、ルークの胸が大きく揺れた。
「ボクは……ルークの隣で戦える女の子になるんだ!」
一瞬。
時間が止まったように感じた。
ルークの脳裏に、昔のシルフィが浮かぶ。
泣き虫だった。
何かあるたびに自分の後ろへ隠れていた。
火魔術を撃つことさえ、ルークを傷つけるのが怖いからと躊躇していた。
そんなシルフィが、今は自分に向かって「信じて」と言っている。
「……ははっ」
思わず笑った。
「そうかよ」
ルークは剣を握り直した。
守らなければならない。
それは今でも変わらない。
でも──守るということは、相手から戦う機会まで奪うことじゃない。
シルフィは自分を信じてほしいと言った。
なら。
「……分かった」
ルークは風狼を見る。
「信じるよ」
その瞬間、上空の火球がさらに膨張した。
「──ッ!」
炎が膨れ上がる。
一回り。
さらに一回り。
先ほどまで風狼を押し返していた火球が、今度は逆に風の壁そのものを押し潰し始めた。
「グ……ォォォォッ!」
風狼の脚が地面へ沈む。
土が砕け、四本の脚が地面へ食い込んでいく。
それでも風狼は耐えた。
前脚を突き出し、全身から風を吐き出し続ける。
「負けない……!」
シルフィが叫ぶ。
「ボクは、もう守られてるだけじゃない!」
さらに魔力が注ぎ込まれる。
炎が膨張する。
熱気が森を覆う。
風狼の身体が僅かに沈んだ。
地面へ埋まるほど踏ん張っているのに、それでも身体が後ろへ押されていく。
「グルァァァァァァッ!」
風狼が絶叫する。
生きるために。
死にたくないという、本能そのものを魔力へ変えるように。
無数の風刃が再び放たれた。
だが、先ほどとは違う。
明らかに数が減っている。
そして風狼の周囲を覆っていた風の防壁にも、僅かな薄さが生まれていた。
ルークは、それを見た。
「──今だ」
身体へ闘気を纏わせる。
足に力を込める。
風狼との距離は、まだある。
だが、関係ない。
一歩。
地面を蹴る。
風が身体へぶつかる。
さっきまでなら、台風の中へ向かって走っているような感覚だった。
それが今は──。
「……軽い」
そよ風の中を走っているようだった。
シルフィが風狼の魔力を削っている。
シルフィが、自分のために道を作っている。
シルフィが俺を助けてくれている。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
身体の奥底から力が湧いてくる。
──俺は……一人じゃない。
それだけで、こんなにも身体が軽くなる。
前世で小さい頃に読んだ少年漫画を思い出した。
主人公が仲間の声を聞いただけで強くなる。
仲間がいるから立ち上がれる。
仲間がいるから、最後の一歩を踏み出せる。
当時の俺は、それを蚊帳の外から鼻で笑っていた。
そんな都合のいい話があるか。
仲間がいるだけで強くなるなんて、馬鹿馬鹿しい。
でも──。
「……今なら、分かる」
本当に、強くなれる。
ルークは風の中を駆けた。
風狼はまだシルフィを見ている。
巨大な火球だけを見ている。
自分へ迫ってくるルークには気づいていない。
気づけない。
今の風狼にとって、目の前の炎を防ぐこと以上に重要なことなど存在しないのだから。
ルークは剣を握り直す。
一歩、風狼の背後へ回り込む。
風の防壁が、ほんの僅かに揺らいだ。
その隙間へ剣を振り下ろす。防壁が破れた。
風狼が振り返ろうとする。
遅い。
「俺から目ぇ離したな、バーカ」
刃が走った。
風狼の首へ、深々と食い込む。
一瞬の抵抗。
それすらも、闘気を纏ったルークの斬撃は断ち切った。
首が宙を舞う。
巨大な身体が、数歩遅れて崩れ落ちる。
どさり、と地面が震えた。
風狼の首と胴は──泣き別れになった。
空中に残っていた巨大な火球も、主を失った風狼の風が消えるのとほぼ同時に勢いを失い、燃え盛る炎を散らしながらゆっくりと消えていった。
森に、静寂が戻る。
先ほどまで轟いていた風の音も、炎の爆音も、何も聞こえない。
ただ、焼け焦げた地面から立ち上る煙だけが、二人の間をゆっくりと流れていた。
「……やった……」
シルフィの身体から力が抜けた。
空中に浮かせていた風が消え、身体が落ちてくる。
「シルフィ!」
ルークは駆け寄り、倒れ込んできた身体を受け止めた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「それより、すごいな!」
ルークは興奮したままシルフィを見た。
「いつの間に宙に浮けるようになったんだ?」
「……ふふっ」
シルフィが小さく笑う。
「良かった」
「何が?」
「ルークの役に立てて」
ルークは一瞬だけ黙った。
「……役に立つなんてもんじゃない」
シルフィを抱き上げる。
「お前は、俺を守ってくれた」
「……守れたんだ。そっか」
「ああ」
ルークは近くの木まで歩き、シルフィを横抱きにしたまま、ゆっくりと幹へもたれさせた。
「……ありがとう、ルーク」
シルフィはこちらを見てくれなかった。
「……?」
よく見ると、耳が赤い。
頬も赤い。
ルークには、その理由が分からなかった。
「そういえば、あの火球。凄まじかったな。俺と特訓してた時が全力じゃなかったのか?」
「ボクだって、魔術師のはしくれだよ」
シルフィは少しだけ恥ずかしそうに俯いた。
「もちろん、あの時はあれが全力だったけど……段々、大きくできるようになってね。でも……あれをぶつけたら、ルークが死んじゃうかもって思ったら、とてもじゃないけどできなかったんだ」
「……なるほど」
ルークはシルフィの笑顔を見る。
多分。恐らく、今後ないとは思う。だが。
──シルフィを怒らせるのはやめておこう、灰にされる。
ルークは、そう心の中で固く決意した。
☆☆☆
「パウロ! こっちだ!」
森の奥からロールズの声が響いた。
討伐隊が駆けつけた時には、森の中にはすでに何体もの
「……おかしい」
「何がだ?」
「親玉がいない」
ロールズが周囲を見渡す。
確かにいない。
群れを率いていたはずの
「逃げたのか?」
「……まずい」
パウロの脳裏に、今朝のルークとの会話が蘇った。
──俺達の網を抜けてくる魔物がいないとは限らない。
「村へ戻るぞ!」
討伐隊が一斉に森を駆け抜ける。
やがて木々の向こうに、異様な光景が見えた。
丘の上から、黒い煙が立ち上っている。
パウロの足が止まった。
「あそこは……」
ロールズも息を呑む。
「ルークとシルフィが、いつもいる場所だ」
「……まさか」
全員が走った。
丘を駆け上がる。
煙が晴れる。
そこには──巨大な風狼の死体があった。
首と胴体は完全に分かたれ、その周囲には炎によって焼け焦げた地面と、風によって抉られた跡が残っている。
そして、そのすぐ近くにルークとシルフィがいた。
パウロはしばらく言葉を失った。
やがて、信じられないものを見るように二人と風狼の死体を交互に見つめる。
「……嘘だろ」
ロールズも絶句している。
パウロはゆっくりと口を開いた。
「お前らが……やったのか?」
ルークは隣に座るシルフィを見た。
シルフィもルークを見る。
そして二人は、ほんの少しだけ笑った。
「はい」
ルークは静かに答えた。
シルフィ魔改造。吉と出るか凶と出るか。
すごく怒られそうで怖いです。許してください。
風狼《ヴェント・ヴォルフ》 危険度:A級下位 森林内では地形と奇襲によって、実質的にA級中位相当
森牙狼《フォレスト・ヴォルフ》危険度:C級 群れで行動。一体一体の力はそれほど無い
オリジナル魔物です。生息地は赤竜山脈の麓の森です。