迷宮を目指した俺は、世界を間違えた   作:アルマトラン

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また長いです。既存キャラの魔改造もあります。といっても主要キャラという訳では無いです。



贈られたもの

 

 

 風狼の襲撃以降、村まで魔物が入り込んでくることはなくなった。

 

 どうやら、あの一件を境に討伐隊がかなり本腰を入れて森の警戒に当たるようになったらしい。パウロさんとロールズさんを中心に、村の周辺を巡回しながら魔物の痕跡を探し、群れを見つければ早めに潰していく。風狼のような強力な個体が紛れ込んでいたこともあって、以前よりもずっと慎重になったそうだ。

 

 一時は、俺とシルフィも討伐隊に加えてはどうか、という話まで出たらしい。

 

 けれど、それにはパウロさんとロールズさんが揃って反対した。

 

 まだ十歳の子供をわざわざ危険な討伐に連れていく必要はない。俺たちが戦えることは分かっている。それでも、これは大人の仕事だ。子供が背負うものじゃない──そう言って、二人とも頑として譲らなかったらしい。

 

 その話を聞いた時、俺は少しだけ笑ってしまった。

 

 ありがたいと思ったからだ。

 

 俺たちの力を認めた上で、それでも「子供だから」という理由で守ろうとしてくれている。そのことが嬉しかったし、何よりパウロさんが珍しくドヤ顔で「これが大人ってもんだ」とでも言いたげな顔をしていたのが、どうにも可笑しかった。

 

「何笑ってんだよ、ルーク」

 

「いや……父さん、格好いいなと思いまして」

 

「だろ?」

 

「そこで否定しないんですね」

 

「そりゃそうだろ。俺は格好いいからな」

 

「……そういうところですよ」

 

 そんなやり取りをしながら、俺は改めて、この村で暮らすようになってから随分と時間が経ったのだと感じていた。

 

 それから、少しだけ時が流れた。

 

 ある日の夕方、家に帰ると、居間の隅に見覚えのある毛皮が置かれていた。

 

「……これ」

 

 近づいてみると、それは先日の風狼の毛皮と骨と魔石だった。血や泥は綺麗に落とされ、傷んだ部分も丁寧に処理されている。風狼特有の灰色がかった毛並みは思っていた以上に美しい。魔石は俺の拳より少し小さいが、それでも透き通るような透明感を持つライトグリーンの魔石。あれだけ死闘を繰り広げた相手だというのに、こうして加工されたものを見ると別の生き物のようにも見えた。

 

「ロールズさんが剥いでくれたんだって」

 

 ゼニスさんが教えてくれる。

 

「こんなに綺麗にできるんですね」

 

「ロールズは狩りの後始末が上手いのよ。素材を無駄にしないようにするのも狩人の腕なんだって」

 

 なるほど。

 

 モン○ンみたいに倒した瞬間、ボタン一つで素材が手に入るわけじゃないらしい。

 

 そりゃそうだ。

 

 考えてみれば、皮を傷つけずに剥ぎ、肉を分け、骨や牙を取り出し、それぞれを使える状態にするには相応の知識と技術が必要になる。この世界の狩人、思っていた以上にレベルが高いな。

 

 俺はその毛皮を持ち上げると、パウロさんのところへ向かった。

 

「パウロさん。これ、どうします?」

 

「ん?」

 

「俺が持ってても仕方ないので、渡そうかと」

 

 風狼を倒したのは俺とシルフィだが、村を守るために動いてくれたのはパウロさんたちだ。だから、素材についても当然パウロさんが扱うものだと思っていた。

 

 ところが、パウロさんは俺の顔と毛皮を交互に見た後、口元をニヤリと歪めた。

 

 嫌な予感がした。

 

「ルーク」

 

「はい」

 

「女の子に貰ってばっかりなのは、良くないと思うぞ」

 

「……はい?」

 

「男なら、女の子から貰ったプレゼントはしっかり返してやれ。特に、大事な子からのプレゼントはな」

 

 そう言って、パウロさんは風狼の素材を俺の胸へ押しつけてきた。

 

「…………」

 

 俺はそれを抱えたまま固まった。

 

 確かに。

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 十歳の誕生日、俺は家族から色々なものを貰った。シルフィからも、木で作られた首飾りを貰っている。俺は嬉しくて、今でも大切に身につけている。それなのに、俺からシルフィへは何も返していない。

 

 しかも、気がつけばシルフィも俺と同じ十歳になっている。

 

 誕生日。

 

 プレゼント。

 

「……何か、あげないとな」

 

「そういうことだ」

 

 パウロさんは満足そうに頷いた。

 

 俺は腕を組んで考え込む。

 

 何をあげればいいんだろう。

 

 風狼の素材をそのまま渡すのはどうだろう。……いや、十歳の女の子への誕生日プレゼントとしては、ちょっと物騒すぎるか。

 

 だったら、この素材を何かに加工してもらう? 

 

 それは悪くない気がする。

 

 シルフィは俺に木の首飾りをくれた。なら、俺も何か身につけられるものを──。

 

 ……首飾りを返してあげた方がいいのかな。

 

 いや。

 

 それはちょっと重いよな。

 

 でも、シルフィ自身が俺にくれているわけだし……。

 

「う──ん……」

 

 気がつけば、俺は本気で悩んでいた。

 

 その横で、パウロさんは腕を組みながら、これでもかというほどニヤニヤしていた。

 

「……なんですか」

 

「いや?」

 

「絶対なんか考えてますよね」

 

「俺は何も言ってないぞ」

 

「顔が言ってます」

 

「そうか?」

 

「めちゃくちゃ言ってます」

 

 パウロさんは笑いながら誤魔化した。

 

 その時、ふと別のことを思い出した。

 

「あ」

 

「ん?」

 

「そういえば俺、ルーデウスに手紙を出すためにロアまで行かなきゃいけないんだった」

 

 しばらく前から、パウロ達はルーデウスに手紙を送ろうとは思っていた。

 

 あいつは今、ボレアス家で家庭教師をしている。距離もあるし、頻繁に会えるわけじゃない。なら、せめてこちらの近況くらいは伝えておきたい。

 

 それに、ロアの城下町には様々な職人が集まっているらしい。

 

 武器や防具だけじゃない。魔物の素材を加工する職人も多く、地方では手に入らないようなものまで作ってくれるらしい。

 

「……ロア、ちょっと見てみたいな」

 

「はい」

 

「でも、今は魔物の件もあるからな。俺が村を離れて大丈夫なのかな」

 

「…………」

 

 パウロさんが黙った。

 

 そして、妙にわざとらしく天井を見上げた。

 

「まあ、ロアなら朝早く出れば夜には帰ってこられるんじゃないか?」

 

「……」

 

「職人も多いしなぁ」

 

「…………」

 

「ちょうど誰かさんが、女の子へのプレゼントをどうするか悩んでた気もするが」

 

「………………」

 

 凄いわざとらしい。

 

 分かりやすすぎる。

 

 俺が一人でロアへ行く理由を、これでもかというほど用意してくれている。

 

 いつもの俺なら、冷めた目で「そんな露骨な誘導に乗る奴がいるか」と言っていたところだ。

 

 けれど。

 

 ここは乗ってあげよう。

 

「じゃあ、俺が行ってきますよ!」

 

 俺が声を上げると、パウロさんが待ってましたと言わんばかりに振り返った。

 

「ロアも見てみたいですし、シルフィの誕生日も祝いたいので! ルーデウスへの手紙もちゃんと届けてきます!」

 

「おお、そうか!」

 

 パウロさんも負けじと大げさに頷く。

 

「助かったぜ、ルーク! じゃあ明日頼めるか? 朝早くから行けば、夜には帰って来られるはずだ」

 

「はい! 任せてください!」

 

 完全に寸劇だった。

 

 その様子を少し離れたところから見ていたゼニスさんとリーリャさんは、呆れたように顔を見合わせて笑っている。

 

 アイシャも面白そうに笑っていた。

 

 ただ一人、ノルンだけが不思議そうな顔をしていた。

 

「……なんで父さんと兄さんは笑ってるの?」

 

「さあ?」

 

 リーリャさんが笑いながら答える。

 

「大人には分かることもあるんですよ」

 

「……?」

 

 ノルンは余計に分からない顔をした。

 

 そんな賑やかな家の空気が、俺は嫌いじゃなかった。

 

 むしろ、好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その日の昼もいつものようにシルフィを迎えに行った。

 

 ロールズさんの家へ向かい、シルフィと合流する。そこから二人で丘の上の木まで歩き、他愛もない話をしながら時間を過ごした。

 

 最近では、会話の内容も随分と増えた。

 

 村であったこと。今日食べたもの。ノルンやアイシャが何をしていたか。昨日覚えた魔術について。時には意味のない話を延々と続けることもある。

 

 それでも、不思議と話題には困らなかった。

 

 丘に着けば、いつものように特訓を始める。

 

 風魔術、水魔術、火魔術、土魔術。

 

 そして俺は剣を振る。

 

 風狼との戦い以降、俺たちの特訓は少しずつ変わっていた。ただ魔術を撃ち合うだけではない。どう動けば相手の攻撃を避けられるか、どうすれば相手の死角を取れるか、どうすれば自分の得意な距離を維持できるか。

 

 互いに考えながら戦う。

 

 それが最近の俺たちの特訓だった。

 

 一通り終えたところで、俺たちは木陰へ移動した。

 

「はい、ルーク」

 

 シルフィが土魔術で作った簡素な器に、水魔術で水を満たして差し出してくれる。

 

「ありがとう」

 

 受け取って口をつける。

 

 最近は暑くなってきたから、冷たい水が喉を通っていく感覚が気持ちいい。

 

「ふぅ……」

 

 思わず息が漏れた。

 

 そのまま木の幹に背中を預けていると、隣に座ったシルフィが少しだけ身体を寄せてくる。

 

 最近、シルフィはこうして二人きりになると距離が近い。

 

 特訓の休憩中には俺の肩に頭を乗せるようになったし、こうして隣に座る時も以前よりずっと近い場所にいる。

 

 最初は少し驚いた。

 

 けれど、何度か続くうちに慣れてしまった。

 

 俺と一緒にいることで安心するのなら、それでいい。

 

 そう思っていた。

 

 そんな時、ふと気になった。

 

「なぁ、シルフィ」

 

「ん?」

 

「前、空を飛んでただろ?」

 

 シルフィが顔を上げる。

 

「あれ、どうやったんだ?」

 

 単純な疑問だった。

 

 人間なら、一度くらいは空を飛んでみたいと思ったことがあるんじゃないだろうか。

 

 俺もそうだった。

 

 前世では空を飛ぶなんて夢物語だった。それが魔術の存在するこの世界なら、もしかしたら可能なのかもしれない。

 

 俺自身、今は魔術が使えない。

 

 それでも、理屈だけでも分かれば、いつか魔術が使えるようになった時に応用できるかもしれない。

 

 そう思うと、聞かずにはいられなかった。

 

「えっとね」

 

 シルフィは少し考えてから、手を自分の前に出した。

 

「ボクは無詠唱で魔術を使えるでしょ?」

 

「ああ」

 

「だったら、掌から出せるなら、脚の先から出すこともできるんじゃないかなって思ったんだ」

 

「……うん」

 

 俺は真剣に頷いた。

 

 なるほど。

 

 無詠唱魔術を身体の別の部位から発動する。

 

 理論としては分かる。

 

「それで?」

 

「それで、風を出してみたの」

 

 シルフィは自分の足元を指差す。

 

「掌から風を出す時って、こう……魔力が手の中に集まって、そこから外に押し出す感じがするんだけど、足の裏から出す時は、もっと身体の中を下に流す感じなの」

 

「下に?」

 

「うん。身体の中を流れてきた魔力が、足の裏で一気に広がる感じ。それで、そのまま風が下に向かってブワーって出るの」

 

 両手を広げながら、シルフィが一生懸命説明する。

 

「でも、最初は全然上手くいかなかったんだ。風が横に出たり、身体がぐるって回ったりして」

 

「……それをどうやって直したんだ?」

 

「分かんない」

 

「分かんないのか」

 

「うん」

 

 シルフィは困ったように笑った。

 

「でも、風を出したら身体が浮くでしょ? だったら、落ちそうになった方向と反対に風を出せばいいのかなって思って」

 

「……なるほど」

 

「それで、右に傾いたら左から風を出して、前に倒れそうになったら後ろに風を出して……」

 

 シルフィは自分の身体を使って説明する。

 

「そうしてたら、だんだん身体が言うことを聞くようになってきたの。風を出して身体を動かすっていうより、自分の身体を風で押して動かす感じかな」

 

 そこまで言って、シルフィは少し嬉しそうに笑った。

 

「最初は怖かったけど、慣れてくると楽しいよ。風が身体の下を通って、そのまま身体が軽くなるの。地面を蹴ってないのに上に行けるから、不思議な感じがするんだ」

 

「…………」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

 本当は、もっと聞きたいことがあった。

 

 無詠唱魔術を使う時、どのように魔力を操作しているのか。風をどの方向へ、どの程度の出力で放っているのか。空中で姿勢を制御する時、どんなイメージをしているのか。

 

 理論として説明してもらえれば、俺にも何か応用できるかもしれない。

 

 だから、

 

「いや、そうじゃなくて──」

 

 と言いかけた。

 

 けれど、言葉を飲み込んだ。

 

 シルフィの顔を見れば分かったからだ。

 

 俺に自分の知っていることを教えられることが、嬉しいのだろう。

 

 普段、俺から特訓の方法を教わることはあっても、シルフィから俺に何かを教える機会はそれほど多くない。

 

 だからこそ、必死になって俺に伝えようとしている。

 

 上手く説明できなくても、俺に分かってほしい。

 

 そんな気持ちが、表情から伝わってくる。

 

 俺は何も言わず、その話を最後まで聞くことにした。

 

「──ってこと! どう? 分かった?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「魔術が使えるようになったら、俺もいつか空を飛べるように頑張るよ」

 

「うん!」

 

 シルフィが嬉しそうに笑った。

 

 俺の中では、ある程度の仮説が出来上がっていた。

 

 シルフィは、掌から発動する風魔術の感覚を、そのまま脚へ置き換えたのだろう。そこに風を噴射するというイメージを重ね、さらに空中で姿勢を崩した時には、風を出す方向そのものを変えて修正していった。

 

 恐らく、風狼との戦闘という極限状態だったからこそ成功した部分もある。

 

 人間は死地に立つと、普段ならできないことができる場合がある。

 

 火事場の馬鹿力、というやつだ。

 

 身体の感覚が研ぎ澄まされ、魔力がどう体内を巡っているのかを、普段より鮮明に感じ取ったのかもしれない。

 

 そうしてシルフィは、風狼のように風を使って身体そのものを加速させる方法を見つけた。

 

 結果として、空を飛んだ。

 

 ……末恐ろしいな。

 

 俺はそんな感想を抱きながら、もう一つ伝えておきたいことがあるのを思い出した。

 

 正直、認めたくはなかった。

 

 けれど、これは言っておくべきだと思った。

 

「それとさ」

 

「ん?」

 

「宙に浮いた状態で俺とシルフィが戦ったら、俺、多分勝てないだろうな」

 

 シルフィが目を丸くした。

 

「なんで?」

 

「だって、実際に風狼の攻撃に一回しか当たってないだろ?」

 

「……うん」

 

「ああいう遠距離からの攻撃手段を持ってないと、シルフィに攻撃を当てるのは難しいと思う」

 

 俺は風狼との戦いを思い出す。

 

 地上なら、俺は剣を使える。

 

 防壁魔法もある。

 

 でも、空を自由に飛び回る相手を地上から追い続けるとなれば話は別だ。

 

「シルフィが空を飛ぶ魔術を完全に使いこなせるようになったら、少なくとも大抵の魔物や剣士じゃ相手にならないだろうな」

 

「……そんなに?」

 

「ああ」

 

 もちろん、空中にいるから絶対に負けないわけではない。

 

 遠距離攻撃を持っている相手なら戦えるし、範囲攻撃という手段もある。俺だって、何かしらの対策は考えられる。

 

「一方的な魔術に打ち勝つ方法は、ないことはない。でも、現実的じゃないと思う」

 

「……」

 

「ただ、無敵じゃない」

 

 俺はシルフィを見る。

 

「俺の防壁魔法(ボルグ)と同じだ。何か一つのきっかけで、それがそのまま負けに繋がることがある。分かるか?」

 

 シルフィは黙って考え始めた。

 

 恐らく、自分が負けるとしたらどういう状況なのかを考えているのだろう。

 

 しばらくして、ぽつりと口を開く。

 

「ボクの魔術に耐えられて……魔力が無くなって地上に落ちちゃって、それで負ける……かな」

 

「正解」

 

 シルフィの顔が少し明るくなる。

 

「さすがシルフィだな」

 

「えへへ……」

 

 褒められたことが嬉しいらしい。

 

 その表情を見て、俺も自然と笑った。

 

「だから、空を飛ぶ魔術についても普段から使って、身体に慣らしておく必要があると思う」

 

「うん」

 

「初めて使う魔術と、使い慣れた魔術なら、使い慣れた方が消費魔力も抑えられるって、ルーデウスが言ってたからな」

 

 ──それでも、全ての魔術がそうというわけじゃない。

 

 ルーデウス曰く、聖級以上の魔術になってくると、単純に「慣れれば消費が減る」とは言い切れなくなるらしい。

 

 ただ、今それを伝える必要はないだろう。

 

 シルフィは今、凄まじい速度で成長している。

 

 余計なことを考えさせて、その勢いを鈍らせる必要はない。

 

「確かに」

 

 シルフィは自分の手を見ながら言った。

 

「最近は大火球(エクサフレイム)とか何回も使ってても、全然へっちゃらだもん」

 

 それは本当だった。

 

 俺との特訓以外でも、シルフィは魔術について考えるようになっている。

 

 家にいる時も、暇があれば魔術を使う。

 

 遊ぶような感覚で、火を出したり、水を浮かせたり、風を操ったり、土を変形させたりする。

 

 ルーデウスと一緒にいた頃から無詠唱魔術を使えていたことも考えると、魔術というものそのものが、シルフィにとっては日常の一部になっているのだろう。

 

 魔力総量も、おそらく普通の人間より遥かに多い。

 

 ……本当に末恐ろしいな。

 

「じゃあ、今日は何するの?」

 

 シルフィが俺の方を見る。

 

「いつもの特訓?」

 

「いや、それにシルフィは空を飛ぶ魔術を使うんだ。俺は空中にいる相手と戦う時の対策になるし、シルフィは空中から地上の相手を狙う特訓にもなるだろ。一石二鳥だ」

 

「うん。分かった」

 

 シルフィは嬉しそうに頷いた。

 

「じゃあ、今から使ってみてくれるか? その空を飛ぶ──」

 

 そこまで言いかけて、俺はふと口を閉じた。

 

「……どうしたの?」

 

「いや」

 

 俺は少し考える。

 

「名前がないのは不便だと思ってな」

 

 シルフィが首を傾げる。

 

「名前?」

 

「ああ。毎回『空を飛ぶ魔術』って呼ぶのも長いだろ。特訓するなら、ちゃんと名前があった方がいい」

 

「……そっか」

 

 シルフィは少しだけ目を伏せた。

 

 それから、ちらりと俺を見る。

 

「じゃあ、ルークが考えてよ」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

 思わぬところで頼られた。

 

 俺は腕を組んで考え込む。

 

 風魔術を使って、空を飛ぶ。

 

 単純に考えれば、風飛……いや。

 

「風飛……」

 

 口に出してみる。

 

「なんか違うな」

 

「風飛?」

 

「いや、語感が微妙だ。飛ぶっていうより……風の中を翔ぶ感じだよな」

 

 俺は空を見上げた。

 

 青い空の中を、風に乗って進むシルフィの姿を思い浮かべる。

 

「風翔……」

 

「ふうしょう?」

 

「ああ。風を翔ける、で風翔」

 

 口にしてみると、悪くない。

 

 けれど、まだ何か足りない気がした。

 

 ただの名前じゃない。

 

 せっかくなら、シルフィらしい名前にしたかった。

 

「風翔……風翔……」

 

 何度か呟く。

 

 その時、ふと前世の記憶が引っかかった。

 

 風の精霊。

 

 シルフ。

 

 そして、その女性形として知られていた名前。

 

「……そうだ」

 

 俺はシルフィを見る。

 

「シルフィの名前から取るのはどうだ?」

 

「ボクの?」

 

「ああ。それに、風の精霊の名前にも似たものがあったはずだ」

 

 前世で聞いたことがある。

 

 風を司る精霊。

 

 風の妖精。

 

 その名前は、今目の前にいる少女にも不思議なくらいよく似合う。

 

「何年か前まで間違えてシルフィの名前をそう呼んでたし、聞き覚えがあると思うぞ。風の精霊、シルフ」

 

 俺はその言葉を口にした。

 

 そして、少しだけ照れながら続ける。

 

「風を使って空を翔ぶ魔術だから──」

 

 一瞬、言葉を選ぶ。

 

風翔(シルフィード)。どうかな?」

 

「…………」

 

 シルフィは黙っていた。

 

 俺は少し不安になった。

 

「……変だったか?」

 

「ううん」

 

 シルフィが首を横に振る。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

「すごく……いい」

 

 その顔には、隠しきれないほどの笑顔が浮かんでいた。

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 自分の名前と似た響きを、何度も口の中で確かめるように呟いている。

 

「……なんだか、ボクの魔術って感じがする」

 

「そうか?」

 

「うん」

 

 シルフィは嬉しそうに笑った。

 

 その笑顔を見て、俺も安心する。

 

 正直、少し小っ恥ずかしい。

 

 二十一歳だった頃の俺が、前世の知識から「風の精霊の名前を技名にしよう」なんて提案しているのだから、傍から見れば結構な厨二病だ。

 

 ……いや。

 

 これは違う。

 

 決して厨二病ではない。

 

 たぶん。

 

「じゃあ、決まりだな」

 

「うん!」

 

 シルフィは立ち上がった。

 

風翔(シルフィード)!」

 

 その名前を口にした瞬間、シルフィの足元から風が吹き上がる。

 

 身体がふわりと浮いた。

 

 緑色の髪が風に揺れ、木々の葉が一斉にざわめく。

 

 さっきまでただ「空を飛ぶ魔術」と呼んでいたものが、たった一つの名前を与えられただけで、どこか特別なものになったように見えた。

 

「どう?」

 

 空中からシルフィがこちらを見る。

 

「……いい名前だと思う」

 

「えへへ」

 

 シルフィは嬉しそうに笑う。

 

 そして、風を蹴るようにして、もう一度空へ舞い上がった。

 

「じゃあ、始めようか」

 

「うん!」

 

 その日から、シルフィの空中機動魔術には一つの名前がついた。

 

 風翔(シルフィード)

 

 それは、シルフィが自分自身の力で掴み取った、空を飛ぶための魔術だった。

 

 シルフィが少し距離を取った。

 

 そして、ゆっくりと魔力を集中させる。

 

 次の瞬間。

 

 足元から風が吹き上がった。

 

 身体がふわりと浮く。

 

「おお……」

 

 思わず声が出た。

 

 シルフィはそのまま少し高度を上げ、身体を傾ける。すると、傾いた方向とは逆側から風が噴き出し、その身体が空中で軌道を変えた。

 

 まだ荒削りだ。

 

 けれど、戦闘に使える。

 

「じゃあ、行くぞ!」

 

「うん!」

 

 そこから、俺たちの新しい特訓が始まった。

 

 シルフィは空を飛びながら風刃を撃ち、俺は地上を走りながらそれを避ける。最初は簡単に避けられた攻撃も、シルフィが風の勢いで横へ滑るように移動しながら放つようになると、一気に難易度が上がった。

 

 こちらが動けば、シルフィも動く。

 

 俺が木の陰へ逃げれば、上空から回り込んでくる。

 

 逆に俺が踏み込めば、シルフィは足元から風を噴射して一気に高度を上げる。

 

 風狼との戦いでは「飛んでいる」という事実そのものが脅威だったが、こうして何度も相手をしてみると、シルフィ自身もまだ空中での動きに慣れていないことが分かる。

 

 だからこそ、俺は何度も攻撃を仕掛けた。

 

「シルフィ、今のは高度を下げすぎだ!」

 

「分かってる!」

 

「なら、もっと高く!」

 

「こう?」

 

「そう!」

 

 地上と空。

 

 それぞれ違う場所にいる二人が、互いの弱点を探しながら何度もぶつかっていく。

 

 そして、何度目かの攻防を終えたところで、俺たちは再び木陰へ戻った。

 

 シルフィは土魔術で簡単なコップを作ると、水魔術でそこへ水を満たしてくれる。

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 俺は受け取った水を一気に飲んだ。

 

 最近は随分と暑くなってきた。

 

 冷たい水が喉を通り、火照った身体を内側から冷ましていく。

 

「ふぅ……」

 

 一息つく。

 

 隣では、シルフィも水を飲んでいた。

 

 そして、いつものように俺の肩へ頭を預ける。

 

 俺は特に何も言わなかった。

 

 最近では、もうそれが当たり前になりつつある。

 

 シルフィはしばらく黙って俺の肩に頭を乗せていた。

 

 俺は空を見上げる。

 

 青い。

 

 風が木の葉を揺らしている。

 

 そんな何気ない時間だった。

 

 

 

 

 

 シルフィの胸の中では、少し前から大きな変化が起きていた。

 

 ──ボクは、ルークのことが好きなんだ。

 

 シルフィは、最近になってようやく、そのことを自覚していた。

 

 もちろん、お父さんもお母さんも好きだ。

 

 ルディも好き。

 

 パウロさんも、ゼニスさんも、リーリャちゃんも、ノルンちゃんもアイシャちゃんも好きだ。

 

 大切な人たちだ。

 

 けれど、ルークに向けている「好き」は、それとは少し違う。

 

 その違いを教えてくれたのは、お母さんだった。

 

 ある日、家でシルフィの様子を見ていたお母さんに、「最近、何か考え事をしているの?」と聞かれた。

 

 シルフィは最初、何でもないと答えようとした。

 

 けれど、結局話してしまった。

 

 ルークのことを。

 

 今日の特訓で何をしたとか、ルークが何と言ったとか。こんな魔術が使えるようになったとか、ルークが褒めてくれたとか。

 

 話しているうちに、お母さんはずっと嬉しそうに笑っていた。

 

 そして、途中でこんなことまで言った。

 

「……ここにお父さんがいなくて良かったわ」

 

「?」

 

 シルフィには意味が分からなかった。

 

 それでも話を続けた。

 

 そして最後まで聞き終えたお母さんは、優しい顔で言った。

 

「シルフィは、お母さんやお父さんのことを家族だと思って大切にしているでしょう?」

 

「うん」

 

「ルーデウス君たちも、きっと似たようなものよね」

 

「うん」

 

「でも、ルーク君に対しては違う。そうでしょう?」

 

 シルフィは少しだけ考えた。

 

 けれど、答えに迷いはなかった。

 

「……うん」

 

「どう違うと思う?」

 

「分かんない」

 

 それが正直な答えだった。

 

 ルークが自分を大切にしてくれていることは分かる。

 

 村の人たちに比べれば、ずっと優しくしてくれる。

 

 けれど、パウロさんたち家族と同じくらい大切にされているのかと聞かれれば、自信はなかった。

 

 そんなシルフィに、お母さんは笑って言った。

 

「ルーク君はきっと、シルフィのことを大切に思ってくれているわ」

 

「……うん」

 

「それがどういう大切さなのかは、お母さんにも分からないけどね」

 

 そして少し間を置いて。

 

「……シルフィは、ルーク君が好きなのね」

 

「……うん」

 

 その言葉は、不思議なくらいすんなり胸に入ってきた。

 

 そうだ。

 

 ボクは、ルークが好きなんだ。

 

 出会った時、ルークは自分を守ってくれた。

 

 ルディと三人でいる時も、ルディと少し気まずくなった時も、ルークだけは変わらなかった。

 

 同じ緑色の髪。

 

 それなのに、自分より少し大人びていて。

 

 でも、時々どうしようもなく子供っぽくて。

 

 そんなルークに、いつの間にか惹かれていた。

 

「……うん」

 

 シルフィが頷くと、お母さんの目から涙がこぼれた。

 

「どうしたの?」

 

 驚いて聞くと、お母さんは目元を拭いながら笑った。

 

「嬉しいの」

 

「……?」

 

「シルフィに友達ができて、頼れる大人ができて……それに、好きな子までできたんだもの」

 

 シルフィはぽかんとした。

 

 けれど、お母さんが悲しくて泣いているわけではないことだけは分かった。

 

「ねぇ、シルフィ」

 

 お母さんは椅子から立ち上がると、シルフィの前にしゃがみ込んだ。

 

 目線を合わせる。

 

「シルフィは、ルーク君とどうなりたいの?」

 

「分かんない」

 

「そう」

 

 お母さんは顎に手を当てて、少し考えた。

 

 そして、ふと思いついたように尋ねる。

 

「じゃあ、もしね。ある日、村の女の子がルーク君の隣にいて、シルフィに向けるみたいに笑いかけていたら、どう思う?」

 

 その光景を想像した。

 

 知らない女の子。

 

 ルークの隣。

 

 自分に向けてくれるのと同じ笑顔。

 

 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

 

「……なんか、嫌」

 

 お母さんは優しく笑った。

 

「じゃあ、シルフィはルーク君のことを、自分だけの特別な人にしたいのね」

 

「……そうなのかな」

 

 ルークは物じゃない。

 

 だから「自分だけのものにしたい」と言われても、それが正しいとは思えない。

 

 でも、他の女の子がルークの隣にいるところを想像すると、どうしても嫌だった。

 

 その気持ちだけは、誤魔化せなかった。

 

「じゃあ、女の子として意識してもらわないとね」

 

「……どうすればいいの?」

 

「それは──」

 

 お母さんは少しだけ笑って。

 

「お母さんに任せて」

 

 そう言った。

 

 それから、シルフィはお母さんから色々なことを教わった。

 

 どうすれば少しだけ距離を縮められるのか。

 

 どうすれば自分を女の子として見てもらえるのか。

 

 時にはお母さん自身が顔を赤くしながら、時には真剣な顔で、シルフィに一つずつ教えてくれた。

 

 そして、シルフィはそれを少しずつ実践していった。

 

 ──これって、効果あるのかな。

 

 今、シルフィはルークの肩に頭を乗せている。

 

 けれど。

 

 ──……いつも通りだ

 

 ルークは特に気にしていない。

 

 ノルンやアイシャに向ける時と同じような笑顔で、こちらを見ている。

 

 まるで妹を見るような。

 

 それが少し悔しい。

 

 でも、その笑顔を真正面から見ることもできなくて、誤魔化すようにシルフィは頭を少しだけ肩へ擦り寄せた。

 

 すると、ルークの手が頭に乗る。

 

 優しく撫でられる。

 

「……」

 

 嬉しい。

 

 それだけで胸がいっぱいになる。

 

 しばらくそうしていると、ルークが何かを思い出したように口を開いた。

 

「そうだ、シルフィ」

 

「ん?」

 

「明日なんだけど、特訓なしでいいか?」

 

「……え?」

 

 胸が少しだけ沈んだ。

 

 特訓がない。

 

 それ自体は別に珍しいことではない。

 

 でも、最近は毎日のようにルークと会っていた。

 

 だから、少しだけ寂しい。

 

「別にいいけど……何かあったの?」

 

「いや、ちょっと村を出て、城塞都市ロアまで行こうと思ってな」

 

 その瞬間。

 

 シルフィの頭の中が真っ白になった。

 

 ロア。

 

 村の外。

 

 明日。

 

 ルークがいなくなる。

 

 考えるより先に、身体が動いていた。

 

 ルークの肩から頭を離す。

 

 立ち上がる。

 

 そして──そのまま、ルークへ飛びついた。

 

 

 

 

「え?」

 

 勢いを受け止めきれず、ルークの身体が後ろへ倒れる。

 

 地面に背中がついた。

 

 シルフィはその上でルークにしがみついたまま、動かない。

 

「い、や……いや……」

 

 声が震える。

 

「いや……いやだ……」

 

 ルークは完全に困惑していた。

 

 軽い気持ちで言った言葉で、想像以上の反応をされた。

 

 前世でも、この世界に来てからも、そういう経験は何度かあった。

 

 けれど。

 

 これは想像していなかった。

 

「……シルフィ?」

 

 何が起きているのか分からない。

 

 怒っているのか。

 

 寂しいのか。

 

 それとも、何か別の理由があるのか。

 

 しばらくすると、シルフィの身体が小さく震え始めた。

 

 しゃくり上げる音。

 

「あ……」

 

 泣いている。

 

 怒っているわけではなかった。

 

 それに少しだけ安心した自分に、ルークは苦笑する。

 

「シルフィ……」

 

 頭を撫でる。

 

 すると、シルフィが勢いよく顔を上げた。

 

 涙で濡れた顔。

 

「どこにも、い、行かないで……」

 

 言葉が途切れる。

 

「うぇ……う、うぇぇぇぇん……」

 

 とうとう大泣きになった。

 

「……」

 

 ルークは何も言えなくなった。

 

 どうしてそこまで泣くのかは、まだ分からない。

 

 ただ、胸の奥が痛かった。

 

「シルフィ」

 

 名前を呼ぶ。

 

 シルフィは返事をしない。

 

 それでも、ルークの服を掴んだまま離れようとはしなかった。

 

 やがて、ルークはようやく気づく。

 

 ──どこにも行かないで。

 

 つまり、そういうことか。

 

「シルフィ」

 

 今度は、できるだけ優しい声で呼んだ。

 

「俺はこの村を出ていくわけじゃない」

 

 シルフィの肩が、ほんの少し動く。

 

「明日の夜には帰ってくるから」

 

 返事はない。

 

 それでも、聞いていることは分かった。

 

「俺の居場所はここだよ、シルフィ」

 

 ルークはそう言った。

 

 自分でも驚くほど、自然に言葉が出てきた。

 

「シルフィがいる、この村だよ」

 

 しばらくの沈黙。

 

 そして。

 

「……うん」

 

 ようやく、シルフィが答えた。

 

 ルークは安心した。

 

 そのまま、シルフィの頭を撫で続ける。

 

 シルフィも離れなかった。

 

 時折、首に回した腕へ力を込める。

 

 まるで、今ここにいることを確かめるように。

 

 ルークには、それが少し不思議だった。

 

 けれど、泣いているシルフィを突き放す理由もない。

 

 だから、何も言わずにそのまま撫で続けた。

 

 結局、その日の特訓はそれだけだった。

 

 ──翌日。

 

 俺は、シルフィとの約束通り、朝早くからロアへ向かうことになる。

 

 ルーデウスへの手紙。

 

 そして、シルフィへの誕生日プレゼント。

 

 それから──俺自身もまだ知らない、この街との新しい縁を求めて。

 

 城塞都市ロアへ。

 

 

 

 翌朝。

 

 まだ太陽が昇りきる前に、俺は家を出た。

 

 背中には小さな荷物。中には水と簡単な食料、それからルーデウスへの手紙が入っている。そして、その中でも特に大事なのが、布に包んだ風狼の素材だった。

 

 昨日のうちにパウロさんから預かった金も持っている。

 

「気をつけてな、ルーク。ギレーヌには話を通してあるから、とりあえず屋敷まで行ってくれ」

 

「はい。夜には帰ってきます」

 

「無理そうなら帰ってくるなよ。途中で宿を取ってもいいからな」

 

「分かってます」

 

 ゼニスさんも玄関まで見送りに来てくれた。

 

「ロアは人が多いから、財布には気をつけるのよ」

 

「はい」

 

「それと、変な人についていかない」

 

「子供じゃないんですから」

 

「十歳は十分子供よ」

 

「……そうでした」

 

 苦笑しながら答える。

 

 最後にリーリャさんから昼食用の包みを受け取り、俺はブエナ村を出た。

 

 城塞都市ロア。

 

 名前だけは何度も聞いたことがある。

 

 ルーデウスが今暮らしている街。

 

 ボレアス家の本拠地。

 

 そして、この辺りでは最大級の都市。

 

 そんな場所へ、俺は一人で向かっていた。

 

 村から離れるにつれて、道の景色も少しずつ変わっていく。ブエナ村周辺では見慣れた森や草原ばかりだったが、街道へ出ると荷馬車とすれ違う回数が増えた。商人らしい人間もいれば、武器を腰に下げた冒険者らしき人間もいる。

 

 そのたびに、俺は少しだけ警戒した。

 

 パウロさんから何度も言われている。

 

 ──街には人攫いもいるからな。十分に気をつけろ

 

 分かっている。

 

 でも、それでも少し楽しみだった。

 

 俺は前世でも、こんな風に知らない街へ一人で出かけたことなんてほとんどなかった。

 

 そう考えると、妙に胸が躍った。

 

 そして、昼前。

 

 遠くに巨大な城壁が見えてきた。

 

「……あれが、ロアか」

 

 思わず足が止まる。

 

 ブエナ村を囲う壁とは、比べることすら馬鹿らしくなるほど大きい。

 

 高くそびえる城壁。

 

 その上には見張り台が並び、一定の間隔で兵士らしき人間が立っている。

 

 街へ続く道には、俺が今まで見たこともないほど多くの人がいた。

 

 荷馬車。

 

 商人。

 

 冒険者。

 

 旅人。

 

 様々な格好をした人間が、絶え間なく門を出入りしている。

 

「……すげぇ」

 

 十歳の子供らしい感想が口から出た。

 

 いや。

 

 二十一歳の大学生だった俺としても、普通に圧倒される。

 

 門を抜ける。

 

 その瞬間、空気が変わったように感じた。

 

 人の声。

 

 馬の蹄。

 

 荷車の音。

 

 店先から聞こえる呼び込み。

 

 香辛料の匂い。

 

 焼いた肉の匂い。

 

 酒の匂い。

 

 ブエナ村では嗅いだことのない匂いが、次から次へと鼻へ入ってくる。

 

「……都会って、こんな感じなのか」

 

 思わず周囲を見回した。

 

 建物も高い。

 

 道も広い。

 

 店も多い。

 

 何より、人が多すぎる。

 

 少し歩いただけで何人もの人間と肩がぶつかりそうになる。

 

 緑色の髪を見られないよう、今日は深くフードを被っている。

 

 幸い、誰も俺を気に留める様子はなかった。

 

 俺はそのまま、職人が集まっているという地区へ向かった。

 

 目当ては一つ。

 

 風狼の素材を加工できる職人を探すこと。

 

「……杖とか作ってくれる職人、どこにいるんだろうな」

 

 

 

 ロアの街へ来た目的は、二つあった。

 

 一つはルーデウスへ手紙を届けること。そしてもう一つは、風狼から得た素材をシルフィへの誕生日プレゼントにできないか探すことだった。

 

 俺自身、最初から杖を作ろうと決めていたわけではない。風狼の骨や魔石をどう扱えばいいのかも分からなかったし、そもそも魔物の素材を加工するという発想自体が、俺にとってはこの世界で生きてきた十年の中でも馴染みの薄いものだった。ただ、シルフィが風魔術を得意としていることを考えれば、武器よりも魔術を補助する道具の方が喜ぶだろうと思った。それだけの理由で、俺はロアの職人街を歩き回っていた。

 

 ところが、現実はそう簡単ではなかった。

 

 何軒かの工房を訪ねて風狼の骨を見せてみたものの、どの職人も素材そのものには興味を示しながら、最終的には首を横に振った。風狼の骨は確かに優れた素材らしい。しかし、魔力を帯びた魔物の骨は普通の木材や金属より加工が難しく、削り方一つで魔力の流れを壊してしまうこともあるらしい。特に杖となれば、ただ形を整えればいいわけではない。持ち手から先端まで魔力が滞りなく流れる構造を作り、なおかつ使用者の属性適性まで考慮する必要があるという。

 

「……思ったより面倒だな」

 

 職人街を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 金ならある。パウロさんたちから渡された俺自身の金も、手をつけずに残っている。必要ならそれなりの額を払うつもりだった。それでも、金を積めば誰でも作れるという話ではないらしい。むしろ下手な職人に預ければ、せっかくの風狼の素材を駄目にされる可能性すらある。

 

 そんなことを考えながら歩いていた時だった。

 

 背後から、低くしゃがれた声が飛んできた。

 

「おい。そこの小僧」

 

 振り返る。

 

 そこに立っていた老人を見て、俺は最初に、その体格に目を奪われた。

 

 老人という言葉から想像するような細く枯れた身体ではない。肩幅は広く、首は太く、特に上半身は異様なほど発達している。長い年月を工房で過ごしてきたのだろう、袖から覗く腕には年齢を感じさせない筋肉が残っており、節くれだった指には細かな傷や火傷の痕がいくつも刻まれていた。髪も髭も白くなっているのに、その身体だけは未だに職人として働き続けることを拒んでいないように見える。

 

 そして、俺が何より気になったのは右目だった。

 

 左目は普通の老人のものだった。だが右目だけは、どこかがおかしい。瞳の色そのものが違うわけではない。それでも、こちらを見ているというより、こちらの中にある何かを覗き込んでいるような妙な圧があった。俺が視線を合わせた瞬間、背筋に薄い違和感が走る。

 

 老人は俺ではなく、俺が抱えていた布包みに視線を落とした。

 

「それを見せろ」

 

「……これを?」

 

「他に何がある」

 

 ぶっきらぼうな物言いだった。

 

 愛想がないというより、最初から他人とまともに会話をするつもりがないのだろう。必要なことだけを口にし、それ以外には興味を持たない。俺が何者なのか、どこから来たのか、そんなことすらどうでもいいという顔をしている。

 

 普通なら、こんな相手に素直に素材を渡すのは躊躇するところだ。

 

 しかし俺は、少し迷った末に布を開いた。

 

 中から現れたのは、風狼の骨だった。

 

 その瞬間、老人の右目が変わった。

 

 本当に、そう見えた。

 

 それまでの右目には、ただの好奇心とも値踏みともつかない光しかなかった。それが骨を視界に入れた途端、瞳の奥に別の光が灯った。老人は無言のまま骨を手に取り、表面を指先でなぞる。骨の曲がり具合を確かめ、光へ翳し、今度は角度を変えて眺める。その動作には一切の無駄がなかった。素材を珍しがっている素人の仕草ではなく、何百、何千という素材を手にしてきた人間が、その一つ一つを記憶の中にある基準と照らし合わせているような動きだった。

 

 この老人──チェイン・プロキオンは、杖職人として長い年月を生きてきた男だった。

 

 アスラ王国の魔術師たちの間では、その名前を知らない者の方が少ない。彼が作る杖は単に高価なのではない。使用者の魔力の流れ、得意属性、魔術の癖、身体の大きさや戦い方まで考慮し、一人の魔術師が最も効率よく力を引き出せる形へ素材を加工する。そのため注文を受けても完成まで時間が掛かり、そもそも気に入らない依頼は金額に関係なく断ることさえあるという、非常に気難しい職人としても有名だった。

 

 だが、チェイン本人にとって、それは気難しく振る舞っているつもりすらなかった。

 

 彼にとって杖は商品ではない。

 

 杖を作るという行為そのものが、仕事であり、研究であり、人生だった。

 

 より優れた素材を見つければ、その素材がどんな魔力の流れを持っているのか確かめずにはいられない。珍しい魔石を手に入れれば、その性質を理解するまで眠れない。加工するなら、その素材が持つ可能性を一切殺さず、むしろ自分の技術によって一段上の形へ引き上げたい。だからこそ、客の身分や財布の厚さよりも、目の前にある素材そのものを優先する。

 

 そしてチェインには、それを可能にする特別な眼があった。

 

 魔眼の一つ、識別眼。

 

 その眼は対象の性質を見抜き、素材の種類だけでなく、内部に残された魔力の状態や密度、属性との親和性、加工する際に適した部分まで読み取ることができる。もっとも、識別眼を持っているだけで優れた杖が作れるわけではない。そこに長年培った職人としての知識と経験が加わって初めて、その能力は真価を発揮する。

 

 そして今、その眼が見ている風狼の骨は、チェインにとってあまりにも魅力的な素材だった。

 

 骨の密度が高い。

 

 魔力の残滓が濃い。

 

 風属性との親和性も極めて良好。

 

 それでいて、戦闘による損傷が少ない。

 

 さらに、削り出せる部分が広く、杖の芯として利用するには申し分ない強度を残している。

 

 識別眼が伝えてくる情報を一つずつ拾い上げるたびに、チェインの中で一つの形が浮かび上がっていく。

 

 この部分を削る。

 

 ここは残す。

 

 魔力の流れをここへ集め、先端へ逃がす。

 

 魔石は同じ風狼から採ったものを使えばいい。骨との魔力的な親和性が高くなる。ならば魔石を包む構造も骨で作れる。風属性に特化させながら、他属性の魔術を阻害しないように内部の流路を調整することもできる。

 

 そこまで考えたところで、チェインはようやく、自分が笑っていることに気づいた。

 

「……面白い」

 

 俺には聞こえないほど小さな声だった。

 

 目の前にいるのが十歳そこそこの子供だということも、緑色の髪をフードで隠していることも、彼にとってはもうどうでもよかった。

 

 この素材がどこから来たのか。

 

 なぜこの少年が持っているのか。

 

 そんなことを疑う必要すら感じない。

 

 目の前にある素材が本物である。

 

 それだけで十分だった。

 

「……これをどこで手に入れた?」

 

「ブエナ村です」

 

「風狼が?」

 

「はい」

 

「嘘をつけ」

 

 チェインは鼻を鳴らした。

 

 風狼の生息域を知っている彼にとって、ブエナ村で風狼が出たという話はにわかには信じがたいものだった。赤竜山脈の麓に広がる森ならともかく、あの村の近辺でこれほど状態の良い風狼の素材が得られたというのは、どう考えても珍しい。

 

 それでも、彼が本気で怒ったわけではない。

 

 嘘だろうが本当だろうが、今の彼にはさして重要ではなかった。

 

「俺と、もう一人で倒しました」

 

「もう一人?」

 

「魔術師です」

 

「お前は?」

 

「剣士です」

 

 チェインは俺を見た。

 

 十歳。

 

 身体つきもまだ子供。

 

 だが、そのことを深く追及することはなかった。

 

 彼の右目は、すでに俺ではなく風狼の骨を見ている。

 

 その素材をどう加工するか。

 

 どんな杖にするか。

 

 そのことで頭がいっぱいだった。

 

「……杖を作りたいんです」

 

 俺がそう言うと、チェインの眉が僅かに動いた。

 

「誰が使う?」

 

「友達です。風魔術が得意な子で、まだ十歳くらいです」

 

「風か」

 

 チェインの視線が再び骨へ落ちる。

 

「なら、こいつを使わない手はないな」

 

「作れますか?」

 

「作る」

 

 即答だった。」

 

「風魔術以外も使うので」

 

「分かっている」

 

 チェインはそう言いながら、すでに頭の中で設計を始めていた。

 

 持ち手の位置。

 

 軸の太さ。

 

 先端の形。

 

 魔石の固定方法。

 

 使用者の手の大きさ。

 

 魔力の流し方。

 

 風魔術を使った際に、どこまで素材の性能を引き出せるか。

 

「……二週間だ」

 

「二週間?」

 

「それだけあれば作れる」

 

「早いですね」

 

「早いんじゃない」

 

 チェインは骨から目を離さないまま答えた。

 

「俺が待てんだけだ」

 

 その言葉に、俺は思わず苦笑した。

 

 やっぱり変な爺さんだ。

 

 けれど、その変さが嫌ではなかった。

 

 むしろ、この人になら任せてもいいような気がした。

 

 俺は言われた金額を支払い、届け先を書いた紙を渡した。チェインは最後まで俺の素性を聞こうとはしなかった。貴族なのか、平民なのか、どこの家の子供なのか、そんなことには興味がないらしい。

 

 ただ、最後に俺が工房を出ようとしたところで、老人は一度だけこちらを振り返った。

 

「小僧」

 

「はい?」

 

「そいつを使う奴には、伝えておけ」

 

 右目に、再びあの奇妙な光が宿る。

 

「杖は魔術師の力を増やす道具じゃない」

 

 俺は黙って続きを待った。

 

「魔術師が持っている力を、正しい形で引き出す道具だ」

 

 それだけ言うと、チェインは俺への興味を失ったように背を向けた。

 

 すでに工房の奥へ視線を向けている。

 

 俺には見えない場所に、これから作る杖の姿が見えているのだろう。

 

 風狼の骨を削り、魔石を組み込み、革を巻き、一本の杖へ仕上げていく。

 

 その工程を思い浮かべるだけで、彼の手が疼いているのかもしれない。

 

 俺はそんなチェインの背中を見ながら、妙な人に出会ったものだと思った。

 

 ただ一つ確かなことがある。

 

 あの老人は、金貨十枚のために杖を作る人間ではない。

 

 最高の素材を目の前に置かれたら、それを最高の形へ仕上げずにはいられない。

 

 それがたとえ誰のための杖であろうと。

 

 それがどんな子供の手に渡ろうと。

 

 チェイン・プロキオンという男にとって、そこだけは変わらない。

 

 素材が彼に「作れ」と語りかけてくる限り、彼は杖を作る。

 

 

 

 チェインの工房を出た俺は、風狼の素材を預けたことで一つ肩の荷が下りたような気分になりながら、ロアの街を歩いていた。目的の杖についてはひとまず片がついたが、せっかくここまで来たのだからと街を少し見て回り、必要な買い物を済ませてから、最後にボレアス家の屋敷へ向かった。ルーデウスへの手紙をギレーヌさんに渡すためだ。

 

 屋敷の門前まで来ると、以前にも見た大きな身体が視界に入った。ギレーヌさんは俺の姿を確認すると、いつもの無愛想な表情のままこちらへ歩いてくる。獣族特有の耳が僅かに動いていたが、以前よりも警戒されている感じはない。

 

「遅かったな」

 

「すみません。少し街を見て回ってました」

 

「そうか」

 

 それだけ言って、ギレーヌさんは俺の全身を眺めた。まるで剣士が相手の身体つきを確認するような視線だったので、俺も何となく背筋を伸ばしてしまう。

 

「……少し強くなったか?」

 

「さぁ」

 

 俺が肩を竦めると、ギレーヌさんは僅かに眉を動かした。褒められたのか呆れられたのか分からない反応だったが、少なくとも嫌われているわけではなさそうだったので、俺はそのまま懐から手紙を取り出した。

 

「これ、ルーデウスに渡してください」

 

「手紙か?」

 

「俺達からの手紙です。ルーデウスに会えないのは残念ですが、父さん達家族の話やシルフィとの話も書いてます。ルーデウスには、早く帰ってこいと伝えてください」

 

 ギレーヌさんは手紙を受け取ると、封筒を一度だけ確認した。俺が「俺達」と言ったことについて何か思うところがあったのか、獣耳がぴくりと動いたが、余計なことは聞かず、そのまま懐へしまう。

 

「あぁ。分かった」

 

「お願いします」

 

 これで今日ロアへ来た目的は、ほとんど果たしたことになる。俺は軽く頭を下げて屋敷を離れようとしたが、その背中へギレーヌさんの声が飛んできた。

 

「ルーク」

 

 振り返る。

 

「もし剣術に伸び悩んでいるのなら、いつでもボレアス家に来い。ギレーヌに話があると言えば、あたしが伺おう」

 

「……え?」

 

 あまりにも突然だった。

 

 俺は何か返そうと口を開いたが、その時にはもうギレーヌさんは屋敷へ向かって歩き始めていた。どうやら返事を聞くつもりすらなかったらしい。

 

「……ありがとうございます」

 

 聞こえているかどうかも分からない背中へ向かって礼を言い、俺は小さく息を吐いた。

 

 変な人だ。

 

 でも、悪い人ではない。

 

 むしろ、ああいう不器用な気遣いは嫌いじゃなかった。

 

 それにしても、剣術に伸び悩んでいるように見えたのだろうか。パウロさんとの訓練では少しずつ強くなっている実感があるし、今のところ自分の剣に大きな不満はない。それでも、ギレーヌさんほどの剣士から直接指導を受けられるというのなら、機会があれば一度くらいお願いしてみてもいいかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、俺はロアの街を後にした。

 

 ブエナ村へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。予定より帰りが遅くなったため、グレイラット家の扉を開けた瞬間には、どこか申し訳ない気持ちになる。けれど、俺が帰ってきたことに気づいたゼニスさんがすぐに顔を出し、その後ろからリーリャさんまで現れると、張り詰めていたものが自然と緩んだ。

 

「おかえりなさい、ルーク。遅かったじゃないの」

 

「ただいま帰りました。すみません、少し遅くなりました」

 

「無事ならいいのよ。ご飯食べなさい」

 

「ありがとうございます」

 

 食卓には、遅い時間にもかかわらず俺のために食事が用意されていた。温かい料理の匂いが鼻をくすぐった瞬間、ロアで一日中歩き回っていた身体がようやく疲労を自覚し始める。こういう時、帰る場所があるということのありがたさを、俺は以前よりずっと強く感じるようになっていた。

 

 席に着くと、パウロさんが向かい側からこちらを見る。

 

「で、どうだった?」

 

「何がです?」

 

「ロアだよ。ちゃんと目的は果たせたのか?」

 

「はい。ルーデウスへの手紙はギレーヌさんに渡しました」

 

「そうか。それなら良かった」

 

 パウロさんは満足そうに頷いたが、すぐに俺が持っている荷物へ視線を移した。今日一日、杖を注文したことについては誰にも話していない。別に隠す必要があるわけではないのだが、シルフィの誕生日まで秘密にしておきたかったので、そこだけは最後まで黙っておくことにした。

 

「それで、他には何かあったのか?」

 

「まあ……ちょっと」

 

「何だ?」

 

「秘密です」

 

 そう答えると、パウロさんは一瞬だけ目を細め、それから面白そうに笑った。

 

「また秘密か」

 

「はい」

 

「まあいい。楽しみにしておくか」

 

 ゼニスさんとリーリャさんも、そのやり取りを見て小さく笑っている。ノルンは何が秘密なのか分からず首を傾げ、アイシャだけは何となく面白そうなものが隠されていると察したのか、俺の荷物をじっと見つめていた。

 

「ルーク兄、何買ってきたの?」

 

「内緒」

 

「また?」

 

「2週間後まで待ってろ」

 

「えー」

 

 アイシャが頬を膨らませる。

 

 俺は笑いながら食事を続けた。

 

 その夜、部屋へ戻ってから、あの気難しい老人の顔を思い出す。

 

 あの右目で素材を見た瞬間の表情。

 

 職人として、最高のものを作らずにはいられないという、あの奇妙な熱。

 

「……喜んでくれるかな」

 

 あと少し。もう少しだ。

 

 その時に、あの杖を見た彼女がどんな顔をするのか。

 

 今の俺には、それが少し楽しみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二週間後。

 

 朝食を終えた頃、玄関からノックの音が響いた。

 

「ルーク、なんかお前宛てに荷物が来てるぞ」

 

 パウロさんに呼ばれて玄関へ向かうと、そこには細長い木箱が置かれていた。大きさの割にはずっしりとしていて、表面には送り先である俺の名前と、差出人の名前が記されている。

 

 その名前を見た瞬間、俺は思わず口元を緩めた。

 

 ──チェイン・プロキオン。

 

「……来た」

 

「例の秘密のやつか?」

 

「はい」

 

「じゃあ、せっかくだ。ここで開けてみろよ」

 

 パウロさんが木箱を食卓へ運ぶ。

 

 その声を聞きつけたゼニスさんやリーリャさん、ノルン、アイシャまで集まってきた。

 

「何が入ってるの?」

 

「ルーク兄さんの宝物?」

 

「宝物っていうか……プレゼント」

 

「誰の?」

 

「それはまだ秘密」

 

 俺が笑いながら答えると、アイシャが「えー」と不満そうに頬を膨らませた。

 

 そんな様子を横目に、俺は木箱の留め具を外す。

 

 蓋を開ける。

 

 中には、厚手の布に丁寧に包まれた細長いものが収められていた。

 

 俺はそれを慎重に取り出し、食卓の上へ置く。

 

 そして布を一枚ずつ解いていった。

 

 最初に現れたのは、白銀にも見える一本の杖だった。

 

「…………」

 

 その場にいた全員が黙った。

 

 俺自身も、改めて見るその姿に思わず息を呑んだ。

 

「……これが、あの骨?」

 

 ロアへ持っていった時の風狼の骨は、もっと無骨だった。

 

 魔物の身体から取り出したばかりの骨には、当然ながら粗さがあり、俺には素材として使えるという以上の価値は分からなかった。

 

 だが、今目の前にある杖は、そんな印象を完全に覆している。

 

 長さは五十センチから六十センチほど。

 

 子供が扱うことを前提にしたような取り回しの良い大きさでありながら、玩具のような軽さや頼りなさはない。

 

 杖の軸は風狼の骨を削り出して作られている。

 

 しかし、骨本来の無骨な形は跡形もなく整えられていた。

 

 表面は何度も磨き上げられ、指先を滑らせても引っ掛かり一つない。白を基調とした骨は光を受けると淡い灰色や緑色の光沢を浮かべ、その軸は完全な直線ではなく、風が流れていくように緩やかな曲線を描きながら先端へ向かって細くなっている。

 

 派手な装飾が施されているわけではない。

 

 それなのに、妙に目を引く。

 

 風狼という魔物の素材が持っていた雰囲気を殺さず、それどころか、その特徴そのものを杖の美しさへ変えている。

 

「……綺麗」

 

 ノルンが呟いた。

 

「うん。キレーだね」

 

 アイシャも目を輝かせる。

 

「ルーク兄、センス良いね」

 

「俺が作ったわけじゃないんだけどな」

 

 笑いながら、杖を手に取る。

 

 中央より少し下には、滑り止めの革が丁寧に巻かれている。何重にも巻かれた革は骨へぴたりと馴染んでいて、実用品でありながら、それ自体が杖の装飾の一部にも見えた。

 

 パウロさんが横から手を伸ばす。

 

「ちょっと貸してみろ」

 

「どうぞ」

 

 パウロさんが杖を握り、何度か手の中で回す。

 

「軽いな。それでいて、変に軽すぎない。握りもいい」

 

「武器として見ても良いものなんですか?」

 

「俺は杖職人じゃないから詳しいことまでは分からんが……」

 

 パウロさんは杖を少し離して眺めた。

 

「デザインはかなりいい。実用性を捨ててないのに、ちゃんと高級品に見える。シルフィが持ったら似合いそうだな」

 

「ですよね」

 

 俺が頷いたところで、ゼニスさんが杖を受け取った。

 

「私にも見せて」

 

 先端へ視線を向けた瞬間、ゼニスさんの表情が変わった。

 

「……あら」

 

「どうです?」

 

「魔石ね」

 

 杖の先端には、淡い緑色を帯びた魔石が埋め込まれている。

 

 ただ先端に取り付けただけではない。

 

 風狼の骨を細く削り、それを幾重にも絡ませることで魔石そのものを包み込むように固定している。魔石の根元には革も使われており、骨、魔石、革の三つが一つの意匠として美しくまとまっていた。

 

 ゼニスさんは魔石へ指を近づけ、しばらく眺めていた。

 

「……これ、誰に作ってもらったの?」

 

「チェイン・プロキオンって人です」

 

「…………え?」

 

 ゼニスさんが顔を上げた。

 

「今、なんて言ったの?」

 

「チェイン・プロキオンです」

 

「チェイン・プロキオンって……あの?」

 

「俺はその人しか知らないですけど」

 

「……嘘でしょう」

 

 ゼニスさんが杖を持ったまま固まった。

 

 パウロさんが不思議そうに眉を上げる。

 

「知ってるのか?」

 

「知ってるも何も……」

 

 ゼニスさんは杖を見つめたまま、少し興奮したように言った。

 

「アスラ王国でも有名な杖職人よ。魔術師なら、一度くらい名前を聞いたことがある人だもの」

 

「そんなに?」

 

「ええ。特に魔術師の間では有名よ。魔力の伝導効率や属性との適性まで細かく考えて、その人間に合わせた杖を作ることで知られているの。腕が良すぎて、普通の魔術師じゃ注文すら難しいって聞いたことがあるわ」

 

 俺は杖を見つめる。

 

 あの説教臭い爺さんが。

 

「……あの爺さん、そんな有名人だったのか」

 

「爺さんって……」

 

 ゼニスさんが苦笑する。

 

「むしろ、よく作ってもらえたわね」

 

「風狼の素材を持っていったら作ってくれました。最初は俺の話を全然信じてなかったですけど」

 

「でしょうね」

 

「でも、素材を見たら態度が変わってました」

 

「それはそうでしょうね」

 

 ゼニスさんは納得したように頷いた。

 

「風狼の素材なんて、普通は簡単に手に入らないもの」

 

 そう言って、もう一度杖を眺める。

 

「それに……」

 

 ゼニスさんの指が、杖の先端にある魔石へ触れる。

 

「これ、かなり丁寧に作られてるわ」

 

「やっぱり凄いんですか?」

 

「ええ。魔石だけじゃない。杖そのものが魔力を通すことを前提に作られている」

 

「へぇ……」

 

「風狼の骨は風属性との親和性が高い素材だけど、この杖は風だけに特化させているわけじゃないみたいね。火、水、土、風……どの系統の魔術にも対応できるように調整されている」

 

 ゼニスさんの声が次第に弾んでいく。

 

 魔術師だった頃の知識を思い出しているのだろう。

 

「でも、その上で風属性との相性が特に良くなるように作られている。だから風魔術を使う人が持てば、魔力の伝達がかなり良くなるはずよ。威力だけじゃなく、制御もしやすくなると思う」

 

「シルフィにぴったりですね」

 

「ええ」

 

 ゼニスさんが微笑む。

 

「むしろ、シルフィのためにあるような杖ね」

 

 そこで俺は、箱の底にもう一枚紙が残っていることに気がついた。

 

「……これ、なんだ?」

 

 取り出してみる。

 

 一枚は手紙。

 

 もう一枚は、何やら正式な書類だった。

 

 まず手紙を開く。

 

 そこには、いかにもチェインらしい簡潔な文章が書かれていた。

 

 ルーク殿

 

 注文の品は完成した。

 

 依頼された風狼の素材は全て使用している。
 骨だけではなく、魔石も同じ風狼から採取したものを加工した。

 

 全ての属性魔術に対応するよう調整したが、風狼の素材そのものが風属性との親和性に優れているため、特に風魔術に対して高い魔力伝達性能を持つ。

 

 扱う者の技量次第では、相当な力を引き出せるだろう。

 

 銘は──

 

 翠狼の杖(ヴェントルプス)

 

 大切に使わせるように。

 

 チェイン・プロキオン

 

「……らしいですね」

 

「ふふ」

 

 ゼニスさんが笑う。

 

「いかにもチェインらしい文章だわ」

 

「知ってるんですか?」

 

「直接会ったことはないけど、杖職人としての名前は知ってるもの」

 

 続いて、もう一枚の書類を開く。

 

 そこには製作者の名前、製作日、杖の銘、使用素材などが細かく記されていた。

 

 そして最後に、大きく一文。

 

 本杖は一頭の風狼より得られた素材のみを用いて製作された一点物である。

 

「一点物……」

 

 思わず声が漏れた。

 

「ええ」

 

 ゼニスさんが頷く。

 

「それなら、なおさら大切にした方がいいわね」

 

「……そんなに凄いものなんですか?」

 

 俺が尋ねると、ゼニスさんは少しだけ真面目な顔になった。

 

「ルーク」

 

「はい」

 

「これは、ただの子供用の杖じゃないわ」

 

 杖を俺へ返しながら、ゼニスさんははっきりと言った。

 

「きちんと手入れをして、無茶な使い方さえしなければ──これは一生使えるものよ」

 

「一生……」

 

「ええ」

 

 ゼニスさんのお墨付きだった。

 

「シルフィがこれから魔術師として成長しても、この杖が役に立たなくなることはないでしょうね。むしろ、本人が成長して技術を身につければ身につけるほど、この杖の良さが分かってくると思う」

 

 その言葉を聞いて、俺は改めて杖を見る。

 

 一生。

 

 十歳のシルフィが今使うためだけじゃない。

 

 これから何年も、何十年も。

 

 シルフィが魔術師として強くなっていく、その時間そのものを、この杖は支えてくれる。

 

「……それなら、作ってもらってよかった」

 

「高かったの?」

 

「まあ……そこそこ」

 

 俺が曖昧に答えると、ゼニスさんは少しだけ笑った。

 

「でも、いいものだと思うわ」

 

「はい」

 

 俺は杖を箱へ戻した。

 

「じゃあ、そろそろ行ってきます」

 

「シルフィに渡すのね?」

 

「はい」

 

「きっと喜ぶわ」

 

「俺もそう思います」

 

 

 

 

 

 その日の昼──。

 

 俺は昼食を終えると、自分の部屋に置いていた木箱を抱えて家を出た。箱の中には、二週間前にロアで注文した一本の杖が収められている。もう一度だけ中身を確認して、傷がないことも、チェインが書いた証明書と手紙が揃っていることも確かめていたが、それでもシルフィへ渡す瞬間が近づくにつれて、妙な緊張が胸の奥に湧いてきた。別に自分が作ったわけでもないのに、あの職人が「最高の杖を作る」と言って仕上げたものを、いざ人へ渡すとなると、どうしても相手の反応が気になってしまう。

 

 シルフィの家へ向かう道を歩きながら、俺はゼニスさんに言われた言葉を思い出していた。

 

 ──これは一生使えるものよ。

 

 魔術師だったゼニスさんが、あれほど嬉々として杖を調べていたのだから、その評価は間違いないのだろう。チェインの名前を聞いた時の驚き方を思い返しても、あの老人が単なる腕のいい職人というわけではないことは、俺にも少し分かった。風狼の素材を見た瞬間から、俺の話が本当かどうかなどどうでもよくなったようなあの目を思い出すと、むしろ完成した杖を本人に見せてみたいという気持ちすら湧いてくる。

 

 そんなことを考えているうちに、いつもの場所へ着いた。

 

「ルーク!」

 

 先に俺の姿を見つけたシルフィが、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくる。昨日はロアへ行っていたから、会うのは二日ぶりだ。たった一日空いただけなのに、いつもの顔を見ると妙に安心するあたり、俺もすっかりこの村での生活に馴染んだらしい。

 

「お待たせ、シルフィ」

 

「ううん。今日は特訓する?」

 

「その前に、一つ渡したいものがある」

 

 俺がそう言って木箱を持ち上げると、シルフィは不思議そうに首を傾げた。箱は細長く、見るからに何かの道具が入っていることは分かるだろうが、昨日までの俺が何をしていたのか知らない彼女には、それが何なのかまでは想像できないらしい。

 

「……なに、これ?」

 

「開けてみて」

 

「ボクに?」

 

「ああ」

 

 シルフィは恐る恐る木箱を受け取ると、膝の上へ置いた。いつもならもっと勢いよく何でも開けてしまう彼女が、今日は妙に慎重なのが少し面白くて、俺は黙ってその様子を眺めることにした。留め具を外し、蓋を開けると、まず中に敷かれた布が現れ、その下から白く磨かれた杖の一部が覗く。

 

「……杖?」

 

「そう」

 

 シルフィは布をゆっくりと取り除いていく。

 

 そして、その全貌が姿を現した。

 

「…………」

 

 声が止まった。

 

 俺は昨日、家族全員に見せた時にも同じ反応をされたことを思い出しながら、シルフィの表情を見つめていた。

 

 杖の長さは五十センチから六十センチほどで、十歳のシルフィが片手で扱うにはちょうどいい。風狼の骨を削り出した軸は、ただ真っ直ぐに伸ばされているわけではなく、風が渦を巻きながら流れていくような緩やかな曲線を描いている。骨の表面は徹底的に磨かれており、元が魔物の骨だとは思えないほど滑らかで、白を基調とした色合いの中に淡い灰色と緑色の光沢が浮かんでいた。中央より少し下には、手に馴染むよう柔らかな革が丁寧に巻かれ、その革の色と骨の白さが互いを引き立てることで、派手すぎない上品な雰囲気を作り出している。

 

 そして先端には、シルフィの拳ほどの一つの魔石が埋め込まれていた。

 

 淡い緑色をした魔石は、まるで内側から光を宿しているように透明な輝きを放っている。その周囲を風狼の骨が細く削られた状態で絡み合い、魔石を包み込むように固定しているため、魔石そのものが杖の装飾の一部になっていた。骨と魔石と革、その三つがそれぞれ別の素材であることを感じさせないほど自然に一体化しており、武器というよりも一人の職人が時間を掛けて完成させた工芸品を見ているような美しさがある。

 

「……綺麗」

 

 ようやくシルフィの口から出てきたのは、それだけだった。

 

「だろ?」

 

「うん……すごく綺麗。これ、本当に杖なの?」

 

「杖だよ。ちゃんと魔術に使える」

 

 シルフィは両手で持ち上げ、角度を変えながら何度も眺めていた。先端の魔石を覗き込んだかと思えば、今度は軸を指先で撫で、革の巻かれた持ち手を握り直す。その一つ一つの動作があまりにも嬉しそうで、俺は自然と笑ってしまう。

 

「風狼の素材で作ってもらったんだ」

 

「……風狼?」

 

「覚えてるだろ? この前、俺たちで倒したやつ」

 

 シルフィの表情が変わった。

 

「……あの風狼の?」

 

「ああ。骨だけじゃなくて、魔石も同じ風狼のものらしい」

 

 シルフィは先端の魔石を見つめ、それからもう一度、杖全体を眺めた。

 

「じゃあ……これ、あの時の風狼が……」

 

「そういうこと」

 

「ボクとルークが一緒に倒した……」

 

「ああ」

 

 その言葉を聞いたシルフィは、杖を握る手に少しだけ力を込めた。

 

 俺は箱の中に残っていた手紙を取り出すと、それも一緒に渡した。

 

「それと、これも」

 

「なに?」

 

「作った人からの手紙。それから、証明書」

 

「証明書?」

 

「誰が作った杖なのか、それと何の素材を使ったのか書いてある」

 

 シルフィは手紙を受け取ったものの、文字を読むより先に俺の顔を見た。

 

「……誰が作ったの?」

 

「チェイン・プロキオンっていう人」

 

「チェイン……?」

 

「凄い杖職人らしい。ゼニスさんが名前を聞いた瞬間に驚いてたくらいだから、かなり有名なんだと思う」

 

「そんな人が……ボクの杖を?」

 

「ああ」

 

 シルフィはしばらく黙ったあと、手紙を胸元へ寄せるようにして大切そうに持った。

 

「……読んでもいい?」

 

「もちろん」

 

 シルフィが手紙を開く。

 

 俺も横から一緒に覗き込む。

 

 そこには、チェインらしい簡潔な文章が書かれている。風狼の骨だけではなく魔石まで同じ個体から採取した素材を使っていること、全属性の魔術に対応するよう調整したこと、そして風狼の素材が持つ性質から、特に風魔術との親和性が非常に高くなるよう仕上げたことが記されている。

 

 最後に、杖の銘が記されていた。

 

 翠狼の杖(ヴェントルプス)

 

「…… 翠狼の杖(ヴェントルプス)

 

 シルフィが小さく名前を読み上げる。

 

「いい名前だと思う」

 

「うん……」

 

 シルフィはその名前を何度か口の中で転がすように呟いた。

 

 続いて証明書へ目を通す。そこにはチェイン・プロキオン本人の名前と製作日、使用した素材、杖の性質などが正式に記されており、その最後には、この杖が一頭の風狼から得られた素材のみを使って製作された一点物であることまで記されていた。

 

 シルフィは読み終えると、しばらく何も言わなかった。

 

「……一点物なんだ」

 

「そうみたいだな」

 

「じゃあ、同じのはもうないんだ」

 

「ああ」

 

「……ボクだけの杖?」

 

「うん。シルフィのために作った」

 

 その言葉を聞いた瞬間、シルフィの瞳が僅かに揺れた。

 

「……ありがとう、ルーク」

 

「どういたしまして」

 

「本当に……ありがとう」

 

「そんなに気に入った?」

 

 俺が少し笑いながら尋ねると、シルフィは何度も頷いた。

 

「うん。すごく嬉しい。こんなに綺麗な杖、初めて見たし……何より、ルークと一緒に倒した風狼の素材なんだよね」

 

「そうだな」

 

「だったら、大切にする」

 

「大切にしてくれるのは嬉しいけど、ちゃんと使ってくれよ。杖は飾るためのものじゃないから」

 

「うん。いっぱい使う」

 

 シルフィはそう答えると、杖を握り直した。

 

 その仕草を見ていると、昨日ゼニスさんが言っていた言葉が改めて頭に浮かぶ。

 

 ──これは一生使えるものよ。

 

 今はまだ十歳。

 

 魔術師としても、まだ成長途中だ。

 

 それでも、この杖はきっとシルフィがこれから先、何度も魔術を使い、失敗し、成功し、強くなっていく時間をずっと傍で見届けることになる。風狼の素材を使った一点物というだけではなく、俺たちが初めて本当の意味で互いを信じて戦った日の記憶まで、その中に刻まれているような気がした。

 

「じゃあ……早速使ってみる?」

 

「いいの?」

 

「そのために渡したんだから」

 

 シルフィは嬉しそうに笑うと、少しだけ距離を取って杖を構えた。先ほどまで大切な贈り物として抱えていた杖を、今度は魔術を使うための道具として握る。その切り替えが妙にシルフィらしくて、俺は少しだけ笑いながら後ろへ下がった。

 

「いつもの風翔(シルフィード)でいいぞ」

 

「うん!」

 

 シルフィが杖へ魔力を流す。

 

 先端の魔石が、淡い緑色の光を帯びた。

 

 次の瞬間、足元から風が巻き上がり、シルフィの身体がふわりと地面から浮かび上がる。緑色の髪が風に舞い、白く磨かれた風狼の骨が太陽を受けて淡く輝く。その姿は、まるで杖そのものがシルフィの風魔術に呼応しているようにも見えた。

 

「……どう?」

 

 空中からシルフィがこちらを見下ろす。

 

 俺は少しだけ考えてから、素直に答えた。

 

「凄く似合ってるよ、シルフィ」

 

「……えへへ」

 

 シルフィは嬉しそうに笑った。

 

 その手には、翠狼の杖(ヴェントルプス)

 

 風狼から生まれたその杖は、今日からシルフィのものになった。

 

 




チェイン・プロキオン
アスラ王国を中心に活動する、世界でも屈指の杖職人。年齢は60代後半から70代ほど。長年にわたって魔術師の杖を作り続けており、王族や大貴族、名の知れた魔術師からの注文を受けることもある。特に「素材が持つ性質を最大限に引き出す杖作り」に関しては右に出る者が少なく、杖職人の間では一種の伝説として扱われている。
ただし、その名声に反して本人は非常に気難しい。
客の身分や金銭にはあまり興味を示さず、「自分が納得できる杖を作れるか」を何よりも重視する。依頼人がどれほどの大貴族であっても、素材や設計に納得できなければ平然と断る一方で、面白い素材を持ち込まれれば、相手が子供であろうと平民であろうと態度を変えて工房へ籠もる。本人にとって杖は商品ではなく、素材と魔術師の間を繋ぐ一つの作品であり、自分の技術を証明するためのものでもある。
そのため、チェインの工房では「金額によって杖の出来が変わる」ということはない。むしろ本人が素材に興味を持った場合、採算を度外視して製作に没頭することすらある。

チェインはルークが訪れる少し前、ルーデウス・グレイラットのための杖「アクアハーティア」を製作していた。
この杖の出来が、チェイン自身にとっても非常に満足のいくものだった。
アクアハーティアは、水系統の魔術を主軸とするルーデウスのために作られた杖であり、素材の選定から魔石の配置、魔力の通り道まで徹底的に調整された一点物。完成した杖を最後に手にしたチェインは、長年職人を続けてきた中でも珍しいほどの満足感を覚えた。
自分が作った杖を眺めながら、しばらく機嫌が良かった。
そのため本来ならすぐにアスラ王国の主工房へ戻る予定だったところを変更し、しばらくロアに滞在することにした。
これが、ルークにとっては幸運だった。
チェインの主な工房はアスラ王国にある。彼の名声を考えれば当然であり、普段はそちらを拠点として仕事をしている。しかし、チェインは長年ロアでも仕事をしていたことから、街の一角に自分名義で借りている工房兼店舗用の物件を持っている。
普段から常駐しているわけではないものの、素材の受け取りや簡単な加工、短期間の仕事などに使えるよう維持している。
そしてアクアハーティアを完成させたことで上機嫌だったチェインは、そのままロアに滞在していた。
そこへ現れたのがルークだった。

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