膝をついたユメ先輩の指先が、静かに波紋を広げた。幻でも蜃気楼でもない。指先から伝わる冷たさに息を呑んだ先輩は、確かめるように、ゆっくりと、震える両手をそのまま手首の深さまで青い水へと沈めていった。
砂漠の照りつける太陽とはまるで違う、澄み切った地下水の冷気。ユメ先輩は両の手のひらで、掬い上げるように水を持ち上げた。
指の隙間からポタポタとこぼれ落ちる透明な雫が、陽光を弾いてキラキラと七色に輝く。それを瞬きすら忘れた様子で、じっと、ただじっと見つめていた。
かつてのアビドスを象徴していた、豊かな大オアシス。
砂嵐が吹き荒れ、豊かな緑が枯れ果て、仲間たちが一人、また一人と去っていった。残されたのは天文学的な借金の数字と、日に日に校舎を飲み込んでいく容赦のない砂の山。
どれだけ前を向こうとしても、どれだけ笑顔で生徒会のノートを抱きしめても、現実は容赦なくユメ先輩の肩へ重くのしかかり続けていたはずだ。
それでも先輩は笑っていた。一人きりになっても、いつか昔のような賑やかなアビドスを取り戻せるのだと、自分に言い聞かせるように。
そのすべてが――また一つ、報われたのだ。
「…………っ」
両手の中の水が指の間からすべて零れ落ちた瞬間、ユメ先輩の胸の中で何かが決壊した。バシャッと水飛沫をあげて立ち上がったかと思うと、先輩はそのまま全力疾走で砂浜を駆け上がり、真正面から俺の胸元へと突っ込んできた。俺の胸に柔らかな質量が正面から衝突する。
「うおっ!?」
「んなっ!?ゆ、ユメ先輩!?」
横で呆然と立ち尽くしていたホシノが、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
だが、当のユメ先輩は周囲の声など一切耳に入っていない様子で、水着越しに俺の首元へ腕を回し、全体重を預けるように思いっきり抱きついてきた。
突然のゼロ距離ハグ。視界いっぱいに広がる濡れた緑色の髪の匂いと、制服の生地越しですら否応なしに主張してくる規格外の柔らかさに、俺の脳内は一瞬でショートしかけた。いくらなんでも刺激が強すぎる。
「あ、あの……ユメ先輩?ちょ、ちょっと近――」
たじろぎながら身体を引こうとした俺は、言葉を喉の奥に引っ込めた。
腕の中のユメ先輩が、小刻みに、激しく震えていた。俺の胸板に顔を強く押し当てたまま、先輩は溢れ出るものを必死に押し殺すように、けれど抑えきれずに嗚咽を漏らしていた。
「ありがとう……っ、ありがとう、ショウくん……っ!」
濡れた制服の胸元に、先輩の温かい涙が滲んでいく。
「お水が……お水が戻ってきたよぉ……!わたし、水がどーんって出たらいいななんて、適当なこと言ってたのに……本当に、本当にお水を……アビドスに、オアシスを連れ戻してくれた……っ! ずっと、ずっと夢見てた景色なんだよぉ……っ!」
感情が完全に飽和して、情緒がぐちゃぐちゃになっているのだろう。言葉を選ぼうとしては詰まり、もどかしそうにしゃくりあげながら、それでも先輩は必死に感謝を伝えようとしていた。
絶望の淵で、どれだけ怖かっただろうか。
どれだけ心細い暗闇の中で、この青い水と笑顔の満ちる未来を信じ続けようと必死にしがみついてきたのだろう。俺は小さく息を吐き出すと、邪念を頭から振り払い、両腕を回して震える背中を優しく、しっかりと抱きしめ返した。
「……言ったでしょう。俺とホシノとユメ先輩なら、どうとでもなるって」
その光景を、ホシノはただ立ち尽くして見つめていた。
あの日から、ホシノはずっとユメ先輩の背中を見てきた。
お人好しで、抜けていて、誰よりも傷つきやすいのに、決して諦めようとしない先輩。
どれだけ頑張っても借金は減らず、砂は容赦なく学校を埋めていく。
ホシノ自身、先輩を放っておけないからと必死に戦い続けながらも、心のどこかでは冷めた諦めを抱えていたはずだ。いつかこの人はポッキリと折れてしまうんじゃないか。この残酷な砂漠で、自分たちの足掻きになんの意味があるのかと。
けれど――目の前には、見渡す限りの青い湖が広がっている。
同じ1年生として入学してきた型破りな同級生・ショウがやってきてから、カツカツだった利息の絶望が吹き飛び、手も足も出なかったはずの砂漠の底から、失われたはずの奇跡が泥臭く掘り起こされた。
諦めなくて、よかったのだ。
ユメ先輩のしてきたことは、何一つ無駄じゃなかったのだ。
自分たちが足掻いてきた日々は、ちゃんと未来へ繋がっていたのだと。
「…………ぅ」
ホシノのオッドアイに、大粒の涙がみるみるうちに溜まっていく。鼻を赤くし、唇をぎゅっと噛み締めて堪えようとしたが、もう限界だった。
「わ、私だって……っ!」
耐えきれなくなったホシノが、トタトタと駆け寄ってきて、ユメ先輩を抱きしめている俺の背中に向かって、ドスンと勢いよく飛びついてきた。
細い腕が俺の腰に回され、小さな顔が背中の布地に力いっぱい埋められる。
「おいおいおいおい!?」
前からはユメ先輩、後ろからは同級生の相棒。
前後を水着姿の美少女に挟まれるという、本来なら鼻血を吹いて気絶してもおかしくない状況だったが、背中に伝わってくる震えと熱を感じた瞬間、そんな軽薄なツッコミは完全に吹き飛んだ。
「うわああぁぁぁぁんっっ!!よかった……っ、本当によかったぁぁ……っ!!」
「ひぃん……っ、ホシノちゃん……っ、ショウくん……っっ!」
ユメ先輩は俺の胸の中で、ホシノは俺の背中にしがみついて、二人揃って子どものようにわんわんと声を上げて泣き始めた。
大好きな二人が目の前で笑い合える未来が見えたことへの安堵。
アビドスが本当に救われるのだという、眩しすぎる希望の光。
これまで必死に張り詰めていた心の糸が、温かな涙となって一気に解けていく。
砂浜に放り出されていたペロロが、真似するように足元に歩み寄り、だらしなく舌を出したまま気の抜けた声で俺たちの足首にすり寄ってきた。
俺は呆れ混じりに、けれどどうしようもなく口元を綻ばせた。
「……たく、泣き虫な先輩と、手のかかる相棒だな」
俺は足元を踏みしめて体勢を立て直すと、胸の中で泣きじゃくるユメ先輩の緑の髪を、そして背中にしがみついて離れないホシノのピンクの頭を、大きな掌でゆっくりと、優しく撫で下ろした。
太陽に照らされたサファイアの湖面が、穏やかな波を揺らしている。砂漠を吹き抜ける風は、もう二度と、冷たくはなかった。
「う、うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
我に返ったホシノが、茹でダコのように真っ赤に沸騰した顔を両手で覆い、突然すさまじい絶叫を上げた。同級生にしがみついて号泣した羞恥心で限界を迎えたらしく、そのまま派手な水柱を上げてオアシスの中へ頭からダイブしていった。
「あはは!ホシノちゃん、お水気持ちいい〜?」
「ぷはっ!ユ、ユメ先輩、笑ってないで来てください!ショウ、あなたもです!今の泣き顔、絶対誰にも言うんじゃないですよ!!」
水面から顔を出したホシノがバシャバシャと水飛沫を飛ばしてくる。
開き直った少女の勢いに押されるように、俺とユメ先輩も水着と制服のまま湖へと雪崩れ込み、そこからは文字通りの大水遊び大会が始まった。
最初は他愛のない水の掛け合いだったが、俺が調子に乗って津波のようなビッグウェーブを巻き起こして二人を押し流すと、事態は一変した。
「ユメ先輩、あいつ調子に乗ってます!挟み撃ちにしますよ!」
「おーっ!」
即席の先輩後輩同盟が結成され、水着姿の二人に飛びつかれ、頭から沈められる猛烈な仕返しを食らう羽目になった。もちろん痛くも痒くもないが、コロコロ笑いながら転げ回る二人に合わせてわざと派手に負けてみせる。
さらに二人にねだられ、俺はヘイローの神秘を湖水に流し込んで『水流ウォータースライダー』を組み上げた。
階段などなくとも、足元から湧き上がる水流がエレベーターのように身体を自動で空中高くへと持ち上げ、そこから摩擦ゼロの激流コースを一気に滑走する。
「きゃああああああっ!?」
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ、速い速い速いっっ!!」
ジェットコースター並みの初速で湖面へと勢いよく射出され、二人揃って悲鳴と歓声を響かせながら水しぶきを上げた。
遊び疲れた後は、なぜか湖水を吸って巨大な浮き輪のようにボヨヨンと膨らんだペロロの上に三人で並んで寝そべった。
「ぺろ〜……」
「気持ちいいですね〜」
「ほんと〜」
気の抜けた鳴き声を上げるペロロの背中に揺られながら、ぷかぷかと青空を見上げる時間は、砂漠の暑さを忘れさせるほど心地よかった。
「そういや、あれを持ってきていたな。……試してみるか」
ふと、アビドス高校を出る前に荷物へ放り込んできた『ある物』の存在を思い出した。
俺はペロロから湖畔へと上がり、荷物の中から小さな布袋を取り出して、水打ち際の湿った砂地へ向かった。適当な深さに指で穴を掘り、袋の中身を落とし込む。
「……ショウ? 何をしてるんですか?」
背後から水音を立てて、ホシノが歩み寄ってきた。
振り返った瞬間、俺の心臓がトクンと不自然に跳ねた。
滴る水滴が砂漠の傾いた陽光を浴びて、琥珀色にキラキラと輝いている。濡れて肌に張り付いたピンクの長髪と、普段のぶっきらぼうな鎧を脱ぎ去ったような、年相応のあどけない素顔。湖から上がったばかりの姿に、俺は思わず言葉を詰まらせ、誤魔化すように手元の砂を撫でた。
「……あー、いや。これ、前に柴大将に教えて貰って、買ってきたアカシアの木の種だ」
「アカシア……の木ですか?」
「ああ。オアシスに水が戻ったんだから、周りに緑があった方がそれっぽいだろ? ほら、土が痩せてても、俺のヘイローの破片を一緒に埋めておけば……もしかしたら奇跡的に育つかもよ?」
俺は指先で毟った極彩色のヘイローの欠片を、種と一緒に穴底へ放り込み、笑いながら砂を被せた。
半分はただの願掛けであり、冗談交じりの思いつきだった。
だが、覗き込んできたホシノの表情は、まったく笑っていなかった。
(……ヘイローを混ぜた……? あの、撃てば因果が狂い、食わせればぬいぐるみが歩き出し、殴れば地層を砕くデタラメの塊を……?)
ホシノのオッドアイが、何とも言えない戦慄を宿して引きつっている。
ここまで散々ショウの巻き起こす怪異を目の当たりにしてきた相棒にとって、それは「奇跡」などという生易しい言葉では片付けられない、嫌な予感の塊でしかなかった。
「……ショウ」
「ん?」
「……そ、そうなればいいですね。緑豊かなアビドス、素敵じゃないですか、あはは……」
善意でやってくれていることだし、アビドスを思っての行動なのは痛いほど分かる。だからこそホシノはツッコミを入れることもできず、引きつった乾いた笑みを浮かべて、そっと一歩後ずさるのが精一杯だった。
そうこうしているうちに、空はいつの間にか茜色へと染まり始めていた。
名残惜しさを覚えつつも俺たちはジープへ荷物を積み込み、復活した大オアシスを後にした。
地平線を真っ赤に焼き尽くす壮大な夕日をバックに、オープンジープが砂煙を上げて快調に疾走していく。
フロントガラスを吹き抜ける夕暮れの涼風を浴びながら未来の展望を話していく。
「次はバーベキューの道具を持ってきましょう!」
「いいねぇ、釣竿も持ってこなきゃ!」
前の席でユメ先輩とホシノの声がいつまでも賑やかに響いていた。
借金に追われ、砂に埋もれかけていたアビドスの未来に、確かに大きな希望の光が差した一日。
ワイワイと興奮冷めやらぬ車内で、俺もまた口元を綻ばせながら夕日を眺めていた。
――だが。
この時の俺たちは、つゆほどにも思っていなかったのだ。
水と、豊かな大地と、デタラメな神秘をたっぷり注ぎ込まれたあのアカシアの種が、一体どんなとんでもない大惨事を巻き起こすことになるのかを。
設定した時間に鳴るはずの目覚まし時計よりも早く、自然とパチリと目が覚めた。枕元のデジタル時計を見れば、表示はちょうど朝の五時を回ったところ。
昨日は一日中、砂漠の炎天下で穴を掘り、全力で走り回り、水着の二人と湖で派手に水遊びをし倒した。心地よい疲労感に背中を押されるように昨晩は泥のように眠ってしまったため、妙にすっきりと早起きしてしまったらしい。
「んーっ……」
ベッドの上に起き上がり、両手を組んで天井に向けて思いっきり背伸びをする。関節がポキポキと小気味よい音を立て、身体の奥から活力が湧いてくるのを感じた。よし、最高の朝だ。早起きしたついでに、今日一番の清々しい朝の光でも浴びて、朝飯のフレンチトーストの仕込みでもするか。
俺はご機嫌な足取りで窓辺へと歩み寄り、両手でカーテンの端を掴むと、勢いよくシャッと左右へ引き開けた。
朝日が、部屋いっぱいに差し込――俺の腕の動きが、完全に凍りついた。
「…………」
窓の外に広がる、見慣れたはずのアビドスの砂漠。遮るもののない開けた大地と、どこまでも平坦に続く地平線――そのはずだった。
だが、俺の視界を真っ先に埋め尽くしたのは、地平線などではなかった。
遥か遠く。昨日俺たちが訪れたはずの、あの『大オアシス』が存在する方角。何十キロも離れているはずのその場所に、天を突き刺すかのようにそびえ立つ、垂直の緑の柱。
いや、柱じゃない。
木だ。
遠近感を完全に狂わせるほど極太の幹が、砂漠の大地から天蓋へ向けて力強く隆起し、遥か雲を突き抜ける上空で、巨大な緑の傘のように縦にも横にも果てしなく枝葉を広げている。どう低く見積もっても、標高一キロメートルは下らない。
どこぞの神話やゲームに出てくる世界樹か何かのような超巨大樹が、元からありましたよ、といわんばかりに砂漠の真ん中に堂々と仁王立ちしていた。
「…………」
俺は無言のまま、スッとカーテンを閉めた。
深呼吸を一つ。
(……夢だな。昨日はしゃぎすぎて、まだ頭の回路が寝ぼけてるんだ)
自分にそう言い聞かせ、もう一度、ゆっくりとカーテンを開けてみる。
ある。
雄大に葉をざわめかせながら、朝日を浴びて神々しく輝く一キロ級の巨木が、相変わらずそこにある。
スッ、とカーテンを閉める。
目をゴシゴシと力いっぱい擦る。目薬を差す。そして三度、勢いよくカーテンを開ける。
やっぱりある。
小鳥の群れらしき米粒のような影が、その超巨大な枝の周りを優雅に旋回しているのが見えた。幻覚にしては解像度が高すぎる。
俺は三度目のカーテンを隙間なくピッチリと閉め切り、部屋の薄暗がりの中で立ち尽くした。
「……嘘だろ」
冷や汗が頬を伝った、その瞬間だった。静まり返った自室に、けたたましい電子音が鳴り響いた。
机の上に置いてあったスマホが、激しく振動しながら青い光を点滅させている。
「うおっ!?」
あまりのタイミングの良さに心臓が跳ね上がった。画面を覗き込むと、表示されていたのは登録名『黒服』の文字。
焦りからか、通話ボタンを押した俺の第一声は、自分でも驚くほど声が裏返って大きくなっていた。
「も、もしもし!?」
『――クックックッ。いやはや、実に元気なご挨拶ですね、円ショウさん』
スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、喉の奥を鳴らして笑いを必死に噛み殺している、あの不気味な黒男の声だった。
『素晴らしい朝ですね。たった今、こちらの観測ドローンがアビドス自治区の上空をとらえましてね。……何やら砂漠のど真ん中に、生態系を根本から否定するような、天を突く巨大樹が突如として生え散らかしているのを確認したのですが。……ククッ、円ショウさん。あなたですね?』
絶対に肩をプルプル震わせながら電話してきているだろ。嫌味かコイツ。
「……何で俺だって決めつけるんだよ」
『他に誰がいるというのです?アビドスでそのような物理法則のバグを息を吐くように引き起こせる生徒など、キヴォトス広しといえどもあなた一人しかいませんよ。……さて、何があったのです? ぜひとも詳しくお聞かせ願いたいものですね』
隠してもどうせバレる。観念した俺は、昨日大オアシスで起きた一連の出来事を、ベッドの端に腰掛けながら黒服へ洗いざらい話した。
ジープで宝探しに行ったこと。
途中で拾った青い石や逆刃刀、光る立方体などの得体の知れないガラクタの話になると、黒服は電話越しに『ほう……! それは極めて興味深いオーパーツの数々だ。ぜひ近いうちに実物を見せていただきたいものですね』と研究者らしい前のめりな食いつきを見せた。
そして、話が大オアシスの地下水脈を掘り当てる下りに移り、俺が拳にヘイローの神秘を直接収束させて極厚の岩盤を一撃で叩き割ったことを話した瞬間――
『……なんと!』
黒服が息を呑み、椅子から立ち上がったような物音が響いた。
『あなた自身の意志で、体内の膨大な神秘を一点へ圧縮し、純粋な打撃現象へと変換したのですか!?素晴らしい……!これまでは道具への変形や事象への微量な干渉に留まっていたあなたの神秘が、明確な指向性を持って肉体へと同調し始めている……!これもまた実に素晴らしい結果……!』
いつも以上に早口でまくし立て、狂喜乱舞する黒服。だが、その熱狂的な称賛も、俺が最後に口にした一言でピタリと止まることになった。
「……で、水が戻って嬉しかったから、オアシスの縁の湿った砂地に、アカシアの木の種を植えたんだよ。土が痩せてるから、育ちやすくなるように俺のヘイローの破片をちょっと混ぜて」
『…………』
通話の向こう側が、水を打ったように静まり返った。
十秒。二十秒。あまりの沈黙に、回線が切れたのかとスマホの画面を確認したほどだ。やがて――受話器の向こうから、ゴクリと唾を呑み込む重苦しい音が響いた。
黒服が手元の書類をトントンと机に揃え、頭の中の情報を整理し直すような気配が伝わってくる。そして、一拍の間を置いて。
黒服は、笑気すら完全に消え失せた、極めて真剣で厳かな声色で語り始めた。
『……なるほど。すべての前提が繋がりました。ショウさん、私の【推理】をお話ししましょう――』
『……ショウさん。あなたはおそらく、ただの善意からその種を植えたのでしょう。ですが、その行為がキヴォトスの理においてどれほど恐ろしい【儀式の完成】を意味していたか……順を追ってご説明しましょう』
受話器の向こうで、黒服が咳払いを一つ挟んだ。
その声には、研究者特有の冷徹な知性と、未知の神秘を暴き立てる狂気じみた愉悦が混ざり合っていた。
『かつて、このキヴォトスとは異なる太古の記録――砂漠と大いなる河を巡る、とある失われた神話大系が存在しました。……その神話において、死と再生、大地に芽吹くあらゆる植物の繁栄を司る【冥府と植物の王】が存在したのです。……そう、緑の髪を揺らし、あの過酷な大地で命を繋ぎ止めようとする、あなたの敬愛する梔子ユメ生徒会長が秘める原初の神秘の根源ですよ』
「……ユメ先輩が、王……?」
『ええ。そしてもう一人、その王の系譜を継ぎ、天を統べる光の眼差しを持つ【天空の隼たる戦士】……小鳥遊ホシノさんの神秘もまた、同じ神話の頂点に君臨する存在だ。そして……あなたが植えたという【アカシアの木】。奇妙な符合だとは思いませんか? その古き神話において、命を落とした王の亡骸を優しく包み込み、天を衝く神木へと急成長を遂げたと伝えられる樹木……それこそが、アカシアなのですから』
背筋に冷たい汗が流れる。偶然にしては、あまりにもピースが揃いすぎていた。
『大オアシスという、かつて命を育み、長きにわたり乾ききっていた歴史ある土地。その地脈が奇跡の水によって息を吹き返した……これが環境的要因、全体の【1割】です』
黒服は淡々と、けれど確信に満ちた口調で続ける。
『そして、その復活した水辺に、【植物と再生の王】と【天空の戦士】という、神話の二大元型を宿した生徒が水着という無防備な姿で立ち会い、歓喜の涙と神秘の共鳴を大地へ零した。これが事象を成立させる舞台装置、全体の【2割】』
「……待て。残りの【7割】はどこへ行った」
嫌な予感しかしない問いかけに、電話の向こうの黒服は、クツクツと喉を震わせて笑った。
『お分かりでしょう? 残りの7割――いえ、この現象を神話の概念から物理現実のバグへと無理やり蹴り上げた最大の元凶は、他でもない【あなた】ですよ、ショウさん』
「俺ぇ!?」
『当たり前です!本来なら、神話の符合などただの浪漫や微弱な波長の一致で終わるはずだった。それを一夜にして一キロメートル級の巨木へと爆発させたのは、あなたが放り込んだ【七色のヘイローの破片】という規格外の触媒に他なりません!』
黒服の声が、熱狂を帯びて一段と高くなる。
『その失われた神話においても、【七】という数字は再生、完全、秩序の回復を意味する神聖不可侵の領域。あなたのその理不尽な七色の神秘が、アカシアの種とオアシスの水を媒介にして、梔子ユメ会長と小鳥遊ホシノさんの持つ神話的元型を限界まで励起させ、地上へ無理やり受肉させてしまったのです!土地が1割、二人の存在が2割、そしてあなたの神秘が7割……!完璧なまでの儀式の完成ですよ!』
「…………」
頭が痛くなってきた。要するに、良かれと思ってやった善意の種植えが、黒服の言う神話のパズルを完璧に組み上げてしまい、俺のヘイローが超高純度の核燃料として大爆発を引き起こした、ということらしい。
「……なぁ、黒服」
『はい、何でしょう?』
「あの木……どう見ても高さが一キロくらいあるんだが、あれ、アビドス的に大丈夫だと思うか?」
恐る恐る尋ねた俺に、黒服は心底楽しそうに、けれど哀れむような声で告げた。
『クックックッ……大丈夫なわけがないでしょう。砂漠の真ん中に突如として生えた、天を衝く世界樹と見紛うばかりの巨木。……今頃、アビドス高校の生徒会室では、小鳥遊ホシノさんがショットガンを片手に、貴方のせいだと考えている頃合いではありませんかね?』
通話の向こうで愉悦に浸る黒服の声を聴きながら、俺の脳内はかつてない速度でフル回転を始め
ていた。
今、このまま電話を切ればどうなるか。
火を見るより明らかだ。確実に十秒以内にホシノから怒髪天を衝く勢いのデスコールが鳴り響き、学校に着いた瞬間、問答無用でショットガンの銃口を突きつけられて尋問裁判が開廷するに違いない。
いくら頑丈で銃弾を弾くとはいえ、あの冷たいジト目と鋭いツッコミの嵐を一人で耐え切る自信は毛頭ない。
防波堤が必要だ。
俺の代わりに、専門的かつ客観的に「これは不可抗力である」と理論武装して説明してくれる存在が。しかも――多額の資金をアビドスに落としてくれている大事なお客様(筆頭スポンサー)であれば、いくら血気盛んなホシノでも無下には銃を乱射できないはず……!
「……黒服」
俺はベッドから立ち上がり、これ以上ないほど重厚で真剣な声色で受話器に向かって呼びかけた。
『おや、改まって何です?』
「頼む、後でアビドス高校の生徒会室に来てくれ……!報酬は弾む!」
『ほう……?私をアビドスへ呼び出すとなれば、それ相応の対価を期待してしまいますがね。何を提示していただけるのです?』
「昨日大オアシスで発掘した謎の出土品たちだ。あれをすべてお前に調べさせてやる。最低でもすべて目の前でじっくり見せてやるよ。……それに、もう一つ」
『……もう一つ、とは?』
「今まさに生え散らかしてる、あの標高一キロの木だ。元凶であるあのアカシアの巨木を、現地で一番近くから心ゆくまで調べる権利をやる」
受話器の向こうから、息を呑む気配と、ゾクゾクと震えるような狂喜の笑い声が返ってきた。
『ククッ……素晴らしい!未知のオーパーツの観測、さらには神話の受肉たる世界樹の直接調査権ですか……!…ええ、いいでしょう、乗りました。奇跡の観測者として、喜んでその法廷の証言台に立って差し上げましょう!』
交渉成立だ。電話を切った直後、ピロンと軽快な通知音とともに、モモトークの画面にホシノからの新着メッセージが表示された。
【送信者:ホシノ】
『今すぐ生徒会室に来てください。来ないなら、ショットガン1ダース分撃ち込みに行きます』
長文の罵倒よりも、極限まで削ぎ落とされた短文の方が圧倒的に恐ろしい。俺は背筋に走る悪寒を気合いでねじ伏せ、大急ぎで仕込んでおいたフレンチトーストを喉に流し込むと、生徒会室へと向かった。
午前九時。
普段は砂風の音しか聞こえないアビドス高校の生徒会室には、異様極まりない空気が張り詰めていた。室内にいるのは四人の人影。
一人は、困ったように眉を下げて引きつった苦笑いを浮かべているユメ先輩。
一人は、机の端で愛銃のショットガンを右手のひらにトントンとリズミカルに叩きつけ、絞首刑を言い渡す前の裁判官のような冷徹な視線を隠そうともしないホシノ。
一人は、その視線から逃れるように額からタラリと冷や汗を流している俺。ちなみにペロロはお留守番中。
そして――
「え、ええと……お茶です。どうぞ……」
「おや、これはご丁寧に。いただきます」
パイプ椅子に優雅に腰掛けていたのは、全身を包んでいたヘイロー粉末の効果が完全に抜け、元の漆黒のスーツとひび割れた黒球の頭部へと戻った黒服だった。
怪異そのものの様な見た目の漆黒の頭部を傾け、湯気の立つ湯呑みを両手で受け取ると、ズズ……と品よく音を立ててほうじ茶を口に含む。
「ふむ……茶葉の香ばしさの中に、潤すような深い甘みがありますね。実に素晴らしい淹れ方ですね。心が洗われるようですよ」
「えへへ、お口に合ってよかったです〜……」
和やかに茶をしばく黒服とユメ先輩。そのシュールすぎる光景の横で、ホシノの額に青筋がピキピキと浮かび上がっていた。
「……ユメ先輩、いくらアビドスに貢献してくれる人だとしても、敵か味方かも分からない怪しいスーツの不審者にお茶なんて出さなくていいですから。……それと加えてショウ、あなた何しれっとスポンサーを盾にして命拾いしようとしてるんですか」
「い、いや、専門家の意見を聞くのは組織として真っ当な危機管理だろ……?」
「どの口が言いますかねぇ……!」
「まあまあ、ホシノちゃん!」
ショットガンを握るホシノの手がギリリと音を立てる。
これ以上放置すると本気で火を噴きかねない空気を察したのか、ユメ先輩が両手を広げて間に割って入った。
「と、とりあえず! 今回の事件について、わたしから現状を整理して説明するね!」
生徒会長の号令で、ひとまず場が落ち着きを取り戻す。ユメ先輩は手元の手帳をめくりながら、ホワイトボードの前に立って神妙な顔つきで切り出した。
「まず、今朝起きた【アビドス大樹突如発生事件】の概要です!一つ目、昨日までは何もなかった砂漠の真ん中に、突如として標高一キロメートルはあろうかという超巨大な樹が発生したこと。二つ目、その樹が生えている場所が、昨日わたしたちが水を復活させたばかりの【大オアシス】のど真ん中であること」
ユメ先輩は内容をホワイトボードにペンで書いて纏めていき、最後にじろりと俺の方を振り返った。
「そして三つ目……ホシノちゃんからの証言によると、昨日オアシスから帰る直前、ショウくんが湖のほとりに【何かのアカシアの種】を植えていたのを見た、ということ」
ホシノのオッドアイが、細く鋭く俺を射抜く。
「……さらに四つ目です、ユメ先輩。現在、自治区の数少ない住民の皆さんや、商店街の店主さんたちから『あれは何事だ』『天変地異の前触れか』『アビドスの呪いなのか』と、問い合わせの電話がひっきりなしに鳴り止みません」
ホシノは再びショットガンの銃身を掌にポン、と叩きつけた。
「……さあ、円ショウ被告。言い残すことはありますか? 情状酌量の余地があるなら、三十文字以内で簡潔に述べなさい」
完全に逃げ場を塞がれた俺は、取り敢えず弁明するしかなかった。
「……善意、だったんだ……」
絞り出すような俺の告白に、生徒会室がシンと静まり返った。
「悪気は本当になかったんだ。オアシスに水が戻って、せっかくだから緑も増やそうと思ってだな……」
「……はぁ。そこは、分かってますよ」
ホシノは深くため息をつき、構えていたショットガンを下ろした。普段のショウの性格を考えれば、アビドスを困らせようとしてやったわけではないことくらい、ホシノも最初から百も承知なのだ。
問題は、そこではない。ホシノが本当に納得いっておらず、腸が煮えくり返っているのは――先ほど黒服の口から仰々しく語られた、あのトンチキな【要因の割合】についてだった。
「善意だったのは百歩譲って認めます!ですが、黒服の説明!あれは絶対に納得がいきません!!」
ホシノはバンッと机を叩き、黒服をビシッと指差した。
「私が神話のホルスだか何だか知りませんけどね!流石にショウと一括りにされては困るんですよ!ユメ先輩と二人分合わせただのなんだの言ってますけど、私たちに【2割】も責任があるだなんて断固として認めません!少なくとも私たちのせいじゃありません!!」
息を荒らげ、ホシノはさらに語気を強めてまくし立てる。
「9割ショウのせいなら分かります!1割が土地! それで計算はぴったりです!なんで私たちが巻き込まれなきゃいけないんですか!?この『キヴォトス一びっくり人間コンテスト総合優勝者』と一緒にされては困るんですよ!!」
「おい、流石にそれは酷くないか!?びっくり人間コンテストって何だ!誰が出場登録するかそんなの!!」
「出場しなくても満場一致で殿堂入りですよあなたは!!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる俺たち。
そこでホシノは味方を求めるように、隣でおろおろしているユメ先輩へとバッと振り返った。
「ユメ先輩はどうなんですか!? 冥府だか農業の王だか何だかおだてられて、ショウと同罪の2割扱いで納得できるんですか!?」
「えっ、わ、わたし!?」
急に矛先を向けられたユメ先輩は、胸の前で両手をパタパタと泳がせた。
そして、申し訳なさそうに視線を彷徨わせながら、人差し指の先をツンツンと合わせる。
「ええと……ショウくんの気持ちはすっごく嬉しいんだけど……でも、流石にショウくんと一緒の扱いっていうのは、ねぇ……?ほら、わたし、普通の女子高生だし……えへへ……」
「…………」
ガチでショックだった。
一番の味方だと思っていた優しいユメ先輩にまで、あからさまにやんわりと梯子を外された。胸のあたりにズスッと目に見えない矢が深々と突き刺さる。
「クックックッ……いやはや、実に仲がよろしいことで」
椅子に深々と座り直した黒服が、喉を鳴らしながら俺達の様子を心底愉快そうに笑っていた。責任の押し付け合いという極めて世俗的なホームコメディを繰り広げる生徒たちに、笑いのツボを完全に刺激されているらしい。
とはいえ――どれだけ騒ごうが喚こうが、起きてしまった現実は変わらない。
「……はぁ。まあ、偶然と事故が重なったとはいえ、生えてしまったものは仕方ありません」
ホシノが髪をかき上げ、ぐったりと肩を落とした。
「問題は、この件の責任を一体どうやって取るのか、そしてこれからどう収拾をつけるかです」
窓の外を見れば、朝日に照らされた標高一キロの世界樹が、神々しいまでの威容を誇って砂漠の彼方にそびえ立っている。
たった一人の一般男子生徒の善意のせいで、アビドス自治区どころか、今やキヴォトス全土の衛星監視網やネット掲示板、ニュースの話題を完全に独占してしまっているのだ。カイザーコーポレーションはもちろん、各学園の耳にも間違いなく入っている。
「どうにかして、この木が生えた理由を誤魔化せないかな……?」
俺が腕を組んで呟くと、三人で頭を寄せ合って隠蔽工作のアイデアを出し始めた。
「じゃあ……『昔から砂に埋もれていた古代樹が、オアシスの水で一瞬で水分を吸って元のサイズに戻っただけ』というのはどうですか?」
「ホシノちゃん、乾物じゃないんだから……。それなら、『アビドス高校の理科の実験で、すっごくよく育つ肥料を撒いちゃいました!』っていうのはどうかな?」
「ユメ先輩、理科の実験で標高一キロの木が生えたら、それはもうバイオテロですよ」
「じゃあ、『蜃気楼です、目の錯覚です』で押し通すか?」
「その節穴をくり抜いてやりましょうかショウ?」
散々知恵を絞ってみたものの、出てくるのは小学生の言い訳以下の珍妙なプランばかり。
砂漠の真ん中に突如として生えた巨木を誤魔化す方法など、常識人の頭で考えつくはずもなかった。
「……ダメだ、ろくな案が出ない」
「ですね。完全に手詰まりです」
三人揃って深いため息をつき、自然と視線が一点へと集まった。
パイプ椅子の上で、涼しい顔をして優雅にほうじ茶の最後の一滴を飲み干した、漆黒の怪人――キヴォトスの裏の理を知り尽くす知恵袋へと。
「……なあ、黒服」
「おや、話し合いは終わりましたか?」
俺たち三人の切実な眼差しを受け、黒服はひび割れた黒球の頭部をゆっくりとこちらへ向けた。
「……お前ならこういう時、どうやって事態をもみ消すんだ?」
俺が藁にもすがる思いで割と最低な事を尋ねると、黒服は空になった湯呑みを静かに机へ置き、首を傾げた。
「もみ消す?何をです?……そもそも、なぜあなたがたがわざわざ【自分たちが犯人である】と言い訳を用意する必要があるのですか?」
「は?」
「はい?」
拍子抜けするほどあっけらかんとした黒服の返答に、俺とホシノの声が綺麗にハモった。
黒服はパイプ椅子の背もたれにゆったりと身を預け、組んだ両手の人差し指をトントンと合わせながら、諭すように語りかけてくる。
「客観的に状況を整理してください。砂漠の真ん中に、一夜にして標高一キロメートルの世界樹が生えた。……いいですか?キヴォトス広しといえど、常識的な観測者や各学園の上層部が、これを【学生が個人的に種を植えて育てた】などと誰が想像しますか?」
「…………」
俺、ホシノ、ユメ先輩の三人は、その場でピタリと動きを止めた。
「人の手で起こせる現象か否かで言えば、百パーセント【否】です。仮にあなたがたが自首し、『実は私たちが種にヘイローを混ぜて一晩で一キロまで急成長させました』と正直に記者会見を開いたところで、連邦生徒会もカイザーも他校の首脳陣も、全員一致で『アビドスの生徒が暑さで集団幻覚を見ている』と結論づけるだけでしょう」
黒服の言葉が、目から鱗のように脳天へ突き刺さる。
……そうだ。
あまりにも目の前でショウのデタラメを見慣れすぎて麻痺していたが、普通に考えれば、こんな天変地異を生徒が引き起こせるはずがないのだ。
「なら、外部から原因を追及されたらどう答えるか。実に簡単な話です。……【よく分からないが、アビドスの古い土地に眠っていた神秘的な何かが、なんかこう、ドカンと溢れ出たのではないか】と、ふわふわした回答でお茶を濁してはぐらかせばよろしい」
「「…………あ」」
俺とホシノの口から、同時に間抜けな声が漏れた。
「……そ、そうだよねぇ!わたし達、何も悪いことしてないもんね!」
ユメ先輩がポンと手を叩き、パァッと顔を輝かせた。
「アビドスには昔から神話や不思議な言い伝えがいっぱいあるんだよ〜! 『大昔のオアシスの奇跡が、巡り巡って急に大爆発しちゃったみたいです!不思議ですね〜!』ってニコニコしてれば、誰も文句言えないよね!」
「……うへ〜、完全に盲点でした」
ホシノもショットガンを背中に戻し、やれやれと
首を振りながら口元をニヤリと緩めた。
「そうですよ。誰が生やしたかなんて、私たちが口を割らなきゃ絶対にバレません。『アビドスの神秘的な何かが、なんかこう、ドバッと溢れたんですよ〜』で押し通せばいいんです。問い合わせの電話が来たら、全部そのテンプレでガチャ切りしてやりましょう」
さっきまで俺を処刑台に送る勢いだった二人が、驚異的なスピードで手のひらを返し、完全犯罪の共犯者として意気投合し始めている。
「……お前ら、さっきまで俺を諸悪の根源だの、びっくり人間コンテストの優勝者扱いしてたくせに、切り替え早すぎないか?」
「何を言ってるんですかショウ。私たちアビドス生徒会は、いつだって一蓮托生ですよ」
「そうだよショウくん!みんなで守ったアビドスだもんね〜!」
すっかり肩の荷が下りた様子のユメ先輩が「お茶のおかわり淹れてくるね〜!」と給湯室へ向かい、ホシノは椅子の背もたれにだらしなく体重を預けて「ふぅ……一件落着、一件落着」と早くも二度寝の態勢に入りかけていた。
その現金すぎる姿に俺が呆れていると、パイプ椅子の黒服が、ひび割れた黒球の奥でクツクツと喉を鳴らした。
「クックックッ……素晴らしい危機管理能力です。これであの巨木は【アビドスに眠る古代の奇跡】として処理されることでしょう。……さて、ショウさん」
黒服が立ち上がり、ビシッとスーツの襟を正した。
「言い訳の道筋は示しました。……となれば、次は私の番ですね? 先ほどお約束いただいた発掘されたオーパーツの調査、そしてあの木の直接調査権……喜んで行使させていただきますよ」
「別に約束したからいいけどさ。……生徒会室のロッカーに放り込んであるから今すぐ見せられるとして、問題はあの木だ。あんなデカい代物、一体どうやって調査するつもりなんだ?」
俺が顎で窓の外の巨木を指すと、黒服は両腕を広げて至極落ち着いた様子で答えた。
「クックックッ、ご心配には及びませんよ。私の研究室が保有する多目的ドローンを飛ばし、遠隔で外皮や葉の一部をサンプルとして採取するだけですから。……あるいは、そうですね。ゲマトリアの同僚に【ベアトリーチェ】という方がいましてね。現在、彼女が私物化……失礼、統括している【アリウス分校】という学園から、使い捨ての……ゴホン、優秀な生徒たちの人手を借りて本格的な定点観測キャンプを設営させる、という手もありますが」
黒服はわざとらしく咳払いを挟むと、首を横に振って肩をすくめた。
「もっとも、ベアトリーチェに余計な貸しを作るのは私の本意ではありません。後々どのような不毛な見返りを要求されるか分かったものではない。私個人としては、あまり使いたくない選択肢なのですがね」
ベアトリーチェだかアリウスだか知らないが、どうやら怪人たちの組織も一枚岩ではなく、社内政治のような面倒くさい派閥争いがあるらしい。
余り他所の学園の奴らをアビドスの土地にぞろぞろと呼び込まれても面倒だし、ユメ先輩やホシノに変な警戒をさせるのも避けたかった。
「……なら、俺が護衛として現地まで案内してやるのはどうだ? 直接触って調べたいだろ」
「おや」
黒服が意外そうに黒球の頭部をピクリと傾けた。
「よろしいのですか? アビドス高校からあの大オアシスまでは、ジープを飛ばしても一、二時間はかかる道のりですよ。あなたにも授業やバイトがあるのでは?」
「いや、車で行くわけじゃない」
「……はい?」
「場所の座標は身体が覚えたし、何よりあの大樹には俺のヘイローの破片――俺の神秘がたっぷり混ざって根を張ってるからな。波長を合わせれば、一瞬で飛ぶことができるはずだ」
黒服は一瞬、言葉の意味を咀嚼するように数秒間の沈黙を置いた。
そして、恐る恐る、確認するように問いかけてきた。
「……飛ぶ、とは? 先日見せていただいた、あの重力を無視した空中浮遊で私を抱えて砂漠の上空を飛んでいく、ということですか?」
「違う違う。そんなまどろっこしい方法じゃない」
俺は人差し指を立て、朝飯のメニューでも答えるかのようなあっけらかんとした調子で言い放った。
「テレポート」
「…………」
静まり返った生徒会室に、硬質な亀裂が走る音が響いた。
黒服の顔面――あの漆黒の表面に刻まれていた無数のヒビが、目に見える速度でミシミシと音を立てて広がる。特に、口元の部分の笑みのような亀裂の部分が。
あまりの衝撃に完全に停止したかと思われた、その数秒後。
「…………ク」
低く、押し殺したような呼気が漏れた。
「ク……ククッ……クハハッ……! クククククッ……!!」
黒服の肩がカタカタと激しく揺れ始める。
動揺でも困惑でもない。キヴォトスの理すら平然と飛び越え、空間の概念そのものを足蹴にする男子生徒のデタラメな発言に対し、研究者としての未知への渇望と知的好奇心が限界を突破し、狂気的な歓喜となって吹き出したのだ。
ひび割れた黒球の奥底から、ゾクゾクとするような熱狂を孕んだ哄笑が部屋中に響き渡る。
「うわぁ……気持ち悪っ……」
二度寝の体勢に入りかけていたホシノが、露骨に顔を歪めてパイプ椅子ごとズルズルと後ずさった。愛用のショットガンを盾のように胸元へ構え、汚物を見るような眼差しで黒服を睨みつけている。
「な、何なんですか急に……!?顔のヒビ割れを増やしながら笑い出すとか、ホラー以外の何物でもないんですけど!」
そこへ、給湯室から湯呑みをトレイに乗せたユメ先輩が戻ってきたが、黒服の異様な姿を目にした瞬間、ピタッと足を止めた。
「お茶のおかわり持ってきたよ〜……あ、あれぇ……?黒服さん……?急に楽しそうだけど……なんだかお顔が大変なことになってないかな……?」
さすがのユメ先輩も引きつった笑いを浮かべ、トレイを胸に抱えたまま、おずおずと半歩ほど後退りした。
「……く、黒服?」
狂気の笑いを漏らし続ける怪人を前に、俺は背筋に冷たいものを感じていた。
(……おいおい。俺、もしかしてまた何かとんでもなく余計なことを言っちまったか……?)
額からタラリと冷や汗が垂れ落ちるのを自覚しながら、俺はただただ、笑い転げる不気味な黒服を呆然と見守るしかなかった。