「……うまい、うまいよ……油揚げが魂に染みる……流石俺…」
俺は机の端で虚空を見つめ、涙を流しながらもぐもぐと口を動かす。
客観的に見れば、過労の果てにいよいよ脳が焼き切れて幻覚と会話を始めた危険人物そのものである。
だが――そんな俺の異常行動など、この部屋の住人は誰一人として気に留めてすらいなかった。
「……ガバッと……ババッとお断り……あ、もう紙がない……」
「……ぐ、ぅ……サイン……通す……書類……殺す……」
ユメ先輩は白目を剥いて書類タワーに突っ伏しかけ、ホシノは血走った目でペンを握りしめたまま、小さく小刻みに震えている。
二人ともとっくに精神の致死量を反復横跳びしており、隣の男が幽霊と交信していようが、宇宙人と交信していようが、知ったこっちゃないのだ。
ふと。
ペンを走らせる手をピタリと止めたホシノが錆びついたロボットのような動きで首を傾げ、窓の外へと視線を向けた。
校舎から少し離れた上空。砂嵐の切れ間に、一機の白を基調としたドローンがホバリングしていた。カメラアイの青いレンズを不躾にこちらへ向け、定期的に明滅しながら、生徒会室の中をあからさまに覗き見ている。
「…………」
ホシノは何も言わなかった。ただ、感情の一切抜け落ちた虚ろな瞳のまま立ち上がり、無言で窓枠へと歩み寄ると、ガラリと窓を開けた。そして――
おもむろに背中のショットガンを引き抜き、腰だめに構えて。
「………」
至近距離から散弾の嵐をぶち込んだ。
火薬の匂いと煙が風に流れる中、黒煙を吹き上げたドローンが放物線を描いて砂の上へと墜落していく。ホシノは銃身から立ち昇る煙に息を吹きかけることすらせず、無言のまま生徒会室を出ていった。
数分後。扉が開き、ホシノが戻ってきた。その両腕には、外装がひしゃげて火花を散らすドローンの残骸が、まるで仕留めてきた獲物のように無造作に抱えられていた。
俺たち三人は、吸い寄せられるように無言のまま机の周りへと集まる。
どんよりと濁った三つの視線が、机の上にドンと置かれた鉄くずへと注がれる。ひしゃげた装甲の隙間、基板の片隅に、見覚えのあるスタイリッシュな学園の刻印と名前がくっきりと焼き付けられていた。
『Millennium Science School』
「…………ミレニアムですね」
沈黙を破り、ホシノがポツリと呟いた。
「……うん。ミレニアムだねぇ……」
ユメ先輩が、焦点の合っていない目でコクコクと頷く。
そして、書類タワーの影からボソボソと、抑えきれない欲望の混ざった声を漏らし始めた。
「これ……明らかな領空侵犯だよね……? これは生徒会長として、直談判で抗議に行かないといけないよねぇ……?……そういえばミレニアムの自治区って、最近すっごく大きな最新鋭のショッピングモールができたんだって。ショウくんのヘイロークーラーと違ってちゃんと空調も効いてて、規模もキヴォトス最大級で、美味しいクレープやカフェがいっぱいあるらしいよ……?」
先輩の口元から、タラリと透明な涎が垂れそうになっていて汚い。砂嵐と熱波とクレームの嵐に脳を焼かれたユメ先輩の口から、文明社会への渇望がだだ漏れになっている。
俺もまた、ドローンの残骸を指先で小突きながら、真顔で頷いた。
「そうですね……明らかに領空侵だし、プライバシーの侵害。……でも、電話やメールじゃこちらの怒りの本気度が伝わらないと思うんですよ。誠意ある謝罪と賠償を求めるなら、やっぱり直接乗り込むのが筋ってもんでしょう。ちなみにミレニアムには新しく大きなスパリゾートができたとか」
「ええ、その通りです」
ホシノがグッと身を乗り出した。その顔には、先ほどまでの書類地獄による死相は消え失せ、恐ろしいほどの生気が宿っていた。
「いっそ三人で行きましょう。生徒会役員全員が直々に足を運ぶことで、アビドスがこの問題をどれだけ重要視しているかを分からせに行くんですよ……!その間、留守中のアビドスの面倒は……まあ、しょうがないですから、連邦生徒会に押し付けましょう。しょうがないんですよ。ええ、決して最新鋭の水族館が目当てではないですよ」
ホシノはもはや、言い訳を取り繕うことすら放棄していた。
本来、キヴォトス全体の統治機構である連邦生徒会は、過疎と衰退の極みにあるアビドスを完全に軽視し、見捨ててきた過去がある。
借金地獄に陥った時も、砂漠化で住民が逃げ出した時も、ユメ先輩が何度も頭を下げて救援要請や復興援助を求めたが、連邦生徒会は「生徒数が規定に満たない」「費用対効果が見込めない」と冷淡に突っぱねて門前払いを食らわせたのだ。
そんな連中に、今さら義理立てする必要など微塵もないな!
「……そうだよね。しょうがないもんね!」
ユメ先輩が、救いを求めるように両手を組んで縋り付くような声を出した。
「アビドスの自治を脅かす危機の可能性を確かめにいくだけだもんね! 自治区の安全のためだもん! 二日や三日くらいアビドスを離れちゃっても、全然問題ないよね……!?」
俺、ホシノ、ユメ先輩。ボロボロで、砂埃まみれで、疲労の極みに達した三人の視線が、合体して一つの百万パワーとなった。
「「「行こう、ミレニアム!!」」」
満場一致。
その瞬間からのアビドス生徒会の行動力は、電光石火という言葉すら生ぬるいものだった。
「もしもぉし!?連邦生徒会ですかぁ!?アビドス生徒会長の梔子ユメでぇっす!現在アビドス自治区が未曾有の観光バブルでパンクしてますが、ミレニアムからの領空侵犯に対する緊急の抗議および外交協議のため生徒会総出で出張しますので、あとの遭難救助と暴徒鎮圧と交通整理は全部そちらでよろしくお願いしまーす!!」
『えっ、ちょっと、まっ』
相手の返事など一文字も聞く気のないユメ先輩が、勢いよく受話器を叩きつけた。
すぐさま内線ボタンを押し直し、今度はミレニアムの代表番号へとダイヤルして「アビドス生徒会です! 重大な外交案件について抗議のため明日に伺います!」と一方的な通告を叩き込む。
その横で、俺はスマホを操作し、今や数万人のフォロワーを抱えるSNSのアカウントへと猛烈なフリック入力で投稿を叩き込んでいた。
【アビドス生徒会広報】
『【お知らせ】他校からの領空侵犯に対する緊急外交対応のため、生徒会役員はこれよりミレニアムサイエンススクールへ出張します。留守中の自治区内の遭難救助、治安維持、インフラ管理は、すべて【連邦生徒会】様が全面バックアップして下さることになりました! お困りの方は連邦生徒会窓口へどうぞ!』
送信完了。
これで連邦生徒会はアビドスを無視できなくなるし、俺たちを追いかけて連れ戻す大義名分も消える。かんぺき〜な退路の爆破だ。
「よし、私も自治区の各店舗と自警団に『緊急外交のため数日間留守にする』と一斉送信しました。起きた被害は全部連邦生徒会が面倒をみてくれる事を添えて」
ホシノがスマホをポケットに突っ込み、ニヤリと不敵に笑った。
「これで準備は完了!……さあ、それぞれ自宅へ戻って、着替えと身支度を整えよう!集合は明日の朝で!」
「「了解!」」
生徒会室を飛び出した三人は、まるで重力から解き放たれた鳥のように、それぞれの家へと全速力で駆け出していった。
大都会ミレニアム――文明の光とスイーツと温泉と水族館が待つ約束の地へ向かうために。
このキヴォトスにおいて、どこよりも科学技術が発達し、合理と革新の最先端を突き進む巨大学園――それが、ミレニアムサイエンススクール。
数学と科学を絶対の共通言語とし、街の隅々にまで張り巡らされた自動化インフラ、空を滑るように走るリニアレール、太陽光すらも計算尽くで反射する摩天楼の数々。砂と廃墟に埋もれた俺たちのアビドスとは、文字通り住む世界が違う超近代都市である。
だが、そんな巨大自治区の玄関口に降り立った俺たちのテンションは、出発した時のそれとはまるで違っていた。
「……あのさ。冷静に考えると、俺たち、かなり無茶苦茶なことしてないか?」
「……う、うん。急に電話して『明日に乗り込みに行くぞ』って考えなしにアポ取ったようなものだしね……」
「……まあ、その……対応してくれたミレニアム側には、ちょっと申し訳ない気がしなくもない、というか……」
朝から電車に揺られて数十分、クーラーの風に吹かれて頭が冷えたことで、ようやく俺たちの理性は正常値へと戻っていた。
激務のストレスで頭に血が上っていたとはいえ、向こうからすれば、いきなり砂漠から怒り狂った生徒会が突撃予告をしてきたようなものである。少し申し訳ない気持ちがじわじわと胸をチクチク刺していた。
「……そういえば。置いてきて本当に大丈夫だったのか?」
「あいつって……ああ!」
ふと思い出したように俺が呟くと、ユメ先輩が小首をかしげた。
「ペロロちゃんのこと?」
「ああ。身支度して家出る時にすり寄ってきたから、柴関ラーメンに連れてって柴大将に頼んだ上で、預かって貰える様押し付けちまったけど……」
「大丈夫じゃないですか? 柴大将も『客寄せにちょうどいいな!看板鳥として預かってやるよ!手伝ってくれた礼もあるしな!』って快く引き受けてくれましたし」
ホシノが呆れたように肩を竦める。
「まあ、意外と押し寄せる観光客に愛想を振りまいてるでしょうけど」
「う、ありそうだな……」
「ふふっ、柴大将なら面倒見がいいから安心だよ〜。それにね、あの子をミレニアムまで連れてきちゃったら、それこそもっと目立って大変なことになってたと思うよ?」
「…それは勘弁ですね。ただでさえ目立っているんです、あの怪鳥まで引き連れてたら完全に不審者軍団ですよ」
とはいえ、アビドスで賞金首を追ってミレニアムの近くまで来ることはあっても、自治区のど真ん中にこうして足を踏み入れる機会なんて今まで一度もなかった俺達。
「おいホシノ、見ろよあれ。ゴミ箱が自分で走り回ってゴミ回収してるぞ」
「わ、本当ですね……! あっちの自販機なんて、簡単な受け答えだけでオススメの銃弾を出してますよ。……な、なんですかあの空中に浮いてる立体看板!?」
視界に飛び込んでくる最新テクノロジーの数々に、俺とホシノの首は上下左右へと忙しなく動きっぱなしだった。田舎から大都会へ出てきたお登りさんそのもののリアクションである。
視線を感じて横を見ると、ユメ先輩が両手を胸の前で合わせて、そんな俺たちを実に微笑ましそうに、目を細めて見守っていた。
視線に気づいた俺とホシノは、ピタッと動きを止め、居心地悪そうに頬を掻く。
「……あー、コホン。別に物珍しいわけじゃないですからね。ただ、防犯上の視察として見聞を広めているだけで」
「そ、そうだな。アビドスの復興に使える技術があるか確認してただけだ」
「ふふっ、二人とも可愛いなぁ〜。いいんだよ、せっかく大都会に来たんだから楽しまなきゃ!」
ユメ先輩にからかわれて少し顔が熱くなりつつ、俺たちは指定された待ち合わせ場所――ミレニアムの象徴である生徒の学び舎、天を衝く『ミレニアムタワー』の真下へとやってきた。
「ええと……ここで案内してくれる生徒さんと合流するはずなんだけど……」
ユメ先輩がキョロキョロと周囲を見回すが、それらしい生徒の姿は見当たらない。行き交うのはタブレット端末を片手に早足で歩く理系の生徒ばかりだ。
普段のホシノなら「人を待たせるなんていい度胸ですね」と真っ先に悪態をつきそうな場面だった。だが、今回の一件は相手が発端とはいえ、強引なアポ取りに加え、相手の私物であるドローンを問答無用で木っ端微塵にした負い目がある。自分の分が悪いと自覚しているのか、珍しく神妙な顔のまま口を噤んでいた。
しかし――十分が過ぎ、十五分が過ぎても、一向に案内人は現れない。
「…遅いですね」
苛立ちを隠しきれなくなったホシノが、足先で地面をリズミカルに叩き始めた。オッドアイの光が徐々にジト目へと変わり、機嫌のメーターが目に見えてレッドゾーンへ傾いていく。
「……いつになったら来るんですかね?」
低くドスの利いたホシノの呟きに、俺は苦笑いしながら割って入った。
「まあまあ、落ち着けって。ほら、これでも食ってな」
俺は頭上の七色ヘイローを手元に持っていき、意識を集中させた。
そして、ヘイローの中心にある『何もない空間』へと、コートのポケットに手を突っ込むような気安さでズボッと右腕を肩口まで差し込む。内部の亜空間からガサゴソと目当てのものを掴み出し、四次元ポケットめいた手際で取り出したのは、一本のチョコバーだった。
「はい」
「……いつ見ても慣れませんね、それ」
ホシノは引きつった顔で俺のヘイローを見つめつつも、差し出されたチョコバーを受け取ると、バリッと包装を破ってサクサクと口いっぱいに頬張った。モグモグと咀嚼するうちに、少しだけ眉間のシワが緩む。その時だった。
エントランスの向こうから、激しい勢いでこちらへ走ってくるけたたましい足音が響いてきた。
人波を縫うようにして駆け寄ってきたのは――鮮やかなオレンジ色のショートヘアを揺らす、かなり小柄な女子生徒だった。
「わりーわりー!色々あって遅れちまった!……あんたらがアビドス高校ので合ってるか!?いや、ホントわりーな!ちょっとしたゴタゴタを片付けてたらこんな時間になっちまってよ!」
肩で息をしながら、彼女は快活に笑ってペコリと頭を下げた。
言い訳を並べ立てることもなく、開口一番で非を認めてカラッと謝罪してくるあたり、裏表のない竹を割ったような性格なのだろう。ピリついていた空気が、その勢いだけで一気に中和される。
「うん、私たちがそうだよ〜。わたしは生徒会長の梔子ユメ。隣の二人が小鳥遊ホシノちゃんと、円ショウくん。……そう言えば、君のお名前は?」
「おっと、名乗りがまだだったな!あたしの名は美甘ネル!……っと、まずは案内をしなきゃなんねーんだよな。確か、用件は……」
「ドローンの件について話しに来たんだ」
俺は背負っていたバッグを軽く叩いて言葉を継いだ。
「アビドスは大部分がカイザーに買収されてるが、あの校舎や大オアシスの周りは、まだ正真正銘うちの自治区の私有地だからな。そのあたりの領空侵犯の抗議と、残骸の返却を兼ねて持ってきた。……ただ、うちが撃ち落として壊しちまったからさ。一応、弁償の話もちゃんとしようと思ってな」
「うぐ……」
チョコバーを飲み込み終えたホシノが、気まずそうに目を泳がせて小さく呻いた。
まあ、初手で散弾銃をぶっ放してスクラップにした張本人はお前だからな。ネルは俺たちの言葉を聞くと、どこか苦々しげに頭をガリガリと掻いた。
「ああー……まあ、そのあたりの話は飛ばした本人から直接聞いてくれ。あたしが一番そいつと近いから案内を頼まれたんだが……」
そこでネルは言葉を切り、じろじろと俺たちの姿――特に、俺の体躯と頭上で静止している七色のヘイローを値踏みするように見つめた。
そして、何か得心がいったようにポンと手を打つ。
「……あいつ、だからあんなにビクビク怯えながらあたしに案内を頼んできたのか……。なるほどなぁ」
ネルが言っている「そいつ」とは、ドローンを飛ばした張本人であり、ネルと同じく今年ミレニアムに入学した同級生――調月リオという生徒のことらしい。
そんな中、じっとネルの全身を観察していたホシノが、耐えきれなくなったように口を開いた。
「……いつまでも誰も言わないので、言わせてもらいますが、美甘さん」
「あ?ネルでいいぜ。何だ?」
ホシノはネルの頭から爪先までをスッと指差した。
俺とユメ先輩も、先ほどから密かにずっと気になっていたその『異様すぎるいでたち』を直視する。
「……なんでメイド服なんですか? それも、随分と着崩してますけど」
フリルのついた前掛け付きのミニスカートのメイド服に、ダボッとしたスカジャンを羽織り、背中には金色で龍が刺繍されている。およそキヴォトス最先端の理数学園の生徒とは思えない、あまりにも尖り散らかしたファッション。
指摘されたネルは、途端にバツが悪そうに視線を泳がせ、カッと頬を赤らめてそっぽを向いた。
「……そ、そういう部活に入ってんだよ!あたしだって好きで着てんじゃねーよ、色々あんだよ色々!!」
ヤンキー口調で照れ隠しに喚く小柄なメイドの姿に、俺たちは思わず毒気を抜かれてしまうのだった。
「まあ、そういうわけだからよ。ドローンを飛ばした張本人のところまで案内してやる」
ネルは照れ隠しのように鼻の下を人差し指で擦ると、くるりと踵を返した。
「そいつはあたしと同じ一年だが、ミレニアムの次期生徒会長候補の筆頭でな。現在の生徒会長本人がクソ忙しくて手が離せねえから、今回の一件の外交窓口もそいつがまとめて引き受けてくれる手筈になってる」
「へぇ……一年生なのに生徒会長候補か。すごい優秀な子なんだねぇ」
ユメ先輩が感心したように目を丸くし、俺たちもネルの後ろについてタワーのエントランスへと足を踏み入れた。
自動ドアをくぐった先は、広大な吹き抜けのロビーだった。
だが、そこに広がっていた光景は、およそ厳粛な学び舎のそれとはかけ離れていた。ミレニアムでは各生徒が部活動やサークルとして専門の研究会を立ち上げ、己の知的好奇心を極めるのが本分とされているらしい。その結果、フロアのあちこちで生徒たちが自作の最新成果を発表し、自慢し合い、そして盛大に自爆していた。
「見てくれ! 授業中の早弁バレ対策に開発した『光学迷彩弁当箱』だ!外装の屈折率を周囲と完全同調させて不可視化に成功した!」
「おお、すごーい!……で、フタを開けたら見える、中身のタコさんウインナーはどうやって隠すの?」
「……いっそ、透明な食材で弁当を作る……?」
「本末転倒でしょうに…」
右手のベンチでそんな不毛極まりない議論が繰り広げられているかと思えば、今度は左手の通路から激しい駆動音が響いてくる。
「だ、誰か止めてくれえぇぇぇぇッ!!」
「ちょっと待ちなさい!私が開発した超高出力プラズマ式電動バッテリーの自転車を暴走させないで!」
「止まらないんだよぉぉ!ブレーキレバーを握ったら逆に加速したぁぁぁっ!!」
「それはアクセルなのよ!!」
「どうしてブレーキの位置にアクセルなんて置いたのおぉぉぉっっ!?」
青白いプラズマ放電を撒き散らしながら、時速80キロはあろうかという電動自転車に乗った生徒がロビーの直線をかっ飛んでいき、その後ろをスパナを掲げた白衣の生徒が全力疾走で追いかけていく。
「……あの、ショウくん。ミレニアムって、すっごく賑やかなところなんだね……?」
「賑やかを通り越して毎日がカオスだな……」
「アビドスより治安悪くないですかここ」
俺とユメ先輩が呆気にとられ、ホシノがジト目を向ける中、ネルの先導でフロアを進んでいく。
だが当然ながら、そんな異彩を放つ集団――メイド服のネルの後ろを歩く、巨大な体躯の男子生徒と、別の学園の制服を着た見慣れない少女たち――に、周囲の生徒たちが気づかないはずもなかった。
通りすがるミレニアム生徒たちの視線が、次々と俺たちへと集まり始める。
「あれ? ネルちゃんの後ろにいる人達って……」
「うーん、もしかして調月さんに用があるのかも。ネルちゃんがわざわざ出迎えてるって、そういうことだし」
「でも、どこかで見たことあるような……あ!確かネットで今有名なアビドスのじゃない?」
「本当だ! あれが噂の『アビドスのやべー奴ら』……!」
やべー奴らって、いったい誰がそんな二つ名をここでも広げたんだよ。心の中で盛大にツッコミを入れている間にも、生徒たちのヒソヒソ声は加速度的に広がっていく。
「ネットで見たけど、ある日すごい大きい木に、綺麗なオアシスができたって。記事で見たけど、すっごいきれいだったなー」
「行ってみたいよねー」
「それにアビドスって、環境はともかく最近は治安がいいらしいのよね。ほら、あの3人が日々大量の不良たちや、犯罪者の賞金首とか捕まえてるから、噂が広まって活動を自粛してるらしいわよ」
「データか何かで、キヴォトスの犯罪率が下がったとか。それならアンタッチャブル扱いはわかるところよね〜」
どうやら俺とホシノがストレス発散がてら片っ端から不良をワサビカラシ漬けや往復ビンタで容赦なく叩きのめしたせいで、裏社会の連中が恐れをなして息を潜めているらしい。思わぬ形で治安維持データに貢献してしまっているみたいだ。
そして、周りの生徒たちの興味津々な視線は、ひときわ異様な存在感を放つ俺の頭上へと集中した。
「それに円ショウって人。ヘイローが見えているけど、調べさせてくれないかな?私達ってヘイロー見えないし」
「噂では触れるらしいから、是非とも調べたいなー。……お菓子で呼び止める?」
「それで止まるのは貴女だけよ」
おい、聞こえてるぞ。俺を野良犬か何かと勘違いしていないか。しかも科学の徒のくせに捕獲トラップの餌がお菓子ってどういうことだ。
俺たちの背後でさざ波のように広がる喧騒と好奇の目に、先頭を歩いていたネルがポリポリと頬を掻き、申し訳なさそうに振り返った。
「……騒がしくてすまねえな。うちの連中は新しいデータや珍しいもんが好きでよ。他校からの客人が来るのも滅多にねえから、浮き足立ってんだ」
「でも、いいところだな。皆が生き生きしていて、夢を追っているって感じで、俺は嫌いじゃないな」
「へへっ、まあな! 退屈しねーのだけは保証するぜ!」
からからと快活に笑うネルの横顔を見れば、この一見無秩序で騒々しいミレニアムの空気を、彼女自身が心の底から気に入っているのがよく分かった。
だが、そんなミレニアムのアイドル(?)を、周囲の生徒たちが放っておくはずもなかった。今度はネル自身が生徒たちの標的になる。
「あ、ねるねるー! この前はありがとねー!」
火花を散らす巨大なスチームパンク風の機械馬に跨った生徒が、颯爽と通路を横切っていく。
「おう、次は暴走させんなよ!手綱はちゃんと締めとけ!」
ネルが親指を立てて応えたかと思えば、今度は反対側のテラスから、金髪を揺らしたギャル風の生徒がドリンク片手に身を乗り出してきた。
「かもネルじゃん、今日ヒマ?良かったら後で遊びに行こうじゃん!」
「かもネルやめろっ!!……今は客を案内してんだ。後にしな!」
さらに角を曲がった先では、壁にドカンと大穴を開けた白衣の生徒が、何事もなかったかのようにポスターで隠そうとしてネルと目が合い、悲鳴を上げて飛び退いた。
「ぎゃー!! ネルみーだー!!」
「お前っ!?あんだけ校舎を壊すなって言ったよな!?……後で覚えとけよ!」
拳をブルブルと震わせながら歩く小柄なメイドの姿を眺めながら、俺たちは顔を見合わせ、自然と口元を緩めた。
「慕われているなぁ。ネルるん」
「仲が良さそうだねぇ。ねっちー」
「なめられているんじゃないですか?美甘ネル」
「お前らまで変な呼び方すんじゃねえ!!おちょくってんのか!?あと最後にいきなりハシゴ外すな小鳥遊ッ!!」
噛み付くように怒鳴り散らすネルに、ホシノが「うへ〜、怖い怖い」と肩を竦める。そんな漫才のようなやり取りを繰り広げているうちに、俺たちはタワーの最上層――ミレニアム生徒会『セミナー』の執務室の前に辿り着いていた。
「おーう、入るぞー」
壁の認証コンソールを平手でバンと叩いたネルは、相手の返事を聞く気など更々ない様子で雑にロックを解除した。微かな減圧音を立てて、スライドドアが滑らかに左右へと開いていく。
「おい、待てってネル――」
「いいから入れ入れ!あたしが許す!」
遠慮ゼロの案内に引っ張られるように、俺たち三人も恐る恐るその後に続いて部屋へと足を踏み入れた。
室内は、白を基調とした無駄のない空間だった。壁の巨大モニターには無数の数式やデータが流れるように明滅し、空調の効いた澄んだ空気が満ちている。そして、その中央に置かれた重厚なエグゼクティブデスクの前に――『彼女』が立っていた。
腰まで届く艶やかな漆黒の長髪に、感情を容易に読ませない切れ長の紅い双眸。
高校一年生とは到底思えない完成されたプロポーションは、ユメ先輩の豊満さとはまた違う、冷徹なまでの機能美と気品を湛えている。
一言で表すなら、氷のように怜悧なクールビューティー。
彼女は手にしていたタブレット端末からすっと顔を上げ、静かに眉をひそめた。
「ネル。入る前は返事を待つものよ。何度言えば理解するのかしら」
「はいはい、悪かったよ」
まるで口うるさい母親に小言を言われた子どものように、ネルが気まずそうに唇を尖らせて視線を逸らす。
そんな二人のどこか微笑ましいやり取りの後、黒髪の少女は、その冷たいガラス玉のような紅い瞳を、俺たちの方へと向けた。
「初めまして、アビドス高等学校生徒会の皆さん。ミレニアムサイエンススクール生徒会『セミナー』にて会計を務めております、調月リオです」
氷のように澄んだ声でそう名乗った黒髪の少女、調月リオは、名乗りを終えるや否や、すっと背筋を伸ばしたまま、腰を九十度に折って深々と頭を下げた。
「まずは、アビドス自治区に対する我が校の観測ドローンによる不当な領空侵犯、ならびに無断での情報収集活動について、心より謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
「「「…………え?」」」
あまりにも初っ端からのド直球かつ完璧な謝罪に、乗り込む気満々だったはずの俺たちは完全に面食らった。てっきり小難しい屁理屈を並べ立てられるものと身構えていただけに、綺麗に肩透かしを食らって言葉に詰まる。
「あ、あのっ、調月さん! 頭を上げてください!」
慌てて前に出たのはユメ先輩だった。両手をパタパタと振って、申し訳なさそうにリオへ語りかける。
「わたしたちも、急に電話して押しかけちゃったし……それに、飛んできたドローンをいきなり撃ち落として壊しちゃったのはこっちだから!そんなに畏まらないで、ね?」
「……そう。なら、これからの話をしましょうか」
スッと。
一切の躊躇なく、何事もなかったかのように切り上げたリオは、先ほどまでの謝罪モードから一瞬でギアを切り替えた。
「ドローンの残骸の返却と、破損に対する損害賠償、および今後の領空侵犯に対する相互不可侵条約の締結について。こちらの提示する協議事項は全部で七項目あります。まず第一に――」
「は、早っ……!?切り替え早すぎない!?」
あまりの極端な情緒のジェットコースターに、俺とホシノは完全に振り回されて目を白黒させた。
「ハァ〜……」
その横で、ネルが頭痛に耐えるように深いため息を吐き出す。俺はネルの小柄な肩のあたりに身を屈め、小声でこっそりと耳打ちした。
「……なぁ、ネル。あの人、いつもあんな感じなのか?」
「ああ、まあな……」
ネルはうんざりした顔で腕を組み、顎でリオを指した。
「調月リオって女はな、頭の回転が異常に早くて、何から何まで『合理的』にしか物事を考えられねえんだよ。おまけにミレニアムの生徒の利益を守るためなら、自分自身を後回しにして平気で泥を被る悪癖がある。要するに――クソ真面目で頑固で、融通が利かねえ石頭なんだよ。そのくせ……」
そこでネルは声をさらに潜め、フッと口元を歪めた。
「想定外の事態に直面すると、内心でめちゃくちゃビビるクセがあってな」
「ビビる?」
「見てりゃ分かる」
ネルは首をポキリと鳴らすと、手元の書類をペラペラとめくり始めたリオに向かって、ズケズケと歩み寄った。
「おい、リオ」
「何かしら、ネル。今はアビドスとの外交協議――」
「お前がネットで話題沸騰中の『アビドス超人軍団』を前にして、心臓バックバクで緊張してんのは痛いほど分かってんだけどよ。もうちょっと話の流れってもんを考えろ。客人に立ち話で契約書読ませる生徒会室がどこの世界にあんだよ」
ネルがペチンと自分の額に手を当てて呆れ返ると、リオの瞳が一瞬だけピクッと揺れた。
「……客人を立たせたままにするのは、確かに合理的ではなかったわね」
「だろ? ほら、あんたらはそこのソファに座ってな。あたしが茶淹れてきてやるから」
ネルが俺たちに手招きをして案内し、そのまま給湯室へ向かおうと執務室のドアノブに手をかけた。
その瞬間だった。
「えっ……!?」
リオの口から、さっきまでの冷徹なエリートの声音とはまるで違う、裏返ったような間抜けな声が漏れた。
バッと勢いよくネルの方を振り返ったリオの顔は、驚愕と狼狽で見事に染まっていた。
まるで『用事で離れた母親から、一人だけ残された幼い子ども』のように、両手を胸の前でそわそわと落ち着きなく動かし、視線を右往左往させて完全にパニックを起こしている。
(ま、待ちなさいネル……! 私一人を残してどこへ行くつもりなの……!?)
声には出さないものの、その切れ長の瞳が、全身から吹き出す冷や汗とともにそう雄弁に物語っているように思えた。さっきまでのクールビューティーの仮面が完全に粉砕され、ただの極度に人見知りな一年生女子になっている。
「…………」
「…………」
俺とホシノは、あまりの落差に思わず顔を見合わせて押し黙った。部屋の中に流れる、なんとも言えない気まずい沈黙。どうしていいか分からず固まっているリオの前に、トコトコと歩み寄ったのは――やはり、この状況で一番頼りになるユメ先輩だった。
「ふふっ、調月さん。立ちっぱなしだと疲れちゃうもんね〜」
ユメ先輩は包み込むような温かい笑顔を浮かべると、そわそわと彷徨っていたリオの細い手を、両手でそっと優しく包み込んだ。
「ひゃっ……!?」
「さ、一緒に座ってお茶を待とっか。お話しなら、ゆっくり座ってからで大丈夫だよ〜」
「あ……え、ええ……。そ、そうね……」
まるで迷子を保護する親鳥のように、ユメ先輩は緊張でガチガチに固まったリオの手を引いて、ふかふかのソファへと優しく誘導していったのだった。
ユメ先輩のふんわりとした温かさに包まれ、ソファに腰掛けさせられたリオは、深呼吸を一つしてようやく落ち着きを取り戻したようだった。
すっと姿勢を正し、再び切れ長の紅い瞳に理性の光を宿して俺たちに向き直る。
「……失礼。取り乱したわ。改めて、今回の観測に至った経緯を説明させてちょうだい」
リオは書類を一旦端に起き、取り出したタブレットを操作し、空中にホログラムスクリーンを展開した。
そこに映し出されたのは、砂漠の真ん中にそびえ立つあの一キロ級の世界樹と、サファイア色の大オアシスの衛星写真だ。
「これまで、アビドスや各学園であなたたちが不良を撃退しているという噂は耳にしていたけれど、所詮は自治区内やミレニアム外での小競り合い……キヴォトス全域に脅威を及ぼすものではないと判断していたわ。けれど、この現象は次元が違う。枯渇したオアシスの一夜での完全復活、そして既存の植物学を根底から覆す超巨大樹。これはキヴォトスの生態系、ひいては勢力均衡そのものを揺るがしかねない重大な特異点よ」
リオの声がスッと低くなり、探るような鋭い視線が俺たち三人――特に、俺とホシノの顔を射抜いた。
「そして何より、あなたたち三人の個人戦闘力、および事態の収拾能力はあまりにも規格外すぎる。……単刀直入に聞くわ。アビドス生徒会は、この人知を超えた力とオアシスを使って、一体キヴォトスで何をしようとしているの?」
「…………」
何をしようとしているか、と問われても。
(……ただ種を植えて、願掛けしただけなんだが……)
(……ショウのデタラメなヘイローのせいで勝手に生えてきただけだし……)
小声で俺とホシノは気まずそうに目を泳がせた完全なる善意と、偶然と、アホみたいな神秘の暴走が重なり合って起きた事故だとは、あまりにもバカバカしすぎて口が裂けても言えない。「何かの陰謀ですか?」と問い詰めてくる相手に対して、どう説明したものかと頭を抱えかけた、その時だった。
執務室の自動ドアが開き、トレイに湯呑みを載せたネルが戻ってきた。
だが、ネルの後ろから、もう一つの影が滑り込むように部屋へと入ってきたのだ。
「茶ぁ持ってきたぞー。……おい、リオ。客人に変な質問してんじゃねえだろうな?」
「あらあら。お茶のついでに立ち寄らせていただきましたが……相変わらず貴女という人は、地平線の彼方に咲いた一輪の薔薇の棘を過剰に恐れて、自ら火の中に飛び込むような愚行を犯すのですね、リオ」
滑らかなタイヤの回転音とともに現れたのは、真っ白なハイテク電動車椅子に座った、透き通るような白髪の少女だった。
華奢な身体に知性的な薄紫の瞳。まるで陶器の人形のように儚げな美貌をたたえた彼女は、車椅子を俺たちの正面でピタリと止めると、自信満々に胸を張った。
「初めまして、アビドス高等学校の皆さん。私はミレニアムの非公認部活『ヴェリタス』の部長にして、全世界が誇る超天才清楚系病弱美少女ハッカー、明星ヒマリと申します。……あ、ショウさん、ホシノさん、ユメさん。もしよろしければ、この色紙にサインをいただけますか? 連日の救助活動と、ワサビパイによる鮮烈な暴徒鎮圧……ネットの動画で拝見して以来、すっかりファンになってしまいまして」
「……は、はぁ。どうも……?」
自称・超天才清楚系病弱美少女ハッカーから差し出された色紙とマジックを受け取り、俺とユメ先輩とホシノは戸惑いながらもサインを走らせた。
「ヒマリ……!なぜあなたがここにいるの。今は他校との極めて機密性の高い外交協議中よ」
「部室のネットワークから貴女の慌てふためく姿が見えていたものですから、見かねて助け舟を出しに来てあげたのですよ」
ヒマリは受け取った色紙を満足そうに抱え直すと、リオへと向き直り、ピシャリと言い放った。
「リオ、貴女は可能性までも計算しすぎるあまり、肝心の人間の心がまるで見えていません。彼らの顔を見なさい。キヴォトスを侵略しようとする悪の組織の顔に見えますか?どう見ても連日の過重労働で魂が抜けかけた哀れな被害者たちではありませんか」
「……そ、それは……」
「そもそも、相手の私有地に対して無断でドローンを飛ばし、不法に監視を行うなど言語道断。科学の倫理としても、他校への礼儀としても最低の失策です。その程度の事態予測もできず、更には貴女の単独暴走を止められなかったセミナーの管理体制こそ、一番に反省すべき点なのではありませんか?」
ヒマリの容赦のない正論の乱れ打ちに、リオは反論の言葉を完全に失った。
先ほどネルが話した通りなら、リオは合理性を重んじるあまり、決して他人を責めず、すべての責任を自分一人で背負い込む性質がある。ヒマリの指摘が正しければ正しいほど、そのダメージはダイレクトにリオのメンタルを抉り抜いていく筈だ。
「……うっ……私の、過ちね……。すべては……私の見通しが甘く、未熟だったせい……」
目に見えて肩を落とし、膝の上でぎゅっと拳を握りしめて小さくなっていくリオ。
さっきまでの冷徹な面影はどこへやら、今にも泣き出しそうなほど落ち込み、消え入りそうな声で縮こまってしまった。
そのあまりの痛々しさに、被害者側であるはずの俺たちが思わず慌てふためいた。
「あ、あのっ、調月さん! そんなに落ち込まないでください!」
「そうだよリオちゃん!ヒマリちゃんも言い過ぎだよ〜!うちの土地が珍しかったら見たくなるのは当然だし、別に怒ってないからね!?」
「そ、そうですよ。そもそもドローンを問答無用でぶち落としたのは私の短気ですし……」
ユメ先輩が背中をさすり、俺とホシノが必死にフォローを入れるという、どっちが抗議に来たのか分からない奇妙な構図が出来上がっていた。
「だから言ったろ……」
後ろのネルは額を押さえて深いため息をついている。
「……コホン。まあ、先に話を片付けちまおうぜ」
ネルが空気を変えるようにパンと手を叩いた。
結果から言えば、賠償の話は拍子抜けするほど一瞬で終わった。
壊れたドローンはリオ個人が自作した機体であり、公的な備品ではなかったこと。そして何よりリオ自身が
「不法侵入を働いたこちらに全責任があるため、貴方達に弁償の請求など言語道断。むしろこちらが迷惑料を支払うべき」
と、頑なに主張したため、ドローンの残骸を引き渡すだけで綺麗に手打ちとなった。ユメ先輩が恐れていた高額な請求書など、最初から存在しなかったのだ。
「……本当に、弁償も抗議も必要ないのかしら?」
恐る恐る顔を上げたリオに、俺は肩をすくめて苦笑いを返した。
「ああ。正直に言うとさ……俺たち、抗議にかこつけて仕事をサボりに来ただけなんだよ」
「え?」
「あの世界樹もどきのせいで自治区に人が押し寄せて、たった三人で遭難救助から暴徒鎮圧まで回しててな。もう精神が過労死寸前だったんだ。『領空侵犯の抗議に行く!』って大義名分を掲げて、連邦生徒会に留守中の仕事を全部押し付けて逃げてきた」
「ええ。最新のショッピングモールで美味しいクレープを食べて、ふかふかのベッドで寝るための休暇です」
ホシノがあっけらかんと言い放つと、リオはポカンと口を開け、それから深々と息を吐き出した。
「……そう、だったのね……」
強張っていたリオの肩からフッと力が抜け、年相応の柔らかな安堵の表情が浮かぶ。
警戒心も敵対心も最初からなく、ただ限界を迎えた生徒たちが息抜きに来ただけだと理解できたのだろう。
そんな和やかな空気に戻った執務室で、腕を組んでいたネルがふと思い出したように俺へ視線を向けた。
「そういやショウ、さっき『他校のドローンも飛んでた』って言ってたよな。トリニティの観測機はどうすんだ?あいつらにも同じように怒鳴り込みに行くのか?」
「ああ、トリニティか」
俺は顎に手を当て、頭の中であの学園の構造を思い浮かべた。
「あそこは正義実現委員会に顔見知りがいるから、後で直接連絡を入れて話をつけようと思ってる。……ただ、トリニティってティーパーティーだのシスターフッドだの派閥が色々あって、手続きやら根回しにやたら時間がかかるだろ?だから、一番話が早そうで合理的なミレニアムに先に来たんだよ」
俺の言葉を聞いた瞬間、ネルの眉間に露骨なまでの面倒くさそうなシワが寄った。
「あー……トリニティだからなァ……。お高くとまったお嬢様方の会議に付き合わされたら、何日足止め食らうか分かったもんじゃねえもんな。納得だわ」
ミレニアムの武闘派メイドも、お嬢様学園の特有の形式主義には思うところがあるらしく、心底うんざりした顔で深々と頷くのだった。
ひとしきりドローンの件が片付き、執務室にはようやく穏やかで寛いだ空気が流れ始めた。そこで自然と話題に上ったのは、いまやアビドスどころかキヴォトス中のネットを席巻している、俺たちの規格外な噂についてだった。
「――それで、ショウさん。貴方のその頭上にある輪っかなのですが」
お茶を啜っていたヒマリが、知性的な瞳を細めて俺の頭上へと視線を向けてきた。
そこにあるのは、円環状に並んだオーディオスペクトラムのようなヘイローだ。円を描くように配置された七色の光のバーが、回転することもなく、絶え間なくイコライザーのようにリズミカルに上下へと振幅を繰り返している。
「噂によれば、質量を持ち、物理的に触れることが可能だとか。通常の生徒のヘイローは命と概念の結晶であり、他者が見えるどころか触れるなど物理法則的にも神秘学的にもあり得ないはずなのですが……まさか都市伝説の類ではありませんよね?」
「ああ、これか?普通に触れるぞ。ほら」
俺は何でもないことのように頭上へ手を伸ばすと、上下に跳ねていた七色の光のバーを手づかみにして動きを止めた。
特に何か念じていなければ、触感はガラスのようでもあり、温度も熱くも冷たくもない完全な常温だ。
そのまま三等分に分割、テーブルの向かいに座るリオ、ヒマリ、そしてネルの掌の上へとポイポイと無造作に手渡した。
「……ッ!?」
「なっ……!?」
「きゃっ……!?」
次の瞬間、三者三様の凄まじいリアクションが炸裂した。
まずリオは、掌に乗せられた冷たくも温かくもない謎の七色の物体を見つめたまま、表情筋を完全に消失させた真顔のまま、座った状態でソファから垂直に三十センチほど飛び上がった。
続いてヒマリは、空いた左手の人差し指と小指だけをピンと立てた独特なサインを顔の横に構えるという妙なポーズでビシッと硬直し、瞳を限界まで見開いた。
そしてネルは、掌の光るバーに全身の毛を逆立て、威嚇する野良猫のような奇声を上げて背中を丸めた。
「「「…………っ!?」」」
「あはは、懐かしいなぁ。昔のわたしたちも、あんな風にびっくりしてたよね〜」
「うへ〜、お気持ちは痛いほど分かりますよ。まあ、慣れると便利なんですけどね」
硬直する三人を眺めながら、ユメ先輩とホシノが生温かい目で湯呑みを傾けている。
「……ショウさん。これは……これは一体、どのような工学・理論的アプローチで質量を帯びているのですか……?分子構造は……?熱伝導率すら感じないのに、確かに質量が存在している……!?」
座面に着地したリオが、カタカタと震える指先でヘイローをつつき、完全に思考回路をショートさせていた。せっかくなので、俺は返してもらったヘイローを一つにまとめ、ちょっとした実演――名付けてショウのびっくりマジックショーを披露してやることにした。
「まあ、百聞は一見にしかずだ。例えばだな……こうやって丸めて、ラップの芯みたいにするだろ?」
俺はヘイローのバーを両手でググッと細長い筒状に成形し、望遠鏡のように片目に当ててリオに差し出した。
「覗いてみて」
「え……? あ、ええ……」
困惑しながら筒の端に目を当てたリオが、一秒後に息を呑んだ。
「……な、何これ!?筒の先が空間を曲げて、ミレニアムタワーの最上階から自治区全体を上空から俯瞰で見下ろす映像が直に網膜へ投影されているわ……!?光学レンズもセンサーも積んでいないのに、なぜ衛星視点が得られるの!?」
「知らん。なんか見えるんだよな。んで、次はこれだ」
俺は筒をぐにゃりと練り消しのように丸め、少しだけ神秘を流し込んでから、車椅子で乗り出してきていたヒマリの華奢な手のひらにぎゅっと握らせた。
「はい、ヒマリ」
「おや……? まあ……!これは心地よい熱量ですね……。病弱な私の四肢の末端まで、まるで温泉に浸かっているかのようにポカポカと温まってまいります。……ショウさん、これ、すっごく気に入りましたのでこのまま私の私物として頂戴しても?」
「おいコラ、勝手に人んちのヘイローを懐に入れるな」
まあ、ヒマリがえらく気に入った様子だったので、後で手のひらサイズの分を一つプレゼントしてやることにした。どうせ減っても戻るし。
さらに俺は、残りの光の帯をテーブルの上に布のように敷き詰めると、角を四つ摘んで風呂敷のように宙へ煽ってみせた。パッ、とテーブルに広げ直すと、そこには油の香ばしい匂いとともに、揚げたて熱々のフライドポテトが山盛りに出現していた。
「はい、おやつ」
「「「…………」」」
合理主義者のリオはいちいちシステムエラーを起こしてフリーズし、ヒマリは「未知の特異現象です……素晴らしい……!」と目を爛々と輝かせ、諦めたネルは「すげえじゃん…」と素直にパチパチと拍手を送った。
山盛りのポテトをつまみながら、場の空気はますます打ち解けていく。
そんな中、おそるおそるポテトを口に近づけるリオをよそに、ポテトを数本まとめて口に放り込んだネルが、ふと思い出したように好戦的な目を細めた。
「そういや、お前らの戦闘データも色々騒がれてたな。アビドスの三人……ぶっちゃけ、一番強えのは誰なんだ?」
「逆に聞くがなんで聞くんだ?ネルはメイド服を着ているから、そういった部活動をしていると思ったけど」
「いや、これは……まあいいか。あたしはメイドの格好を隠れ蓑にして自治区内の厄介事を秘密裏に片付ける、『C&C』っつーエージェントも兼用してる部活に入ってんだよ」
「それはお掃除の意味がちがくないか?」
ミレニアムの武闘派とわかったネルの、らしいド直球な質問。その問いかけに、俺たちアビドス側の三人は同時に顔を見合わせた。
そして――。
「「「せーの」」」
バッと勢いよく指を突き出す。俺は迷わずホシノを指差し。
ホシノとユメ先輩の二人は、揃って俺を指差していた。
「「えっ、なんで!?」」
俺とホシノの声が完璧にハモった。
「なんでってお前、どう考えてもホシノだろ!」
俺は身を乗り出して、日頃から相棒に対して抱いていた評価を一気にまくし立てた。
「至近距離の射撃精度、突入と制圧のスムーズさ、無駄のない足運び、反射神経の速さ、それに戦闘中の状況判断と戦術眼……どれを取ってもキヴォトスでトップクラスだろ! 総合的なタイマンの戦闘力なら、間違いなくホシノが一番強いに決まってる!」
「なっ……!? ななな、何言ってるんですか急に……ッ!?」
真正面から混じり気なしのド直球でべた褒めされたホシノは、耳の先までボッと赤く染め上げ、抱きかかえるようにして身を縮こまらせた。
だが、次の瞬間、あまりの気恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、真っ赤な顔のまま逆ギレ気味に反撃してきた。
「ショウだってそうじゃないですか! 私やユメ先輩を遥かにぶっちぎる異常な怪力と頑丈さを持ってて、遠距離射撃も百発百中!それに、私と毎日のようにやってる模擬戦や実戦のせいで、立ち回りの技術までメキメキ上がって隙がなくなってきてるんですよ!?何より……何よりその、物理法則をゴミ箱に捨てるような無法で理不尽な能力があるんですから、普通に戦ったらショウの方が強いに決まってます!!」
「いやいやぁ、小鳥遊さん、技術の精密さが違いすぎるだろ!」
「円さんこそ、デタラメのゴリ押し加減が酷すぎますよね!!」
お互いに顔を真っ赤にして、相手の強さを主張し合いながら小競り合いを始める俺とホシノ。
その様子を、ユメ先輩は両手を頬に当て、これ以上ないほど温かく幸せそうな眼差しで見つめていた。リオも口元をわずかに緩め、ヒマリは「青春ですねぇ」と優雅にお茶を啜っている。
「……チッ、仲がいいこって」
ネルが呆れたように鼻を鳴らし、ガリガリと頭を掻いた。
「ノロケはお腹いっぱいだ。で、結局のところ、白黒つけたらどっちがつええんだよ?」
ネルが痺れを切らして結論を促すと、ユメ先輩がクスクスと笑いながら助け舟を出した。
「うーん、そうだねぇ。純粋な銃撃戦や技術の勝負ならホシノちゃんが上回ることもあると思うけど……ルール無用の『何でもアリ』な実戦だったら、ホシノちゃんには悪いけど、ショウくんかな〜?」
「……う。まあ、何でもアリなら否定はできませんね……」
ホシノも悔しそうに唇を尖らせつつ、コクコクと頷いて同意した。
その言葉を聞いた瞬間。ソファの肘掛けに腰掛けていたネルの瞳の奥で、カチリと獰猛な火花が散った。
「へぇ……何でもアリのデタラメ野郎、ねえ」
ネルの口元が吊り上がる。小柄な体躯から立ち昇る、圧倒的なまでの好戦的な闘気。彼女はバチッと両手の指を鳴らし、獲物を見定めた肉食獣のような不敵な笑みを浮かべて、俺の顔を真っ直ぐに指差した。
「おい、ショウ!話を聞いてりゃウズウズしてたまんねえや!……あたしと一発、模擬戦やろうぜ!!」
現在の時間軸であれば、ゲヘナで捕らわれているであろうマコトとイブキ、あるいは百鬼夜行で孤立無援となっているアヤメの元へ介入できる余地があります。どちらも非常に魅力的なキャラクターのため、うちのショウを関わらせたいという思いが湧いてきました。
一方で、本編(原作開始)突入までに話数が延びてしまう点や、オリジナル展開の比重が大きくなるというデメリットもあります。
つきましては、本エピソードを読みたいかどうかのアンケートを実施します。回答期限は次回更新までとさせていただきます。
1〜3話を目安に書きます
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ゲヘナ雷帝編(雷帝ナシ)
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アヤメ誘拐編
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どっちも書いて♡
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別にいらないな、回想でいい