あの後、立てこもることおよそ十五分。
トイレの扉がギィと静かに開き、中から出てきたヘルメット団の少女は、完全に魂の抜けた、だがどこか解脱した聖者のような清々しい顔をしていた。
何はともあれ、一人の少女として、そして人間としての社会的尊厳は奇跡的に守られたらしい。本当によかった。
「……うぅ、ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
正気を取り戻した彼女は、ホシノにショットガンを突きつけられるまでもなく、店主の前に正座して涙ながらに深々と頭を下げた。店主も、強盗被害から一転して「人間の尊厳の瀬戸際」をリアルタイムで見せつけられたせいで情緒が完全に疲弊しきっており
「い、いや……反省しているならもういい……怪我人も出なかったしな……」
と、力なく手を振って許してくれた。
特にトイレを借りた当の少女は、命の恩人にすがるような目で店主の手を両手で握りしめ、「必ず……必ず割れたガラスの弁償とお礼に来ますからぁ……!」と鼻水をすすりながら約束し、路肩で気絶していた仲間を両脇に抱えて、夜の闇へとペコペコ頭を下げながら去っていった。
結果としてアビドスの平和は保たれ、新たな犯罪者を更生させることすらできたのだから、俺の放った謎の弾丸もあながち間違いではなかったのかもしれない。
……ホシノには「二度と使うな」と物凄い形相で釘を刺されたが。
そんな怒涛のトラブルを乗り越え、俺たちは「また明日、学校でな」と笑顔で解散した。
今は一人、砂漠の冷たい夜風を浴びながら、下宿先へと向かって夜道を歩いている。
アビドス自治区は砂嵐の影響でインフラ整備がほとんど行き届いておらず、街灯の多くは球切れを起こして放置されていた。見渡す限り、漆黒の闇と赤茶けた砂の影が広がっている。
だが、俺にとっては暗闇など何の問題もなかった。
「……よし、黄色だな」
俺が少し意識を集中させると、頭上でピコピコと上下運動を繰り返していたヘイローのうち、中央付近の黄色いバーがギュイィンと伸びて、ひときわ眩しい光を放ち始めた。
まるで高性能の投光器のように、俺の周囲数メートルがパッと明るいレモンイエローの光に照らし出される。
暗い夜道を歩く時、懐中電灯を持たなくても足元をしっかり照らせる。
やっぱりこういう時、俺のヘイローは地味に便利だなと思う。外の世界にいた頃は気味悪がられたものだが、使い方次第では十分に役に立つ。
そんなことを考えながら、砂利を踏みしめて夜の路地を進んでいた、その時だった。
頭上の黄色い明かりが届くギリギリの境界線――
アスファルトと砂が混ざり合う路地の片隅に、スッと佇む二本の「人の足」が視界に入った。
(ん? 通行人か……?)
こんな夜遅くに、しかもこんな寂れた通りを歩く生徒がいるのだろうか。
夜道を照らす親切心のつもりで、俺はそのまま歩みを止めずに近づいていった。
だが――光がその人物の全身を捉えた瞬間、俺はごく自然に足を止めていた。
そこに立っていたのは、俺がこれまでキヴォトスで見かけてきた、銃をぶら下げた女子生徒でもなければ、気風のいい獣人でも、陽気なロボットの市民でもなかった。明らかに、そのどれとも異なる異質な様相をしていたのだ。
一言で言うなら、徹底的なまでの「黒」。
仕立ての良い、だが光を一切反射しないような深い黒のスーツ。
足元を包む磨き抜かれた黒い革靴。
指先まで隙間なく覆い隠す、黒い革手袋。
そして、何よりも異様だったのは――その頭部だった。
首から上にあるのは、人間の顔でも、動物の毛並みでも、機械のセンサーでもない。
のっぺりとした、墨汁のように黒い球体。
その漆黒の頭部には、まるで瀬戸物に焼きが入って割れたかのように、あるいは顔のパーツの輪郭をなぞるかのように、白く無機質な「ヒビ割れ」が幾筋も深く刻み込まれていた。
夜の静寂の中、その黒ずくめの男は、微動だにせずそこに立っていた。
そして、顔のヒビ割れの奥から――まるで底知れぬ深淵から覗き込むような、ねっとりとした視線を、俺へと真っ直ぐに向けていた。
俺は足を止め、無意識に重心を低く落として身構えた。
見た目が飛び抜けて怪しいのは言うまでもない。だがそれ以前に、街灯もない一本道のど真ん中に仁王立ちして、他人の進行方向を塞いでいること自体が極めて不審だった。
いくら治安が悪い自治区だからといって、わざわざこんな夜更けに道の真ん中で立ちんぼをしている奴に、ろくな目的があるはずがない。
「……誰だ?」
俺は鋭い眼光を崩さず、頭上の黄色い明かりで男の全身を照らし出しながら、低く問いかけた。
すると、黒ずくめの男は慌てる様子もなく、胸元にすっと黒革の手袋を当て、洗練された動作で深々と一礼してみせた。慇懃極まりない、だがどこか相手を見下しているような、薄気味悪い丁寧さだった。
「おや、これは失礼。夜道で驚かせてしまいました?」
首元から響いてきたのは、低くねっとりとした、耳の奥にへばりつくような男の声だった。
顔のヒビ割れが微かに歪み、口元めいた亀裂がわずかに開く。
「名乗るほどの者ではありませんが……強いて言うならば、私は『ゲマトリア』と呼ばれる探求者の集いに身を置く者です。もっとも、私個人には貴方方が使うような『名前』という概念を持ち合わせておりませんでね。呼び名など記号に過ぎません。どうぞ、貴方の好きなように呼んでいただいて構いませんよ。……クックックッ」
男は喉を低く震わせて、不気味に笑った。
普通の生徒なら背筋を凍らせるか、即座に銃を引き抜いて構えるような異様な雰囲気だ。
「……で、そのゲマトリアの人が、俺に何の用なんですかね」
「単刀直入で素晴らしい。ええ、実は貴方に少々、お尋ねしたいことがありましてね」
黒ずくめの男はゆっくりと顔を上げ、ヒビ割れた顔面を俺の頭上――七色のヘイローへと向けた。その奥にあるはずの瞳が、狂気を孕んだ好奇心で爛々と輝いているのが気配で分かる。
「円ショウさん。外の世界より訪れし、規格外の特異点たる貴方。……少しばかり、私とお話しするお時間をいただけないでしょうか? キヴォトスの理から外れた、その類稀なる『神秘』について……ぜひ、じっくりと語り合いたいと思いましてね」
男の言葉には、どこか抗いがたい圧迫感があった。
裏社会のフィクサーか何かが、獲物をじわじわと追い詰めるような、底知れぬ企みを孕んだ誘い。
だが――
今の俺にとって、そんな思わせぶりな勧誘はどうでもよかった。
朝から不機嫌なホシノの相手をし、放課後はガンショップで物理法則が壊れる射撃をさせられ、柴関ラーメンで絶品を堪能したと思ったらヘルメット団に襲われ、あまつさえ相手の女の子の社会的尊厳を守るために大パニックに巻き込まれたのだ。
精神的にも肉体的にも、今日はもう完全にキャパシティをオーバーしていた。早く家に帰って、熱い風呂に入って泥のように眠りたい。ただそれだけだった。
俺は小さく息を吐き出し、めんどくさそうに首を横に振った。
「悪いけど、すげえ疲れてるんだよ。また明日でいいか?」
「………………はい?」
黒ずくめの男のヒビ割れた顔が、ピキリと静止した。
百戦錬磨の怪人であっても、この反応は完全に想定外だったのだろう。ねっとりとした笑みが凍りつき、間抜けな声が漏れ出る。
「あ、あの……円ショウさん? 私は――」
「いや、聞こえてたよ。でも腹も一応膨れてて、眠いんだ。話があるなら、また日を改めてくれ」
あくびを噛み殺しながら手をヒラヒラと振る俺を見て、男はしばし沈黙した。
そして、俺の顔と全身から漂う「本気の疲労感」をじっと観察すると、やれやれと首を振るように、黒革の手袋を顎に当てた。
「……なるほど。どうやら、本当に心身ともにお疲れのようですね。初日にしては少々、刺激的な一日を過ごされたようだ。ここで無理に引き止めるのは、無粋というものでしょう」
男はあっさりと引き下がり、再び慇懃に小さく頭を下げた。
「分かりました。では、明日の放課後などに改めて。……場所と時間はこちらから端末へ連絡させていただきますので」
「ああ、わかった。じゃあな」
俺が軽く手を挙げて応えると、男はクックックッ、と再び喉を低く鳴らした。
「ええ、良き夜をお過ごしください、円ショウさん。……また明日、お会いしましょう」
その言葉を最後に、男の輪郭がすうっと滲んでいく。
俺の頭上の黄色い明かりが照らし出していたはずの空間から、まるで夜の闇そのものに溶け込むかのように、黒ずくめの男の姿は跡形もなく消え去っていた。
「……消えたな。足音もしなかったし……黒かったから、忍者か何かか…?」
俺は特に恐怖を覚えることもなく、頭上のヘイローを少しだけ揺らしながら、再び下宿先を目指して重い足取りで歩き始めた。
得体の知れない組織だの、神秘についての話だの、そんなことは明日の放課後に考えればいい。
夜風の冷たいアビドスの道を、俺はただ布団の温もりだけを夢見ながら、のんびりと帰路についたのだった。
翌日は、アビドス高校の「自由登校日」だった。
生徒が三人しかいない学校で自由登校日も何もない気はするが、基本的には各自が課題を進めたり、自治区の巡回や環境整備を行ったりと、比較的のんびりと過ごしていい日ということになっているらしい。まあ、借金だらけの現状では、そんな事をしている暇がなく、もっぱら金稼ぎで時間が消えていくが。
埃っぽい教室の窓を開け、心地よい砂漠の朝風を浴びながら、俺は机の上にノートを広げているホシノと、お茶を淹れてくれたユメ先輩に向かって、昨夜の出来事を思い出しながら口を開いた。
「そういえばさ。昨日の帰り道、変な奴に声をかけられたんだよ」
「へー、そうなんですか」
ホシノは問題集に視線を落としたまま、ペンの先をカリカリと動かして実に軽い調子で相槌を打った。
本来なら、自治区を狙う怪しい組織が暗躍しているとなれば真っ先に警戒のアンテナを張るはずの彼女だが、昨日の今日である。何より「ショウのことだから、またあの凶悪な目つきかヘイローのせいで変な輩に絡まれたのだろう」くらいにしか思っていないようだった。
「どんな奴だったんですか? また銃撃戦の巻き添えですか?」
「いや、全身真っ黒のスーツを着ててさ。靴も手袋も黒で、頭全体がのっぺりとした黒い球体で、顔の部分に瀬戸物みたいなヒビ割れが入ってる男だった。『ゲマトリア』とか名乗ってて、俺の神秘について話がしたいって言ってた」
「んー……? 全身真っ黒で、お顔にヒビ割れ……?」
お盆を抱えたユメ先輩が、人差し指を頬に当ててポヤポヤと首を傾げた。
「自治区の不審者情報には、そんな見た目の人はいなかったと思うけどなぁ〜。仮面のヘルメット団とか、怪しい金融業者さんならいっぱいいるんだけどねぇ……やっぱり、自治区のパトロールをもう少し増やした方がいいのかなぁ?」
「まあ、ショウのことですからね。適当にあしらって追い払ったんでしょう?」
「ああ。疲れて眠かったから、『また明日でいいか?』って言ったら、『分かりました、放課後に連絡します』って言って闇に溶けるみたいに消えていったぞ」
「なら大丈夫じゃないですか。約束を取り付けるだけ取り付けて、相手もショウの顔の怖さにビビって二度と来ないパターンですよ、それ」
ホシノはあっけらかんと言い放ち、テキストのページをめくった。
本来であればアビドスの危機に誰よりも過敏なホシノが真っ先に接触し、激しい警戒心を抱くはずの相手だった。だが、ショウが内に秘める莫大な神秘に引き寄せられた黒服が、ホシノを完全にすっ飛ばしてショウにアプローチをかけてしまったため、アビドス生徒会の危機管理網には見事に引っかからなかったのだ。
「まあ、また来たら適当に話を聞いてみるよ」
後で知ることとなる事実を前に、俺も特に気にする様子もなく、そのまま午前中の自習を再開したのだった。
――そして、お昼休みの時間。
壊れたチャイムの代わりにユメ先輩が持ってきたハンドベルの音が鳴り響き、俺たちは三つの机を向かい合わせにしてくっつけた。
「はぁ〜、お腹すいたねぇ! 今日のお昼ご飯は何かな〜?」
「私は購買で買ってきたカロリーメイトと水です。安くて手軽ですし、栄養も取れますからね」
ホシノが銀色の包装を破りながら、質素極まりない昼食を取り出す。ユメ先輩はコンビニで買った数個のパン。
そんな二人の前で、俺は鞄から少し大きめの二段重ねのタッパーを取り出し、風呂敷を解いた。
パカッとフタを開けた瞬間――
ふわっと香ばしい醤油と出汁の香りが教室いっぱいに広がり、ホシノとユメ先輩の視線がピタリと俺の手元に吸い寄せられた。
「……え?」
「わぁぁ……!ショウくん、それ……お弁当!?」
タッパーの中に整然と詰められていたのは、黄金色にふっくらと焼き上がった厚焼き卵、カリッと揚がったキツネ色の鶏の唐揚げ、タコ型に切った赤ウインナー、ほうれん草の胡麻和え、そして炊きたての白米に綺麗に散らされた黒ごまと梅干しだった。
色合い、バランス、詰め方に至るまで、完璧な仕上がりの手作り弁当である。
「ああ。外にいた頃から自炊は一通りやってたからな。朝、少し早起きして作ってきたんだ」
「す、すご〜い!お店のお弁当みたいに綺麗だよ〜! ショウくん、お料理もできるんだねぇ!おいしそ〜」
目を輝かせて身を乗り出すユメ先輩と、口をあんぐりと開けて固まっているホシノ。
そんな二人の反応を見ながら、俺は割り箸をパチンと割り、ふと思い立ってホシノに向き直った。
「なあ、ホシノ。ちょっと頼みがあるんだが」
「……はい? 何ですか、藪から棒に」
ホシノが警戒するように眉をひそめる。
俺は箸の先を自分のタッパーに向け、それから真剣な眼差しでホシノを見つめた。
「俺に、戦い方を教えてくれないか」
「……戦い方、ですか?」
ホシノは怪訝そうに目を細めた。
「何を急に言い出すかと思えば……。貴方、昨日あんなアホみたいなやり方でヘルメット団を沈めたじゃないですか。それに、銃弾を弾き飛ばして撃った相手の脛に跳弾を当てるようなデタラメな頑丈さを持ってるのに、これ以上何を学ぶ必要があるんですか?」
「いや、そうじゃないんだよ」
俺は息を吐き出し、昨夜の光景を思い出しながら、正直な胸の内を明かした。
「昨日、あの不良が突っ込んできた時……俺、引き金を引くのが一瞬遅れただろ」
「あ……」
ホシノの目がわずかに見開かれた。
「頭じゃ撃たなきゃ、って分かってたんだ。でも、いざ生身の人間を銃で撃つとなると……指が強張って、どうしても躊躇っちまった。外の世界じゃ、銃を人に撃つなんて絶対にあり得ないことだったからな」
撃たれることには慣れていても、自らの手で誰かを撃ち、傷つけることへの本能的なブレーキ。
俺が淡々とそう語ると、タッパーの中の厚焼き卵をじーっと見つめていたユメ先輩が、ふと顔を上げて柔らかく微笑んだ。
「あ、そっかぁ……。ショウくん、外の世界から来たんだもんねぇ」
ユメ先輩の言葉には、深い納得が込められていた。
おっとりとしていて、時にポンコツなところもあるユメ先輩だが、彼女もまたキヴォトスで生まれ育った生徒の一人だ。普段はどれほど無類の優しさと平和を愛する心を持っていても、この街に生きる者として「銃を撃ち合って身を守る」ということに対して、心理的な戸惑いや罪悪感を抱くことはない。それは彼女たちにとって、呼吸をするのと同じくらい当たり前の日常だからだ。
だが、俺は違う。
平和で、銃刀法が厳しく機能していた「外の世界」の倫理観を持って、この砂漠の学校へとやってきたのだ。
「……ショウくんのその優しさは、すっごく素敵なことだと思うよ〜」
ユメ先輩がふんわりと目を細める。
俺は「そう言ってもらえると助かります」と苦笑し、厚焼き卵の切れ端をひとつ、箸でつまんでユメ先輩の空になった袋の上に乗せてやった。
「これ、よかったら。少し甘めに焼いてます」
「わぁっ、いいの!?やったぁ〜、いただきます!……んん〜〜っ!お出汁がじゅわ〜って広がって、すっごく甘くて美味しい〜〜!」
ユメ先輩が両手を頬に当てて幸せそうにとろけている。
それを見ていたホシノは、カロリーメイトを握りしめたまま、どこかバツの悪そうな顔で視線を落とした。
「……確かに、キヴォトスの常識をそのまま押し付けるのは、酷だったかもしれませんね」
ホシノは小さく息をつき、ツンとした表情の中に、わずかな気恥ずかしさを滲ませた。
「敵に対して引き金が引けないなんて、ここキヴォトスじゃ命取りです。でも……貴方が無意味に人を傷つけるのを嫌がった結果なんだとしたら、頭ごなしに怒るわけにはいきませんし」
「悪いな。足手まといになりたくないんだ。だから、制圧する方法とか、銃の撃ち方をもっと叩き込んでほしい」
「……まったく。同級生に戦い方を教えるなんて、変な話ですけどね」
ホシノはため息混じりに呟きながらも、その口元は微かに緩んでいた。
俺はそんな彼女の前に、タッパーから一番大きくてジューシーそうな鶏の唐揚げをひとつ摘んで差し出した。
「お礼と言っちゃなんだが、これ食ってくれ。下味に生姜とニンニクをしっかり効かせてある」
「えっ? い、いや、私はカロリーメイトがありますし――」
「美味いぞ。ほら」
「……じゃ、じゃあ、一口だけ……」
「ひゃぁー……あーん、だー…」
隣のユメ先輩が小声で何か言っていたが、観念したように口を開けたホシノの口元へ、唐揚げを放り込む俺には聞こえなかった。
唐揚げがホシノの小さい口に収まり、サクッ、と衣の小気味よい音が教室に響いた。
次の瞬間――
「…………っ!?」
ホシノの背筋がピンと直立した。
両目をカッと見開き、もぐもぐと咀嚼する彼女の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
溢れ出す濃厚な肉汁、絶妙な塩気と香ばしい醤油の風味、そして柔らかくジューシーな鶏肉の旨味。
「……な、何ですかこれ……ッ!外はサクサクなのに、中はジューシーで……コンビニのより百倍美味しいじゃないですか……ッ!」
「お、口に合ったみたいでよかった」
「くっ……!な、なんで料理までこんなに上手いんですか貴方は……!何か……何だかすごく悔しいんですけど……!」
なぜか猛烈な敗北感に苛まれたらしいホシノは、リスのように口をモゴモゴさせながら、涙目で俺をキッと睨みつけてきた。ツンツンしているが、本当に表情が豊かで見ていて飽きない。
ゴクリと唐揚げを飲み干したホシノは、手元の水をごくごくと煽ると、気を取り直したように机をバンと叩いて立ち上がった。
「……分かりました!そこまで言うなら、この私が直々に稽古をつけてあげます!昼休みが終わったら、裏庭の広場へ行きましょう!まずは私と、一対一の模擬戦をやります!」
「模擬戦か。ありがたい、よろしく頼む」
俺が素直に頭を下げると、ホシノは「手加減はしませんからね」と誇らしげに鼻を鳴らした。
「よし、じゃあ午後に向けてしっかりエネルギーを補給しとかないとな」
俺が自分の白米を口に運ぼうとした、その時――
視界の端から、ユメ先輩の指が猛スピードでタッパーの中の『タコさんウインナー』めがけて伸びてきた。
先輩はお花畑のような満面の笑みを浮かべたまま、音もなく主菜の強奪を試みている。
俺は目線を動かすこともなく、自分の手を滑り込ませ、ユメ先輩の指を完璧なタイミングで挟み込んでブロックした。
「ああっ!? 私のタコさんが〜〜っ!?」
「先輩のじゃありません。俺の弁当です」
「ひぃん……!タコさんと目が合っちゃったから、つい……えへへ……」
「ユメ先輩、人の弁当を強奪しようとしないでくださいよ。生徒会長の威厳はどこに行ったんですか?」
教室にホシノの鋭いツッコミが響き渡り、諦めたユメ先輩はお茶をすすりながら「えへへ〜」と舌を出して誤魔化した。
昼下がりの砂漠の学校に、三人分の笑い声が心地よく溶けていった。
昼休みが終わり、俺たちは校舎の裏手にある荒涼とした広場へと移動していた。
砂漠の砂が少し積もったコンクリートの敷地。かつては運動場か訓練場として使われていたのか、所々に朽ちかけた障害物や土嚢が放置されている。
「いいですか、ショウ。実戦形式でいきますよ。私が仕掛けますから、貴方は自分の身を守りつつ、隙を見て私を無力化することだけを考えてください」
少し離れた位置で、ホシノがショットガンを腰だめに構え、鋭い眼光で俺を見据えた。
その真剣な表情からは、同級生を鍛えてやろうという気迫と、先ほどの唐揚げへのリベンジ心がメラメラと立ち上っている。決して今までの鬱憤を晴らそうとしている訳じゃないと思いたい。
広場の端っこでは、パイプ椅子に座ったユメ先輩が「二人ともがんばれ〜!」とお手製の小旗をポヤポヤと振っていた。
「わかった。よろしく頼む」
「では――始めッ!」
合図と同時に、ホシノが砂を蹴った。
目にも留まらぬ鋭いダッシュ。小柄な体を低く沈め、ジグザグのステップで一気に間合いを詰めてくる。
俺がハンドガンを抜こうとした瞬間には、すでに彼女のショットガンの銃口がゼロ距離で俺の胸元に突きつけられていた。速い。
至近距離から散弾が炸裂した。
強烈な爆風と硝煙が俺の全身を包み込みのぞける。直後にホシノの流れるような足払いが俺の右足を払う。
体勢を崩した俺の胸倉を掴み、背負い投げの要領でアスファルトへと叩きつける完璧な連続技――!
「うわっ」
コンクリートに背中から激しく叩きつけられ、砂が盛大に舞い上がった。
相手にかかる重力を利用した、教科書通りの美しい制圧。生徒以外なら肋骨の数本がへし折れて息も絶え絶えになる一撃だ。
「よし……これで流石にショウでも動けな――って、ええっ!?」
勝ち誇りかけたホシノが、目を剥いて絶叫した。
「……なるほど。足払いで重心を奪ってからの投げか。勉強になるな」
俺は寝転がった状態のまま、感心して青空を見上げていた。
痛くも痒くもないのはいつものことだが、何より不思議だったのは俺の制服だった。砂まみれの地面に背中から叩きつけられたというのに、ブレザーにもスラックスにも、埃ひとつ、砂粒ひとつ付着していない。まるで汚れそのものを弾き飛ばしたかのように、完全無欠の綺麗さを保っていた。
「な、なんで……!?砂だらけの地面に全力で叩き落としたのに、なんで制服も綺麗なままなんですか!?」
「さあ……?昔から服もあんまり汚れないんだよな」
「体質で片付けられる現象じゃないでしょうが!!くっ、ならこれならどうですかッ!」
納得のいかないホシノはショットガンを放り出し、馬乗りになると、周囲に圧がかかる勢いで拳を固めた。
体格差などものともしない、渾身のストレートによる振り下ろしが、俺の鳩尾めがけて真っ直ぐに振り下ろされる。
まるで除夜の鐘を全力で打ち鳴らしたかのような、重厚な金属音が裏庭に響き渡たり地面を揺らす。
「…………い、痛ったぁぁぁぁぁッッ!!」
次の瞬間、悲鳴をあげたのは殴った方のホシノだった。
彼女は涙目になりながら自分の右手を抱え込み、俺の上で悶絶している。
俺はと言えば、お腹のあたりに「ポン」と柔らかいクッションを乗せられた程度の感覚しかなく、ケロリとした顔で起き上がった。
「大丈夫か、ホシノ?突き指でもしたか?」
「貴方の腹筋が……っ!戦車の装甲より硬いのが悪いんでしょうが!!」
ホシノは痛む右手をフーフーと必死に冷ましながら、よろよろと立ち上がった。
そして、膝に手を置いて前かがみになり、荒い息を吐きながら俺を睨みつけてきた。冷や汗で肩を上下させ、痛みとツッコミで疲労を起こしている。
「はぁ……はぁ……!な、なんですか……その、アホみたいに頑丈な体は……!!流石に、私の拳でそんな反応はおかしいですよ!」
攻めていたはずのホシノが満身創痍でぜぇぜぇと息を切らし、一方的に投げ飛ばされて殴られたはずの俺は、傷ひとつなく服も綺麗なまま爽やかに佇んでいる。
あまりにも奇妙な光景だった。
だが、俺自身にとってもこれは物心ついた頃からの日常だった。
理由はまったく分からないのだが、俺は昔からとにかく無駄に体が頑丈で、おまけに異常なほど「悪運」……いや、妙な幸運に恵まれていたのだ。
外の世界にいた子供の頃、ビルの工事現場の横を歩いていたら、頭上から大きな鉄骨がまっすぐ落下してきたことがあった。
絶対絶命のはずだったが、なぜか直前で突如吹き荒れた謎の竜巻のような突風で鉄骨の落下軌道がグニャリと直角に曲がり、十メートルくらい離れた場所でたむろしていた不良たちの自転車の山にクリーンヒットしてペチャンコにした。俺はそよ風を浴びただけで無傷だった。その不良は最近街で騒音被害を出していたので、俺はスッキリした。
またある時は、居眠り運転の大型トラックが歩道の俺めがけて突っ込んできたのだが、激突する直前にトラックのタイヤが四輪ともスポーンと一斉に外れてどこかへ転がっていき、車体は俺の靴先数センチのところで火花を散らして綺麗に停車した。結局、運転手のおっさんと二人で「……なんだこれ」「……ですね」と顔を見合わせるだけで終わった。
自分に降りかかってくる危険や災難が、なぜか直前で理不尽に軌道を外れ、時には仕掛けてきた相手が勝手に自滅して終わる。
そんなことばかりを経験してきたものだから、俺にとって「ピンチ」や「怪我」という概念は、どこか遠い世界の絵空事のように感じられていたのだ。
「いや、ホシノの体術は本当に凄かったぞ。体が勝手に動くというか、流れるような連撃だった。すごく参考になった」
「ぜんっぜん嬉しくありません!! 参考になった顔で無傷で立ってるんじゃない!」
ホシノは息を整えて、悔しそうに口を尖らせた。
そこへ、小旗を持ったユメ先輩が「おつかれさま〜!」と冷たい麦茶の入った水筒を持ってトコトコと歩み寄ってくる。
「二人とも、すっごくかっこよかったよ〜! ホシノちゃんの動きも凄かったし、ショウくんも凄かった?ねぇ〜!」
「先輩、見てたなら分かりますよね!? この男、手加減なしの攻撃を全部無効化した挙句、私の拳を粉砕しかけてきたんですよ! これもう人間じゃなくて歩く要塞ですよ要塞!」
「えへへ、でもショウくんが怪我しなくてよかったじゃない。ホシノちゃんもお手手、冷やそっか〜」
ユメ先輩が濡れタオルでホシノの手を優しく包んでやると、ホシノは「うぅ……痛いです」と小さく鼻を鳴らして大人しくなった。ツンツンしていても、先輩の優しさには弱いらしい。
「すまんな、ホシノ。怪我をさせるつもりはなかったんだ。ごめん」
「……いいです、別に。貴方が規格外の頑丈びっくり人間だってことを身をもって学習しましたから。もう二度と生身で殴ったりしません」
ホシノは溜め息をつき、包帯の代わりにタオルを巻いた手をプラプラと振った。
戦い方を教わるつもりが、相棒のスタミナと拳を痛めつける結果になってしまったのは少し申し訳ない。だが、彼女が本気で向き合ってくれたことは素直に嬉しかった。
「よし、じゃあ次は俺がホシノに手作りのおやつでも奢るよ。拳の痛みに効くやつ」
「ヘイローをもぎ取って混ぜた物を食べさせようとするのだけは絶対にやめてくださいね!?」
砂塵の舞う裏庭に、ホシノの鋭いツッコミが木霊したのだった。
その後は、互いに怪我をしないよう形式を改め、実践的な訓練に時間を費やした。
ホシノからは心構えから、狭い路地や遮蔽物を利用したシチュエーション別の射撃術や、接近戦で敵の体勢を崩す体術の基礎を叩き込まれた。彼女の指導は厳しくも合理的で、小柄な体格で大型のショットガンを操るためのノウハウが凝縮されていた。
一方、ユメ先輩からは、大型シールドを用いた防御の姿勢や、相手の突進を受け流す重心移動のコツを教わった。
「いい? ショウくん。敵の勢いを真正面から受け止めるんじゃなくてね、盾の角度をちょっとだけ斜めにして、砂を払うみたいに力を逃がしてあげるんだよ〜。ホシノちゃん、お願い」
「いきますよユメ先輩」
ユメ先輩の合図と共に、ショットガンで狙いを定めたホシノが、構えた盾目掛けて撃つ。
ホシノに合わせたショットガン「Eye of Horus」はバチバチの改造を施されており、ヘルメット団を一撃で気絶させる所を見るに、通常のショットガンと比べ凄まじい威力を誇っている。
近距離で迫りくるショットガンの弾。だがユメ先輩は慌てず、盾を若干斜めに構え、下半身は真っ直ぐに、上半身のみを軽く反らす事で、衝撃をほぼ全て流し難なく防ぎ切った。その姿は、長年アビドスを守り切った歴戦の勇者に相応しい姿だった。
「まあ、こんな感じかな〜?肩から足元へのラインの中央だったり体の近くに配置して攻撃の線を遮断することがコツだよ〜」
普段のおっとりした様子からは想像もつかないほど、実戦の要領をテキパキと的確に指示してくれるユメ先輩の姿に、俺は素直に感心した。
「すごい。普段はあんなにポヤポヤしてるのに、こういう時は頼りになる。流石は生徒会長ですね、尊敬しちゃいます」
「えへへ……そ、そうかなぁ〜?ショウくんに褒められちゃった、えへへへ〜」
俺が真っ直ぐに称賛の視線を向けると、ユメ先輩は両手で顔を覆い、耳まで真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。
その様子を横で見ていたホシノは、やれやれと首を横に振る。
「……はぁ。これで調子に乗って後先考えず突っ走らなければ、本当に尊敬できる立派な先輩なんですけどね」
口では手厳しいことを言いながらも、ホシノの横顔にはどこか穏やかで温かい色が浮かんでいた。彼女がユメ先輩のそういう危なっかしいところも含めて、深く慕っているのがよく分かる。
もっとも、真面目な訓練の合間にも、俺の体質とヘイローは相変わらずフリーダムに暴れ回っていた。
「いいですか、ショウ! 接近戦で敵に懐に入られたら、銃を構える暇なんてありません!身近にあるものを何でも利用して間合いを――」
ホシノが模擬用のゴムナイフを逆手に構え、鋭いステップで踏み込んできた。
武器を持っていなかった俺は、咄嗟に頭上に手を伸ばし――
「よし、これでいくか」
「いったい何をもぎ取って警棒みたいに素振りしてるんですか貴方は!?」
踏み込みの勢いのまま、ホシノの絶叫ツッコミが炸裂した。
俺の手の中には、さっきまで頭上でピコピコしていたはずの、硬質な七色ヘイロー。程よい重みとグリップ感で、警棒代わりにブンブンと振るには実にちょうどいい。
「いや、身近にあるものを利用しろって言われたから」
「身近すぎるでしょうが!自分のヘイローを武器にする生徒がこの世のどこにいるんですか!!」
「ショウくん、それすっごくカラフルで綺麗だねぇ〜!お祭りのピカピカ光る棒みたい〜!」
「ユメ先輩、呑気に縁日の感想を言わないでください!」
ホシノが叫びながらも、流石の反射神経で体勢を立て直し、至近距離からショットガンを構え直した。
「ええい、なら防御の練習です!撃ちますよッ!」
「防ぐならこうだ!」
俺は手に持ったヘイローの両端を掴むと、力任せに左右へグイッと引っ張った。
すると、ゴムのようにびろーーんと横に伸び、七色の光を放つ畳「光の巻物」へと形状を変えた。
「――はい?」
ホシノが引き金に指をかけたまま静止した。
「わぁ〜!七色のすだれだ〜!涼しそうだねぇ〜!」
「ていうか何でヘイローが伸び縮みしてるんですか!? 意味が分からない、意味が分からないですよ!!」
「いいから撃ってみてくれ」
「撃ちますよチクショウッッ!!」
至近距離から放たれた散弾を、七色のすだれは見事にペヨンッとトランポリンのように受け止め、すべての弾丸を真下へとポロポロ落とした。防弾性能もバッチリだ。
「よし、防げた」
「防げた、じゃないんですよ……もう……」
ホシノが生気を吸い取られた顔でよろめく。
俺が役目を終えたヘイローから手を離すと、すだれはパチンと弾けて千切れ、その一片が地面のコンクリートの上にポトッと落ちた。
落ちた破片はなぜか地面と融合し、そこには直径十五センチほどの、縁が光る、ゴルフカップの様な円形の穴がぽっかりと開いた。
「……ん? なんだこれ」
「ショウ、貴方また何か変な――って……わっ!?」
間合いを取ろうとバックステップを踏んだホシノの右足が、その穴へと吸い込まれるようにスッポリとハマった。
「な、抜けな――ぬわァァァッ!?」
ガクンと膝カックンを食らったような体勢になったホシノは、見事な放物線を描いて頭から寄せ集められた砂地へとダイブした。
結果、両足が綺麗に穴にハマったまま、お尻だけを天高く突き出してジタバタともがくという、芸術的なポーズでフリーズしてしまった。
「………………」
「………………」
一秒の静寂。
「……綺麗にホールインワンしたな」
「ぶっ……あははははっ! ホシノちゃん、すっごく綺麗にすぽーんって!」
俺の呟きに、我慢の限界を迎えたユメ先輩がお腹を抱えて大爆笑した。
ユメ先輩に釣られて、俺も堪えきれずに腹を抱えて笑う。
その笑い声が響く中――スポンッ、と気の抜けた音を立てて、穴から足が抜けた。
砂まみれのホシノが、すっと静かに立ち上がる。
先ほどまでのようにギャーギャーと喚き散らすことはなかった。ただ無言のまま、制服の砂を手でパパッと払い、前髪をかき上げる。
だが――その表情を見た瞬間、俺たちの笑い声がピタリと止まりかけた。
叫んでいない。怒鳴ってもいない。それなのに、彼女のオッドアイの瞳の奥が、獲物を狙う野生の肉食獣のようにギラリと狂気的な光を放っていたのだ。
口元には引き攣ったような笑みを浮かべ、全身から陽炎のように立ち上る、本物の殺気。静かに、だが確実に沸点を超えた時の人間の顔だった。
「……笑いましたね」
地獄の底から響いてくるような、低く、冷徹なドスの利いた声。
「二人とも、今……無防備な私の姿を見て、心の底から楽しそうに笑いましたね?」
「あ、いや、ホシノ……あれはあまりにもだったから、つい――」
「言い訳は要りませんし、聞きません」
ホシノが一切の躊躇なく、ショットガンをスライドさせて鉛の散弾を薬室へと送り込んだ。
その瞳は爛々と据わり、ギラギラとした凶暴な光で俺たち二人をロックオンしている。
「ふふ……いい度胸です。二人まとめて蜂の巣にして、砂漠の底へ首まで埋めて差し上げます……!」
怒気のあまり背後に夜叉の幻影が見えそうなほどのガチギレっぷり。
だが、その鬼気迫る形相と、さっきのお尻丸出しダイブの残像が脳裏で重なり合い、俺とユメ先輩は恐怖よりも先に笑いの限界を迎えてしまった。
「ぶふっ……!だ、ダメだ、思い出すと余計に……っ!」
「ひぃっ、あはははっ!ショウくんダメだよ、笑っちゃ――ぶははっ!」
「……殺ります」
「ユメ先輩、逃げますよ!!」
「うん、逃げるぅぅぅ〜〜っ!!」
本能が鳴らした最大警報に従い、俺とユメ先輩は顔を見合わせて吹き出しながら、脱兎の如く裏庭を駆け出した。
「待ち伏せするまでもなく今ここで八つ裂きです! 逃げるなぁっ!!」
「それはそうと猫のバックプリントは子供っぽいと思うぞ!」
「私はとっても可愛いと思うなっ!」
「ぶち殺しますっっ!!!」
更にギラついた目を剥き出しにしたホシノが、凄まじい脚力で砂煙を巻き上げながら猛追してくる。
笑いながら全速力で逃げる俺とユメ先輩、そして本気で命を刈り取りにくる鬼神のようなホシノによる、命がけの追いかけっこが始まったのだった。
――そうして、あっという間に放課後を迎えた。
夕日が赤茶けた校舎を長く染め上げる昇降口で、俺たちはそれぞれの鞄を手に並んでいた。
「それじゃあ、私は自治区の境界へ行ってきます。最近、手配書に載っている賞金首のチンピラ共がウロチョロしているらしいので、片っ端からシメて懸賞金を回収してきますよ。少しでも借金の足しにしないといけませんからね」
ホシノはショットガンの整備を終え、頼もしくも物騒な台詞を吐きながら靴を履き替えた。
「私も行ってくるね〜! 商店街の八百屋さんから、砂嵐で崩れちゃった日よけシートの張り替えのお手伝いを頼まれてるんだ〜。お駄賃に規格外のお野菜をいっぱい分けてもらえる約束だから、今日の夜ご飯は豪勢なお鍋にできるかも!」
ユメ先輩も軍手をポケットに突っ込み、嬉しそうに手を振る。
二人とも、それぞれのやり方でアビドスのために懸命に動いている。俺も手伝いたいところだったが――
「ショウくんはどうするの? 一緒に商店街行く?」
「いや、俺はちょっと用事があってな。昨日の黒いスーツの奴から、放課後に連絡を寄越すって言われてるんだ」
「あー……まあ、ショウを拐かそうとする命知らずがいたら、逆にそいつの胃腸が爆発するだけでしょうし、心配はしてませんけど。……あんまり遅くならないうちに帰ってくださいね」
「ああ、気をつけるよ。二人も怪我のないようにな」
「はーい、また明日ね〜!」
「明日、学校で」
二人の背中を見送り、俺は一人で校門を出た。
さて、あの黒ずくめの男――名前のないゲマトリアの男から、まだ指定の場所についての連絡は入っていない。端末を取り出して確認してみたが、新着メッセージの通知はゼロだった。
「まあ、急ぐ事でもないしな」
俺は両手をポケットに突っ込み、頭上の七色ヘイローを心地よい夕風に揺らしながら、連絡が来るまで夕暮れのアビドス自治区をのんびりとぶらつくことにした。