夕暮れの涼しい風を浴びながら、砂埃の舞う通りをあてもなくぶらついていた時のことだ。
ポケットの中で、端末が小気味よい電子音を鳴らして震えた。
画面を開くと、見知らぬ非通知のアドレスから短文のメッセージが届いていた。指定されていたのは、この通りから一本裏に入った路地にある喫茶店。差出人の名前はなかったが、昨夜の黒ずくめの怪人からの連絡なのは明白だった。
「ずいぶん近いな」
現在地から目と鼻の先だったこともあり、俺は数分もしないうちに指定の店へと辿り着いた。
赤茶けた廃墟同然の建物が並ぶアビドスの路地裏にあって、そこだけは静かな佇まいを崩していない。木製の重厚なドアとシックな焦げ茶色を基調とした、妙に落ち着いた大人の雰囲気を醸し出している純喫茶だった。
カランコロンと控えめなドアベルを鳴らして中へ入ると、店内に客の姿は一人もいなかった。カウンターの奥から顔を出したマスターに「待ち合わせです」と告げると、特に驚く様子もなく、物静かな手つきで店の最奥にあるボックス席へと案内された。
薄暗い間接照明に照らされた奥の席には、昨夜と寸分違わぬ姿――仕立ての良い漆黒のスーツを着込み、ヒビ割れた黒い球体の頭部を載せた男が、すでに腰を下ろしていた。
俺は躊躇することなく、男の向かいのソファーへどっかりと腰を落ち着けた。一応、初対面の大人の相手に対する最低限の礼儀として声をかけてみる。
「待たせたか?」
男は胸元に黒革の手袋を当て、喉の奥でくすりと小さく笑った。
「いいえ、それほど待ってはいませんよ。指定した場所にすぐ来ていただけて助かりました」
ヒビ割れの奥から響く、相変わらずねっとりとした慇懃な声だ。男はテーブルのメニュー表を指先でこちらへ滑らせてきた。
「何か飲み物はいかがですか? お時間を作っていただいたお礼です、私のおごりで構いませんよ」
「そうか? じゃあ遠慮なく」
奢ってくれるというなら断る理由もない。俺はメニューを一瞥するなり、店員を呼んで即答した。
「メロンクリームソーダをひとつ。アイスは乗るだけ大盛りで」
男は一瞬、顔のヒビ割れを微かにピキッと歪めたように見えたが、気を取り直したように自分の分としてブレンドコーヒーを注文した。
ウェイトレスが注文票を持って去り、男は組んでいた指を解いて、いかにも「本題に入ろう」という重々しい前置きのトーンで口を開きかけた。
「さて、円ショウさん。昨夜もお話しした通り、本日は貴方の内に眠る――」
「あー、ちょっと待ってくれ」
俺は片手を挙げて、男の台詞を遮った。
「……何か?」
「とりあえず、あんたを何て呼べばいい? 名乗るほどのもんじゃないとか言ってたけど、呼び名がないとこっちも話しづらいんだよ」
俺が真っ当な疑問をぶつけると、男は「クックックッ」と肩を揺らして不気味に笑った。
「なるほど、それはごもっともだ。しかし言ったはずですよ。私には記号としての名前などありません。どうぞ、貴方のお好きなように呼んでいただいて結構ですよ」
なるほど、お好きに、か。
そう言われたからには、こちらも全力を尽くして相手にふさわしい呼び名を考案しなければなるまい。
俺は腕を組み、目の前の異様な風貌をじっくりと凝視した。
光を吸い込むような徹底的な黒。仕立てのいい上着。そして何より、あの頭部だ。のっぺりとした丸い黒に、網目のように幾筋も走る白っぽい亀裂――。
「うーむ、見た目から……そうだな……そうだ!」
電球がピカンと点灯するように、俺の頭の中で完璧なインスピレーションが結実した。
「『ピータン』か、『黒服』だな」
声に出して噛み締めてみる。うん、我ながらバッチリすぎるセンスだ。
特にピータンなんて我ながら完璧なネーミングじゃないだろうか。あのツルリとした黒い頭と、表面に入った細かなヒビ割れの幾何学模様は、中華料理のピータンそのものだ。それに『ピー』と『タン』、どちらの音も響きがポップで可愛らしい。親しみやすさも抜群だ。
「よし! じゃあ、これからピータンで――」
「黒服でお願いします!!」
俺が笑顔で決定を下そうとした瞬間、男はものすごい勢いで身を乗り出し、食い気味に叫んだ。
昨夜からの不気味な底知れなさはどこへやら、黒革の手袋をバッと突き出し、必死の形相(顔に目も口もないが、間違いなくそんな空気だった)で訴えかけてくる。
「え、じゃあ黒服で……?いや、やっぱりピータンの方が可愛…」
「ええ! 黒服で! ぜひ黒服でお願いします!!」
「いや、好きに呼んでいいって言ったのに……」
「いやあ、『黒服』! 実に私という存在の外見と本質をシンプルに表していて、大変気に入りましたよ! ええ、実に素晴らしいネーミングセンスです、円ショウさん!!」
ヒビ割れた頭部から変な汗でも吹き出しそうな勢いで、黒服――と自ら名乗る羽目になった男は、やけに早口で捲し立てた。
いいと思うんだがなぁ、ピータン。
黒服が乱れた呼吸――というか、激しく動揺した精神を整えるのを待つ間、俺はテーブルに運ばれてきたメロンクリームソーダに集中することにした。
透き通るような鮮やかなエメラルドグリーンのソーダ水の上に、こぼれんばかりのバニラアイスクリームが贅沢に二段重ねで鎮座している。グラスの縁には真っ赤なチェリー。実に素晴らしい、完璧な佇まいだ。
ストローを差し込み、ちゅるちゅるとソーダをすすり、スプーンで濃厚なアイスをすくって口へ運ぶ。
炭酸のシュワシュワした刺激と、甘いバニラの風味が口いっぱいに広がった。外の世界にいた頃もたまに喫茶店で頼んでいたが、やっぱりこのジャンクでレトロな美味さは格別だ。
久しぶりの甘味に心が弾んだせいか、頭上のヘイローもご機嫌に反応した。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫のバーが、まるでパチンコ屋のネオンサインのように端から順番にピロピロと波打つように発光を繰り返す。
向かいに座る黒服は、湯気の立つコーヒーカップに口もつけず、そのヒビ割れた頭部を固定したまま、俺の頭上を食い入るように凝視していた。
顔に目はないはずなのに、皮膚の表面を舐め回されるような、ねっとりとした狂気的な好奇心がひしひしと伝わってくる。
だが、いつまでも観察されているのも落ち着かない。俺はストローから口を離し、アイスの乗ったスプーンをくわえたまま、本題を切り出した。
「んで……結局、何の用なんだ? 昨日も今日も、神秘がどうのこうの言ってたけど」
俺が単刀直入に尋ねると、黒服はハッと我に返ったように小さく咳払いをし、黒革の手袋を組んで身を乗り出してきた。
「ええ、失礼。あまりに見事な現象でしたので、つい見惚れてしまいました。……単刀直入にお話ししましょう。事の発端は数日前、我々『ゲマトリア』の観測網が、かつてない異常な数値を検知したことにあります」
「ゲマトリア?」
「ええ。私のように、各々が独自の概念やテーマを追い求める探求者たちの集う研究グループ……とでもご理解ください。その我々が誇る観測網が、突如として『天文学的な規模の特大の神秘』を捉えたのです」
黒服は低く、どこか芝居がかったような重々しいトーンで語り続ける。
「それは、キヴォトスの長い歴史においても前例のない規模でした。まさに青天の霹靂。私は即座に手持ちの情報網とリソースの全てを総動員し、その莫大な神秘の発生源の捜索を開始したのです」
「へぇ。大変だったな」
ソーダをすすりながら適当に相槌を打つ。聞いたら、俺がこのキヴォトスに足を踏み入れた日と完全に一致しているようだが。
「ええ、骨が折れましたとも。しかし、その歪みの中心がこのアビドス自治区にあると特定できた時、全てのピースが繋がり始めました。私はここ数日、アビドス自治区を出入りした人物のログ、監視カメラの映像、果ては店舗のレシートに至るまで徹底的に洗い直し……そして、貴方という存在に行き着いたのです」
黒服はクックックッと喉を震わせ、ヒビ割れた顔をわずかに歪めて笑った。
「貴方の行動記録は実に興味深かったですよ。アビドス高校へふらりと入学したかと思えば、ガンショップで空間を歪め、昨夜などはヘルメット団の少女の消化器系に不可解な因果の乱れを引き起こした。……実に、実に素晴らしい。実に美しい異常性だ……!」
自らの推論と観察眼の正しさに酔いしれるように、俺のここ数日の動向を見解たっぷりに語る黒服。
……控えめに言って、ただの気持ち悪いストーカーである。よくもまあ初対面の相手の前で、そこまで堂々と監視記録を開陳できるものだ。
「まあ、あんたが暇人だってことはよく分かったよ。で、そのストーカー行為の果てに、俺に何をさせたいんだ?」
「ストーカーとは人聞きの悪い。学術的な追跡調査と呼んでいただきたいものですね」
黒服はやれやれと首を横に振り、横道に逸れかけた話を軌道修正するように、スッと声を低く落とした
。
「私の望みは極めてシンプルです。円ショウさん、貴方の内に眠るその規格外の『神秘』――それを、私に詳しく調べさせてほしいのです」
いかにも怪しい研究者らしい提案だった。
だが、俺はメロンソーダの上に浮いたチェリーをもぐもぐと咀嚼しながら、根本的な疑問を口にした。
「……そもそもだけどさ。さっきから当たり前のように連呼してるけど、『神秘』って何なんだ?」
「おや」
黒服はヒビ割れた頭部をピキリと傾け、意外そうに声を漏らした。
「まずはそこからでしたか」
「ふむ……『神秘とはなにか』ですか」
「ああ」
「そのような根源的な問いを私に投げかけるとは。実に興味深い。ええ、好奇心というものは常に歓迎されるべき美徳ですよ」
「そうですね……私たちが長年探求を重ねてなお、その全貌を完全に定義できたわけではありませんが、分かりやすくお話ししましょう」
黒服はコーヒーで喉を潤わせる。
「端的に申し上げるなら――それは『この世界の理を超越した、崇高なる概念の顕現』です」
崇高の概念?いきなり抽象的になったな。
「彼女たちが銃弾を受けても平然としていられること。人知を超えた力を振るい、頭上にヘイローを戴いていること……。貴方はあれを、単なる『生まれ持った体質』ようなものだと思っていませんか?」
「ん?そうじゃないのか?」
少なくとも俺の体質は生まれからだし、キヴォトスで出会ったヘイロー持ちは大小あれど頑丈だから、俺も含めてそういった生まれだから、と思っていたけど。
「ククク……いいえ、違いますよ。それらはすべて、表層に現れた『結果』に過ぎません」
「この世界には、目には見えずとも確かに横たわっている、人智の及ばぬ事象の根底にある、ある種の絶対的な法則や概念が存在します。それがある特定の『器』……すなわち肉体や精神と結びつき、この現実に受肉した状態。それこそが、私たちが『神秘』と呼んでいる現象の正体なのです」
「理屈や物理法則を飛び越えて、現実に奇跡を定着させる力。存在そのものが帯びる、抗いようのない格のようなもの……とでも言えば伝わりますでしょうか」
「ですが――ええ、理解しておくべき留意点もあります」
「崇高であるがゆえに、それは決して不可逆の平穏を約束するものではない、ということです。光が強ければ強いほど、その足元には濃密な影が落ちるように……コインの裏表のごとく、『神秘』の裏には常に底知れぬ『恐怖』が口を開けている」
「話が長い。でも、俺たち生徒がそういった力があることはわかった」
「……おや、少々講釈が長くなってしまいましたね。ですが、貴方がそうして世界の輪郭に疑問を抱いたこと――私としては、非常に喜ばしく思っていますよ。ククク……」
黒服の滔々たる講釈をまとめると、要するにこのキヴォトスにおける「神秘」とは、理屈を超えた超常現象や存在の根源を司る、一種の不思議パワーのようなものらしい。
目の前で「実に素晴らしい概念でしょう?」と愉快そうに笑う黒服を見つめながら、俺はなるほどと得心がいった。
「つまり……」
俺は右腕をすっと頭上へ伸ばすと、空中に浮かんでいるヘイローを指先でガシッと鷲掴みにした。
「これがそうなのか」
俺は頭上のヘイロー“自体”を手元まで引きずり下ろし、顔の真正面に持ってきてまじまじと眺めてみた。
時折こうして手に取って観察することはあったが、この七色に明滅するゲーミング仕様のイコライザーに、そんな大層な由来や意味があったとは。何ともしみじみとした気分になる。
「…………は?」
喫茶店の静寂を裂いて、黒服の口からおよそ知的探求者とは思えない、素っ頓狂極まりない掠れ声が漏れ出た。
黒服の動きが完全に静止しているけど、無理もないか。ホシノやユメ先輩も口を揃えて言っていたが、キヴォトスにおいてヘイローとは概念的に認識されるものであり、肉眼で視認することすら難しく、ましてや素手で物理的に掴んで位置を動かすなど天地が引っくり返ってもあり得ないのだ。
次の瞬間、黒服のヒビ割れた頭部が小刻みに痙攣を始めた。
「クッ……ククッ、クッククククク!! 馬鹿な、あり得ない、いやしかし現実に物理的干渉が成立している?ヘイローの不可逆的実体化?自己概念の剥離と外部把持だと?神性のトポロジーはいったいどうなっている?観測事実が既存の神秘理論を悉く否定して――」
黒服は突如として甲高い笑い声を上げ、壊れた蓄音機のように早口でブツブツと専門用語を呟き始めた。手帳を取り出してペンを猛烈な勢いで走らせているが、インクが紙を突き破らんばかりの筆圧だ。
監視していたとはいえ、俺のヘイローが取り外せることや、位置を自由に変えられること、あるいは暇つぶしにフリスビーやブーメランみたいに投げ飛ばしても綺麗に手元へ戻ってくることまでは、さすがに知らなかったらしい。
俺は目の前の奇行を特に気にする風でもなく、手元で七色に光るヘイローを頭上に戻し、氷の溶けかけたメロンクリームソーダにストローを突っ込んで最後の一滴までズズズッと吸い上げた。
グラスが完全に空になり、黒服の早口の自己対話が一通り落ち着いた頃――
黒服は乱れたスーツの襟元を整え、興奮で激しく波打つ息を深く吐き出した。
「……失礼。少々、取り乱しました。まさかこれほどの知見を初手で見せつけられるとは」
黒服は底知れぬ狂気の光を宿したヒビ割れの奥から俺を見据えると、胸ポケットから折り目正しい一通の書類を取り出し、テーブルの上へと滑らせてきた。
「円ショウさん。前置きはここまでとしましょう。単刀直入に、私と契約を結んでいただきたい」
「……契約書、か」
テーブルの上に差し出されたのは、上質で厚みのある羊皮紙のような用紙だった。
几帳面なフォントでいくつかの条項が印字されているが、見たところ数行程度の短いもので、定期的な観測への協力や謝礼の支払いといった、至って無害で最低限の内容しか書かれていないように見える。
黒服は組んだ両手の隙間から、ヒビ割れた顔をわずかに傾け、朗々としたトーンで語りかけてきた。
「ええ。貴方のその類稀なる『神秘』の解明、そして可能であれば……定期的なサンプリングや観測実験のため、私と協力関係を結んでいただきたい。そのための合意書です」
慇懃極まりない、だがどこか相手を手の平の上で転がそうとするような、胡散臭い丁寧さだ。
すると黒服は、ふと思い出したかのように、低く喉を震わせて続けた。
「実を言いますとね、円ショウさん。私は元々、このアビドスにいる『小鳥遊ホシノ』という生徒に目をつけていたのですよ」
「……ホシノに? あいつに何の用があったんだ」
「クックックッ、彼女もまた、実に素晴らしい神秘を宿す器ですからね。アビドスに入学した段階で接触し、然るべき手を打つ手筈でした。……しかし、そこへ外の世界から貴方という規格外の存在が転がり込んできた。嬉しい誤算というやつです。私の探求対象の優先順位は、完全に貴方へと塗り替えられました」
なるほど、昨夜あいつが「アビドスを狙う怪しい連中が多くいる」と怒っていたが、こいつもその一角だったわけか。
俺がじっと見つめていると、黒服は両手を広げてみせた。
「もちろん、無理強いをするつもりはありませんよ。すべては貴方の自由意志による選択です。私はただ、紳士的な『取引』を提案しているに過ぎません。……ですが、もし貴方が首を縦に振ってくださるなら、対価としてアビドスが抱える借金の半分、いえ――負債の全額を私が肩代わりして返済すると言ったら、どうしますか?」
黒服はわずかに身を乗り出し、ヒビ割れの奥から探るような視線を投げかけてくる。
「あの可憐な少女たちが、砂漠の廃校で背負わされている過酷な重荷……それを貴方の一筆で、今この瞬間に全て帳消しにしてあげられるのですよ? 彼女たちの笑顔を守るための選択としては、決して悪い提案ではないでしょう?」
甘い声で、こちらの良心に揺さぶりをかけてくる。
大人が子供を誘い込む時の、典型的な手口だ。
俺は無言で書類を見つめた。
外の世界から来た俺はまだ高校生とはいえ、大人社会の酸いも甘いもそれなりに見てきている。だから黒服がどれだけ紳士を気取っていても、腹の底に何か別の企みを隠していることくらいは、肌感覚で十分に察しがついていた。
だが――それと同時に、俺の胸中には別の感情も湧いていた。
俺は孤児院で育った。
そして俺を育ててくれた院長という男は、競馬で当てた大金をその足でパチンコに突っ込んで綺麗に溶かし、残った小銭でヤケクソで買った宝くじを当て、その金を元手に海外FXで派手に稼いで「今月の飯は全員ステーキだ!」と笑い飛ばすような、筋金入りの破天荒だった。
そんな台風みたいな無茶苦茶なオヤジを見て育ってきた俺からすれば、スーツを着て敬語を使い、頼んでもいないのにメロンクリームソーダをアイス大盛りで奢ってくれるこの黒服は、見た目がピータンっぽいこと以外は「意外と丁寧でいい奴なのでは?」と、少し毒気を抜かれそうになっていたのも事実だった。
だが、テーブルの書類を眺めていた俺の目が、ふと細められる。
「……なんか、文字が小さくて読みづらいな」
「おや、至ってシンプルな書式ですがね。何か気になる点でも?」
黒服が胡散臭い笑みを崩さずに尋ねてくる。
紙に書かれているのは、本当に最低限の協力要請だけだ。怪しい文言など一つも見当たらない。
だが、昔、院長が「本当に汚い大人の契約書ってのはな、書かれていない余白にこそ本音が詰まってんだよ」と笑っていたのを思い出した。
「ちょっと薄暗くて見えにくいんだよ。明かりを当てる」
「明かり、ですか?」
俺は頭上のヘイローを少し意識した。
普段は七色にピコピコ動いているが、昔から意識を集中させると光の波長が変わるのだ。
「……よし、紫だな」
意識を切り替えると、頭上のヘイローの端っこにある深い紫色のバーが、ギュイィンと伸びて妖しい光を放ち始めた。
ブラックライトのような紫の光線を、手元の書類へと真正面から照射する。
すると――
「おや……?」
書類の余白から、微かに煙が立ち上った。
別に炙り出しのインクが塗られていたわけではない。紙面には本当に、最初の数行の無害な条項しか書かれていなかったのだ。
だが、俺のヘイローの光を浴びた瞬間、何もないはずの真っ白な余白から、黒服が意図して隠し、書面に載せるつもりすら毛頭なかったはずの『事実』と『思惑』が、まるで意思を持ったかのようにドス黒い文字となってボロボロボロと浮き彫りになり始めた。
『円ショウの保有する各種権利の包括的買収』
『今後の実験・サンプリングにおける最優先権を黒服に帰属させる(※不備のない範囲において被験者側の拒否権は留保される)』
『アビドス高等学校が抱える巨額負債の元凶たる債権者は民間企業「カイザーコーポレーション」であり、同社が過去の生徒会からアビドス自治区の土地を順次買収・接収している事実の隠匿』
権利を買い取って実験の優先権を握るという黒服の個人的な狙い。
そして何より――黒服があえて一言も口にせず、書類に書く気すら一切なかった、アビドスの借金の出どころと土地買収のからくりが、これ見よがしに紙面へと強制記述されていた。
普通なら、隠していた情報が丸裸にされれば焦って誤魔化すところだろう。
だが、向かいの席に座る黒服は、狼狽えるどころか――顎に黒革の手袋を当て、ヒビ割れた頭部をピキピキと震わせながら、感嘆のため息を漏らした。
「……ほう。ほうほうほうほうほう!驚きましたね。紙面に仕組んだインクの類ではない。私が意図して言及しなかった『債権者がカイザーであること』や『過去の生徒会による土地買収の構図』……私の内心の思惑そのものを、無から事象として紙面に強制出力させましたか。既存の観測技術を嘲笑うかのような現象だ……実に、実に興味深い」
恐怖や動揺など欠片もない。ただ純粋な知的好奇心と探求欲で、浮き彫りになった文字と俺のヘイローをじっくりと見つめている。底が知れない男だ。
俺は浮き彫りになった真っ赤な文字列を指先でトントンと叩き、メロンソーダのストローをくわえたまま、黒服へと鋭い視線を向けた。
「……おい、黒服」
「何でしょう、円ショウさん」
どこまでも涼しげに応じる黒服に対し、俺は淡々と言い放った。
「俺の実験優先権を寄越せってのも、まあ大概だが……この借金の元はカイザーって会社で、過去の生徒会から土地を買い叩かれてるってのはどういうことだ? ずいぶん大事なことを黙ってたみたいじゃないか」
「調べれば分かる事ですよ。だから、わざわざ言わなかっただけです」
俺の睨みつけにも怯まず、黒服は、悪びれる様子もなくあっけらかんと言い放った。
そして、冷めかけたコーヒーカップを指先で弄びながら、喉の奥で「クックックッ」と低く笑う。
「借金を肩代わりするための資金は、私の方で用意して差し上げる他ありません。しかし、土地の所有権や過去の登記簿など、然るべき機関で調べれば誰にでもアクセスできる公の情報に過ぎない。大人の交わす契約の世界において、『知らなかった』『教えてもらえなかった』などという言い訳は通用しませんよ、円ショウさん」
どこまでも涼しい顔で、狡猾な大人の理論を述べる黒服。
契約書に書かれていない不都合な事実を隠し、無知な相手を搦め手で縛り付ける――まさに悪徳業者の典型的な手口だった。
「……まあ、もっとも」
黒服はヒビ割れた頭部を傾け、机の上の真っ黒な文字をまじまじと見つめた
「まさか私の隠していた思惑や、アビドスの裏事情そのものを、このような理不尽極まりない手法で白日の下に晒されるとは思いませんでしたがね。実に恐ろしい神秘だ……やはり貴方は、私の想像を遥かに超えている」
計算外の暴露を食らったはずなのに、男の声音には焦りなど微塵もなかった。むしろ、目の前で起きた未知の現象に対する純粋な歓喜と興奮が、ヒビ割れの奥から滲み出ている。
俺は空になったメロンソーダのグラスを脇へ押しやり、肘を突いて問いかけた。
「で、そのカイザーって会社は、なんでアビドスの土地を買収して自分の物にしようとしてるんだ? ユメ先輩やホシノが必死こいて守ろうとしてる学校の土地を、過去の生徒会から買い叩いたってのはどういうことだ」
俺が鋭い視線で核心を突くと、黒服は黒革の手袋で静かに拍手を打ってみせた。
「素晴らしい。そこまで見抜いているのであれば、お話ししない理由はありませんね。何より、先ほど見せていただいた美しい神秘の『お礼』です。特別に、少々昔の裏話を教えて差し上げましょう」
機嫌を極めて良くした黒服は、背もたれにゆったりと体を預け、朗々としたトーンで語り始めた。
「今でこそ見る影もありませんが、かつてのアビドス高等学校は、キヴォトス全土でも屈指の広大な自治区と強大な影響力を誇るマンモス校でした。しかし……砂漠化の進行による度重なる災害、拡大する自然現象によって学校は天文学的な負債を抱え込むこととなったのです」
黒服は指を一本立てる。
「その負債を回収する債権者としてアビドスに食い込んだのが、件の『カイザーコーポレーション』です。連中から容赦のない返済を迫られた当時の生徒会は、借金を返すための資金を捻出するため……学校の最大の資産であった『土地』を、切り売りするしかなくなってしまったのですよ」
「……土地を売って、借金を返したってことか?」
「ええ。ですが、それは延命治療にすらならない悪手でした。土地を売っても売っても利子ばかりが膨らみ、気づけばアビドス自治区の大半はカイザーの所有地となり……最終的に残ったのが、あの砂に埋もれかけた小さな本校舎と、少女たちが背負わされている巨額の借金というわけです」
淡々と語られるアビドス没落の歴史。
ユメ先輩やホシノが、なぜあそこまで追い詰められ、それでもなお学校を守ろうと身を粉にして働いているのか。その根深い原因が、過去の大人たちと生徒会の失策にあったのだと知り、胸の奥に冷たいものが渦巻く。
だが、話を聞く限り、カイザーのやり口には最初から明確な悪意があるように思えた。
「……なあ。カイザーって会社は、最初からその土地が欲しくて借金を押し付けたんじゃないのか? あんな、って言ったら悪いけど、アビドスの砂漠のど真ん中の荒れ地を買い集めて、一体何に使う気なんだ」
俺の問いに、黒服のヒビ割れた顔がピキリと歪み、獰猛な笑みの形を作った様に見えた。
「鋭いですね。その通りですよ、円ショウさん。カイザーが狙っているのは、砂漠の土地そのものの価値ではありません。連中の真の目的は――あの広大なアビドスの地下深くに眠る、『ある物』なのです」
「ある物?」
俺は眉をひそめた。
「何だそれ。石油でも埋まってんのか? それとも温泉か?」
「クックックッ……おや、温泉ですか。実に風情のある発想ですね」
黒服は喉を震わせて笑い、それからすっと人差し指を口元の亀裂へと当ててみせた。
「ですが、残念ながらそこから先はお教えできませんよ。……私としても、カイザーとは現在進行形でビジネスの取引をしている間柄でしてね。あまり手の内をペラペラと喋りすぎては、大人の信義に反するというものです」
ねっとりとした声で、綺麗にはぐらかしてくる黒服。
これ以上はどれだけ突っついても、タダでは情報を吐き出す気はないらしい。いかにも怪しいフィクサーらしい、抜け目のない線引きだった。
契約の裏に隠されていた悪意と企みが丸裸にされ、交渉の主導権を完全に失ったはずの黒服だったが、慌てふためく様子など微塵もなかった。
「クックックッ……いやはや、見事なものですね」
男は冷めきったコーヒーカップをソーサーに戻し、どこか感心したように細かく肩を揺らして笑うだけだった。
ゲマトリアという組織の怪人としてのプライドか、あるいはこの不利な状況すらも観測者としての娯楽として楽しんでいるのか。いずれにせよ、並大抵の胆力ではない。
だが――そんな黒服の笑みが、ふと微かに強張った。
ヒビ割れた頭部を傾け、探るような視線が俺の顔へと注がれる。
俺が、机を叩いて怒鳴り散らすことも、胸倉を掴み上げることもなく、ただ平然とお冷のグラスに視線を落としていたからだ。
騙し討ち同然の罠を仕掛けられたというのに、俺の全身からは激昂の気配どころか、苛立ちの欠片すら漂っていなかった。
「……おや。手酷く騙されかけたというのに、ずいぶんと冷静ですね、円ショウさん。怒りに任せて銃を抜かれてもおかしくない場面ですが」
黒服が、まるで未知の珍獣でも見るかのような、意外そうな声を漏らした。
俺は背もたれに体重を預け、頭の後ろで両腕を組むと、あっけらかんと息を吐き出した。
「まあ、そんなこったろうと思ったけどな」
「……ほう?」
「さっきも言ったろ。外の世界、全員がそうじゃないけれど、大人ってのはもっと汚くて無茶苦茶な所もある生き物なんだよ。甘い言葉で近づいてくる奴が、タダで親切にしてくれるわけがない。最初から腹に一物あると思ってたから、驚きもしないさ」
俺を育ててくれた孤児院のオヤジの隠し事に比べれば、この程度の腹芸など可愛いものだ。
何より、アビドスを巡るドロドロとした利権や、借金の元凶が『カイザーコーポレーション』という巨大企業であること、そして奴らがアビドスの土地と地下に眠る何かを狙っているという事実。
――それらを知ることができただけでも、収穫としては十分すぎるほどだった。
相手の底知れない悪意を聞かされて、絶望したり諦めたりする気など、最初からこれっぽっちもない。
むしろ、霧の中に隠れていた「敵の正体」と「アビドスが抱える本当の問題」がハッキリと輪郭を結んだのだ。見えない借金に怯えるよりも、倒すべき相手や目指すべきゴールが見えた方が、よほど道筋を立てやすいというものだ。
俺のやるべきことは、最初から何一つ変わっていない。
どんなに無茶苦茶な体質だろうと、どんなに呆れられようと、温かく迎え入れてくれたユメ先輩とホシノ。
あの二人の大切な居場所と、これから紡いでいくはずの穏やかな日常を守る。それだけだ。
「……ということでだ、黒服」
俺は組んでいた腕を解き、机の上の契約書を、人差し指でツツッと男の方へ押し戻した。
「この契約は受けない。お前さんのモルモットになる気はないし、アビドスを売り飛ばす手伝いなんて死んでも御免だからな」
「クックックッ……ええ、まあ、当然でしょうね」
黒服は小声で喉を鳴らし、やれやれと両手を軽く広げてみせた。
「これほど見事に裏の企図を暴かれてしまっては、交渉決裂もやむを得ません。残念ですが、本日の商談はここまでに――」
「だが、別の契約なら結んでやってもいいぞ」
「……はい?」
立ち上がりかけた黒服の動きが、ピタリと止まった。
ヒビ割れた顔面が、ぽかんとした間抜けな角度で静止する。
「別の契約……ですか?」
「ああ。お前、俺の『神秘』とやらを研究したいんだろ? 手元に置いて実験したりしたいわけだ」
「え、ええ……まあ、私の学術的な目的としては、その通りですが……」
「なら、話は簡単だ」
俺は右腕をすっと頭上へ伸ばした。
そして、七色に明滅を繰り返しているヘイローの端っこを、親指と人差し指で軽くつまむと――
まるで板チョコをひとかけら折るような、実に小気味よい音が店内に響いた。
親指の爪ほどのサイズになった、虹色にパチパチと発光するヘイローの欠片。それを指先で器用に摘んだまま、俺は黒服の目の前――テーブルの真ん中へと、すっ、と差し出した。
「俺のこのヘイローを分けてやる。実験なり何なり使うもいい。その代わり、それに見合う報酬を払え」
「………………」
静寂。
喫茶店の静かなBGMすら掻き消えるような、完全なる思考停止の沈黙が落ちた。
黒服は差し出された俺の指先と、そこで物理的な実体を持ってカラフルに明滅している『ヘイローの破片』を、穴が開くほど凝視した。
それから、俺の頭上で何事もなかったかのように欠けた部分がニュッと再生していくヘイローを見上げ、再び手元の破片へと視線を落とす。
ビキビキと黒服のヒビ割れた頭部から、かつてないほど激しい亀裂の軋み音が鳴り響いた。
常に冷静沈着を装い、知的な紳士を気取っていたゲマトリアの探求者が、完全に顎を外したかのように呆然と固まっている。
「………貴方は、何を差し出して…分けてやる?ヘイローを……切り売りする、と……?」
掠れに掠れた声で、黒服が呟いた。
キヴォトスの理をそれなりに暴いてきた筈の怪人が、生まれて初めて見る「常識の完全崩壊」を前に、文字通り言葉を失っていた。
「……クッ、ククッ……はははは! 貴方はいったい何を差し出しているのです!?分けてやる!?ヘイローを切り売りする、と……!?クククッ!、理を覆すにも程がある……!」
黒服は両手で顔を覆い、狂気と歓喜の入り混じった笑い声を漏らした。
ヒビ割れた頭部を震わせ、肩を揺らしながら、目の前で起きたあまりにも不条理で前代未聞の光景に、もはや笑うしかないといった様子だった。
だが、俺にしてみれば至って真面目な提案だった。
そもそも、俺はこの頭上のヘイローというものに対して、そこまで大層な重要性を感じて生きてこなかった。
物心ついた頃から頭の上でピコピコ光っていたこれだが、外の世界にいた頃は、むしろ雑多な生活の便利グッズとして重宝してきたくらいだ。
昼寝をしている最中に、年下のチビどもに勝手に引っこ抜かれてフリスビーやおままごとのおもちゃ代わりにされたり、輪投げの的にされたりするのは日常茶飯事だった。
朝起きて布団から出るのが億劫な冬場には、寝転がったままヘイローを引き伸ばしてマジックハンドのように組み替え、机の上のテレビのリモコンやコップを手元まで手繰り寄せるのに使ったりもした。
ちょっと角を削って水で溶かせば強力な瞬間接着剤の代わりになり、軽く擦り付ければスマホの画面にこびりついた皮脂や指紋を完璧に拭き取るマイクロファイバー以上の超高級クリーナーにもなった。
そんな雑極まりない日用品感覚で何年も付き合ってきたのだ。
今更、目の前の黒ずくめから「神秘」だの「崇高」だのと御大層な言葉を並べ立てられても、俺の中では頭についてる便利グッズの域を出なかった。
それに、ちぎったところで痛くも痒くもないし、数秒もすれば勝手にニュッと元の形に再生するのだ。減るもんでもないなら、研究資材として切り売りして金や利益に変えた方が、よほど有効活用というものだろう。
俺は笑い転げる黒服を冷めた目で見据え、指先のヘイローの欠片をコツンと机の上に置いた。
「笑い終わったか? なら条件だ」
俺の低い声に、黒服はようやく笑いを収め、黒革の手袋で襟元を整えながら興味津々で身を乗り出してきた。
「おや、条件ですか。ぜひ聞かせていただきましょう」
「さっきお前の隠し事がバレたからな。こっちにも譲れない一線がある。第一に、アビドス高等学校と、その生徒――ホシノやユメ先輩、もちろん俺も含めてだが、俺たちに直接的・間接的な危害を加えないこと」
俺は指を一本立て、続けて二本目を立てる。
「第二に、今後俺たちがアビドスの土地を取り返した際も含め、自治区の土地や施設に手を出したり、俺たちにとって不利益になるような妨害工作を一切しないこと。……この二つを絶対条件とする」
先ほどヘイロー光線で暴かれた、カイザーコーポレーションの土地買収とアビドスの危機。
黒服が奴らと繋がっている以上、裏で手を引かせるか、少なくとも俺たちへの敵対行動を封じておく必要がある。
「この条件を飲んで、俺たちを害さないと約束するなら――そして、それに見合う正当な報酬をきっちり払うってんなら、このヘイローを研究用サンプルとして譲渡してやる。……どうだ?」
俺の鋭い視線を受け止めた黒服は、机の上に転がる七色の発光体を見つめ、それからヒビ割れた顔に深く、獰猛な笑みを刻み込んだ。
黒服は机の上の七色に輝く欠片をじっと見つめ、それからヒビ割れの奥で満足げに喉を鳴らした。
「いいでしょう。その条件、全面的に呑みましょう。アビドスの生徒諸君への不可侵、土地への不介入、そして学術的対価に見合う正当な報酬の支払い――全て合意いたしますよ。何しろ、実物たるヘイローの破片を直接解析できるなど、キヴォトスのどの探求者も成し得なかった奇跡ですからね。安いものですよ」
契約は成立した。
黒服は恭しく背筋を正すと、震える黒革の手袋を両手で皿のようにして、テーブルの中央へと差し出してきた。世紀の大発見を前にした学者のように、その全身からは隠しきれない緊張と高揚が滲み出ている。
「さあ……円ショウさん。その奇跡の欠片を、私に」
「おう。ほらよ」
俺は指先で七色のヘイローの欠片をつまみ上げ、黒服の広げた手のひらの上へと落とそうとした。
まさに、その瞬間のことだった。
喫茶店の冷房が効きすぎていたのか、あるいは冷たいメロンソーダを一気に飲み干したせいか――
急激に、鼻の奥がツンと猛烈に刺激された。
(ん……? う、あ――)
息を吸い込む間もなく、顔面が歪む。
「ハ……ハッ――ハックシュンッッッ!!!!」
勢い余った盛大なくしゃみと共に、俺の腕がガクンと前へブレた。
指先にあったヘイローの欠片が、とんでもないスイングスピードのまま、黒服の手のひらへと勢いよく叩きつけられる。
パァァァンッッ!!
「――ぶっ!?」
まるで風船が破裂したような、あるいは爆竹が炸裂したような破裂音が響いた。
手加減なしで手のひらに叩きつけられたヘイローの欠片は、その物理的衝撃に耐えかねたのか、黒服の手の中で粉々に砕け散り、キラキラとした七色の光の粉末となって四方八方に弾け飛んだのだ。
「……あ、ヤベ」
思わず口から本音が漏れた。
手のひらの上で粉塵爆発じみた直撃を食らった黒服は、差し出したポーズのまま、完全にフリーズしている。
次の瞬間――
ビカァァァァァァァッッッ!!
「ぬ、おおおおおおっ!?」
黒服の全身が、目も眩むような極光に包み込まれた。
弾け散ったヘイローの粒子が、まるで生き物のように漆黒のスーツ、革靴、手袋、そして頭部へと吸い込まれ、猛烈な光を放ちながら全身を包み込んでいく。
喫茶店のボックス席が一瞬だけホワイトアウトし、俺は眩しさに思わず腕で目を覆った。
やがて――ジュウゥと何かが冷却されるような音と共に、光がすうっと収まっていく。
「……大丈夫か、黒服?」
目をしばたたかせながら光の去った向かいの席を見やった俺は、思わず言葉を失った。
そこに座っていたのは――
仕立ての良い、汚れ一つない純白のスーツ。
足元を包む、磨き抜かれた白い革靴。
指先まで隙間なく覆う、清潔感あふれる白い手袋。
そして何より、首から上にある丸い頭部は、まるでツルリと殻を剥いたゆで卵のように完全な純白に染まり上がり、その表面に走る亀裂だけが、くっきりとした漆黒のヒビ割れとなって刻まれていた。
黒色が、完全に見事な白色へと反転していた。
黒服ならぬ、『白服』の誕生である。
「「………………」」
沈黙が落ちた。
全身ホワイト一色にカラーチェンジした男は、自分の白い手袋を裏表じっと見つめ、それから真っ白になったスーツの胸元をペタペタと触った。
俺はストローをくわえたまま、首を傾げて率直な疑問を口にした。
「……次から白服って、呼んだほうがいい?」
男はゆっくりと顔を上げ、漆黒のヒビ割れの奥から俺を見据えた。
常識、理論、神秘、因果――その全てを理不尽にぶち壊された男の口から漏れ出たのは、怒りでも困惑でもなく。
「クッ……ククッ、クククク……!!」
喉を激しく震わせ、乾いた笑い声を漏らすことだけだった。
なお、ゲマトリアに戻ったらベアトリーチェに爆笑され、流石に殺意が湧いたとか。