ショウの見た目は、るろうに剣心の比古清十郎がもうちょいスマートな体型で、後ろ髪が短いのをイメージしてください。目つきは据え置き。
日差しが傾き始めた昼下がりのアビドス自治区を、今日だけは俺とユメ先輩の二人だけで歩いていた。何故ならば。
『自治区の境界付近に怪しい影を見たんで、今日は別のルートを周ります。ショウ、ユメ先輩のお世話を頼みますよ』
『ああ、任せとけ』
『ひぃん…私そんなに頼りない〜?』
『そう言ってこの前、詐欺商品を掴まされかけたでしょう!?』
と、ホシノが単身偵察に向かったため、俺とユメ先輩の二人で見回りをすることになったのだ。
名目はパトロールだが、実態は生徒会活動の一環である『町民との定期コミュニケーション』と、新入生である俺の顔通しを兼ねたものだった。
通りに出ると、ユメ先輩はポワポワとした笑顔を振りまきながら、見かける住民たちへ次々に声をかけていく。
「こんにちは〜!八百屋さん、お腰の調子はいかがですか〜?」
「おお、ユメちゃん!おかげさまで湿布が効いてだいぶ楽になったよ。……ひっ!?な、なんだいその物騒な目つきの男の子は!?」
そんなに目つき悪いのか!?少なくとも孤児院では…孤児院では……いや、必ず初対面で泣かれたっけ、俺。
「あ、驚かせちゃってごめんなさい!この子は新しくアビドスに入学してくれた、円ショウくんでーす! ちょっと目つきがシャープで、頭のヘイローが見えて、七色にチカチカしてますけど、と〜っても優しくて頼りになる子なんですよ〜」
「どうもっす、いつも先輩がお世話になってます。これからアビドスで活躍していくんで、どうもよろしくお願いします」
俺がぺこりと殊勝に頭を下げると、怯えていた店主のロボットは胸を撫で下ろし、途端に相好を崩した。
「なんだい、ずいぶん礼儀正しい子じゃないか! アビドスに新しい生徒が入ってくれたなんてめでたいねぇ。あ、そうだユメちゃん、実は裏の倉庫の屋根が風でガタついててねぇ……」
「本当ですか?分かりました、また今度ショウくんと一緒に工具を持って直しに来ますね!」
ユメ先輩はポワポワとした人当たりのいい笑顔を絶やさず、楽しいバナナとり。というマスコットのメモ帳に手際よく住民の困り事を書き留めていく。
朗らかに終わった八百屋との顔合わせだったが、ユメ先輩の人脈はこれで終わりじゃなかった。
「あ、クリーニング屋のおじさん、こんにちは〜!」
「ユメちゃん、今日も精が出るねぇ!そっちの強面の子が噂の新入生かい?」
「はいっ、ショウくんです!何か困ったことがあったら、私かショウくんにいつでも言ってくださいね〜」
「おうよ、頼りにしてるよ、ユメちゃんにショウくん!」
「喫茶店のマスター、こんにちは〜!」
「いらっしゃいユメちゃん。そこの彼と一緒に、コーヒーでも飲んでいくかい?」
「あ、ありがとうございます! でも今はパトロール中なので、またみんなで寄らせてもらいますね!」
通りを歩けば、誰もがユメ先輩の姿を見かけるとパッと表情を明るくし、親しげに声をかけてくる。
最初は俺の極悪な目つきと、頭上のヘイローにぎょっとして後ずさりするものの、ユメ先輩の温かなフォローと、俺の当たり障りのない挨拶を見れば、すぐに打ち解けて友好的に接してくれた。
なるほどな、と俺は先輩の背中を見つめながら内心で感心していた。
ユメ先輩がこうして毎日地道に足を運び、一人ひとりの声に耳を傾けてきたからこそ、住民たちからの確固たる信頼があるのだ。お人好しの極みのような人だが、生徒会長としてのこの姿勢だけは、間違いなく本物だった。
一通りの挨拶回りを終え、夕暮れの通りを二人で並んで歩く。
ふと気づけば――ユメ先輩との距離が、妙に近かった。
歩くたびに、先輩の大きな胸元がこちらの腕にかすりそうになる。
あの生徒会室の一件以来、ユメ先輩の距離感の近さには拍車がかかっていた。本人はまったくの無自覚なのだろうが、どこか甘えるように、ぐいぐいとこちらのパーソナルスペースへ踏み込んでくるのだ。
もっとも、俺の方もその距離感に妙な居心地の悪さは感じていなかった。
孤児院にいた頃、やたらと服の裾を引っ張って後ろをついてきたり、構ってほしそうに腕にしがみついてきたりした手のかかる妹分のチビども――ユメ先輩の抜けたところや子供っぽいリアクションを見ていると、どうしてもそいつらと重なってしまい、無意識に「世話の焼ける妹分」を見るような目線になってしまうのだ。我ながら少し失礼な自覚はあるが、先輩の幼い無邪気さに引っ張られている節があった。
「えへへ、ショウくんが一緒に歩いてくれると、なんだかすごく心強いなぁ〜」
ユメ先輩は長い緑の髪を風に揺らしながら、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
夕日のせいだけではなくほんのりと桜色に染まった頬で、楽しそうに言葉を弾ませる。
「ねえねえ、ショウくん。ホシノちゃんとは最近どう? 仲良くやれてる?」
「ホシノっすか? あいつは面白い奴っすよ。ツッコミはうるさいしすぐ怒りますけど、いざ前線に立つと誰よりも腹が据わってますからね。友人としても背中を預ける相棒としても、めちゃくちゃ頼りにしてますよ」
「そっかぁ〜。ふふ、ホシノちゃん、ショウくんが来てからすごく表情が豊かになったもんね。……あ、じゃあショウくんの趣味って何なの? 休みの日は何してるのかな〜って思って」
「趣味……まあ、料理っすね。自炊はずっとやってましたから。最近は、前に呼んだこっくりさんへのお礼として、自作の神棚にいろんなバリエーションのおいなりさんを飾るのが日課になってますよ」
パチパチと瞼を動かして、きょとんとするユメ先輩。
「えっ、こっくりさん……?それにおいなりさん……?」
「ええ。そぼろ入りとか、五目とか、梅風味とか工夫して置いておくんすけどね。夜中にいつの間にか消えてて、その日の夢の中にピンク髪で、狐耳の生えた着物の幼女が出てきて『今日のは甘みが足りんかったぞ』とかダメ出ししてくるんすよ。だから毎朝味付けを改良してて」
「……え、ええと……?ショウくん、それ……お狐様の神様と交信してない……?」
「でもこの前作った、炙りチーズいなりは凄く喜んでましたよ」
ユメ先輩は引きつった笑みを浮かべ、何とも言えない表情で苦笑いした。オカルトと現実の境界線が怪しすぎるエピソードだったらしい。
「あ、そ、そういえば! ショウくんの使ってる銃、私とお揃いだよね!」
気を取り直したように、ユメ先輩は腰のホルスターに収まった拳銃をぽんぽんと叩いた。
俺がガンショップで見繕った、ユメ先輩の愛銃と同系統のオートマチックピストル――グロックだ。
「ええ、取り回しが良くて気に入ってますよ。シンプルで使いやすいですし。……まあ、撃つ時に『むんっ』と気合いを入れて力を込めると、弾が勝手に曲がってくれたり、当たった相手の銃がチョコになったり、コンクリートになったりして撃てなくなるので、色々便利なんすよね」
「ショウくん、それね、昨日ホシノちゃんから涙ながらに愚痴を聞かされたよ〜……?」
ユメ先輩は困ったように眉を下げ、人差し指を立ててやんわりと苦言を呈してきた。
「相手にもプライドがあると思うからね?もうちょっとだけ、普通の使い方をしてあげてね……? チョコを生み出す道具じゃないからね……?」
「善処します……」
ホシノの奴、わざわざ先輩にまでチクっていたのか。
だが、そんな風に他愛もない話で盛り上がっているうちに、話題はふと学生らしい方向へと転がった。
「そういえば、ショウくんって勉強の方は大丈夫? アビドスに来てからバイトや賞金稼ぎばっかりで、あんまり机に向かってる姿を見ないから心配で……。私でよければ、生徒会長としてお勉強を教えてあげようか?ふふん、これでも先輩だからね!」
ユメ先輩はふっくらとした胸を誇らしげに張り、得意げに微笑んでみせた。
頼れる先輩の威厳を見せたいのだろう。だが――俺は申し訳なさを感じつつも、率直な事実を告げた。
「いや、俺、勉強はできる方なんすよ。外の世界からキヴォトスに来た時の適性試験、トリニティでもミレニアムでもどこでも入れる判定でしたし。歴史はちょっとあれですけど……数学も物理も一通り履修済みで、語学もそれなりにいけますから、勉強の心配はいらないっすよ」
「えっ」
「……むしろ、さっき生徒会室の机の上に転がってた、赤点ギリギリの補習プリントを見る限り……俺が心配すべきなのはユメ先輩の方だと思うんすけど」
「えっえっ」
俺がジトッとした視線を向けると、ユメ先輩の動きがピキリと凍りついた。
そして、みるみるうちに耳まで真っ赤になり、両手でお腹のあたりを押さえながら、ヘニャヘニャと情けない声を漏らした。
「ひぃん……!み、見ちゃったのぉ……!?あれはね、生徒会長のお仕事が忙しくて、ちょっとだけ集中できなかっただけでぇぇぇ……!」
お決まりの口癖と共に、絵に描いたようにしょんぼりと肩を落とすユメ先輩。
威厳を見せようとして逆に赤っ恥をかいてしまった姿が妙に年相応で、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
「まあ、また明日にでも見てあげますよ。赤点取られたら生徒会威厳がなくなりますからね」
「ほ、本当……?教えてくれるの……?……えへへ、ありがとう、ショウくん!」
怒られると思ったのか、一転して救われたような笑顔を浮かべ、ユメ先輩は嬉しそうに俺の袖口をちょこんと掴んできた。
沈みゆく夕日の中、少し照れくさそうに笑い合う二人の影が、砂漠の道に長く伸びていた。
そうして最後に立ち寄ったのは、以前グルグルヘルメット団に襲撃されていたあの商店だった。
自動ドアをくぐって店内に足を踏み入れると、レジカウンターの奥で一人の少女が店番をしていた。
まだ慣れない手つきではあるものの、客として訪れていたロボットの住民へ深々とお辞儀をし、ぎこちなくも丁寧な仕草でお釣りと商品を渡している。
ふとこちらに気づいた少女は、パッと顔を輝かせると、小走りで駆け寄ってきた。
「お久しぶりです!ユメの姉御、ショウの兄貴!」
「こんにちは〜!バイト、頑張ってるみたいだね〜」
「よっす。ちゃんと真面目にやってるみたいだな」
元気に頭を下げてきた少女――そう、彼女こそがあの夜、この店を襲撃したグルグルヘルメット団の一員だった少女だ。
黒服から聞かされた話によれば、あの時彼女が突如として猛烈な腹痛に襲われたのは、どうやら俺が牽制で放った神秘入りの銃弾のせいだったらしい。
あの時は店主が戸惑いながらもトイレを貸してくれたおかげで、彼女は間一髪のところで乙女としての社会的尊厳を失わずに済んだのだ。
……ちなみに、その腹痛の元凶が俺の撃った弾丸のせいだなんてことは、ホシノ達と決めて、墓場まで持っていく秘密にした。口が裂けても言えるはずがなかった。
ともあれ、九死に一生を得て尊厳を守られたことに心の底から恩を感じたのだろう。
彼女は後日、仲間たちとお金をかき集め、壊した商品の弁済金を持って律儀にも頭を下げにやってきたのだ。
店主のオヤジさんも、俺とユメ先輩の執り成しや、彼女たちの心からの反省と誠意ある態度を見て、最終的には「まあ、次からは気をつけなさい」とあっさり許してくれた。
さらにそこへ、人手不足に悩んでいた店の状況を聞きつけたユメ先輩が「それなら、ここでアルバイトとして雇ってもらうのはどうですか〜?」と提案したのだ。
仲間の一大事を救ってくれた店主に恩返しがしたいヘルメット団と、猫の手も借りたい店主の利害が見事に一致し、話はトントン拍子で成立。
今ではすっかり足を洗った元・グルグルヘルメット団の少女たちは、この店をはじめ、ユメ先輩の紹介もあって、アビドス自治区内の様々な現場で真面目に汗を流して働いている。
(……まあ、あいつらも好きで悪さをやってたわけじゃないからな)
一生懸命に商品を棚に並べ直す彼女の背中を見つめながら、俺はキヴォトスという世界の歪な構造に思いを馳せていた。
ヘルメット団やスケバンといった不良集団。
その大半は、国家そのものである巨大な各学園から、何らかの事情で『学籍』を失ってしまった生徒たちだ。
文字通り戸籍であり、身分証明であり、市民権そのものである学籍が存在しない彼女たちは、通常の学園都市ではまともな住居も職も得られない。生きていくためには、ブラックマーケットの怪しい闇バイトに手を染めるか、傭兵まがいの暴力でその日暮らしの食い扶持を稼ぐしかなかったのだ。
そんな行き場のない連中にとって、自治区のルールがまあまあ緩く、人手不足にあえぐこのアビドスは、真っ当にやり直すための数少ない受け皿になりつつあった。
ユメ先輩のお人好しな思いつきが、結果として彼女たちに新しい居場所を与えていたのだ。
「姉御、兄貴!店長から『生徒会長たちに持って帰ってもらえ』って、お惣菜のコロッケ包んでもらいました! 持ってってください!」
「わぁ〜、揚げたてのコロッケ!ありがとうね〜!」
「助かる。夕飯の前に、ホシノと三人で分けて食うよ」
紙袋から立ち上る香ばしい匂いを受け取りながら、俺はユメ先輩と顔を見合わせて笑った。
砂に埋もれかけたこの街にも、確実に新しい日常の芽が息づき始めている。
「ところで、他の連中の調子はどうなんだ? ちゃんと真面目にやってるのか?」
俺が尋ねると、少女は人差し指で鼻の下をこすり、白い歯を見せて快活に笑った。
「へへっ、他の連中もみんな楽しくやってるっすよ! 土木現場に行ったやつは親方に気に入られて飯食わせてもらってますし、運送屋に行ったやつも『体を動かして稼ぐのって気持ちいいな』なんて言っちゃって! アビドスに来てから、みんな前よりずっと顔つきが明るくなったっす!」
後ろ暗い闇バイトや銃撃戦に怯えることなく、額に汗して真っ当に稼ぎ、温かい飯を食う。
そんな当たり前の生活が、彼女たちにとっては失われていた宝物だったのだろう。その屈託のない笑顔を見ていると、こちらまで肩の荷が下りるようだった。
だが――その様子を見つめていたユメ先輩が、ふと真剣な、少し痛ましげな表情へと切り替えた。
「……ねえ。やっぱり、アビドスに入学しない?」
先輩の口から出たのは、一切の計算や打算のない、どこまでも純粋でまっすぐな心配だった。
「アビドスに入ってくれれば、ちゃんと学籍だって用意できるよ。学籍があれば、身分証明もできるし、他の自治区に行っても怪しまれないし、将来の選択肢だってずっと広がるもん。……私、みんなにちゃんとした生徒としての居場所を作ってあげたいんだよ」
キヴォトスにおいて、学籍のない少女たちがどれほど理不尽な境遇に追いやられるか。
それを痛いほど知っているからこそ、ユメ先輩は生徒会長として、そして一人の年長者として、彼女たちに正規の生徒としての盾を差し出そうとしていた。
しかし――少女はバツが悪そうに視線を泳がせ、頭をボリボリと掻いた。
「うっ……姉御、その気持ちは死ぬほど嬉しいんすけど……やっぱり、それは締まりが悪いっすよ」
「えっ……? 締まりが悪い……?」
「だってあたしたち、この自治区で散々迷惑をかけて、お店を襲ったりした元・犯罪者なんすよ? そんな連中がのうのうと生徒会に拾われて名門校(元だけど)の制服を着るなんて、アビドスの看板に泥を塗るようなもんっす。それに……」
少女は誇らしげに、店の奥の事務所――のんびりとお茶をすすっている店主がいる方を指差した。
「あたしは、まだまだボスに恩を返しきれてないっすから!あ、あんな恥ずかしい大ピンチを救ってくれて、その上こんな居場所までくれたボスを置いて、自分だけ学籍もらってハイさよなら、なんて不義理な真似……あたしのプライドが許さないっす!」
筋を通し、恩義に報いる。
かつて不良と呼ばれた少女の胸の奥には、どんな大人よりもまっすぐで頑固な矜持が宿っていた。
「ひぃん……そっかぁ……」
断られたユメ先輩は、獣人だったら間違いなく耳をペタンと倒していただろう。がっかりと肩を落として情けない声を漏らした。
良かれと思って誘っただけに、フラれてしまったショックは大きかったらしい。
だが、そのしょんぼりした先輩の姿を見て、ヘルメット団の少女は顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「あ、いや! 拒絶したわけじゃないんすよ姉御! その……!」
少女は両手をブンブンと振り、耳元まで赤く染めながら、もじもじと指先を弄んだ。
そして、照れ隠しのように視線を逸らし、緊張で上擦った声でぽつりと告げた。
「……もし、あたしがボスにしっかり恩を返し終わって……それでも、もし姉御が誘ってくれるなら……その時は、是非アビドスに入らせてくださいよ。あたしだって……姉御や兄貴の後輩になれるなら、すっごく嬉しいっすから……」
蚊の鳴くような、けれど精一杯の真心を込めた言葉。
それを聞いた瞬間――
「――っっ!!」
ユメ先輩の顔が、まるで満開のひまわりのように輝いた。うおっ、まぶしっ。
「……っ、うん!うんうんうん!!もちろん!何年だって待ってるよぉぉぉ〜〜っ!!」
「ぶべらっ!?」
感極まったユメ先輩は叫ぶが早いか、両手を広げて少女へと猛烈な勢いでダイブした。
ドフッ、と鈍い衝突音が店内に響く。
ユメ先輩はその豊満すぎる胸元へ少女の顔面をすっぽりと力任せに埋め込み、溢れんばかりの愛情を込めてギュウギュウと抱きしめ倒した。
「むー! むがー! んぐぅぅぅーーーっ!?」
「えへへぇ〜、嬉しいなぁ〜!約束だよ〜!絶対アビドスに来てね〜〜!」
「ふごっ……!あ、姉御、息が……!胸がデカすぎて窒息す……た、助け……っ!」
先輩の規格外の柔らかさに完全に圧殺され、手足をじたばたとさせて白目を剥きかける元ヘルメット団の少女。
このままでは恩を返す前に、文字通り胸の中で天に召されてしまいそうな勢いだった。
「はいはい先輩、そこまで。嬉しいのは分かりますけど、その子ホントに窒息死しちゃいますから離してあげてください」
俺は苦笑交じりに溜息をつきながら、バタつく少女の襟首をそっと掴み、先輩の豊満なトラップからスポンと引き抜いて救出してやるのだった。
店先でそんな騒ぎをやっていると、ポケットの中で端末がピロリンと軽快な通知音を鳴らした。
画面を開くと、偵察に出ていたホシノからのメッセージが届いていた。
『見回りは異常ありませんでした。二人も適当なところで切り上げて解散してください』
「ホシノから連絡っす。境界線は問題なかったみたいですね。今日はこれで解散ってことで、あいつは先に生徒会室に戻ってるそうですよ」
「あ、本当? よかったぁ〜。じゃあ私たちも帰りながら、ゆっくり戻ろうか〜」
店主と元ヘルメット団の少女に手を振り、俺たちはコロッケの包みを片手に夕暮れの通りへと出た。
空は茜色から徐々に深い藍色へとグラデーションを描き始め、砂漠特有の涼しい夜風が吹き抜けていく。
少し前を歩くユメ先輩は、先ほどの少女との約束がよほど嬉しかったのだろう。
長い緑色の髪をふわりと揺らし、まるでスキップでもするかのように俺の前を軽やかな足取りで、機嫌良さそうに鼻歌を口ずさんでいた。
普段の頼りなげな姿や、生徒会長としての重圧を背負っている時とはまるで違う、年相応の無邪気な少女の姿だった。
その背中を眺めながら、俺はふと、前々から胸の中にあった疑問を口にしていた。
「……そういえばユメ先輩。前からちょっと気になってたんですけど」
「ん〜?なぁに、ショウくん?」
くるりと振り返った先輩は、首を傾げて小首をかしげた。
「先輩って……そもそも何で、このアビドスに入学したんすか?」
俺の問いかけに、ユメ先輩はパチクリと目を瞬かせた。
それから、夕闇の迫る空を少しだけ見上げ、困ったように、けれどどこか懐かしむように小さく微笑むと、また歩き始めながらぽつりぽつりと語り始めた。
「……えへへ。実はね、最初はアビドスに入るつもりなんて全然なかったんだよ。地元の、もっと普通で、小さくてのんびりした高校に進学するつもりだったの」
先輩は歩調を少し緩め、砂を踏みしめながら過去を手繰り寄せる。
「でもね、中学の終わり頃に、街で不良同士のひどい喧嘩があってね。すごく怖くて、誰も止められなくて……そこに、アビドスの制服を着た先輩たちが駆けつけてくれたの」
その時の光景が今でも鮮明に焼き付いているのか、ユメ先輩の瞳がキラキラと微かに輝いた。
「盾を構えて、銃を構えて、街の人たちを背中に庇いながら、あっという間に喧嘩を収めちゃってね。その姿が……すっごくかっこよくて、眩しくて。『アビドス高等学校』っていう名前が、私の中でキラキラした憧れになっちゃったんだよね」
だから、迷わずアビドスの門を叩いた。
けれど――門をくぐった先に待っていた現実は、あまりにも過酷だった。
「入ってすぐ、天文学的な借金があるって知らされて……すっごく驚いちゃった。でもね、その時はまだ、憧れた先輩たちもいたし、同級生の仲間たちもたくさんいたから。『みんなで力を合わせれば、大好きな地元のアビドスを何とかできるはず!』って、本気で信じて頑張ってたんだよ」
けれど、過酷な現実は、ユメ先輩たちの純粋な熱意を容赦なくすり潰していった。
利息ばかりが膨らむ絶望的な借金。日ごとに広がっていく砂漠。
「……でもね。先輩たちが卒業して、借金がちっとも減らない現実を突きつけられて……一人、また一人って、みんな諦めていっちゃったの。『ごめんね、ユメちゃん』『もう、これ以上は無理だよ』って……みんな、他の学校へ転校していっちゃってね」
見送るたびに、教室の机が減っていった。
賑やかだった部室が、少しずつ砂埃に埋もれていった。
「それでも……私は諦めきれなかったんだ。先輩たちが守ろうとしたこの場所を、みんなと笑い合ったアビドスを、どうしても見捨てたくなくて。最後まで残って、生徒会長になって、何とかしようとしたんだけど……」
ユメ先輩は足を止め、俯いた。
その表情に、夕暮れの影が色濃く落ちる。
「……けれど、私、失敗しちゃったんだよね」
ぽつりと零れ落ちたのは、乾いた、泣き出しそうなほど悲しげな自嘲だった。
過去の生徒会が土地を売り払っていたこと。カイザーの悪辣な罠に気づけず、後輩のホシノにまで重荷を背負わせてしまったこと。
彼女が一人で抱え込み、胸の奥底にずっと澱のように沈めていた、深い後悔と無力感だった。
「先輩……」
何か、慰めの言葉をかけようとした。
『そんなことない』とか、『先輩は悪くない』とか。
だが――喉元まで出かかった言葉は、どれも軽薄な上滑りに思えて、口から出すことができなかった。
大切な仲間たちを見送り続け、たった一人で砂嵐の中に立ち尽くしてきた彼女の痛みの深さを、外の世界から来たばかりの俺が、安っぽい同情で埋められるはずがなかったからだ。
だから俺は、何も言わなかった。
ただ、少し先で立ち止まっていたユメ先輩の隣へとスッと歩み寄り、当たりそうなほど近くまで寄り添い肩を並べた。
何かを語るでもなく、ただ『俺はここにいる』と示すように、黙って隣に立ち、同じ夜風を受け止めた。
ユメ先輩は驚いたように丸くした瞳で俺を見上げ――そして、俺が何も言わずにただ寄り添ってくれたことの意図を察したのか、ふっと強張っていた肩の力を抜いた。
「……ふふ。ありがとうね、ショウくん。何も言わないでいてくれて」
先輩は少しだけ目元を拭うと、柔らかく微笑んだ。
「私の情けない昔話、聞いてくれて嬉しかったよ」
少しの間、二人の間に静かで穏やかな沈黙が流れた。
通りには人影もなく、遠くで風が砂を撫でる音だけがサラサラと響いている。
やがて、ユメ先輩が夜空を見上げ、ふうっと深く息を吸い込んだ。
その横顔には、先ほどの弱々しさは消え去り、澄んだ光が宿っていた。
「……あのね、ショウくん。私ね……夢があるんだ」
「夢、っすか」
「うん。私の名前にかけてるわけじゃないんだけどね〜」
ユメ先輩はいたずらっぽく笑いながら、暗くなり始めたアビドスの街並みを、愛おしそうに見渡した。
「ショウくん、『アビドス砂まつり』って知ってる?」
「砂まつり……?いや、聞いたことないっすね」
「昔ね、アビドスでずっと行われていた、すっごく大きなお祭りなんだよ。記録によればね、過去に177回も開催されてたんだって」
177回。
気の遠くなるような年月、この地で紡がれてきた歴史の重みだった。
「その頃のアビドスはね、キヴォトス全土から人が集まってくるくらい栄えてて……お祭りの日には、自治区の端から端まで屋台がズラリと並んで、夜空一面に数えきれないほどの花火が打ち上がって……街中が、お昼間みたいに明るかったんだって」
語るユメ先輩の声は、まるで絵本を読み聞かせる子供のように弾んでいた。
かつての栄光を誇る、アビドスの最も美しかった記憶。
「でも……学校が衰退して、砂漠が広がって、人がいなくなって……いつの間にか、お祭りをやる気力も、お金も、余裕もなくなっちゃってね。もう何年も、何十年も、途絶えちゃってるんだ」
ユメ先輩は足を止め、両手を胸の前でぎゅっと合わせた。
満天の星が瞬き始めた夜空を見つめるその瞳には、果てしなく遠く、けれど決して消えることのない、切実な祈りが込められていた。
「もし、いつかアビドスが……ううん、昔みたいに大きくなくてもいいの。ちっちゃくて、ささやかでもいいから……またみんなで集まって、笑顔で笑い合えるようなお祭りが、もう一度できたらいいな、って」
砂漠の真ん中で、ポツリと零された願い。
けれど、先輩はすぐに気恥ずかしそうに肩をすくめると、寂しげに笑って自分から言い訳を重ねた。
「……できるといいな〜、なんてね。今の状況じゃ、やっぱり夢のまた夢かなぁ」
その自嘲の言葉を聞いた瞬間、俺の足がピタリと止まった。
「……先輩」
「え?」
呼び止める声に、ユメ先輩が不思議そうに振り返る。
俺は一歩踏み込み、夜空から視線を戻したユメ先輩の瞳を、真っ直ぐに射抜くように見据えた。
「夢のまた夢で終わらせる気なんて、俺にはこれっぽっちもないっすよ」
「ショウ、くん……?」
「借金も、カイザーの企みも、邪魔する連中は全部俺とホシノで片っ端からぶっ飛ばして更地にしてやります。土地だって必ず買い戻す。……だから、諦める必要なんてどこにもないっす」
俺は息を吸い込み、迷いのない、確信に満ちた言葉を直接先輩へとぶつけた。
「ささやかでも小さくてもいいなんて言わせませんよ。俺とホシノと、そしてユメ先輩の三人で――絶対にアビドスを取り戻して、その178回目の砂まつり、盛大にやりましょう。俺が絶対に実現させてみせますから」
夜の静寂を切り裂くような、力強い宣言だった。
ユメ先輩は大きく目を見張り、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
けれど、俺の瞳に宿る本気の色を真正面から受け止めた瞬間――その大きな瞳に、みるみるうちに熱い涙が滲んでいく。
「……っ、うん……! うんっ……!!」
先輩は胸の前で握りしめていた手をさらに強く握り直し、涙をこぼしながら、けれど今までで一番眩しく、心からの満面の笑みを咲かせた。
「約束だよ、ショウくん……! 絶対、絶対に三人でお祭りやろうね……!」
「ええ、約束っす」
生徒会室のある本校舎と、宿舎へと続く分かれ道。
街灯の淡い明かりの下で、俺たちは足を止めた。
「それじゃあ先輩、俺はここから家に戻りますね。コロッケ、冷めないうちに食べてください」
「うん! 私も家に戻って、あ、ホシノちゃんとには私からコロッケを届けておくね!それと……ショウくん、補習にならない様に明日、本当に教えてね……?」
「はい、分かりましたよ。赤点回避レベルまでみっちり付き合いますから」
「えへへ、頼りにしてるよ〜! じゃあ、また後でね、ショウくん!」
ぶんぶんと手を千切れんばかりに振って、軽やかな足取りで生徒会室へと走っていくユメ先輩。
暗い夜道を進むその背中は、先ほどまでの重圧など嘘のように、希望に満ち溢れて弾んでいた。
俺は小さく息を吐き、コロッケをつまみながら、宿舎へと向かって夜の砂漠を踏みしめた。
頭上のヘイローが、まるでこれからの未来を祝福するように、静かに、けれど力強く明滅していた。
夜風が吹き抜ける砂の道を、私はぎゅっと紙袋を抱きしめながら、一人で歩いていた。
ショウくんと別れた分かれ道から、私の宿舎へと続く夜道。
街灯の明かりはまばらで、空を見上げれば吸い込まれそうなほどの満天の星が広がっている。
ほんの少し前まで、この一人きりの帰り道は私にとって、果てしなく長くて、息が詰まるほど寂しいものだった。
先輩たちが一人、また一人と卒業していって。
仲の良かった同級生たちも、終わりの見えない借金と砂漠化に絶望して、泣きながら転校していって。
気づけば、広すぎるアビドスに残されたのは、私たった一人だけだった。
どんなに無理して笑顔を作っても、どれだけ口癖の「ひぃん」っておどけてみせても。
誰もいない暗い部屋に入って、窓の外で吹き荒れる砂嵐の音を聞いていると、冷たい恐怖で体が震えていた。
『もう、アビドスは終わりなんじゃないか』
『私の代で、大好きな学校を無くしてしまうんじゃないか』
そんな押し潰されそうな孤独を、ずっと一人で抱え込んでいた。
けれど――そんな真っ暗だった私の毎日に、奇跡みたいに二人が現れてくれた。
最初は、ホシノちゃん。
出会った頃はツンツンしていて、警戒心が強くて、でも誰よりもアビドスのことを考えてくれて……不甲斐ない私に代わって、必死に前線で戦ってくれた大切な後輩。絶対に守ってあげなきゃいけない、私の可愛い妹のような存在。
そして――外の世界から、ふらりとやってきたショウくん。
最初は本当にびっくりした。
目つきはもの凄く鋭いし、頭の上のヘイローは見たこともない七色でチカチカ光ってるし、敵の銃をチョコレートに変えたり、ビルを素手で引っこ抜いたり、投げたヘイローが爆発したり……やることなすこと全部がキヴォトスの常識の外側で、呆気にとられることばかりだった。
でもね、すぐに分かった。ショウくんは、誰よりも優しい人だっていうこと。
悪辣な大人の企みを見抜いて、自分のヘイローを切り売りしてまでお金を作ってくれたり。
私が不安そうにしていると、決まって私の歩幅に合わせて、そっと隣に並んでくれる。
今ではあんなに物騒?な二つ名で世間から呼ばれているけれど、私にとっては誰よりも頼もしくて、温かい男の子だった。
……あの日、生徒会室でカイザーの罠を知って、自分の無力さに涙が止まらなくなってしまったとき。
ショウくんは、私の肩にそっと手を置いてくれた。
「俺とホシノでお前の道を切り開く」って、力強く約束してくれた。
情けなく泣きじゃくる私の頭を、ショウくんの大きくて温かい手が優しく撫でてくれたあの瞬間。
――胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなったのを、今でも鮮明に覚えている。
そして、さっきの帰り道でも。
私が諦め半分でこぼした、昔の大きなお祭りの夢。
『夢のまた夢かな』って、自分で自分に言い訳をして寂しく笑った私に、ショウくんは怒るみたいに、真っ直ぐに私の目を見て言ってくれた。
『俺とホシノと、そしてユメ先輩の三人で――絶対にアビドスを取り戻して、その178回目の砂まつり、盛大にやりましょう。俺が絶対に実現させてみせますから』
嘘偽りのない、まっすぐな瞳。
迷いのない、確信に満ちた声。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は、今まで生きてきた中で一番大きく跳ねた。
トクン、と熱い波が胸いっぱいに広がって、耳の先までカッと熱くなって、涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
(……あぁ、私)
胸にそっと手を当てると、トクトクと早鐘を打つ鼓動が手のひらに伝わってくる。
この気持ちが何なのか、まだ恋なんてしたことのない私には、よく分からない。
先輩なのに、生徒会長なのに……こんな風に年下の後輩に救われて、縋りついて、胸を焦がしてしまうなんて、不甲斐ないし、ちょっぴり恥ずかしいかもしれない。
でも――ショウくんが隣にいてくれるだけで、私の世界はこんなにも明るくて、温かい。
もっとショウくんの笑顔を見たい。
もっともっと、私の知らないショウくんのことを知りたい。
そして、ショウくんが約束してくれたあの未来を――178回目のお祭りを、絶対に三人で迎えたい。
見上げれば、砂漠の夜空に満天の星が優しく瞬いている。
今日は現地解散だったから、それぞれの家で過ごす静かな夜だ。
けれど、もう前みたいに寂しくなんかない。
明日の朝になれば、またあの生徒会室で「おはよう」って言える。
ホシノちゃんの思いやりある心配の声を聞いて、ショウくんに補習のプリントを教えてもらって、三人で笑い合える明日が待っている。
胸に抱えたコロッケの紙袋から、ふわりと温かい匂いが立ち上った。
私はこぼれそうになる笑みを隠すこともせず、軽やかな足取りで、自分の家へ向かって夜道を歩き出した。