『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
はちがつさんじゅういちにち
きょう、ぼくのこせいがわかったそうです
びょういんのせんせいにおしえてもらいました
ひとのこころをころす
それがぼくのこせいだそうです
ぼくはひーろーにはなれないといわれました
どうしてかはだれもおしえてくれません
だからぼくはひとをすくえるひとになろうとおもいます
僕はとても透明な人間です。
自分というものが大してわからない。何が好きで何を嫌うのか。どういった時に幸福を感じ不幸を感じるのか。全く分からない。
15年間の人生の中で幾度か解剖するように試してみたけれど、風が吹けば心地よいと感じるし、桜の色を見上げれば綺麗だなと思うこともあるようだ。
けれどもそれは僕という主観が外側の現象をただ捉えているだけで、僕は僕の中になにも見つけられない。
別に感情がないわけじゃないけれど、あるからといって感動が産まれるわけでもない。欲しいものはあるのに、それが何かもわからないし、そもそも手にはいらないことを諦めきれるような停滞感。
わかっているのは、僕は僕だ、という存在認識だけ。
勿論、親がつけてくれたものでもなければ、戸籍にそう書かれているわけでもない。そもそもそんな名前をつけようとしたならば、きっと役所の人間が止めに入ったはずだ。
しかし現実として僕は僕でしかなかったし、僕以外の何者かになれたことも一度もない。
僕の生にいつでも付き纏う一つの影。
つまりはそれは、僕自身を含め、誰も『僕』という存在として以外僕を認識出来ないというものだ。
何かの書類を提出する時には少しだけ便利ではある。なにしろ名前の欄に『僕』と書けばそれで清く正しく認識されるから。
基本的に僕は世界から『僕』という現象であることだけが認められているようだ、と気がついたのは小学生の頃。僕自身、自分の本当の名前を覚えていない。気がついた時には忘れていたし、どんな物を見ても僕の名前は『僕』としか書かれてはいなかった。
そんな僕の個性は『人の心を殺す』個性。
対象者を視界に収め、その死を願えば、真っ暗な九本の腕が顕れて、安らかな精神の死が行われる。
だから僕は、丁寧に丁寧に、大事に大事に抱きしめるように人を救うために人の心を殺してきた。
善人を害するのがヴィランであって、人々を助けるのがヒーローならば、僕は死をもってヴィランを救う者になろうと考えたんだ。
だって彼等も被害者だから。環境だとか頭をぶつけたからだとか、あるいはサイコパスになるのは脳の機能的な問題で、それはつまり灰白質の量が原因だとか言われているけれど関係ない。
平坦に平凡に差別も区別も持たず、社会が見捨てた悪役達を救いとる。情状酌量や憎しみといった、第三者による暴力を介さずに。いつからかそれが僕の存在理由になっていた。
だからこそ、僕はそんな自分の個性名が嫌いだ。
『人の心を殺す』個性だなんて、聞くだけであまりに物騒極まりない。おぞましいといってもいい。
だから僕はそんな僕の個性をひっそりと、悪人を救う為の『安楽死』の個性と、そう呼んでいる。
光がいっぱいに溜め込まれた空の色、春空の青は深い海のそれとは違いとても寂しい色に見えた。
眼下で乱雑に並ぶ大小様々なビル群が、地表という肌に出来た歪なカサブタのように広がっていた。ブルドーザーか何かで押しつぶして、平坦にするわけにはいかないのだろうか。
広がる街の風景は今日も平和そのもの――とはいかず、ドロドロとしたヘドロ状の怪物が学校の目の前で街を壊しながらヒーロー達と戦っていた。
怪物は伸縮自在を繰り返し、大きくなったり小さくなったり。校門付近で先生達が焦った様子で危険も顧みず門を閉じている。
僕は隣に立つ少女に声をかけた。
彼女は風に揺れる金の髪の毛を片手で抑えながら立っている。前髪ぱっつんが可愛らしい。両サイドから二束の髪が顎先まで伸びて落ち、後頭部に向かうに連れて本数を増やしているそれは、まるで肉食獣の短いたてがみを思わせる。実際、彼女は犬歯の発達した口元を、三日月に歪ませニタニタ笑っていた。
「あぁ、また腕に切り傷増えてる。またやったの? やめなよそういうの。見てるこっちが痛いし哀しくなるんだけれど」
サマーセーターの上から羽織る群青のブレザー。髪を抑えた時に袖口が捲れたことで、細い手首に刻まれた"それ"がちらりと見えてしまう。
「ふひひ‥‥そうですか? 僕くんがそう言うならもうやらないです‥‥その代わりに僕くん、ギューってしてください」
渡我被身子――ヒミコちゃんは、頬を赤く染めながら歪んだ笑みを浮かべつつ両手を迎え入れるように広げている。
「うん、いいよ」
僕はそこにゆるっと近づいて彼女を優しく抱きしめた。
柑橘系の爽やかな香りとヒミコちゃん自身のお菓子のような甘い香りがふわりと舞って、それから鉄のような鋭い匂いが鼻孔をついた。それは血の匂いだった。多分、ヒミコちゃん自身の。
総じてヒミコちゃんはオレンジの入った甘い甘いチョコレートの香りがしていた。
「えへへ‥‥僕くんの匂いでいっぱいです‥‥」
柔らかく抱きしめられるのに返しながら、「きっとまたこの子は自分を傷つけるようなことをやるんだろうなぁ」、と思った。ヒミコちゃんと知り合って二年くらいになるけれど、止めても結局やめてくれた試しがない。
ヒミコちゃんはどうやら僕に自傷行為を止められることに興奮し、快楽を得ているフシがある。
けれどもこの子はとてもいい子だ。だって他人を傷つけてはいないから。少なくとも今は。
街路灯の下、暗闇の中ぽっかりとあいた光の底で、一人寂しく座り込んでいた彼女はもういない。
自分を傷つけるのは良くないことだけれど、だからといってその欲望を他人に向けたらそれはいけないことだ。そうしないヒミコちゃんは凄く頑張っていると思う。
季節は春だけれど冷たさを残す風ほど気温は低くなく、抱き締めたヒミコちゃんの体温だって温いはずなのに、しかしそれでもやっぱりどこか寒々しい感覚になった。
「ねぇヒミコちゃん、あのヘドロ君どこに向かうと思う?」
僕はヒミコちゃんの細く、しかしふわふわとした背中と頭とを十分にヨシヨシしてから体を離し、視線の先にヴィランを捉え指を向けて言った。
集まってきたヒーロー達は、個体から液体状へと変わるヴィランに手を焼いているらしく、有効的な攻撃を与えられていない。
とはいえヴィラン側も苦戦はしてるようで、マンホールの蓋を外して逃げようとしてるのが僕の立ち位置からは見えた。ヒーロー達からは死角になっている。
「そうですねぇ‥‥学校のすぐ近くに廃工場があったので、行くとしたらそこですかね?」
「あぁ、いいね。それはすごくヴィランっぽいと思う」
「えへへ‥‥でも、どうするんですか? きっと体育館への避難誘導始まりますよ?」
「もちろん行ってみるよ? 廃工場の方にね。社会が差別し見捨てるであろう彼を救ってあげないと。心へと、絶対的に平等な死をプレゼントすることでね」
僕の言葉にヒミコちゃんの頬の赤みが増していく。
「いいなぁ‥‥僕くん、私も救ってください。私、生き辛いです。だから僕くんに殺されたい!」
「えぇ‥‥やだよ‥‥ヒミコちゃんは自分を傷つけるけど誰も傷つけない良い子だもの」
悪人が自ら伸ばした助けを求める手のひらを、僕は決して離さない。視線を外さず最後のその瞬間までを記憶する。後から完璧に想いだしてその人ともう一度再会するために。
透明な僕の中の透明なみんな。
けれども、ヒミコちゃんはちょっと他人の血を吸いたくなる衝動を持つだけの、ただの普通の女の子だ。悪玉ではなく善玉寄りの。だったら彼女を救う人間はヒーローであるべきで僕じゃない。
「それに殺すんじゃなくて救うんだよ?」
「くっふふ‥‥やっぱり僕くんは最高です! 大好きです! じゃあ! じゃあ! 前みたいに僕くんにならせてください! 僕くんの血を吸いたいです!‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥ふひひ‥‥」
「それはなぁ‥‥」
以前一度だけ僕は、ヒミコちゃんの望みに従って首筋を噛んでもらい血を分けたことがある。
それ自体は別に構わないのだけれど、何故かそのときにヒミコちゃんは全裸だった。
産まれたままの姿だった。体温がすぐ近くにあった。
どうやら彼女の個性は血を吸った相手に変身するものらしく、服までは再現出来ないからと服を脱いでいた。
問題はここからで、彼女は冗談まじりにじゃれつきながら僕の服を剥ごうとしてきた。
僕の顔をしたヒミコちゃんが。
おふざけの範囲だと思うのだけれど、ヒミコちゃんになんでそんなことをしたのかと聞いたら、
「だって僕くんが全然反応してくれないんですもん‥‥」
と、返ってきた。
なんのことかまったくわからなかったけれど、あれだけ哀しむような怒るような恥ずかしがっているような、良くわからない感情をしていて、僕は戸惑ったことだけは覚えている。
「また血を吸わせてください‥‥大丈夫です。今度は傷口も舐めて綺麗にしますから‥‥僕くんに成れればいいんです、他の誰もいらない。僕くんだけでいい‥‥」
懇願するような声。
「勿論いいよ。けれど、とりあえずヘドロ怪人くんを見つけるのが先にしようよ」
僕がそう言うと、一層ヒミコちゃんは笑みを深めて僕の手をその白い掌で引き、階段へと誘う。
「それじゃあ今すぐ廃工場に行きましょう! きっとそこに居ますよ!」
僕らは始まった避難誘導を抜け出して、そのまま学校を後にした。
廃工場に辿り着くと、案の定、件のヴィランはここに居た。お手柄、ヒミコちゃん。君の勘は正しく間違っていなかった。
かつては駐車場か何かだったのかも知れない広い敷地。ひび割れたアスファルトから雑多な草花が顔だすそこで、着ている黒いツナギをヘドロで膨張させて、彼は独り寂しく繰り言を言っていた。
「どいつもこいつもどいつもこいつも役にたたねぇ! そのくせ偉ぶりやがってよ! 違う俺じゃない! 俺じゃない! 悪いのは俺じゃない! アイツらのせいだ! 俺は土台から腐ってたんだ!!」
どうやら世間や家族、ヒーローに対するもののようだった。
僕はそれを聞きながらヘドロ怪人くんに近づいていく。
「――ひっ‥‥くそっ! だ、誰だてめぇ‥‥学生服‥‥ガキか? 少なくともヒーローじゃない‥‥のか?」
「あぁ、ヒーローって色んなコスチュームがあるからね。学生服に見えるやつとかもありそう‥‥でも僕は見ての通りのなんの変哲もないただの学生だよ」
ヘドロ怪人くんは僕の平時と変わらない口調に少々不信感をつのらせているようだった。
「ガキがわざわざ代りの人質になりに来たのか!? ハハッ! まだまだ逃げてやるかぁあ!?」
その言葉で気がついたけれど、どうやら彼は一人じゃなかったらしい。すぐ側に呼吸も浅く倒れている少女が一人いた。学生服。どうやらヘドロを肺に沢山取り込んでしまったらしく、口元からそれが流れ出ている。
「ガキじゃなくて、僕だよ」
言いながら目の前のヴィランを無視して、僕は地面に倒れる少女の元へと向かい歩いていく。
僕の言葉にヘドロ怪人くんは間抜けな声をだした。
「は? なんだって?」
「僕は、僕だよ」
「んなこたぁ聞いてねぇんだよ! わかった! てめぇも俺を馬鹿にしてるな!?」
その言葉は無視して、倒れている学生服の少女の頬に触れる。彼女は意識はまだ保っているようで、薄く開かれた瞼を震わせながら僕を見ていた。
「可哀想に‥‥苦しい?」
聞くと、少女は小さくこくりと頷いた。きっとそれだけでも苦しいだろうに、僕は涙がでそうになった。きっと少しこぼれ落ちていたに違いない。
僕がにっこりと笑いかけると、少女は僕が着ている学生服の袖を握ってきた。とても弱々しい力で、助けを求めるようにして。けれど彼女を救うのに僕の出番はない。
善人を救うのはヒーロー達の仕事だ。だから彼等が救おうとしない、見ようともしない零れ落ちた透明な存在である悪人達は僕が救う。
「おい! 何勝手にそいつに近づいてる‥‥ッ! 俺を無視するんじゃねぇ!」
少女が僕の袖口を掴む手を、指を優しく一つずつ外してから立ち上がる。それからヘドロ怪人くんを見据えた。
僕がやるべきことは他にある。救われない者に救いの手を差し伸べることが。
「‥‥無視なんてしていないよ。君を救いに僕は来た」
「あぁ? まさか自分から人質に成りにきたってのか? ハハハハハ! なるほどねーそういうことかぁ‥‥って、んなわけあるかぁ!」
僕は彼のその言葉に笑ってみせる。
「ははははは」
うん、あまり上手く笑えなかった。棒読みのようになってしまった。
「やっぱり舐めてるだろてめぇ‥‥」
「あはは、そんなまさか。ところでさ――」
言いながら落ちていた石ころ大のコンクリ片を蹴る。カラコロという音を立てて、それは転がっていく。僕とヘドロ怪人くんはそれを見た。
笑みを浮かべながら僕は言う。
「――ヘドロの個性を持つせいで、小学生の頃に同級生の女の子から蔑みの目で見られたのが劣等感の始まりの自覚だった」
長い沈黙が辺りに落ちる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は?」
ヘドロ怪人くんから返ってきた言葉は困惑の声ひとつだった。おかまいなしに僕は続けていく。
「……きっと家族さえもが君を見放したんだろう? この匂いだ、コンビニの面接すら受からなかったんじゃない? 個性を活かして清掃の仕事に就いても、今度は人間関係で長続きしない。そうやって上手くいかない人生を全部周囲のせいにして、とうとう居場所をなくした……ねぇ、恋人はいた? 友達はいつまでいたの? 飲食店で入店を拒否されたことは?」
一息で言い切って、僕は目の前で独り存在しているヘドロ怪人くんと視線を合わせた。そうして僕より背の高い彼の瞳の奥を、その下から覗き込むようにして見上げた。
「あぁ――なんて、なんて可哀想――だから――僕が君を救ってあげないと」
僕には珍しいことで救済を想像するといつも感情が歪み始める。心臓が鼓動に脈打つ速度が速くなり、血液が体全体に巡り渡るような錯覚が起きる。実際はいつもの通りの穏やかな正脈だし、血液が全体に渡るなんてこともなく、手先はいつだって冷たさを残している。
「待て‥‥待て待て待て‥‥! なんなんだよおまえッ‥‥! それにその目‥‥ひぃ‥‥真っ暗‥‥っ‥‥!?」
僕が目を合わせるとヘドロ怪人くんに叫びを上げる。僕の瞳を見ると、人はみんな死を夢むように優しい眠りを錯覚するんだそうだ。病院の先生の言葉を借りるなら、生きることよりも死を選びたくなる。甘美な誘惑がそこにはあるのだそう。
「そんな目で俺を見るなぁああぁ‥‥ッ!」
けれども泣き出すように言いながら、一歩、二歩と、彼は後退する。ズルズルベチャベチャというヘドロが落ちてはついてまわる音が聞こえた。
そんな怯えた彼の姿を心底から僕は愛おしみ哀しんだ。人の心と肉体は同期する。肉体の感覚が先に来るのか、それとも心が先に動くのか。そこに違いを見出すのはナンセンスだ。
肉体は魂で、魂は肉体だ。落ちて砕けて千々に別れてしまっている彼の体のヘドロは、彼自身の心そのものにも見えた。
「僕という奴はとてもちっぽけな人間なんだ。けれどもねそんなどうしょうもない僕でもたった一つだけ誇れるものがあるんだ――それは個性。君を救おう。僕がいまこの力で」
落ち着かせるように、まるで子供を眠りにつかせるような母の言葉を意識して言う。
「大丈夫だよ、人の心はいつだって死にたがっている」
「ひぃ‥‥寄るなっ! 寄るなぁ!」
そうして廃工場の建物の壁にまで後退し、たどり着いた彼を見る。表情がこわばり恐怖の形に歪んでいる。
彼はヘドロに纏われていない素手で宙を払い僕を拒絶する。
僕は振るわれるその左手を右手で掴む。ゴツゴツとした男の肌の感触。しかし人の血の熱が通っているそれは温かい。
「深く息を吸って、今までで一番楽しかったことを思い出してごらん?」
ヘドロ怪人くんの震える瞳を見つめる。彼は僕から目を離そうとはしなかった。
「‥‥思い出したかな?」
ゆっくり、ゆっくりと友愛と愛情をもって語りかける。
「思い出したよね?」
君は頑張って生きてきたんだよ。たとえ君に与えられた個性が、君の望むものではなかったとしても。あるいは犯罪に至るまでの間にあった、色んな苦しみも哀しみも何もかも嘘なんかじゃない。
君が生きてきた証で、君が生きている証で、どれだけ苦痛と辛酸にまみれたものであったとしても、君の生きてきた生は本物だったんだ。
――だからもう大丈夫。僕が今、君を終わらせて楽にしてあげる。
ずるりずるり、と粘着性の音をたてながら、ヘドロ怪人くんは建物の壁に背中を押し付けたまま、その場にへたりこんだ。ブルルブルと震えながら、しかし怯えた瞳で僕を見上げる。ズルズルと、彼の顔を覆うヘドロが溶けて落ち、その素顔が顕になる。
「‥‥ッ」
ヘドロ怪人くんの顔が僅かに歪む。それは今までの恐怖を感じてそうしていたのとは違い、流れる涙を表情筋を全てもちいて無理矢理堰き止めているような、クシャクシャした顔だった。
僕は彼の視線を見下ろしながら、その頬へと指先で優しく軽く触れる。
「君は悪くない――」
「違うッ!‥‥俺は‥‥そんな弱いやつじゃッ――」
怒声のような勢いの言葉をつまらせ、彼は項垂れてしまう。目線が僕から外れ、彼はポツリポツリとつぶやいた。
「そうだ‥‥俺は‥‥俺は‥‥俺だって生きているんだ! ここにいるんだ! 俺を見てくれよ! 個性じゃない! 個性が俺じゃないんだ!! 誰か‥‥本当の俺を見てくれよ‥‥」
僕はかがみこみ、彼の顔を真正面から見た。
「うん。僕が君を見ているよ。君のことは僕がちゃんと記憶していくよ。僕は今日のことを忘れない。世界の全てが君を抹殺し忘れようとしても、彩り豊かな世界の中で独り透明で、けれども必死に生きようと足掻き続けていた君のことを絶対に忘れない」
コレまで僕が救ってきた百二十八人の皆と同じように。僕の想い出の中で君は生き続けるんだ。僕と一緒に永遠に。
彼は震えながらそっと伸ばしてきた掌を、手に取り優しく握り返す。
「それじゃあ――おやすみなさい、良き夢を――」
『安楽死』の個性を発動する。
僕の背後から光のない暗い腕が九本現れる。個性を持つ僕と、救われる者にしか見えない救済の腕。それらはヘドロ怪人くんの体へと縋り付くように纏わりついていく。
同時にヘドロ怪人くんの体が徐々に弛緩していく。まるで九つの腕達に生命を吸われているように。
痛みはない。
僕の個性で心が安楽死する際に、人はじわじわと内側から麻酔をされるようにして意識を手放すようになる。
眠りに付くよりも緩慢な動きで。痛みもなくそうなると個性を測った時に病院の先生は言っていた。
彼は最後には安らかな表情をしていた。夏の昼間の陽気にまどろむような、優しくて深い眠り。夏休み、遊び疲れて眠る子供のような寝顔で。
僕は元ヴィランのしかし今はもう誰でもなくなった彼から目線を外す。
「ねぇヒミコちゃん‥‥僕の目ってそんなに変かなぁ?」
ヘドロ怪人くんに最後に言われたことが気になって、離れていたヒミコちゃんに声をかける。すぐに彼女は建物の影から小走りで寄ってきた。鼻を手の甲の裏で隠しながら。
近づいてきたヒミコちゃんを見て、手で口元を隠していた理由を僕は理解した。どうやらヘドロ怪人くんの匂いを嗅ぎたくなかったのではなく、どうしてか彼女は鼻血をだしてしまったらしい。
「いいえ、全然変じゃないです! とっても綺麗な真っ暗な瞳をしてます! あぁ、舐めたいです‥‥舐めさせてください!」
なんでそのような変態チックなことをしなければならないのか。廃工場の敷地で立ち尽くす僕。僕の眼球を舐める鼻血をだしているヒミコちゃん。考えるだに不気味に過ぎるだろう。昼だって夜に代るくらいおどろおどろしい。
僕は隣に立ったヒミコちゃんへと、ポケットティッシュを渡しながら言った。
「やだ」
ヒミコちゃんは僕のその言葉に残念そうに、けれどもどこか嬉しそうに、頬を紅潮させて笑っていた。
二人で連れ立ってその場を離れながら思う。
あぁ、やっぱりヒミコちゃんは掛け値なしの変態なのかも知れない。
もう学校の避難誘導は終わっているだろうけれど、今更戻っても仕方ない。後で連絡だけは入れておかないといけないけれど。迷惑をかけてごめんなさい、先生達。
サイレンの音を遠くに感じる。ヒーローより音は早くこの場所へと辿り着く。
透明だったヘドロ怪人くんが世界からいなくなっても、空はやっぱり青く広がっていた。
帰りにソーダ味の青いアイスを買いにコンビニ寄ろう。
あの爽やかな味が今とても恋しい。
あの爽快感を感じさせる、今の僕が実感しているものと同じようなあの味が。
続くかもわからん