『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
その掌はもはや子供の頭を撫でられない。
正義を継続するために人を射殺した右腕は、既に誰かの血の色で染まってしまっているから。
心が叫び、体は軋みを上げる。
暗闇は、見続け追いかけ辿り着く。
もう、すぐ側にいる。
三羽の雀が路地裏にある電柱から飛び立った。迫りくる夜を背にして逃げるようにして。その小さな鳥達は暗闇では視界の先を見失うからだろう。
田等院の街に広がる細い道は、一度大通りから外れると通路が幾重にも重なり続いている。その暗闇は、あるいは世界そのものが誰かを隠すために作られているように広がる。
排気口から漏れる空気は生温い。それが路地裏へと湿気を呼び込むことで、春だというのに一面辺りは蒸れていた。
肌にへばりつく服の感触を感じながら、僕はビルの壁へと手をやった。
穴が幾つか空いている。まるで力が一点に集中したかのように、円形の穴にヒビ割れは少なく穿たれている。覗き込むと、暗がりの中に埋め込まれている何かがあることが伺えた。
自然に生まれた経年劣化などではないだろう。つい最近に作られたものに違いない。また、電柱には鋭い刃物で削られた跡が刻まれていた。
破裂音が聞こえてきた。それから硬質な鋼を擦り合わせるような金属音。断続的に続く。そう遠くはない。
それらを頼りにレディ・ナガンを探す。けれどもすぐに音は聞こえなくなってしまった。何もかもが終わってしまったのかもしれない。
意図的にした呼吸に意識を集中する。血の匂いがしている。
しかし風にはまた違う香りが混ざっているように感じられた。それは嗅覚で感じるものとは違う感覚。もっと根源的な部分を感覚器官として受け取ってしまえるもの。
しいて言うならば死の匂い。それはまるで腐れかけた花のように甘い。
僕は香りに釣られるようにその場所へと向かった。
辿り着いた場所は廃墟化した小さなビルだった。そもそも完成前に打ち捨てられたのだろう。窓ガラスはひとつもなく、骨組みだけの姿を晒している。
硬質な床は歩くたびに、コツン、コツンという音を響かせる。
階段を登る。三階へと到達する。遠く車の走るブォン‥‥というエンジン音が僅かに外から聞こえて来ている。
吹き抜けのように変わり果てているそこには、柱が幾つか並ぶだけで人の気配は一つもない――
「動くな‥‥っ」
――はずだった。
それは若い女性の声だった。息切れしたような呼吸音が合間に挟まっている。
柱の一つへと近づいた瞬間に背後を取られてしまった。声の感覚から数メートルは距離が開いているのが分かる。
「‥‥ゆっくり、こちらを向け」
僕はその言葉の通りに振り返った。
個性により変じさせ、ひじから先を狙撃銃のように変形させたレディ・ナガンの姿がそこにあった。
子供の頭へと向けていたその掌は今、純粋な凶器へと変わっている。
右腕の銃口がしっかり僕を捉えている。血が右肩からその長い銃身へとむけて流れ落ち、その身を穢していた。
「子供か‥‥」
囁くように言い、レディ・ナガンの表情が苦々しいものへと変わる。
「お前‥‥さっき私を見ていた奴か‥‥なんでここにいる? 私を追ってきたのか?」
隠すことは何もない。だって僕のするべきことは決まっているし、それはいつだって変わったことがないものだから。故に友好を表すために笑みを浮かべながら返す。
「あはは、はい、追ってきてしまいました」
「‥‥誰に頼まれた?」
「誰にも。誰にも頼まれていませんよ? すべて僕の意思からです」
「‥‥そうか。ならいい。だったらさっさとここから去りな。もうすぐヒーロー殺しがやってくる。下手したらアンタも殺されちまうよ」
「ヒーロー殺し‥‥? あぁ、そういえば‥‥」
そこで当てはまりそうな人がいたことを思い出した。そういえばレディ・ナガンを追っていた男がいたんだった。どうでもいいことだけれど。
もう意識は彼女に向いていて、それ以外に誰かがいたことなんて忘れきってしまっていた。反省する。僕の悪い癖だ。今は目の前のレディ・ナガンのことしか考えられない。
「‥‥その傷、痛いですか?」
レディ・ナガンの血を流す肩を見る。見るも無残に衣服が裂けて、赤く染めた柔肌を空気に晒してしまっている。刃物を突き刺されたのか斬られたのか、とにかく傷は深いようだった。
哀しい。人の肉体が傷つく姿なんて見ていて気持ち良いものじゃない。それが他人による裂傷であれ、親による殴打であれ、痛みはとても苦しいものだ。僕はそれをよく知っている。
レディ・ナガンは僕を見据えたまま言った。
「お前には関係ない。私のことはいいからさっさと行け」
ぶっきらぼうに紡がれるそれは、しかし彼女の優しさなのだろうと思う。僕は一目見ればその人の心の特徴が分かる。言葉まで交わせば尚更に。
使う言葉のチョイス、ニュアンス、声の質感。
人の感情はあまりに色彩過多に過ぎ、透明人間には光彩に溺れてしまえるようにさえ感じられる。虹色の光はあまりに息苦しい。その彩り豊かな奔流は、いずれ混ざり合ってどす黒くさえ変わる。
彼女の本質は善人だ。善人だからこそ、本来の自分との乖離に苦しんでいる。人を殺してなお、陽だまりに憧れている。たとえ自分がもうそこには戻れないと己で己を唾棄していても。
なぜなら彼女はもう悪人だから。
だから僕が救ってあげないと。どうして彼女がヒーローを殺したのかは知らない。本当は殺していないのかもしれない。けれど、人を殺したのは間違いない。人殺し特有の魂の香りがする。
ヘドロヴィランくんとも違う。
まるでそれはそう、お母さんの後に初めて救った炎を操る赤毛のヴィランちゃんのように。彼女は個性を制御出来ずに泣いていた。気丈に振る舞う言動とは裏腹に。
だから救った。もう生き辛さに苦しむこともない。僕の中でガラスが溶け合うように一緒に生き続ける。
「その前にやることがあるんです。僕は貴方を助けに来ました」
「‥‥ハッ! あんたが私を助ける? 何も知らねェ子供が、馬鹿言ってんじゃねェよ!」
「そうですね。僕みたいなちっぽけな人間が貴方を簡単に救えるとは思っていません」
「だったら――」
「けれど僕の個性は貴方を救えるんですレディ・ナガン」
そう僕なら救える僕の個性なら。哀しい哀しいレディ・ナガン。貴方の苦しみを終わらせることが出来る。
僕と一緒に生きよう。大丈夫、僕達がいる。
コツン――
音か聞こえた。僕らの会話に水を差すように。それはガラスのない窓の側からだった。
瞬間、レディ・ナガンがそちらへと目を向けた。つられて、僕も彼を見る。
ヒーロー殺し、と、レディ・ナガンにそう呼ばれていた男がビルの縁近くに屈むようにして立っていた。
と、気がついた瞬間。
「チッ‥‥! コイツッ‥‥!」
舌打ちの後、レディ・ナガンは銃口をヒーロー殺しへと向けた。流石にヒーローとして一線で戦っていただけあってその動作は洗練され素早い。しかしそれよりも現れた男の動きは速かった。
ヒーロー殺しはレディ・ナガンだけを狙い、獣が駆け出すようにして彼女の腹部を蹴り上げた。
「カフッ‥‥ッ! グッ‥‥!」
彼女はビルの奥へと転がっていく。それでも態勢を立て直そうとする前に、ヒーロー殺しは右手にしたコンバットナイフの刃に付着していた血液を舐め取った。
「‥‥無駄だレディ・ナガン」
不自然なほど彼女は動きを止めている。
血走った瞳。口元から垂れ下がった長い舌。ユラユラと揺れるようにして、ナイフを逆手にヒーロー殺しは近づこうとする。
だから。
「待ってよヒーロー殺しくん。レディ・ナガンは僕が救う」
その殺意を言葉で堰き止める。痛みを伴った救済など存在しないから。
次回、透明人間とヒーロー殺し、どっちが壊れてるの選手権開催