『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
他の誰かを平等に愛するということは、たった一人を愛せなくなるということ。
オールマイトという名の平和の象徴とさえ呼ばれるヒーローがそうであるように。
誰か一人を愛するということは、他の誰かを視界から消し去ってしまうこと。
オールマイトを信奉する誰かのように。
あるいは他者愛という自己愛に溺れ成り代わろうとする少女のように。
もしもどちらにもなれず宙ぶらりんになってしまえば、あるのは自己の崩壊だけ。
やがて平等に愛することもせず、一人を愛することもせず、歩むことになる。
ただひたすら善悪の区別なく、誰かに使われるだけの人生を――
だからこそ、僕はレディ・ナガンを救うためにヒーロー殺しと対峙していた。
身をかがめるヒーロー殺し。その姿に油断はなく、そこからは怜悧な殺意がこちらへ向けられている。
僕はもう正しく彼の粛清の対象だった。
恐怖はない。
いつものように気軽に散歩をするような気分。途中で冷たい缶コーヒーを買ったっていいかもしれない。
微糖と言うには甘々な僕の思考。
それは死を感じないからではなく、感じすぎるがあまりに近すぎる隣人として生きてきたからだろう。
ヒーロー殺しが近づいて来て刃を振るう。あまりに普通すぎる僕の目には、その動作の切れ端を掴むだけで精一杯だった。擦り切れた映像のようにさえ映る。
けれども振るわれるナイフは当たらない。ヒーロー殺しが僕から離れていくように、あるいは僕はそもそもそこにはいなくて、霞を斬るように。
代わりに彼の手足目掛けて九つの腕を振るう。捕まえられればそれでオシマイ。殺すことはしないけれど、しばらく意識を失ってもらうことになる。
「なぜだ‥‥なぜ当たらない‥‥なぜ、お前を、斬れないッ‥‥!」
「言っただろう! ヒーロー殺しくん! 君は僕を見ていない! 僕を殺したいなら、ちゃんと僕を見てくれよ!」
言いながら僕は暗い腕を振るった。それらは黒い瘴気を纏い、まるで救いを求める人々のように彼へと迫る。
ただ救われたいと懇願し奪ってでも成就させたいというように。
そうして彼の四肢を捉え、床へと押し付ける。
僕自身の身体能力は褒められたものではない。けれども九つの腕の速度は僕の意識すら超える。自動的な救済装置。
ヒーロー殺しを拘束した僕は意識を刈り取る為に僅かに個性を使う。雪山の寒気が優しく眠りへと誘うように。
殺す為ではない。そうする前に力は止める。彼は僕の救済対象ではない。僕がそうしなくても彼は勝手に救われるだろう。あるいは救いさえ必要としていないのかもしれないが。
腕に抱かれたヒーロー殺しは意識を失う――
――はずだった。
彼は立ち上がっていた。ヒーロー殺しはそこに立っていた。九つの腕達を、手にしたナイフで切り払うように立ち上がる。もはや意識もないはずなのに。
口端からこぼれ落ちている唾液。焦点を失った双眸は白く濁り、しかしそれでも彼は彼の意志のみを支木として立っていた。
恐らく殆ど無意識的に投擲されたコンバットナイフ。いったい幾つ隠し持っているんだ。そういう疑問もどうせ当たらないという哀しみと共に一瞬に過ぎ――ようとしてそれは僕の頬を僅かに裂いて後方へと飛んでいった。
頬へと触れると血が掌の上で躍っていた。
ナイフによる攻撃を最後に、音を立ててヒーロー殺しが前のめりに倒れ伏す。
「くふっ‥‥」
喉の奥からある種の感情がせり上がる。
「あはっ‥‥ふふふふ‥‥あははははははははは!」
笑う。笑う。笑う。
透明人間にだって感情がないわけじゃない。ただそれを強く自己のものとして認識出来ないだけ。けれど今感じるものは間違いなく断言できる。
歓喜だった。
それは奇しくもヒミコちゃんが感じたのだろうそれと同じ。
「あー‥‥ははは‥‥」
僕を見てくれたという充実感が心へと注ぎこまれ、徐々にあるいは急速的にそれが失われていった。
まるで穴の空いた器のよう。感情は留まり続けない。気がつけばもう感動は遠く空の下へと消え去っていた。
ヒーロー殺しを抑えつけていた腕を消す。それからレディ・ナガンの方へと足を向けた。
彼女ははたして逃げずにいた。投擲されたナイフの上から突き刺された腹部をおさえている。
「お前、アイツにいったい何をした‥‥‥殺したのか?」
暗い腕達を彼女は認識していない。あれは振るう僕と振るわれる相手にしか見えないものだ。
彼女からすればヒーロー殺しが勝手に吹っ飛び這いつくばったかと思えば、立ち上がるといきなり意識を失ったように見えただろう。
「いいえ、彼には眠ってもらいました。大丈夫、すぐに起きますよ」
「そうか‥‥」
レディ・ナガンは小さく息を吐くように言って、ゆるゆると立ち上がった。それから平坦な声で彼女は僕に語りかける。
「‥‥それで? 私を殺すのか‥‥?」
「はい。だって哀しいでしょう? 生きてるのは辛くて苦しいから」
「違ェよ‥‥私はそんなんじゃねェ。ただ、少し、疲れただけだ。だから――」
「誰かを殺したんですよね?」
僕は笑みを浮かべる。彼女のことは頭での理解ではなく、共感さえ出来るような気がした、まるで昔からの家族か恋人のように。
「ッ‥‥!」
哀しい顔をレディ・ナガンはした。春の空色のような寂しい印象の。バイカラーの髪の色は彼女にふさわしいものに見えた。
僕には、彼女がどうしてそんなにも壊れかけているのか分からない。けれど……ヒーロー殺しくんの言葉を聞いて、少しだけ分かった気がした。
『‥‥お前はあの女がヒーローとして何をしていたか知っているのか? あの公安の犬の手は既に血で染まりきっている‥‥ただの偽物だ‥‥』
そう言った彼の言葉で。
「だから僕の手を取ってください。もう楽になりましょう。貴方は
「私は‥‥」
僕の言葉にゆるやか震えるように、レディ・ナガンの変形していない右腕が伸ばされた。
「‥‥‥‥?」
しかしそれはゆっくりと落ちていく。奇しくも、繁華街の路地裏で光に誘われ手を伸ばそうとしていた時のように。
しかし差し出された掌は、途中、切り捨てるように横へと払われる。一度目を閉じたあと彼女は、僕の目をしっかりと見返した。
「‥‥あんたは私を見ちゃいない。自分が好きな世界だけを見てるんだ。人物像を勝手に押し付けて。そうだろ‥‥?」
「‥‥‥‥え?」
言葉が入ってこなかった。耳ではなく、僕の透明なはずの心へと。がらんどう故にあらゆるものの器になり得るはずのそこが。
「あんたが私を救う? 違う。あんたは誰かを救いたいんじゃない。自分を救いたいから私を殺そうとしているだけだ」
聞きたく、ない。
「‥‥あんたのことはわかる気がするよ。自分の個性が誰かの為になるって、きっとそうなんだって言い聞かせて、取り返しのつかないことをして――引き返せなくなる」
しかしそれでもレディ・ナガンの言葉は紡がれていく。
――やめろ‥‥僕に共感するな。
「けどな、あんたが言ったとおりみんな生きてんだよ。苦しくても、辛くてもな。私の痛みを勝手に定義づけるな‥‥」
――そんな目で、僕を、見るな
「私は――私は死を選べない。選んじゃいけねェんだ。それだけのことをやってきた。お前じゃ私を救えねェよ」
言葉が終わった時、僕の意識がどこにあるのか僕自身理解出来ていなかった。透明な夜の空気の中で、ただ一人浮かんでいるような感覚。そこには僕以外誰もない。
たった、ひとりぼっち。
それでも体は勝手に動いていることだけは理解できた。白昼夢の中を彷徨うように。雀はもう帰路についている夜に、僕は夢見るように歩いて、歩き回って、いる。
階段を降りようとした時に、最後に聞こえてきたレディ・ナガンの声が頭の中で反響していた。
お前こそ、可哀想な奴だ、少年――
レディ・ナガンみてぇなムチムチお姉さんって現実にいねーのかしらー