『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
つまりはそう、崩壊といえる。
今の僕の精神状態を遠くから解剖すると。
あの日、レディ・ナガンによって紡がれた言葉。
それは僕を今でも少しづつ生きながらに分解し続ける。
僕は僕だ。そのはずだ。
けれども僕っていったい誰なのだろう。
「おはようございます‥‥」
目を覚ましベッドの中から体を起こし、殆ど無意識に言葉は出てきた。
それは意識の再起動であり、誰かに伝えるためのものではない。しいて言うならば自分自身に言い聞かせているようなもの。
リビングと自分の部屋が一つになった自室には誰もいない。典型的な1LDKのアパートの一室。住んでいるのは僕一人だけ。
いつものようにベッドからおりる。体が重い。ここ一週間近くそうであり続けているように。
ようやく自分の意識をもって動けるようになったのはつい先日のことだった。それ以前は自動的に生きていたに過ぎない。意思を遠く向こうに追いやって、表面上は変わらないふりをして、とても機械的に日常生活を済ませていた。
透明人間が機械人間に変わったというわけだ。あるいは元々そうだったというだけかもしれない。
そんなもの、笑い話にもなりはしないのだろうけれど――
授業を終えての放課後。校舎の屋上は蜜柑色に染まっている。以前のヘドロ怪人くんの時のような事件も起きることはなく、今日は一日漠然とした時間が過ぎていった。
風が吹いている。
山から降りてくるそれは、早咲きの春の花を散らして過ぎていく。風には甘い匂いが乗っているようにも思える。
心の短い春風に、一陣散らされた残骸の、死骸を晒した香り。
よくよく慣れ親しんだその中にいると自分の居場所はここにあるようにさえ思える。
錯覚なのだろうけれど。
そう、そんなものはただの錯覚だ。僕は今、自分の未来圏から吹いてくる透明な風を感じて立つ場所を持てていない。事実はそれでしかない。
僕は人を、救えなく、なっていた。
街中で、学校で、何処にいても目につく苦しんでいる人たち。心を壊しかけた悪役達を、僕はすくい上げることができなくなった。
彼らになんて声をかければいい?
彼女達の心に寄り添うためにはどうすればいい?
わからない。
以前までは意識せずに自動的に紡がれていた言葉は出てくることはなく、心を触れ合わせるために肉体に触れようと考えただけで吐き気さえ催した。
浅い呼吸を繰り返し、息苦しくなる意識の底で、聞こえてくる。
『お前こそ、可哀想な奴だ、少年』
レディ・ナガンのあの声が。
僕は可哀想なんかじゃない。僕の個性は変わらず誰かを救える力のはずで、そのとおりに僕は生きてきた。
『違うッ!‥‥俺は‥‥そんな弱いやつじゃッ――』
再び声が聞こえる。レディ・ナガンのものじゃない。もっと鈍重な男の声。もっとも近くに救ったはずの彼の言葉が心の中で反響する。
僕は彼を救った。己の在り方に苦しんでいたヘドロ怪人くんを確かに九つの腕がくびり救った。
なのになぜ、僕を彼の声は苛む。あの時最後に見せたままの安らかな君のままでいてほしい。もう誰も彼を変化させることなく、透明な僕の中で幸福に停止したまま生き続ける、そのはずなのに。
なぜ、声はこだまする? 救ってきた129人の声が言葉が感情が――光が逆流するように押し寄せる。
あの日、最初に自分の中へと他者の心を取り込んでからずうっとそうして生きてきた。
けれど。
『
あぁ、あの女性の声は‥‥その声は‥‥
知らず知らずのうちに、僕は体を小さく抱きしめていた。
寒かったからじゃない。
「どうしました、僕くん‥‥?」
次に声が聞こえて来たのは、心の中からではなかった。
僕の後ろ、聞き慣れたその声はあの金髪の少女のもの。
あぁ、どうか、今は僕の存在に気が付かないでほしかった
色彩過多なこの世界のなかで僕を見つけないでほしい。
そんな願いを聞き届ける神様なんていないらしい。僕を見つけたヒミコちゃんは、いつものように近づいてくる。
この三日のあいだ避けていたわけじゃないけれど、屋上に寄らなければよかったと思う。ただ思考をする前にここを目指してしまった。
「僕くん‥‥?」
心配するような心細いその声が、今は針のようにさえ感じられる。
僕は鉄柵を握りながら、夕陽を肩で背負うように振り返る。
「やぁ、ヒミコちゃん久しぶり」
いつもを演じて彼女に笑いかけた。
僕は笑えているのだろうか。
「‥‥はい、久しぶり、です。あの、僕くん‥‥」
「うん‥‥どうかしたかな?」
「いえ‥‥いえ――何かあったんですか?」
両手の裾で口元を隠しながら、眉をひそめて彼女は言った。
あぁその仕草を見ただけでわかる。精一杯の勇気を振り絞ったのだろうと。
僕と彼女の関係はガラスのようなもの。ヒビが入れば容易く砕けてしまう危うさを持つ。拾おうと破片に触れれば傷つき血さえ流れ出して、その透明を赤く染めてしまうだろう。
そんなことにすら今更ながらに気がついた自分を発見し、心の中で自らを嘲笑った。
だからこそ、自分こそが平時を求めるように表情を張り付けた。
「何もないよ」
「え‥‥? でも僕くん、凄く傷ついてるように見えます。私には言えないこと、なんですか?」
「ううん、そうじゃない。本当になんでもなかったんだよ」
「‥‥‥‥‥っ」
ヒミコちゃんは傷ついたように目を伏せた。目端からは薄く涙がこぼれて落ちている。
だが彼女は笑った。それはそれはにこやかに、三日月に笑みを歪め、頬を紅潮させて、笑った。
「僕くんは、嘘つきです‥‥私ではダメですか? 私では、僕くんの苦しみを受け止められませんか‥‥? 私は、私じゃ‥‥」
僕は言葉に詰まった。
君じゃ僕を救えない。
僕はこういう事で苦しんでいるんだ。
どちらを取るにせよ、ヒミコちゃんに自分の心をさらけ出せない自分をここに見つけてしまった。
曖昧に笑い、煙のような言葉を吐き出した。その煙は空へと昇り消えていく。
「あー‥‥はは‥‥僕はいつものとおりだよヒミコちゃん」
「そう、ですか‥‥」
自分のことが一番分からない僕でも、この言葉が間違いであることにはすぐに気がつけた。
ヒミコちゃんのいびつな笑みが、それまで見たことないほど深く深く広く広く歪んでいったから。
「――アハッ♪‥‥アハハハハハ! そうですか! そうですよね! ウフフ‥‥私、僕くんのことを勘違いしてました! いいえ! 勘違いしていたのは自分自身のことです! こんな私じゃ、僕くんは‥‥僕くんは僕くんを見せてくれない‥‥! いいんです! 気にしないでください! 悪いのは私です! 私なんです!」
取り返しのつかない狂気がヒミコちゃんから発せられる。まるで火がつくことを待ち望んでいた火薬が、いとも簡単に爆ぜてしまったように。
夕暮れの中、屋上で、彼女は、くるりと回る。死んでいく花の香りのする風のなかで。
暗い世界でヒミコちゃんを演じる影法師が、主につき従い動きを真似て踊っていた。
「アハハ‥‥ウフフ! 大丈夫です! 僕くん! 私、分かっちゃいました! こんな私なんかじゃ僕くんを助けられないんだって! だから私――
あぁ、踊る彼女を見ながら思う。
僕は、失敗した。
それから数日後、ヒミコちゃんは僕の前から姿を消した。
愛する者が死んだ時には、自殺しなけあなりません
芋虫はサナギの中で、神経節などを残してドロドロに成り果てて、一度死んだようになってから、そうして蝶へと至るらしい