バグ魂(ソウル)の不確かすぎる多世界周回 作:カミト6622
展望台を後にした俺とシロは、さらに『隠形・万里縮地』を重ね、スカイピアの居住区にひっそりと佇む高級雲上レストラン『エンジェル・ラウンジ』のテラス席へと席を移していた。
術の偽装は完璧だ。周囲の空島人たちは、俺たちを「少し贅沢なデートを楽しんでいる仲の良い地元の兄妹」としか認識していない。地上を震撼させる3億2000万の懸賞首と、その傍らに潜む最凶のガラス人間が、優雅にランチを決め込んでいるとは夢にも思うまい。
やがて、背中に白い羽を携えたウェイトレスが、恭しく大皿を運んできた。
「お待たせいたしました。本日の特製メインディッシュ、島雲仕立ての『スカイ・サーモンのソテー 〜特製ダイアルソース添え〜』でございます。どうぞお召し上がりください」
「わあ……! クロウ、見て! お魚のまわりのソースが、ふつふつって小さな泡を立てて踊ってるよ!」
皿が置かれた瞬間、シロは身を乗り出して琥珀色の瞳を輝かせた。彼女の背中の小さな羽が、嬉しさのあまりパタパタと小刻みに羽ばたいている。
「これはただの泡じゃねえな。ソースの器の底に、微弱な振動を出し続ける『ウェーブ・ダイアル(音貝)』の特殊な破片が仕込んであるんだ。音の振動でソースを常に絶妙な温度で攪拌し、風味を損なわずに泡立たせている。空島の調理技術も、なかなか粋なことをする」
俺は手慣れた手つきでナイフを入れ、ふっくらとしたスカイ・サーモンの身をシロの小皿へと取り分けてやった。
「ほら、冷めないうちに食ってみろ」
「うん! いただきまーす!」
シロは大きな口を開けて、魚の身をソースごとパクリと頬張った。
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。あまりの美味さに脳の処理が追いついていないお馴染みのサインだ。ワンテンポ置いて、その顔が一気に至福の笑みへと崩れ落ちた。
「んんん〜〜っ! おいしーーいっ! お肉がすっごく柔らかくて、口の中で雲みたいにフワッて消えちゃうの! それにこのソース、ちょっとピリ辛だけど、地上の柑橘類みたいにスッキリしてて……身体がポカポカしてくる!」
「どれ……」
俺も一切れ口に運ぶ。
ピリッと締まった爽快な辛みの奥に、空島特有の高密度な霊気を含んだ特異な脂の旨味が広がる。地上のサーモンとは明らかに違う、どこか超然とした、それでいて官能的な食感。ナノハナで仕入れた青海のスパイスを隠し味に少し振りかけると、さらに味が立体的に引き締まった。
《おやおや、これは見事な創意工夫。地上の穢れた土壌の厄を一切受けていない、まさに純粋無垢な自然の調律。相棒のシロ様がこれほど喜ばれるのも頷けますな、クロウ様》
俺の影から実体化を抑えたマタムネの念話が、どこか満足げに喉を鳴らす。
(ああ、地上(青海)の高級店でも、この鮮度と環境は真似できねえよ。悪魔の実の仕様をハッキングするより、この食材の構成を紐解く方がよっぽど面白いな)
「クロウのご飯が一番好きだけど、このお魚もすっごく気に入っちゃった! ねえねえ、次は何を食べるの? シロ、まだまだお腹ペコペコだよ!」
一切れのソテーをまたたく間に平らげたシロが、フォークを握りしめたまま俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。その食いしん坊な姿に苦笑しつつ、俺はあらかじめ注文しておいた次の皿をテーブルの中央へと引き寄せた。
「焦るな、シロ。メインの次は、この店の名物『島雲ミルフィーユと空甘実(くうかんみ)の盛り合わせ』だ」
運ばれてきたのは、まるで本物の島雲をそのまま小さく切り取って固めたかのような、真っ白で幾層にも重なった美しいパイ生地のケーキだった。その傍らには、パステルカラーの不思議な果肉が、これでもかと美しく盛り付けられている。
「わあ……! これ、お菓子の雲だ……! フォークを入れると、サクッてすっごくいい音がする!」
シロが目を輝かせながら一口サイズに切り分け、口へと運ぶ。
「んんんっ! クロウ、これすっごい! 生地が口の中でシュワって溶けて、中から冷たいハチミツみたいなクリームがとろっと出てくるの! 甘いのに全然しつこくなくて、いくらでも食べられちゃいそう!」
(なるほど。島雲の独特な粘性と弾力を利用して、極限まで薄い層を何百回も重ねて焼き上げているのか。このクリームも、地上には存在しない特異な渡り鳥の卵と、空島特有の霊花から採れる蜜を調合したものだな。不純物が一切含まれていない)
俺もフォークを進め、その計算され尽くした甘味の構成を脳内でハッキングしていく。ヤクヤクの『反転調律』を微弱に働かせるまでもなく、この空島の料理人たちは、自然の恵みをそのまま純度の高い美味へと昇華させていた。
「おいしい……本当に幸せ……」
シロは頬をほんのり桜色に染めながら、まるで夢見心地のように琥珀色の瞳を細めている。彼女の背中で、術によって偽装された小さな羽が、上機嫌さを隠しきれずにパタパタと楽しげに羽ばたいていた。
「これだけ喜んでもらえれば、はるばる一万メートルの上空まで飛んできた甲斐があったな」
「うんっ! クロウのご飯が一番好きだけど、このお魚とお菓子もすっごく気に入っちゃった! ねえ、レヴァナント号に戻ったら、シロもこれ真似して作ってみたい!」
シロが期待を込めて俺を見つめてくる。だが、俺は彼女の白い髪を優しく撫でながら、少し困ったように息を吐いた。
「いや、残念ながら、これは下に持ち帰っても再現はできねえよ」
「えっ……? クロウでも作れないの……?」
「俺の腕の問題じゃねえさ。この味はな、気圧も環境も違う『ここでしか味わえない』特別なもんなんだ。空島でしか育たない固有の食材ってだけじゃなく、島雲の性質利用した生地の焼き方も、地上の重力や湿度の下じゃ本来の形を保てない。持ち帰った途端に、ただの濁った水になっちまうような食材ばかりだからな」
原作知識から、この上空特有の生態系と物質の法則は頭に入っている。地上の物理にハッキングを仕掛けたところで、この奇跡的な気候が育む繊細な調律を完全に再現するのは不可能なのだ。
「だからこそ、ここで食うことに意味があるんだ。その代わり、この島にいる間は美味いものを飽きるまで食わせてやる。ロジャーの船にいた頃に両替したエクストルが、拠点の倉庫に山ほど眠ってるからな」
「そっかぁ……。じゃあ、今のうちにいっぱいお腹に詰め込んでおかなきゃ!」
シロは少し残念そうにしながらも、すぐにまた満面の笑みを咲かせた。
俺はワイングラスに残った空島の果実酒をグッと飲み干し、窓の外に広がるどこまでも白い世界を見つめた。
地上では海軍が3億2000万の亡霊を血眼で追いかけ、青海の四皇どもが小競り合いを続けている。だが、そんな激動の世界の裏側で、俺たちは誰にも邪魔されることなく、神の国の特等席で至高の美食に舌鼓を打っている。
(ルフィたちが地上でノックアップストリームを待って大騒ぎしている間に、俺たちは一足先に、この贅沢を骨の髄まで満喫させてもらうとしようか)
「さあ、シロ。まだメニューには隠された伝統料理があるみたいだぞ。次は空島の珍味とやらを調律しにいこうか」
「うんっ! クロウ、シロね、まだまだいっぱい食べられるよ! 次のおいしいもの、早く持ってきてもらおう!」
周囲の穏やかな喧騒を斜め上から見下ろしながら、俺たちは神の国の特等席で、誰にも邪魔されない至福のディナータイムをどこまでも優雅に繰り広げていくのだった。