逆行したのにチートができない 作:タイムトリッパー
「結構長居しちゃったわね。あたしは沙織ちゃんが来るから、そろそろ帰るわ!」
「おー。沙織ちゃんが引っ越したら、また来てくれ」
「ええ。それまで元気でね」
荷物をまとめた野薔薇は、長く世話になったという感慨など微塵も感じさせないほどあっさりと手を振った。中身は八十年以上を生きた術師である以上、別れを惜しんで泣くような年齢でもないのだろうが、見た目だけならまだ幼い子供なので、その妙に堂々とした態度には未だに違和感がある。
「僕も一旦、家に帰りたいです」
その隣で憂太がおずおずと手を上げると、それまで平然としていた恵の顔が一瞬で曇った。
「えっ、おじいちゃん行っちゃうの?」
「ご、ごめんね。でも僕、パパとママにも会いたいから……」
未来では祖父だったらしい相手に幼児の姿で縋られ、現在六歳の憂太は申し訳なさそうに眉を下げた。どう考えても憂太が謝るようなことではないのだが、恵にとっては大好きだった祖父との再会であり、憂太にとっては最近知り合った年下の女の子である。この温度差ばかりは、未来を変えようとする大人達にもどうしようもない。
「恵は硝子と寝泊まりして、俺らと任務に行くことになったから。寂しくないよ」
「レジェンドと任務……! 頑張ります!」
悟が慰めると、恵は一瞬で立ち直った。
憂太は少し複雑そうな顔をしていた。
そんなわけで、私達の修行の日々が始まった。
◇
修行、と呼ぶには少々実戦の割合が多すぎたかもしれない。
元々、呪術師は慢性的な人手不足であり、悟と私に回される任務も多かった。そこへ未来から来た恵の育成まで加わったのだから、毎日は瞬く間に過ぎていき、朝起きて任務へ向かい、呪霊を祓い、あるいは取り込み、帰ってきたと思えば報告と訓練が待っていて、眠ったと思った次の瞬間にはまた朝になっているような生活が続いた。
それでも、恵がいることは思いのほか楽しかった。
未来の恵は悟の生徒だったらしいし、前世では憂太の孫娘で同い年だったというのだから、どう扱えばいいものか最初は少し困ったのだが、身体に引っ張られているのか、それとも元々そういう性格だったのか、恵は思った以上に甘え上手だった。
任務から帰れば硝子に抱きつき、悟が買ってきた甘味を当然のように分けてもらい、私が髪を結んでやれば嬉しそうに鏡を眺める。戦闘になれば十種影法術の使い手として必死についてくるくせに、疲れれば眠そうな顔でこちらの袖を掴むものだから、いつの間にか私達三人とも、恵を幼児になった同級生というより娘のように思い始めていた。
そうやって忙しく働いていると、時々、どうしようもなく疲れることがあった。
身体の疲れだけならいい。呪霊を飲み込むことにも、昔から慣れている。
吐瀉物を処理した雑巾を丸めたような味が口いっぱいに広がって、胃の底まで汚されたような感覚が残っても、それが私の役割なのだから仕方がない。そう思って、今までやってきた。
けれど最近は、呪霊玉を飲み込む瞬間になると、別のことまで考えてしまう。
――悟がいるから、呪霊が強くなる。
未来からもたらされた知識は、忘れようとして忘れられるものではなかった。
できれば死ぬまで知らずにいたかった。
六眼と無下限呪術を併せ持つ五条悟という存在が生まれたことで世界の均衡が変わり、それに引っ張られるように呪霊も強くなった。強い呪霊が増えれば、それに対応する術師も強くならなければならず、強い術師が増えれば、また世界は均衡を取ろうとする。
どちらが先なのかも分からなくなるような、終わりのない連鎖。
そんなことを考え始めると、私は決まって首を振った。考える必要はない。
悟は生きていていい。
あの日、私はそう決めた。ならば、その悟が存在する世界も肯定すればいい。
私の術式は呪霊あってこそ意味を持つ。私は呪霊が好きだ。呪霊玉が大好物で、任務に行くことは喜びであり、呪霊を祓って回る人生は素晴らしい。そうだ、私は格闘技も好きだし、戦闘狂なんだ。呪霊と戦い続ける人生はご褒美だ。
そうだ。
そういうことにしておけばいい。
何度も言い聞かせているうちに、本当にそう思えるようになるかもしれない。
◇
ある日、灰原と他愛のない話をしていると、九十九由基がやって来た。
特級術師であり、天内理子とは別の星漿体でもあった女を見て、灰原は何かを察したらしい。「それじゃ夏油さん、俺はこれで!」と明るく頭を下げて席を立ち、入れ替わるように九十九が私の隣へ腰を下ろした。
「夏油くん。天内理子を助けたと聞いたよ。よくやったね!」
「……よくやったんでしょうか」
口から出た声は、自分で思っていたよりも冷たかった。
簡単に言ってくれる。
天内理子を天元様と同化させないという選択が、どれほど大きな意味を持つのか。この先、天元様が進化し、人ではない何かへ近づいていけば、呪霊操術による干渉を受ける可能性が生まれる。未来で実際にそれを利用しようとした者がいた以上、理子を助けたという行為は、一人の少女を救ったという美談だけでは終わらない。
話に聞く悟の死に様は酷かったが、私だってなかなかのものだ。
私達は、それを知ったうえで理子を生かした。
悟と一緒に爆弾になると決めた。
そのために甚爾を選ばなかった。
あの男の娘を預かりながら、その父親が死ぬ方を選んだ。
そんなことを何も知らない人間から「よくやった」と明るく褒められると、胸の奥にまだ塞がっていない傷口を指で撫でられたような、どうしようもなく嫌な感覚があった。
いけない。
九十九さんが悪いわけではない。
疲れているから、気持ちが悪い方へ向かっているだけだ。
「そうだよ。君はよくやった。でも、甚爾が死んだのは残念だったな。私の研究に必要だったのに」
「……研究?」
「呪霊を狩るんじゃなくて、呪霊の生まれない世界を作る研究さ」
知っている。
その研究はやがて虎杖へ受け継がれ、八十年以上の時間をかけて、未来では本当に実を結ぶ。
呪霊は激減し、新しく術師として生まれる人間もいなくなる。
私は、その未来を知っている。
「少し授業をしようか。そもそも呪霊とは何か――」
九十九さんは楽しそうに話し始めた。
けれど、私はその言葉を半分ほどしか聞いていなかった。
知っている。
その先を、私は知っている。
目の前の特級術師が今から何十年もかけて辿り着こうとしている研究の、さらに向こう側から来た人間の話を、私はもう聞いてしまっている。
「知ってる? 術師からは呪霊は生まれないんだよ。もちろん、術師本人が死後呪いに転ずるような例外は除いてね」
それは、大嘘だ。
少なくとも、未来まで含めた世界の仕組みとしては正しくない。
「だから私は、全人類が術師になれば呪いは生まれなくなると考えている」
違う。
逆だ。
世界はそんなに都合よくできていない。
呪力や物理とは別に、因果という強烈な法則がある。運命ってやつだ。
強い術師が生まれれば、それに釣り合うように呪霊も強くなる。術師だけを増やせば呪霊が消えるのではなく、均衡は別の形で保たれる。
それを私は、未来から来た者達に教えられてしまった。
「……呪いが生まれないようにすることって、そんなに大事ですか」
九十九さんが、こちらを見た。
「当然じゃないか、夏油くん」
「呪霊を生むのが非術師なら、非術師はいない方がいいんですか」
「……何?」
「もし逆だったらどうします。非術師ではなく、術師がいるから呪霊が存在するとしたら。術師がいる限り世界が均衡を取って呪霊を生み続けるのだとしたら、あなたは全員が非術師になればいいと言うんですか」
九十九さんは思ってもいなかった、というような顔をした。
「……面白い仮説だね。いや、本当に面白いな」
「もし、呪霊が消える条件が術師の消滅なら」
口にしているだけなのに、胸の奥が痛かった。
「あなたは、それを選ぶんですか」
悟の顔が浮かんだ。
いつもの軽薄な笑顔ではない。
私が、呪霊はいないほうがいいと言ってしまったときの、何か思いつめたような、それでも私を思いやる大きな慈愛と決意、そして痛みをたたえた顔だ。
その顔が、頭から離れない。
もしも過去へ戻れるなら、絶対に呪霊がいたほうがいいというのに。
「それは……考えてもみなかったアプローチだね」
九十九さんは少し考え込んだ後、それでも研究者らしく興味を示した。
「でも、術式とは呪霊を祓うためにあるものだと、私は考えている。呪霊のいない世界が本当に実現するのなら、確かに術式は必要なくなるね」
「嫌だ」
考えるより先に、声が出た。
九十九さんが目を見開く。
「私は嫌です」
悟が笑っている。
硝子が煙草を咥えている。
恵が「レジェンドと任務!」とはしゃいでいる。
憂太が困ったように笑っている。
そして私も、その中にいる。
「誰が否定しても、私は呪霊を肯定します。私の術式は呪霊を操るためのものです。呪霊がいなければ、私の術式は意味を失う。友人や仲間達への出会いだってなくなる。呪霊のいない、術式も必要ない平和な世界よりも、私は呪霊がいて、術式があって、私達が術師として戦い続ける未来を望みます」
それが君といる唯一の方法ならば。
胸が痛い。ギュウッと締め付けられるようだ。
何かが間違っていると、私自身が一番よく分かっている。
何も知りたくなかった。九十九から呪霊は非術師のせいだと言われて、じゃあ非術師を皆殺しにしちゃえば? なんて無責任な事を言える自分でありたかった。
でも、呪霊の原因は知らない非術師ではなく、大切な友達だった。
わかってる。呪霊がいなければ、呪霊に殺される人がいなくなる。呪術師が命を懸けて戦う必要もなくなる。子供が任務へ放り込まれ、昨日まで笑っていた仲間が死ぬこともなくなる。
そして悟も、その生も存在も意味も歴史も消え失せる。
それは絶対に肯定できなかった。頭でもしもを考えるのも嫌だった。
だから私は、口が動くたびに自分の心が訴える痛みを無視した。
私は呪霊が好きだ。呪霊玉が大好きだ。
吐瀉物を拭った雑巾のような味も好きだ。
朝から晩まで任務に追われることも、身体中が痛むほど戦うことも、全部好きだ。
世界を敵にしてもいいほど、大好きだ。
「……私とは相容れない選択だね」
「そうですね」
九十九さんの顔を見ながら、私はこの人が嫌いだと思った。
何も知らないくせに。そんな言葉が胸の底から浮かび上がり、すぐに自分自身への嫌悪へ変わった。何て傲慢。
この人の研究は未来へ受け継がれ、その果てに長い時間をかけて本当に呪霊が激減する未来が訪れるのだと私は知っている。偉業だ。間違いなく偉業で、この人はまだ誰も知らない道を自分の頭で探している。
対して私の知識は、未来から答えを持ち込んだ者達から聞いただけのものだ。
カンニングして答えを知っているだけの私が、まだ問題を解いている途中の人間を見下す資格などない。
九十九さんが事情を知らないのは当たり前だ。
悟の顔を知らない。
あの日の問いを知らない。
私が何を選んだのかも、甚爾がどうして死んだのかも知らない。
そもそも、知ってもなお呪霊のいない世界を選ぶかもしれない。いや、選ぶだろう。
それでも九十九さんは何一つ悪くない。
十分に分かっている。
それでも私は、この人が嫌いになった。
◇
その数日後。
灰原が死んだ。
等級を誤った任務だった。
想定していたよりも遥かに強い呪霊と遭遇し、七海は生きて戻ったが、灰原は戻ってこなかった。
白い布を掛けられた灰原の前で、七海が項垂れていた。
私は少し離れた場所に立って、その背中を見ていた。
声をかけなければならないと思った。
私は先輩だ。
生き残った後輩が、たった一人で死んだ友人の前に座っているのだから、せめて隣に座って、何か一つくらい言葉を渡してやらなければならない。
「七海……」
名前までは呼べた。
けれど、それから先の言葉が出なかった。
何を言えばいい。
灰原は立派だったとでも言うのか。
任務だから仕方がなかったとでも。
呪術師をやっていれば、こういうこともあると。
次は気をつけようと。
そんな言葉を、この白い布の前で口にできるはずがなかった。
ならば、こんな仕事はなくなればいい。
呪霊なんて◾️◾️◾️◾️◾️◾️いい。
喉元までせり上がったその言葉は、形になる前に打ち消された。
その言葉は、私の中で存在すら許されなくなった。
悟が好き。
硝子が好き。
恵が好き。
野薔薇が好き。
憂太くんが好き。
夜蛾先生が好き。
七海が好き。
灰原が好きーー。
この出会いに感謝してる。
彼らを全身全霊で肯定している。
だから私は呪霊が好き。
そのはずなのに、七海と灰原の遺体の前では、見せかけの強がりをいうことすらできない。
七海の隣へ行って隣に座る。手を握ってやる。
それだけのことができない。体が棒立ちになる。手が震える。
人魚姫のように声が奪われる。
灰原を殺したのは私ではない。
殺したのは呪霊だ。
分かっているのに、胸の中では数日前の自分の声が、何度も繰り返されていた。
――私は呪霊がいて、術式があって、私達が術師として戦い続ける未来を望みます。
望んだ。
私は、そう言った。
そして今、灰原が死んでいる。
因果関係などないと分かっていても、傷口に指を突っ込まれ、その中を掻き回されているように痛かった。
悟が生まれてから、呪霊は強くなった。
それは未来人の推測などではなく、今を生きている私達にも分かるほど明確な変化だった。
世界の均衡が変わった。
呪霊が強くなり、それに引っ張られるように、これから術師も強くなっていくのだろう。より強い術師が必要になり、そのために子供達は鍛えられ、より危険な任務へ送り込まれ、そこでまた誰かが死ぬ。そうして鍛えられた術師に即発され、呪霊もまた強くなる。
負の連鎖。
灰原は、その途中で死んだ。
私は唇を噛んだ。全身全霊であがいて、できたのはそれだけ。
それでも。
それでも私は悟を選んだ。世界を敵に回しても。
自分で選んだ。
自分で言った。
私は呪霊が大好きだ。
呪霊玉が大好物だ。
任務も好きだ。
戦うことも好きだ。
呪術師として生きられることは幸福で、呪霊を祓い続ける人生は素晴らしくて、だから灰原がここに横たわっていても、それでも私は、この世界を肯定しなければならない。
私には泣く資格はなくて、涙が一筋こぼれて、寄りそうべき七海が私の手を握ってくれた。
情けなかった。
私は呪霊が大好きです。
私は呪霊玉が大好物です。
任務も、戦いも、大好きです。
私は術師として生きることを、全力で肯定します。
だから。
だから私は。
呪霊が、大好きです……。
灰原のフォローで戦いに出た悟は、まだ戻らない。