逆行したのにチートができない 作:タイムトリッパー
「ゲホッ、ゲホッ……」
巻き上がった埃を吸い込み、硝子が咳き込む。その横では恵がすぐに周囲を警戒していたが、先ほどまで確かに存在していた特級呪霊の気配は、もうどこにもなかった。
「うわ、逃げられちゃったね」
傑が珍しいものでも見るように周囲を見回す。戦闘そのものは問題なかった。押されてもいないし、誰も怪我をしていない。ただ、術式が発動したと思った次の瞬間には呪霊の姿が消え、それどころか追跡に使えそうな残穢まで綺麗さっぱり途絶えていた。
「何やってんだクズども」
硝子が吐き捨てる。
「大丈夫ですか? 家入さん」
「平気。埃吸っただけ」
恵に答えながら、硝子は喉を押さえた。
悟も六眼で周囲を探ってみたが、やはり見つからない。妙な術式ではあったが、相手がいなくなった以上、これ以上ここに留まっていても仕方がなかった。
「今日もう遅いし、出直すかぁ」
何より今日は傑の誕生日である。
こんなところでいつまでも時間を潰している場合ではない。
悟はスマートフォンを取り出し、伊地知へ電話をかけた。
「あっ、伊地知? 傑の誕プレ大作戦失敗したわ。逃げられちゃった。なんでか残穢もさっぱりだし、出直すわ。しゃーないからプレゼント第二弾の牡丹餅出しといて。あと、ロリババアにリベンジ手伝ってって言っといて。一応怪我とかは全員してないから、美々子と菜々子のこと宥めといて。傑の誕生日パーティーの準備は出来てる? 迎えってどれくらいで来れる?」
いつもなら、ここで伊地知の疲れ切った返事が返ってくる。
ところが、妙な間があった。
『……すみません。今、どちらにいらっしゃいますか?』
「あ? ほら、術師の行方不明者が何人か出てるって伊地知が相談に来たんだろ。そこの特級呪霊祓いに来てんだよ。失敗したけど」
念の為に住所を言うと、また沈黙。
悟が眉を寄せる。
「伊地知?」
『今、誰といらっしゃいますか?』
「傑と恵と硝子。あー、説教はなしな。ちゃんと硝子も傷一つ負ってないから。せっかくの傑の誕生日だから、三人で祝いたかったんだよ。恵に護衛させてたし」
『……二時間ほどお待ちいただけますか? それと、何台かに分けて乗ってもらいます』
「あー、結構掛かるな。しゃーないか。なるべく早く来てな」
『分かりました』
電話が切れた。
「二時間だって」
「結構掛かるね」
「仕方ないだろう。待つしかないんじゃないか?」
傑も特に気にしていない。
少し妙な受け答えだった気はするが、伊地知も忙しいのだろう。
悟もそれ以上考えなかった。
◇
それは、伊地知が五条と七海を前に、任務について話していたときだった。
着信音が鳴った。
失礼します、と断ってスマートフォンを確認した伊地知の動きが止まる。
「……えっ、五条さん?」
「何?」
目の前にいる五条が顔を上げた。
伊地知はスマートフォンと五条を交互に見る。
「五条さんから電話が……」
「僕は電話してないよ?」
「ですよね」
当然である。
目の前にいる五条のスマートフォンが、間違って伊地知へ発信している様子もない。
七海も眉を寄せた。
「出てみては?」
「そうですね……」
伊地知は恐る恐る通話ボタンを押した。
「はい、伊地知です」
『あっ、伊地知? 傑の誕プレ大作戦失敗したわ。逃げられちゃった。なんでか残穢もさっぱりだし、出直すわ。しゃーないからプレゼント第二弾の牡丹餅出しといて。あと、ロリババアにリベンジ手伝ってって言っといて。一応怪我とかは全員してないから、美々子と菜々子のこと宥めといて。傑の誕生日パーティーの準備は出来てる? 迎えってどれくらいで来れる?』
五条の声だった。
少なくとも伊地知には、本人としか思えなかった。
しかも内容がおかしい。
傑。ロリババア。美々子と菜々子。誕生日パーティー。
そして、任務からの迎え。
伊地知は反射的に五条を見る。五条も既に笑っていなかった。
誰だ、と問い返すこともできた。だが、もし術式による何かならば、下手に相手を警戒させるより情報を引き出した方がいい。
「すみません。今、どちらにいらっしゃいますか?」
『あ? ほら、術師の行方不明者が何人か出てるって伊地知が相談に来たんだろ。そこの特級呪霊祓いに来てんだよ。失敗したけど』
伊地知は素早く場所を確認した。
知らされた地点には、現在、特級呪霊の出現情報など出ていない。
ましてや、伊地知が五条へそんな依頼を持ち込んだ覚えもなかった。
未来からの電話、というのは考えにくい。
少なくとも電話の向こうの五条は、現在とは異なる状況にいる。
過去なのか。術式なのか。あるいは、それ以外の何かなのか。
七海が視線だけで問いかけてくる。
五条は少し考えてから、小さく首を振った。
分からない。
少なくとも五条自身には、ロリババアなる人物に心当たりがない。美々子と菜々子という名前にも覚えがなかった。
伊地知は質問を続けた。
「今、誰といらっしゃいますか?」
『傑と恵と硝子。あー、説教はなしな。ちゃんと硝子も傷一つ負ってないから。せっかくの傑の誕生日だから、三人で祝いたかったんだよ。恵に護衛させてたし』
今度こそ、空気が変わった。
傑。
それが誰を指しているのか、聞く必要すらなかった。
今日は二月三日。夏油傑の誕生日だ。
そして、この世界の夏油傑は呪詛師として指名手配されている。
「……二時間ほどお待ちいただけますか? それと、何台かに分けて乗ってもらいます」
『あー、結構掛かるな。しゃーないか。なるべく早く来てな』
「分かりました」
通話が切れる。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは伊地知だった。
「……どうしますか?」
「とりあえず、傑と話してみる」
五条は即答した。
「僕には七海が話して。硝子と恵は直接高専でも問題ないでしょ。学長に説明して、事情聞いてもらう」
「分かりました」
同一人物なのか。術式で作られた偽物なのか。過去から来たのか。
まったく別の何かなのか。
現時点では何も分からない。
ただ一つ分かるのは、電話の向こうにいる五条悟らしき人物が、夏油傑と家入硝子と伏黒恵を連れていることだけだった。
夜蛾にも事情を説明し、許可を取る。
そして二時間後、三台の車が指定された場所へ向かった。
◇
「すみません、すみません! 誕生日パーティーには絶対間に合わせますので、一件だけ依頼を片付けてください!」
二時間後。
三台の車から降りてきた伊地知達を見て、悟は露骨に顔をしかめた。
「えええええー!!! またかよ! 僕、この日のために仕事頑張ったじゃん!」
「悟。仕方ないだろ。どこに行けばいい?」
傑は慣れた様子で悟を宥める。
伊地知はなるべく平静を装ったまま、それぞれの車を示した。
「夏油さんは私の車に。五条さんは七海さんと二台目の車に。家入さん達は三台目の車にお願いします」
「りょうかーい。傑ぅー」
悟が思い切り不満そうな声を出した。
「はいはい、よしよし。さっさと片付けて、一緒に牡丹餅食べようね」
「じゃあ、怪我せず帰ってこいよ」
硝子が言う。
「はーい」
「気をつけるよ」
誰一人、疑わなかった。伊地知は少しだけ胸が痛んだ。
けれども、相手が本当に何者なのか分からない以上、四人まとめて連れていくわけにはいかない。
恵が女性な以上、確実に並行世界の人間だという確認は取れた。
異なる歴史を歩んでいることは確実だから、個々にどんな人間か調べねばならない。
そうして四人は別れた。
◇
伊地知が運転する車は、既に人払いを済ませてある公園へ入った。
車を降りた傑は、指定された場所へ向かい――そこで立ち止まった。
「あれ、悟!?」
目の前にいた男を見て、驚いた顔をする。
けれども、その驚きはすぐに別のものへ変わった。
「怪我をしたのかい!? 目!?」
傑が駆け寄ってくる。高専の教師の着る服……五条と全く同じ服だった。
教祖の装束ではない。
五条を見上げる顔に敵意など欠片もなく、ただ本気で心配している。
「……傑」
「大丈夫かい? 君、人から治療されるの待つのやめなよ。自分ですぐに治療した方が絶対いい」
小言を言いつつ、傑の手が伸びた。触れたところから、温かい呪力が流れ込んでくる。反転術式。こっちの傑は使えるのか。
五条は六眼で目の前の男を見る。
分かっている。こいつは傑じゃない。
自分の知っている夏油傑ではない。
呪力も、肉体も、確かに夏油傑なのに。
自分の知っている傑とは、歩いてきた道が違う。
それでも、手を伸ばした。
「悟?」
その身体を、ぎゅっと抱きしめる。
「悟!? 一体何が……!」
驚いた声まで、よく知っていた。
懐かしかった。
もう二度と、こんなふうに自分を心配して駆け寄ってくる傑を見ることはないと思っていた。
これは自分の傑ではない。それだけは、間違えてはいけない。けれども、腕は勝手に傑を拘束していた。もう離さないとでも言うように。
「あー……傑」
五条は抱きしめたまま、どう説明したものかと考えた。
「落ち着いて聞いてほしい」
「うん」
「お前、行方不明者なの」
「は?」
「並行世界っていうのかな。多分、呪霊に飛ばされてる」
「……え?」
「で、こっちではお前、指名手配犯なの。そういうわけで、拘束して事情を聞かせてもらいます」
傑が数秒固まった。
ぽんぽん、ぎゅー。悟の胸に手を突っ張って離そうとするけど、離す筈がない。
少しもがいて諦めて、先ほどの戦闘を思い返すように眉を寄せる。
「えっと……さっきの呪霊の攻撃で飛ばされちゃったってこと? 空間ごとって感じだから、無限じゃ防げなかったんだね。多分」
「多分ね」
「不味くないか?」
傑の顔から血の気が引いた。
「困るよ。今、大変な時なのに。行方不明になるなんて野薔薇に殺される……!」
「こっちにはいないから大丈夫だよ。よかったね」
「良くないよ! 帰らないと……!」
即座に否定された。
五条は少しだけ目を細める。
野薔薇。
また知らない名前だ。
「どうやって?」
「どうやってって……」
傑もそこで困ったらしい。
少し考え込んでから、希望を込めるように言った。
「野薔薇や乙骨がどうにかしてくれるんじゃないかな。そうであってほしい……」
「乙骨って、乙骨憂太?」
「そう。君の親戚の子」
「そうなんだ?」
「そうなんだって、知らないのかい?」
「全然」
「ええ……? 君の親戚で、君の代理当主だよ……?」
今度は傑が困惑する番だった。
五条は笑った。
知らないことばかりだ。
ロリババア。
美々子と菜々子。
野薔薇。
反転術式を使える夏油傑。
自分の親戚だという、今は高専に囚われている乙骨憂太。
そして、自分と夏油傑が当たり前のように一緒にいる世界。
「お前の話、聞かせてよ」
「何から話せばいいのか……。そもそも、指名手配犯?」
「うん」
「私が?」
「うん」
「……何をしたの?」
「それも話す」
五条は傑から身体を離した。
けれど、完全には離れず、その肩に手を置いたまま顔を見る。
「全部知りたい。俺も全部話すから」
傑はしばらく五条を見つめた。
目の前にいるのは悟だ。けれど、自分の知っている悟ではない。
眼帯の下に六眼があるのは分かる。それでも、自分を見る目が違った。
どうしてそんな顔をするのか。
なぜ、自分を抱きしめたのか。
この世界で自分は何をしたのか。
聞かなければならないことは、いくらでもある。
「……分かったよ」
傑は頷いた。
「私も、君のことを知りたい」
話は、長くなりそうだった。