神の恵みだ、とエドガーはそう思った。
一週間かけてたどり着いた森の深奥、木々の合間をぬって一本の光の梯子が湖に落ちている。神秘的にきらめく湖のほとりに、その木はあった。青黒い三角錐の実。どんな傷や病もたちどころに癒すと言われる奇跡の果実、ジェネリの実!これこそが、失意の弟を救うためにと農家であるエドガーが初めての冒険に出てまで探し求めたものである。溜まっていた疲労も忘れて、エドガーは木にかけよって実をもぎ取る。三角錐の実は、その先端に向かうにつれて色の濃さを増しているヘタには固く細かな毛が生えており、素手で触れればおそらく、刺さった毛を取り去るのは難しいだろう。とついまじまじと観察していたことに気づき、我に帰る。いかに希少な実とはいえ、今はその詳細を改めている場合ではない。一刻も早くこの実を届けねばならない人がいるのだ。ジェネリの実を慎重にカバンに詰め、もう一つ二つ、と思ったところで事態は一変した。地面が大きく揺れだしたのだ。正しくは、地面だと思い込んでいたモンスターの背が、だ。振り落とされないよう慌てて地面にうずくまると、岸辺がするすると遠ざかっていくのが見えた混乱の中で辺りを見回すと、大人を縦横に二人は並べられそうな円周をした生き物が湖の奥を目指して泳いでいることが分かった。渡しガニの罠に嵌ったことに気づいても時は既に遅い。岸は遠く、揺れで立つこともままならない。
(すまん。ブラッド……)
心の中で弟に謝ったその時だった。
ズドンという大きな衝撃とともに、渡しガニの背にモリが突き刺さっていた。モリには鎖が繋がっており、その先は岸まで続いているようだ。
「そこの人!ちゃんとつかまってて!」
岸から女の声がした。よく見えないが、砲のようなものを抱えているようだ。モリに繋がった鎖に引かれ、渡しガニの体が岸へと引き戻されていく。渡しガニも抵抗し、モリから逃れようと暴れだす。エドガーは、なんとか掴まったジェネリの木の根本で、神と母に必死に祈りを捧げていた。
「ごめん!ちょっと乱暴に行く!」
よいしょっと!と重い声が聞こえたかと思うと、エドガーの体は宙を舞っていた。真実、死を目前にした時、人の心には何かが浮かぶ余地などないのだとエドガーは身をもって知った。重力の手を離れ、目を閉じようとした瞬間、何者かに抱きとめられた。成人男性を一人抱えてなお軽やかに着地した女は、エドガーを本物の地面に降ろすと、陸に引き揚げた渡しガニと対峙した。渡しガニは、八本脚にハサミを振りかざした姿で女を威嚇する。女は渡しガニの大振りなハサミの攻撃を前転でかわし、自身の荷物からモリを拾いあげる。人の手で扱える、通常サイズのモリだった。木々を足場に渡しガニの眉間付近に着地すると、その口内を目がけてモリを突き入れた。全身を振り乱して暴れる巨体をものともせず、女はさらにモリを押し込み、ぐるりと掻き回す。渡しガニの全身から力が抜け、どう、と地面に倒れふしてもなお、女は追い打ちをかけるようにモリを抜き差ししていた。しばらくして気が済んだのか、モリを引き抜いて女は地面に降り立つ。
「いやぁ、助かったよ。ここいらに渡しガニがいるっていうのは分かってたんだけど、やつら擬態能力が高すぎて、どこにいるのかが分からなくて困ってたんだ」
あごのラインに沿って前さがりに切りそろえられた黒髪をセンター分けに整えながら、女はそう話しかけてくる。気だるそうな垂れ目の三白眼が、エドガーをいぶかしげな様子でうかがっている。
「大丈夫?どっか痛めた?」
しゃがみ込み、自身を心配する様子を見せるその手を気にする余裕もなく、エドガーはよろよろと立ち上がると、渡しガニの死体に向かって走りだした。
「頼む、頼む……」
正しくは、その体に生えていた木に向かって。果たしてジェネリの木は無事そこにあった。甲羅に張りついていた根が剥がれかけ、少し傾いてはいるが、その果実は未だ木の葉の中に揺れている。
「よかった……!」
この木はもうダメだろうと見切りをつけ、持てるだけを持ち帰ろうと判断する。幸いにして果皮は固く、少し無理をしてカバンに押し込んでしまってもよさそうだ。せっせと実を集めるエドガーの元に女がやってきて不思議そうな声音で問う。
「そんなに集めてどうするの?ジェネリモドキなんて」
モドキ?
「あ、あんた、今なんて、」
「いやだから、どうするのかなって思って。ジェネリモドキなんて。毒もあるのに」
食べるの?と聞く女の声が遠くに聞こえる。ジェネリモドキ?毒がある?弟はどうなる?
「こ、これはジェネリの実じゃないのか?でも、だって、図鑑と見た目も一緒で、」
「あー、難しいよね。本物のジェネリの実は全体の色が均一でヘタも大きい。あと、ものすごく柔らかくて熟練の技術でもないと、ちょっと触っただけで、そこから崩れていくんだ」
「そんな、そんな一週間もかけてここまで来たのに」
「そもそもこんな浅いところにジェネリの実があるわけが、って、一週間?ここに来るのに一週間もかかったの?」
女は驚いた様子でエドガーをあちこちから見回す。体つきこそしっかりしてはいるが、武器もなく、防具と呼べそうなものもない。ただカバンばかりが大きく、どう見ても家用の鍋の持ち手なんてものが飛び出している。
「もしかしてだけど……、冒険者じゃないの?」
「農家だよ……。畑で小麦を作ってる……」
しょげかえったエドガーがそう答えると、女は呆然とした顔つきをした。
「農家が一人で一週間!?よく生きのびたね。冒険なんざ運が八割とはいうけど……。なんかワケあり?あたしでよければ聞くよ」
なにか力になれるかもしれないし、と女は居ずまいを正す。それに対しエドガーは、
「お」
「お?」
「お゛と゛う゛と゛か゛あ゛……!」
涙腺を決壊させた。弟に起こった事件。慣れない旅、死の危険と恐怖、極度の緊張。それらに耐えた一週間の果てに得たはずの成果が徒労に終わった絶望。なにもかもがエドガーから外聞という外聞を奪い去っていた。顔中から液体という液体を流し、息を整えるためだけに数分を要する。そんな常に涙まじりのエドガーの話を女は急かしもせずに聞いていた。
つまり、とキリのいいところで女が口を開いた。ひと通り話し終え、未だに流れ続ける涙と鼻水を家から持参したちり紙で拭いている時だった。
「つまり、双剣使いの弟さんがモンスターに片足を食われて冒険者を続けられなくなったと。足の再生はできない状態で、義足は作れるけど、日常生活はともかく、戦闘に耐えられるものではなくてふさぎ込んでしまった。それを見てなにかできないかと思ったんだね」
ここまであってる?と聞く女に、鼻をかみながらうなずく。
「それで思いついたのがジェネリの実。万物万象の傷病を癒すこの実があれば弟さんの足も元に戻せると思ったワケだね。それで単身森に入った、と」
ふむふむと女はなにごとかにうなずいている。そして一言、こう言った。
「一人、心当たりがいるな」
「え?」
「お兄さん、帰るよ。手伝ってほしいことがあるんだ」
エドガーは自身を流されやすい性格だと自覚している。物心ついたころからそうだった。流されるままに畑を手伝い、流されるままに農業を学び、流されるままに家と畑を継いだ。そして今、流されるままにカニクリームコロッケを作っている
「いや、なんで?」
頭いっぱいに疑問符を浮かべながらも、その手はせっせと冷やしたコロッケダネが溶けない速度で成形し続けていた。それを、ジーナと名乗った女が卵液に潜らせ、パン粉をまとわせていく。あれだけの大きさの渡しガニだ。自然、ソースの量も多くなる。鍋では、まだ作りかけのソースがぐらぐらと音を立てている。第一陣のコロッケダネを成形し終えると、ジーナがめんどくさそうな顔をしながら揚げの工程に入った。パチパチと油のはぜる音を聞きながら思う。
「いや、なにやってるんだ俺は。なあおい、あんた、ジーナさん、」
「揚げ物してる時に近よらないで。危ないよ」
「あ、ああ。はい」
一度浮かせかけた腰を、再度イスに落とす。すまない弟よ、兄さんはなんかよく分からんことに巻きこまれている。きつね色に揚がったカニクリームコロッケ達を大皿に移しながら、ジーナが言う。
「多分、そろそろだと思うんだけど」
ジーナが最後のカニクリームコロッケを油から引き上げ、揚げ物鍋の火を止めたその時だった。
「非効率のにおいがするな!!」
怒声とともに、いつの間にか一人の女が立っていた。扉や窓が開いた様子はなく、まさしく突然と言うほかない状況だった。
「やったのはこっちだけど、毎度毎度どうやって嗅ぎつけてくるんだよまったく。怖いなあ」
「渡しガニを狩りたいからとモリ釣砲を作ってやって早一週間。釣果次第では中腸腺で一献、と考えていた私にこの仕打ちとはな。なんだねこのベシャメルソースのいいにおいは。説明したまえ」
「みそはみそでちゃんと分けてあるよ。その前に、君向けの案件があるんだ。じゃなきゃわざわざしないよ、こんな召喚じみたマネ」
ジーナがエドガーに向きなおり、なにやら怒った様子の白衣の女を指差す。
「エドガーさん、こいつがさっき話した「Dr.ブラボー。Dr.ブラボーと呼ぶがいい。名も知らぬ非効率の協力者よ」
「Dr.ブラボー?」
割って入るように自己紹介を行なったDr.ブラボーに、エドガーは思わずその名を繰り返す。
「ああ!イイ!名を呼ばれる度に称賛を受けられる。なんと心地よい……。やはり私は天才だな!」
白衣と赤毛のポニーテールを勢いよくはためかせて、Dr.ブラボーは自身を抱きしめる。エドガーの心は我知らず、遠い空の向こうに助けを求めていた。その混沌を破るように、パンパン、と二度手を打つ音がした。ジーナだ。
「毎度ご新規さんで気持ちよくなるのホントやめて。Dr.ブラボー、こちらエドガーさん。さっきも言ったけど、君向けの案件を持ってる人だよ。農家さんなんだって」
身をくねらせているDr.ブラボーをイスに押しつけ、ジーナは無理やり話を進めていく。
「エドガーさん、こっちがDr.ブラボー。さっき言った魔導工学の道楽博士だよ。道楽っていっても腕は確かだから安心して。それでどう?自分で話せそう?」
瞳に心配の色を滲ませてジーナが問う。緊張に身をこわばらせながらも、エドガーはしっかりとうなずいた。対面に座らされた女が、瞳に理知の光をたたえてエドガーが口を開くのを待っている。
「こんにちは、Dr.ブラボーさん、実は、お゛、」
「お゛と゛う゛と゛か゛あ゛……、」
だめだった。一度破壊された涙腺はもはや堰としての役割を果たしておらず、事情を話そうとする度におびただしい水量を溢れさせていた。
「というわけで、かくかくしかじか」
だめだったかという顔を一瞬見せたのち、ジーナは即座に代わりに話しを続けた。目の前で泣き出したエドガーにDr.ブラボーは困惑していたが、突然泣き出す大人に動揺していては酒場の店員などやっていられないのである。
「なるほど、事情は分かった。私に義肢を作れというんだな?それも、冒険者として第一線で戦えるレベルのものを」
ふむ、と思案気にDr.ブラボーは左手を口元に添える。
「て゛き゛る゛ん゛て゛す゛か゛?」
という、鼻の下をガサガサにしたエドガーの問いにも答えず、「あれがあるか」、「いや、この理論も使えるな」などとぶつぶつ呟いている。うつむき、しばらく一人で何事かを口にしていたかと思うと、Dr.ブラボーは、すっと顔を上げた。
「ひ、」
女は笑っていた。妄執と狂気を感じさせるその表情に、エドガーは思わず悲鳴をあげる。
「人体実験とは胸がおどる。氏よ、このよき機会を与えてくれたあなたをどうか友と呼ばせてはくれまいか」
「じんっ……!?じっ……!?」
聞き捨てのならない言葉が聞こえ、エドガーが言葉を失っていると、大きく笑みの形に開かれたDr.ブラボーの口にカニクリームコロッケが押し込められた。
「アッッツ!アフッ!」
「え?まだそんなに熱い?あら熱はとれてるはずなんだけどな」
ジーナだった。小皿により分けたカニクリームコロッケと水の入ったグラスとが載った盆を机に置き、エドガーにも一皿すすめてくる。
「言い方が悪いんだよDr.ブラボーは。そんなんだから協力者も増えないんだ。ごめんね、エドガーさん。紹介したあたしにも非がある。悪いやつじゃないんだ。もう」
最後の二文字を致命的に聞きのがし、エドガーもまたカニクリームコロッケに口をつける。いろいろと気になることはあるが、今はDr.ブラボーがのたうち回っていて話にならないからだ。
「人非人め……」
アチアチハフハフやったのち、水で流し込むことでようやくひとここちつけたDr.ブラボーは、地を這うような声でそう口にした。
「ふーん。もういらないんだ」
「食べるとも!私のだぞ、私の」
茶番のように皿を取りあったのち、Dr.ブラボーは、フォークでザクザクとカニクリームコロッケに空気穴を開ける。猫舌らしかった。
「それで、義肢の件だが。結論から言うと可能だ。児戯にも等しい。というのはさすがに過言だが、作ることはそう難しくない」
問題はそのあとだ、とおっかなびっくりカニクリームコロッケにかじりつきながらDr.ブラボーは言う。
「魔導義肢とは言ってもつけてすぐは普通の義肢と変わらん。自身の手足として扱うにはリハビリテーションが必要になる。冒険者に復帰することを考えるなら、より厳しい訓練が求められるだろう。エドガー氏よ、貴様の弟はそれを望むか?」
重い静寂が落ちる。そしてエドガーは気づいた。自分は、弟がなにを望んでいるか本当に知ろうとしたことがあっただろうかと。
足を取り戻せば。魔法のような義肢ができれば。冒険者に戻る道さえ見つかれば。全て独りよがりのたらればだ。確かに弟は冒険者の道が閉ざされたことによって、その心までをも閉ざした。今していることは本当の意味で弟を救うことに繋がるのだろうか。けれど。それでも、自分は弟のためになにかをしてやりたかった。流されてばかりの人生の中、初めての冒険を自ら決意するほどに。ならば、答えは決まっている。たとえ当人に望まれなくとも。
「弟がどうしたいかは分からん。でも、俺はあいつを助けたい。お願いします。Dr.ブラボー、弟のために義肢を作ってください」
「ン〜。そのエゴやよし。そうと決まれば、貴様の家に案内してくれたまえ。まずは実験た、いやいや、被験者の容態を見ないことには始まらないからな」
Dr.ブラボーは機嫌よく立ち上がると、白衣の襟をビッと正す。エドガーが決意のこもった表情でうなずき、立ち上がった、ところで待ったが入った。
「あの〜、悪いんだけどさ、エドガーさん。さっき取ってたジェネリモドキって、こっちで引きとらせてもらってもいい?一応毒もあるし、専門知識がないと危ないんだよね。うちで処分しとくよ。なんなら謝礼も出すよ」
「その心は」
「ジェネリモドキって、すりつぶして、ニガミバシリの粉を混ぜて茹でるとぷるぷるのゼリーになるんだよね。食べすぎるとお腹壊すけど」
「この悪食め」
エドガーとしても処分に困っていたので、気持ちばかり謝礼をもらってジェネリモドキを譲ることにした。喜ぶジーナをあとに、二人はエドガーの家へと出発した。
扉の向こうに人の気配がする。
どこぞへ出かけたという兄が帰ってきたのだろうか。あれこれうるさくいらない世話を焼いておきながら、急に一週間も戻らなくなったあの男が。ブラッドは胸に渦巻く感情をのせ、言葉として吐き出す。
「は、お戻りかよ、お兄様。今さらなんのようだ」
「お兄様ではない。私だ」
「だ、誰だあんた!?」
「ブラボー。Dr.ブラボー。貴様とWin-Winの関係を結びにきた」
突如現れた白衣の女は赤いポニーテールをなびかせ、そう言いはなった。
「いや、本当に誰だよ。不審者か?使用人たちはどうした。俺の仲間たちだっていたはずだ」
「そんな物に意味はない。なぜなら私はDr.ブラボー。貴様の兄君に請われてここに来た天才だからだ」
「は?兄さんが?」
「エドガー氏は覚悟を見せた。次は貴様に問う番だ。ブラッド・ダックワース」
腕を組み、仁王立ちする女との会話はまるで噛み合わず、困惑と苛立ちで怒鳴り声をあげそうになったブラッドに、女は言う。
「ブラッド・ダックワース。貴様は冒険者に戻ることを望むか?」
出鼻をくじかれたブラッドに、質問の意味がゆっくりと浸透していく。
冒険者に戻りたいかだって。そんなの、そんなのは決まっている。
「あ、当たり前だろ。戻りたいに決まってる。でも!
女に対する怒りがふつふつとわいてくる。モンスターに足を食われた時の、治療院で説明を受けた時の絶望がまざまざと蘇ってくる。自分の足はもう戻らない。戦場を縦横無尽に飛び回っていた、光にも例えられたあの足はもう戻らない。戻らないのだ!
「もう戻らないんだよ!俺はもう戦場には戻れない!諦めて、受け入れて、この家で生きていくしかないんだ!兄さんみたいに!」
このつまらない家が嫌いだった。全てのスケジュールは、人生さえも、作物を育てることを軸として決められている。人間はそのしもべだ。それに諾々と従う兄のことも軽蔑していた。だから家を飛び出し、冒険者になった。それなのに、結局はヘマをして、疎んだはずの生家に保護されている。その事実がブラッドの精神を蝕んでいた。
「つまらない男だな。もう折れているではないか。エドガー氏は諦めていないというのに、肝心の本人がこれでは、氏も報われまい」
女は失望した様子でため息をつく。
「もう興味も失せかけているのだが、せっかくの機会とエドガー氏の奮闘を無駄にするのも忍びない。いいかね、特別サービスだ。次はないぞ」
そうして女は語りはじめる。兄エドガーの知られざる一週間の冒険を。
「バカだろ……」
全てを聞き、ブラッドの口からこぼれたのはそんな言葉だった。ぽつり、と一点シーツに水滴が落ちる。
「バカだろ。素人のくせに。一人で森になんか入って。ジェネリの実なんておとぎ話、今どき子どもだって信じてないってのに……」
この一週間。見放されたのだと思っていた一週間。自分のために必死になって動いてくれている人がいた。いや、違う。ずっと動いてくれていたのだ、みんな。自分が心を閉ざしていただけで。
女の目は気になったが、涙が止まらず、嗚咽とともにしばし泣いた。ちらと視線を向けると、女は退屈そうに爪を見ていた。ささくれでも見つけたのか、むしって床に捨てさえした。なんなんだこの女は。Dr.ブラボーとかいったか。
「それで、どうするね」
視線に気づくとDr.ブラボーは問いをよこす。
「貴様は冒険者に戻れる。ともすれば、より強力な戦士としてな。だが、義肢装着後のリハビリテーションは過酷だ。魔導義肢ともなれば覚えることはさらに多い」
「やってやるさ」
ブラッドは迷いのない声で答える。冒険者とは難儀な生き物だ。他の人間が無茶な冒険をやり遂げたと聞けば、自身はそれ以上の冒険に身を投じたくなる。あの流されてばかりだと思っていた兄の冒険が、ブラッドの冒険者としてのプライドに火をつけた。ブラッドは冒険者だ。素人である兄のした無茶など、朝飯前なのだと言ってやらねばならない。自分の方がより過酷な状況に立ち向かえるのだと、意地を見せなければならない。これくらいなんでもないのだという顔で次の冒険に臨むことこそが、兄の行いに対する彼なりの最大の敬意だった。
「それはいい。末ながぁくよろしく頼むよ。被験者クン」
それを受けたDr.ブラボーは、凶悪な笑みでもって返した。ブラッドは判断を誤ったかと一瞬悩んだが、冒険者としての魂と兄の判断にすべてを賭けることにしてその場を収めた。
ジュワジュワと油の揚がる音が響く。「本日カニクリームコロッケ。手伝い割りあり〼」と書かれた看板の出された「魔女の安楽椅子亭」はいつもより少しだけ賑わっていた。カニクリームコロッケを成形するもの。ただ食べるもの。成形だけがしたいという変わりものもいた。成形されたタネはマダムの魔法とジーナの手動の両輪で揚げられていく。揚がった端から大皿にもり、客が取り皿に取って席へと持っていくセルフスタイルだ。忙しい店内にそよ風が吹いたかと思うと、彼女が姿を現した。
「ちょっと非効率のにおいがするな!」
Dr.ブラボーである。小脇はエドガーを抱えている。エドガーをぽいとほうりだすと、やれやれといった表情でカウンターまでやってくる。
「なあおい聞いてくれたまえよ。被験者の同意は得たっていうのに、親だの仲間だのとかいう連中が、やれ信用できないー、だの、やれ安全性がー、だの、そもそもあんた誰ーだの一気に詰めよってきてね、一から説明させられたよ。あんなに非効率的な時間はそうあるものではない」
「それはあんたが急に魔導噴射?で空を飛ぶ、とか魔導弾を足に仕込む、とか言うからで……」
ほうり出されたエドガーが立ち上がりながら苦言を呈すと、
「いるだろう!魔導噴射装置と魔導弾発射装置は!機動力が許せば魔導砲だってつけたいくらいだ!」
カウンターのイスにどっかりと腰を下ろしながらDr.ブラボーが返す。エドガーはまた新しく出てきた弟に取りつけられかねない謎の装置に怯えていた。カニクリームコロッケを揚げながら、ジーナは半眼でDr.ブラボーを見やる。
「効率効率言う割りには、そういう余計なものばっかつけようとするよね。矛盾してない?」
「効率とロマンは別物だ」
鼻で笑い、カニクリームコロッケをつまみ食いしようとした手を、一本の扇子が打ちすえる。その扇子を見るやいなや、Dr.ブラボーは身をすくめ、両手は膝に、冷や汗をダラダラと流しながら店の床を見つめる姿勢をとった。ぱしっと扇子を手に収める音がするのに合わせ、Dr.ブラボーの体がびくっと飛び上がる。
「事情はわからないけど、ねえブラボー、あなたのしようとしていることって、いいこと?悪いこと?」
「サー!いいことであります!サー!」
「やあねえ、騎士様の位なんておそれおおいわよ。マダムって呼んでちょうだい」
「マダム!ウィ!マダム!」
あれほど傲岸不遜だったDr.ブラボーが蛇に睨まれた蛙のようになっているその光景に、エドガーは我が目を疑った。
「何回見てもおもしろいんだよね、あれ」
どんな躾したんだか、と続けながら、ジーナは次々とカニクリームコロッケを揚げ続けている。
「ともあれ、戻ってきてくれてよかったよ。渡しガニ釣りの功労者に、あれっぽっちのカニクリームコロッケを食べさせておしまい、なんて「魔女の安楽椅子亭」の店員の名がすたると思ってたところだったんだ。いくらでも食べてよ」
胸をはるジーナに、エドガーはもごもごとなにか言いにくそうな動きを見せた。
「大丈夫だよ。ここにいる連中の腹がはち切れてもまだ残るくらいはあるからさ」
そうジーナがうながすと、エドガーはふところから弁当箱を取り出した。なんてことはない、ありふれたサイズの弁当箱が一段。それを恥ずかしそうに差し出して、エドガーは口を開く。
「厚かましいとはわかっちゃいるんだが、弟にも食べさせてやりたくて。持ち帰らせてもらえないか?」
「足りないね」
ジーナの顔が険しく歪んでいた。
「こんなちっちゃいお弁当箱じゃ全ッ然足りないよ。弟さん、冒険者でしょ?お見舞いに仲間も来てるんだよね?」
「え、あ、うん……」
詰めよってくるジーナにエドガーはかろうじて答える。
「マダム、持ち帰り容器いくつか使うよ。エドガーさん、これ、洗わなくていいし、Dr.ブラボーに持たせて返してくれたらいいから」
ジーナはいつの間にかカニクリームコロッケの成形を手伝わされていたDr.ブラボーを呼ぶ。
「Dr.ブラボー、配達頼める?どうせもう一回エドガーさん送ってくでしょ」
「タスケテ……、タスケテ……。コロッケ作りなんて非効率的……。あ?あ、ああ、まあいいだろう。すぐ持っていくから早く詰めろ今詰めろ」
「了解了解」
フタつきの木箱を十個ほど取り出し、ジーナは手早くカニクリームコロッケを詰めていく。
「よかったね、弟さん、やる気になってくれて」
「ああ、本当に、あんたとDr.ブラボーには感謝してもしきれない」
「それはちょっと違うかな」
「え?」
ジーナはどこかしみじみとした表情で笑う。
「冒険者ってのはさ、他の誰かがすっごい冒険をしたって聞くと、いてもたってもいられなくなるんだよ。だからこれは、エドガーさん、あなたが頑張った結果なんだよ。装備もなしに一週間なんて聞かされちゃ、黙ってらんないよ」
カニクリームコロッケを詰めた箱を紐で縛り、Dr.ブラボーを呼ぶ。ふとエドガーの方を見ると、その瞳は潤み、鼻は赤らんんでいた。
「エドガー氏よ、また泣いているのかね。つくづくよく泣く男だ。泣かせたのか、ジーナ」
「いや、うーん。そうといえばそう……。まあともかく、ハイこれ、崩さないでよ」
「誰にものを言っている。私の名前はDr.ブラボー。カニクリームコロッケを崩さずに移動することなど、呼吸よりも容易いわ。ではいくぞ、エドガー氏よ」
「わっ、ちょっ、待ってくれ。心の準備が」
二人の姿がふっとかき消え、それを酒場の喧騒が上塗りしていく。ふと、マダムがジーナのそばに身を寄せてきた。
「大丈夫?ジーナ」
「なんのこと?マダム。あんまり近いと、ドレスに油がはねちゃうよ」
「私の目はごまかせなくってよ。なんだかアンニュイな気配を感じるわ」
マダムは、さらりとジーナの髪をすくうとその耳にかける。その表情を見落としたくないとでもいうかのように。
「無理に聞き出そうとは思わないわ。でも、あんまり一人で抱え込んではだめよ」
ジーナは一つ、また一つとカニクリームコロッケを油に落としていく。その間に揚がってきたカニクリームコロッケを拾いあげながら口を開く。茶化すような声音だった。
「なんかいろいろ思い出したり、思うことがあったり、あたしにもそういう感性があったってだけですよ」
その“いろいろ”については語る気はないという意思の見える口調だった。三年をともに過ごしても知らないことがたくさんある。それはお互い様のことだ。けれど、マダムには今、その距離がとても切なく思えた。
「ねえジーナ、私をひとりぼっちにしてはいやよ」
酒場の薄暗い照明の中、マダムは自身の見せ方というものを熟知していた。ジーナがその瞳に少しだけ、痛みのようなものを映したのを見てとり、マダムは自己プロデュースが成功したことを悟る。
「しませんよ、しません。きっと」
「するならなにか言ってからにしてちょうだい。それなら約束できて?」
「……。わかりました。もしなにかあった時はちゃんと相談します」
前もって、と苦い思い出の一つを思い出しながらジーナは確かにそういった。ソーサラーでもあるマダムには、その言質をいかようにでもできたが、ただ信じることに決めた。この年若い友への誠意として。パチパチと揚がる油の音をBGMとして、その日の「魔女の安楽椅子亭」の夜は、いつもより少ししんみりと更けていくのだった。