最初にあったのは、光だった。
正確に言えば「光」だと理解できたのはずっと後のことで、そのときはただ白くて眩しくて、そのくせどこか赤みがかった何かが視界いっぱいに広がっているだけだった。
次に来たのは音だ。
くぐもった、水の中で聞くような音。誰かの声。低い声と高い声。低い方が何か言い、高い方がそれに応えて、それからさらに別の、もっと甲高い音が鳴った。
――ああ、これは俺の声か。
と気づくまでに、少し時間がかかった。
自分が泣いているのだと理解した瞬間、俺の中で何かが警報を鳴らした気がした。おかしい。おかしいだろう、これは。喉から出ているのは間違いなく自分の声で、しかし自分の意思でそれを止めることができない。呼吸をするたびに肺が痛いくらいに空気を吸い込んで、勝手に声帯が震える。
待て。待ってくれ。これは一体――そう考えようとした。考えようとしたのだが、思考は五秒と持たずに霧散した。寒い。とにかく寒い。何か柔らかいものに包まれてはいるが、それでも肌に触れる空気が冷たくて、その不快感が思考のすべてを塗りつぶしていく。
前世の記憶があるとか、そういう話ではない。まず「前世」という言葉そのものが、この瞬間にはまだ頭の中でうまく像を結ばなかった。あるのはただ、猛烈な不快感と猛烈な眠気と猛烈な空腹――それらが交互に、あるいは同時に押し寄せてくる、ただそれだけの世界だった。
俺は泣いた。
泣くしかなかった。
そしてしばらくすると、温かい何かに包まれて俺はまた眠りに落ちた。
次に意識がはっきりしたとき――「はっきりした」というのもかなり譲歩した表現だが――俺はようやく自分が置かれている状況をぼんやりと言葉にできるようになっていた。
転生したのか、俺は。
その結論に至るまでに、体感でおそらく数週間はかかったと思う。実際にはもっと短かったのかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。赤ん坊に時間感覚などというものはない。あるのは「眠っている時間」と「泣いている時間」と、ごく稀に訪れる「なんとなく機嫌がいい時間」だけだ。
前世の記憶は思ったよりも曖昧だった。
自分の名前。顔。どんな人生を送っていたか。どうやって死んだのか――そのあたりは、まるで濃い霧の向こうにあるかのように輪郭さえはっきりしない。手を伸ばせば触れられそうで、触れようとすると霧散する。
その代わりに、妙にはっきりと覚えているものがあった。
漫画。アニメ。ゲーム。
自分の名前より先に、見たこともない架空の剣士の技名を思い出せる自分に、俺は乾いた笑いすら覚えた――もっとも赤ん坊の顔面は「乾いた笑い」なんて器用な表情を作れるようにはできていないので、実際にはただ意味もなく口をむにゃむにゃさせていただけだったと思う。
俺は一体、前世で何をしていた人間なんだ――名前も思い出せないのに、なぜか脳裏には赫々と輝く朱色の炎や、無数に並ぶ剣の映像だけは焼き付いている。呪いに近い執着心を感じる。よほど好きだったのだろう、としか言いようがない。
そして決定的な違和感があった。
――これは俺の知っている世界じゃない。
言葉は分からない。文化も分からない。だが感覚として分かる。空気が違う。魔力とでも呼ぶべきものが、皮膚の表面をかすかに撫でていく感触がある。それは前世では一度も感じたことのない類の「気配」だった。
異世界転生というやつか。言葉にしてしまうと自分でもいっそ間抜けに思える。だが他に説明のしようがなかった。
問題は、この世界について俺が何も知らないということだった。
どこかで聞いたことのあるような、剣と魔法の世界。しかし具体的な国の名前も歴史も、誰が英雄で誰が魔王なのかも、まるで分からない。前世で触れていた物語の記憶は、なぜかことごとくこの世界とは無関係な作品ばかりが鮮明で、肝心のこの世界そのものについては――
真っ白だ。まっさらだった。
地図もなければ、あらすじも知らない。攻略情報のたぐいは一切なし。
……それは、まあいいか。妙な話だが、その事実に俺はどこか安堵に近いものを覚えた。この先に何が起きるか分からないというのは恐ろしいことのはずなのに、同時に「知っているのに知らないふりをしなければならない」というねじれた状況よりは、よほど気が楽だった。
知らないものは知らない。それだけのことだ。
――そう思考を結論づけた直後、猛烈な尿意にも似た、しかし尿意とは決定的に違う不快感が下半身から突き上げてきて、俺の思考は瞬時に霧散した。
うわ、待て、これは――当然の帰結として、俺はまた泣いた。
哲学的な自己分析も異世界の考察も、生理現象の前ではまるきり無力だということを、俺は生後間もなくして思い知ることになった。
「レオン」
その音を、俺は数えきれないほど聞くことになった。
最初は、それがただの音の連なりにしか聞こえなかった。低い男の声が「レオン」と言い、高い女の声も「レオン」と言う。その音が発せられるとき、決まって俺の顔を覗き込む影があり、決まって俺に何かをしてくれる――抱き上げられたり頬を撫でられたり、布を替えられたり。
繰り返されるうちに、俺の中で何かが繋がっていった。
この音が発せられるとき、この体が動く。
この音は俺と何か関係がある。
――もしかして、これは俺の名前なんじゃないか。
その仮説に思い至ったときの感覚を、俺は今でもよく覚えている。ちょうど、ばらばらのパズルのピースが一つだけかちりと嵌ったような、そんな感触だった。
レオン。俺はレオンなのか。答え合わせのしようがないので確信は持てなかったが、それからというもの、俺は「レオン」という音が聞こえるたびに無意識に視線をそちらへ向けるようになった。すると、覗き込んでくる大人たちが決まって嬉しそうな顔をする。
どうやら正解らしい。
言葉というものが、こんなにも地道な作業の積み重ねでできているとは、俺は前世では考えたこともなかった。生まれたときから母国語が喋れて当然だと思っていた自分を、少し殴ってやりたい気分だった。
もっとも、殴るための拳はまだ思い通りに動かない。動かそうとしても、視界の端でぷにぷにと震えるだけの、頼りない肉の塊がそこにあるだけだった。
父の名はガイア。
母の名はマイラ。
ともにレオンと呼びかけては俺の顔を覗き込んでくる、この世界における俺の家族らしい――というのも、これまた地道な観察の積み重ねから導き出した結論だった。
父は体格の良い男で、いつも体のどこかに、これも後々になって理解することになるのだが「魔力」とは違う、もっと張り詰めた気配のようなものを纏っていた。声は低く、俺を抱き上げる腕はいつも硬く、そのくせ驚くほど優しく体を支えてくれる。
母は父より線が細く、しかしその代わりに、俺が泣いているとき最も早く駆けつけてくるのはいつも母のほうだった。柔らかい声で何かを歌うように話しかけてくることが多く、その声を聞いていると、なぜか猛烈な眠気に襲われることがしばしばあった。
子守唄……なのか、これは。歌詞の意味はまるで分からなかった。それでも不思議と安心する響きだった。前世の記憶の中にも、こういう類の歌があったような、なかったような――そのあたりの記憶はやはり曖昧で、確かめようがなかった。
ある日、父と母が俺を挟んで何か話し込んでいた。
「――ガイア、この子、良く笑うようになったわね」
「ああ。よく食うし、よく寝るし、良い子だ」
「でも、たまにすごくじっと見てくることがあるのよ。物とか、私の顔とか。赤ん坊にしては目が真剣すぎるっていうか……」
「気のせいだろう。この年頃はそんなもんだ」
俺は当然、その会話の九割を理解できていなかった。それでも「じっと見る」という部分だけは、なんとなく身に覚えがあった。
実際、俺はよく物を観察していた。
母の手にする木の匙。父の腰にある剣の柄。天井を這う木目の模様。壁に立てかけられた薪。
なぜかは分からないが、物を見ると、それがどうやってできているのか、どう動くのかが気になって仕方なかった。剣なら、なぜこの形をしているのか。柄はなぜこの太さなのか。木目はどうしてこんな風に流れているのか。
考えたところで、赤ん坊の頭ではまともな答えなど出るはずもない。それでも、じっと見て考えようとする。その癖だけは、生まれたときから――いや前世からずっと、俺という人間に染み付いているものらしかった。
「――なあ、マイラ」
ある夜、父がぼそりと呟いた声を、俺はまどろみの中で聞いた。
「この子が大きくなったら、村の外に出すことも考えなきゃならんかもな。俺の剣も、お前の薬の知識も、田舎じゃそう長くは通用しねえ」
「気が早いわよ、ガイア。まだ立つこともできないのに」
「分かってる。分かってるが……なんつーか、な。この子には」
父はそこで言葉を切り、少し困ったように笑った気配がした。
「まだ何も持たせてねえのに、もう何かを持ってる気がするんだよ。うまく言えねえけどな」
俺はその言葉の意味を当然理解できなかった。
ただ、なんとなく面映ゆいような、居心地の悪いような、しかし決して嫌ではない感覚だけが胸の奥に残った。
そして数秒後には猛烈な眠気に襲われ、俺はまた深い眠りに落ちていった。
思考も観察も家族の会話も――赤ん坊の体には、まだ荷が重すぎたのだ。
二歳を過ぎたあたりから、俺はようやく単語をいくつか話せるようになった。
「まま」「ぱぱ」「ごはん」「ねむい」――最初はその程度だった。前世の思考力があるのだから言語習得くらい瞬時にこなせるだろうと、正直どこかで舐めていた部分がある。だが実際にやってみると、これがなかなかどうして骨が折れる作業だった。
単語を知っていることと、それを正しい発音で口から出せることは、まったくの別物だ。頭の中では「これはスプーンだ」と分かっていても、いざ声に出そうとすると舌がもつれて「ふ、ふーん」みたいな音しか出てこない。しかもその不完全な発音を、母は「ふーん、ね!」と嬉しそうに繰り返してくる。訂正するどころか、むしろ強化されていく。
これはこれで由々しき事態だと思ったが、母の笑顔を前にして「いや違う、スプーンだ」と訂正する度胸は、当時の俺にはまだなかった。
文字については、単語が話せるようになってからさらに一年近く経ってようやく手をつけ始めた。母が木の板に炭で文字を書き、俺の指を取ってなぞらせる。前世で読み書きを覚えた記憶があるおかげか覚えは早いと母には驚かれたが、それでも「速い」であって「一瞬」ではない。一文字ずつ繰り返しなぞって、間違えて、また直して――そうやって、ようやく自分の名前を自分の手で書けるようになった。
「レ、オ、ン……できた!」
板に書きなぐった歪な三文字を見て、俺は思わず声を上げた。三歳の子供が字を書けるようになった程度のことで、なぜこんなにも達成感があるのか自分でも不思議だったが、とにかく嬉しかった。母がそれを見て手を叩いて喜んでくれたのも、また嬉しかった。
知っていることと、口に出せること、書けることの間には、それぞれ別の壁がある。
俺はこの村での数年間で、その当たり前の事実を身をもって思い知ることになった。
三歳になったばかりのある日、村に旅の魔術師がやってきた。
村の外れの広場に人だかりができていると聞いて、俺は母の手を引っ張って見に行った。中央には旅装束の男が一人立っていて、周りを囲む村人たちに向けて何やら得意げに話している。
「――というわけで、これが下級魔術ってやつでさぁ。ほら、よく見ときな坊主ども」
男はそう言うと、右手を軽く突き出し、聞き取れないくらいの短い言葉を口にした。
次の瞬間、男の掌の上に小さな炎の玉が浮かんだ。
わあ、と周りの子供たちから歓声が上がる。俺も多分、同じような声を出していたと思う。だが俺が驚いていたのは、他の子供たちとは少し違う部分だった。
今、何をした――いや、これは心の中でというより、ほとんど反射的に体全体で疑問に変わっていた。声が短かった。動作もほとんどなかった。それなのに、何もない手のひらの上に確かに炎が生まれた。
俺はその日、日が暮れるまで広場に居座り続けた。魔術師が芸を披露するたびに食い入るように見つめ、母に「もう帰るわよ」と言われても「あと一回!」とねだり、最終的には呆れられた。
現象そのものに感動していなかったわけではない。ただ、それ以上に強かったのは、どうやってあれを起こしたんだという一点だった。詠唱らしき短い言葉。手の動き。魔術師の体のどこかから何かが動いた気配。前世の記憶にある、もっと派手で大掛かりな術式の映像が頭の隅でちらついた。あれとこれは同じ種類のものなのか。それとも、まったく別の仕組みで動いているのか。
答えは見ているだけでは出なかった。
その夜、俺は寝る前に自分の掌をじっと見つめて、意味もなく「もえろ」とつぶやいてみた。当然、何も起きなかった。
悔しかった。生まれて初めて、俺は魔術というものに対して明確な悔しさを覚えた。
それから俺は、暇さえあれば自分の中に「何か」を探すようになった。
魔術師が使ったのは魔力というものらしい、というのは村人たちの会話の端々から拾い集めた情報だった。生き物の中に流れている、目に見えないエネルギーのようなもの。それを外に出して術式という形に整えることで、炎や水を生み出すのだという。
言われても正直よく分からなかった。
目を閉じて、体の中を意識してみる。心臓の音。血の流れる感覚。呼吸。だが、それらとは別に「魔力」と呼べるような何かを感じ取ることは、最初はまったくできなかった。
「なあ、魔力って、どこにあるんだ」
ある日、思わず父に尋ねてみた。父は片眉を上げて、少し面白そうな顔をした。
「魔力かぁ。俺も剣士だから詳しくはねえけどよ。まあ、体の芯のあたりに、なんとなく熱いような、重いような感覚があるだろ。あれだな、多分」
「熱い、重い……」
「感覚は人それぞれだ。俺に聞くより、今度村に来る魔術師にでも聞いてみりゃいい」
その答えは正直あまり参考にならなかった。だが「体の芯」という言葉だけは、なぜか妙に引っかかった。
それから毎晩、寝る前に体の芯とやらに意識を集中させる時間を作った。最初の数日は何も感じなかった。一週間ほど経ったある夜、へその少し下のあたりに確かに何かがある――そんな気がした。
熱いとも重いとも言い難い、奇妙な感覚だった。強いて言うなら、そこだけ体の他の部分と質感が違う。水と油が混ざりきらずに層を作っているような、そんな違和感。
「……これか?」
俺はそっと、その感覚に向けて手を伸ばすように意識を動かしてみた。何も起きなかった。もう一度。今度はほんの少しだけ、その塊が揺れたような気がした。
その夜、俺はいつもより興奮して、なかなか寝付けなかった。
そこから魔術の真似事を始めるまでに、さらに数ヶ月かかった。
体の芯にある感覚を捉えられるようになっても、それを外に出す方法がまるで分からなかったからだ。魔術師の詠唱を思い出しながら聞き取れた範囲の音を真似てみたり、掌を突き出す動作を真似てみたり――傍から見れば、ただの奇妙な仕草を繰り返す子供でしかなかっただろう。
実際、母には何度も心配された。
「レオン、最近よく手のひらをじーっと見てるけど、大丈夫? どこか痛いの?」
「だいじょうぶ。れんしゅう、してる」
「練習? 何の?」
「まほう」
母はそれを聞いて、微笑ましそうに笑った。子供の他愛ない遊びだと思われているのは明らかだった。それはそれで構わなかった。むしろ都合が良かった。誰にも期待されていない状態で、思う存分に失敗できるのだから。
そして四歳になったある朝、俺はいつものように寝台の上で掌を見つめ、体の芯にある感覚をそっと外へ押し出すように意識した。
いつもと同じように、何も起きないはずだった。
しかし、その日はほんの一瞬、掌の上の空気が揺らいだ気がした。
慌ててもう一度、同じ感覚をなぞる。今度ははっきりと分かった。体の芯から、細い糸のようなものが、腕を通って手のひらへと抜けていく感触。そして――
ぽつり、と。
掌の上に、小さな水滴が生まれた。
米粒より少し大きいくらいの、ただの水の玉。それだけだった。だが俺はそれを見た瞬間、声にならない声を上げて寝台の上で飛び跳ねていた。
「でき、た……できた! できたぞ!」
叫びながら部屋を飛び出し、台所にいた母のもとへ駆け込んだ。
「かあさん! みて! みて、これ!」
差し出した掌には、もう水滴は残っていなかった。とっくに乾いていた。だが俺はそんなことにも構わず、興奮したまま何度も同じ動作を繰り返した。体の芯から糸を引き出し、掌へ抜く。水滴が生まれる。それが消える。また作る。
「わ、レオン、すごいじゃない! いつの間に――」
母が目を丸くして驚くのを見て、俺はますます調子に乗った。もう一回。もう一回だけ。次はもう少し大きな水滴を作れるかもしれない。そんな根拠のない自信に突き動かされて、俺は掌の水滴作りを繰り返し続けた。
五回。十回。十五回――
途中から、数えることすらやめていた。ただひたすらに、成功の感触が嬉しくて、やめられなかった。
二十回を超えたあたりから、俺は自分の体に妙な異変を感じ始めていた。
最初は、なんとなく体が重いという程度だった。しかしそれを気にする間もなく、視界の端がぐらりと歪んだ。
「レ、レオン? 顔が真っ青よ、あなた――」
母の声が、やけに遠くから聞こえた。
次の瞬間、俺は自分の足で立っていられなくなっていることに気づいた。頭の中に霧がかかったようになり、体の芯にあった感覚――あの水と油のように違和感を放っていた塊が、今はほとんど空っぽに近いくらい干からびているのが分かった。
まずい、というくらいの判断は辛うじてできた。
だがそれ以上のことを考える前に、視界は真っ暗になった。
目を覚ましたとき、俺は自分の寝台に寝かされていた。
傍らには、明らかに憔悴した様子の母と、腕を組んで難しい顔をした父が座っていた。母の目は少し赤くなっていた。
「……かあさん?」
「レオン!」
声を出した途端、母に強く抱きしめられた。息が詰まるほどの力だった。
「良かった……本当に、良かった……三日も目を覚まさないから、私、もう……」
「三日……?」
俺は自分の耳を疑った。感覚としては、たった今水滴を作って倒れたばかりのはずだった。だが実際には、丸三日もの間、俺は眠り続けていたらしい。
父が静かに口を開いた。
「レオン。お前がやったことは、悪いことじゃねえ。魔術を自分で見つけて、自分で成功させた。それは、すげえことだ」
その声は、いつもより低く、抑えた響きだった。
「だがな。お前は、自分の中にある力を限界まで――いや、限界を越えて使い切った。そのせいで丸三日、目を覚まさなかった。お前の母さんが、どれだけ心配したか分かるか」
俺は言葉に詰まった。楽しかった。嬉しかった。それしか考えていなかった。母を心配させることになるなんて、これっぽっちも頭になかった。
「ごめんなさい」
それだけ言うのが精一杯だった。
父は少しの間黙り込んでから、俺の頭に大きな手を乗せた。
「謝る必要はねえ。ただ、覚えとけ。限界を超えることと、限界を知らずに突っ込むことは違う。前者は、いつか大きな力になる。後者は、いつかお前自身を殺す」
限界を超えることと、限界を知らずに突っ込むことは違う。
その言葉は俺の中に深く刻まれた。当時の俺には、まだその意味の半分も理解できていなかったと思う。それでも、なぜかその響きだけは、ずっと消えずに残り続けることになった。
「わかった。次から、気をつける」
俺がそう言うと、父は少しだけ笑って、母は俺をもう一度強く抱きしめた。
これが、俺という人間が初めて魔術に成功し、そして初めて自分の限界というものを思い知った日の話だ。
水滴一つ。
それが、俺の全ての始まりだった。
魔力切れの一件から、俺の魔術の練習には「限度」という言葉が付いて回るようになった。
まず母が、俺が掌をじっと見つめ始めると露骨に近くへ寄ってくるようになった。最初の数回は「ただ見てるだけだよ」と言い訳したが、三回目あたりで見抜かれ、それ以降は練習をするなら必ず誰かの目の届く場所でやることが義務付けられた。
父からは、もっと具体的な指示が下りた。
「いいか、レオン。今日からお前が水滴を作るのは、一日に三回まで。それを超えたくなったら、代わりに俺のところへ来い」
「三回? でも、もっとできる気が――」
「できる気がするうちが一番危ねえんだよ」
実際にその通りだった。三回目を過ぎたあたりから、俺は決まって「あと少しだけ」という誘惑に駆られる。前回は三日眠り続けた程度で済んだが、次に同じことをやれば命に関わるかもしれない――そう頭では分かっていても、いざ体の芯にある感覚に触れると抑えが利かなくなりかける瞬間があった。
だからこそ、三回という区切りは、俺にとって最初の「安全域」だった。
最初のうちは、三回で止めることそのものが苦行だった。楽しくて仕方がないことを、無理やり途中でやめる。それは、前世の記憶にあるどんな作業よりも、俺にとって難しい種類の忍耐だった。
だが数ヶ月も続けるうちに、俺は少しずつ自分の中の感覚と付き合い方を覚えていった。体の芯にある塊が、どのくらい減ると「危険域」に近づくのか。三回目を使い切った後、どのくらいの時間で塊が回復するのか。回復の速度は、よく眠った日とそうでない日とで違うのか。
答え合わせの相手はいない。誰かに教わったわけでもない。ただひたすら、自分の体を使って、少しずつデータを積み重ねていく。
その積み重ねの果てに五歳になる頃には、俺は水滴を十回作っても倒れないくらいには「余白」を広げていた。
剣を握らせてもらえるようになったのは、五歳の誕生日を迎えてすぐの頃だった。
「そろそろいいだろう。魔術ばっかりやってねえで、こっちもやるぞ」
そう言って父が差し出してきたのは、本物の剣ではなく、木剣だった。俺の身長よりも少し短いくらいの、それでもずっしりとした重みのある木の棒。両手で受け取った瞬間、俺は思わずよろけた。
「重……」
「軽いほうだ、これでも」
父はそう言うと、自分の腰の剣を軽々と抜いて見せた。刃こそ潰してあるものの、明らかに木剣より重量のある得物だ。あんなものをいつも当たり前のように腰に差し、当たり前のように振っているのかと思うと、素直に驚いた。
「よし、まずは構えからだ」
父の指導は、拍子抜けするほど地味なものだった。
足の幅。重心の置き方。剣の持ち方。振り下ろす角度。俺はてっきり、初日から「型」だとか「奥義」だとかいう格好いい何かを教えてもらえるものだと、どこかで期待していた節がある。だが実際に待っていたのは、ひたすら同じ動作を繰り返す時間だった。
「構えて」「振れ」「戻せ」「もう一回」
その繰り返しが、延々と続く。二十回もやらないうちに、俺の腕は震え始めた。前世の記憶にある剣士たちは、みんなもっとかっこよく、もっと軽やかに剣を振っていたはずだった。現実はまるで違った。
「なんで、こんな地味なんだ……」
思わず愚痴がこぼれた。父は苦笑しながら、木剣を握る俺の手の位置を軽く直した。
「地味に見えるか。だが、この地味な動きの中に全部詰まってんだよ。重心。呼吸。目線。手首の返し方――お前が魔術の水滴を作るのに何ヶ月もかけたのと同じだ。派手な技ってのは、こういう地味なやつを何百回、何千回とやった先にようやく形になるもんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ納得した。同時に、げんなりもした。
水一滴を出すのに数ヶ月かけた身としては、剣も似たようなものだろうというのは薄々分かっていた。分かっていたが、実際に腕がぱんぱんに張ってくると、頭で理解しているのと体で受け止めるのとではまた話が別だった。
剣の稽古は、毎日ではなかった。父も村の仕事――狩りや護衛、魔物の対応――で忙しく、稽古をつけてもらえるのは大抵父が村に残っている日の夕方だけだった。
その代わり、稽古がない日にも、俺は勝手に素振りをするようになった。庭先で、木剣を振る。最初のうちは、ただ「振れ」と言われた通りに振っているだけだったが、そのうちに気づくことが増えていった。
振り下ろす速度を変えると、風切り音が変わる。
手首の角度をわずかにずらすと、剣先の軌道が変わる。
重心をどこに置くかで、振り終わった後の隙の大きさが変わる。
誰に教えられたわけでもない。ただ、繰り返し振っているうちに、勝手に体がそれを覚えていった。あるいは――前世の記憶にある何かの動きを、無意識のうちになぞっていたのかもしれない。剣そのものの経験はなくとも、「速い動き」や「鋭い動き」というものに対する漠然としたイメージだけは、なぜか妙にはっきりしていた。
ある日、庭先で素振りをしているところを、父に見られた。
「……お前、その振り、誰に教わった」
「誰にも。なんとなく、こうしたほうが速い気がして」
父はしばらく黙って俺の動きを眺めていた。それから、どこか複雑そうな表情で頷いた。
「筋はいいな。良すぎるくらいだ」
褒められているはずなのに、その声の響きには、どこか戸惑いのようなものが混じっていた気がした。理由を尋ねようとしたが、父はそれ以上何も言わず、稽古の続きを始めてしまった。
その日のことを、俺はしばらく忘れていた。
だが後になって思い返すと、あれは父が初めて、俺の中にある「何か」――前世由来の妙な感覚や才能のようなもの――にうっすらと気づいた瞬間だったのかもしれない。
剣と魔術。二つの練習を並行してやるようになってから、俺の一日は前よりずっと忙しくなった。
朝は母から文字の続きを教わり、昼過ぎには村の子供たちと遊び、夕方には父の稽古か、あるいは自主的な素振り――夜は寝る前に魔術の練習を三回だけ――という日々が続いた。
もっとも、忙しいと言っても五歳児の生活だ。真面目な話ばかりしていたわけではない。
例えば、ある日のことだ。村の同い年くらいの子供――名をトマといった――と、井戸端で水を汲む競争をしていたときのことだった。
「レオン、お前またそのちっちゃい水玉出してんの? そんなんじゃ井戸の水になんて敵わないっての」
「これは、練習なんだよ。将来もっとでかいの出せるようになる」
「はいはい。それより競争しようぜ、桶に水汲むの」
俺はその挑発に、まんまと乗った。桶を持って井戸へ走り、縄を垂らして水を汲み上げる。単純な作業のはずだったが、勢い余って縄を引きすぎ、桶ごと盛大にひっくり返して自分の頭からずぶ濡れになった。
「ぶはっ、はは! レオン、なにやってんだよ!」
トマに指を差されて大笑いされ、俺は濡れ鼠のまま村へ戻ることになった。母には「またやったの」と呆れられ、着替えさせられながら小言をもらった。
魔術の理論を考えているときの真剣さと、井戸端でずぶ濡れになって笑われているときの間抜けさ。その両方が、同じ自分の中に確かに同居していた。前世でこんな人間だっただろうか、と考えたこともあったが、答えは相変わらず霧の向こうだった。
もっとも、そんなことをいちいち気にする間もなく、翌日にはまた別の失敗をやらかしているのが常だった。
六歳になった頃、俺は初めて剣術の稽古で父に一本を取った。
もちろん、木剣を使った子供相手の手加減込みの稽古であって、本気の父にかすり傷一つ負わせられるようなものではない。それでも、決められた型の中で父の隙を突き、木剣の先を父の胴に届かせた瞬間、俺は思わず飛び上がって喜んだ。
「やった! やったぞ!」
「……ああ、やったな」
父はそう言って苦笑いを浮かべていたが、その目にはどこか複雑そうな色が浮かんでいた。喜んでいるはずなのに、同時に何かを警戒しているような、そんな目だった。
その理由を俺が知るのは、もう少し先のことになる。
剣術も魔術も少しずつ、しかし確実に積み重なっていった。派手な進歩は何もない。地味な素振りと地味な水滴作りの繰り返しの中に、少しずつ「できること」が増えていく。それだけの日々だった。
だが、その積み重ねの中で、俺は一つだけ確信を強めていた。
この世界には、俺が思っていたよりもずっと多くの「仕組み」がある。剣の一振り一振りに、魔術の一つ一つの現象に、それぞれ理屈がある。その理屈を、一つずつ拾い集めていけば、いつかきっと――
その先に何があるのかは、まだ俺自身にも見えていなかった。
ただ、水一滴から始まった何かが少しずつ形を変えながら俺の中で育ち始めていることだけは確かだった。