きっかけは、なんでもない怪我だった。
七歳になったばかりのある日、俺は素振りの最中に足を滑らせ、庭に転がっていた薪の山に突っ込んだ。積んであった薪が崩れ、その角が思いきり右の脛にぶつかった。
「いって……」
声を上げてしゃがみ込んだところに、悲鳴を聞きつけた母が飛んできた。
「レオン! 大丈夫? 見せて――」
ズボンをまくり上げると、脛には赤黒い傷が刻まれていた。切れているというより、皮が裂けたという方が近い。じわりと血が滲み出してくる。痛みに顔をしかめながらも、俺はどこか冷静な部分で「これは縫ったほうがいいやつだな」などと考えていた。
だが、母は傷口を見た瞬間、なぜかほっと息をついた。
「……ああ、良かった。この程度なら」
「この程度って、結構痛いんだけど」
「痛いのは分かるけど、心配するほどじゃないってこと。少し我慢してね」
母はそう言うと、傷口に薬草をすり潰したものを塗り、布を巻いた。処置そのものは手慣れたもので、母の薬草の知識が村の中でも頼りにされている理由がよく分かる手際だった。
問題は、その翌日だった。
布を替えるために巻き直された脛を見て、俺は思わず声を上げた。
「……あれ?」
傷口が、明らかに小さくなっていた。
昨日はぱっくりと開いていた裂け目が、今朝にはもう浅い擦り傷程度にまで塞がりかけている。もちろん子供の治癒力が高いという話は聞いたことがあったが、それにしても速すぎる気がした。
「かあさん、これ、なんか変じゃない? 早すぎる気がする」
母は布を巻き直しながら、一瞬だけ目を伏せた。それから、いつもより少し柔らかい声で答えた。
「レオン。今日の夜、お父さんが帰ってきたら、一緒に少し大事な話をしましょうか」
その言い方に、俺はなんとなく、ただの傷の治り具合の話では済まないことを察した。
その夜、父が仕事から帰ってくると、俺は家族三人で食卓を囲んだ。いつもより静かな空気だった。
「レオン。お前の脛の傷、見せてみろ」
父に言われて布を外すと、傷はほとんど塞がりかけていた。父はそれをしばらく見つめてから、静かに頷いた。
「マイラ。話すなら、今がいい頃合いかもしれねえな」
「そうね……」
母はそう言うと、少し緊張したような顔で俺のほうを向いた。
「レオン。あなたの体には、私の血が半分入っているの。私の母――あなたのお祖母さんにあたる人は、不死魔族という種族だったのよ」
「不死、魔族……?」
その言葉自体は、聞いたことがなかったわけではない。村の大人たちが世間話の中で、時々そんな単語を口にしていた覚えがある。ただ、それが自分自身と結びつく話だとは、一度も考えたことがなかった。
「不死魔族は、他の種族に比べて、体の傷が治るのがとても速いの。あなたの脛の傷も、多分それが関係していると思う」
母の説明を聞きながら、俺は頭の中で情報を整理しようとした。だが正直なところ、七歳の頭では「不死魔族」という言葉の重みも、それが自分にとって何を意味するのかもうまく飲み込めなかった。
「じゃあ俺、傷とか、あんまり気にしなくていいってこと?」
我ながら間の抜けた質問だと思ったが、それが今の俺に出せる精一杯の反応だった。父が小さく噴き出した。
「気にしなくていいって話じゃねえよ。痛えもんは痛えし、危ねえもんは危ねえ。ただ、治りが早い分だけ、少しばかり無茶が利くってだけの話だ」
「無茶できるってこと?」
「調子に乗るなよ。無茶が利くってのと、無茶していいってのは別だ。それに――」
父はそこで一度言葉を切り、母のほうをちらりと見た。母が小さく頷くのを確認してから、続けた。
「治りが早いのと、死なねえのは違う。それだけは、しっかり覚えとけ」
「不死魔族って言うくらいだから、死なないんじゃないの?」
俺が首を傾げると、母は苦笑した。
「その名前のせいで、よく誤解されるのよね。不死魔族が『不死』と呼ばれるのは、老いにくくて、傷の治りが速いから。決して、絶対に死なないという意味じゃないの」
「老いにくい……?」
「そうよ。人族の大人がゆっくり歳を取っていく間、不死魔族の血が濃い人は、ある時期からほとんど歳を取らなくなる。私は人族の血のほうが強いから、そこまで極端じゃないけれど、あなたは――」
母はそこで少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あなたはもしかしたら、私よりもっと、その血が濃く出るかもしれない」
俺はその話を聞きながら、なんとなく浮ついたイメージを膨らませた。歳を取らない。傷もすぐ治る。それはなんだか、前世で触れたことのある物語の中の「強い人物」の特徴のように聞こえた。
だが父の次の言葉が、そのふわついた想像に冷や水を浴びせた。
「いいか、レオン。老いにくいってのは、長生きするってことだ。長生きするってことは――」
父はそこで珍しく、言葉に詰まったような間を置いた。
「お前の周りにいる人間は、大抵の場合、お前より先に歳を取って先に死んでいくってことだ」
その言葉の意味を、七歳の俺は正確には理解できなかった。理解できなかったが、なぜか胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。
「……かあさんも?」
思わずそう聞いてしまってから、しまったと思った。母の顔が、一瞬だけ強張ったのが見えたからだ。
だが母はすぐに、いつもの柔らかい表情に戻って、俺の頭を撫でた。
「先の話よ、レオン。今はまだ、そんなこと考えなくていいの」
その言い方が、逆に「本当は考えなくちゃいけないことなんだ」と告げているようで、俺はそれ以上何も聞けなくなってしまった。
傷の治りの話には、もう一つ続きがあった。
「一つ、大事なことを言っておく」
父が改まった調子で言った。
「お前の傷が治るのは早い。だが、無限に治るわけじゃねえ。魔力も体力も使う。あんまり大きな怪我をすれば、治るまでにそれだけ長い時間がかかるし、下手すりゃ治りきらねえまま命を落とすことだってある」
「治らないことも、あるってこと?」
「当たり前だろ。首をすっぱり落とされて、それでも生き返るような化け物と一緒にするな」
父の言い方があまりにあっさりしていたせいで、俺は思わず笑ってしまった。真面目な話の途中だというのに、なぜかそこだけやけに実感がこもっていた。まるで実際にそういう化け物と戦ったことがあるかのような口ぶりだったが、深く聞くのはやめておいた。
「それと、これも覚えておけ」
父は続けた。
「歳を取らねえってのも、寿命が減らねえって意味じゃねえ。仮に、お前がどれだけ傷を治せても、どれだけ長く若い姿でいられても――最後には必ず終わりが来る。それがいつになるかは、俺にも分からねえがな」
この日、俺が家族から聞かされた話は、大きく分けて三つあった。
一つ。俺の体には人族と不死魔族、両方の血が流れていること。
二つ。傷の治りが速く、老いにくい体を持っていること。
三つ。それでも無限ではなく、いつか必ず終わりが来るということ。
どれも、七歳の子供が一度に飲み込むには、少し重すぎる話だった。実際、俺はその夜、なかなか寝付けなかった。天井を見つめながら、頭の中で「長生きする」という言葉と「かあさんは先に死ぬ」という言葉が、ぐるぐると回り続けていた。
翌朝、俺はいつもより早くに目を覚ました。
台所へ行くと、母がいつも通り朝食の支度をしていた。その背中を見ているうちに、昨夜からずっと胸の奥に引っかかっていた言葉が、ぽろりと口から出た。
「かあさん、俺、かあさんより長生きするの?」
母は手を止めて、振り返った。少しだけ困ったような、それでいてどこか優しい表情だった。
「多分ね」
「そしたら、俺、一人になっちゃうってこと?」
我ながら子供っぽい質問だと思ったが、聞かずにはいられなかった。母はしゃがみ込んで、俺と目線を合わせた。
「一人にはならないわ。あなたはこれから、たくさんの人と出会って、たくさんの人と一緒に生きていく。その人たちが先にいなくなることは、確かにあるかもしれない。でもね」
母はそこで俺の頬に手を添えた。
「それでも、その人たちと過ごした時間が消えるわけじゃないの。一緒に笑ったことも、怒られたことも、今こうして話していることも、あなたの中にずっと残る。それは、誰にも奪えないものよ」
正直なところ、七歳の俺にその言葉の全部を理解できたとは言い難い。それでも、母の声の温度と頬に添えられた手のひらの感触だけは、はっきりと覚えている。
「……よくわかんないけど、なんかちょっと安心した」
「それでいいのよ、今は」
母はそう言って笑うと、朝食の支度に戻っていった。
俺はその背中を見つめながら、ふと思った。
いつか、母がいなくなる日が来る。父も、いつかは。そのとき自分がどう感じるのか、今の俺にはまるで想像がつかなかった。ただ、その日が来るまでの時間をできる限り大切にしたい――漠然とだが、そんな思いだけが胸に残った。
もっとも、そんな殊勝な決意も、朝食のパンの匂いを嗅いだ瞬間あっさりと空腹に上書きされてしまったのだが。
「かあさん、はやくごはん!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
重い話も、軽い日常も、同じ食卓の上に並んでいる。そういうものなのだろう、と七歳の俺は、なんとなくそう納得することにした。
「なあ、とうさんはどうしてそんなに強いの?」
八歳になったある日、稽古の合間に俺はふと尋ねた。単純な疑問だった。村の護衛や魔物対応で頼りにされる程度の腕前ならまだしも、父の剣筋には、そういう「田舎の頼れる剣士」という枠に収まりきらない何かがある気がしていた。
父は木剣の手入れをする手を止め、少しの間、遠くを見るような目をした。
「……そろそろ、話してもいい頃合いかもな」
その日の夕食の後、父は珍しく手酌で酒を注ぎながら、昔語りを始めた。
「俺は元々、この村の生まれじゃねえ。若い頃は、ある剣術道場で修行してた」
「道場? どこの?」
「剣神流の、それなりに名の知れた道場だ。師範から直接、稽古をつけてもらってた時期もある」
剣神流という言葉自体は、村の大人たちの会話の中で何度か聞いたことがあった。だが、それが具体的にどれほどの規模の流派で、どれほどの実力者たちが名を連ねているのかまでは俺には分かっていなかった。
「とうさんは、その道場でどれくらい強かったの?」
「そこそこだな。剣王までは行った。師範から免許皆伝もいただいてる。だが、剣帝には届かなかった」
父はそう言って、自嘲気味に笑った。
「才能がなかったわけじゃねえ。ただ、俺には剣一本に人生を懸け切る覚悟が、最後まで持てなかった。剣帝より上を目指す連中は、みんな、剣以外の全部を捨てるくらいの気迫があった。俺には、それができなかった」
「なんで、剣一本に懸けなかったの?」
俺の問いに、父は少し困ったように頭をかいた。
「色々あったんだよ。まあ、一番でかい理由は、お前の母さんと出会っちまったことだな」
「かあさんと?」
「ああ。道場を出て、旅の途中でこの村に立ち寄ったときに、お前の母さんと知り合った。それで、なんつーか……色々あって、この村に落ち着くことになった」
父の説明は妙に端折られていて、詳しい馴れ初めについては最後まで教えてもらえなかった。後で母に聞いてみたところ、母は少し頬を赤らめながら「それはまた、今度ゆっくりね」とはぐらかされてしまった。子供心に、これは何か込み入った事情があるのだろうと察して、それ以上は追及しないことにした。
「それで、剣を捨てたってこと?」
「捨てちゃいねえよ。ただ、道場に残って上を目指す代わりに、この村で村の連中を守る剣として生きることを選んだ。それだけの話だ」
父はそう言うと、少し寂しそうな、それでいてどこか満足げな表情を浮かべた。
「後悔はしてねえよ。剣王止まりだろうが、俺はこの村と、お前の母さんと、お前を守れるだけの腕は持ってる。それで十分だ」
その言葉を聞いて、俺の中で何かが繋がった。父がなぜ、剣神流をここまで高い水準で自分に教えられるのか。免許皆伝を受けるほどの実力者だったという裏付けがあったからこそ、単なる村の護衛の腕前を超えた指導ができていたのだ。
「とうさんの師匠って、どんな人だったの?」
「厳しい人だったよ。今思えば、あの人に教わったことは、今でも体に染み付いてる。お前に教えてる型も、元をたどれば全部あの人から習ったもんだ」
父はそう言って、懐かしそうに目を細めた。
「いつか、お前がもっと強くなって、あの道場を訪ねる日が来るかもしれねえな。そのときは、俺の名前を出してみるといい」
その日以降、俺は父の稽古を、少し違う目で見るようになった。地味な素振りの一つ一つが、ただの村の護衛技術ではなく、れっきとした流派の技術体系の一部なのだと知ってからは繰り返す動作の重みが変わって見えた。
九歳から十歳にかけての二年間は、俺の中で最も密度の濃い修行期間になった。
剣は毎日欠かさず振った。魔術も、安全域を少しずつ広げながら練習を続けた。魔力の総量は、五歳の頃に比べて明らかに増えている実感があった。水滴一つ作るのに全力を使っていた頃が、今では嘘のようだった。
もっとも、修行漬けの毎日だったかといえば、そうでもない。相変わらず村の子供たちとつるんで遊び回り、井戸端でずぶ濡れになる回数こそ減ったものの、代わりに木登りから落ちて父に大目玉を食らったり、悪友のトマと一緒に隣村の祭りに勝手に出かけて日が暮れるまで見つからず両親を半泣きにさせたりと、それなりに子供らしい騒動には事欠かなかった。
「レオン、お前は本当に、真面目なんだか、そうでもねえんだか分かんねえやつだな」
ある日、父に呆れたようにそう言われたことがある。剣と魔術の稽古では誰よりも粘り強く同じ動作を繰り返す癖に、日常のちょっとしたことでは驚くほど間が抜けている。俺自身、その自覚はあった。
「集中するところと、そうじゃないところの差が激しいだけだよ」
「せめてもう少し均等に気を配れ。この間なんて、井戸の蓋を閉め忘れて、村長のところの鶏を落っことしかけたじゃねえか」
「あれは事故だって。鶏、無事だったし」
「無事だったからいいってもんじゃねえんだよ……」
こういう他愛のないやり取りが、修行の合間には常にあった。真剣な鍛錬の時間と、間の抜けた日常。その両方が積み重なって、俺の少年期はできていた。
十歳になった年、村を大きな魔物の群れが襲う事件があった。
普段は森の奥に留まっているはずの魔物が、何かの理由で群れをなして村の外れまで下りてきたのだ。父を含む村の剣士たちが総出で応戦することになり、俺も見様見真似で戦いに参加した――というより、父に「絶対に前に出るな」ときつく言われた上で後方で怪我人の手当てを手伝う役に回された。
それでも、戦場の空気というものを、俺はその日初めて肌で知った。
剣がぶつかる音。怒号。血の匂い。父の背中は、いつも稽古で見ているときよりずっと大きく、そしてずっと恐ろしく見えた。無駄のない太刀筋で魔物を斬り伏せていく父の姿を見ながら、俺は不思議な感覚に襲われた。
いつか、自分もあの場所に立つのだろうか。
その日、村は大きな被害を出すことなく魔物の群れを退けることに成功した。だが、怪我人は少なくなかった。母の指示のもと、俺は薬草をすり潰したり布を巻いたりと、慣れない手つきで治療を手伝った。
「レオン、よくやったわ。今日は、あなたも立派に村を守った一人よ」
治療が一段落したあと、母にそう言われて、俺は素直に嬉しかった。同時に、直接戦いに加われなかった悔しさも確かにあった。
その夜、父にこっそりと打ち明けた。
「俺も、今度は前で戦いたい」
父はしばらく黙り込んでから、静かに頷いた。
「まだ早い。だが……そう遠くねえうちに、お前にも前線に立ってもらう日が来るだろうな」
その言葉通り、それから一年も経たないうちに、俺の稽古の内容は大きく変わっていくことになる。
十一歳になった頃、父は俺を連れて、隣街で開かれる剣術の腕試しの場――巡回してくる審査の剣士による実力の格付けを受けられる催しに参加することにした。
「お前の実力を、そろそろ客観的に測っといたほうがいい。俺の目だけじゃ、贔屓目もあるからな」
審査の場には、剣王級の実力を持つという審査官が来ていた。俺と同年代の参加者もいれば、大人の参加者もいる。俺は当初、自分の実力がどの程度のものか、正直あまり自信を持てずにいた。父の稽古についていけている自覚はあったが、それが村の外でどこまで通用するのか、確かめたことがなかったからだ。
結果から言えば、俺はその場で「上級剣士」の格付けを受けた。同年代の参加者の中では頭一つ抜けた評価だったが、審査官からは同時にこう言われた。
「筋はいい。だが、まだ粗い。特に、実戦の場数が圧倒的に足りていない。技を知っているのと、実際に命のやり取りの中で使いこなせるかは、また別の話だ」
その言葉は、以前どこかで聞いたことのある響きを持っていた。知っていることと、できることは違う。父の言葉が、剣の場でも同じ形をとって、俺の前に立ちはだかった。
それから一年間、俺は父との稽古に加えて、実戦経験を積むことに力を入れた。村の外へ出て、討伐依頼を受けている剣士たちに同行させてもらったり、父の伝手で近隣の道場に短期間通わせてもらったりと、できる限り多くの「命のやり取りに近い場」を経験するように努めた。
その過程で、何度も痛い目に遭った。実戦慣れした剣士に手も足も出ずにあしらわれたこともあれば、魔物相手に判断を誤って大怪我を負ったこともある。だが、不死魔族の血のおかげで治りが早いのが、せめてもの救いだった。
十二歳になった年、再び同じ審査官の巡回に参加する機会があった。
その日の審査で、俺は「剣聖」の格付けを受けた。
「若いのに、大したもんだ。この歳で剣聖まで届く剣士は、そう多くはない」
審査官の言葉を聞きながら、俺は妙に落ち着いた気持ちでその評価を受け止めていた。嬉しくないわけではなかった。だが、五歳の頃に水滴一つを出せただけで飛び跳ねて喜んでいた自分と比べると、今の自分は随分と物事を静かに受け止められるようになったものだと、どこか他人事のようにそう思った。
その夜、父に結果を報告すると、父は珍しく心の底から嬉しそうな顔をした。
「剣聖か……。大したもんだ。俺がその歳の頃は、まだ中級剣士がやっとだった」
「とうさんが教えてくれたからだよ」
「お世辞はいい。お前の努力の結果だ」
父はそう言って、俺の頭を乱暴に撫でた。だがその手つきには、確かな誇らしさが滲んでいた。
もっとも、この日の格付けについて、俺には一つだけ引っかかっていることがあった。審査官が去り際、ぽつりとこう漏らしたのだ。
「お前さんは、剣の才能だけなら、この歳でもっと上を目指せるだろう。だが、剣以外にも色々やってるみてえだな。器用貧乏にならねえよう、気をつけな」
その言葉に、俺は少しだけ胸の奥がざわついた。剣一本に人生を懸けるつもりは、最初からなかった。魔術も、まだまだ研究したいことが山ほどある。だが、その二つを両方追いかけることが、果たして正しい選択なのかどうか――その答えは、この時点ではまだ俺自身にも出せていなかった。
剣聖の格付けを受けてから半年ほど経った頃、俺は両親に、ラノア魔法大学への進学を相談した。
「魔術と結界の勉強を、もっと本格的にしたいんだ。この村じゃ、これ以上教われることに限りがある」
剣術に関しては、父から学べることの多くをすでに吸収していた。だが魔術に関しては、独学と観察だけでどうにか積み上げてきた自己流の技術に過ぎない。体系立てて学べる場所に身を置きたいという思いは、ここ数年でずっと強くなっていた。
「ラノアかぁ……」
父はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて静かに頷いた。
「行ってこい。お前の実力なら、どこへ出ても恥ずかしくねえ」
「本当に、いいの?」
「当たり前だろ。お前をいつまでもこの村に留めておくつもりはねえよ。むしろ、もっと早く言い出すかと思ってたくらいだ」
母は少し寂しそうな顔をしながらも、最後には笑って送り出す言葉をかけてくれた。
「たくさん学んで、たくさん経験して。それで、たまにはちゃんと手紙を書きなさいね」
「わかってるよ」
「本当に分かってるかしら。あなた、返事を書くの苦手そうだもの」
母の指摘は、正直図星だった。俺は誤魔化すように視線を逸らした。
出発の朝、村の外れまで両親が見送りに来てくれた。
「体、大事にしろよ。無理はするな……とは言っても、お前は昔から限度ってものを知らねえからな。せめて、無茶をするときは、一人で抱え込むな」
父の言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。五歳の頃、魔力切れで三日眠り続けた一件を思い出しているのだろう。あの日の教訓は、今でも自分の中にしっかりと根を張っていた。
「わかってる。あのときの二の舞は演じないよ」
「口だけならなんとでも言えるがな」
「レオン」
母が俺の手を取って、じっと目を見つめてきた。
「不死魔族の血のこと、覚えてる?」
「もちろん」
「あなたはこれから、たくさんの人に出会うわ。その中には、あなたより先に歳を取っていく人もたくさんいる。それを、寂しいことだと思わないでほしいの。一緒に過ごせる時間があること自体が、幸運なことなんだから」
七歳のときに聞かされた話が、この五年でようやく、少しだけ実感を伴って理解できるようになっていた。全部を分かったとは、まだ言い切れない。それでも、母の言葉の輪郭くらいは、今の俺にも掴めるようになっていた。
「行ってきます」
俺はそう言って、背負った荷物を担ぎ直した。剣を一振り。着替えと、路銀と、母が持たせてくれた薬草の包み。それだけを携えて、俺は生まれ育った村を後にした。
村からラノアまでの道のりは、決して短くはなかった。乗合馬車を乗り継ぎ、途中で野宿を挟みながら、俺は数週間かけてラノアの街へとたどり着いた。
初めて目にする大きな街並みに、俺は正直、少なからず圧倒された。村とは比べ物にならない人の数。石造りの建物が立ち並ぶ通り。行き交う様々な種族の人々。
そして、街の中央にそびえ立つ、ラノア魔法大学の校舎。遠目に見るだけでも、その規模は俺の想像を大きく超えていた。
「……ここが」
俺は立ち止まって、しばらくの間、その建物を見上げていた。
剣聖の格付けを受け、この村で学べることの多くを吸収した先に、ようやくたどり着いた新しい出発点。ここで学ぶのは、魔術。結界。そして、まだ言葉にできていない、自分自身の中にある「何か」の正体。
水一滴から始まった旅は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない――そんな予感を抱きながら、俺は改めて荷物を背負い直し大学の門へと足を踏み出した。
この街で、俺はやがて、生涯の親友と呼ぶことになる一人の男と出会うことになる。だが、それはまだ、もう少し先の話だ。