ラノア魔法大学への入学手続きは、思っていたよりあっさりと済んだ。
剣聖の認定書――剣の聖地で発行してもらった正式な証明書――と、簡単な実技・筆記の試験を経て、俺はあっけなく入学を認められた。担当の教官は俺の剣聖位を見て一瞬驚いた顔をしたが、それより魔術と結界術への関心の方を熱心に聞いてきた。
「剣聖の位を持ちながら、専攻は結界術志望か。珍しいな」
「剣だけじゃなく、色々やってみたくて」
その答えに教官は苦笑していたが、深く追及はされなかった。おかげで俺は、初日から余計な詮索を受けることなく、寮の部屋と時間割を受け取ることができた。
入学初日、俺は与えられた寮の部屋に荷物を置き、大学の敷地を軽く見て回った。石造りの校舎はどこまでも広く、研究棟だけでも数える気を失うほどの数が並んでいた。魔術理論、錬金術、結界術、召喚術――それぞれに専門の棟が用意されており、廊下を歩くだけで様々な魔術の気配が壁越しに伝わってくる。
「これが、魔術を体系立てて学ぶってことか……」
村で独学と観察だけでどうにか積み上げてきた自分の知識が、この規模の前ではいかに小さなものだったか、否応なく実感させられた。
最初の数週間、俺は基礎科目の授業に忙殺された。
魔術理論の基本、魔法陣の構造、詠唱の文法――どれも独学では得られなかった体系的な知識ばかりで、俺は貪るようにそれらを吸収していった。同時に、剣聖という肩書きのおかげで、実技の授業ではかなり浮いた存在になった。
「おい、あの新入生、実技の試験で教官相手にほとんど互角だったらしいぞ」
「剣聖なんだろ? そりゃそうだろ」
そんな噂話が耳に入るたびに、俺は妙な居心地の悪さを覚えた。剣の実力を誇示したくて入学したわけではない。それでも肩書きは肩書きとして一人歩きしていくもので、入学から一月も経たないうちに、俺の名前は学内である程度知られる存在になっていた。
もっとも、結界術の授業に関しては、まったく別の意味で苦戦することになった。
「レオン、お前の術式、理論は面白いんだが、根本的に非効率だ。この構造なら、もっと少ない魔力で同じ効果を出せる」
結界術の教官にそう指摘されたのは、入学から二月ほど経ったある日の実習でのことだった。俺が独学で組み上げてきた簡易領域――侵入感知の術式――を見せたときのことだ。
「非効率、ですか」
「発想自体は悪くない。むしろ独創的だとすら言える。だが、術式としての完成度は、正直まだ粗い」
その評価は、以前剣の聖地で聞いた言葉と、どこか似た響きを持っていた。発想は面白い。しかし技術は粗い。剣でも結界でも、俺はまだ、体系立てて磨かれた「本物」たちの前では随分と荒削りな存在らしかった。
その男を初めて意識したのは、入学から三月ほど経った魔術理論の授業でのことだった。
教官が出した応用課題――複数属性の魔術を組み合わせた術式の設計――に対して、俺は自分なりに数日かけて解答を練り上げた。それなりに自信のある出来だったが、講評の場で教官が最初に取り上げたのは、俺の解答ではなかった。
「この解答は面白いな。無詠唱を前提にした術式構成か」
教官が示したのは、少し離れた席に座る、灰色がかった髪の少年の答案だった。年齢は俺と同じくらいだろうか。特に目立つ容姿というわけでもなく、授業中もどこか気だるげにノートを取っているだけの、これといって印象に残らない生徒だった。
だが、その解答用紙に書かれている術式構成は、明らかに他の生徒とは一線を画していた。詠唱の省略を前提にした魔力制御の理論。それを実現するための、複数の補助術式の組み合わせ。理論として破綻していないどころか、実装できれば相当な出力効率を叩き出すはずの構成だった。
「……これを、独学で組んだのか」
俺は思わず、隣の席の生徒に小声で尋ねた。
「知らねえよ。あいつ、ルーデウスとかいったか。いつも一人でいるやつだ」
ルーデウス。
その名前を聞いた瞬間、なぜか妙に印象に残った。理由は自分でもよく分からなかった。ただの気のせいだと、そのときは思っていた。
その日の授業が終わった後、俺は珍しく自分から声をかけることにした。理由は単純だった。あの術式構成について直接本人に話を聞いてみたかった。
「なあ、さっきの無詠唱の術式なんだけど」
声をかけると、灰色髪の少年――ルーデウスは、少し億劫そうにこちらを見た。
「ああ、あれか。何か用か?」
「あの補助術式の部分、どうやって思いついたんだ? 詠唱の省略って、普通は魔力制御の精度が追いつかなくて破綻するはずなんだが」
俺の質問に、ルーデウスは一瞬だけ意外そうな顔をした。それから、面倒くさそうな態度を崩さないまま、しかし口調にはわずかに熱がこもった様子で答え始めた。
「魔力の流れを、一度体の外に出す前提で考え直したんだよ。詠唱ってのは、術式を組み立てるための補助でしかない。組み立ての手順さえ体に染み込ませられれば、口に出す必要はないはずだ」
「体に染み込ませるって、具体的には」
「反復練習だよ。地味な話だが、それ以外に方法はない」
その答えを聞いて、俺は思わず笑ってしまった。魔術も剣術も、結局は同じところに行き着くらしい。地味な反復。仕組みの理解。それを、何百回、何千回と体に叩き込む作業。
「なんだよ、笑うところか?」
「いや、悪い。俺も似たようなことばっかりやってきたから、妙に共感しただけだ」
ルーデウスは怪訝そうな顔をしていたが、それ以上は追及してこなかった。その日の会話は、それだけで終わった。特別に打ち解けたわけでもなければ、友情が芽生えたわけでもない。ただ、互いの中に少しだけ「気になる存在」としての印象が残っただけの、それだけの出来事だった。
それから俺とルーデウスは、たびたび授業や図書室で顔を合わせるようになった。
最初のうちは、互いに必要最低限の会話しか交わさなかった。課題の内容について意見を求められれば答え、逆に俺が疑問を投げかければ、ルーデウスもそれなりに丁寧に付き合ってくれる。だが、それ以上でも以下でもない、あくまで「同じ分野に関心を持つ生徒同士」の距離感だった。
その距離が少しずつ縮まり始めたのは、ある日図書室で偶然同じ結界術の文献を取り合いそうになったのがきっかけだった。
「お、それ俺も読みたかったんだけど」
「ああ、悪い。先に借りるつもりだったなら――」
「いや、いい。お前が先に見つけたんだろ。読み終わったら回してくれよ」
そんな他愛のないやり取りから、俺たちは自然と同じ机で作業をするようになった。互いの研究テーマについて意見を交わし、時には議論になり、時にはどちらかが黙り込んで自分のノートに向き合う。そんな時間が、少しずつ積み重なっていった。
あるとき、俺が組んでいた簡易領域の術式を見て、ルーデウスがぽつりと言った。
「この発想、悪くないな。ただ、感知の範囲を絞りすぎてる。もう少し冗長性を持たせた方が、実戦じゃ生き残りやすい」
「実戦、経験あるのか?」
「まあ、それなりに」
その言い方には、何か含みがあるように聞こえた。だが、その時点ではまだ俺はそれを深く聞き出すほどの間柄ではなかった。
半年ほど経った頃には、俺たちは「研究仲間」と呼べる程度の距離感になっていた。
互いの得意分野は、はっきりと違っていた。俺は結界術と剣術に裏打ちされた身体感覚を組み合わせた実践的な術式作りが得意で、ルーデウスは理論そのものの構築、特に魔力効率を極限まで突き詰める設計に長けていた。噛み合わない部分も多かったが、それ以上に、互いの視点が噛み合ったときの発見の面白さの方が勝った。
「お前、剣聖のくせに、なんでそんなに結界術に本気なんだよ」
ある日、雑談の流れでルーデウスにそう聞かれたことがある。
「剣一本で生きていくつもりはないからな。お前こそ、無詠唱にそこまでこだわる理由は?」
「……色々あるんだよ」
その答え方は、以前どこかで聞いたことのある響きだった。俺の父が、剣の聖地を離れた理由について言葉を濁したときと、よく似た口調だった。
この時点で、俺はまだルーデウスの過去についてほとんど何も知らなかった。彼が転生者であることも、日本という国の記憶を持っていることも、当然知らなかった。それを知るのは、もう少し先――俺たちの距離が、もう一段階縮まった後の話になる。
ただ、この頃にはもう俺の中で確かな実感があった。
この男とは、これから先長い付き合いになるかもしれない。
根拠のない直感だった。それでも、水一滴から始まった俺の旅の中で、そういう直感が的外れだったことは意外なほど少なかった。
フィットア領転移事件の調査を続ける中で、ルーデウスとフィッツは、召喚魔術との関連性に行き着いていた。
「転移も召喚も、根っこの部分は『場所と場所を無理やり繋げる』術式なんだと思う。だとしたら、召喚魔術に詳しい人間の意見も聞いておきたいね」
フィッツがそう言い出したのは、俺が二人の調査に結界術の視点から参加するようになって、しばらく経った頃だった。
「学内に詳しい人がいるんですか?」
ルーデウスの問いに、フィッツは頷いた。
「特別に在籍してる生徒がいるんだ。……色々事情があって、サイレント・セブンスターって呼ばれてる子なんだけど。召喚魔術絡みで、独自に研究を進めてるらしい」
「僕らも会いに行けますか?」
「多分。一度、話を通してみるよ」
数日後、フィッツから話がまとまったと聞かされた。
「レオン君も、良かったら一緒に来ないかな。結界術の視点、あった方がいいと思うし」
「構わない。俺で役に立つなら」
こうして俺たちは三人揃って、召喚術棟の一室へ向かうことになった。この時点での俺は、それが自分の人生において決して忘れられない一日になるとは、まだ知らなかった。
案内された部屋の扉を、ルーデウスがノックした。
「失礼します。フィッツ先輩から話を伺って参りました」
中から短い返事があり、俺たちは部屋に入った。
部屋の中央には、見慣れない意匠の魔法陣が床いっぱいに描かれていた。その傍らに一人の少女が立っていた。黒に近い色の髪。この国では珍しい顔立ち。腕を組み、こちらを一瞥する目には隠す気もない苛立ちが滲んでいた。
その姿を見た瞬間だった。
隣にいたルーデウスの様子が、明らかにおかしくなった。
最初は、俺も何が起きたのか分からなかった。ただ、視界の端で、ルーデウスの足が完全に止まったのが分かった。振り返ると、その顔から血の気が失せ、唇の色まで白くなっていた。
「……っ、あ――」
声にならない声。呼吸が、荒く、浅く乱れる。両膝が、目に見えて震えていた。まるで、この場に立っていることそのものが、限界に近いように。
「ルーデウス君!?」
フィッツが、悲鳴に近い声を上げて、崩れ落ちかけたルーデウスの体を支えた。
「ルーデウス君、しっかりして! どうしたの、急に……!」
ルーデウスは、フィッツに支えられながらも、視線だけはナナホシから離せずにいた。その目には、明らかな恐怖が浮かんでいた。俺が今まで一度も見たことのない、剥き出しの恐怖だった。
「オルステッド、が……胸を、貫かれ……」
譫言のように漏れる言葉。その断片だけで、俺には、これがただ事ではないと分かった。
俺は反射的に、部屋の出入り口の位置とナナホシとの距離を確認していた。もしこの少女が何らかの脅威なのだとしたら、フィッツとルーデウスを守れる位置に、自分がいなければならない。剣の柄に、無意識に手が伸びかけていた。
「あんた、こいつに何をした」
俺の低い声に、ナナホシは片眉を上げた。だが、その表情に浮かんでいたのは、動揺よりもむしろ得心したような色だった。
「……何もしてない。ただ、私を見て、勝手に思い出しただけでしょう」
その言葉に、フィッツの腕の中で、ルーデウスがびくりと震えた。
「あなた……オルステッドと一緒にいた人、ですよね」
ルーデウスが、掠れた声で、辛うじてそう絞り出した。ナナホシは、小さく頷いた。
「そう。……あんた、生きてたのね」
その一言は、単なる確認以上の重みを持っていた。ルーデウスは、フィッツの支えを借りながら、ようやく自分の足で立ち直った。何度か、意識的に深く呼吸を繰り返す。
「……すみません、少し、取り乱しました」
「少し、どころじゃなかったよ」
フィッツが、まだ心配そうにルーデウスの背中に手を添えたまま言った。その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「ナナホシよ。フィッツさんから話は聞いてる。召喚魔術に興味がある人たちだって」
ナナホシは、あくまで淡々とした調子でそう名乗った。感情の起伏をほとんど表に出さない、乾いた声だった。
「ルーデウスです」
「レオンだ」
「フィッツだよ。……ルーデウス君、本当に大丈夫?」
「大丈夫です。すみません、心配かけて」
ルーデウスはそう言ったが、その顔色はまだ完全には戻っていなかった。それでも、意志の力で自分を立て直そうとしているのが、俺の目にも見て取れた。
俺たちは、床の魔法陣を囲んでそれぞれの専門知識を持ち寄った。ルーデウスは陣そのものの理論構造を俺は結界術としての機能の観点から検討する。フィッツも、これまでの調査資料と照らし合わせながら、時折意見を挟んだ。
「この境界の処理、通常の召喚陣とは、魔力の流れ方が逆になってますね」
俺がそう指摘すると、ナナホシは小さく頷いた。
「そう。だから、余計に厄介なの」
作業を進めながらも俺は絶えず、ルーデウスの様子を気にかけていた。表面上は落ち着きを取り戻しているように見えたが、ナナホシの一挙一動にまだ敏感に反応する仕草が残っていた。
しばらくして、ナナホシが床の陣を睨みつけながら小さく舌打ちをした。
「……くだらない。こんな陣、まともに機能するはずない」
その言葉は、この世界の言語ではなかった。
瞬間、俺の中で何かが止まった。この世界に来てから今日まで、俺は一度も、日本語をそのまま話す人間に出会ったことがなかった。それが今、目の前で、当たり前のように口から漏れている。
隣を見ると、ルーデウスの表情が、再び強張っていた。先ほどの恐怖とは違う、信じられないものを聞いたような、凍りついた表情だった。
「……え、今の、何語?」
フィッツが、怪訝そうに首を傾げた。フィッツにとって、それはただの聞き覚えのない言語でしかなかった。だが、ルーデウスとナナホシの間には、明らかにその一言で通じ合った何かがあった。
そして、その空気の変化に、俺自身も飲み込まれていた。今の言葉。今の響き。俺はほとんど反射的に、ナナホシの方を見ていた。
その俺の反応を、今度はナナホシが見逃さなかった。
「……は? あんたまで?」
ナナホシの視線が、俺へ突き刺さる。ルーデウスも、驚愕したようにこちらを見ていた。
「レオンさんも、今の、分かったんですか」
「……ああ」
俺は、それだけを答えるのが精一杯だった。
「ちょっと、待って。何の話?」
フィッツが、完全に置き去りにされた声で割って入った。
「ルーデウス君も、レオン君も、今、何かに反応したよね。ナナホシさんが言った言葉に。……私には普通に知らない言語にしか聞こえなかったけど」
誰も、すぐには答えなかった。ナナホシは、俺とルーデウスを交互に見比べながら、何かを測るように黙り込んでいた。
「日本語よ」
やがて、ナナホシがそう言った。感情を抑えた、それでいてどこか苛立ちの滲む声だった。
「私の生まれた国の言葉。この世界に来てから、誰にも通じたことがなかった」
「日本語……」
フィッツが、その単語を繰り返した。だが、その単語自体、フィッツにとっては何の意味も持たない音でしかない。
「フィッツさんには悪いけど、この先の話はちょっと込み入ってる」
ナナホシがそう言うと、フィッツの表情に、微かな戸惑いが浮かんだ。それは単に話についていけないことへの困惑だけではなく、もっと別の――長く隣にいたはずのルーデウスの中に自分の知らない何かが存在することへの、静かな不安のようにも見えた。
「……あなたも、こっちで生まれ育った人間なんですね」
ルーデウスが、ようやく落ち着いた声で、ナナホシへそう確認した。
「いいえ。私は、こっちに来る前まで、普通に日本で生きてた。魔法陣に巻き込まれて、体ごとこっちへ引きずり込まれたの」
ナナホシの説明に、ルーデウスは小さく頷いた。
「僕は、違います。日本で一度死んで、こっちで赤ん坊として生まれ直しました」
その言葉を、ルーデウスは俺の前で、初めて口にした。
「……転生、ってこと?」
「そう呼ぶんでしょうね、多分」
ナナホシは、しばらく考え込むように黙っていた。
「転移と、転生。……全然違う現象ってことね」
そう言った後、ナナホシの視線が、再び俺へ向いた。
「あんたは?」
俺は、すぐには答えられなかった。ルーデウスが、今まさに自分の秘密を明かしたばかりだった。だが、俺はまだ、その同じ場所に踏み出す準備ができていなかった。
「……今は、まだ言えない」
その答えに、ナナホシは特に追及することなく、小さく肩をすくめた。
「別にいい。無理に聞き出すつもりはない」
「私の目的は、元の世界に帰ること。それだけ」
ナナホシは、話を本題へ戻すように続けた。
「この世界には、私には魔力がない。だから、召喚や転移の理論を独力で研究するには、限界がある。実験には、大量の魔力が必要になる」
「僕に、その魔力を提供しろと?」
ルーデウスの問いに、ナナホシは頷いた。
「その代わり、私が持ってる召喚・転移理論の知識は共有する。フィットア領の一件についても、多分、役に立つ情報がある」
その一言に、フィッツの肩がぴくりと動いた。
「フィットア領のこと、何か知ってるの?」
「知ってる、っていうか……」
ナナホシは、少し言葉を選ぶような間を置いた。
「時期的に、私がこの世界へ召喚された時期と、その転移事件が起きた時期が近いのよね。多分だけど、私を呼び出そうとした魔法陣の余波が、その事件を引き起こした可能性がある」
部屋の空気が、一変した。
「……何、それ」
フィッツの声が、明らかに変わっていた。これまでの、穏やかで面倒見のいい先輩の声ではなかった。
「あんたが、原因ってこと?」
「私が意図してやったわけじゃない。私も、勝手にこっちへ連れてこられた被害者の一人よ。でも、可能性としては――」
ナナホシの言葉が終わるより早く、フィッツの体が動いていた。
「フィッツ先輩!」
俺が叫ぶのと、フィッツがナナホシへ向けて手をかざすのは、ほぼ同時だった。
「私の故郷を――家族を奪ったのが、あんたのせいだって言うの!?」
フィッツの手から放たれかけた魔術は、しかしナナホシの指にはめられた指輪が淡く光った瞬間、何の効果も発揮せずにかき消えた。
「魔術は効かない。無駄」
ナナホシの声は、あくまで冷静だった。だが、その冷静さが、逆にフィッツの怒りに油を注いだ。
「だったら――!」
フィッツは、魔術を捨て、素手でナナホシへ掴みかかろうとした。俺は反射的に体を動かしたが、間に合わなかった。フィッツの手は、ナナホシの体に届く寸前で見えない壁のようなものに阻まれ、弾かれた。
「防御用の魔道具。……悪いけど、そう簡単に触れさせない」
「フィッツ先輩、落ち着いてください!」
ルーデウスが、後ろからフィッツの体を抱きとめるように押さえ込んだ。俺も、フィッツとナナホシの間に体を割り込ませ、これ以上の接触を防ぐ位置に立った。
「離して、ルーデウス君! あの女は――」
「彼女も、被害者なんです」
ルーデウスの声は、静かだったが、はっきりとした強さを持っていた。
「彼女だって、好きでこの世界に来たわけじゃない。今の話も、あくまで可能性の話です。彼女自身が、意図して事件を起こしたわけじゃない」
「でも、家族が――」
「分かってます。分かってますけど、フィッツ先輩がここで彼女を傷つけても、失ったものは戻らない」
その言葉に、フィッツの体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。ルーデウスの腕の中で、フィッツは肩を震わせながら、しばらく荒い呼吸を繰り返していた。
「……ごめん」
やがて、フィッツが小さく呟いた。
「取り乱した。ちょっと、頭に血が上っただけ。もう、大丈夫」
俺は、フィッツから半歩だけ距離を取った。だが、油断なくナナホシとの間の空間には意識を残したままだった。
ナナホシは、フィッツの様子を見つめたまましばらく無言だった。
「……言い方が、悪かった」
やがて、そう漏らした。感情のこもらない声だったが、その一言には、確かな譲歩の色があった。
「私も、好きでこっちに来たわけじゃない。でも、それをあんたの事情も知らずに軽く言ったのは、確かに配慮が足りなかった」
それ以上の謝罪の言葉はなかった。ナナホシらしいと言えば、ナナホシらしい態度だった。フィッツは、しばらく俯いたまま黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もういい。私も、頭に血が上りすぎた」
その場に、重い沈黙が落ちた。だが、それは先ほどまでの爆発寸前の緊張とは、少し質の違う沈黙だった。
「魔力の提供と、情報の共有。その話、進めても?」
ルーデウスが、努めて事務的な口調で、話を本題へ戻した。ナナホシは頷いた。
「ええ。……こっちこそ、よろしく」
こうして、ルーデウスとナナホシの間に、この日一つの協力関係が成立した。
召喚術棟を出た後、俺たちは三人で、無言のまま並んで歩いた。
しばらくして、フィッツが口を開いた。
「……ルーデウス君。ナナホシさんのこと、本当に、信用していいと思う?」
「分かりません。ただ、彼女も被害者だっていうのは、多分本当だと思います」
ルーデウスの声は、まだどこか硬さを残していた。フィッツは、それ以上追及せず、小さく頷いた。
「そう。……ルーデウス君がそう言うなら、信じる」
その言葉には、単なる同意以上の、深い信頼が滲んでいた。それと同時に、俺には、フィッツの中にまだ何か言い切れていない不安が残っているようにも見えた。ナナホシとルーデウスの間にある、自分には踏み込めない何か――その存在を、フィッツはもうはっきりと意識してしまっていた。
俺自身の中にも、聞きたいことが山ほどあった。
ルーデウスが日本語を理解する理由。転生したという、その経緯。そして何より、俺自身がなぜ同じ言葉を理解できるのか。
だが、フィッツがいる今、それを口にすることはできなかった。踏み込めば、俺自身の秘密にも触れざるを得なくなる。
ちらりと隣を見ると、ルーデウスもまた、俺に何かを聞きたそうな目をしていた。だが、彼もまた、フィッツの前でそれを切り出すことはなかった。
互いに、相手も自分と同じ何かを抱えていると、もう疑いようもなく分かっていた。それでも、その日、俺たちはそれ以上言葉を交わさなかった。
三人の間に、それぞれ違う種類の距離が、静かに生まれていた。