ナナホシとの一件から数日、大学の日常は、何事もなかったかのように続いていた。
授業に出て、課題をこなし、図書室でルーデウスと机を並べる。その表面上の変わらなさが、俺にはむしろ奇妙に感じられた。あの日、部屋の中に生まれたはずの緊張がまるで最初から存在しなかったかのように日々の中へ溶けていく。
もっとも、完全に何もなかったわけではなかった。
「レオンさん、この術式なんですけど」
ある日、いつも通り結界術の課題について話していたとき、ふと会話の流れで俺は何気なく口にした。
「これ、前世の記憶にあった術式のイメージに近いんだよな」
その一言を口にした瞬間、ルーデウスの手が、ほんの一瞬だけ止まった。俺自身も、言ってしまってから、しまったと思った。互いに、その言葉に触れかけて、それでも触れずに終わる――そんな一瞬がこれまでにも何度かあった。
「……それは、面白いですね」
ルーデウスは、努めて平静な声でそう返した。だが、その先の会話は、いつもよりほんの少しだけぎこちなかった。
聞きたい。だが、聞けば自分も答えなければならなくなる。その均衡は、まだ崩れていなかった。
「レオンさん、今日、時間あります? 紹介したい人がいるんですが」
そう声をかけられたのは、それから数日後のことだった。
「構わないけど、誰だ」
「ザノバっていうんです。……まあ、会えば分かります」
案内されたのは、大学の敷地の隅にある、小さな工房のような建物だった。扉を開けると、そこには、木材と彫刻刀の匂いが立ち込めていた。
「師匠! いらしたのですね!」
その声と同時に、部屋の奥から巨躯の男が飛び出してきた。ルーデウスよりも頭一つ以上大きい体格。それでいて、その顔には、どこか幼さの残る朗らかさがあった。
「ザノバ、今日は僕の友人を紹介しに来たんだ。レオンさん、こちらザノバ」
「ザノバ・シーローンと申します。師匠のご友人ということは、あなたも優れた御方なのでしょうね」
その物言いはやけに丁寧で、それでいて熱がこもっていた。俺は思わず面食らいながら、名乗り返した。
「レオンだ。よろしく」
「レオン殿。……おお、その腰の剣、なかなかの業物とお見受けします」
ザノバの視線が、俺の腰の剣に釘付けになった。目の色が、それまでとは明らかに違う輝きを帯びている。
「これは、剣そのものよりも、鞘の意匠に目が行きますね。この文様、ただの装飾ではないでしょう?」
ザノバは、俺の返事も待たずに、鞘の細部を覗き込むようにして続けた。
「よく分かったな。結界術式を鞘に彫り込んである。抜刀の瞬間、術式が起動して、初速を底上げする仕掛けだ」
「なんと……! 抜刀術と結界術を組み合わせるとは! この彫り込みの深さ、どうやってこの精度を出しているのですか。魔力を通した際の熱で木材が歪みそうなものですが」
俺は正直、その食いつきの速さに驚いた。
「魔力を通す前に、特殊な処理をした木材を使ってる。彫り込む工程も――」
俺が説明を始めると、ザノバは食い入るように話を聞き始めた。完成した剣そのものの見た目や強さより、それがどうやって作られたのか、その工程と精度にこそ彼の関心は向いているようだった。
「素晴らしい……! 余にはできない技術です。彫刻や造形の腕には多少の自負がありますが、こういった機能を仕込む緻密さは、まったく別の才能ですね」
「ザノバは、人形作りが専門なんです」
ルーデウスがそう補足すると、ザノバは大きく頷いた。
「はい! 余の人生における最大の情熱は人形にあります。この世にこれほど美しく、これほど奥深いものは他にありません」
その語り口はそれまでの落ち着いた話し方から一転、明らかに熱量が跳ね上がっていた。俺は思わず、その温度差に苦笑した。
工房の奥へ案内されると、そこには、精巧な人形がいくつも並んでいた。木製のもの、粘土で作られたもの、中には関節が可動する仕組みを持ったものまである。
「これは、まだ試作の段階なのですが」
ザノバはその中の一体を手に取り、慎重な手つきで見せてくれた。指先の関節まで細かく作り込まれた、驚くほど精巧な造形だった。
「すごいな、これ」
「ありがとうございます。……ですが、正直に申し上げると余はこの繊細な作業があまり得意ではないのです」
「得意じゃない? これだけの物を作っといて?」
「時間をかければなんとか。ですが、本当に得意な者に比べれば私の手つきは粗い方です。……その代わり」
ザノバはそう言うと、工房の隅に置かれていた石材を、片手であっさりと持ち上げてみせた。人一人分はありそうな大きさの石材が、まるで木の板であるかのように軽々と持ち上がる。
「力仕事なら、誰にも負けない自信があります」
その落差に、俺は思わず噴き出しそうになった。緻密な人形作りに情熱を注ぐ男が、同時に片手で岩を持ち上げるほどの怪力の持ち主だという事実は、なんとも言えない可笑しさがあった。
「お前、面白いやつだな」
「よく言われます」
ザノバは、特に気を悪くした様子もなく、むしろ誇らしげにそう答えた。
ザノバの工房を出た後、ルーデウスは俺をもう一箇所、連れて行った。
「もう一人、紹介したい人がいるんですが。……ただ、ちょっと気難しいところがあるので、先に言っておきます」
「気難しい?」
「まあ、会えば分かりますよ」
案内された先は、魔術理論の研究室の一角だった。そこには、白いローブに身を包んだ、線の細い青年がいた。本から顔を上げると、値踏みするような視線を俺へ向けてくる。
「……誰だ、こいつは」
「レオンさんです。僕の研究仲間で。こちらはクリフ、優秀な魔術師です」
クリフと紹介されたその青年は、鼻を鳴らすように小さく笑った。
「ルーデウスの研究仲間ね。……結界術の方だったか。噂は聞いてる」
「そうか」
「別に大した噂じゃない。独学にしちゃ面白い発想をする、って程度だ。理論の基礎は、正直、まだまだ甘い部分が多いらしいな」
その物言いは、明らかに人を見下したものだった。だが、俺はそれほど気にならなかった。実際、俺の結界術の理論が体系立てて学んできた者たちに比べて粗削りなのは、これまで何度も指摘されてきたことだった。
「そうかもな。だったら、お前ならどう組む」
「僕なら、もっと効率的にできる。効率って言葉の意味、分かってるか?」
「じゃあやってみればいい」
俺がそう返すと、クリフは一瞬、意外そうな顔をした。反発してくると思っていたのだろう。
「……いいだろう。少し見せてやる」
クリフは自分の作業机の上に紙を広げると、俺が組んだ簡易領域の術式構成を参考に素早く別の構成を書き上げていった。その手つきには、迷いがなかった。
出来上がった術式を見て、俺は素直に感心した。俺が数ヶ月かけて磨いてきた構成の効率的な部分を、この男はほんの数分で、ほぼ同等の水準まで再構築していた。
「……悪くないな」
「当然だ」
クリフは、鼻を鳴らしながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。それから、俺の方をもう一度、値踏みするように見た。
「……なるほど。少なくとも、口だけで結界術を専攻してるわけじゃないらしいな」
その一言には、先ほどまでの見下すような響きはなかった。むしろ、実際に手を動かして結果を見せる相手には、それなりの評価を与える――そういう性質の男らしかった。
「お前、口は悪いが、実力は本物みたいだな」
「当たり前だ。僕を誰だと思ってる」
その返しに、俺は思わず笑った。嫌味に感じるかと思いきや、不思議と嫌な気分にはならなかった。少なくとも、この男の自信には、それを裏付けるだけの中身があるらしい。
その日の帰り道ルーデウスが、少し安堵したような顔で言った。
「クリフとも、うまくやれそうで良かったです。あいつ初対面だと結構当たりが強いので」
「まあ、悪いやつじゃなさそうだ。少なくとも、口だけの人間じゃない」
「ザノバも随分気に入ってましたね。レオンさんの結界術式に」
「あいつも、変わったやつだな。あの怪力と、あの繊細さのギャップは、正直笑いそうになった」
ルーデウスは、小さく声を立てて笑った。
「ザノバは、僕にとって……大事な仲間です。人形のことになると周りが見えなくなるところもありますけど」
その言葉には、単なる知人以上の親しみが滲んでいた。ルーデウスにとって、ザノバもクリフも俺と出会うずっと前から積み重ねてきた大切な人間関係の一部なのだと改めて実感した。
俺は自分がその輪の中に少しずつ、しかし確かに加わりつつあることを感じていた。ナナホシとの一件で生まれたまだ言葉にならない緊張とは、また別の種類の繋がりが静かに育ち始めていた。
「今度、また工房に顔出してみるよ。あの人形、もう少し見てみたい」
「ザノバ、きっと喜びますよ」
その日は、それ以上、互いの秘密に触れる話題は出なかった。ただ、いつもの帰り道が少しだけ賑やかな話題で埋まっていたことが、俺にはなんとなく心地よく感じられた。