ザノバとクリフとの付き合いが日常に馴染み始めた頃、大学生活はいつしか慌ただしくも穏やかな時間の積み重ねになっていた。
授業。研究。ナナホシの実験の補助――あの一件以来、俺たちは月に何度か召喚術棟の一室に通うようになっていた。ナナホシの態度は相変わらず素っ気なかったが、それでも顔を合わせる回数を重ねるうちに最低限の軽口くらいは交わせる間柄にはなっていた。
「今日はここまで。また次、魔力借りるから」
「ああ、また声かけてくれ」
その程度のやり取りが、俺たちの間の、今のところの標準的な距離感だった。
そんなある日、ルーデウスが少し照れくさそうな顔で俺に切り出した。
「レオンさん、実は、家を買おうと思ってるんです」
「家?」
「はい。……その、結婚することになりまして」
俺は思わず、目を丸くした。
「結婚? 相手は」
「フィッツ先輩――いえ、正確には、シルフィという名前なんですが」
その言葉に、俺は一瞬、理解が追いつかなかった。
「フィッツ先輩が、シルフィ?」
「はい。色々事情があって、男装して男子生徒として学園にいるんです。実は、僕の幼馴染で」
ルーデウスは、そう言うと、簡単にその経緯を話してくれた。幼い頃に生き別れた幼馴染。長い年月を経て、互いに気づかないまま再会していたこと。そして、ある出来事をきっかけに、その正体が明らかになったこと。
「随分と、劇的な話だな」
「僕にとっても、まだちょっと現実感がないくらいです」
その照れくさそうな笑顔には、これまで見たことのない種類の幸福が滲んでいた。
「それで、家を探してるんですが……レオンさん、もしよければ一緒に見てもらえませんか。結界術の観点から、安全面の意見が欲しくて」
「別に構わないけど、俺でいいのか」
「レオンさんの意見なら、信頼できますから」
そういうわけで、俺はルーデウスの新居探しに少しだけ付き合うことになった。何軒か候補の家を回り、俺は結界術士としての目線からそれぞれの家の立地や構造を検討した。
「この家、裏手が森に面してるのが少し気になるな。魔物が出る地域なら、簡易領域を仕込んでおいた方がいい」
「やっぱりそう思いますか」
「まあ、俺にできることなら術式の設置くらいは手伝うよ」
最終的に決まった家は、街の外れにある、こぢんまりとした一軒家だった。引っ越しの日、俺はザノバやクリフと一緒に、荷物運びを手伝いに駆り出された。
「師匠の新居のためとあらば、この程度の力仕事、造作もありません」
ザノバはそう言うと、俺一人ではとても運べないような大きな家具を、事もなげに担ぎ上げていった。
「お前がいると随分楽だな」
「光栄です」
「僕は力仕事は専門外だ。代わりに、家全体の魔力効率を計算してやろう」
クリフはそう言って家の間取り図を睨みながら、魔道具の配置について細かい指示を出し始めた。それぞれが、それぞれの得意分野で、この一日を支えていた。
引っ越しが一段落した後、俺は依頼通り、家の周囲に簡易な結界術式を仕込む作業に取り掛かった。
「この辺りに、感知の術式を埋め込んでおく。夜中に魔物が近づいたら、家の中に知らせが届くようにする」
「助かります。……本当に、色々ありがとうございます」
「別に、大したことじゃない。それより」
俺は、作業の手を止めずに続けた。
「フィッツ――シルフィだったか。改めて紹介してくれ。挨拶もまだだしな」
「はい、もちろん」
その日の夕方、俺は改めて、シルフィと顔を合わせることになった。学園で見慣れた白髪とサングラス姿ではなく、素顔の彼女は、想像していたよりもずっと柔らかい雰囲気をしていた。
「改めまして、シルフィです。……なんだか、変な感じだね。フィッツとして、もう何度も会ってるのに」
「レオンだ。改めてよろしく」
「ルディのこと、これからもよろしくね」
その笑顔には、これまでフィッツとして接してきたときとはまた違う種類の親しみやすさがあった。俺は素直に、この二人の再会と、これから始まる新しい生活を祝福したいと思った。
結婚式は、それほど大掛かりなものではなかった。新居に、親しい人間だけを招いた、ささやかな集まりだった。
「おめでとうございます、師匠! これほど喜ばしいことはありません!」
ザノバは、いつも以上に興奮した様子で、ルーデウスの肩を思い切り叩いた。その勢いに、ルーデウスが軽くよろけるのを見て、俺は思わず笑ってしまった。
「クリフ、お前も来てたのか」
「当然だろう。……エリナリーゼ、こっちだ」
クリフの隣には、見覚えのない美しい女性が立っていた。
「エリナリーゼだ。クリフの婚約者、というやつだな」
クリフがそう紹介すると、エリナリーゼは俺に艶やかな笑みを向けた。
「あら、あなたがレオン君? クリフから聞いてるわ。結界術の腕がすごいって」
「クリフが、俺のことをそう言ってたのか」
俺が驚いてクリフを見ると、クリフは少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「事実を言っただけだ、勘違いするな」
その反応に、俺はまた笑いを堪えられなかった。口では素っ気ないことを言いながら、しっかりと他人を評価しているところが、この男らしいと思った。
式の途中、ルーデウスと二人きりになる瞬間があった。
「今日は、本当にありがとうございました」
「礼を言われるほどのことはしてない。祝いの席に呼んでもらえただけで十分だ」
俺たちはしばらく無言で、庭先の賑わいを眺めていた。ザノバの豪快な笑い声。クリフとエリナリーゼの睦まじいやり取り。シルフィの、屈託のない笑顔。
「……レオンさんは」
ふいに、ルーデウスが口を開いた。
「いつか、こういう相手が見つかるといいですね」
「まあ、いつかな」
その一言のやり取りの中に、それ以上の意味は込められていなかった。だが、ほんの一瞬、俺たちの間にいつもの、あの触れられない話題の気配が漂った気がした。互いの前世について。日本という国について。それでも、今日という日にそれを持ち出すつもりは、俺にもルーデウスにもなかった。
「今日くらいは、余計なことは考えるな。お前の結婚式だぞ」
「……そうですね」
ルーデウスは、小さく笑って頷いた。それ以上、その話題に触れることはなかった。
新しい生活が始まってからも、俺たちの日常は大きくは変わらなかった。
授業。研究。ナナホシの実験の補助。そこに、時折ルーデウスの新居に顔を出す時間が加わった。シルフィの手料理を振る舞われたり、ザノバが持ち込んだ新しい人形の試作品を見せられたり、クリフとエリナリーゼを交えて他愛のない話をしたり。
俺は、いつの間にかその輪の中に自然な形で加わっている自分に気づいていた。
ナナホシとの一件で生まれた、まだ言葉にならない緊張は、依然としてルーデウスとの間に横たわったままだった。だが、それは決して、この日々の穏やかさを損なうものではなかった。
聞きたいことは、まだ聞けないままだった。それでも、隣で同じ食卓を囲み、同じ研究に取り組み、同じ祝いの席で笑い合える。今はまだ、それで十分だった。
いずれ、その均衡が崩れる日が来ることを、俺はまだ知らなかった。それは、この穏やかな日々の、もう少し先の話になる。
その日の実験は、これまでとは規模が違った。
ナナホシが数ヶ月かけて積み上げてきた理論の集大成――召喚陣を逆向きに起動させ、この世界と日本とを繋ぐ座標を、一時的にでも確立させるための試みだった。
「今日で、ある程度の答えが出る」
準備を整えながら、ナナホシはいつもの淡々とした調子でそう言った。だが、その手つきには、これまでにない緊張が滲んでいた。
俺とルーデウスは、大量の魔力を陣へ注ぎ込む役割を担っていた。数週間かけて準備してきた術式構成。ナナホシが独自に組み上げた理論。それらすべてが、この一度の試行に懸けられていた。
「魔力、流します」
「ああ」
俺たちは、それぞれの魔力を、陣へ向けて注ぎ始めた。床の魔法陣が、淡い光を帯びて浮かび上がる。空気が、ぴりぴりと張り詰める。これまでの、どの実験よりも大きな魔力の奔流が、部屋の中を満たしていく。
だが、ある瞬間を境に、光は急速に萎んでいった。まるで、燃え尽きた蝋燭の炎のように。陣に刻まれた術式の光が、一つ、また一つと消えていく。最後に残った中心の光も、やがて完全に消え失せた。
「……失敗ね」
ナナホシの声は、驚くほど平坦だった。
俺はその声に、むしろ違和感を覚えた。数ヶ月分の準備が水泡に帰したはずなのに、その反応は、あまりに淡々としていた。
「今日はもういい。帰って」
「ナナホシ、無理しなくても」
ルーデウスがそう声をかけたが、ナナホシは振り返らなかった。ただ、崩れた魔法陣の残骸を、じっと見つめたままだった。
「大丈夫。ただの失敗。よくあること」
その言葉とは裏腹に、床にしゃがみ込んだナナホシの手は、微かに震えていた。俺は、それに気づいた。同じ計算式を、何度も何度も、指でなぞっている。声のトーンは変わらないのに、その仕草だけが、明らかに何かの限界を訴えていた。
「……今日は、帰った方がいい」
ルーデウスが、俺にそっと囁いた。俺も頷いた。今、ここで何を言っても、届かない気がした。何か言葉をかけるより、時間を置く方がいい――そう判断して、俺たちはその場を後にした。
研究棟の廊下を歩き始めて、まだいくらも経たないうちだった。
背後から、絶叫が響いた。
「――っ!?」
俺とルーデウスは、同時に足を止め、顔を見合わせた。それから、弾かれたように、来た道を駆け戻った。
扉を開けると、そこには、先ほどまでの平静さが嘘のような光景が広がっていた。
床に散らばった資料。壁に叩きつけられた計算用の紙束。ナナホシは、魔法陣の残骸を両手で掻きむしるようにしながら、叫んでいた。
「なんで、なんで、なんでっ……!」
声は、涙で崩れていた。
「もう何年、こんなことやってると思ってるの! 何年も、何年もっ……! それでも、一歩も進んでない! ずっと、こんな場所に閉じ込められて――!」
ナナホシは、傍らにあった器具を、壁に向かって投げつけた。硝子の割れる音が、部屋に響いた。
「帰りたいだけなのに! それだけなのに、なんで……!」
その姿は、俺がこれまで知っていた冷静で合理的なナナホシとはまるで別人だった。長い間押し殺し続けてきた感情が、今、堰を切ったように溢れ出していた。
「ナナホシ」
ルーデウスが、努めて落ち着いた声で、部屋の中へ足を踏み入れた。ナナホシは、こちらを睨みつけるように顔を上げたが、その目には焦点がほとんど合っていなかった。
「もう、嫌だ……もう、無理……」
その言葉を最後に、ナナホシの体から、急速に力が抜けていった。俺は、崩れ落ちかけたその体を、慌てて支えた。
「……レオンさん、家に連れて帰りましょう。今のナナホシを、一人にはしておけません」
ルーデウスの判断は早かった。俺たちは、ぐったりとしたナナホシを支えながら、ルーデウスの家へと向かった。
「シルフィ、ただいま――ナナホシが」
玄関先で出迎えたシルフィは、俺たちの様子を見て、すぐに事情を察したようだった。
「分かった。奥の部屋、使って」
シルフィはてきぱきとした動きで客間の寝台を整え、ナナホシをそこへ横たえた。軽く容態を確認し、疲労で乱れていた魔力の巡りに、簡単な治癒魔術をかける。
「今夜は、ここで休ませよう。……レオン君も、今日は大変だったね」
「いや、俺は大したことしてない」
シルフィはそれ以上多くを聞かず、ただ静かにナナホシの寝顔を見守っていた。
それから数日、ナナホシは、ルーデウスの家で「強制的な療養」の日々を送ることになった。
最初の一日、二日は、ほとんど言葉を発しなかった。ベッドの上で、ぼんやりと窓の外を眺めているか、食事もほとんど手をつけずに済ませてしまう。
「研究に、戻らないと」
三日目、ナナホシがそう言って起き上がろうとしたとき、シルフィがそれを止めた。
「今日はまだ駄目。もう少し休んで」
「でも」
「無理して倒れたら、余計に時間がかかるよ」
その言葉に、ナナホシは渋々といった様子で、また横になった。だが、その目にはまだ深い疲労と、それ以上に消えない絶望の色が残っていた。
「……私、本当に帰れるのかな」
ある夜、ぽつりと漏らされたその一言を、俺はたまたま様子を見に来た際に耳にした。誰に向けた言葉でもない、独り言のような呟きだった。俺は、それに何と答えればいいか分からず、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。
ナナホシが療養している間、俺は何度か研究資料の整理を手伝うために、ルーデウスの家へ通った。
ある日、ルーデウスが崩れた魔法陣の設計図を前に難しい顔をしていた。
「この構造、根本的に無理があったのかもしれません。一枚の陣に、必要な機能を全部詰め込もうとしすぎてる」
「情報量が多すぎて、術式同士が干渉してるってことか」
「多分、そうです。……ザノバとクリフにも、一度見てもらいたいですね」
数日後、俺たちはザノバの工房に、崩れた魔法陣の設計図を持ち込んだ。
「なるほど……これは、確かに複雑ですね」
ザノバは、設計図を丁寧に眺めながら、しばらく考え込んでいた。それから、ふと工房の隅に置かれた、試作中の自動人形へ視線を向けた。
「師匠、この人形の内部構造をご覧ください」
ザノバが示したのは、関節部分にいくつもの小さな歯車と術式盤が幾重にも重なるように組み込まれた人形だった。
「一枚の板に全ての機構を詰め込もうとすると、どうしても無理が生じます。ですが、機能ごとに層を分けて重ねて配置すれば……それぞれの機構が互いに干渉せず動くのです」
「層を、分ける……」
ルーデウスが、はっとしたように顔を上げた。
「魔法陣も、同じ考え方ができるかもしれません。一枚に全部詰め込むんじゃなくて、機能ごとに複数の陣に分けて、それを重ねる」
「面白いな。ザノバ、それ、理屈としてはどうなんだ」
俺がそう尋ねると、ザノバは少し困ったような顔をした。
「申し訳ありません、理論的な部分は、余の専門ではないので……。クリフに聞いた方が早いかと」
その足で、俺たちはクリフの研究室へ向かった。事情を説明すると、クリフは設計図とザノバの人形の構造を交互に見比べながら、しばらく黙り込んだ。
「……なるほどな。理論上は、成立する可能性がある」
クリフはそう言うと、紙に素早く数式を書き始めた。
「各層を独立させて、それぞれの術式が干渉しないように隔離する。その上で、層同士を接続する経路だけを、慎重に作る。……問題は、その隔離と接続の部分だ」
「それなら、俺の分野だな」
俺は、これまでの結界術の知識を頭の中で整理しながら言った。
「結界術は、元々『内と外を区別する』術式だ。各層を隔離するための境界を作って、必要な経路だけを開通させる――やったことのない規模だが、理屈は分かる」
「見せる価値、あると思う」
ルーデウスが、そう提案したのは、それから数日後のことだった。ザノバ、クリフ、俺の三人でまとめた新しい構造案をナナホシに見せようという話だった。
「まだ本調子じゃないかもしれないけど……このままだと、彼女自身も前に進めない」
俺たちは、療養中のナナホシの部屋を訪れ、まとめた図面を差し出した。
最初、ナナホシの目は、その図面の上を虚ろに滑るだけだった。だが、しばらくして、その視線が一点で止まった。
「……これ」
ナナホシは、体を起こし、図面を手に取った。
「層を分けて、重ねる……」
その声には、これまでの数日間になかった、確かな熱が戻り始めていた。ナナホシは、傍らにあった紙を引き寄せ、震える手で計算式を書き始めた。
「……これなら、いける、かもしれない」
その呟きに、俺たちは互いに顔を見合わせた。ようやく、彼女の中の研究者としての部分が、少しずつ動き出していた。
それから数日間、俺たちはナナホシを中心に、新しい多重構造の魔法陣の設計に取り掛かった。
ザノバが、層の物理的な配置についての着想を出す。クリフが、その着想を理論として組み上げる。ナナホシが、召喚術式そのものの設計を担う。ルーデウスが、莫大な魔力を安定して供給するための調整を行う。そして俺が、各層を隔離し、必要な経路だけを繋ぐための結界術式を組み込む。
「この経路、もう少し絞った方がいい。魔力の逆流を防げる」
「そこは任せる。……レオン、この隔離膜、もう少し薄くできない? 魔力効率が落ちすぎてる」
「やってみる」
誰か一人の力で進んでいるわけではなかった。それぞれの得意分野が噛み合って、少しずつ、形になっていく。その過程は、決して平坦ではなかった。何度も試作しては失敗し、設計をやり直す。それでも、その一つ一つの積み重ねの中に、確かな手応えが宿っていた。
ある夜、作業が一段落した後、ルーデウスの家の居間で俺とルーデウス、そしてナナホシの三人だけが残っていたことがあった。
「……あんたたちは、いいよね」
ナナホシが、ぽつりと漏らした。
「こっちに、居場所がある。家族がいて、友達がいて。私はずっと、それが羨ましかった」
その言葉には、非難する響きはなかった。ただ、静かな、拭いきれない孤独が滲んでいた。
俺は、しばらく迷った。この言葉に、何を返すべきか。ただの慰めでは、意味がないことは分かっていた。
「……ナナホシ」
俺は、静かに口を開いた。
「俺も、日本にいた」
ナナホシが、驚いたように顔を上げた。ルーデウスも、息を呑む気配があった。
「一度、死んだ。それでこの世界で、赤ん坊として生まれ直した」
それ以上、俺は語らなかった。前世の名前も、家族のことも、まだ話す準備はできていなかった。だが、この事実だけは、確かに伝えるべきだと思った。
「だから、お前の言う『居場所がある側』にも、実は日本を知ってる人間がいる。それだけは、覚えといてくれ」
「……やっぱり、そうだったんですね」
ルーデウスが、静かにそう呟いた。責めるような響きはなく、むしろ長く抱えていた疑問に、ようやく答えが出たような、そんな声だった。
「悪い、ずっと黙ってた」
「いえ……僕も、同じですから」
ナナホシは、しばらくの間、俺の顔をじっと見つめていた。
「……道理で」
それだけ言うと、彼女は小さく息を吐いた。それ以上深く追及してくることはなかった。
「別に、これで何かが解決するわけじゃない」
「ああ、分かってる」
「それでも」
ナナホシは、窓の外へ視線を移した。
「一人じゃないってことは、多分、意味がある」
その言葉は、以前と同じだったが、その声の響きには、あの日よりも少しだけ確かな芯があるように聞こえた。
その夜、俺たちはそれ以上、前世について語り合うことはなかった。互いに転生者であるという事実だけを共有し、それぞれがどんな人生を歩んできたのかは、まだ言葉にされないままだった。それでいい、と俺は思った。全部を急いで明かす必要はない。
多重構造の魔法陣が完成に近づいたのは、それから半月ほど後のことだった。
再実験の日、研究室には、これまでの誰よりも多くの人間が集まっていた。ナナホシ、ルーデウス、俺、ザノバ、クリフ。それぞれが、自分の持ち場についた。
「魔力、流します」
ルーデウスの声に、俺も自分の担当する隔離層へ意識を集中させた。層と層の境界が、俺の結界術式によって静かに、しかし確実に安定していく。
床に描かれた、幾重にも重なる魔法陣が、淡い光を帯び始めた。最初の一層。その上に重なる、次の層。さらにその上――光が、幾重にも積み重なるように輝いていく。
「……いける」
クリフが、緊張した声で呟いた。ザノバは、固唾を呑んでその光景を見守っていた。
光は、以前の実験のときと同じように一度大きく揺らいだ。
また、失敗するのではないか。その予感が、部屋の中を一瞬、重く支配した。
だが、光は消えなかった。
揺らぎを乗り越え、幾重にも重なった陣の光が、一つの巨大な術式として安定した輝きを取り戻していく。中心に小さな渦のようなものが生まれ、それが少しずつ広がっていった。
そして、渦の中心から見慣れない意匠の、小さな物体が現れた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
「……成功、した?」
ナナホシが、掠れた声でそう呟いた。彼女は震える手で、その物体を手に取った。何度も、何度も、それを確かめるように見つめる。
「……本物」
その一言を最後に、ナナホシの表情が大きく崩れた。
これまで、俺が一度も見たことのなかった顔だった。子供のように、くしゃくしゃに顔を歪め、それでいて確かに笑っていた。目からは、涙が溢れていた。
「できた……できたっ……!」
その声には、あの日の絶叫とは、まったく違う響きがあった。絶望の叫びではない。長く抑え込んできた希望が、ようやく形になった、そんな喜びの声だった。
「やりましたね、ナナホシ」
ルーデウスが、安堵したように笑った。ザノバも、興奮した様子で、両手を大きく叩いた。
「素晴らしい! これぞ、多層構造の勝利です!」
「……大袈裟だ」
クリフはそう言いながらも、その口元には隠しきれない満足げな笑みが浮かんでいた。
ナナホシはしばらく涙を拭いながら、それでも笑い続けていた。それから、俺たちの方を見た。
「……迷惑、かけた」
その一言は、いつものように短かった。だが、そこには、確かな感謝が込められているのが伝わってきた。
「ありがとう。……全員に」
その言葉に、俺たちはそれぞれ、小さく頷いた。誰か一人の力で成し遂げたことではない。ザノバの着想、クリフの理論、ナナホシの執念、ルーデウスの魔力、そして俺の結界術。すべてが噛み合って、ようやくここまで辿り着いた。
その夜、ナナホシのおごりでささやかな打ち上げが開かれた。
「今日は、飲んで食べて! 私の奢りだから、遠慮しないでいいわよ!」
ルーデウスの家の居間に集まったのは、ナナホシ、ルーデウス、シルフィ、ザノバ、クリフ、そしてクリフの婚約者エリナリーゼ、俺という顔ぶれだった。
「師匠、この機会に、余の新作人形もぜひご覧いただきたく――」
「ザノバ、今日はそういう空気じゃないだろ」
クリフの冷静な突っ込みに、ザノバはしゅんとしながらもそれでもどこか楽しそうだった。
「レオン君、乾杯しよう」
シルフィが、酒の入った杯を手渡してくれた。
「今日という日を作ってくれて、ありがとう」
「別に、俺一人の力じゃない。みんなでやったことだ」
その言葉に、周囲から小さな笑い声が上がった。
賑やかな席の隅で、ナナホシと目が合った。
彼女は、いつもの淡々とした表情に戻っていたが、その目には以前にはなかった穏やかさが宿っている気がした。
「……あんたの前世の話、まだ全然聞いてない」
ナナホシがそう言うと、俺は苦笑した。
「いずれな。今日は、それより、お前の成功を祝う日だろ」
「まあ、そうね」
ナナホシは、小さく肩をすくめた。それ以上、追及してくることはなかった。
この場にいる誰も、俺が転生者であることを知らない。シルフィも、ザノバも、クリフも、エリナリーゼも、俺たちの間にある秘密には気づいていなかった。それでいいと、俺は思っていた。今はまだ、この場の賑やかさを、ただ純粋に楽しみたかった。
俺はこの世界に来てから今日まで、自分が完全に一人だと思ったことはなかった。父と母がいて、村があって、剣の聖地があって、ルーデウスと出会って、ザノバやクリフと知り合って――少しずつ自分の居場所は広がってきた。
だが今日ナナホシが見せてくれたものは、それとはまた別の意味を持っていた。どれだけ絶望的な状況でも、周りの誰かが、放っておかない。そういう繋がりの中に、俺もまたいつの間にか組み込まれていたのだと、改めて実感した。
日本を知っているということは、俺とナナホシとルーデウスを結ぶ、確かな共通点だった。だが、この夜の温かさそのものはそれだけで作られたものではなかった。ザノバの発想。クリフの理論。シルフィの気遣い。エリナリーゼの陽気な笑い声。そのすべてが積み重なって、今日という日があった。
一人じゃない、という言葉の意味を俺はこの夜また一つ、深く知った気がした。