世界が切り替わる瞬間というものを、人はどのように認識するのだろうか。
例えば、擦り切れた日常の薄皮が一枚剥がれ落ちるように。
例えば、眼球の裏側で弾けた閃光が、網膜に焼き付いた過去の景色を焼き尽くすように。
「——あ?」
口から零れ落ちた声は、あまりにも間抜けで、滑稽だった。
瞬きをひとつ。ふたつ。
目の前に広がっていたはずの、蛍光灯の白々しい光と、コンビニ袋の中でカサりと音を立てていたスナック菓子の袋。深夜の小道を歩く自分の足音と、アスファルトを噛むスニーカーの感触。
それらの当たり前が一瞬にして掠れ、吹き飛び、次の瞬間には全く異なる空気を伴った大気が、胸腔を満たしていた。
石畳だ。
足元にあるのは、使い古されて角の取れた不揃いな石畳。
見上げる視線の先には、木造と石造りが雑多に混ざり合った、中世ヨーロッパの街並みを髣髴とさせる家々。そして何より——行き交う人々の群れ。
「う、わ……なんだこれ。マジか……?」
自身の頭髪を丸刈りにした巨漢。色とりどりの衣装を纏う人々。そして、その雑踏の中に何の違和感もなく溶け込んでいる、獣の耳や尾を生やした——亜人。
「本物の獣人……!? コスプレにしては出来が良すぎるだろ、おい!チャックとか縫い目とかどこにもねぇぞ! 」
黒髪の短髪に、グレーとオレンジの奇妙なジャージを羽織った少年——ナツキ・スバルは、己の手のひらを何度も開閉し、頭を抱えて叫んでいた。
「召喚……! これが噂に聞く、次元の壁を越えて選ばれし少年が世界を救うっていう、あの異世界召喚ってやつか!? マジかよ! 俺の無職生活がいきなりクライマックスを迎えるってわけか! ハイリスク・ハイリターンにも程があるだろ!」
一人で勝手にヒートアップし、右拳を天に突き上げて高らかに叫ぶスバル。周囲を通る人々が「なんだあいつは」と言いたげな視線を向けてくるが、当の本人には届いていない。
「……ふふ。凄まじい勢いですね。元気が良いのは何よりですが、少し落ち着いた方が良いかもしれませんよ?」
降ってきたのは、あまりにも場違いな、柔らかく澄んだ声だった。
「ひゃい!?」
変な声を上げてスバルが振り向く。
そこに立っていたのは、スバルの背丈よりもわずかに高い、一人の青年だった。
着慣れた風合いの、どこかオリエンタルな刺繍が施された上質な羽織。腰元には革製の小さなポーチが幾つか下げられ、優美なシルエットを描いている。何より目を引くのは、どこか浮世離れした温かな佇まいだった。
「な、なんだお前……! 誰だ!? 街のモブNPCか!? それとも俺より先に召喚されてた先達的なサムシングか!?」
「モブ、ですか? 面白い表現をしますね。僕はただの旅人……とでも名乗っておきましょうか。あるいは、君と同じ迷子です」
青年は困ったように頬を掻き、柔らかく微笑んだ。
「迷子ってことは、まさかお前も日本の!? ジャージじゃないけど、その黒髪といい黒目といい、明らかに同郷の匂いが……!」
「ニホン…ですか?いいえ、残念ながらそこではありません。僕の故郷は、クレアサラという国ですから。魔導王国、とでも言えば伝わるでしょうか」
「魔導? 異世界からさらに異世界!? なんてややこしい属性渋滞起きてんだよ!」
「僕自身も驚いているのですよ。自室で新しい術式の展開理論を検証していたはずなのですが。ふと気づけば、この見知らぬ王都の路地に立っていたのですから」
青年——自身を異世界からの転移者と語るその人物は、視線を周囲に巡らせながら思考を巡らせていた。
(大気を満たす『ナニカ』の密度。元いた世界でいう『精霊素』や『魔素』の類でしょうが、質が酷く偏っている。火、水、風、土……そして陰陽。なるほど、この世界の理は、六つの属性の循環によって成立しているようです)
青年が袖の中で静かに指先を滑らせる。
ほんの僅か、大気中のナニカを引き寄せ、体内の魔術回路を通さずに直接干渉を試みる。
感覚としては、水流の速い川に細い糸を垂らすようなものだ。馴染みはない。だが、不可能な領域ではない。元いた世界で彼が至っていた魔法の深淵——その技法を応用すれば、この世界の法則の上でも、己の『力』を行使することは十分に可能だった。
(僕の魔法は問題なく機能する。……ですが、あまり派手に振るうような真似は避けるべきですね。この世界の強者たちがどのような戦闘体系を持っているか、まだ見極められていませんから)
青年の内に秘められた戦闘能力——それは、この世界における頂点の一角、『最優の騎士』のような一騎当千の剣士と対峙したとしても、互角以上に渡り合い、死線を制することができるレベルに達している。
だが、青年の佇まいには一切の傲慢さも、凶暴さも漂っていなかった。ただ、春の陽気のような柔らかさだけがそこにある。
「おいおい、黙り込んでどうしたんだよお兄さん! 状況整理か!? 俺も混ぜてくれよ! 俺の名前は菜月昴! 無知蒙昧にして天下無双の無一文! 呼び方はスバルで構わんぜ!」
「スバル君、ですね。良いお名前です。僕は——」
青年が名乗ろうとした、まさにその時だった。
「へへっ。おいおい、そこの妙な身なりの二人組。止まりな」
路地の陰から影が滑り出してきた。
一人は、小柄ですばしっこそうな男。手に持ったナイフを器用に指先で弄んでいる。
一人は、丸太のような太い腕をした大柄な男。肩に凶悪な木製の棍棒を担いでいる。
そして中央に立つのは、顔に大きな傷を持つ、下品な薄笑いを浮かべた男だった。
「おやおや。これはなんとも典型的なチンピラですね」
青年は困ったように苦笑し、手袋をはめた右手を軽くあごに当てた。
「出たあああああ!! 定番! 定番中の定番! 異世界召喚直後のカツアゲイベントだ! だが待てよ!? 初期ステータスの俺にこの三人組はハードル高すぎねぇか!?」
スバルが露骨に動揺し、冷や汗をダラダラと流しながら身構える。
そんなスバルの前へ、まるで散歩でもするかのような足取りで、青年がそっと踏み出した。
「物騒なものを持ち歩くのは感心しませんね。僕たちは通りすがりの者です。争い事は好まないのですが……話し合いで解決することはできませんか?」
「ハッ! 何寝ぼけたこと抜かしてやがるんだ気取り屋が! 身ぐるみ剥ぎ取られたくねえなら、持ってる金品全部置いてきな! 抵抗するならその綺麗なツラ、切り刻んでやらぁ!」
ナイフを持った小柄な男が、鋭い踏み込みと共にナイフを突き出してくる。
「危険だ、引け——!」
スバルが叫ぶ。
だが、青年の表情には焦りすら浮かんでいなかった。
「大丈夫ですよ、スバル君。……少し、風が通るだけです」
青年が、静かに右手の指先を『パチン』と弾いた。
詠唱はない。
魔法陣の展開も、手印も、魔力の光すら見えない。
ただ——世界が一瞬、不自然に歪んだ。
直後。
——ズシン!!
大柄な男が肩に担いでいた厚さ数センチの凶悪な木製棍棒が、まるで豆腐でも刃物で切断されたかのように、滑らかな切断面を描いて真っ二つに崩れ落ちた。
それだけではない。ナイフを構えていた小柄な男の髪の毛が、数十本ほどハラハラと宙を舞った。男の目と鼻の先、僅か数ミリの空間を、目に見えない刃が走り抜けたのだ。
「…………え?」
小柄な男が、固まる。
大柄な男が、手に残った半分の棍棒を見つめたまま、顎をガクガクと震わせる。
「ヒッ……!? な、なんだ今のは?魔法か……!? 詠唱もなしに……!?」
「さて。次は、少し位置が下がるかもしれませんね。腕か、あるいは……首でしょうか」
青年は、相変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。
声のトーンも、先ほどと何一つ変わらない。暖かく、優しく、穏やかだ。
だが——その瞳の奥。
一切の揺らぎがない、絶対的な静謐。そして、青年の周囲に一瞬だけ凝縮された、圧倒的な密度の死。
それを肌で感じ取った男たちは、喉からひゅっと悲鳴を漏らした。
「ひ、ひぃぃぃぃ!! 化け物だ!! 逃げろ!!」
「覚えてろよテメエらー!!」
脱兎の如く逃げ出していく三人組。その背中があっという間に路地の闇へと消えていく。
「……す、すげえ……」
スバルが、目を丸くして口ぐちに呟いた。
「なんだよそれ……! 魔法!? 今の魔法かよ!? お兄さん、マジで超スゴイ魔法使いだったりするのか!?」
「ふふ、驚かせてしまいましたね。僕の世界の技術を、少しこちらの世界に応用してみただけですよ。怪我をさせずに済んで良かったです」
「怪我をさせずにって……相手の戦意を完全に折ってただろ! 無敵かよ! これなら異世界生活、楽勝モード確定じゃねえか!」
興奮冷めやらぬ様子で拳を握りしめるスバル。
しかし、青年はどこか遠くを見るような目で、静かに首を振った。
「そう上手くいくと良いのですが、慢心は命取りになります。ただでさえ何もかもがわからない場所なのです。もしかすると僕なんかじゃ足元にも及ばないような敵が現れるかもしれません」
「うぐっ……急にシリアスな顔で怖いこと言うなよ……」
「おっと、脅かすつもりはなかったのです。すみませんね。——あ」
青年が視線を向けた先。
路地の奥から、一条の白い光が駆け抜けていくのが見えた。
「待ちなさい! 返してもらうわよ、大切なものなんだから!」
銀髪をたなびかせ、必死の面持ちで走っていく一人の少女。
その先には、とんでもない速さで走る金髪の少女がいる。
「……銀髪の……美少女……?」
スバルの目が、釘付けになる。
まるで、運命の歯車が不可逆の音を立てて噛み合ったかのように。スバルの胸の中で、熱い衝動が突き上げていた。
「スバル君?」
「行くしかねえ……! 俺のヒロインが、困ってるんだからよぉ!」
スバルは青年に向かって一言叫ぶと、少女が走り去った方向へと猛ダッシュで飛び出していった。
「あ、待ちなさいスバル君! 迷子になりますよ!」
苦笑しながらも、青年はその背中を追って走り始める。
風に乗って運ばれてくる、微かな鉄の匂い。そして、路地裏の深淵から漂う濃密な『死』の予感。
自分を待ち受けているものなど露も知らず、青年は羽織の袖を優雅に翻し、陽光の届かない王都の影へと、静かに足を滑らせていった。
続きはすぐ出します