いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
スレイン法国の国境付近に広がる、深く静寂に包まれた森。
分厚い雲の切れ間から、冷たく青白い月明かりが差し込み、木々の歪な影を地面に不気味に落としていた。夜行性の獣すら息を潜めるほどの異様な殺気が、その森の一角から撒き散らされている。
「……あぁ、クソッ! クソ! クソがぁっ!!」
ドゴォッ、と鈍い破砕音が夜の静寂を切り裂いた。
漆黒の武装に身を包んだ小柄な影――スレイン法国が誇る最高戦力、暗部『漆黒聖典』の第九席次であるクレマンティーヌが、自らの足で巨木を蹴り飛ばしていた。
細身の足から放たれたとは思えない絶大な威力が、樹齢百年を超えようかという太い幹を大きく抉り、木っ端を吹き飛ばす。それでも彼女の苛立ちは全く収まる気配を見せなかった。
「なんで……なんで私ばっかり! なんであいつらばっかり!!」
ギリリ、と奥歯を噛み鳴らし、今度は近くにあった大岩に拳を叩きつける。
拳の皮が破れ、血が滲んでも、彼女は痛みなど感じていないようだった。彼女の心を支配しているのは、ただ果てしない劣等感と、塗り潰すような絶望、そして世界に対する激しい怒りだ。
何をやっても完璧にこなす、優秀すぎる兄の存在。
いくら自分が血を吐くような努力を重ね、誰よりも冷酷に任務をこなし、エリートとしての地位を確立しようとも、あの兄には決して届かない。周囲の目も、評価も、すべてが彼に向けられていく。
それに加えて、理不尽なまでに強大な力を持つ『番外席次』の存在。ハーフエルフという忌み子でありながら、生まれ持った絶対的な才能だけで頂点に君臨するあの化け物を見るたびに、クレマンティーヌの心は黒いヘドロのような嫉妬と劣等感で焼き尽くされそうになった。
「私だって……私だって、やれるのに……! 誰よりも強く、誰よりも優れているはずなのにっ……!」
荒い息を吐きながら、彼女の瞳にドロドロとした狂気が宿り始める。
国のために血の汚れ仕事を請け負い、心を殺してきた。だが、その対価がこれか。誰にも認められず、ただの駒としてすり潰されるだけの日々。
ならば、いっそ。
こんな国も、しがらみも、誇りも、全部捨ててしまおうか。この狂いそうな重圧から逃げ出して、あいつらをあざ笑ってやろうか――。
彼女がまさに、取り返しのつかない狂気の底へと足を踏み外そうとした、その瞬間だった。
――背後の死角から、いや、周囲の空間そのものから、一切の音、気配、風の揺らぎすらなく、『何か』が接近していた。
ユグドラシルにおける魔法の反応もない。武技の気配もない。ただ純粋な「忍の歩法」によって完全に存在を世界から消し去った男が、狂気に沈みかけていた彼女の背後から、一切の慈悲もなく間合いをゼロに詰めていた。
そして。
「――っ!?」
クレマンティーヌが背後の異変に気づいた時には、すでに世界が反転していた。
いや、反転させられていたのだ。
彼女の体は、背後からではなく、いつの間にか正面に回り込んでいた男によって、深く、そして逃げ場のないほど完璧に抱きすくめられていた。
正面からの完全なベアハッグ。
ただの抱擁ではない。彼女の細い腕は胴体ごと万力のような力で締め上げられ、さらには太ももまでもが男の屈強な足の間に完全にロックされている。
「きさま、何を!! 私を誰かわかってるのか!!」
咄嗟に殺気を爆発させ、漆黒聖典としての反射神経で暴れようとするクレマンティーヌ。しかし、無駄だった。
得意の蹴りも膝蹴りも、下半身を完全に固められているためピクリとも動かせない。ならばと腕を振りほどこうとするが、相手の腕はまるで神話の鋼でできているかのように、微動だにしない。
至近距離での頭突きを食らわせてやろうと顔を上げるが、それすらも封じられていた。
なぜなら、男の顔は、クレマンティーヌの豊かな胸の谷間に、見事なまでに深くうずまっていたからだ。
「むにゅっ……」
そんな、場違いにも程がある柔らかい感触と音が、彼女の胸元で微かに鳴った。
冷え切った森の空気の中、信じられないほどの密着度。男の鼻先が胸の谷間に深々と押し付けられ、息遣いすら肌に直接伝わってくるという、客観的に見て最低最悪の状況である。
「はなせ! はなせ!! ……はなしてよ……!」
怒り狂い、あらゆる武技を使おうとあがくクレマンティーヌ。だが、どれだけ暴れようが、どれだけ力を込めようが、男は呼吸一つ乱さない。
ただの人間ではない。圧倒的、かつ絶望的な力の差。
自分とは根本からいる次元が違う『何か』に捕食されたのだと、彼女のエリートとしての本能が警鐘を鳴らし、その声は徐々に悲痛な懇願へとトーンダウンしていく。
抵抗を諦めかけ、荒い息を吐きながら下を見下ろしたクレマンティーヌは、さらに信じられない光景を目にして思考が停止した。
雲が晴れ、冷たい月明かりが二人の姿を照らし出す。
自分を真正面から抱きすくめ、胸に顔を埋めている男は――赤い髪に、そして何より、彫刻のように鍛え抜かれた無駄のない筋肉を晒す『上半身裸』の姿だったのだ。
「こ、こいつ……完全な変態じゃないか!?」
暗部のエリートとしてのプライドも、狂気も、すべてがこの状況の前にかき消され、大パニックに陥る。
すると、胸に顔をうずめたままの男――マヤが、一切の悪びれる様子もなく、低く落ち着いた声で口を開いた。
「何をそんなにいらだってる? その、すまんな。こんな身なりなので、急に抱きついて。なんだか、悲しそうな感じに見えてな」
「俺は泣いてる女を放っておけないんだわ。お前の魂が悲鳴を上げてる。そして俺の魂も今悲しんでる。悲しい者同士、もう少しこのままでいような? 慰め合い、依存し合い、大いに結構。悲しい時は誰かにすがりたい」
顔を胸に埋めたまま、赤い瞳だけを見上げて飄々と語るその男の言葉に、クレマンティーヌの頭は沸騰した。
「自信過剰すぎだろ! そうだね。とか言うと思ったか! この変態が! 上半身裸で口説く阿呆がいるか!!」
顔を真っ赤にして、噛みつくように叫ぶ。だが、マヤはまるで応じることなく、むしろ少しだけ彼女の体温を確かめるように抱きしめる力を優しく緩めた。
「こりゃ一本取られた、仕方ないだろ? 気づいたら服がなかったんだよ。さっきまであったんだけどね、どこかで落としたのかもな?」
そのふざけた言い訳に、クレマンティーヌは完全に毒気を抜かれた。
「服を落とすバカはいないだろ。まーでも、森で上半身裸で身ぎれいな男ってのも変な話だな。しかし、なんでこんな体勢で話してんだよ!」
狂気と殺意に満ちていたはずの彼女の口調は、いつの間にかただの呆れ混じりのツッコミへと変わっていた。張り詰めていた糸が、この謎の男のペースに巻き込まれて完全に切れてしまったのだ。
静寂を取り戻した森の中、風が木々を揺らす音だけが響く。
マヤは、少し甘く、それでいてどこか本当に切ないトーンで囁いた。
「さっきも言ったろ? 人のぬくもりを今感じてしまってな。それを今、噛みしめているところ。許せ、悲しい事があったんだ。……すまんな」
その言葉には、一切の嘘がなかった。
遠い次元の彼方、決して手の届かない場所に置いてきた愛する者たちの面影。その本物の喪失感と哀愁が、男の体温を通して、クレマンティーヌの胸の奥にストンと落ちていく。彼女の抱えていた孤独の空洞に、その悲しみが不思議なほど優しく流れ込んできた。
少しの間、二人の間に沈黙が落ちる。
抵抗をやめ、ただその腕の中に収まるしかなかったクレマンティーヌに対し、マヤは顔を埋めたまま、ふと口を開いた。
「胸のあたりで、うーん、なかなか暖かいね。俺はマヤっていうんだ、名前教えてくれない?」
「どこの世界に胸の感触確かめつつ、口説いてる男に名前言うバカがいるんだよ! いい加減にしろ!」
再びカッとなって声を荒らげる彼女に、マヤは微かに笑い声を漏らす。
「名前を名乗ったら名乗る、基本だろ? そうしないと離すことできないよ。このまま、町のほうへいこうか? なんか森で暴れてる人がいましたっていう」
「どう見てもお前のほうが捕まるだろが! 私は、これでも漆黒聖典なんだぞ!」
威嚇するように所属を名乗るクレマンティーヌ。だが、マヤにはその世界を支配する組織の名前など、欠片ほども意味を持たなかった。
「なんだろそれ? 本か何かなのか? 俺はマヤだ、よろしくな、せいてんちゃん」
「あほなのか!? なんだ、せいてんちゃんって、違うわ! 名前は、クレマンティーヌだよ! あほなんだろ? おまえ」
完全に調子を狂わされ、思わず自分の本当の名前を口走ってしまう。
その瞬間、マヤはゆっくりと顔を上げ、赤い瞳で彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。その表情には、先ほどまでの飄々とした態度とは違う、真っ直ぐで不器用な優しさが浮かんでいた。
「ふふふ、ありがとう。いい笑顔になったぞ。名前教えてくれてありがとうな。クレマンティーヌ」
その言葉と、あまりにも屈託のない男の微笑みに、クレマンティーヌの顔がボンッと音を立てるように真っ赤に染まった。
狂気でも、劣等感でも、殺意でもない。ただ一人の少女として、完全にペースを握られ、見透かされ、そして受け入れられたことへの恥じらい。
「むー……。謀ったな!!」
逃げ場のない腕の中で、彼女はギリッと歯を食いしばる。
だが、その力強い拘束からは絶対に抜け出せないこと、そして何より、この圧倒的な理不尽さを持ちながらも自分を傷つけようとしないこの男の体温から、もはや自分が逃げ出したくなくなっていることに気づいてしまった。
「くそ! もう……抜けれない……。わかったよ。降参だ」
冷たい月明かりの下。
国を裏切り、狂気の底へ墜ちるはずだった少女の運命は、異次元からやってきた上半身裸の男の強引すぎる抱擁によって、あっけなく書き換えられたのだった。