いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
新しい直剣とナイフを手にしてから、季節がかわり。
アベリオン丘陵の境界線に沿って村々を渡り歩き、長城から漏れ出る亜人の群れを処理し続けること、数ヶ月。
最初はただの野営の邪魔者排除でしかなかったその戦いは、いつしか辺境の民の間で『赤いドレスの戦乙女と、黒衣の巨漢』という確固たる噂となって定着していた。
燃え盛る巨大な篝火が、夜の闇を真赤に染め上げている。
乾いた薪が爆ぜる甲高い音。脂の乗った獣肉が焼ける香ばしい匂い。
数時間前まで上位亜人の襲撃に怯え、死の影に覆われていた辺境の村は今、祝祭の熱気に包まれていた。
燃え盛る巨大な篝火が、夜の闇を真赤に染め上げている。
乾いた薪が爆ぜる甲高い音。脂の乗った獣肉が焼ける香ばしい匂い。そして、広場を埋め尽くすほどの村人たちの、弾けるような笑い声と歓声。
数時間前まで上位亜人の襲撃に怯え、死の影に覆われていた辺境の村は今、祝祭の熱気に包まれていた。
広場の中央には急ごしらえの長テーブルがいくつも並べられ、樽から直接注がれる安いエールと、山のように積まれた野鳥や猪の丸焼きが振る舞われている。村の若者が弾く拙いリュートの音色に合わせて、手拍子と足踏みが鳴り響いていた。
クレマンティーヌは、喧騒の中心から少しだけ離れた、広場の隅にある木箱の上に腰を下ろしていた。
真紅のチャイナドレスの裾から伸びる白い脚を組み、手には木彫りのジョッキを持っている。その中身にはほとんど口をつけていない。
「あの、本当に……本当にありがとうございました。あなた様がいなければ、我々は今頃……」
「我らが村の恩人だ。どうか、この酒を」
ひっきりなしに村人たちが彼女の元を訪れ、深く頭を下げては酒や食事を勧めてくる。
畏敬の念。純粋な感謝。そして、神聖なものを見るような眼差し。
暗部として数え切れないほどの命を奪い、死体の山の上に立ってきた彼女にとって、それは全く未知の熱量だった。向けられるのは殺意でも恐怖でもなく、ただの手放しの好意。
どう応えればいいのか分からない。
(……チッ、面倒だな)
いつもの癖で舌打ちが漏れそうになる。
立ち上がり、こんな騒がしい場所から離れてしまおうかと腰を浮かせかけた時だった。
「おおっ! その肉、すげぇ美味そうだな! こっちにも回してくれ!」
「ははは! 旦那もいい食いっぷりだ! ほれ、もっと飲め!」
篝火のすぐそば、一番騒がしいテーブルの中心で、大柄な男が豪快に笑っていた。
マヤだ。
彼は両手に骨付き肉を持ち、村の男たちと肩を組みながら、まるで何十年来の親友のように宴の輪に溶け込んでいる。
漆黒のレザーコートには埃や煤がついているが、彼はお構いなしにジョッキを煽り、村の女たちが注ぐ酒を上機嫌で飲み干していた。
飾り気のない、底抜けに明るい笑い声。
それを見ていると、クレマンティーヌの身体に入っていた強張りが、ふっと抜けていく。
浮かしかけた腰を再び木箱に下ろし、彼女は木製ジョッキの縁に唇を当てた。微かに酸味のあるエールが、喉の奥へと流れ込んでいく。
「あの……おねえちゃん」
不意に、膝の高さから小さな声がした。
視線を落とすと、村の少女が立っていた。年齢は六つか、七つくらいだろうか。粗末な麻の服を着たその小さな手には、白い野花を編んで作られた不格好な花冠が握られている。
少女はオドオドと視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように、その花冠をクレマンティーヌの膝の上にそっと置いた。
「おねえちゃん、村を助けてくれて、ありがとう。これ……あげる」
少女はそれだけ言うと、顔を真っ赤にして母親の元へと駆けていった。
クレマンティーヌは、膝の上に置かれた白い花冠を見下ろした。
無骨な直剣とナイフを下げる自分の腰回りには、酷く不釣り合いな代物だ。
彼女はジョッキを横の樽に置き、ゆっくりと手を伸ばしてその花冠を拾い上げた。
花びらの柔らかい感触。青臭い草の匂い。
彼女は数秒間それを見つめた後、ふいと顔を逸らし、花冠を自分の金糸の髪の上にちょこんと乗せた。
「……まあ、悪くないか」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
ふと視線を上げると、篝火の向こう側で肉を頬張っていたマヤと目が合った。
彼はクレマンティーヌの頭に乗った花冠を見ると、ニカッと歯を見せて笑い、無言でジョッキを高く掲げた。
クレマンティーヌもまた、自分のジョッキを手に取り、ほんの僅かだけ持ち上げて応えた。
彼女の口元には、かつての冷酷な暗殺者からは想像もつかない、ひどく穏やかな曲線が描かれていた。
夜が更けていく。
高く舞い上がっていた火の粉も落ち着き、篝火は静かに赤く燃える熾火へと変わっていた。
リュートの音色も止み、広場には微睡む村人たちの静かな寝息と、薪が崩れる微かな音だけが響いている。
夜風が、冷たさを帯びて頬を撫でた。
クレマンティーヌが頭の花冠を外し、手の中で弄んでいると、隣で木箱が僅かに軋む音がした。
「よく食った。ここ数日で一番いい夜だな」
マヤが、彼女のすぐ隣に腰を下ろしていた。
男の分厚い身体から、焚き火の煙と、微かな酒の匂い、そして確かな熱が伝わってくる。
二人は言葉を交わすことなく、ただ静かに、熾火の周りで寄り添って眠る村人たちを眺めていた。
誰もが安心しきった、無防備な寝顔をしている。
明日への恐怖がない、穏やかな夜。
「……なぁ、クレマンティーヌ」
静寂の中、マヤの低く落ち着いた声が落ちた。
「お前が救った笑顔だ」
マヤの視線は、クレマンティーヌではなく、広場で眠る村人たちの方を向いていた。
「そして、今、最高にいい笑顔出てるよ。クレマンティーヌもな。俺が大好きな笑顔だ」
彼はゆっくりと顔を向け、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
深紅の瞳の奥にある、一切の打算も嘘もない、あまりにも透き通った熱。
「それをみせてくれて、ありがとう。お前と一緒にいて、嬉しいよ」
クレマンティーヌの呼吸が、微かに止まった。
頭の奥で、彼の言葉がゆっくりと反響する。
血に塗れた過去も、暗殺者としての罪も、何もかもを飛び越えて、ただ今の彼女の存在そのものを丸ごと肯定する言葉。
「何、言ってんだよ……」
クレマンティーヌは視線を逸らし、膝の上の花冠を強く握りしめた。
喉の奥が熱くなり、声が微かに震える。
「ばか。いつもと同じだろ……? はぁ〜、だからお前は……」
照れ隠しの悪態をつこうとした彼女の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
「クレマンティーヌ、愛してる。ずっと一緒に居てほしい」
マヤの大きな手が、彼女の細い肩を引き寄せた。
抵抗する間もなく、彼の顔が近づく。
唇に、熱く柔らかい感触が触れた。
息を呑むような、軽い、確かめるだけの口付け。
触れ合ったのはほんの一瞬。
だが、その一瞬の間に、マヤの体温と存在のすべてが、彼女の輪郭を完全に包み込んでいた。
唇が離れる。
クレマンティーヌが目を見開いたまま固まっていると、マヤは至近距離で彼女を見つめ返した。
その顔を見て、クレマンティーヌは息を呑んだ。
マヤが、笑っていた。
見たこともない笑顔だった。
至近距離で交わる視線。卓越した視力と洞察力が、彼の深紅の瞳に一切の嘘がないことを捉える。
だが、真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳の奥に、あるものがはっきりと写り込んでいた。
その瞳には、幾千もの夜を越え、数え切れないほどの血と涙を拭い続け、安らぎを見つけた、この世のすべての重圧から解放されたような笑顔が写っていた。
それは、彼女が今まで生きてきた中で見た、どんな宝物よりも、どんな魔法よりも穏やかな笑顔だった。
(あぁ……)
胸の奥で、硬く結ばれていた何かが、音を立てて解けていく。
自分の過去への恐怖も、いつかこの時間が終わってしまうかもしれないという焦燥も、この男の笑顔の前では何の意味も持たなかった。
「……ばか」
クレマンティーヌの目から、ツゥーっと、透明な雫がこぼれ落ちた。
頬を伝うその温かさに構うことなく、彼女は自ら身を乗り出した。
手から花冠が落ちる。
彼女は両手でマヤの漆黒のコートを力強く掴み、その首元に腕を回して、自ら熱いキスを落とした。
今度は軽いものではなかった。
互いの体温を貪るような、深く、情熱的な口付け。
彼女の舌がマヤの唇を割り、その熱を奥底まで味わう。マヤの太い腕が彼女の腰を抱き寄せ、その細い身体を自身の胸に強く押し付けた。
薪が爆ぜる音が、遠くで響く。
長い、息の詰まるような時間の後。
二人の唇が、名残惜しそうに離れる。
月明かりの下、離れた唇の間に、銀色の絹糸のような橋が架かり、そして切れた。
クレマンティーヌはそのまま、マヤの分厚い胸の中に顔を埋めた。
彼の力強い心音と、包み込まれるような温もりが、彼女の耳と肌に直接伝わってくる。
「……っ、……ぅ……っ」
顔を押し付けたまま、彼女の細い肩が小さく震えていた。
言葉にはならない。言葉にする必要などなかった。
ただ、漆黒のレザーコートを握りしめる指先にすべての感情を込めながら、彼女はマヤの胸の中で、止めどなく溢れる歓喜の雫を流し続けていた。
夜風が、二人の足元に落ちた白い花冠を揺らす。
戦乙女の宴の夜。彼女はついに、世界で最も確かで、最も温かい居場所を手に入れたのだった。