いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
ローブル聖王国の王都、ホバンス。
白亜の石造りで築かれた壮麗な王城の奥深く、聖王女の執務室には、心地よい秋の陽光が差し込んでいた。
部屋の中央に置かれた重厚な黒檀の執務机。その奥に座る聖王女カルカ・ベサーレスは、手元の羊皮紙に落としていた視線を上げ、ふぅと短く息を吐いた。
彼女の顔には、国を背負う為政者としての疲労と、それ以上の深い安堵が入り混じっている。
「……長城のほころびを、彼らが点々と移動しながら無償で埋めてくれているのですね」
「ええ、そのようですわ。カルカ様」
カルカの言葉に、執務机の傍らに控えていた神官長、ケラルト・カストディオが優雅に微笑んで頷いた。
美しい金髪をまとめ上げた彼女は、極めて洗練された所作で新たな報告書の束を机に置く。その顔に浮かぶ慈愛に満ちた笑みは『菩薩』と称されるに相応しいものだったが、言葉の端々には、冷徹な知略家としての氷のような理知が潜んでいた。
「ここ数ヶ月の間に、アベリオン丘陵の境界沿い――長城周辺の村々から上がってきた報告は、どれも奇妙なほど一致しておりますわ」
ケラルトは、白魚のような指で羊皮紙の記述をなぞる。
「東の開拓村を襲ったバフォルクの小隊が、到着前に壊滅。南の宿場町に迫っていたオーガとトロールの混成群れも、誰の手も借りずに全滅。……その他にも、報告が上がっていないだけで、相当数の小規模な襲撃が未然に防がれている形跡がありますわね」
「聖騎士団の手が回らない辺境の民にとって、まさに救いの手です。……して、その恩人たちの素性は分かっているのですか?」
「目撃証言によれば、二人組とのことです。一人は、真紅の異国風の服を着た、二刀流の女戦士。もう一人は、漆黒のコートを着た大柄な男。特筆すべきは、その女戦士の異常なまでの戦闘能力ですわ」
ケラルトの目が、僅かに細められる。
「オーガの群れを単騎で、しかも無傷で処理したとなれば、それは既に英雄領域の力。我が国の聖騎士の精鋭であっても、おいそれと真似できる芸当ではありませんわね。……ただ、少し出来すぎているとも思いませんこと?」
「出来すぎている?」
「はい。見返りも求めず、辺境の村々をただ善意だけで救って回るなど。スレイン法国の隠密部隊か、あるいは我が国に恩を売り、後から莫大な対価を要求してくる傭兵の類かもしれません。……カルカ様の治世の不利益になるような輩であれば、早めに『対処』しておく必要がありますわ」
表向きの柔らかな声音とは裏腹に、その言葉には明らかな冷酷さが滲んでいた。
だが、その彼女の思惑を、扉を蹴り開けるような乱暴な足音が打ち砕く。
「ケラルト! お前はいつもそうやって、物事を裏からばかり見ようとする!」
執務室に勢いよく踏み込んできたのは、純白の全身鎧を纏った女騎士。
聖騎士団長であり、ケラルトの実の姉でもあるレメディオス・カストディオだった。
「見返りも求めず、弱き民のために亜人を狩り続けてくれているのだぞ! 間違いありません、カルカ様! 彼らは素晴らしい『善人』です!」
姉の猪突猛進な物言いに、ケラルトが微かに眉をひそめる。
「お姉様、声が大きいですわ。……それに、善人かどうかなんて、まだ」
「いいや、善人に決まっている! 弱きを助け、悪しき亜人を討つ。これこそが正義の体現! 聖騎士団の手が回らない場所で民を救ってくれている彼らを疑うなど、正義に反する行いだ!」
己の信じる正義に微塵の疑いも持たない、真っ直ぐすぎる眼差し。
理屈や駆け引きを一切すっ飛ばし、直感と感情だけで世界を白黒に分ける姉の性格に、ケラルトは密かにため息をついた。
だが、二人のやり取りを見ていたカルカは、ふふっと柔らかく吹き出した。
「カルカ様?」
「いえ……本当に、あなたたち二人がいてくれるから、私はこうして玉座に座っていられるのだなと、改めて思ったのですよ。ケラルトの慎重さも、レメディオスの真っ直ぐな正義感も、どちらもこの国には必要なものです」
カルカは立ち上がり、窓の外――はるか南の辺境の空へと視線を向けた。
「正体はともかく、彼らが我が国の民を救ってくれているのは事実。ならば、国として報いるのが聖王女たる私の務めです。……レメディオス。彼らを迎えに行くことを許可します」
「はっ! このレメディオス・カストディオ、直ちに辺境へ赴き、彼らを我が聖騎士団へと迎え入れてみせます!」
意気揚々と胸を叩くレメディオスに、カルカは苦笑しながら付け加えた。
「乱暴なことはしないでくださいね? あくまで丁重に。無理に連れてくるようなことは許しませんよ」
「分かっております! 正義の志を持つ者同士、必ずや分かり合えるはずです!」
一切の迷いなく背を向け、執務室を出ていく姉の背中を見送りながら、ケラルトは静かに肩をすくめた。
「……仕方ありませんわね。お姉様が粗相をしないよう、裏で手を回しておきましょう」
◇ ◇ ◇
同刻、王城の中庭。
石畳の広場には、遠征用の物資を積んだ数頭の馬が繋がれ、出立の準備が進められていた。
「よいしょ……っ、と」
その馬の横で、自身の背丈ほどもある大きな麻袋を荷台に押し上げている少女がいた。
従者見習いのネイア・バラハである。
王国の九色と称された高名な弓兵を父に持ちながら、彼女には剣の才能が全くなかった。その上、彼女を最も苦しめているのは、父親から受け継いでしまったその特徴的な『目つき』だった。
荷造りを終え、額の汗を拭った彼女の背中に、鋭い声が飛ぶ。
「ネイア・バラハ! 動きが遅いぞ!」
ビクッと肩を震わせ、ネイアが振り返ると、そこには出立の準備を整えたレメディオスが立っていた。純白の鎧を纏った彼女は、ネイアの顔を見るなり、露骨に不快そうな表情を浮かべる。
「……そして、その目つきはどうにかならないのか。偉大なるカルカ様の恩寵を受ける我ら聖騎士団の従者として、そのような犯罪者のような目は相応しくない!」
「も、申し訳ありません、団長……っ」
ネイアは深く頭を下げた。
どれほど真面目に働いても、常に睨みつけているように見えてしまう三白眼のせいで、彼女は常にいわれのない叱責を受けてきた。
悔しさに唇を噛み締めながらも、彼女は決して口答えをしない。聖騎士たちを尊敬し、いつか自分も正義のために戦いたいという純粋な憧れを抱き続けているからだ。
(赤いドレスの戦乙女……辺境の民を救って回っている、名もなき英雄……)
ネイアは、馬の轡を引きながら心の中で反芻した。
王都の騎士たちすら及ばないほどの力で、見返りも求めずに弱者を救う正義の味方。
それは、今のネイアにとって、一条の光のように眩しい存在に思えた。
(どんな素晴らしい正義の騎士様なんだろう。……どうか、団長のお気に召すような、立派な方であってほしい)
「全機、出立!」
レメディオスの号令が、王城の空に響き渡る。
白銀の鎧を纏った聖騎士の小隊が、はるか辺境の地を目指して、蹄の音を高く鳴らしながらホバンスの正門を抜けていった。
◇ ◇ ◇
聖王都から遠く離れた、辺境の村。
古びた宿屋の一室には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
小さな木製の丸テーブルの上には、村の娘が差し入れてくれた焼きたての黒パンと、湯気を立てる野菜のスープが並べられている。
「ん……美味しい」
木のスプーンでスープを一口飲んだクレマンティーヌは、ふうっと小さく息をつき、静かに微笑んだ。
昨夜の情熱的な夜を経て、彼女の顔つきからはかつての猛禽類のような鋭さは微塵も感じられない。化粧気のない素顔のまま、真紅のチャイナドレスの胸元を少しだけはだけさせたその姿は、ただ愛する男の前で完全に心を許し切った、一人のしなやかな女性のそれだった。
彼女は、向かいの席で大あくびをしている大柄な男を見た。
「……やっぱ、朝は肉が食いてぇな」
マヤは、野菜しか入っていないスープの器を不満そうにフォークで突いている。
彫刻のような完璧な肉体の上に、黒いシャツを適当に羽織っただけの無防備な姿。世界を揺るがすほどの規格外の力を持つ男が、朝飯のメニューで子供のように唇を尖らせていた。
「贅沢を言うな。辺境の村で、温かいスープが飲めるだけでもありがたいと思え」
「えー、でもよぉ。昨日の夜、あれだけ運動したんだぜ? 俺の体、絶対肉を求めてるって」
悪びれもなく昨夜の情事を持ち出すマヤに、クレマンティーヌの頬がカッと朱に染まる。
「ば……っ、お前は本当にデリカシーというものがないのか! ご飯を食べている時に言うことじゃないだろ!」
「事実だろ? なぁ、昼は絶対肉な。でかい猪とか狩りに行こうぜ」
からかうように笑うマヤを睨みつけながらも、クレマンティーヌの口元はどうしても緩んでしまう。
呆れたようにため息をつきながら、彼女は自分の器に入っていた野菜を一つ、マヤの器へと移した。
「……文句を言わずに食え。昼は付き合ってやるから」
「お、マジ? やっぱティーヌは優しいな!」
太陽のように屈託なく笑う男の顔を見つめながら、彼女はゆっくりと黒パンを口に運んだ。
窓の外からは、村人たちが畑仕事へと向かう長閑な声が聞こえてくる。
血の匂いも、暗殺者の影もない。ただ、愛する男と他愛のない会話を交わしながら朝食をとる、温かくて静かな時間。
王都から『面倒な正義の塊』が一直線にこちらへ向かってきていることなど、知る由もない。
二人の周囲にだけは、世界の争いから完全に切り離された、甘く穏やかな時間がゆったりと流れていた。